沿ドニエストル共和国

沿ドニエストル共和国
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※ 今日は、こんな所で…。

『トランスニストリア(Transnistria)、沿ドニエストル(えんドニエストル、Transdniestria、Pridnestrovie)、公式には沿ドニエストル・モルドバ共和国[1](えんドニエストル・モルドバきょうわこく、ロシア語: Приднестровская Молдавская Республика; モルダヴィア語: Република Молдовеняскэ Нистрянэ[注釈 1]、ウクライナ語: Придністровська Молдавська Республіка)は、東ヨーロッパにある事実上の独立国家。モルドバ東部を流れるドニエストル川と、モルドバとウクライナの陸上国境とに挟まれた南北に細長い地域に位置する。首都はティラスポリ。ロシア連邦の支援を受けているものの、国際的にはほとんど承認されておらず、モルドバの一地域として広く認識されている。

本記事では原則として、事実上の独立国家については「沿ドニエストル(共和国)」、地理的な範囲については「トランスニストリア」と呼ぶこととする。

概要

沿ドニエストル共和国は、独自の政府、議会、軍隊、警察、郵便制度、通貨、車両登録を有する。また、独自の憲法、国旗、国歌、国章を承認している。2022年時点、国旗において旧ソビエト連邦の国旗にあった「鎌と槌」を採用している唯一の国である。

モルドバとドニエストル左岸地域の未承認国家(沿ドニエストル共和国)の間で1992年に勃発したトランスニストリア戦争は、ロシアの支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、同国による実効支配が続くこととなった。以後、この地域には「平和維持軍」と称したロシア連邦軍の駐留が続いており、モルドバの実効支配は及んでいない。

沿ドニエストル共和国は、アブハジア、アルツァフ、南オセチアの、国際的にほぼ承認されていない3つの国家にしか承認されていない[2]。国際的には当地域はモルドバの一部と認められており、モルドバは当地域を、特別な法的地位を有する自治地域ドニエストル左岸行政区画(ルーマニア語: Unitățile Administrativ-Teritoriale din stînga Nistrului)と定めている[3][4][5][6]。

国名
「en:Names of Transnistria」を参照

沿ドニエストル共和国は、ロシア語、モルドバ語、ウクライナ語を公用語としており、それぞれの語による正式名称が存在する。正式名称と略称、省略形は以下の通りである。

自称であるため、どの名称においても「~の向こう側」を表す「トランス」という表現は含まれていない。

なお、沿ドニエストル共和国で用いられる「モルドバ語」は実質的にルーマニア語と同じであるが、表記にはキリル文字が用いられる。

正式名称    ラテン文字転写

ロシア語 Приднестровская Молдавская Республика (ПМР) Pridnestrovskaya Moldavskaya Respublika
モルドバ語 Република Молдовеняскэ Нистрянэ (РМН) Republica Moldovenească Nistreană
ウクライナ語 Придністровська МолдавськаРеспубліка (ПМР) Prydnistrovska Moldavska Respublika

また、略称は以下のとおりである。
略称 ラテン文字転写
ロシア語 Приднестровье Pridnestrovie
モルドバ語 Нистрения Nistrenia
ウクライナ語 Придністров’я Prydnistrovia

日本語では、沿ドニエストルまたはトランスニストリアが用いられるが、これらはロシア語名称「Приднестровье」(「ドニエストル川沿い」の意)および、ルーマニア語名称「Transnistria」(「ドニエストル川の向こう」の意)に由来している[7]。Transnistriaという語は、1989年、モルドバ人民戦線のメンバーであるモルドバ人代議士レオニダ・ラリの選挙スローガンの中で使われたのが最初である[8][9][10]。

一方、モルドバ政府は、この地域を「Unitățile Administrativ-Teritoriale din Stînga Nistrului(ドニエストル左岸行政区画)」と規定している。

国際機関ではトランスドニエストル (Transdniester) という呼称が用いられる。略称はПМР(PMR)で、ロシア語の名称「Приднестро́вская Молда́вская Респу́блика」(Pridnestrovskaya Moldavskaya Respublika、沿ドニエストル・モルドバ共和国)に由来する。

歴史
詳細は「en:History of Transnistria」を参照

古代

この地域にはトラキアやスキタイの部族が住んでいた。紀元前600年頃、ドニエストル川の河口近く(現在のウクライナ領ビルホロド=ドニストロフスキー)にティラス(Tyras、ドニエステル川の古代名)という古代の植民都市が築かれた。4世紀にはゴート族が黒海沿岸部のティラスとオルビア(Olbia)を征服した。ゴート族はドニエストル川の両岸に分かれて居住し、後にそれぞれ西ゴート族と東ゴート族と呼ばれることとなった。

古代末期、ビザンティン帝国は、破壊されたティラスの領域に城砦都市を建設し、アスプロカストロンと名づけた。その後オスマン帝国の侵攻を受けた際、この都市の住民の一部がドニエストル川上流に逃れて小さな集落を形成し、これが後のティラスポリとなった[11]。

中世

6世紀には、トランスニストリアに南スラヴ人を含む様々な民族と文化が到達した。東スラヴ系民族も住んでいた可能性があるが、テュルク系民族に北に押しやられた[12]。

10世紀にはこの地域にルーマニア系民族が住んでいたことが『原初年代記』に記されている[12]。

11世紀頃にはキエフ大公国の支配下に入ったこともあった[12][13][14]。

14世紀にはジェノヴァ共和国の支配下に置かれ、対外貿易の拠点となった。

14世紀中頃に成立したモルダヴィア公国は、14世紀末までにドニエストル川まで版図を広げたが、その向こう側(トランスニストリア)に支配が及ぶことはなかった。

15世紀には正式にリトアニア大公国の一部となった。この頃、現在のモルドバの大部分がオスマン帝国の支配下となったが、トランスニストリアの大部分は1793年の第二次ポーランド分割までポーランド・リトアニア共和国の一部であった。一方トランスニストリアの南部はオスマン帝国の支配下にあった。

ロシア帝国時代

1792年、トランスニストリア南部がオスマン帝国からロシア帝国に割譲され(ヤッシーの講和)、1793年の第二次ポーランド分割で北部が編入された。ロシアはトランスニストリアを「新モルダヴィア」と名付け、新しい公国としてロシアの宗主権下に置くと宣言。人口もまばらであったこの土地に大規模な植民を行った。西の国境であったこの一帯を防衛する意味もあり、多くのロシア人やウクライナ人が移住した。モルダヴィアの農民には非課税の土地が分配され、植民地化を支援することになった。

1812年にロシアはベッサラビアを併合し、トランスニストリアは国境地帯ではなくなった。

第一次世界大戦中、ドニエストル川以西のルーマニア語話者の代表者は、1917年から1918年にかけてベッサラビア民族運動に参加し、彼らの領土を大ルーマニアに編入することを要求した。しかし、ルーマニアは大規模な軍事介入を必要としたため、彼らの要求を無視した[13]。

1918年の第一次世界大戦の終結時、ウクライナ人民共和国のディレクトーリヤはドニエストル川の左岸地域に対する主権を宣布した。

ロシア内戦後の1922年、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(ウクライナSSR)が誕生した。

ソビエト連邦時代

1924年、ベッサラビアの軍事指導者グリゴレ・コトフスキーが、モルダビア自治州の設立を提案した。その後ウクライナSSR内のドニエストル川とブク川の間の領域モルダビア自治州が設立され、同年10月、モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアASSR)として昇格させた[13]。これがトランスニストリア自治領の地政学的構想の始まりである。当時はルーマニア人が住民の大部分を占めており、ルーマニア語で教える学校も開校した。

1927年、ティラスポリやその他の都市で、農民や工場労働者がソビエト連邦当局に対して大規模な暴動を起こしたが、モスクワから派遣された軍隊により鎮圧された。アメリカ合衆国の特派員は、約4000人の死者が出ていると述べたが、クレムリン(ソ連中央政府)の公式報道機関によって完全に否定された[15]。

1920年代から1930年代にかけて、何千人ものルーマニア系のトランスニストリア住民がルーマニアに逃れ、ルーマニア政府は彼らの住居と教育のために特別な基金を設立した。1935年の推定では、難民の数は20,000人とされた[13]。

スターリン政権下では、ウクライナ人、ロシア人、ルーマニア人以外の住民はロシア化を迫られた。ごく初期には自由があったものの、やがてそれを過ぎると、ソビエト連邦内のポーランド人のような集団は、嫌がらせや放逐、集団テロにさらされるようになった。1937年から38年にかけて行われた内務人民委員部のポーランド作戦や、モルダヴィアASSRにおける非ルーマニア人に対する母国語での教育が廃止されウクライナ語[要出典]やロシア語に置き換えられるなど、この傾向は1930年代末にさらに強まった。

民族単位の自治体設立は当時のソ連の一般的な政策であったが、モルダヴィアASSRの設立により、ソ連はベッサラビアに対する領有権も強化することを目指した。ソ連当局はキシナウを「一時的に占領された都市」と呼び、これをモルダヴィアASSRの実質的な首都と宣言した。当時のモルダヴィアASSRの人口は、ウクライナ人48%、ルーマニア・モルダビア人30%、ロシア人9%、ユダヤ人8.5%であった。

1940年、ソビエト連邦はルーマニアに対し、ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲、および軍隊の4日以内の撤退を要求する最後通牒を出した[16]、ルーマニア政府はこれに応じた[17]。

第二次世界大戦

第二次世界大戦中の1940年8月2日、ソビエト連邦最高会議は、モルダヴィアASSRを解散し、その最西端6ラヨンと、ルーマニアから取得したベッサラビアの一部からモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)を編成することを全会一致で承認した[13][18]。モルダヴィアSSRの90%は、1940年以前にソビエト連邦とルーマニアの国境であったドニエストル川の西側にあり、10%は東側にあった。1940年6月にソ連がルーマニアから得た領土のうち、民族的に異質な北部と南部(現在のチェルニウツィー州とブジャク)はウクライナSSRに譲渡された。戦略上重要な黒海沿岸とドナウ川の間口は、ルーマニアが訴求しうるモルダヴィアSSRよりも信頼できるウクライナSSRに与えられることとなった[13]。

1941年夏、ルーマニアはナチス・ドイツのソ連侵攻(独ソ戦)に参加。ルーマニアはドニエストル川と南ブーフ川の間の地域を占領し、オデッサを地方首都とした[19]。この拡大されたトランスニストリアはトランスニストリア総督国(ルーマニア語:Guvernământul Transnistriei)と呼ばれた。1941年から44年のルーマニアによる占領期間中、15万人から25万人のウクライナ人とルーマニア人のユダヤ人がトランスニストリアに追放され、大多数は総督府のゲットーや強制収容所で処刑または他の原因によって死亡した[20](ホロコースト)。

1944年、ソ連軍はドイツやルーマニアなど枢軸国をモルダヴィアから駆逐した(ヤッシー=キシナウ攻勢)。トランスニストリアに住む何千人ものルーマニア人やヴラフ人がその数ヶ月の間に殺されるか、その後の数年間に収容所へと強制送還された[21]。

モルダヴィアSSRは、組織的なロシア化政策の対象となった。キリル文字がモルダヴィア語の公式な文字とされた。後にソ連最高指導者となるレオニード・ブレジネフが1950年代初めにモルダヴィアで共産党第一書記を務め、ヨシフ・スターリンの意を受けてロシア化(ソ連化)を進めた[1]。モルダヴィアSSRに建設されたほとんどの工業はトランスニストリアに集中しており、モルダヴィアの他の地域は農業中心の経済であった。

ソビエト連邦崩壊・モルダヴィアSSR

1950年代から1980年代にかけては、モルドバの独立主義は抑えられていた。しかし1980年代、ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカ政策により、ソビエト連邦は地域レベルでの政治的自由化が進んだ。この不完全な民主化は、排他的な民族感情が政治勢力として力を得る契機となった。当地域には多くのロシア人、ウクライナ人が居住していたが、こうしたモルドバ民族主義の昂揚に伴い、数々のモルドバ化政策(モルドバ語の唯一の国語化としての制定やルーマニアを模した国旗・国歌の制定)が打ち出されることとなった。

この新しい政策への不満は、ティラスポリなどスラブ系住民が多数を占める都市部であるトランスニストリアでより目に見える形で表れた。東部のティラスポリでは保守派が、キシナウでは共産党がモルダヴィアをソ連内にとどめようとし、内戦を繰り返しながら独立を目指していた。

1989年8月31日にモルドバ最高会議がモルドバ語を公用語として採用し、ロシア語は副次的な目的にのみ使用することを採択した。さらにモルドバ語をソ連時代のキリル文字からラテン文字に戻すこと、モルダヴィアSSRとルーマニアの言語的アイデンティティの共有を宣言した。モルダヴィアSSRのスラブ系住民によって設立されたイェディンストヴォ(統一)運動は、ロシア語とモルドバ語の両方に同等の地位を与えるよう迫った[22]。しかしトランスニストリアにおける民族・言語構成はモルダヴィアSSRの他の地域とは大きく異なっており、ロシア人とウクライナ人の割合が特に高く、モルドバ人の一部も含め、全体的にロシア語を母語とする者が多かった[23]。

1990年6月、モルダヴィアSSRはソビエト社会主義共和国・モルドバ(SSR Moldova)への国名変更を行い、6月23日に主権ならびに共和制を宣言した。これに対して、同年9月2日、ドニエストル川左岸のロシア語系住民がティラスポリで臨時国会を開催し、「沿ドニエストル・モルダビア・ソビエト社会主義共和国」(Pridnestrovian Moldavian Soviet Socialist Republic、沿ドニエストルSSR)の創設を宣言してモルドバからの分離を目指した[24]。

事態がさらにエスカレートするのを防ぐため、当時のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは、モルダヴィアSSRによる少数民族の市民権の制限を紛争の原因として挙げながらも、沿ドニエストルSSRの宣言が法的根拠を欠いているとし、1990年12月22日に大統領令でそれを無効とした[25][26]。それでも実質的な行動は取られず、沿ドニエストルSSR当局は徐々に地域のコントロールを確立していくことが出来た。

1991年8月のソ連のクーデター未遂ののち、8月25日、沿ドニエストル最高会議が、「沿ドニエストル地域の独立に関する宣言」を採択し、ソ連からの独立を宣言した。

独立とモルドバとの戦争

詳細は「トランスニストリア戦争」を参照

1991年11月5日にトランスニストリアは社会主義思想を放棄し「沿ドニエストル共和国」と改称された[27]。

1992年5月、旧モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の領土をめぐり、モルドバと沿ドニエストル共和国の間でトランスニストリア戦争が勃発した。戦争はロシア連邦の支援を得た沿ドニエストル共和国が勝利し、ドニエストル左岸地域の大部分に対して、沿ドニエストル共和国による実効支配が続くこととなった。7月、和平協定が締結され、ロシア連邦、モルドバ、沿ドニエストル合同の平和維持軍(英語版)(Joint Control Commission, JCC)によって停戦監視が行われることとなった。以後、停戦は保たれているが、この地域の法的地位は未解決のままで、「凍結された紛争」となっている[1]。

2006年の住民投票

2006年7月12日、旧ユーゴスラビアでのモンテネグロ独立に影響を受けた沿ドニエストル共和国議会は、独立を放棄しモルドバへの編入を希望するか、独立を維持し将来的にロシアに編入するかを問う住民投票を行うことを決めた。投票は同年9月17日に実施され、前者案件は圧倒的多数で反対、後者案件は圧倒的多数で賛成の結果となった[28][29]。一方、モルドバのヘルシンキ人権委員会は当日現地に出向き出口調査等独自で監視を行っており、当局によって発表された70%を超えるという投票率に対し実際には10%から30%程度しか確認できなかったこと、結果に関しても少なくとも2-3倍に水増しされたか全く捏造された不公正な投票である可能性が高いと発表した。また、選挙当日には投票に行かない者を選挙後にルーマニアに強制的に移住させるという脅し文句で投票を強制させていたこと、過去にボイコットを行った反体制的国民は有権者のリストから除外されていること、公安や軍人がガードをしており投票所の近くに監視員が近づけないようにしていた投票場があったこと、また彼らが投票結果を改竄していたことなどを報告した[30]。

欧州安全保障協力機構、欧州連合、GUAMなどの国際機関やいくつかの国家(ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、セルビア、マケドニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ノルウェー、アイスランド)はこの住民投票を認めない立場をとった[31][32][33]。欧州評議会においてはロシアのみがこれを認める立場をとった。同様の住民投票は数回にわたって行われているが、実際の影響力、ましてや拘束力は乏しいものといえる。

2014年のクリミア危機によって成立したクリミア共和国が、ロシアへの編入を求め、承認されたことを受けて、沿ドニエストル共和国政府は再びロシア下院に対してロシア連邦への編入を求めた[34](「ロシアによるクリミアの併合」参照)。

2022年のロシアのウクライナ侵攻

2022年にはウクライナとロシアの関係が緊迫し、ロシアが国境に軍を集結させてウクライナに侵攻した。このことによりウクライナに面し、ロシア連邦軍が駐留する沿ドニエストル共和国の軍事的な存在感が注目されるようになった[35]。ロシア中央軍管区副司令官のルスタム・ミネカエフは4月22日、ウクライナ南部制圧が任務の一つであり、それを達成すれば「ロシア語を話す人々が抑圧されている」沿ドニエストルへのアクセスが確保できるとインタファクス通信やタス通信に語った[36]。

沿ドニエストル共和国側からモルドバにロシア軍が侵攻するリスクが高まったとする報道もみられた[37]。

同年4月25日、ロシア国営通信は首都ティラスポリにある国家保安省の建物周辺で爆発音が相次いだと報じた。これに対しロシアと交戦中のウクライナ国防省は、複数回の爆発はロシア連邦保安庁の自作自演による計画的な挑発行為との見解を示した[38]。

5月14日、ウクライナ軍参謀本部は、トランスニストリアでは、武装集団が通常の活動モードに移行している一方、同地域に駐留するロシアの作戦部隊は、引き続き厳戒態勢を敷いていると発表した[39]。

政治

イーゴリ・スミルノフ
「en:Transnistrian Declaration of Independence」を参照

沿ドニエストル共和国は大統領制の共和制国家である。大統領は直接選挙で選ばれ、最長で連続2期5年まで務めることができる。現在の大統領はワジム・クラスノセリスキーである。

長くイーゴリ・スミルノフによる統治が続いたが、2011年には選挙による政権交代が実現しエフゲニー・シェフチュクが大統領となった。議会や企業グループシェリフ(ロシア語版)、さらには駐留ロシア軍(約2000人[40])、ロシア資本の意向も絡まり、一概には独裁体制と言えない政治状況にある[要出典]。

沿ドニエストル共和国の議会は一院制である。43名の議員から構成され、任期は5年。選挙は複数政党制で行われる[41]。共和政党「刷新」は、2005年の選挙でイーゴリ・スミルノフの所属する共和国党を破って第一党となり、以降2010年と2015年の選挙でもさらに議席を増やしている。

選挙が自由で公正であるかどうかについては意見が分かれている。2006年の大統領選挙の際、野党候補のアンドレイ・サフォノフの登録が投票の数日前までなされず、選挙活動がほとんどできなかった[42][43]。選挙結果が疑わしいとする資料もあり、2001年の選挙では、ある地方でイーゴリ・スミルノフが103.6%の票を集めたと報告されている[44]。

モルドバ本土と自由な往来が可能であり[40]、モルドバの中央選挙管理委員会は、沿ドニエストル共和国の住民がモルドバ政府の支配地域に来れば、モルドバの国政選挙への投票が可能であるとの見解を示している[45]。

2000年の初めに野党のナロドブラスティ党と民衆への力運動が非合法化され、最終的に解散した[46][47]。

1940年代から1960年代のソビエト連邦のような政治文化が街中に色濃く残っているが、2代目大統領シェフチュクによる自由化の流れも見られる。軍事、経済をロシアに頼っており、欧米寄りのモルドバに対してロシア寄りの政策を採っている。

外交

沿ドニエストル共和国とアブハジア、アルツァフ、南オセチアは、ソ連崩壊後の「凍結された紛争(英語版)」地帯である[48][49]。これら4つの、いずれも国際的にほぼ承認されていない国家は互いに友好な関係を維持しており、2006年6月14日、アブハジアの首都スフミでアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル共和国の大統領が会談し、民主主義と民族の権利のための共同体の設立を発表した[50][51][52]。2007年にはアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ)も参加している。沿ドニエストル共和国は、これらの国際的にはほとんど国家として承認されていない3カ国との相互承認を行っている。

ロシアは約2000人[40]あるいは約1500人[1]の兵力を駐留させ、天然ガスを無償で供与し、実質的に支援している[45]。

軍事

「沿ドニエストル共和国軍」および「在モルドバ共和国沿ドニエストル地域ロシア軍作戦集団」も参照

沿ドニエストル共和国には約1500人[45][1]ないし約2000人[40]と推定されるロシア連邦軍が駐留するほか、独自の軍事力を持つ。北部のコバスナ村にあるロシア軍の武器・弾薬庫は欧州最大級と報道されており、日本の『産経新聞』の斎藤勉が2001年に現地を訪問し、武器・弾薬庫の直接取材は軍事機密として拒否されたものの、当時のモルドバ大統領ウラジーミル・ヴォローニンが備蓄されている兵器・弾薬を4万トンと語っていたという[1]。

沿ドニエストル共和国軍と準軍事組織は2007年時点で約4,500人から約7,500人の兵士により構成されていると見られる。ティラスポリ、ベンデル、ルィブニツァ、ドゥベサリの4つの自動車化歩兵旅団を主力としている[53]。また陸軍は18輌の戦車、107輌の装甲兵員輸送車、73門の野砲、46の対空施設、174の対戦車兵器を保有している、空軍は、9機のMi-8Tヘリコプター、6機のMi-24ヘリコプター、2機のMi-2ヘリコプターの他、固定翼機としてAn-2、An-26、Yak-18などを保有している[54][55]。

2022年ロシアのウクライナ侵攻後、沿ドニエストル共和国は中立的な状況を維持すると宣言し、ウクライナへの攻撃を支援するという主張を否定した。しかし、3月上旬、アメリカ合衆国上院のマルコ・ルビオ議員は、沿ドニエストル共和国による紛争関与は明白な証拠なしに行われる可能性を示唆した。

2022年ロシアのウクライナ侵攻開始直後の4月、ロシアは沿ドニエストルにおいてロシア語を話す人々が抑圧されている証拠があると述べ[36]、軍事介入を示唆した。

ロシア軍駐留問題

1992年のモルドバと沿ドニエストル共和国の停戦協定により、ロシアの平和維持軍の駐留が認可され、現在1200人のロシア軍が沿ドニエストル共和国に駐留している。沿ドニエストル共和国以外のモルドバ領内にソ連時代から駐留していたロシア軍は、1993年1月までにロシアに完全撤退した。

1994年10月、モルドバとロシアの間で3年以内のロシア第14親衛諸兵科連合軍の撤退合意が成立したが[56]、ロシア側は議会批准が終了していないとして事実上棚上げとなっていた[57]。

1995年4月、第14親衛諸兵科連合軍は在モルドバ共和国沿ドニエストル地域ロシア軍作戦集団に編成された。2010年代には2個大隊、1,500人以下の兵力に縮小された。

1999年、OSCEイスタンブール首脳会議において、2002年末までに沿ドニエストル共和国駐留ロシア軍の兵器弾薬類の完全撤去が義務付けられたが[58]、沿ドニエストル共和国側の抵抗等もあり撤退が進まず、2002年12月のOSCE外相理事会においては撤退期限が2003年末まで延長された。しかし右期限も守られず、それ以降も撤収は遅々として進んでいない。
2004年12月、モルドバ外務大臣アンドレイ・ストラタンは、第12回欧州安全保障協力機構(OSCE)閣僚理事会での演説で、「モルドバの領土におけるロシア軍の存在は、モルドバ当局の政治意思に反し、モルドバ当局によって国家の領土に違法に展開した外国軍の占領と認定され、国際規範や原則に違反している」と述べた[59]。

2007年の時点で、ロシア側は既にその義務を履行したと主張。残留している軍隊は1992年の停戦の下で認可された平和維持軍として奉仕しているためイスタンブール協定に違反しておらず、紛争が完全に解決されるまで残ることになる、と説明した[60]。

2008年11月18日の北大西洋条約機構(NATO)決議では、ロシアに対し、トランスニストリアから軍事力を撤退するよう促した[61]。

2009年3月、ロシア連邦大統領ドミートリー・メドヴェージェフ、モルドバ大統領ウラジーミル・ヴォローニン、トランスニストリア大統領イーゴリ・スミルノフによる三者会合が行われ、既存の平和維持活動の安定的な役割に留意しつつ、トランスニストリアで和解が成立した暁には、OSCEの監督下での平和保証活動に移行することが望ましいとする共同宣言が署名された[62]。

2012年3月に就任したニコラエ・ティモフティ大統領は、モルドバの合意なしに不法にモルドバ領内に駐留しているロシア軍は撤退するべきであるとして[63][64]、トランスニストリア地域に展開する「平和維持部隊」は国際委任統治下の文民ミッションへ変更させるべきである旨度々発言している。

モルドバは停戦協定で認可された兵士は500人未満であると考えており、2015年には、モルドバの空港を利用しようとする員数過剰のロシア兵を逮捕、国外追放し始めた[65]。ロシア兵が沿ドニエストル共和国に向かうには、キシナウ国際空港からティラスポリまで陸路で移動する必要がある。モルドバは長年、ロシア軍将校や兵士が空港を経由して沿ドニエストル共和国に向かうことをほぼ認めてきたが、国際平和維持軍であることが明確でない者や、十分な事前通告がない者は、空港使用を拒否することもあった。キシナウ空港は、平和維持軍の職員、将校、兵士の移動の可能性にしか応じない可能性が高い。第14衛兵軍の兵士の通過は違法となる[66]。

2016年6月27日、沿ドニエストル共和国で新しい法律が施行され、マスメディア、情報通信ネットワーク、インターネットの利用を含め、沿ドニエストル共和国・モルドバ共和国におけるロシア軍の平和維持活動を批判する行為や公の発言、あるいはロシア軍の平和維持活動に対する沿ドニエストル共和国政府によって「偽」とみなされる解釈を提示することを罰することになった[67]。

地理

沿ドニエストル共和国の地図

モルドバ共和国のドニエストル川東岸からウクライナとの国境までの南北に細長い地域を主な領土としている。なお、川は直線ではなく蛇行しており、ウクライナとの国境は直線でジグザグした部分も多い。

しかし、全ての領土(実効支配地域)が東岸にあるわけではない。例えば、沿ドニエストル共和国が実効支配しているベンデルはドニエストル川西岸に位置している。一方、東岸にあるコシエリ(英語版)という都市はモルドバ共和国の実効支配下にある。また、中部のドゥボッサールィ地区(モルドバ語名ドゥベサリ)ではモルドバ共和国の実効支配地域が大きく食い込んでおり、分断されているところもある。なお、その分断地域(モルドバ共和国実効支配地域)を横切る道路(沿ドニエストル共和国の南北間を結ぶ)は、沿ドニエストル共和国領となっているためモルドバ共和国の飛地が存在する。

ドゥベサリ付近の地図
緑がモルドバ共和国の実効支配地域、紫が沿ドニエストル共和国の実効支配地域。

緑がモルドバ共和国の実効支配地域、紫が沿ドニエストル共和国の実効支配地域。
沿ドニエストル共和国の中での位置。

沿ドニエストル共和国の中での位置。
モルドバの中での位置。

モルドバの中での位置。

地方行政区分

「沿ドニエストル共和国の行政区画」も参照
地方行政区分
地区
地区 (район) 中心地
カーメンカ地区(ロシア語版) カーメンカ(ロシア語版)
ルィブニツァ地区(ロシア語版) ルィブニツァ
ドゥボッサールィ地区(ロシア語版) ドゥボッサールィ
グリゴリオポリ地区(ロシア語版) グリゴリオポリ(ロシア語版)
スロボゼヤ地区 スロボゼヤ(ロシア語版)
共和国級市

ティラスポリ (Тирасполь):首都
ベンデル (Бендеры)

国民

2015年の主要な民族集団はロシア人(34%)、モルドバ人(33%)、ウクライナ人(26.7%)、およびブルガリア人(2.8%)であった。

ほとんどのトランスニストリア人はモルドバ市民権も持つが[68]、トランスニストリア人の約半数はロシア連邦の国籍を持ち[40]、ウクライナ市民権を有する住民もいる。

1990年代の経済低迷により移民する人が多く、1989年に546,400人だったこの地域の人口は、2001年には633,600人までに増加した。ただ、年齢構成が高齢傾向にある。2015年の推計人口は475,665で2004年と比べ7万人以上減少した[69]。

経済

第二次世界大戦後、トランスニストリアは重工業化され、1990年には、モルドバの人口の17%しか占めていないにもかかわらず、モルドバのGDPの40%と電力の90%を担っていたほどであった[70]。ソ連崩壊後、トランスニストリアは「ブレジネフ式計画経済」への復帰を望んだが[71]、数年後、市場経済へ向かうことを決定した。

1990年代後半に行われた大規模な民営化により、現在ではほとんどの企業が民営化されている[72]。

沿ドニエストル共和国は独自の中央銀行である沿ドニエストル共和国銀行を持ち、自国通貨である沿ドニエストル・ルーブルを発行している。この通貨は自由変動相場制で兌換可能であるが、沿ドニエストル共和国内でしか使用できない。

沿ドニエストル共和国の経済はしばしば密輸[73]と武器輸出に依存していると言われている[74][75][76]。これらの疑惑は共和国政府によって否定されており、ロシアやウクライナ当局からも重視されていない[77]。

マクロ経済

2004年、沿ドニエストル共和国は12億米ドルの債務(3分の2はロシアに対するもの)を抱えており、一人当たりでは(沿ドニエストル共和国を除いた)モルドバの約6倍であった[78]。2007年3月には天然ガス獲得のためのガスプロムへの債務が13億米ドルに増加した。2007年3月22日、ガスプロムは沿ドニエストル共和国に対するガス債権を、共和国最大企業であるモルドバ鉄工所を経営するロシアの実業家アリッシャー・ウスマノフに売却した。沿ドニエストル共和国大統領イーゴリ・スミルノフは、「沿ドニエストル共和国にはガスプロムに対する法的債務がない」ため、ガス債務を支払わないと発表した[79][80]。2007年11月、沿ドニエストル共和国の公的部門の債務総額は最大16億4000万米ドルであった[81]。

2007年の沿ドニエストル共和国最高評議会の当時の議長であるエフゲニー・シェフチュクのインタビューによると、沿ドニエストル共和国は困難な経済状況にある。2007年に30%の増税が行われたにもかかわらず、年金基金は依然として資金不足であり、緊急措置が必要とされた[82]。しかしシェフチュクは、危機といっても年金と給与の支払いが3ヶ月遅れることを意味するので、状況は絶望的ではなく、危機とは見なされないと述べた[83]。
共和国政府によると、2007年のGDPは6789億沿ドニエストル・ルーブル(約7億9900万米ドル)、一人当たりGDPは約1500米ドルであった。2007年のGDPは11.1%増加し、インフレ率は19.3%で、一人当たりのGDPは2140ドルとなり、モルドバの一人当たりのGDP2040ドルより高い。2007年の共和国政府予算は2億4600万ドルで約1億ドルの推定赤字であり[84]、政府は民営化による収入でカバーしようとした[85]。2008年の予算は3億3100万ドルで約80百万の推定赤字であった[86]。

対外貿易

貿易は約80カ国との間で行われている[45]。

2000年代初頭、輸出の50%以上が独立国家共同体(CIS)、主にロシア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ(沿ドニエストル当局が外国とみなす)へも渡った[87]。旧ソ連構成国の一部で組織する独立国家共同体(CIS)以外の主な市場はイタリア、エジプト、ギリシャ、ルーマニア、ドイツだった[88]。CISは輸入の60%以上を占め、EU諸国のシェアは約23%だった。主な輸入品は非貴金属、食料品、電気であった。

沿ドニエストル共和国は輸入超過が続いている。2012年、輸入額が輸出額の2.5倍であった。この差は、特に農業において顕著で、2003年に7000万米ドルだった食料輸入は、2011年には1億9850万米ドルにまで増加した。食料輸入の急増は、この国の農業が非効率であることの証左でもある[89]。

2014年にモルドバがEUと連合協定を締結した後、モルドバの一部と主張される沿ドニエストル共和国は、EUへの無関税輸出を享受した。その結果、2015年には沿ドニエストル共和国の1億8900万米ドルの輸出のうち27%がEU向けとなり、ロシア向けの輸出は7.7%に減少した。このEU市場へのシフトは、2016年にも拡大し続けた[90]。2020年、沿ドニエストル共和国税関は6億3310万米ドルの輸出と10億5270万米ドルの輸入を報告した[91]。

トランスニストリア国境関税問題

2005年のモルドバとウクライナの合意により、沿ドニエストル共和国の企業は、モルドバの税関当局に登録すれば、輸出品にEUの貿易優遇措置を受けられるという新しい関税制度が導入された[92][93]。この合意はモルドバ・ウクライナ国境監視ミッション(英語版)(EUBAM)が実施された後に履行された[94]。

2006年3月3日、ウクライナは沿ドニエストル共和国との国境に新しい関税規則を導入した[95]。ウクライナは2005年12月にウクライナとモルドバの間で合意された共同関税議定書の実施の一環として、モルドバの税関で処理された書類のみを用いて沿ドニエストル共和国から商品を輸入することを宣言した。米国、欧州連合、OSCEはウクライナのこの動きを承認したが、沿ドニエストル共和国とロシアは、この行為を「経済封鎖」と呼んだ[96][97]。

3月4日、沿ドニエストル共和国はモルドバとウクライナの輸送を沿ドニエストル共和国の国境でブロックすることでこれに対抗した。沿ドニエストル共和国のブロックは2週間後に解除された。しかし、モルドバ・ウクライナのブロックは依然として残っており、双方の間の地位協定交渉の進展を妨げている[98]。 規制後の数ヶ月間、沿ドニエストル共和国からの輸出は激減した。沿ドニエストル共和国はこの地域における「人道的大惨事」を宣言し、モルドバはこの宣言を「意図的な誤報」と呼んだ[99]。

経済セクター

重工業(鉄鋼生産、セメント)、電力生産、製造業(繊維工業)が主要産業で、これらは合わせて工業生産高全体の約80%を占めている。

リブニツァにあるモルドバ製鉄所(ロシアのメタロインベスト持ち株会社の一部)は、この国の歳入の約60%を占めている[100]。

繊維産業の最大企業はティロテックスで、ヨーロッパ第2位の繊維会社だと主張している[101]。

モルドバで消費される電力の約8割が沿ドニエストル共和国で発電されている[40]。同国最大の電力会社モルダフスカヤGRESはロシアの企業Inter RAO(英語版)の子会社であり、南部の都市ドネストロフスク(英語版)でクチュルガン発電所(英語版)を操業している[102]。

ロシアは天然ガスを実質無償で供給し、病院・学校の整備や年金支給を通じても支援している[40]。

銀行部門は、ガスプロムバンクを含む8つの商業銀行で構成されている。

コングロマリットであるシェリフ(ロシア語版)は、この国のビジネスのほぼ全ての分野に展開し、地元の政治やスポーツにも大きく関わるようになった[103]。スーパーマーケット、ガソリンスタンド、携帯電話会社、テレビ局、出版社、建設会社、広告代理店、酒類生産企業KVINT(英語版)、サッカークラブFCシェリフ・ティラスポリとそのホームスタジアムスポルティヴヌィイ・コムプレクス・シェリフなど、多方面にわたる[104]。KVINTは、ブランデー、ワイン、ウォッカを生産し、各国へ輸出も行っている[105][106]。

農業

反面で農業はモルドバと比べると生産量に乏しいものの、温室栽培で青果物を生産していることから品質が比較的良いものが収穫出来ると言われている。[誰によって?]2016年にロシアは自国空軍の戦闘機をトルコによって撃墜された事件への報復としてトルコからの物品の輸入を禁止したが、その代償として輸入の主要品物となっていた青果物を失うこととなった。これを受け、沿ドニエストルは代替の青果供給地として名乗りを上げており、特にトマトの供給に対しては積極的にアピールをしている[注釈 2][107]。

スポーツ

沿ドニエストル共和国ではサッカーが最も人気のスポーツであり、沿ドニエストル共和国サッカー連盟(FFT)によってサッカー沿ドニエストル共和国代

表が組織されている。国際サッカー連盟(FIFA)には未加盟のため、FIFAワールドカップに参加する事は出来ない。』

モルドバでロシアが「破壊工作」、ウクライナが情報提供

モルドバでロシアが「破壊工作」、ウクライナが情報提供
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『旧ソ連構成国モルドバのサンドゥ大統領は13日、記者会見し、隣国ウクライナからロシアによる「モルドバ破壊工作」の情報提供があったと確認し、その詳細を公表した。デモをたきつけて政権転覆を図るため「訓練を受けた軍人が民間人を装う」「政府機関を襲って人質を取る」ことが計画されていると明かし、警戒を促した。

情報が信頼できるとすれば、破壊工作は軍事力と非軍事力を組み合わせたロシアの「ハイブリッド戦争」とみられ、プーチン政権による2014年のウクライナ南部クリミア半島「併合」作戦と酷似。モルドバは親ロシア派とサンドゥ氏ら親欧米派の対立が続いてきた点もウクライナと重なり、同国に対する侵攻の延長線上に位置付けられている可能性がある。

サンドゥ氏が説明したところでは、破壊工作はロシア人やベラルーシ人、セルビア人らをモルドバに入国させ、実行させる計画。かつての内政の混乱を背景に、サンドゥ政権に反発する「一部の内部勢力」も利用する恐れがある。プーチン政権の目的の一つは、モルドバが昨年6月に「候補国」となった欧州連合(EU)の加盟プロセスを止めることだという。

モルドバは東部にロシア軍が駐留する親ロシア派支配地域の沿ドニエストルを抱える。ロシア軍高官は昨年4月、ウクライナ東・南部から沿ドニエストルに至るまでの一帯を「完全制圧」するのが目標と説明していた。ウクライナのダニロフ国家安全保障・国防会議書記は最近、「大地震の緊急援助のためトルコに入っているチェチェン人部隊がモルドバに行かないよう注意深く監視している」と述べた。(時事)

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中国艦船が南シナ海でレーザー照射 フィリピン巡視船に

中国艦船が南シナ海でレーザー照射 フィリピン巡視船に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB13AGC0T10C23A2000000/

『【マニラ、北京=共同】フィリピン沿岸警備隊は13日、南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島のアユンギン礁付近で、海軍への補給任務中だった巡視船が6日、中国海警局の艦船からレーザー照射を受けたと明らかにした。乗組員の目が一時的に見えなくなったほか、危険な操船があったとして、警備隊は「主権の明らかな侵害」と非難している。
中国外務省の汪文斌副報道局長は13日の記者会見で「抑制的」な行動により自国の主権を守ったと主張した。

警備隊によると、艦船は緑色のレーザーを2度照射。巡視船の後方約140メートルに接近した。レーザー照射は異例で、警備隊は「中国の艦船が海上で攻撃的な行動を取っても、領土を守るため、プレゼンスを維持し主権を主張する」と声明を出した。

アユンギン礁はフィリピンの排他的経済水域(EEZ)内。フィリピンは同礁の実効支配を固めるため1999年に艦船を座礁させ、海軍兵士が常駐しており、巡視船は座礁船へ補給品を運んでいた。これまでもたびたび中国艦船からの妨害行為を受けている。

汪氏は記者会見で「フィリピンの船が中国側の許可を得ずにアユンギン礁海域に入った」と主張。「プロフェッショナルかつ抑制的」な行動により自国の主権と海上の秩序を守ったと正当化した。フィリピン側に「中国の主権と海洋権益」を尊重するよう要求し、「情勢を複雑化させる行動を避けるべきだ」と批判した。

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中国「米国の気球、領空侵入10回超」 米国は否定

中国「米国の気球、領空侵入10回超」 米国は否定
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB13BSB0T10C23A2000000/

『【北京=羽田野主】中国外務省の汪文斌副報道局長は13日の記者会見で、2022年の1年間で、米国の気球が10回あまり中国の領空に侵入したと主張した。

汪氏は「米国がまずやるべきは反省することだ。(中国を)中傷して泥を塗ることではない」と批判した。米国の気球が今後も中国の領空に飛んできた場合「必要な手段をとる権利を留保している」として撃墜も辞さない考えを示した。

中国山東省青島市の海洋発展局は12日、山東半島沖で「正体不明の飛行物体が発見され、撃墜の準備をしている」と発表した。周辺の漁船に危険を回避するため注意を促す通知を出した。

海洋発展局は漁船の付近に物体が落ちてきた場合に、写真で撮って証拠を残すよう協力を要請している。市当局側は「飛行物体がどんなものかはまだ知らされていない」と説明している。正体不明の飛行物体が確認されたのは、山東半島南約60キロメートルの海域という。

米国との緊張緩和を探ってきた習近平(シー・ジンピン)指導部だが、ここにきて官製メディアが再び米国批判を強めるようになった。中国共産党の機関紙、人民日報は不定期の重要コラム「鐘声」で、13日まで3日連続で米国の「覇権」主義などを非難した。習指導部が対米姿勢を硬化させた可能性がある。

米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は13日の米MSNBCのインタビューで、米国の気球が不法侵入しているとの中国政府の主張を否定した。「やっていない。絶対に違う。米国は中国上空に気球を飛ばしていない」と断言した。

その上で「米国は中国とまだ外交関係を持っている。大使館があり、中国とのすべての意思疎通が途絶えたわけではない」と話した。
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川島真
東京大学大学院総合文化研究科 教授
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分析・考察

気球問題がここまで大きな問題になるとは中国側も思わなかっただろう。中国は宇宙、世界の空、海で盛んに観測を実施してきたが、これほどまでの反発を受けたことはなかった。しかし、西側勢力が「浸透」を工作し、カラー革命て中国での体制転覆を企てているという宣伝を国内向けに行なっている中国としては、気球問題を放置することはできない。中国こそが西側諸国に狙われているという話にすべく、気球が中国に飛来していることにした。そうしないと国内的に辻褄が合わなくなるからだ。ただ、今回の件は実態が必要なだけに、話を創出し続けるのは難しい。それだけに早めの幕引きを図るべく、アメリカのいう「意思疎通」に期待することになろう。
2023年2月14日 4:29

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柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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ひとこと解説

10回も領空侵入されたのに、なぜ打たなかった?しかも、今まで、まったく公表すらしていなかった。相手に自分の気球を打ち落とされ、はじめて「事実」を公表するのは、外交上のエラといわざるを得ない。領空は主権であり、核心的利益である。外国の気球が領空侵入してきて、それを打ち落とさないというのは売国行為といえる。
2023年2月14日 7:26

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NATO、国防費目標2%から引き上げ論 ロシアの脅威対処

NATO、国防費目標2%から引き上げ論 ロシアの脅威対処
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN13CMI0T10C23A2000000/

『【ブリュッセル=中村亮】北大西洋条約機構(NATO)は2025年以降の国防費目標の策定に向けた議論に入る。現状の対国内総生産(GDP)比2%から2.5%程度に上げる意見があるが、2%に達していない加盟国は多い。新しい目標でロシアの脅威拡大に対処するNATOの本気度が試される。

NATOは14〜15日にブリュッセルで開く国防相理事会で国防費をめぐる議論を本格化させる。7月の首脳会議で合意を目指す。ロシアが14年にウクライナ領クリミア半島を併合すると、NATOは各国が24年までに国防費をGDP比2%に引き上げる目標を掲げて防衛力強化を申し合わせた。

NATO当局者によると、水面下での協議では東欧やバルト3国の一部から新目標を2.5%程度に引き上げる案が出ている。バルト3国の政府高官は「我々が防衛や抑止に真剣であれば防衛にもっと資金を使う必要がある」と断言した。ロシアのウクライナ侵攻で欧州の安全保障が揺らぐとの危機感は根強い。

NATOのストルテンベルグ事務総長はこれまでに2%の国防費目標に関し「上限というよりも、一種の下限として維持されるだろう」と語り、目標の引き上げに前向きな考えを示してきた。

米国のジュリアン・スミス駐NATO大使は13日、記者団に「これまでより恒久的な目標にするなどさまざまな選択肢がある」と語った。これまでの約10年間から目標期間を延ばして国防費を安定的に高水準で維持する案があるとみられる。

NATO当局者は「米国は目標の引き上げを強く望んでいる」と指摘する。バイデン米政権は中国との競争を最優先し、台湾海峡や南シナ海の安定を重視する。インド太平洋地域に戦力や人員を増やす方針で、欧州が自衛能力を増すほど欧州からアジアへシフトを進めやすくなる。

1月から米議会下院の多数派を握る野党・共和党は、欧州諸国がウクライナ支援で負担を増やすべきだと訴えている。米軍はウクライナ侵攻後に欧州駐留部隊を大幅に増やしてロシアの脅威に対応しており、米国では欧州にも自衛力強化を求める声は多い。

国防費目標を引き上げればバイデン政権は欧州に負担増を求めていると国内にアピールできる。「米国第一」を掲げた共和党のトランプ前大統領は欧州が公平な負担をしていないと痛烈に批判し、米欧の亀裂が鮮明になっていた。

一方でNATOが22年6月にまとめた各国の国防費の見通しによると、2%目標を22年に達成するのは加盟国の3割にあたる9カ国だった。ロシアのウクライナ侵攻を受け、各国で国防費を引き上げる機運は高まっているが、2%の水準に届かない国は多い。バルト3国の高官は「新目標の水準や達成のスピードをめぐって溝がある」と認める。

国防費に関連し、防衛産業の強化も大きな課題になる。ストルテンベルグ氏は13日の記者会見で「ウクライナの弾薬の使用量は我々の生産速度の数倍にのぼっている」と危機感を表明した。NATOによる弾薬の在庫の緊急調査が完了し、国防相理事会を通じて在庫の目標を引き上げると話した。

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米国、飛行物体「偵察リスク排除できず撃墜」 国籍は不明

米国、飛行物体「偵察リスク排除できず撃墜」 国籍は不明
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN140JA0U3A210C2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は13日の記者会見で、米軍が10〜12日に米国とカナダ上空で撃墜した飛行物体について「(米国を)偵察していたと疑う具体的な理由はないものの、可能性を排除できなかった」と述べた。国籍や所有者は明らかになっていないと強調した。

米軍は4日に中国の偵察気球を撃墜したのに続き、10〜12日に3日連続で飛行物体を撃ち落とした。米政府は中国の偵察気球については情報収集活動だったと断定する一方、10日以降の飛行物体を巡っては「(飛行高度が)民間航空機の運航に危険を及ぼす可能性がある」と判断して撃ち落としたと説明していた。

カービー氏は10〜12日の飛行物体に通信や操縦などの機能はなかったなどと指摘した。「物体が移動中に軍事・機密施設の上空を通過するおそれがあったため慎重を期してバイデン大統領は撃墜を指示した」と明らかにした。

バイデン氏は13日、ホワイトハウスのサリバン大統領補佐官(国家安全保障担当)に米国の脅威となる飛行物体の探知や分析などの能力を向上させる省庁横断の検証チームを設置するよう指示した。

カービー氏は「何が起きたか研究を続け、(安全保障政策に)影響が出ないように関係機関の協力体制を構築する」と話した。過去の政権や外国で中国の偵察気球をただちに把握できなかった経緯に触れ「高高度をゆっくり移動する物体はレーダーでの探知が難しい」と訴えた。

中国外務省の汪文斌副報道局長は13日の記者会見で、2022年に米国の気球が10回あまり中国の領空に侵入したと主張した。カービー氏は「米国は中国領空に偵察気球や他の航空機を飛ばしていない」と改めて否定。「中国人民解放軍が気球による情報収集に関与していると突き止めた」と明言した。

日米韓は13日の外務次官協議で、中国の偵察気球についても議論した。シャーマン米国務副長官は終了後の共同記者会見で「中国の偵察装置で米領空にあった」と撃墜したのは正当だと力説した。

日本の森健良外務次官は「米国は国民の安全、自国の主権を守るために合法的に対応した。米国の立場を支持すると説明した」と述べた。韓国の趙賢東(チョ・ヒョンドン)外務第1次官は「いかなる主権侵害も容認できない」と唱えた。

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バイデン政権』

〔「金融と社会」第12回 デフレと非伝統的金融政策、紹介する。〕

 ※ 実は、去年の夏に、「衛星放送」導入した。

 ※ 「遅ればせながら」なんだが、これが非常に役に立つ。

 ※ 特に、「放送大学」は、ためになる。

 ※ 今さら、「大学生」になって、「単位」取ったりするつもりは、さらさら無い。

 ※ しかし、録画しておいて、暇なときに(メシ食いながらとか)、再生して視る分には、何の支障も無い。

 ※ 当代一流の先生方の「名講義」を、寝転がりながら、拝聴しても、問題は無い。

 ※ 調べたら、「印刷教材」(講義のテキスト)も、市販されているんだな。

 ※ 本格的に、学習するんだったら、そういうものを購入して、深く学ぶのも、いいだろう。

 ※ そういうことで、その一端を、紹介する。

※ 毎回、その回のポイントを、初めに示してくれる。

※ 日本のバブル崩壊後、日本経済は低迷し、「デフレ」と判断されるような状態に陥ったわけだが、その原因の考察だ。

※ ここでは、「貨幣乗数の低下」という観点から、説明している。

※ まず、GDPというものの概説から、説明している。

※ 「物価」の代表的な指標である「消費者物価指数」の推移だ。

※ 政府の定義では、「2カ月以上連続して、どうなったか」という観点で見るらしい…。

※ 過去の借金の、名目額は、変化しない(1000万円の借金の名目額は、1000万円のまま)。

※ しかし、デフレで「物価が下がる」≒「貨幣価値は上がる」だから、過去の借金の「実質負担」は増大する。生活実感としては、「生活がジワジワ苦しくなっているのに、借金返済額は重くのしかかる。」というような感じになる…。

※ 実質利子率という観点からも、同じ。

※ デフレが景気悪化を引き起こし、その景気悪化はさらなるデフレを呼ぶという「悪循環」に陥る…。

※ 「経済成長の、エンジン」という観点からの考察だ。

※ さまざまな「経済活動のリソース」を、効率よく「配分」する必要があるのだが、その「資源(リソース)の移動」が、妨げられる。

※ デフレの原因の考察。

※ よく言われるのが、供給過剰+需要不足。

※ 供給過剰の主因は、バブル期の「過剰設備投資」だろう、と言っていた。

※ マネタリスト的な観点からの、考察。

※ 本当に、貨幣流通量は、「少なかった」のかの考察。

※ このグラフによれば、「バブル期の7割」くらいの「貨幣量」は、供給されていた。

※ コールレートも、「1%」以下に引き下げられていた。

※ それでも、「デフレ傾向、物価の低迷傾向」は続いたんで、さらなる「緩和策」を模索することになる。

※ 従来からの「伝統的な緩和策」では、あまり効果が出ない原因の考察。

※ ここで、登場する「分析ツール」が、「貨幣流通速度」というものだ。

※ 「1万円」の貨幣を発行した場合、それが「1回」しか使用されない、というわけでは無い。

※ 例えば、4回使われたとすれば、結局、「4万円」の取り引きに使用されたという「計算」になる。

※ 名目GDPを、マネーストックM1で割ったものを計算すれば、大体、総計でどれくらいの「経済取引」に使われたのか、という「総量」を割り出すことができるだろう。

※ ごらんの通りの、低下傾向だ。

※ 「流動性の罠」≒通貨当局が、必死で「緩和策」を取り、貨幣をジャブジャブ流し込んでいるのに、さっぱり「物価上昇」が起きない現象、の原因の考察。

※ 「貨幣需要」と言っているが、「貨幣選好」だな。

※ 人々は、貨幣を獲得しても、それを物やサービスを購入したりする「経済活動」に使うことよりも、それを「貯め込んで」、胎蔵する方を選んでしまうという行動に出る。

※ そういう「人々の行動」を変えるための「政策」について、エライ学者先生であるポール・クルーグマン大先生(ノーベル経済学賞の受賞者だ)の「ご託宣」が、あったわけだ。

※ そういうことで、06年頃までゼロ金利政策を、続けたわけだ。

※ それを、やめたのは、GDP成長率がちょっと上向いたのと、こういう「未経験の政策」をずっと続けることを、「危惧する声」が上がったからだ、と言っていた…。

※ 政策目標と、その達成度合いの検証。

※ 金融システム不安の解消は、まあまあ、達成されただろうと言っていた。

※ 確かに、「金融機関」の大型倒産は、無かったからな…。

※ まあ、「金融再編」は、随分なされたようだが…。

※ 貨幣総量とか、コールレートとかは、日銀が操作しやすいもので、これは「短期金利」の低下に効果がある。

※ そういう「操作しやすいもの」に働きかけて、さらには「長期金利」の低下も狙っていく。

※ 長期金利は、国債や、株式、不動産なんかの「資産」へと「資金」の導入を誘導する側面がある。

※ 人々に「インフレ期待」を起こさせるために、日銀が「○○までは、この緩和策を続ける。」とアナウンスすることで、人々の「意識」を変えようとした。

※ 日銀当座預金については、ちょっと話しが複雑なんで、ここら辺でも見て( マイナス金利も関係する日銀当座預金とは?この仕組みをわかりやすく https://greenapple-investment.com/currentaccount-of-boj.html ) 

※ いずれ、市中銀行が日銀に積み立てを要する「準備金の口座」みたいなもので、その額や「金利」を操作することで、世の中の金融の状況を、コントロールしていこうとするもの、のような感じのもののようだ…。

※ そういう目的で、「日銀当座預金」を操作したから、上記の図にある通り、「日銀当座預金」が増大すると、マネタリーベースも増大するという関係性が、見て取れる。

※ アナウンスメントの方も、「デフレ懸念が払しょくされるまで」というような、「あいまいな表現」から、さらに踏み込んで、「消費者物価指数の前年比上昇率が、安定的にゼロ以上となるまで」と、明確な基準を呈示した。

※ しかし、そういう「非伝統的な緩和策」を、長く続けることに「不安を覚える」声の方も、根強く存在した…。

※ それで、少し「上向きかげん」になったら、「ここで、打ち止めしといた方がいい。」となった…。

※ ここで、目を転じて、サブプライムショック後の、欧米の金融当局の非伝統的金融政策を見てみよう。

※ ご覧の通り、短期間で、ともかく短期金利を、限りなくゼロに近づけた…。

※ こういう「急激な政策」は、日本のバブル崩壊後の「デフレ没入経験」が、教訓となったと言う話しだ…。

※ 一旦、デフレに陥ると、そこから脱却するのは、あらゆる「緩和政策」をもってしても、「容易なことじゃない」ということを、各国の中銀首脳たちが深く学習していた、という話しだ…。

※ 金利の操作だけでなく、「資産の買い入れ」も行った。

※ MBSは、モーゲージ・バックト・セキュリティー(抵当担保証券?)、不動産関係会社が所有している資産性の証券だろう。

※ CPは、コマーシャルペーパー。企業の短期社債だ。

※ 日銀の言ってた、「時間軸効果」は、「フォワード・ガイダンス」と名前を変えて、行われた。

※ そういう欧米の緩和策も参考にして、2010年10月からは、「包括的な金融緩和政策」という名前の、「資産買い入れ策」も実施された。

※ ETFの買い入れは、証券市場に資金を流し込むことになり、REITの買い入れは不動産市場に資金を流し込むことになる。

※ 非伝統的金融政策とは、まとめると、上記の3つに要約される。

※ 物事には、必ず功・罪の両面がある。

※ こういう「超金融緩和策」にも、「負の側面」は、必ずある。

※ その一つが、ハイリスクハイリターン運用の傾向の増大だ。

※ 低金利になると、一般大衆から「巨額の資金」を集めても、伝統的な「貸し出し」策では、「利ザヤ」が稼げなくなる…。

※ それで、勢い、「利を追求する」ためには、「非伝統的な、危ない貸出先に貸したり」、「リスクを厭わずに、利を取りに行く」行動が誘発される…。

※ どうせ、「首脳部は、知らなかった。現場のファンド・マネージャーが、勝手に暴走した。」ということで、済まされる…(これは、オレの独り言)。

※ マクロプルーデンス政策とは、こういう金融危機への対処は、一国だけでは難しい。むしろ、各国が、初めから、「金融全体、世界の金融秩序全体」のことを考えて、「協調姿勢・共同歩調」を取って行くべきだ、というような話しのようだ…。

※ 第12回では、上記の3つを解説した。

※ 毎回、このように「まとめ」で、締めてくれる。

※ ありがとうございました。