〔パスタ作りで、トラブった…。〕

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ 朝飯は、大抵、冷凍めん類を、解凍して食することにしている…。

 ※ しかし、最近、「パスタソース」を、3種類買った…。

 ※ ミートソース(缶入り)、ポロネーズ・ソース(レトルト)、ペペロンチーノ・ソース(パック入り。ぎゅっと押しつぶして、垂らすやつ)だ…。

 ※ それで、自分で「パスタ茹でて」、野菜なんかを炒めたものと混ぜて、食そうと考えた…。

 ※ パスタも、袋入りのものを買った…。

 ※ 1㎏入り、ゆで時間8分とか言うものだ…。

 ※ ホーローの大鍋持ち出して、まず、どのくらいの容量かを計量した…。

 ※ カップで水入れて、量ると、3リットルは大丈夫そうだった…。

 ※ パスタの袋の説明書きを見ると、「100gにつき、お湯1リットル」とか書いてある…。

 ※ 「3リットルだと、300グラムか…。4分の1より、ちょっと多い感じだな…。」と把握した…。

 ※ それで、お湯を沸騰させ、塩も大体指示通りいれて、パスタを投入した…。

 ※ 茹で時間8分なんだが、まず、ここで「失敗1号」…。

 ※ フタしてたら、盛大に「吹きこぼれた」…。

 ※ ガスレンジが、お湯びたしになった…。

 ※ その間に、ほうれん草を、油で炒めた…。

 ※ 8分経ったんで、ザルにあけて、お湯切りした…。

 ※ そして、いよいよ、フライパンに投入…。

 ※ しかーしだ、ここでハタと気づいた…。

 ※ 「量が、多いよ…。」

 ※ フライパンの水平面を超えて、「大山盛り」になっている…。

 ※ これじゃ、とても、具材と混ぜられない…。

 ※ しかし、今さら「修正」できない…。このまま、行こうと決断する…。

 ※ (今、考えれば、少し取り分けておく…、という手は、あったな)

 ※ し方が無いので、ミートソースをレンジで加熱して、大山盛りパスタの上からかけた…。

 ※ 案の定、上部の3分の1くらいにしか、かからない(カキ氷シロップ状態…)…。

 ※ それでも、必死で木べらなんかで、混ぜて、行き渡らせようとしたが、ダメだった…。

 ※ し方が無いので、ミートソースがかかっている部分だけ食した…。

 ※ 味的には、そんなに悪くは無かった…。

 ※ しかし、いかんせん、パスタの量とソースの配分が悪いので、残念な感じだった…。

 ※ 上の部分を食したので、大分、量は減っている…。

 ※ そこに、ポロネーズ・ソースを投入した…。

 ※ こんどは、ほうれん草と混ぜることができた…。

 ※ 晩飯には、これを食そう…。

 ※ 夏場と違って、フライパンに入れたままでも、大丈夫だろう…。

【ウクライナ侵攻から1年】田中は世界が一変した瞬間に立ち会った

田中龍作ジャーナル | 【ウクライナ侵攻から1年】田中は世界が一変した瞬間に立ち会った
https://tanakaryusaku.jp/2023/02/00028408

『2022年2月24日未明、キーウ市内に雷が落ちたような爆発音が轟いた。ロシアのミサイルが着弾したのか。ウクライナ軍が迎撃したのか。

 田中はタクシーを呼び爆発音の方向に走った。 キーウ空港だった。空港はすでに閉鎖され治安部隊と警察が固めていた。私服刑事は「ルシア(が来た)」とつぶやいた。

 キーウ空港は首都の民間空港である。日本でいえば羽田だ。軍事空港(基地)ではなくても攻撃されるのである。

 道路という道路は西に脱出する人々の車で一杯だった。まさに数珠つなぎである。

 ATMにも長蛇の列ができていた。街のどのATMを見ても、現金を引き出そうとする人々が殺到していた。逃げ遅れることは確かだ。

 「ロシアはウクライナに侵攻する」。米国のバイデン大統領らがしきりと警告していた。にもかかわらず現金を引き出していなかった人々が相当数いたということである。

 ATMの札束は枚数に限度がある。何時間も並んで待ったのにもかかわらず現金を手にすることができなかった人もまた相当数いるはずだ。地獄の沙汰もカネしだい、というではないか。

 ガソリンスタンド(GS)も長蛇の列だった。GSのガソリンにも限りがある。補給できなかったら、途中でガス欠である。路上で立ち往生すればロシア軍の戦車に踏み潰されるのがオチだ。

 「■国も●国も攻めてきたりはしない」…巷にあふれる楽観論は死を招く。

ATMはどこに行っても長蛇の列だった。札が尽きて引き出せなかった人も。=2022年2月24日朝、キーウ市内 撮影:田中龍作=

    《独裁政権は経済がどうなろうと侵攻する》

 香港返還(1997年)前、中国軍事研究の専門家にインタビューしたことがある。

 「自由都市香港は金を生むアヒルだ。経済優先の中国が香港の自由を奪ったりしない」。その専門家はしたり顔で言った。

 香港がどうなったか。2019~2020年に吹き荒れた大規模弾圧を見れば言うまでもない。
 「中国と台湾は経済で依存し合っているから侵攻はない」。インテリがよく口にする。これぞお花畑である。

 「ウクライナに侵攻すればロシアに経済制裁を課す」。バイデン大統領が繰り返し警告していたが、プーチン大統領はウクライナに攻め込んだ。経済制裁に苦しみながらも懲りることなく戦争を続ける。

 田中は30年以上、紛争地域を歩いてきた。戦争は不寛容に源を発する。寛容であれば、宗教が違おうが、体制が違おうが、民族が違おうが、武力侵攻したりしない。まして虐殺などありえない。

 プーチン大統領が寛容か。明らかに否である。一年前に答えが出た。

 習近平政権はどうだろう。「新彊ウイグル」「チベット」「香港」への政策が寛容といえるだろうか。

 独裁政権に外交は通用しない。歴史を紐解けば明らかである。

 最悪の事態となっても被害を最小限度に抑えられるよう、日本国民は陰謀論とお花畑から卒業すべきではないだろうか。

 島国日本はウクライナと違って逃げ場所がない。食料も自給できないのだから。

有事の際シェルターとなる地下鉄駅構内は避難者で溢れ返っていた。=2022年2月25日、キーウ市内 撮影:田中龍作=

  ~終わり~

  ◇
読者の皆様。

田中龍作が紛争地で直接見たこと聞いたことを記事にしています。世界でたった ひとつ しかない情報です。

紛争地取材は通訳やドライバーへの危険手当などで費用がかさみます。

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  ↓』

ダグラス・グラマン事件

ダグラス・グラマン事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『ダグラス・グラマン事件(ダグラス・グラマンじけん)とは、1970年代末に発覚した日本とアメリカ合衆国の軍用機売買に関する汚職事件。

概要

1979年1月4日、アメリカ合衆国の証券取引委員会(SEC)は、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、代理店の日商岩井(現・双日)を経由して、日本の政府高官らに不正資金を渡していたことを告発した[1]。

これを受けて東京地方検察庁の特別捜査部も捜査を開始、先行するロッキード事件で捜査を指揮した吉永祐介が特捜部長、同事件で重要な証言を得た村田恒が主任検事として捜査に臨んだ[2]。

特捜部においては、ロッキード事件の際に軍用機であるP-3Cの疑惑追及を断念し、民間機であるトライスターへの追及に絞ることで田中元首相の検挙という成果を挙げた一方、軍用機を巡る疑惑を棚上げする形になったことが反省されており、村田恒は、今回は軍用機のみを追及できるということで捜査陣の士気は高かった、と回顧している[2]。

当時、日商岩井の海部八郎副社長が率いる航空部は、航空業界でも「海部軍団」としてその名を轟かせるほどのやり手として知られており、金に糸目をつけない手法で売り込みを成功させているとも噂されていた[2]。

村田主任検事は自ら海部副社長の取り調べにあたっていたが[2]、調書の大部分は、E-2C早期警戒機よりむしろF-4E戦闘機に割かれており、その売り込みの一環として1965年頃に松野頼三 前防衛庁長官に5億円を支払っていたことが判明した[3]。

また1965年7月24日に海部副社長が川崎重工業の社長に宛てて記したメモでは、その前日にサンフランシスコを訪れていた岸信介元総理と懇談し、マクダネル社の社長を引き合わせるとともに、2万ドルを渡したことが記されており、これは「海部メモ」として国会で問題になった[3][注 1]。

ただし村田主任検事の取り調べに対して、海部副社長は、岸元総理とマクダネル社社長を引き合わせたのは事実だが[注 2]、実際には現金の授受はなく、川崎重工業坂出工場の建設を巡る商談のためのハッタリとして、川崎重工業の社長に嘘の手紙を書いたと述べていた[3]。

海部副社長は、このメモについての国会での証人喚問において偽証をしたとして、議院証言法違反で有罪となった[3]。

一方、海部副社長の直属の部下として軍用機ビジネスに携わってきた島田三敬常務取締役の取り調べを行ったのが、宗像紀夫検事であった[6]。

島田常務への取り調べは全部で6回行われており、6回目となる1979年1月31日の取り調べでは、田中角栄を含む6人の政治家に対して領収書を取らない裏の献金を提供したことを明かしていた[6]。

島田常務は「明日、更に詳細を話す」と述べてその日の取り調べを終えたが、同日深夜に赤坂のビルの7階から飛び降り、翌朝死亡した状態で発見された[6]。

島田常務は飛び降りる前に受傷しており、また部屋が荒らされていたなど異常な状況であったことから謀殺の疑いも持たれ、最終的には自殺と断定されたものの[6]、その後も他殺説の主張は残っている[7]。

島田常務の死によって核心部分は解明されず、政治家への追及は時効で断念され、裏金の一部を日商岩井の幹部らが私的に横領したことが事件化されたのみとなった[6]。

松野前防衛庁長官は国会の証人喚問を受けて、5億円の受け取りを認めたものの、これも時効を過ぎていたほか、合法的な政治献金として認識していたとの主張もあって、訴追の対象にはならなかった[3][8]。

疑惑の対象となった各機種のうち、E-2C早期警戒機は昭和54年度での導入が決定された[9][注 3]。本事件を受けて関連予算の執行は保留されていたが、1979年7月12日、「執行保留を解除することが妥当」との両院議長の判断がくだされて、事業が本格的に開始されることになった[9]。

9月4日には第1次契約分4機のFMS調達が成立、アメリカでの技術審査を経て、1983年1月27日には航空実験団が1・2号機を受領した[9]。

一方、F-4Eについては、第3次防衛力整備計画に基づく次期主力戦闘機(第2次F-X)の候補機種となっており、1968年11月1日に首相の了承を受けて採用されていた[12][注 4]。

なおこの前に、第1次防衛力整備計画に基づく次期主力戦闘機(第1次F-X: F-86後継機)計画の際にも、1958年4月14日に一度はグラマン社のF11Fの採用が内定したにも関わらず、8月22日の衆議院決算委員会において不正疑惑が提起されて選定が先延ばしされ、疑惑は立証されなかったものの、結局はロッキード社のF-104に変更されたという経緯があった[12]。

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ 岸元首相への事情聴取は実現しなかったが、その舞台裏について、朝日新聞は「岸氏の喚問に応じることは、ロッキード事件で逮捕された田中元首相に続いて二人目の元首相を“きず物”にすることになるからだ。それは、自民党全体のイメージダウンにもつながる」と解説をした。

また、当時、朝日新聞の首相官邸記者クラブ担当だった国正武重は、後に、評論家・立花隆との対談で「大平首相サイドからは、ロッキード事件に続いてダグラス・グラマン事件で政権の中枢が揺らぐようなことになれば、保守政権にとっての危機だ、それだけは勘弁してくれという趣旨の動きが、検察の最高首脳や法務省サイドに対してあったと思う。

このことについては、大平さんも、当時、それに近い胸のうちを吐露したことがある」と語っている[4]。

さらに、事件当時の法相・古井喜実は1983年2月のインタビューで、『事件のカタを早急につける必要があったからね。ただ、ロッキード事件のような大物(田中元首相)が、この事件にもかかわっているのかどうか、問題になった。もし『超大物』がかかわっている兆候があれば徹底的にやって、何としてでもやっつけなければ、ということになった(中略)。ニオイはした。事件にもなりそうだった。しかし『超大物』を事件の枠内にはめこむことはできなかった。結局『超大物』は捨ててしまい、松野頼三君でとめた』と語っている[5]。

^ 当時、三井物産がマクダネル社の日本での代理店となっていたが、海部副社長は、F-4Eの売り込みについては日商で代理店契約を獲得することを狙っており、そのためにマクダネル社に対して政治的コネクションを誇示する狙いがあった、と述べていた[3]。

^ 航空自衛隊の早期警戒機としては、従来は国産のC-1輸送機にフェーズドアレイレーダーを搭載する案などが検討されていたが[10]、1972年夏のニクソン大統領と田中首相との首脳会談において、P-3C哨戒機とともにE-2Cの売り込みが図られたことで、アメリカ機の導入に転換したと言われている[11]。

^ 日本の使用目的に応じて核管制装置や爆撃計算装置の撤去などの改修が行われることになり、この改修を行ったF-4EをF-4EJと呼称することになった[12]。

出典

^ 牧太郎「中曽根時代を思い出させる「文春砲」政局?」『毎日新聞』2020年2月10日。2021年10月7日閲覧。
^ a b c d NHKスペシャル取材班 2018, pp. 190–193.
^ a b c d e f NHKスペシャル取材班 2018, pp. 193–201.
^ 国正 & 立花 1988.
^ 1995年6月3日朝日新聞
^ a b c d e NHKスペシャル取材班 2018, pp. 201–214.
^ 吉原 1983.
^ 松野 & 伊藤 2003, pp. 49–54.
^ a b c 航空幕僚監部 2006, pp. 435–438.
^ 航空幕僚監部 2006, pp. 346–348.
^ NHKスペシャル取材班 2018, pp. 153–160.
^ a b c 航空幕僚監部 2006, pp. 266–269.

参考文献

今村雄二郎「グラマン・ダグラス事件」 『私の風土記』株式会社アイヴィス。
NHKスペシャル取材班 『消えた21億円を追え ロッキード事件 40年目のスクープ』朝日新聞出版、2018年。ISBN 978-4022515322。
国正武重; 立花隆「巨悪は眠っている--「ロッキード」以後の政治家と検索 (特集・腐蝕の日本政治--税制国会を注視する」『世界』第520号、岩波書店、39-55頁、1988年10月。 NAID 40002105064。
航空幕僚監部 編 『航空自衛隊50年史 : 美しき大空とともに』2006年。 NCID BA77547615。
松野頼三; 伊藤隆「オーラルヒストリー松野頼三」『C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト』下、政策研究大学院大学、2003年。doi:10.24545/00001476。
吉原公一郎 『謀殺―島田常務怪死事件』現代書林、1983年。ISBN 978-4876200023。

関連項目

不毛地帯 - 作中前半で主人公が関わる航空自衛隊の次期主力戦闘機争いは、第一次FX問題をモデルとしている。
ロッキード事件

外部リンク

グラマン航空機疑惑 - NHK放送史 』

ロッキード事件

ロッキード事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『ロッキード事件(ロッキードじけん)は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。

この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。

なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。

事件概要
田中角栄(左)とアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン

この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で元内閣総理大臣の田中角栄が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中元首相以外にも政治家2名(運輸政務次官佐藤孝行と元運輸大臣橋本登美三郎)が逮捕された。

さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。

この事件は1976年(昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会(委員長フランク・チャーチの名から「チャーチ委員会」)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。

経緯

トライスターの販売不振
全日空のL-1011 トライスター

1970年(昭和45年)11月に初飛行し、1972年(昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社が、自社初のジェット旅客機として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に昇降機が設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。

ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、ロッキードはベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。

しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争にさらされていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材のファンブレードではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、金属製のファンブレードに変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めたほか、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。

このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者にさまざまな働きかけを行なっていた。

全日空の大型機選定作業

1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという[1][注 5]。

選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという[1]。

トライスターの発注
イギリス首相エドワード・ヒース

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した[2]。

チャーチ委員会
ロッキードF-104J

田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年(昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。

明らかになっていく「工作」
児玉誉士夫(前列左、1953年)。

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャン(英語版)と元東京駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年(昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル・未解決事件でインタビューに応じた丸紅の大久保利春専務の部下の航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P-3C(対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山[注 6]が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎[注 7]が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

国会

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、大庭哲夫前社長、丸紅会長の檜山廣や専務大久保利春[注 8]、伊藤宏専務、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良[注 9]などが証人喚問され、この模様は全国にテレビ中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。

なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。

捜査

捜査開始
ジェラルド・フォード大統領

その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領ジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた[3]。

三木は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日にヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。アメリカ政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した[4]。

「ロッキード隠し」

捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。

また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。この頃になると、新聞の取材班が早朝の検察庁舎に侵入して書き損じの調書を窃取するなど、マスコミの取材合戦は更に加熱していた[5]。

一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し、起訴に持ち込んだが、三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。

「三木おろし」
福田赳夫首相(左から2番目)

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言えない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木は9月に内閣改造を行なったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。

在日アメリカ大使館から本国へ、「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな。」という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。

相次ぐ関係者の怪死

このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が1976年(昭和51年)2月14日、上記児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中の運転手である笠原正則が同年8月2日と立て続けに急死するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。

その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、警察はその後も政治家以外の民間人に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。

裁判

田中角栄

衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。

田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

田中の秘書官の榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中の5億円収受を認定した。また、死亡後の田中の遺産相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。

児玉誉士夫

児玉誉士夫(1946年)
「児玉誉士夫#ロッキード事件」も参照

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年(昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。その後、児玉の態度に憤ったポルノ俳優の前野霜一郎が同年3月に児玉邸へのセスナ機による自爆テロを行ったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に児玉は亡くなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。

2016年の未解決事件のインタビューで堀田力は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた日吉修二(2016年7月死去。未解決事件でのインタビューが最後のインタビューとなった)によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」

児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」と供述している。

小佐野賢治

「小佐野賢治#ロッキード事件」も参照

小佐野は1976年(昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が偽証罪(議院証言法違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。

丸紅ルート

「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山廣会長は1976年(昭和51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年(平成7年)に最高裁判所で実刑が確定した。しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年(平成12年)に死去した。檜山はこの間、1985年(昭和60年)から1999年(平成11年)まで丸紅名誉顧問を務めていた。

榎本敏夫と共に金銭授受を実行した当事者となった伊藤宏専務は1983年(昭和58年)10月12日に第一審判決で懲役2年の実刑判決を受けたため、実刑判決を不服として、控訴。その後、1987年(昭和62年)7月29日に控訴審判決で第一審判決を破棄し、あらためて懲役2年、執行猶予4年の判決を言い渡し、上告せず、有罪が確定。

大久保利春専務は、他の被告とは違い、公判でも検察側の主張をほぼ全面的に認めており、第一審判決で丸紅3被告の中で唯一の執行猶予付きの有罪判決が出たが、他の被告が控訴審で大久保に不利な証言が連発されることを恐れ、控訴に踏み切る。1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却されるが、檜山が上告したため、同様に上告。1991年(平成3年)12月16日の大久保の死により、公訴棄却となった。

丸紅の大久保利春専務直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた元航空機課長の坂篁一は、「檜山さんの首相訪問のOKが取れ許可取れたもんなら、この際政治献金しましょうと。これはロッキードに出させましょうという話をしたわけだ。5億円のお金の話というのは丸紅側から出てるの、コーチャンから言われたことじゃない。そこで大久保さんに話して、これをコーチャンに言ってOKを取ってくださいと。」「簡単な言葉で言えば(トライスターは)ダメ押しの最後の詰め。P3Cで色々力を注ぎましょうという考えの方が多かった。しかしこれはね、当時国産で、話は進んでいたわけだ[6]。国産で進んだやつを何とかP3Cにならんだろうか、国産ではひとつも丸紅に口銭(仲介手数料)は入らないわけだ。P3Cになればね、非常に巨額の口銭は入るわけです。巨額なもんだから。P3Cってのは。」巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を魑魅魍魎と書いた。「P3Cへの対策、お化けにはお化けのお菓子。森の中のお化け対策をしながら、活動するというのは、くたびれること。(導入が)決まりそうだ万歳、万歳と言ってちゃダメ。決まりかけが一番恐ろしい。暴れだすのは決まりかけ。」と語っている[3]。

コーチャンの尋問記録にも、丸紅の大久保は「もし大きな取引をしたいのであれば、5億円は基準レートだと言った。日本は最大のマーケットで丸紅から今後の販売がダメになると言われると大変だった。P3Cの売り込みの問題もあり支払わざるを得ないと考えた。」とある。

全日空ルート(全日空疑獄)

全日空に有利な政治的・経済的取り計らいを受けるために、若狭の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として、運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は「全日空ルート」と呼ばれ、立花隆などは、「全日空だけの裏金だけで相当の疑獄の規模に渡る」として「全日空疑獄」と呼んでいる[7]。

佐藤孝行運輸政務次官や橋本登美三郎元運輸大臣が、全日空による金銭の授受があったとして受託収賄罪で起訴された。佐藤には懲役2年執行猶予3年追徴金200万円の有罪判決が確定し、橋本には一二審で懲役2年6ヶ月執行猶予3年追徴金500万円で有罪判決で上告中に死亡し公訴棄却となった。

また、全日空は若狭社長以下6名の現役社員が、外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕、起訴された。1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対して若狭(その後の全日空相談役に)のみが控訴。上訴審を経て1992年9月に最高裁が上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した[8]。

多論

アメリカ陰謀説

ロッキード事件はアメリカ当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている[9]。

諸説
ヘンリー・キッシンジャー(左)とジェラルド・フォード(右)

中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている[10]。

メルビン・レアード国防長官はP-3Cの輸入を中曽根に持ち掛けた時、「彼はがっかりしていた。国産化するくらいならP3Cの開発費を負担したらどうかと提案したが、同意しなかった。」と語っている。

石原慎太郎は自著「天才」で資源外交で逆鱗に触れた田中角栄をアメリカがロッキード事件で葬ったと述べている。[11]

その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表クラッターが無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソビエトやアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで当時から有力だが、田中による中国との国交成立に反発していた右翼や福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

三木が人気取りと内閣の延命を狙って検察を使い、田中を逮捕したという説もある[12]。また、検察がP-3Cの導入がらみの事件を全日空のトライスター受注をめぐる事件としてロッキード事件を捏造したとする説もある[13]。

アメリカの国家安全保障担当補佐官リチャード・V・アレン(英語版)によると、ニクソン大統領自らP-3Cなどの軍用機導入を迫ったアメリカの狙いを「日本が我々の軍用機を購入すれば、我々の懐を痛めることなく、日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて、私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。」と語っている。

田中の側近だった石井一は、「今でも田中が金を貰ったと信じたくないが、あるとすればトライスターではなくP3Cではないか。P3Cに疑惑が及ばないように何か巨大な圧力が働き田中1人に罪を負わせたのではないか。」と考えている。「軍用機でこういう問題が起こるとね、これは両国政府がもろに被る事になる。国家体制を基本的に揺るがす問題になりかねない。総理大臣1人の罪という様な事にはいかなくなってくる。」とインタビューに答えている。田中の逮捕後アメリカから資料の提供も受け、情報が漏れないように印刷には出さずに秘書に手書きさせ、見立てをまとめていた。

久保卓也は防衛次官時代の1976年2月9日、ロッキード事件の一因である次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化が白紙還元された事件のいきさつについて「田中の部屋に後藤田正晴官房副長官、相沢英之大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。これは田中らがロッキード社の要請を受けて国産化を白紙還元したというニュアンスを持つため、大きな波紋を呼ぶこととなった(いわゆる「久保発言」)。後日、当時の状況を確認され、久保の発言に誤りがあったことが明らかとなり、久保は坂田長官から戒告処分を受け、その後の深夜の記者会見において記憶違いを声を震わせながら謝罪することとなる。特に内務省の先輩で、1974年の参院選落選以後、浪人として国政復帰を目指していた後藤田はこの発言に激怒して、久保に事実関係を厳しく確認し、明確な謝罪を要求するに至った。久保が1976年半ばと比較的早い時期に次官を退任したのはこの「久保発言」が原因とも言われている。その後、この事件は報道されなくなった。
誤配説について

ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判明するとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。[要出典]また当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。

アメリカ人関係者の不起訴と秘密工作

また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については、日本の司法制度にない司法取引であり反対尋問もできなかったという批判があるが[要出典]、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行われるのに際して3名は当初証言を拒否し、アメリカでは外国の公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察がアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、刑事訴訟法第248条に基づく起訴便宜主義という手法を取り、1976年7月21日に布施健検事総長が公訴不提起声明を出し、同年7月24日に最高裁が裁判官会議でアメリカ側証人の刑事免責の保証を決議することで、事実上の免責を与えたのが直接的な理由である(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)。その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。[要出典]

なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行われた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがあるが、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。

反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて伝聞証拠禁止の原則の例外を適用して、下級審では証拠採用された。また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある(全日空ルートの裁判では検察側がエリオットの嘱託証人尋問調書を立証している間に、弁護側が申請によってエリオットから宣誓供述書を取って実質的な反対尋問を行われた)。コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。

前ロッキード副社長で駐日大使のジェームズ・ホッジソンのアメリカ政府あての極秘報告書には、ロッキード事件発覚5日後の2月9日、「疑惑の政府高官名や、証拠を探る情報戦の舞台は今、ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上情報が漏洩しなければ、この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくいけば、ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう」という記述がある。

この電報の9日後の2月18日、日本で第一回検察首脳会議が行われ、アメリカ側に資料の提供を求めていく方針が決まった。その2日後の2月20日、「ロッキード事件によって、これまで進めてきたP3Cの導入が全て台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点で取り得る最善の方針は、P3Cに関して極力目立たないようにしていくことだ」という報告がなされた。

同日、三木とは別ルート(中曽根康弘がもみ消しを依頼していた疑惑がある)で「アメリカ政府には、この事件に関して慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは、名前が公表されれば日本の政界は大騒動になり、我々はその状況を制御できなくなるだろう。最善の方法はアメリカ政府が疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを、可能な限り遅らせることだ。」と要請があった。

その2か月後、三木に渡された資料にはトライスター関連のものしかなく、P-3Cに関するものはなかった。その後の報告では「ロッキード社が日本政府高官に賄賂を渡したという幹部の告白は、日米双方に試練となった。もし三木首相の求めに応じて資料を全て提供していれば、政治的な同盟さえも失っていたかもしれない。」となっている。

ロッキード事件にかかわる問題点

不自然な金銭の受け渡し場所

調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中側はロッキード社から丸紅を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、伊藤宏丸紅専務と田中の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路に止めた車の中にて、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前にて、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラの駐車場にて、4回目が同年3月1日8時ごろに伊藤の自宅にてとなっている。

1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。

3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りと遭遇しうる場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。

田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている[14][15]。

金額の不一致(政治主義裁判)

ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半(21億円)が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。[要出典]

他方で、問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。[要出典]また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。[要出典]

公訴権の乱用の可能性

三木と稲葉修法務大臣による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。[要出典]すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。日本国行政の最高責任者である三木はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを宮沢喜一外務大臣が進言したのに対して、「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けて最初から見込み捜査に加担し[16]、渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせたり、司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが判明している[17]。また検事総長への指揮権を持つ稲葉は、田中逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と、今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。

他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。[要出典]例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。

不当逮捕の可能性

「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれをなすという政治主義性という問題があるとする主張もある。[要出典]

しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。[要出典]

なお1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で、外為法違反による逮捕について外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けたい質問が出たが、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。

“作文”調書の可能性

各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。[要出典]しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。

流行語

事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。

(まったく)記憶にございません

衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的回答をしない意味をもつこの発言を連発。これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。

ピーナツ(ピーシズ)

賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」と数えていた[注 10]。「ピーシズ」はpieces、つまりピースの複数形[注 11][注 12]。

ハチの一刺し

田中の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫の前妻・榎本三恵子が榎本に不利な法廷証言を行った心境について述べた言葉。

よっしゃよっしゃ[18]

田中が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。なお、秘書の佐藤昭子は「越後人はこのような言い方はしない」と否定している。

日本国外における「ロッキード事件」

ロッキード社は日本だけでなく多数の国で機種選定にからむ贈賄を行なっていた。
詳細は「:en:Lockheed bribery scandals」を参照

イギリスの旗 イギリスでは、エドワード・ヒース首相が1972年9月16日から9月19日の日程で来日。期間中、昭和天皇との会談や日光旅行などのほか、田中角栄首相との二度にわたる日英首脳会談が設定された[19]。この際、事件で逮捕された田中に対して、イギリスのロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載したロッキード L-1011 トライスター機の購入を強力に働きかけていたことが、2006年に開示されたイギリス政府の機密文書で明らかになった。

オランダの旗 オランダでは、オランダ空軍における戦闘機(F-104を売り込んでいていた)の採用をめぐって、女王ユリアナの王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。

イタリアの旗 イタリアではC-130の採用を巡り、ジョヴァンニ・レオーネ大統領が首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。

サウジアラビアの旗 サウジアラビアでは1970年から75年にかけてロッキード社から武器商人アドナン・カショギに1億ドル以上の「手数料」がわたっていた。

ロッキード社スカンク・ワークスの責任者であったベン・リッチの著書によると、1950年代から70年代にかけて西ドイツやイギリス領香港などの国々もに工作が行われていた。
検察

(かっこ内は主な後職)

法務省
    法務大臣 稲葉修
最高検察庁
    検事総長 布施健、次長検事 高橋正八
    刑事部長 佐藤忠雄
    担当検事 伊藤栄樹(検事総長)、 江幡修三(検事総長)
東京高等検察庁
    検事長 神谷尚男(検事総長)、次席検事 滝川幹雄(大阪高検検事長)
東京地方検察庁
    検事正 高瀬礼二(東京高検検事長)、次席検事 豊島英次郎(名古屋高検検事長)
東京地検特捜部
    部長 川島興 (大阪高検検事長)
    副部長・主任検事 吉永祐介(検事総長)、副部長 永野義一(最高検検事)、副部長 藤本一孝(新潟地検検事正)(発覚時副部長)、副部長 石黒久晫(名古屋地検検事正)(藤本と交代)
    特捜部検事   
        河上和雄(最高検公判部長)、村田恒(名古屋高検検事長)、松田昇(最高検刑事部長、預金保険機構理事長)、東条伸一郎(大阪高検検事長)、堀田力(4月から参加)(法務省官房長)、小林幹男(仙台地検検事正)、小木曽国隆(さいたま地検検事正)、佐藤勲平(福岡地検検事正、公正取引委員)、浜邦久(東京高検検事長)、友野弘(宇都宮地検検事正)、神宮寿雄(昭和58年東京地検検事辞職)、宮崎礼壹(内閣法制局長官)、太田幸夫 (東京高裁部総括判事)、廣畠速登(長崎地検検事正)、村田紀元、山部力、近藤太郎、寺田輝泰、水流正彦、清水正男、荒木久雄
    特捜部資料課長 田山市太郎

影響

防衛庁では1968年から、海上自衛隊が使用するロッキード社製の対潜哨戒機P2V-7及びP2V-7を原型とし川崎重工業が改造開発した[20]P-2Jの後継となる次期対潜哨戒機 (PX-L) の選定に着手、当初川崎重工業による国産機とアメリカ海軍で採用されていたロッキード社のP-3Cの2案が有力視されていたが、1972年10月に国産方針の白紙撤回が発表されP-3Cの選定が事実上決定した。しかし、ロッキード事件の発覚により政府はPX-Lを全て白紙に戻し、一から選考し直す方針をとった。そのため海上自衛隊はPX-LまでのつなぎとしてP-2Jを増産することとなった。その後再度選定が行われ、1977年には再度P-3Cに決定した。』

マクドネル・ダグラス

マクドネル・ダグラス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9

 ※ 以下の画像は、軍用機のみを拾った。

『この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: “マクドネル・ダグラス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月)』

『マクドネル・ダグラス(米国式でマクダネル・ダグラスとも読む、McDonnell Douglas)は、かつて存在したアメリカ合衆国の大手航空機メーカーである。

概要

民間や軍用の数多くの著名な飛行機を生産していた。ジェームズ・スミス・マクドネル(James Smith McDonnell)設立のマクドネル・エアクラフト社とドナルド・ウィルズ・ダグラス・シニア(Donald Wills Douglas)設立のダグラス・エアクラフト社の合併により1967年に誕生した。カリフォルニア州ロングビーチとミズーリ州セントルイスに製造工場がある。1997年にボーイング社に吸収合併された。

歴史

前身

詳細は「マクドネル・エアクラフト」および「ダグラス・エアクラフト」を参照
Dutch Dakota AssociationのDC-4
日本航空のDC-8-53型機

マクドネル・ダグラスの前身はジェームズ・スミス・マクドネル(James Smith McDonnell)とドナルド・ウィルズ・ダグラス(Donald Wills Douglas)がそれぞれ設立した航空機メーカに由来する。両者ともマサチューセッツ工科大学出身でグレン・L・マーティン・カンパニーに勤務していた経歴を持つ。ダグラスはマーチンでチーフエンジニアを務めていたが、1920年にマーチンを去ってロサンゼルスでデービス・ダグラス社を設立した。1921年には共同出資者から事業を買い取って社名をダグラス・エアクラフトに変更した。

マクドネルは1928年にウィスコンシン州ミルウォーキーに J.S. マクドネル・アンド・アソシエーツを設立する。マクドネルは自家用小型飛行機の生産をもくろんでいたが、1929年の恐慌で計画は破綻して会社は倒産した。その後マーチンで働くこととなったが、1938年にマーチンを去ってミズーリ州セントルイス近郊にマクドネル・エアクラフトを設立して再起を図った。

その後第二次世界大戦の需要でダグラス社は成長することとなる。1942年から1945年までに3万機近くの航空機を生産し、従業員は16万人に膨れ上がった。大戦中の主な製品には C-47 スカイトレイン(DC-3 の軍用輸送機型)、DB-7 ボストン(A-20 ハボック)、SBD ドーントレス、A-26 インベーダー、DC-4などがある。またアメリカ陸軍航空軍のシンクタンクも設立し、これは後にランド研究所となる。しかし戦争が終結すると両社も政府受注の終結と余剰機体の処理に苦しみ、特にダグラスは10万人近くの人員を削減した。

戦後もダグラスは新型機の開発を続け、1946年には傑作機 DC-6 を、1953年には最後のレシプロ旅客機となる DC-7 を送り出す。またジェット機生産にも乗り出して1948年には F3D スカイナイト、1951年にはより本格的なジェット機 F4D スカイレイを海軍向けに製造した。

同時に民間ジェット機の製造も始め、1958年にはボーイング707に対抗してDC-8の製造を開始し、その後短中距離用ジェット機のDC-9の製造も開始する。

マクドネルもジェット機の開発を進めていたが、当時は比較的小規模な会社だったことが幸いして思い切った航空機設計を行うことができた。その結果 FH-1 ファントムが誕生し、続く F2H バンシー、F3H デーモンとともに海軍御用達の戦闘機メーカーとなるきっかけをつかんだ。朝鮮戦争後マクドネルは主要戦闘機メーカーとしての地位を確保し、1958年には傑作機として有名な F-4 ファントムIIを送り出す。

ミサイル分野においても両社は積極的に開発を進める。ダグラスは空対空ロケット弾やミサイルを製造していたが、1956年のナイキ計画で総合迎撃システムを開発し、またスカイボルト ALBM 及びPGM-17 Thor IRBMの主契約者となった。さらに NASA からも仕事を得る。特筆すべきはサターンVロケットへの参加であろう。一方マクドネルは NASA のマーキュリー計画とジェミニ計画への参加を当て込んで極超音速飛行の実験を行なっていた。また、ダグラス同様ミサイルも製造しており、その中にはユニークな囮用ミサイル ADM-20 クエイル がある。ついに両社はアメリカの主要企業の仲間入りをしたが、同時に問題を抱え込むこととなった。

合併による発足

デビッド・ルイス

ダグラスはジェット旅客機DC-8とDC-9大量受注で一時的な経営は改善したが、開発コストが高かったことに加えて生産能力を超えた受注で9ヶ月~18ヶ月もの納期の遅れが発生。発注元の航空会社に支払う莫大な違約金が却って経営を圧迫していた。こうしたことからダグラスはマクドネルとの合併を模索し始める。交渉が1963年に始まり、1966年12月にはダグラスが入札要請を行なってこれに応じたマクドネルの応募を受け入れた。1967年4月28日に両社は正式に合併して マクドネル・ダグラス社(McDonell Douglas Corporation) となる。

合併によって当時のマクドネル社長デビッド・ルイス(英語版)が旧ダグラス部門の責任者を兼任、直接経営再建の指揮を執った。合併時点においてダグラスは1年以内に経営破綻すると見られていた。

DC-10とDC-9スーパー80の成功

日本航空のDC-10

その様な状況下ではあったものの、アメリカン航空やユナイテッド航空などからの大型機ジェット旅客機の要求に対応するために、1960年代中盤にマクドネル・ダグラスにとって初のワイドボディ旅客機であるDC-10の開発を開始した。

同機はロッキード L-1011トライスターとの激しい販売競争の中、ルイスは精力的にDC-10を売り込み、2年で経営を軌道に乗せて黒字化した。その後ルイスはセントルイスの本社に戻り、1981年まで社長兼最高執行責任者として会社を率いるかたわら DC-10 の販売も続けた。

DC-10 は1968年に製造が始まり、1971年に最初の引渡しがなされ、設計不良によるトルコ航空DC-10パリ墜落事故やその設計不良のもみ消し工作の発覚そしてオイルショックの影響を受けながらも、その販売は順調に推移した。1977年にはDC-9を長胴化したスーパー80シリーズ(後にMD-80シリーズの型番が与えられた)が発売されて、世界各国の航空会社からの発注を受けて大成功する。

軍用機分野での成功

増槽を付け飛行するF-15C

軍用機分野では F-15 イーグル(1974年)、F/A-18 ホーネット(1975年)、ハープーンミサイル、トマホークミサイルその他を送り出して成功する。特にF-15はアメリカだけでなくイスラエルや日本などの当時の西側諸国でも主力戦闘機として大量発注され、その多くが現在も使用されている。しかしながらF-15は堅実な設計の機体であり、FH-1ファントムからF-4ファントムIIに至る歴代のマクドネル社の戦闘機に比較して、革新性では後退が始まっており、後の凋落につながる傾向はこの段階で始まっていたという指摘がある。またF/A-18ホーネットは、元来はノースロップ社の開発した機体であった。

なお、1970年代の石油ショックは航空業界に深刻な打撃を与え、マクドネル・ダグラスも経営を大幅に引き締めるとともに多角化によるリスクの分散を余儀なくされる。1984年には軍用、民事用のヘリコプターの大手であるヒューズ・ヘリコプターズを買収して社名を「MDヘリコプターズ」とした。

また1980年代には、アメリカ空軍の次期大型輸送機の発注に成功しC-17を開発する。C-17は、冷戦下においてアメリカ合衆国本土よりヨーロッパの前線未整備小型飛行場に物資を大量輸送する戦域間空輸を担う、大型長距離輸送機を開発する次期輸送機計画C-X(Cargo experimental)によって生み出された。

MD-11とMD-90シリーズ

ユナイテッド・パーセル・サービスのMD-11
日本航空のMD-90

軍用機と民間機の双方で成功を手にしたマクドネル・ダグラスが、MD-80シリーズの次に市場に投入したのはMD-11で、これはDC-10を改良してアビオニクスを近代化した機種である。しかし、設計時に発表された性能を実現できなかったことでシンガポール航空などの大手顧客を逃したことや、より効率の高い2発エンジンのボーイング777やエアバスA330などのライバルに顧客を奪われたために、当初から販売的に苦戦を続けた。

同時期に導入されたMD-90は、MD-80 の胴体を延長してIAE V2500型エンジンを搭載した、後部配置エンジンとしては最大の旅客機である。機体短縮型のMD-95(後のボーイング717)は近・中距離向けの航空機で、マクドネル・ダグラスとして設計した最後の民間ジェット機となった。

MD-12

1992年には総二階の機種MD-12が計画中であることを公表する。(それ以前 MD-12 は MD-11 の胴体延長型として研究されてきた)これは一時的に話題となったものの、同社にはそのような巨大な航空機を開発する企業力も資金力もないことは明らかで、計画はすぐに消滅してしまいボーイングやエアバスにシェアを奪われている現状への危機感と受け止められてしまう逆効果に終わってしまった。

後にボーイングも 747 の後継に総2階の機種を計画したが、最初に実現したのは エアバスA380 となった。その後、MD-11を基本とし胴体の延長、主翼の換装などでボーイング747クラスまで大型化したものを MD-XX計画 として発表し、ある程度の関心を集めたものの、この計画もすぐに中止され、マクドネル・ダグラスは旅客機の自主開発をあきらめ、ライバルの商品であったボーイング747の大型化に参画していくことを発表し、航空業界を驚かせたが、これはその後のボーイング社との合併の布石ともなったのである。

民間機の販売不振と冷戦終結

ユニエアのMD-90

MD-11は1986年の発売以降200機が販売されたが、当初計画された性能を実現することができなかったことや、ボーイングやエアバスとの販売競争の激化のあおりを受けて販売予測を大幅に下回ったために経営を圧迫するようになっていった。また、それに合わせるようにMD-90シリーズの販売数も、同じくボーイング737やエアバスA320シリーズとの競争に押され、1990年代に入り下降線を辿るようになっていった。

また、1990年代に入って東西冷戦が終結したことにより、湾岸戦争などの一時的な特需があったものの、民間機と並ぶ企業の屋台骨であった軍需の発注が減り続けた。そしてF-15の後継機開発計画である先進戦術戦闘機計画において、書類選考で落選してしまう。

窮地に陥ったマクドネル・ダグラスは、中国で上海航空機製造と提携して海外初の製造工場をつくったが[2]、それが失敗して凋落を決定付けた。

ボーイングによる合併

ボーイングは1996年にロックウェル・インターナショナル傘下のノースアメリカンを買収し、翌年には130億ドルの株式交換でマクドネル・ダグラスを買収して吸収し、ザ・ボーイング・カンパニー (The Boeing Company) が発足した。

マクドネル・ダグラス社名での航空機販売は1998年で終了し、以降はボーイングが販売した。なお、MD-11はボーイングと合併後2001年にボーイング777との競合を避けるために製造が終了した。MD-90シリーズは、合併時に開発中だったMD-95が「ボーイング717」と改名されて開発が継続され、2006年まで製造された。

なお、旧ダグラス社から引き継いだ「球体(地球)を回るミサイルと航空機」を図案化したマクドネル・ダグラスのCIは、多少のアレンジを経つつも、ボーイングがCIとして現在も使用している。

主な製品

合併以前の製品についてはマクドネル・エアクラフト及びダグラス・エアクラフトの項目を参照

民間機

エバー航空カーゴのMD-11F

DC-9 - ダグラス・エアクラフトから継承
    MD-80 シリーズ - DC-9 を近代化改修して胴体を延長した型
    MD-90 - MD-80のエンジンを置き換えて胴体を延長した型
    MD-95 - 設計のみ。ボーイングと合併後ボーイング717として販売
DC-10 ダグラス・エアクラフトによる設計
    MD-10 - DC-10 を近代化改修した型
    MD-11 - DC-10 を近代化改修して胴体を延長した型
MD-12 (計画中止)
MD-17 (C-17の民間版として計画されていたが開発中止)

軍用機

空母に着艦する F/A-18

AH-64 アパッチ ヒューズ・ヘリコプターから継承
AH-64D アパッチ・ロングボウ
A-4 スカイホーク ダグラス・エアクラフトから継承
F-4 ファントムII マクドネル・エアクラフトから継承
F-15
F-15E
F/A-18A-D
C-9
X-36
YC-15
C-17
KC-10
AV-8B(イギリスのホーカー・シドレー社(現BAeシステムズ)の開発したAV-8Aハリアーを洗練したもの)
T-45(イギリスのブリティッシュ・エアロスペース(現BAeシステムズ)の開発したBAe ホークに、艦上運用が可能なように改設計を行ったもの) 』

10年間に及ぶ米海軍と議会の戦いが決着、2025年にF/A-18E/Fの生産ラインを閉鎖

10年間に及ぶ米海軍と議会の戦いが決着、2025年にF/A-18E/Fの生産ラインを閉鎖
https://grandfleet.info/us-related/boeing-to-close-f-a-18e-f-production-line-in-2025/

『ボーイングは23日「F/A-18E/Fの生産ラインを2025年に閉鎖する」と発表、米海軍がF/A-18E/Fの新規調達打ち切りを訴えて議会が阻止するという「約10年間の戦い」が意外な形で決着した。

参考:Boeing Sets F/A-18 Production Completion Date as Defense Business Pivots to Future Work

約10年間に及ぶ議会(正確に言えば選挙区にボーイングの工場やサプライヤーを抱える議員)との戦いが唐突に終わりを迎えた

米海軍は国防予算の削減を受けて2014年にF/A-18E/Fの調達を打ち切る予定だったのだが、議会が国防権限法(毎年の国防予算の大枠を決める法律)に同機の調達を盛り込んで海軍の動きを阻止、以降も調達打ち切りを議会に何度も阻止され、2022年6月にギルディ作戦部長は「海軍が必要としていない航空機調達を議会に働きかけるを止めてほしい=中国海軍とのギャップを埋めるための予算が限られているので本当に邪魔しないでくれ」と訴え注目を集めていた。

出典:DoD photo by Lisa Ferdinando

しかし議会は2023年度の国防権限法に8機の調達(約6億ドル)を盛り込んだため、海軍が「もういらない(F/A-18E/Fの新規調達に割り当てる資金をF/A-XXに投資したいという意味で、BlockII→BlockIIIへのアップグレードは継続予定)」と訴えるF/A-18E/Fの調達打ち切りは2024会計年度に持ち越された格好だった。

米海軍は6月頃から始まる予算審議で同機の調達打ち切りを再び持ち出してくるのは見えに見えていたが、ボーイングは23日「F/A-18E/Fの生産ラインを2025年に閉鎖する。同機の生産から解放される人員(約900人)を設備でT-7A、F-15EX、777Xの主翼部品、MQ-25の増産が可能になる」と発表したため注目を集めている。

出典:Photo by Petty Officer 2nd Class James Evans

ボーイングは2023年度予算の受注分が最後になり「これ以降の米軍発注は受け付けない」と述べ、インド海軍がF/A-18E/Fを採用した場合のみ「新規製造を継続して生産ラインを2027年に閉鎖する」と説明しているが、BlockIIからBlockIIIへのアップグレード作業やEA-18Gの近代化プログラムは2030年代まで継続するらしい。

この発表で米海軍はF/A-18E/Fの新規調達に割いていた資金を解放することができ、約10年間に及ぶ議会(正確に言えば選挙区にボーイングの工場やサプライヤーを抱える議員)との戦いが意外な形で決着した。

関連記事:今年こそ実現するか? 米海軍が再びF/A-18E/Fの新規調達中止を提案
関連記事:必要ないと米海軍が訴えていたF/A-18E/F新規調達、継続決定でボーイング大勝利
関連記事:米海軍のギルディ作戦部長が防衛産業界を批判、ロビー活動で必要ない航空機を売りつけるな

※アイキャッチ画像の出典:Boeing
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投稿者: 航空万能論GF管理人 米国関連 コメント: 11  』

『 ブルーピーコック
2023年 2月 24日

返信 引用 

ボーイングがスーパーホーネットの製造メーカーだと聞くと、未だに違和感を覚える。
でもマクダネル・ダグラスが吸収されたのはもう20年以上前なんだよなあ。まさかATF計画(YF-22と23)もJSF計画(F-35と32)も落選するとは思わなんだ
11

    匿名希望係
    2023年 2月 24日
    返信 引用 

一応ATFは下請けだから
3 』

『 のののの
2023年 2月 24日

返信 引用 

EA18Gも造れなくなるのかね?
後継機種どうするんだろう。単座や無人機で代替出来るのかな?
3

    daishi
    2023年 2月 24日
    返信 引用 

EA-18Gはアメリカ空軍も海軍からレンタルしているので、需要はあるんだと思いますが、機密性が高くてアメリカ海軍とオーストラリアしか採用できてないですからね。
日本も採用する噂は流れましたが、この時期に導入発表は厳しいものになりそうです。
F-35ブロック4以降の電子戦装備の充実か、次世代機でのリプレースになりそうです。
3
        匿名希望係
        2023年 2月 24日
        返信 引用 

    正直F-15EXに対応しろって割と本音が 』

マレーシアと韓国がFA-50導入契約を締結、9億2,000万ドルで18機調達

マレーシアと韓国がFA-50導入契約を締結、9億2,000万ドルで18機調達
https://grandfleet.info/indo-pacific-related/malaysia-and-south-korea-sign-fa-50-purchase-agreement-purchasing-18-aircraft-for-920-million/

『韓国航空宇宙産業は昨年9月にポーランドとFA-50の輸出契約を締結、今年1月にはT-50/FA-50の現地製造に関する契約をエジプトと締結したが、今度はマレーシアとFA-50×18機の輸出契約(9億2,000万ドル)を締結した。

参考:KAI, FA-50 말레이시아 수출 성공…1조2000억원 규모
参考:KAI to export 18 FA-50 fighter jets to Malaysia

マレーシアからの受注分を加えるとKAIは最大192機のバックオーダーを確保したことになる

マレーシア空軍が進めていた軽戦闘機入札(FLIT/LCAプログラム)は英ホーク108/208や伊MB-339CMの更新と退役したMiG-29の穴を埋めるという2つの目的があり、調達する軽戦闘機に視界外戦闘能力、空中給油能力、超音速飛行、国産化比率30%などを要求、インドのテジャスMK.1A、ロシアのMiG-35、韓国のFA-50、イタリアのM-346FA、中国のJF-17、トルコのヒュルジェットの6社が名乗りを挙げていたが、この契約をFA-50が射止めた。

出典:Photo by ROKAF(2013)/ CC BY 2.0 FA-50

韓国航空宇宙産業は24日、マレーシア国防省でFA-50×18機の輸出契約(9億2,000万ドル)を締結し「2026年に引き渡しを開始する」と述べており、マレーシア空軍は今回選定した機種(FA-50)の二次調達を計画しているため、FA-50の導入規模は一次と二次を合わせて最大36機になる可能性があるらしい。

因みにFA-50はインドネシアが6機(追加調達)、タイが2機(追加調達)、ポーランドが48機(FA-50BlockI×12機とFA-50PL×36機)、エジプトが最大100機(調達規模は100機で内70機を現地生産すると言われている)の調達を決めているので、マレーシアからの受注分を加えるとKAIは最大192機のバックオーダーを確保したことになる。

関連記事:マレーシア空軍はテジャスではなくFA-50を選択か、但し揉める可能性も
関連記事:インドがマレーシア空軍にテジャスMK.1Aを4,150万ドルで提案か
関連記事:マレーシア空軍の軽戦闘機調達、インドのテジャスMK.1Aが勝利か

※アイキャッチ画像の出典:한국항공우주산업
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投稿者: 航空万能論GF管理人 インド太平洋関連 コメント: 12 』

『 samo
2023年 2月 24日

返信 引用 

F-5やMiG-21の代替できる戦闘機がF-16とかになって高価になりがちで、
結果として長らく不在に近い状況だったけれど、
練習機と兼任できるのと、F-16の流れをくんだ素性の良さ、レーダーの向上と、
市場の要望にマッチし、一気にヒット商品になったね
9 』

『 月虹
2023年 2月 24日

返信 引用 

インドネシアはKF-X(KF-21)計画の参加国でもありますが最近の動き(ラファールやユーロファイターに関心を持っている)からするとFA-50の購入を手打ちとしてKF-X計画から離脱という選択肢もありえそうな感じがします。
6

    干物
    2023年 2月 24日
    返信 引用 

昨年末にKF-21試作機からインドネシア国旗のマーキングが削除されているのが確認されているので
離脱は既定路線なのではないでしょうか?
1
        もり
        2023年 2月 24日
        返信 引用 

    最近また急接近してるからどうかな?
    インドネシア空軍からパイロット派遣して韓国入りしたみたいだし
    今は果たしてインドネシア空軍のパイロットが複座型KF-21に乗るかどうかってとこか
    4 』

米国、中国企業に禁輸措置 ロシアの制裁逃れに関与

米国、中国企業に禁輸措置 ロシアの制裁逃れに関与
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN2443C0U3A220C2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】米政府は24日、ウクライナへの侵攻を続けるロシアなどへの追加制裁を発表した。ロシアの軍需産業の制裁逃れにかかわった中国企業を含む約90社に対して、米国技術を活用するハイテク製品を輸出することを事実上禁止する。ロシアがこうした企業を通じて半導体などを入手し、武器生産に使うのを阻む。

米政府は高性能半導体やセンサーなどの対ロシア輸出を禁じており、部品不足で極超音速ミサイルなど…

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『米政府は高性能半導体やセンサーなどの対ロシア輸出を禁じており、部品不足で極超音速ミサイルなど高機能兵器の製造が困難になっていると分析する。ロシアがウクライナに侵攻を始めた2022年2月24日にロシアに輸出規制を発動した。米国外の製品でも米国の技術でつくったものであれば禁輸対象になる。

米商務省が約90社を新たに規制リストに加えた。ロシアを拠点とする企業が79社、中国が5社で、残りはフランスやカナダ、オランダなどで活動する中ロの関連企業も含まれる。ロシアの軍需産業に米国製品が流れるのを食い止める。

中国は武器支援を見送る一方、これまでロシア産原油の購入拡大や軍事と民生の両方に使える「デュアルユース」技術の製品などを提供してロシアを支えてきた。ブリンケン米国務長官は23日、米メディアに「中国企業を介して、中国政府が承認したとみられるデュアルユース型の支援があった」と明言した。

ロシア産の輸入品への関税も引き上げる。約28億ドル(約3770億円)相当の100以上の金属や鉱物、化学製品が対象になる。アルミニウム製品は3月10日から順次200%にする。高関税を課してロシアの輸出産業に打撃を与え、ロシアの戦費調達を絞り込む。

併せて欧州やアジア、中東で活動するロシアや第三国の200以上の個人・団体に制裁を科す。十数社のロシアの金融機関を含め、米国内で取引できないようにするとみられる。主要7カ国(G7)が発動している制裁の回避を狙うロシアに対抗するため、米国が主導して運用を厳格化する仕組みもつくる。

ウクライナへの追加の軍事支援も決めた。総額20億ドル相当で、ロシアによる攻撃に備えた防空能力を強化するため無人機システムや対無人機システムを新たに供与する。高機動ロケット砲システム「ハイマース」や155ミリりゅう弾砲の弾薬、地雷除去装置なども追加で送る。

電力インフラへのミサイル攻撃で深刻化するエネルギー不足にも対処する。送電網機器や移動式の発電機を3月上旬までに追加で提供する。ウクライナの10万世帯に電力を供給できるようになる。このほか、送電網を強化するため最大2億5000万ドルの緊急支援も実施する計画だ。

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益尾知佐子
九州大学大学院比較社会文化研究院 教授
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分析・考察 ウクライナをめぐる国際情勢は見通しが暗そうです。中国の動向次第では今後、国際的な東西対立に発展するかも。
中国外交部が本日24日に出した「ウクライナ危機に関する中国の立場」という文書は、各国の主権・領土保全の重要性を確認し核兵器の不使用を訴えましたが、原則的立場を繰り返すばかりで解決案は全く提示していません。むしろ「冷戦思考」や「一方的な経済制裁」に反対を表明し、実質的に西側を批判する内容になっています。最近、米中間で中国のロシアへの武器供与の可能性を巡って火花が飛び、中国によるロシアへのドローン提供の情報も流れているところを見ると、中国がより明確なロシア支援に乗り出す可能性が高まっています。
2023年2月24日 22:25 (2023年2月24日 22:28更新) 』

中国のウクライナ停戦仲裁案、欧米の批判回避の思惑

中国のウクライナ停戦仲裁案、欧米の批判回避の思惑
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM243X30U3A220C2000000/

『【北京=羽田野主】中国外務省は24日、ロシアのウクライナ侵攻から1年の節目に中国独自の仲裁案を発表した。欧米による対中批判をかわし、緊張緩和につなげる思惑がある。主要輸出先である欧米との関係改善で、経済浮揚につなげたい考えとみられる。

24日に発表した仲裁案は12項目からなるが、これまでの中国の主張を列挙した感は否めない。ロシアとウクライナの「できるだけ早い直接対話」を呼びかけ、中国も関与する考…

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『中国も関与する考えを示したが、具体的な仲介策にはとぼしい。

中国の外交担当トップ、王毅(ワン・イー)共産党政治局員はロシアのプーチン大統領やウクライナのクレバ外相らとの会談後に仲裁案を発表した。「停戦」を呼びかけ、「最終的に全面停戦を達成すべきだ」と強調している。核兵器の使用や原子力発電所への攻撃に反対を表明したものの、どこまで抑止力があるかは不透明だ。

このタイミングで中国が仲裁案をアピールしたのは、主要な輸出先である欧米の中国への印象の悪化がとまらないためだ。ブリンケン米国務長官は中国がロシアに殺傷力のある武器を輸出する可能性に懸念を示している。

中国側は否定しているが、中国はロシアと経済・貿易取引を続ける方針だ。軍事転用できる半導体や通信機器、ヘルメットなどがロシアのウクライナ侵攻を下支えしているのではないかとの西側の疑念は強まるばかりだ。ロシア、ウクライナ両国と友好関係にある中国は事態好転に向けて取り組む姿勢をみせる必要があった。

仲裁案にはひとつだけ、新しい要素が加わった。ウクライナ情勢の終局を見据えた「戦後復興の推進」の文言だ。国際社会が戦後復興を支援する措置をとるように促し、中国も「建設的役割」を果たすと強調した。中国政府関係者によると、すでに政府内でウクライナ経済の復興支援プランの検討が始まっているという。

中国にはウクライナ情勢への関与でグローバルサウス(南半球を中心とする途上国)の取り込みも進める思惑がありそうだ。

グローバルサウスの代表格とみなされるブラジルとインド、南アフリカは、中国、ロシアとともにBRICSを構成しており、もともと接点が多い。ブラジルは同国が中心となって中立的な立場で和平交渉を担う一部新興国によるグループの発足を提唱している。これらの国は対ロシア制裁に加わっていない点でも共通していて、中国は連携をとりやすいとみている可能性がある。

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中国、ロシアにドローン100機売却か ドイツ誌報道

中国、ロシアにドローン100機売却か ドイツ誌報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB24AAF0U3A220C2000000/

『【ベルリン=共同】ドイツ有力誌シュピーゲル(電子版)は24日までに、中国の無人機(ドローン)メーカーがロシア軍にドローンを売却し、ロシアでの量産も計画されていると報じた。早ければ4月までに100機を納入する交渉が進められている。

シュピーゲルによると、中国メーカーは4月までにロシア国防省に納入するため、100機のドローンを製造することで合意。35〜50キロの弾頭を搭載でき、ロシアがウクライナでの攻撃に主に使用しているとされるイラン製無人機シャヘド136に似ているという。

さらにロシアが自国でドローンを量産できるよう、中国メーカーが部品と技術を提供する計画も進められている。計画では月に100機を製造できるようになる。

シュピーゲルによると、中国によるロシア支援計画は他にもあり、中国人民解放軍傘下の別の企業はロシアの戦闘機などの交換部品を納入することも計画していた。

中国外務省の汪文斌副報道局長は24日の記者会見で、ロシアへのドローン売却計画を「聞いたことがない」と述べ「中国は紛争地域や交戦国に対して武器を売却しない」と主張した。

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岩間陽子
政策研究大学院大学 政策研究科 教授
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分析・考察

ブリンケン米国務長官が、対ロ武器供与を中国に強く警告したこともあり、根も葉もないこととは思われません。他方で、中国自身は特に欧州との関係改善を望む外交を仕掛けており、先のミュンヘン安保会議では「世界をより安全な場所にする」という基調演説で、現在の優先事項は中国人の生活水準をあげることだと述べています。今朝のウクライナに関する「ポジション・ペーパー」でも、通商やサプライチェインへの影響を最小化したい気持ちを表明しており、経済成長を優先させたい気持ちは強いようです。西側としては、ロシアに対する武器支援とみなされるような行動は強い反発を招くことを、しっかり伝えていかねばなりません。
2023年2月24日 22:54』

米欧、中国仲裁案に懐疑的 「停戦後にロシア再侵攻も」

米欧、中国仲裁案に懐疑的 「停戦後にロシア再侵攻も」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN24CHZ0U3A220C2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】米国と欧州はロシアとウクライナに「停戦」を促した中国独自の仲裁案を懐疑的に受け止めている。双方に対話を求めつつロシアへの軍事支援を検討する中国への警戒を強める。停戦が一時的に終われば、ロシアが再侵攻に向けて軍事態勢を立て直す猶予を与えかねないとの懸念がある。

ブリンケン米国務長官は24日、ニューヨークで開いた国連安全保障理事会の閣僚級会合に出席した。ロシアを支える中国を念頭に「いかなる理事国もロシアを支援しながら、平和を呼びかけるべきでない」と述べた。

「一時的または無条件の停戦の呼びかけにだまされるべきでない。ロシアは戦闘を一時停止し、さらなる攻撃のために兵力を補うだろう」とも訴えた。ウクライナ東部紛争の停戦と和平への道筋を定めた2015年の「ミンスク合意」をロシアが一方的に破棄し、再び22年2月にウクライナ侵攻に踏み切った前例があるためだ。

中国外務省が24日に発表した仲裁案ではロシアとウクライナの双方に「停戦」を呼びかけ、対話を求めた。「ウクライナ危機の政治解決に関する中国の立場」と題する文章は合計12項目で構成し、「戦闘の停止」に力点を置く。国際社会が和平に向けて協力すべきだと指摘し、中国も関与を深める構えを示す。

欧州も疑心を抱く。北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長は24日、訪問先のエストニアで「中国は信用されていない」と断言した。ロシア寄りとされる中国は仲介役にはふさわしくないとの立場を明確にした。欧州連合(EU)のフォンデアライエン欧州委員長も同調した。

米国は中国が軍事転用できる部品をロシアに輸出していたと断定し、新たに殺傷力のある武器支援を検討していると分析する。ブリンケン氏は24日の米CBSテレビのインタビューで中国がロシアへの軍事支援を実行した場合の対応について「可能な制裁措置はいくつもある」と警告した。詳細は明かさなかった。

18日にドイツ南部ミュンヘンで会談した中国外交担当トップの王毅(ワン・イー)氏に、支援を実行すれば「米中関係にとって深刻な問題になる」と伝えたと改めて強調した。

ドイツ有力誌シュピーゲルは24日までに、中国企業がロシア軍に無人機(ドローン)を売却し、ロシアが自国で量産できるように部品や技術の供与も計画していると報じた。35〜50キログラムの弾頭を搭載でき、早ければ4月までに100機を納入する交渉が進められているもようだ。

中国外務省は24日、ドローン売却計画を「聞いたことがない」などと主張した。米政府は中国がロシアに殺傷力のある武器供与を検討している具体的な証拠を提示するため、機密情報を解除する可能性を探っているもようだ。』

ウクライナ大統領、中国の仲裁案に一定の評価

ウクライナ大統領、中国の仲裁案に一定の評価
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR24CK10U3A220C2000000/

『【リビウ(ウクライナ西部)=田中孝幸】ウクライナのゼレンスキー大統領は24日、同国へのロシアの侵攻開始から1年の節目に首都キーウ(キエフ)で記者会見した。戦闘の終結に向けた中国独自の仲裁案に関し「国際法の尊重や領土保全(の原則)と合う考えがある。この点で中国と協力しよう」と述べ、一部は評価できるとの見方を示した。

仲裁案は具体的な和平の計画ではなく「いくつかの考え方」にすぎないとも指摘。中国が仲介に前向きなことを歓迎しつつも、ウクライナ全土からのロシア軍の撤退を含まない和平案は受け入れない方針を重ねて表明した。

中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席との会談にも前向きな考えを示した。同時に「中国がロシアに武器を供与しないと信じている。これは私にとって極めて重要なことだ」と強調。ロシアへの軍事支援を控えるように求めた。

今後のロシアとの戦闘に関しては「支援国が課題をこなせば勝利できる」と指摘。西側各国に一層の軍事支援を呼びかけた。欧米がウクライナを見捨てた場合、ロシアが北大西洋条約機構(NATO)加盟各国にとって深刻な脅威になるとも強調した。

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G7首脳、声明でロシアを非難 第三国の支援停止求める

G7首脳、声明でロシアを非難 第三国の支援停止求める
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA247AM0U3A220C2000000/

『【この記事のポイント】
・G7首脳が対ロシア制裁強化とウクライナ支援を記した声明
・中国を念頭に、第三国のロシア支援の停止求める
・日本は新たに55億ドルの財政支援を表明

主要7カ国(G7)首脳は24日、ロシアによるウクライナ侵攻から1年を迎えるのにあわせてオンライン会議を開いた。軍事侵攻を非難し、対ロシア制裁の強化とウクライナ支援の継続を記した首脳声明を出した。

ロシアへの武器提供を検討している可能性がある中国を念頭に、第三国のロシア支援の停止も訴えた。オンライン会議は岸田文雄首相が今年のG7議長国として初めて主催した。ウクライナのゼレンスキー大統領も参加した。

G7各国はロシア軍のウクライナ全土からの即時撤退を求めた。第2次世界大戦後、核兵器の使用がなかったことの重要性を強調した。

食料・エネルギーの供給不足などウクライナ侵攻を通じて生じた国際課題にG7が結束して対処する姿勢を明確にした。

日本は新たに55億ドル(7400億円程度)の財政支援を打ち出した。ロシアの個人・団体、金融機関の資産凍結や輸出禁止物資の拡大などの対ロシア制裁も示した。

首相はオンライン会議に先立ち記者会見し、ウクライナへの追加支援を表明した。農業の生産力回復へ同国産のトウモロコシなどの種子を調達し提供する。電力復旧へ10機程度の変圧設備や140台ほどの電力関連機材を供与する。

地雷の探知機や除去機、がれきを取り除く建機を送る。「日本の強みを生かしてウクライナに寄り添う」と述べた。

ゼレンスキー氏は24日に公表したビデオメッセージでロシア軍との1年の戦闘を振り返った。「我々は生き延び、負けることはなかった。今年は勝利するためにあらゆることをする」と語った。

中国外務省は24日、ウクライナ侵攻をめぐる独自の仲裁案を発表した。ロシアとウクライナの双方に停戦への対話を求め、中国が和平実現へ「建設的役割」を担うと主張した。

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話題書「エルドアンのトルコ」が描く強権国家への転換

話題書「エルドアンのトルコ」が描く強権国家への転換
世界の話題書・ロンドン発
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR180ND0Y3A210C2000000/

『トルコはわかりにくい。北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だが対ロシア制裁には後ろ向き。強権的だが人権を重んじる欧州諸国との決定的な対立は避ける。トルコはどこへ向かうのか。

穏健な民主主義から強権へ。親欧州から西側社会と距離を置く国粋主義へ。本著『エルドアンのトルコ(Turkey Under Erdogan)』は、なぜトルコという国家が変質したのかを現代史を踏まえながら解き明かしていく。

まず首…

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『まず首相、次は大統領と過去20年にわたって政治の中心にいたエルドアン氏が「トルコの転換」をもたらしたのは間違いない。だが著者の英オックスフォード大学講師のディミタル・ベチェフ氏によれば変化の兆しは、かなり前からあったという。

トルコは一時、欧州連合(EU)の一員になることに情熱を傾けたが、いま加盟交渉は停滞している。野党を締め付け、人権を軽んじればEUには入れない。

イスラム圏を見下すような欧州勢への反発だけが理由ではないようだ。「西側の辺境」になるよりも「地域大国」になることを選んだ新オスマン主義の原点は1980〜90年代の積極的な周辺国外交にあると本著は指摘する。中東やバルカン諸国、南コーカサスの要でありたいというのは、かつてのオスマン帝国への郷愁にみえる。

老練な大衆迎合主義者(ポピュリスト)のエルドアン氏の巧妙な人心掌握術もトルコを変えた。空港や高速道路などのインフラを整備し、経済的な豊かさをもたらして有権者の不満が爆発しないようにコントロールする。欧米と対話を続け、時には難民問題で協力して現実主義者であることをみせる。

選挙で選ばれた強権体制はいつまで持つのか。本著はエルドアン政権下の「新しいトルコ」はしばらく続くと予想する。仮にそうなら近代化を進め、なお建国の父と国民から慕われるアタチュルク初代大統領を超える存在感を示すかもしれない。

足元ではトルコ南部の大地震が政治にどう影響するか見極めが必要だろう。果たして大統領選は予定通り5月に行われるのか。エルドアン大統領は再選されるのか。

行方は世界秩序に大きな影響を与えることになりそうだ。ロシアはトルコ政治に注意を払う。エルドアン大統領が負け、トルコが親欧米・民主主義路線に戻ればロシアのプーチン体制にとって痛撃。ウクライナの戦況も大きく変わる。

(赤川省吾)

【世界の話題書】

・オバマ夫人のベストセラー 不確実な時代の人生訓
・「善人が治める」国の行方 分断進むタイを分析
・温暖化が迫る変化 ドイツのリアル描くベストセラー 』

〔スキャナ問題、解決した…。〕

 ※ と言うか、「自分のせい」という話しだった…。

 ※ オレは、「昔人(むかしびと)」だから、スキャナと言うと、「フラットベッド」しか、知らんのよ…。

 ※ それで、必死で、コンパネの「ハードウェアとサウンド」→「デバイスとプリンター」→「デバイスの追加」なんか、調べるわけよ…。

 ※ しかーしだ…。

 ※ この製品は、Windowsからは、「カメラ」扱いなのよ…。

 ※ つまり、「カメラ」で、「写真」画像を撮影して、それをソフトウエアで加工して、「白黒画像」に変換する…、という製品なわけだ。

 ※ だから、「設定」 →「プライバシーとセキュリティ」に行って、「アプリのアクセス許可」→「カメラ」を調べるべきだったんだ…。

 ※ そこの、「デスクトップアプリがカメラにアクセスできるようにする」を「オン」にしておかないと、Windows自体が、ソフトが「カメラ」機能を使うことを、「拒否する」というわけだ…。

 ※ そーゆー「お粗末」な、お話し…。

 ※ まあ、「さっぱりスキャンしてないじゃん。それで、スキャナーを名乗れるのか!」という突っ込みは、入れられると思うけどな…。

 ※ 説明書きには、そういう「記述」は、一切なし…。