いま、ウクライナの国家指導部は、作曲家のチャイコフスキーをどう扱うべきかで、悩んでいる。
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『Rostyslav Khotin 記者による2023-3-4記事「The Rumble Over Russian Composer Tchaikovsky At An Elite Ukrainian Conservatory」。
いま、ウクライナの国家指導部は、作曲家のチャイコフスキーをどう扱うべきかで、悩んでいる。
じつはチャイコフスキーは、ひいじいさんがウクライナのクレメンチュク出身。もちろんロシアの作曲家だと世界的にも認定されている。ならば「チャイコフスキー国立音楽大学」は「キーウ音楽大学」に改称するべきなのか?
「非ロシア化」は開戦後に各都市で実行されている。たとえばプーシキンの銅像は複数が撤去されている。
もともと音大の創設時には「キエフ音大」だったのである。それは1863年だった。
それが1940年に、「チャイコフスキー国立音楽大学校」と改名された。チャイコフスキーの生誕百周年だった。
今回の改名問題は、中国と関係がある。じつは中国には、「チャイコフスキー国立音楽院」の海外キャンパスがあるのだ。
そして中国人の音大学生たちの間では、「チャイコフスキー音楽院」の名前に、「モスクワ音楽院」と並ぶステイタスがあった。
その名前が「キーウ音大」に変われば、中国人学生から見たときの、学校の価値が下がってしまう。
中国人の学生があつまらなくなれば、本校の収益とステイタスに悪影響があるだろう。さりとて、露軍を後援している中国人にそんな気兼ねをしている場合かという非難もあるだろう。というわけで、ウクライナの文化大臣は、悩みちゅう。
チャイコフスキーは、生涯に二度だけ、キエフにやってきたことがある。1890と1891だ。そこで地元の作曲家のミコラ・リセンコに会い、サンクトペテルスブルグの劇場でリセンコ作のオペラ「タラス・ブーリバ」を上演しないかと働きかけた。だがリセンコが、歌詞と台詞をロシア語に直すことを拒否したために、この企画は実現しなかった。
チャイコフスキーの第二交響曲は、別名「ウクライナ交響曲」という。ウクライナ民謡のモチーフが使われているので。当時のロシア人は、ウクライナのことを「小ロシア」と呼び、この第二交響曲も、そのように呼ばれていた。
チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は、プーシキンのロシア帝国主義むきだしの詩作「ポルタワ」に基づいている。ウクライナのコサックにイワン・マゼッパという親分がいたのは史実である。
しかしチャイコフスキーがパトロンのフォン・メックに宛てた1878の書簡では、じぶんは全きロシア人だと強調している。1891の知人宛ての手紙でも、同様に。
なお、日本の複数のプロ交響楽団は、チャイコフスキーの『1812序曲』の演奏を、今次開戦以降は、拒否し続けている。』