対中関係は緊迫、米政権は他の措置検討=民主党トップ

対中関係は緊迫、米政権は他の措置検討=民主党トップ
https://www.epochtimes.jp/2023/02/135785.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『[ワシントン 7日 ロイター] – 米上院民主党トップのシューマー院内総務は7日、米中関係は緊迫していると述べた。米国は週末に中国の偵察気球を撃墜したが、バイデン政権は他の措置を検討しているという。

米中関係の状態について「緊張している」と説明。バイデン政権はブリンケン国務長官の訪中をキャンセルしたほか、「取り得る他の措置を検討している」と語った。

また、バイデン政権が中国の偵察気球を巡り冷静に対応したとし、大統領の対応を批判する共和党議員を非難。「これは政治が必要ない分野の一つであり、民主・共和両党が一つとなる必要がある。中国の行動を非難し中国共産党に対する統一戦線を確保するために団結する必要がある」と述べた。

バイデン大統領は6日、米国による中国の偵察気球撃墜によって米中関係が弱まるかとの質問に対し「ノー。中国にわれわれが行うことを明確にしていた。彼らは米国の立場を理解している。引き下がるつもりはない」とし、「われわれは正しいことを行った。弱めるとか強めるという問題ではなく、それが現実だ」と応じた。』

中国が電話協議を拒否、偵察気球巡り=米国防総省

中国が電話協議を拒否、偵察気球巡り=米国防総省
https://www.epochtimes.jp/2023/02/135828.html

『[ワシントン 7日 ロイター] – 米国防総省のライダー報道官は7日、米国が要請したオースティン米国防長官と中国の魏鳳和国防相の電話協議を中国が拒否したと明らかにした。

国防総省は、4日に中国の偵察気球を撃墜した直後、電話協議を申し入れた。

ライダー氏は声明で「残念ながら、中国はわれわれの要請を拒否した」と述べ、常に対話できる状態にするための取り組みは継続すると説明した。』

「偵察気球」で極超音速ミサイルを運搬…過去に中国国営テレビが放映

「偵察気球」で極超音速ミサイルを運搬…過去に中国国営テレビが放映
https://www.epochtimes.jp/2023/02/135614.html

『中国国営テレビは、2018年に高高度気球に持ち上げられた極超音速兵器を投下する映像を放映していた。

映像は、最近米国上空を横断した「偵察気球」同様の高高度気球が極超音速滑空兵器(HGV)3機を上空まで運び、実験投下する様子を映している。中国国営テレビ中国中央電視台(CCTV)は2018年9月、先端兵器の実験の様子を報じたが、その後削除。しかし、ネット上では実験映像の写真や動画を見つけることができる。』

(※ 無料は、ここまで。)

ロシアのエネルギー収入大きく落ち込む。一方、歳出が急増

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:ロシアのエネルギー収入大きく落ち込む。一方、歳出が急増
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5409728.html

『ロシア財務省が2023年2月6 日に発表した1月の財政収支(速報値)は、赤字額が1兆7600億ルーブル(247億8000万ドル:約3兆3千億円)に拡大した。エネルギー収入が落ち込む一方、歳出が急増した。

1月の石油・ガス収入は前年比46.4%減の4260億ルーブル(7904億円)だった。石油・ガス以外の収入は28%減の9810億ルーブル(約1兆8226億円)だった。付加価値税と所得税の税収が減少した。

1月は歳入が35.1%減少する一方で、歳出は58.7%増の3兆1200億ルーブルに達し、通年の歳出計画の10%を超えた。露政府は予算の多くを石油・ガス収入に頼っている。昨2022年の石油・ガス収入は11兆6000億ルーブル(約1619億ドル、約21兆7000億円)だった。

ウクライナ戦争に伴い歳出が拡大する中、赤字補填のために外貨準備の売却を余儀なくされている。(円換算は、2023年2月7日レートで筆者計算 正確ではないので参考程度に見てください 1ルーブルは1.85円)参照記事 

中露は、すでに合意済みの経済・貿易分野での協力拡大や深化を、対露制裁とは関係なく進め、制裁前にロシアが欧州へ優先的に供給してきた物資は、中国やインド向けに振り替わっており、2021年に約1470億ドル(約18兆円)だった中露貿易の総額は、厳しいとみられていた24年までに2000億ドルへ拡大する目標を容易に実現するだろう。中露の経済・貿易協力の前途は明るいとの見方も在り、今後は人民元とルーブル決済が確実に拡大するだろうと言われている。参照記事  
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ウクライナへの軍事侵攻開始後、ロシアは貿易統計を国家機密扱いとし、一切公表しなくなった。したがって、露中貿易の動向を知るには、中国側の統計を紐解くしかない。左表を参考に見れば、開戦時に落ち込んだものの、確実に中国の対露貿易は急増している。参照記事 

ロシアがウクライナ侵攻を開始すると、米国はすぐにロシアからの石油輸入を禁止し、欧州もロシア石油からの脱却を打ち出した。行き場を失った石油のはけ口となったのが、インド市場と並んで、中国市場であった。

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中国も一時、国営石油大手が制裁を食らうのを恐れ、ロシアからの石油購入を見合わせたが、しばらくすると、対応を変えた。ロシアのウラル原油は国際価格から1バレル当たり30ドルほどもディスカウントされて売られるようになり、中国としても価格の安さに抗(あらが)えなかった。

結局、2022年通年では、中国によるロシア産原油の輸入は8625万トンに上り(日量172万バレルに相当)、前年から8%拡大、輸入先として首位のサウジアラビアの8749万トン(日量175万バレル)に次いで、ロシアは僅差の2位となった。

ロシアから中国向けには、2019年12月に天然ガスパイプライン「シベリアの力」が稼働し、ロシアの対中輸出量は、2022年に155億立法メートルとなり、ロシアのパイプラインガス輸出全体の15%ほどを占めるまでになっている。このほか、2022年にはロシアから中国への石炭および液化天然ガス(LNG)の輸出も顕著に拡大した。過去ブログ:2023年2月ロシア天然ガス独り占めの中国の大国化に世界は警戒 
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しかし、2022年の露中貿易の拡大は、国際石油価格が高騰する中で、中国が割安になったロシア産原油、ガスを積極的に買い増したという要因にほぼ尽きると言ってよく、中国はプーチン・ロシアに救いの手を差し伸べているわけではなく、経済協力を進めるにしても、自国にとっての利益を最優先しているだけだ。

今後、頼みの中国が積極的に支えてくれない場合、ロシア経済が中長期的に衰退に向かうことは、やはり不可避であろう。

ただし、もしも近いうちに中国が台湾に軍事侵攻するような事態となれば、話は20221230BTRRS2まったく違ってくる。

その場合、中国はロシアとのより強固な同盟関係を構築するはずなので、経済面で相互補完性の強い中露が支え合って、ロシアが息を吹き返す可能性が出てくる。

そうさせないために米国は、ロシアのアキレス腱になりつつある中国に硬軟混ぜて揺さぶりをかけるだろう。

つまり、ロシアをウクライナで優位にさせないことは、回りまわって中国の勢いに水を差し、日本、アジアの安定に大いに関係してくる事になるだろう。

逆の流れで、中国の不安定化、経済進出の包囲もまた、別のならず者の算段を大いに狂わせる結果に繋がるだろう。ならず者は3人居る。ペテン師と国際貨物の運送屋(副業で風船売り)と花火師である。 参照記事 過去ブログ:2023年2月ロシア天然ガス独り占めの中国の大国化に世界は警戒 』

トルコ シリアで大地震 大災害の可能性

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:トルコ シリアで大地震 大災害の可能性
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5409695.html

『Turkey earthquake:トルコ南部からシリア北部にかけて2023年2月6日に発生した大地震で、トルコの災害緊急事態対策庁は同日夜(日本時間7日朝)、これまでに2316人が死亡したと発表した。

シリアでは、国営通信などによると1千人以上が亡くなったとみられ、両国の犠牲者は合わせて3千人を超えた。被害は広範囲にわたっており、死者数はさらに増える恐れがある。これまでに、少なくても2回大きな地震が発生し余震が続いている。ニュース映像 ニュース映像

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米地質調査所(USGS)によると、地震が起きたのは現地時間6日午前4時17分(日本時間の2月6日(月)10時17分)。地震の規模を示すマグニチュード(M)は7・8で、震源はトルコ南部ガジアンテップの西約34キロ、深さは約18キロだった。

トルコのエルドアン大統領は同日夜、ツイッターで、国として7日間の喪に服すことを明らかにした。写真左は、トルコ南部震源地に位置するカフラマンマラシュKahramanmaraş、英:kahramanmaras

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現場にはトルコ各地から救助隊が続々と駆けつけており、被災地からの映像では、倒壊した建物のがれきの中から住民を救出する作業が夜を徹して行われている。災害緊急事態対策庁によると、これまでの負傷者は約1万3千人で、6200棟以上の建物が倒壊したという。
オクタイ副大統領が145回の余震があったと述べるなど、緊迫した状況が続いている。
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地震の震源はアナトリアプレートとアラビアプレート、アフリカプレートの3つのプレートPlateが接している領域。アナトリアプレートとアラビアプレートの境界には、「東アナトリア断層:East Anatolian Fault」が形成されている。

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アメリカ地質調査所によると地震のメカニズムは断層周辺でよく見られる横ずれ型と解析され、余震はアナトリア断層に沿うような形で分布していることから、断層活動による地震の可能性が考えられている。右は、各プレートの移動方向と、過去に起きた主な大地震の位置と発生年度 参照記事 参照記事 英文記事 
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AFP通信によると、トルコ、シリア両国合わせてこれまでに3800人以上の死亡が確認され、1万6000人以上が負傷した。  トルコでの死者は2379人に達し、シリアでは少なくとも1444人が死亡した。両国で数千棟の建物が倒壊し、今も多くの人ががれきの下敷きになっている。被災地は厳冬下にあり、被害が特に大きかったトルコ南部カフラマンマラシュ県kahramanmarasなどは大雪に見舞われている。余震も続き、建物の崩壊が相次いだ。写真左は、震源地東部ディヤルバクル(Diyarbakır) 参照記事 参考:トルコ大地震 取材中に“M7.5” 日本人女性「揺れてるやばい」…隣国も“甚大被害” 
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その後の集計で、トルコのアナトリア通信は6日、南部10県で2921人が死亡し、1万5834人が負傷したと報じた。シリア国営通信などによると、シリアでの死者数は1497人に上り、両国の死者数は4400人を超えた。トルコだけで6200棟を超える建物が倒壊しており、被災地では夜通しで救助活動が続いた。

FoSdwuEaUAAHEL8トルコは地震が頻発する地域だが、レンガ造りで耐震性の低い住宅が多く、被害拡大につながったとみられる。震源地近くには、内戦下にある隣国シリアから逃れてきた難民が多く住んでいた。参照記事 

トルコ政府からの支援要請に基づき、日本の国際緊急援助隊救助チームの第一陣18名が現地に向かって出発。高い捜索・救助技術を活かし、現地で支援を待つ被災者の救助活動にあたります。
2023年2月8日:

トルコのオクタイ副大統領は7日、情報を更新し、トルコ・シリア地震、死者は7700人超で、トルコでの死者数は少なくとも5894人に上ると明らかにした。負傷者は3万4810人。シリアでは、少なくとも1832人の死亡と、3849人の負傷が報告されている。参照記事』

ウクライナ軍はもっか、戦車を「野砲」のように運用している

ウクライナ軍はもっか、戦車を「野砲」のように運用している
https://st2019.site/?p=20858

『※ここで読者は「常識」というものを働かせて欲しい。

ウクライナ軍はもっか、戦車を「野砲」のように運用している。敵の姿が見えない遠距離(数km)から、間接照準射撃を加えているだけなのだ。戦車砲には大きな仰角がかけられないから、地面へのインパクト角も浅い。爆発で生じた破片は、ほとんどが下の地面にめりこむか空中高く吹き上げられておしまいである。こんな火力発揮をさせるためだけに、高額な戦車を動かし、軽油を消費しているわけ。トータルするとこれはたいへんな「人と資源と機会と時間の無駄」、否「浪費」なのだ。

それに対して迫撃砲は、同じ口径であれば戦車砲よりも遠くに飛び、しかも弾丸の落角はほぼ垂直なので、破片は着弾点から四方八方へまんべんなく、水平に飛散して敵兵を殺傷し、物資・車両を着実に損壊する。弾丸を製造し、輸送し、発射するプロセスを通しての資源の実用効率、コストパフォーマンスが、桁違いに佳良なのである。

「レオパルト1」の105mm砲から発射する榴弾(最大射程3km)よりも、古い「107mm迫撃砲」から発射する迫撃砲弾の砲が、10倍は敵にとってのダメージを与えられると信じられる。おそらくは81㎜迫撃砲でも、105mm戦車砲の榴弾砲撃にひけはとらないだろう。つるべ撃ちをすれば弾量は遜色が無い。値段は迫撃砲の砲が「数十分の一」で済む。同じ比較は、現在の主流重迫たる120ミリ迫撃砲と、「レオ2」の120ミリ戦車砲(滑腔)から榴弾を発射した場合についても成り立つだろう。

各国陸軍が現有している120ミリ重迫をかきあつめるのは簡単ではないだろうと想像される。しかし、各国陸軍が使わなくなった107mm中迫をあつめることはむずかしくないはずだ。第三世界にもゴロゴロしているはずだ。

中迫や軽迫は、商用のトラックでも迅速に移動させることができる。ドローン観測と連動させれば、精密なヒット&ランもできる。その訓練は、戦車兵訓練とは比較にならず、早く可能である。

じっさい、ウクライナ軍はそのメソッドを自力で開発できているのだ。大量の中迫が宇軍陣内に展開すれば、露兵は全線でタジタジとなる。そこでほころびが見えた箇所に、手持ちのAFVを固めて突入させれば突破口が開ける。そこから両翼包囲にも移れる。

だがそれにはまず前段階として中迫の数で全線で露軍を圧倒する必要がある。それは、今の西側ならばじゅうぶんに可能なのだ。なのに、それを考えていない。

どうも今のNATO上層には、兵站と効率の計算から「決勝援助戦略」を組み立てられるプロが不在なのではないかという印象を受けてしまう。』

やはり飛んでいた。「U-2」がバルーンの交信を傍受していた。

やはり飛んでいた。「U-2」がバルーンの交信を傍受していた。
https://st2019.site/?p=20858

『Joseph Trevithick, Tyler Rogoway 記者による2023-2-6記事「U-2 Spy Planes Snooped On Chinese Surveillance Balloon」。

    やはり飛んでいた。「U-2」がバルーンの交信を傍受していた。しかも、バルーンの上方から。

 国防総省によると、支那からのスパイバルーンが米国領空を侵犯したのは1月28日で、場所はアリューシャン列島。
 その2日後、バルーンはカナダ領空へ。

 1月31日、こんどはアイダホ州の北境を南下。

 マニアのコールサイン傍受から、「U-2」は、バルーンが米本土の中西部に侵入した頃から2機、繰り出されていると推定されるそうだ。
 コールサインは「ドラゴン01」と「ドラゴン99」。※U-2の別名がドラゴンレイディー。

 U-2は、高度7万1000フィートを巡航することもできる。今回の高度は不明だが。
 敵の通信を妨害できる装置も、U-2は搭載している。

 昨日、『ポリティコ』が報じたところでは、今回よりも小さな、不審なバルーンが、2020年にヴァジニア州沿岸を飛んでいて、そのペイロードには「レーダー妨害」装置があったという。

 詳細は不明だが、バルーンの中に立方体状のレーダー反射器を封入したものかもしれない。』

バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン

バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

『バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)は、カスピ海のアゼリ・チラグ・グネシュリ油田(英語版)(ACG油田、en:Chirag oil field : Early Oil Projectを含む)から地中海までを結ぶ全長1,768キロメートルの原油パイプライン。アゼルバイジャンの首都バクーから発し、ジョージアの首都トビリシを通り、トルコの地中海沿岸南東部に位置する港ジェイハンへ抜ける。これはドルジバパイプラインに次いで世界第2位の規模の石油パイプラインである。

歴史

計画

カスピ海の底には世界最大規模の油田およびガス田が存在する。しかしカスピ海は陸によって囲まれているため、石油の西側市場への輸送は簡単な問題ではない。ソビエト時代には、カスピ海地域からのあらゆる輸送路はロシアを経由するものだった。

ソビエト連邦の崩壊によって、新たな輸送路が模索されるようになった。ロシアは新パイプラインはロシア領を通過すべきだと主張し、参加を拒否した[1][2]。イランを通ってペルシャ湾に至るパイプラインが地理的に最も短く、採算性に優れていたが、イランは様々な理由から西側諸国にとって望ましくないパートナーだと考えられた。その神政的な政府や、原子力計画 (Nuclear program of Iran) 、イランでのアメリカ企業の投資を大きく制限するアメリカによる経済制裁、などが懸念された[3]。

1992年の春にトルコ共和国首相スュレイマン・デミレルが中央アジア諸国とアゼルバイジャンに対してトルコを通過するパイプラインの提案をした。その後、BTCパイプラインの建設についての最初の文書が1993年5月9日にアンカラでアゼルバイジャンとトルコのあいだで調印された[4]。

トルコルートを選んだということは、ジョージアとアルメニアのどちらかを経由するということを意味していた。アルメニア人ジェノサイドをトルコが認めていない問題[5][6]や、ナゴルノ・カラバフをめぐってのアルメニアとアゼルバイジャンの軍事衝突などの地域的緊張があり、アルメニアを経由する路は政治的に不都合であった[7]。このため、アゼルバイジャンからジョージアをトルコへと抜ける回り道が、他の選択肢より長距離で経済的には劣っているが、政治的には主要関係国にとって、もっとも好都合だということになった。

1998年10月29日に、アゼルバイジャン大統領ヘイダル・アリエフ、ジョージア大統領エドゥアルド・シェワルナゼ、カザフスタン大統領ヌルスルタン・ナザルバエフ、トルコ大統領スュレイマン・デミレル、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフによってアンカラ宣言が採択され、BTCパイプラインプロジェクトは勢いを得た。この宣言にはBTCパイプラインへの強い支持を表明したアメリカ合衆国エネルギー長官ビル・リチャードソンも立ち会っていた。欧州安全保障協力機構 (OSCE) の会談中の1999年11月18日にイスタンブールでアゼルバイジャン、ジョージア、トルコの間でBTCパイプラインを支持する政府間合意が調印された[7]。

建設

パイプラインの操業会社として Baku-Tbilisi-Ceyhan Pipeline Company (BTC Co.) が2002年8月1日にロンドンでの文書調印式のなかで設立された[8]。2002年9月18日にパイプラインの建設開始を祝う式典がアゼルバイジャンのサンガチャル・ターミナルで催された[9][10]。工事は2003年4月に始まり、2005年に完了した。アゼルバイジャン部分はギリシャの Consolidated Contractors International が建設し、ジョージア部分はフランスの Spie Capag とアメリカの Petrofac International による合弁事業で建設され、トルコ部分は同国の BOTAŞ が担当した。アメリカのベクテルがエンジニアリング・調達・建設工事の主要な請負業者を務めた[8]。

完工

公式な竣工式はあわせて3つ開催された。2005年5月25日、アゼルバイジャン共和国大統領イルハム・アリエフ、ジョージア大統領ミヘイル・サアカシュヴィリ、トルコ共和国大統領アフメト・ネジデト・セゼルおよびカザフスタン大統領ヌルスルタン・ナザルバエフによって、アメリカ合衆国エネルギー長官サミュエル・ボドマン同席のもと、サンガチャル・ターミナルでBTCパイプラインは落成された[11] 。ジョージア部分の竣工式は2005年10月12日に Gardabani 近くのポンプステーションで大統領ミヘイル・サアカシュヴィリによって主催された[12]。ジェイハン出荷基地での竣工式は2006年7月13日に行われた[13]。

2005年5月10日にバクーから初めて送り出された原油が、1,770キロメートルを経て2006年5月28日にジェイハンに到達した[14]。最初の原油がジェイハン出荷基地 (Haydar Aliyev Terminal, ヘイダル・アリエフターミナル) で “British Hawtharne” という名の船に荷積みされた[15]。このタンカーはおよそ600,000バレル (95,000 m3) の原油を積んで6月4日に出港した[16]。これはアゼルバイジャンの石油をBTCパイプラインを通して世界市場へと輸出するスタートとなった。

パイプラインの詳細

経路

ジョージアを通過するバクー・スプサおよびバクー・トビリシ・ジェイハンパイプラインの経路

パイプラインはアゼルバイジャンのバクー近くのサンガチャル・ターミナルから始まる。パイプラインはアゼルバイジャン、ジョージア、トルコを通り、ジェイハンに達する。終着地はトルコの地中海沿岸南東部にあるジェイハン海上ターミナル(ヘイダル・アリエフターミナル)。全長の1768 km のうち、443 km がアゼルバイジャン、249 km がジョージア、1076 km がトルコにある。いくつもの山岳地帯を通過し、最高のものはカフカース山脈で標高2,830メートルになる[17][18]。また、3000もの道路・鉄道・配管と地上および地下で交差し、幅500メートルのジェイハン川を含む1500の水路を渡る[19]。パイプラインは幅8メートルの回廊を通り、全長にわたって地下1メートル以下に埋められている[20]。BTCパイプラインとは並行に、サンガチャル・ターミナルからトルコのエルズルムまで天然ガスを輸送するサウス・コーカサスパイプライン(バクー・トビリシ・エルズルムパイプライン)が走っている[17]。サルズ – ジェイハン間ではサムスン・ジェイハンパイプラインが同じ回廊を共有する[21]。

技術的な特徴

BTCパイプラインは40年の寿命を見積もっている。通常の能力で運転すれば(2008年以降)、毎日100万バレル (160,000 m3) の石油を輸出し、100万バレルが端から端まで移動するのには10日間かかる[18]。パイプラインは石油10百万バレル (1,600,000 m3) の容量があり[14]、石油はパイプライン中を毎秒2メートルで流れる[19]。全経路を通して8つのポンプステーションがある(アゼルバイジャンに2つ、ジョージアに2つ、トルコに4つ)。プロジェクトにはさらに、ジェイハン海上ターミナル、2つの中間ピグステーション、1つの減圧ステーション、101の小型ブロック弁、が含まれる[17]。パイプラインは各12メートルの管が15万個結合してできており[19]、溶接部は22万箇所にのぼる[18]。これは総重量が約655,000米トン (594,000メートルトン) になる[19]。パイプラインは多くの部分で口径1,070ミリメートル (42インチ) であり、ジェイハン近くで最も狭い865ミリ (34インチ) となり[22]、最大は1,168ミリメートル (46インチ) である[18]。パイプ壁厚は8.74から23.80ミリメートル[18]。

費用と資金調達

パイプラインの建設費用は39億米ドルであり、これは当初の見積もりの29億米ドルより3割ほど高い[23]。これに財務費やパイプラインの原油充填費などを含めた総費用は不明であるが、当初の見積もりでは約36億米ドルであった[24]。パイプラインの建設工事によって10,000の短期雇用が生み出され、パイプラインの運用にはさらに1,000の長期労働者が40年間にわたって必要となる[20]。BTCパイプラインの費用の7割は、世界銀行グループの国際金融公社、欧州復興開発銀行、7か国の輸出信用機関、15の民間銀行からなる銀行団、などの第三者機関から資金供給されている[17]。

原油の供給元

BTCパイプラインはカスピ海にあるアゼルバイジャンのアゼリ・チラグ・グネシュリ油田(ACG油田)から、サンガチャル・ターミナルを通して、原油が供給されている。さらに、カザフスタンのカシャガン油田などの中央アジアの油田からも供給を受けることが可能である[1]。カザフスタン共和国政府は同国アクタウの港とバクー、すなわちBTCパイプラインを結ぶカスピ海横断石油パイプライン (Trans-Caspian Oil Pipeline) の建設を追求していると発表した。しかしながら、ロシアとイランがこの計画に反対しているため、カスピ海を渡るタンカーによって石油供給を開始した[25]。

イスラエルを経由した積み替えの可能性

イスラエルを縦断するトランス・イスラエルパイプライン (Trans-Israel pipeline) (TIPライン、アシュケロン・エイラートパイプライン)およびアシュケロンとエイラートの石油ターミナルを経由して、アジアのより東へとBTCパイプラインの石油を運ぶ計画が提案されている[26][27]。

パイプラインの株主

BTCパイプラインは、運営者であるBP(以前のブリティッシュ・ペトロリアム)の主導するコンソーシアムによって所有されている。コンソーシアムが設立した操業会社 BTC Co. の株主構成を以下に示す。

BTC Co. の株主構成[13] 株主 国 保有率
BP イギリスの旗 イギリス 30.1%
SOCAR アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン 25.00%
シェブロン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 8.90%
スタトイルハイドロ ノルウェー 8.71%
TPAO トルコの旗 トルコ 6.53%
ENI/アジップ イタリアの旗 イタリア 5.00%
トタル フランスの旗 フランス 5.00%
伊藤忠商事 日本の旗 日本 3.40%
国際石油開発 日本の旗 日本 2.50%
コノコフィリップス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 2.50%
アメレーダ・ヘス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 2.36%

論争

政治

その完成前ですら、BTCパイプラインは世界の石油政治 (Petroleum politics) に影響を与えていた。以前はロシアの裏庭とみなされていた南カフカースが、今では大きな戦略的重要性をもった地域となった。その結果、アメリカおよびその他の西側諸国は石油が通る3国の問題により密接に関与するようになった。これを非民主的な指導者への不健全な依存につながるものだとして、西側諸国の南カフカースへの過度の関与を批判するものもいる[誰?]。この地域の国々自身は、この関与を地域でのロシアおよびイランの経済的・軍事的権勢と平衡するものとして利用しようとしている[20][28]。同様に、ロシア人専門家はこのパイプラインはカフカースにおけるロシアの影響力を弱めることを狙ったものだと主張している。ロシア連邦議会外交委員会委員長コンスタンチン・コサチェフは、アメリカなどの西側諸国がBTCパイプラインの通過地域の不安定性を口実にカフカースに兵を駐留させることを狙っていると発言した[29]。

BTCパイプラインはまた、世界の東と西をつなぐエネルギー回廊の重要な一部を構成し、トルコにより大きな地政学的重要性を与える。また、ジョージアにとってはロシアの影響からの独立性を高める。プロジェクトの立案者および提唱者の一人である、元ジョージア大統領エドゥアルド・シェワルナゼは、ジョージア領土を通過するこのパイプラインの建設をジョージアの将来にわたっての経済的および政治的な安全と安定性に対する保証だと捉えている。この捉え方は後継のミヘイル・サアカシュヴィリも完全に共有している。「ジョージアのあらゆる戦略的契約、特にこのカスピ海パイプラインの契約はジョージア国家の生き残りの問題である」とサアカシュヴィリは2003年11月26日に発言した[30]。

経済

BTCパイプラインによって中東の石油へのアメリカなど西側諸国の依存が緩和されると宣伝するものもいるが、最初の段階では全世界の需要の1パーセントを供給するのみであり、現実には中東の石油への世界的な依存を変えることはない[31]。

しかしながら、このパイプラインは世界的な石油供給を多様化させ、他地域の石油供給に問題がおこる可能性を考慮すると、供給の確実性をかなり高めることになる。BTCパイプラインを批判する者たち、とりわけロシアは、パイプラインの経済的魅力については懐疑的で、政治的なものが動機であろうと考えている[32]。

BTCパイプラインの建設はホスト国の経済に大きく貢献した。BTCパイプラインがアゼルバイジャン産石油の主要な輸出経路として完成し、稼動を開始した2007年の前期には、アゼルバイジャンの実質GDPの伸びは35パーセントを記録した[33]。また、莫大な通過料がジョージアとトルコにもたらされた。ジョージアの場合、通過料は毎年平均で6250万米ドルになると予想されている[28]。トルコはパイプラインの稼動初期には毎年約2億ドルの通過料を得ると予想されており、17年目から40年目にかけては毎年2億9千万ドルにまで増加する可能性もある。トルコは東部アナトリアでの経済活動の増加という利益も得ており、特に、1991年の湾岸戦争以来、大きく活動を減らしていたジェイハン港の重要性が高まっている[34]。ボスポラス海峡での石油タンカーの通航量を減少させ、イスタンブールの保安に貢献すると期待されている[35]。

石油収入が腐敗した役人に流用されるのではないかという懸念を抑えるため、アゼルバイジャンは政府基金 (State Oil Fund of the Republic of Azerbaijan, SOFAZ)[36] を立ち上げ、天然資源による収入を将来世代のために使うものとして委任し、主要な貸し手からの支持を強め、透明性と説明性を高めることを図った。アゼルバイジャンはまた、イギリスの主導するExtractive Industries Transparency Initiative (EITI) に参加する世界初の産油国となった[20]。

保安

BTCパイプラインの保安については懸念の声がある[37][38]。アゼルバイジャンとアルメニアは、アゼルバイジャンのアルメニア人分離主義者が多く住むナゴルノ・カラバフ地域の地位をめぐって戦争状態にあり、そのためパイプラインはアルメニアを迂回している。パイプラインが通過するジョージアは南オセチアとアブハジアという2つの分離主義者問題を抱えており、トルコでは永きにわたる分離主義者問題を抱えるクルド人地域の端を通過する[39]。よって破壊工作を防ぐための持続的な警備が必要である。ただし、パイプラインのほぼ全部が地中に埋められているという事実は攻撃を比較的困難なものとしている[20]。

2008年8月6日、トルコ東部のエルズィンジャン県で大規模な爆発と発砲があり、パイプラインは停止された。クルディスタン労働者党 (PKK) がこの攻撃の犯行声明を出した[40]。2008年8月25日にパイプラインは再開した[41]。

環境

BTCパイプラインについて、環境保護の観点からいくつかの点が問題視されている。批判者はBTCパイプラインの通過地域が非常に地震の多い地域であることを指摘する。パイプラインは断層をアゼルバイジャンで3つ、ジョージアで4つ、トルコで7つ通過する。BTCパイプラインは、鉱泉や美しい自然で有名なジョージアのボルジョミ=ハラガウリ国立公園 (Borjomi-Kharagauli National Park) の、公園内にこそ入らないものの、その流域を通過する[42]。これは長く環境運動家の激しい反対の的となってきた。パイプラインの建設はその景観に目に見える大きな傷跡を残した。オックスフォードに拠点を置く “Baku Ceyhan Campaign” は「公共の資金がただ民間企業の利益のために社会的および環境的問題への助成金として使われるべきではなく、地域の人々の経済的および社会的発展への肯定的な貢献を条件としなくてはならない。」と主張している[43]。ボルジョミのミネラルウォーターはジョージアの主要な輸出品であり[44]、この地域での石油流出は地元のミネラルウォーター産業に壊滅的な打撃を与えることになる。

パイプラインは腐食から守るため、合成樹脂による保護被膜で覆われる。BTCパイプラインではポリエチレンを外層とする3層被膜が使われた。ただし、これは工場で行われるもので、現場で発生する溶接部分は保護しない。溶接部分には現場継手塗装という手法を使う。BTCパイプラインではこの塗装に不適切な材料、SPC-2888を使った。SPC-2888は液体で使用され、ポリエチレンとくっつかず、剥がれ落ちてしまう。また、寒い気候ではヒビがはいるなど、大きな欠陥があることが分かった[45][46][47]。BPと工事請負業者はこの問題が解決されるまで、作業を中断せねばならなかった[34]。

環境への好因子としては、過密状態にあるボスポラス海峡とダーダネルス海峡のタンカー通過量を年350隻減らすことが挙げられる[48]。

人権

人権活動家はBTCパイプラインに関連して、アゼルバイジャンのアリエフ政権の人権侵害を取り上げて西側諸国の政府を非難している[49]。チェコのドキュメンタリー作品 Zdroj は、BTCパイプラインの経路用地取得における土地収用権違反などの人権侵害を強調している[50]。

フィクションにおいて

BTCパイプラインはいくつかのフィクション作品で取り上げられている。ジェームズ・ボンドシリーズの『ワールド・イズ・ノット・イナフ』ではプロットの中心として取り上げられた。主要人物の一人であるエレクトラ・キングは、カスピ海からトルコの地中海沿岸までカフカースを横断する石油パイプラインの建設工事を指導している。このパイプラインこそ、わずかに設定を変えたBTCパイプラインである[39]。

また「ゴルゴ13 オリガルヒの報復」でもこのパイプラインが関連している。
関連項目

アゼルバイジャンの経済
アゼルバイジャンの国際関係
ジョージアの国際関係
トルコの国際関係
en:Geostrategy in Central Asia
石油政治
オランダ病
バクー・スプサパイプライン (Baku-Supsa Pipeline) ・・・西ルート
バクー・ノヴォロシースクパイプライン (Baku-Novorossiysk Pipeline) ・・・北ルート 』

トルコのジェイハン港は、原油の積み出し港なのだが、そこもやられた。

トルコのジェイハン港は、原油の積み出し港なのだが、そこもやられた。
https://st2019.site/?p=20858

『The Maritime Executive の2023-2-6記事「Earthquake Disrupts Oil Exports From Turkey’s Ceyhan Terminal」。

    トルコのジェイハン港は、原油の積み出し港なのだが、そこもやられた。震源からは100マイル未満。
 アゼルバイジャンとイラクの原油は、パイプラインでジェイハン港まで圧送されてきているのだ。それを扱えなくなった。

 ジェイハンには、原油貯油タンクが7基、および、VLCC級タンカーが横付けできる積み込みバースが2箇所ある。平時であれば、この港から100万バレル/日を出荷する。

 港に給電されている外部電力がなくなったので、港の業務も止めるしかなくなった。
 パイプラインそのものに被害はなかった。それは地震対策が十全にできているのだ。

 ※今回の日本政府によるレスキュー隊の派遣はすばらしく迅速で、大いにトルコ国内に於ける日本国の声価を高めたと信じられる。でかした。ちなみに極東からは台湾チームも速かった。韓国・中国は、本案件に関してはニュース的に埋没している。』

ヴェストファーレン条約

ヴェストファーレン条約
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84

『ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である[1]。ラテン読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である[1][2]。

この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った[1][2]。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。
会議と条約の参加者

ヴェストファーレン条約を構成する2つの条約のうち、オスナブリュック講和条約 (Instrumentum Pacis Osnabrugensis)は、カトリック勢力を率いた神聖ローマ皇帝(オーストリア)と、プロテスタント勢力の主柱だったスウェーデン女王の講和問題を主な内容とする。ミュンスター講和条約 (Instrumentum Pacis Monasteriensis)は、神聖ローマ皇帝と、カトリック国でありながらプロテスタント側で参戦したフランス国王との講和問題を中心とする条約である。

戦争の主要当事者には他にもう一つ、カトリックのスペインがあり、主にフランスと戦っていた。スペインも講和会議に参加したが、ここでは妥結に至らなかった[3]。会議が開かれた時点では、参加した主権国家はわずか12か国にすぎなかった[4]。
1646年、平和交渉のためミュンスターに向かうオランダ全権アドリアン・ポー(英語版)の一行

スペインからの独立戦争を戦っていたオランダも、ネーデルランド連邦議会の名で会議に加わり、同じ年にスペインとミュンスター条約を結んで独立を認められた。学者によってはこのミュンスター条約もウェストファリア条約に含めることもある[5]。

ヨーロッパ諸国のほとんどは、三十年戦争に参戦しなかった国も含め、何らかの形で会議に参加した[2]。参加者のうち、数の上で多数を占めたのは、神聖ローマ帝国内部の領主、有力聖職者、都市からなる帝国等族である[5]。彼らの中の有力な一部は、皇帝・国王と並んで2条約に名を連ねた。ヴェネツィア共和国とローマ教皇は、和平の当事者ではなく仲介者として参加した[6]。会議に使節を派遣しなかった有力国は、清教徒革命の内戦下にあったイングランド王国、宗派・宗教が異なるロシア、オスマン帝国の3国だけであった[7]。

この時代には国家が法人格を持つものと考えられておらず、外交は君主・議会など統治権を持つ個人・団体の資格でなされた[2]。どの国も使節を派遣し、君主などの本人は参加しなかった[2]。派遣されて会議に加わった使節の総数は、帝国外から37、帝国内から112、計148名にのぼった[8]。参加国のすべてが条約の署名者に連なったわけではない。オスナブリュック講和条約には、皇帝の全権使節2名、スウェーデン女王の全権使節2名、都市を含めた帝国等族の使節36名の計40名が署名した。ミュンスター講和条約には、皇帝の全権使節2名、フランス国王の全権使節1名、帝国等族の使節35名の計38名が署名した[9]。条約は署名に加わらなかったもの(特に帝国等族)も履行・遵守の義務を負うものとしており、また、イングランドやロシアのような参加しなかった国も講和に含まれるものとした[10]。

戦場では同盟して戦ったフランスとスウェーデンであったが、和平交渉の場では、戦争から引き出す利益の分配をめぐるライバルであった[1]。神聖ローマ皇帝もまた、両国を対立させ、その溝を利用して犠牲を最小化しようと努力した[1]。
内容

1648年10月24日に、ヨーロッパのほとんどの大国が参加して、現在のドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるミュンスターで締結された(実際にはオスナブリュック条約もミュンスターで締結された)[2]。取り決められた内容は膨大であるが、代表的なものとして以下の事柄が挙げられる。

フランスは、アルザス地方と、ロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダンを獲得した(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)[11][12]。
スウェーデンは、賠償金500万ライヒスターラー、フォアポンメルン公位(西ポンメルン:オーデル川河口、ヴェーザー川河口を含む)、ヴィスマール市、ブレーメン公位(旧大司教)、フェルデン公位(旧司教)などを獲得した[11][12]。
スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、独立を承認された(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)[12]。
ブランデンブルク選帝侯は、ヒンターポンメルン公位(東ポンメルン)を獲得した。
アウクスブルクの和議の内容を再確認、カルヴァン派を新たに容認した[11]。
神聖ローマ帝国内の領邦は主権と外交権を認められた[11][12]。
一方皇帝は、法律の制定、戦争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なければならなくなった[12]。
神聖ローマ帝国内の議会及び裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が規定された[11][12]。
1623年に皇帝フェルディナント2世が決定したプファルツ選帝侯から選帝侯の地位を剥奪してバイエルン公に与える勅令は有効とされ、バイエルン公マクシミリアン1世は、与えられた選帝侯位はそのまま認められた。一方で、プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒに対しては選帝侯位を新たに与えられた。旧プファルツ領は両者で分割され、バイエルン選帝侯はオーバープファルツを獲得した。なお、バイエルンとプファルツが統合された場合にはプファルツの選帝侯位は消滅することとされた。

この結果、フランスは、アルザス・ロレーヌへの勢力拡大に成功し、スウェーデンは帝国議会への参加権を得た。一方、ドイツでは領邦主権が確立し、領邦君主による連合体としてのドイツという体制が固まった[12]。

この条約の成立によって、教皇・皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された[12]。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国の存在を前提として勢力均衡の中で国益をめぐり合従連衡を繰り返す国際秩序が形成された。この条約によって規定された国際秩序はヴェストファーレン体制とも称される[12]。
影響
ヴェストファーレン条約後のドイツ地方。大国はもちろん、都市国家規模の自由都市や小国までもが独立国としての権威を獲得した。

三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけハプスブルク家の敗北によって終わった。この条約で新教徒(特にカルヴァン派)の権利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められたこと、またカトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定したことで、ドイツでは紛争を平和的に解決する道が開かれた。このため最後の宗教戦争と言われる[11]。

ドイツは、帝国内の領邦に主権が認められたことにより、300に及ぶ領邦国家の分立が確定した。また皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場に立たされることとなった[11]。これにより、ハプスブルク家は依然として帝国の最有力諸侯として帝位を独占したものの、帝国全体への影響力は低下し、自らの領地であるオーストリア大公国やボヘミア王国・ハンガリー王国などの経営に注力せざるを得なくなった(ハプスブルク君主国)。その一方で、帝国の組織は保存され、それら領邦国家の保存・平和的な紛争解決手段として活用されることとなった。

この条約で多くの利益を得たのは、ベールヴァルデ条約で結ばれていたフランスとスウェーデンである。デンマーク、イングランド(ピューリタン革命の中途)はプロテスタントでありながら戦勝国に加われなかった。また、カトリックのスペイン・ハプスブルク家がこの戦争を通して勢力の減退を印象づけ、以後は没落の一途をたどる[11]。
フランス

フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。ハプスブルク家の弱体化に成功した上、アルザスを得たフランスは、以後ライン川左岸へ支配領域の拡大を図り、侵略戦争を繰り返すことになる[11]。宰相リシュリューは、国王ルイ13世をケルン大司教(選帝侯)に、更には神聖ローマ皇帝位に就けようとしていたが、野望は果たせなかった。

またフランスは、アルザスやロレーヌの一部を獲得しながら、帝国諸侯となることは出来なかった。これは帝国議会・帝国クライスへ介入する道が閉ざされたことを意味した。後にルイ14世はスペイン継承戦争でライン川流域に手を伸ばすが、帝国クライスで結束した諸侯たちは一致してフランス勢力に立ち向かうことが出来た。
スウェーデン

スウェーデンもこの条約でバルト海沿岸部に領土を獲得し、その一帯に覇権を打ち立てた[11]。この時代のスウェーデンはバルト帝国とも称される。ブレーメンからフランクフルトまでを制圧し、この区間から帝国郵便を駆逐してスウェーデン郵便を展開していた[11]。

1644年に親政を開始したクリスティーナ女王が寛大な姿勢で大幅な譲歩をしたため、取り分が激減してしまったとも言われる。彼女は父グスタフ2世アドルフの理想(古ゴート主義)を放棄し、カトリックと和解した。彼女の理想は全キリスト教世界の救済だったのである。グスタフ2世アドルフの政策を受け継ぎスウェーデンに勝利をもたらした宰相オクセンシェルナは、親政開始により事実上失脚した。後に彼女はスウェーデンのプロテスタント教会と反目し、王位を返上してカトリックに改宗する。

またスウェーデンにおいて重要だったのは、フランスとまったく逆に、レーエンという形で領土を与えられたということである。すなわち、スウェーデンはフォアポンメルン、ブレーメン、フェルデンを得たが、これはスウェーデン王がフォアポンメルン公、ブレーメン公、フェルデン公の位を帯びることを意味したのである。スウェーデンは帝国議会に席を持ち、オーバーザクセン、ニーダーザクセン、ニーダーライン・ヴェストファーレンの3つの帝国クライスに席を占め、それらを機能不全にさせた。

その一方でスウェーデンは帝国諸侯として帝国が戦争を行う場合には兵員と軍資金の供出を義務づけられることとなった。オランダ侵略戦争の際、1674年に帝国議会が対フランス戦争を宣言すると、スウェーデンはフランス側に立ち、1675年に神聖ローマ帝国と戦争を始めるのであるが、スウェーデンは帝国と戦争を行いながらも、ブレーメン公としてニーダーザクセン・クライスに定められた兵員を供出する、という奇妙な立場に立たされることとなった。
ローマ教皇庁

ローマ教皇庁はこの条約を不服として条約の宣言を無効と主張した。現在でも撤回されていない。
評価

ヴェストファーレン条約は、元より集権制が弱く統一された「帝国」としての立ち位置が不安定だった神聖ローマ帝国が、明確に統一性を失った出来事だった。同条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれ、「神聖でなければローマでもなく、帝国ですらない」というヴォルテールが評した大空位時代と並んで、ドイツ地方の非中央集権制を象徴する物として知られている[12]。

従ってドイツ史の専門家達が「なぜドイツはスペイン・フランスに比べ、地域統一が大きく遅れたのか」という問いを立てたとき、神聖ローマ帝国が集権化に失敗したことが第一に提示される[11]。そして、ヴェストファーレン条約と大空位時代はその象徴的なできごととしてみなされることが多い。

事実、皇帝権が決定的に失墜した事で帝国の集権化という発想は棄却され、バイエルン王国を初め各地方の領邦国家が独自に集権化を進めていった。同じドイツ人地域を含むオーストリア帝国を切り捨てる形で後世にドイツ統一を達成したドイツ帝国も、領邦国家の自治権を完全に廃することはできなかった。加えてナチス時代と東西分断を経た今日のドイツも、政体として連邦制を採用している。これはドイツの地方意識の強さを反映していると指摘される。

この条約によって、ナポレオン戦争(1803年 – 1815年)までのヨーロッパ国際秩序(「ヴェストファーレン体制」)が形成された[注釈 1]。
脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序は、1814年・1815年のウィーン会議(ウィーン議定書)によって決定づけられたため、「ウィーン体制」と称する。

出典

^ a b c d e 木谷(1975)pp.21-24
^ a b c d e f 菊池(2003)pp.214-219
^ 明石『ウェストファリア条約』3頁、48頁。
^ 中嶋(1992)p.190
^ a b 明石『ウェストファリア条約』21頁注1。
^ 明石『ウェストファリア条約』40-41頁。
^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。ポーランドを不参加とする説があるが、使節を参加させていたようである(同書78-79頁注21)。
^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。
^ 明石『ウェストファリア条約』60-61頁。
^ オスナブリュック講和条約第17条、明石『ウェストファリア条約』65-66頁に訳出。明石は、参加しない者が講和に含まれたのは、全ヨーロッパ的な平和状態への移行をともにする、という意味合いだと説く(同書68-69頁)。
^ a b c d e f g h i j k l 木谷(1975)pp.24-29
^ a b c d e f g h i j 菊池(2003)pp.223-226

参考文献

明石欽司 『ウェストファリア条約 - その実像と神話』慶應義塾大学出版会、2009年6月。ISBN 978-4-7664-1629-9。
伊藤宏二 『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国 - ドイツ帝国諸侯としてのスウェーデン』九州大学出版会、2005年12月。ISBN 978-4-87378-891-3。
菊池良生 『戦うハプスブルク家 - 近代の序章としての三十年戦争』講談社〈講談社現代新書 1282〉、1995年12月。ISBN 978-4-06-149282-0。
菊池良生 『神聖ローマ帝国』講談社〈講談社現代新書〉、2003年7月。ISBN 4-06-149673-5。
木谷勤 著「血なまぐさい宗教戦争」、大野真弓責任編集 編 『世界の歴史8 絶対君主と人民』中央公論社〈中公文庫〉、1975年2月。ISBN 4-265-04401-8。
中嶋嶺雄 『国際関係論』中央公論社〈中公新書〉、1992年12月。ISBN 4-06-149673-5。
『ドイツ史 1 先史-1648年』成瀬治、山田欣吾、木村靖二編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年7月。ISBN 978-4-634-46120-8。

関連項目

国際法
主権
ピレネー条約
シュテッティン条約
国家の独立
主権国家体制
フーゴー・グローティウス
正戦論

外部リンク

友清理士 (2013年7月1日). “ヴェストファーレン条約全訳”. 歴史文書邦訳プロジェクト. 2013年7月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2020年3月4日閲覧。
『ウェストファリア条約』 - コトバンク
「近代国際関係条約資料集」デジタル復刻出版(龍溪書舎)
Peace of Westphalia(Encyclopædia Britannica , 英文)

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表話編歴

三十年戦争 (1618年–1648年)の条約
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ウェストファリア条約(世界史の窓)

ウェストファリア条約(世界史の窓)
https://www.y-history.net/appendix/wh0904-097.html

『1648年、三十年戦争の講和条約。最初の近代的な国際条約とされ、主権国家間の国際関係である主権国家体制が成立したという意義がある。

 1648年、ウェストファリア会議で成立した、三十年戦争の講和条約。世界最初の近代的な国際条約とされる。ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方で、その中心の二つの都市、ミュンスター市とオスナブリュック市で講和会議が開かれた。会議は1642年に開催されることになったが、皇帝とカトリック諸侯の内輪もめや、フランスの参加が遅れたことなどのため、1644年にようやく始まった。会議の場所が二カ所になったのは、フランス(ミュンスター市)とスウェーデン(オスナブリュック市)という戦勝国を分離させ、それと個別に交渉して有利に講和しようと言うドイツ諸侯の策謀があったからであった。いずれにせよ、神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した、世界で最初の大規模な国際会議であった。会議は45年から実質的な討議に入り、延々と3年を要して、1648年にようやくウェストファリア条約が締結され、三十年戦争を終結させた。

条約の内容

 次の5点に要約することが出来る。

1、アウクスブルクの和議が再確認され、新教徒の信仰認められる。またカルヴァン派の信仰も認められた。(宗教戦争の終結)
2、ドイツの約300の諸侯は独立した領邦となる(それぞれが立法権、課税権、外交権を持つ主権国家であると認められる)。 → 神聖ローマ帝国の実質的解体
3、フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得。
4、スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。
5、オランダの独立の承認(オランダ独立戦争の終結)と、スイスの独立の承認

フランス・スペイン間のピレネー条約 なお、フランス(ルイ14世・マザラン)とスペイン間の戦争は継続され、両者の講和は遅れて1659年のピレネー条約で成立した。ピレネー条約でフランスはアルトワを獲得、ルイ14世とスペイン王フェリペ2世の娘マリー=テレーズの婚姻を取り付けた(これは後に重要になる)。またこの時イギリスはピューリタン革命の最中であったので、この条約には関わっていない。

条約の意義

POINT 次の3点に要約することが出来る。

1、宗教改革以来の新旧両派の対立を終わらせ、ヨーロッパ中央部を人口及び資源の面でカトリック圏とプロテスタント圏に均等な勢力圏を構成させ、新旧両教派の勢力均衡を図った。
2、この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアとそのほぼ東方を領有することになった。そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われている。
3、また、神聖ローマ帝国の実質的解体に伴って、ドイツの領邦はそれぞれ独立した領邦国家として認められた。これによって中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態として確立したとされている。

 → 主権国家体制

 三十年戦争の講和会議であるウェストファリア会議で成立した、ウェストファリア条約の意義は上の三点に要約される。それらをさらにまとめて言えば、ウェストファリア条約によって「西欧国際体制」ができあがった、ということである。

西欧国際体制

 西欧国際体制 western state system とは、一般に、主権国家の概念の確立・国際法の原則・勢力均衡の国際政治、の三要素からなる、近現代の国際関係の特質である。その三要素は次のように説明できる。

1、主権国家 内部においては国家権力が最高の力として排他的にな統治を行い、かつ対外的には外国の支配に服することのない独立性を持った国家である。主権国家においては、国家主権の及ぶ範囲の「国民」と「領土」が次第に明確にされる。
2、国際法 主権国家の利害が対立して戦争となった時、国家間の関係を律する法が必要であると認識されるようになった。西欧国際体制のルールとしての国家間の法律が国際法であり、三十年戦争の最中にグロティウスの『戦争と平和の法』などで提唱された。
3、勢力均衡 国際法だけで主権国家間の利害を調整できない場合、戦争を回避する手段として、ある国家だけが絶大な力を持つことがないように同盟関係を築いて、国家間の力の均衡(バランス・オブ・パワー)を図った。

※ただし、17世紀のウェストファリア条約の段階は、主権国家が成立していたが、それは各国の君主が絶対的な国家主権を行使する「絶対主義」(絶対王政)であり、明確な国民意識や国境線で区切られた領土、傭兵ではない国民軍、さらに国民主権という概念やその政治機構などを特質とする「国民国家」が形成されるのは18世紀後半のフランス革命に代表される市民革命の時期を待たなければならない。

また、欧州の範囲にとどまっていればこの体制は有効だったが、19世紀後半から植民地問題が加わり、帝国主義段階となると国家の暴走を止められなくなり、また非ヨーロッパ諸国が台頭してくると、この体制は機能しなくなる。<木畑洋一『国際体制の展開』世界史リブレット54 1997 山川出版社 p.5-7> 』

トルコにおける地政学の展開

トルコにおける地政学の展開
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/JapanBorderReview/no6/pdf/05.pdf

 ※ 例によって、テキストを抽出した。

 ※ 「抽出」は、キレイに出ないようなんで、「変換」という機能使ったものを、貼っておく…。

 ※ どうも、またまた、北大のスラブ文化研究所の発出情報のようだ…。

 ※ ここは、けっこう重要な視点だ…。

 ※ 今般の大地震も、シリア国境に近く、相当数のシリア難民が居住していた地域だった…、という話しだ…。

『『境界研究』No. 6(2016)pp.113-135
[研究ノート]
トルコにおける地政学の展開
——国家論と批判の狭間で——
今井宏平


はじめに
冷戦、湾岸危機、イラク戦争という、ここ70年の国際秩序の在り方を規定してきた現
象、もしくは事件において、トルコの地政学的位置は常に大国から重要視され、国内外
において論争の的となってきた。トルコは、冷戦期においてはソ連に対する「最前線国家
(frontier state)」と見なされ、湾岸危機とイラク戦争においては多国籍軍のイラク攻撃に際
し、トルコにある北大西洋条約機構(NATO: North Atlantic Treaty Organization)基地の使用が
争点の一つとなった。


このトルコの「地政学的重要性」はトルコのアカデミズムにも影響を与えた。冷戦期にお
いても陸軍士官学校や国家安全保障学校で地政学の講義が行われてきたが、特に2000年代
になってトルコの地政学をさまざまな角度から検証する研究が見られ始めた。近年、国際
関係論において、非西洋諸国が西洋で生まれた国際関係論をどのように受容したのか、独
自の切り口を提供したのか、理論的発展に貢献したのかを問う非西洋の国際関係論が世界
大で脚光を浴びている。トルコの研究者、もしくはトルコを事例に研究を行なっている研
究者は、比較的早い段階から非西洋起源の国際関係の創出に取り組んでおり(1)、その特徴
の一つが地政学の積極的な受容であった。とりわけ、彼らの問題関心は、多様な地理的側
面を有するトルコをどのような国家概念で分析するのか、そして、地理的位置と国家戦略
の関係を論じる、いわゆる古典的地政学に潜む偏りや矛盾を暴くことに主眼を置く批判地
政学による分析の二つに大別される。


本稿では、トルコのアカデミズムにおいて見られる地政学の積極的な受容が、トルコの
非西洋の国際関係論の重要な側面であることを受け入れるものの、その受容がいまだに発
展途上であることを前提に、まず、トルコの地政学的特徴を捉えようとする国家概念とし
て「絶縁体国家」、「リミナル国家」、「尖端国家」を取り上げ、その有効性と限界について検
証する。次いで、古典的地政学を構成する公式地政学と実践地政学に関する批判地政学の
⑴例えば、2004年から発刊されている『国際関係雑誌(Uluslararasi ili§kiler Dergisi)』において、たびたびトルコ
の国際関係論について議論されている。
DOI :10.14943/jbr.6.113
113
今井宏平

分析について再検討する。公式地政学とは、知識人や国家機関が標榜する特定の地理的世
界観であり、実践地政学とはそうした特定の地理的世界観に基づく外交の実践のことであ
る。そのうえで、トルコにおける国際関係論と地政学の関係の今後の可能性と課題につい
て言及したい。


1.トルコにおける非西洋の国際関係論


1.1非西洋の国際関係論の二つのアプローチ


2000年代に入り、国際関係論の西洋中心主義に疑問を呈する形で、非西洋の国際関係論
に注目が集まり始めた。その中心となったのが、2004年からアーリーン・ティックナー
(Arlene B. Tickner)、オーレ・ウェーヴァー (Ole W&ver)、デヴィッド・ブラネイ(David L.
Blaney)等によって始められた「地理文化的認識論と国際関係論(Geocultural Epistemologies
and International Relations) jというプロジェクトと三巻にわたるその成果である(2)。非西洋
の国際関係論を検討する作業は、大きく二つの段階的アプローチから成り立つ。第一のア
プローチは、非西洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創出される独自の視点を
検討するものである。これに次ぐ第二のアプローチが、非西洋に属する地域•国家・社会
の中から創出または発見される自前(homegrown)の国際関係に関する思想や見方を検討す
るものである。


第一のアプローチは、言い換えれば、既存の国家単位で独自の国際関係論が存在するか
を問うもので、国際関係論において前提とされてきた西洋起源のウェストファリア体制に
懐疑的であるが、その前提を受け入れたうえで、西洋の諸国家とは異なる、非西洋の特殊
性に着目する。「地理文化的認識論と国際関係論」の最初の成果として2009年に刊行された
『世界各国の国際関係論』、二つ目の成果として2012年に刊行された『異なった国際関係を
考える』は、まさにウェストファリア体制を前提としたうえで非西洋国家の国際関係論を
検討するものであった。それに対し、三つ目の成果である『国際を求める』は、第二のアプ
図1 非西洋国際関係論へのアプローチ
出典:筆者作成
(2) Ole Waever and Arlene B. Tickner, eds., International Relations Scholarship Around the World (London: Routledge,
2009); Arlene B. Tickner and David L. Blaney, eds., Thinking International Relations Differently (London: Routledge,
2012); Arlene B. Tickner and David L. Blaney, eds., Claiming the International (London: Routledge, 2013). ノレー卜
リッジ社では、上記の三巻本を皮切りに、その後も「西洋を越えた世界化(Worlding beyond the West)jという
シリーズで非西洋の国際関係について論じた著作を刊行している。
114
トルコにおける地政学の展開
ローチに分類され、西洋起源の国際関係から脱し、西洋の国際関係論に代わる概念や視点
を提供することを荒削りながらも目指している。『国際を求める』に基づくと、第二のアプ
ローチは、さらに二つに峻別することが可能である。まず、ウェストフェアリア体制を含
む、既存の国際関係論の前提を批判し、その問題点をあぶり出す作業が必要となる。次い
で、非西洋世界の経験を取り入れた、西洋起源の既存の国際関係論に代わる考えや見方を
提示するアプローチが想定される(以上、図1参照)。


1.2トルコの国際関係論と地政学


「はじめに」でも触れたように、トルコの国際関係論に興味を持つ研究者たちは、国際関
係論におけるトルコの独自性の一つを地政学に求めた。この、トルコ研究者の地政学の積
極的な受容に関して、大きく二つの研究潮流が見られる。

一つ目の潮流は、トルコのよう
に地理的に多様な側面を持つ国家の「重要性」、「ユニークさ」、「例外性」、「困難さ」を分
析するための国家概念の発明である(3)。例えば、トルコとその外交を分析するために、地
理的に地域間の谷間に位置しているものの、地域間を結びつける作用は薄い「絶縁体国家
(insulator state) j (B ・ブザン/。 •ウェーヴァー)、地政学的な位置とアイデンティティが
必ずしも一致しない「リミナル国家(liminal state)」(B ・ルメリリ、L ・ヤヌク)、ある地域
の「端」に位置し、その地理的特性を国家行動に活かしている「尖端国家(cusp state)」(P ・ロ
ビンス、M•アルトウンウシュク)という国家概念が検討されてきた(4)。この潮流は、非西
洋の国際関係論の文脈で考えると、非西洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創
出される独自の視点を検討する第一のアプローチに該当する。


二つ目の潮流は、地理とアイデンティティの関係やテキスト分析に基づく批判地政学
(critical geopolitics)の枠組みを取り入れ、トルコ外交に付与されている「言説」を暴こうとす
るものである。ここでの言説とは、「権力と権威とを言語の構成物に混合させたもの」のこ
とを指す(5)。批判地政学は、伝統的地政学(古典的地政学)を再考し、その偏りや政治課題
(3) Lerna Yanik, “The Metamorphosis of Metaphors of Vision: ‘Bridging’ Turke’s Location, Role and Identity After the
End of the Cold War,” Geopolitics 14, no. 3 (2009), p. 535.
(4) トルコの地政学的特徴を表現する概念として最も頻繁に用いられてきたのは「橋(bridge)」のメタファーで
ある。この表現は、トルコ外交に関する古典であるフェレンク・ヴァリ(Ferenc Vali)の『ボスポラスを横断
する橋』から使用され始め、1990年代のオザルの新興独立諸国に対する外交を指す言葉として用いられた。
しかし、「橋」はあくまでメタファーであり、分析概念ではないので、ここでは考察の対象から除く。「橋」
メタファーの視点からトルコを論じたものとして以下を参照。Yanik, “The Metamorphosis of Metaphors of
Vision”; Ference Vali, Bridge across the Bosporus: The Turkish of Foreign Policy of Turkey (Baltimore: The Johns
Hopkins Press, 1971); Ian Lesser “Bridge or Barrier? Turkey and the West After the Cold War,” in Graham E. Fuller
and Ian Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics: From the Balkans to Western China (Boulder: Westview Press, 1993);
Ian Lesser, “Beyond ‘Bridge or Barrier’: Turkey’s Evolving Security Relations with the West,” in Alan Makovsky
and Sabri Sayari, eds., Turkey’s New World: Changing Dynamics in Turkish Foreign Policy (Washington, D.C. : The
Washington Institute for Near East Policy, 2000), pp. 203-221.
(5) コーリン・フリント著、高木彰彦編訳『現代地政学:グローバル時代の新しいアプローチ』原書房、2014年、
115
今井宏平
を暴くことを目的とする(6)。

伝統的地政学とは、一般的に、地理的条件が外交政策に与え
る影響を考察する研究分野のことを指し、特に国家の戦略と結びついてきた(7)。伝統的地
政学には、白人、男性性、エリート、西洋的コンテクストとの知という四つの特権的立場
が所与として付随しており、19世紀後半の帝国主義の時代から現在に至るまで、対外政策
に影響を与えてきた(8)。よって、伝統的地政学は全くニュートラルな立場から地理的条件
を考慮するのではなく、ジェラルド・トール(Geroid O’Tuathail)が指摘するように、「ある
特定の地理的世界観によって情報処理される」ものであった(9)。ある特定の地理的世界観
とは、要するに地政学的ヴィジョンのことである。加えて、伝統的地政学は、大衆の支持
を得るために過度に単純化されたヴィジョンを提示することに努めてきた。


それでは、批判地政学はどのように伝統的地政学を再考しているのだろう^、。トールに
よると、批判地政学は伝統的地政学を公式地政学、実践地政学、大衆地政学、構造地政学
に区分して分析する(10)。「ある特定の地理的世界観によって情報処理される」ということを
念頭に置くと、公式地政学は、知識人や国家機関による特定の地理的世界観の構築、実践
地政学は特定の地理的世界観の外交における実践、大衆地政学は、マスメディアを通した
特定の地理的世界観の大衆への喧伝と理解の促進、構造的地政学は特定の地理的世界観に
基づく外交の実践を促進させたり制約させたりする国際システムの構造変化、にそれぞれ
焦点を当てた見方である。国際システムの構造変化として、トールは、グローバル化、情
報化、技術/科学リスクの三つを挙げている(11)。


トルコにおける批判地政学的分析の第一人者は、批判安全保障研究(critical security
studies)を提唱したケン・ブース(Ken Booth)の弟子、プナール・ビルギン(Pinar Bilgin)で
あった。ビルギンは2007年の「強い国家だけがトルコの地理的位置で生き残れる:トルコ
における『地政学的真実』の活用」(12)、2012年の「トルコの地政学的教義」(13)という論文で、
トルコにおいて地政学の概念が外交の形成にどのように利用されてきたのかをアイデンテ
イティとの関係を中心に論じている(14)。また、ムラト・イエシルタシュ(Murat Ye§ilta§)は
6頁。批判地政学と言説に関しては、例えば、Geraoid O’Tuathail and John Agnew, “Geopolitics and Discourse:
Practical geopolitical reasoning in American Foreign policy,” Political Geography 11(1992), pp.190-204.
(6) フリント、『現代地政学』、6頁。
(7) O’Tuathail and Agnew, “Geopolitics and Discourse,” p.191.
(8) フリント、『現代地政学』、5頁。
(9) ジェラルド・トール「批判地政学の理解のために:地政学とリスク社会」コリン・グレイ、ジェフリー・スロー
ン編、奥山真司訳『進化する地政学:陸、海、空、そして宇宙へ(戦略と地政学1)』五月書房,2009年、235頁。
(10) トール「批判地政学の理解のために」、235-237頁。
(11) トール「批判地政学の理解のために」、249-252頁。
(12) Pinar Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography: The uses of ‘geopolitical truths’ in Turkey,”
Political Geography 26 (2007), pp. 740-756.
(13) Pinar Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma,” in Stefano Guzzini, ed., The Return of Geopolitics in Europe?: Social
Mechanisms and Foreign Policy Identity Crises (Cambridge: Cambridge University press, 2012), pp. 151-173.
(14) ビルギンはまた、国際政治において、地理的位置に基づき、自己と他者を明確に区別する認知地図とし
てジョン・アグニュー (John Agnew)が概念化した「文明的地政学(civilizational geopolitics)」を使用して、卜
116


トルコにおける地政学の展開
「トルコの外交政策における地政学的ヴィジョンの転換」という論文でトルコ共和国建国期
から2012年前後に至るまでのトルコ外交を、冷戦期、ポスト冷戦期(1990年代)、公正発
展党(15)政権期(2000年代)という三つに時期区分した上で、その地政学的ヴィジョンを検
証している(16)。地政学的ヴィジョンとは、ガートジャン・ディキンク(Gertjan Dijkink)に
よると、「自身の場所と他の場所の関係に関して、安心感(不安感)や強み(弱み)の意識を
引き起こし、(そして/または)外交戦略もしくは集団的使命に関するあらゆる考えを思い
起こさせる」ものである(17)。メリハ・アルトウンウシュク(Meliha Altuni§ik)も後述する「尖
端国家」という概念を用いて、トルコ外交を批判地政学の視点から検証している。2015年
2月には、ビルギンとイエシルタシュなどが中心となり、『トルコは世界のどこに位置す
るのか?』というトルコで初の批判地政学の論文集が刊行された(18)。この二つ目の潮流は、
非西洋の国際関係論の第二のアプローチの第一段階である、既存の国際関係論の批判に該
当する。

1.3地政学の受容の未完性
このように、トルコの研究者、もしくはトルコを素材として扱った研究者たちは地政学
をキーワードに、既存の国際関係論の再検討を模索してきた。しかし、二つの潮流を巡る
議論にはいまだに根本的な問題点が散見される。第一の潮流に関しては、そもそも「絶縁
体国家」、「リミナル国家」、「尖端国家」という国家概念は分析概念としてどれほどの有効
なのだろうか。国際政治は動的な現象によって成り立っており、一時的に有効であった分
析概念も時間と共にその有効性を失うことがある。第二の潮流に関しては、批判地政学
の視点がどこまで「批判的なのか」疑問の余地が残る。例えば、イエシルタシュの分析で
は、冷戦期とポスト冷戦期(90年代)の地政学的文化(geopolitical culture)が「防御的地政学
(defensive geopolitics)jだったのに対し、公正発展党政権期は「保守的・イスラーム主義的地
政学(conservative and Islamist geopolitics)」とされ、前者が静的な外交であったのに対し、後
者は動的な外交を可能にしたとして評価されている(19)。「防御的地政学」は、国際関係理論
の「防御的リアリズム」を念頭に置いており、現状維持と相対的な利得を重視するものであ
ルコ と EU を分析している。Pinar Bilgin, “A Return to ‘Civilizational Geopolitics’ in the Mediterranean?: Changing
Geopolitical Images of the European Union and TUrkey in the Post-Cold War Era,” Geopolitics 9, no. 2 (2004), pp. 269-291.
(15) 公正発展党は2002年11月から2015年6月まで単独与党の座を維持していた。2015年11月の再選挙以降、
再び単独与党の座についている(2016年1月現在)。
(16) Murat Ye§ilta§, “The Transformation of the Geopolitical Vision in Turkish Foreign Policy,” Turkish Studies 14, no. 4
(2013), pp. 661-687.
(17) Gertjan Dijkink, National Identity and Geopolitical Vision: Maps of Pride and Pain (New York: Routledge, 1996), p.
11.訳出するに当たり、フリント『現代地政学』、143頁も参考にした。
(18) Pinar Bilgin, Murat Ye§ilta§,ve Sezgi Durgun, der., Turkiye Dunyanin Neresinde?: Hayali Co忘rafyalar ve Qarpi§an
Anlatilar (Istanbul: Ko¢ Universitesi yayinlari, 2015).
(19) Ye§ilta§ “The Transformation of the Geopolitical Vision,” pp. 668-679.
117
今井宏平
った。

一方、「保守的•イスラーム主義的地政学」は、公正発展党のアイデンティティが地
政学的ヴィジョンにも反映されていることを指摘している。しかし、「防御的」という国際
政治の戦略と「保守的・イスラーム主義的」という国内アイデンティティを並列に用いるこ
とには疑問がある。また、イエシルタシュの分析は、批判よりも現存する国際システムを
受け入れ,それを擁護・助長する「問題解決の理論」を提供しているに過ぎない(20)。トー
ルの「批判地政学は世界政治の複雑さというものを再認識し、古典地政学に隠されていて、
地政学関連の知識を特徴づけている『権力との関係』を暴こうとするものだ」という定義に
沿うと、イエシルタシュの分析は批判地政学のそれとは言えない(21)。


2.トルコをめぐる国家概念の有効性と限界


2.1現代トルコの地政学的特徴


本節では、トルコの地政学的特徴を捉えるために近年創出された国家概念について考察
する。まず、今日のトルコの地政学的特徴を確認しておこう。第一に、トルコは、中東、
南コーカサス、東欧、バルカン半島という多様な地域に陸続きで隣接している点が指摘で
きる。第二に、黒海、東地中海、マルマラ海に接し、近隣のカスピ海、中東の湾岸にも影
響力を行使できる点が挙げられる。黒海と東地中海を結ぶボスフォラス海峡とダーダネル
黒海
ブルガリア
キプロス
。 市町村
—河川
トルコとその周辺国
出典:編集部作成
(20) Robert Cox, “Social forces, states and world orders: beyond international relations theory,” Millennium: Journal of
International Studies 10 (1981),pp.128-29.
(21)トール「批判地政学の理解のために」、232頁。
118

トルコにおける地政学の展開
ス海峡の存在は特に重要である。

第三に、潜在的なものも含め、中央アジア、南コーカサ
ス、北イラクの石油・天然ガスの輸送ルートとして欠かせない点である。特にロシアを経
由せずに、中央アジアや南コーカサスとヨーロッパを結べる点は、ヨーロッパ諸国にとつ
て魅力である。第四に、イラク、シリアの上流に位置し、チグリス川とユーフラテス川の
水資源をコントロールできる点が挙げられる。第五に、アダナ県のインジルリク基地をは
じめとしたNATO空軍基地を保有している点である。第六に、冷戦時代はソ連、冷戦後は
イラクやシリアといった、アメリカを中心とした有志連合が最も脅威を抱く国々と接して
いるという点である。


トルコの地政学的重要性は、トルコ国内だけでなく、アメリカのシンクタンクの研究者
などにも十分認識されてきた。そのため、「トルコは地理的に重要」という言説は、トルコ
の政策決定者やメディアだけでなく、各国からも賛同を得る形で間主観的にその正当性を
高めてきた。


2.2「絶縁体国家」


バリー・ブザン(Barry Buzan)とウェーヴァーは2003年に出版した『地域とパワー』におい
て、トルコをアフガニスタン、ミャンマーと共に「絶縁体国家」と定義している。『地域と
パワー』は、グローバルな観点から地域別の安全保障共同体(22)の関係について論じた著作
であり、その中で「絶縁体国家」は「地理的に地域間の谷間に位置しているものの、安全保
障分野において地域間を結びつける作用は薄い」と定義されている(23)。伝統的に「絶縁体国
家」は相対的に「受け身」であるとされ、ヨーロッパ・中東・旧ソ連圏・バルカン半島と接
するトルコも建国から冷戦期に至るまでは戦争に巻き込まれないことを目的とした受け身
の外交を展開したと説明される(24)。冷戦後の時期において、トルコは依然として各地域間
を結び付ける役割は薄いものの、各地域に積極的な外交を展開している点で、通常の「絶
縁体国家」の概念とは一線を画しているとブザンとウェーヴァーは結論付けている(25)。
ブザンとウェーヴァーの著作が刊行されてから10年以上経った現在、トルコは安全保
障分野でヨーロッパと中東を結び付ける役割を意図的にも非意図的にも果たすようになっ
ている。例えば、シリア危機に際して、NATO諸国の中では唯一中東の国家にも分類され
(22) 安全保障共同体とは、カール・ドイッチュの定義に従うと、「ある領域において、共同体意識、(統治)機構、
力強い実行力、人々の間で長期に渡る平和的変革への期待感が十分に浸透すること、という四点を実現す
ることによって統合を達成した人々の集団」とされる。Karl Deutsch et al, Political Community and the North
Atlantic Area: International Organization in the Light of Historical Experience (Princeton: Princeton University Press,
1957), p. 5.
(23) Barry Buzan and Ole W^ver, Regions and Powers: The Structure of International Security (Cambridge: Cambridge
University Press, 2003), p. 41.
(24) Buzan and W^ver, Regions and Powers, pp. 391-393.
(25) Buzan and W^ver, Regions and Powers, pp. 394-395.
119
今井宏平
るトルコは、アサド政権からの攻撃を防止するためにパトリオット・ミサイルの配備を
NATOに要請した。その結果、2013年1月から2月にかけてアメリカ、ドイツ、オランダ
(2015年1月からはスペイン)がシリア国境のガジアンテプ県、カフラマンマラシュ県、ア
ダナ県にパトリオット・ミサイルを配備した。また、2014年以降、「イスラーム国」の支配
地域へ渡航する外国人が後を絶たないが、とりわけヨーロッパからシリアへの渡航に際し
ては、トルコが主要な経由地となっている。このように、「アラブの春」以降の中東の不安
定化に際して、トルコはヨーロッパと中東の安全保障問題の結節点となりつつある。よっ
て、「絶縁体国家」という概念は、トルコ外交を分析する国家概念としては有効ではなくな
っている。


2.3「リミナル国家」


「絶縁体国家」の概念が安全保障におけるトルコの位置を考慮していたのに対し、バハー
ル・ルメリリ(Bahar Rumelili)とレーナ・ヤヌク(Lerna Yanik)は、文化人類学者のヴィクタ
ー・ターナー (Victor Turner)の「リミナリティ(liminality)」概念を援用し、多様な地域に隣接
するトルコを地政学的な場所とアイデンティティが曖昧な「リミナル国家(liminal state)」と
定義した例。ターナーは、リミナリティを必ずしも明確に定義しているわけではないが、
安定と安定の境目に生じる不安定性と見なしている26 (27) 28 29。ヤヌクによると、トルコ以外には
オーストラリア、エストニアなどが「リミナル国家」に該当するとされる例。例えば、オー
ストラリアは、地政学的な場所はオセアニア、もしくはアジア・太平洋に位置するにもか
かわらず、そのアイデンティティはイギリスの植民地の経験や英連邦の一つであることか
らヨーロッパであり、地理的な場所とアイデンティティに矛盾を抱えている。オーストラ
リアを「リミナル国家」の枠組みから分析した大庭三枝は、「リミナル国家」の特徴を、「あ
るーつの地域もしくは複数の地域の周縁に位置する国家が抱えるアイデンティティの不安
定性」に求めている㈣。地政学的位置とアイデンティティの葛藤を特徴とする「リミナル
国家」の認識は、当該国家とその他の関係国、また、当該国家の政策決定者の中でも異な
るため、間主観性が重視され、主要な政治家の自国に対する発言などが分析の対象とされ
(26) Lerna Yanik, “Constructing TUrkish ‘exceptionalism’: Discourses of liminality and hybridity in post-Cold War Turkish
foreign policy,” Political Geography 30 (2011),p. 82; Bahar Rumelili, “Liminal identities and processes of domestication
and subversion in International Relations,” Review of International Studies 38, no. 2 (2012), pp. 495-508.このリミナリ
ティ概念を最初に国際関係論に適用したのは、リチャード・ヒゴット(Richard Higgot)とキム・リチャード・
ノサル(Kim Richard Nosal)で、事例とされたのはオーストラリアであった。Richard Higgot and Kim Richard
Nossal, “The International Politics of Liminality: Relocating Australia in the Asia-Pacific,” Australian Journal of Political
Science 32, no. 2 (1997), pp. 169-185.また、liminalityは「境界」と訳される場合が多いが、本稿ではborderとの
混同を避けるため、liminalityを「リミナリティ」、liminal stateを「リミナル国家」とする。
(27) ヴィクター・ターナー著、梶原景昭訳『象徴と社会』紀伊國屋書店、1981年、40頁。
(28) Yanik, “Constructing Turkish ‘exceptionalism’.”
(29) 大庭三枝『アジア太平洋地域形成への道程:リミナル国家日豪のアイデンティティ模索と地域主義』ミネル
ヴァ書房、2004年、38頁。
120
トルコにおける地政学の展開
る。

そのため、「リミナル国家」概念による分析は国際関係論のコンストラクティヴィズム
のアプローチに位置づけられる。コンストラクティヴィズムにもさまざまな潮流がある
が、大矢根聡が指摘しているように、①国際政治上のアクター(コンストラクティヴィス
卜の文脈ではエージェンシー)間の社会的相互作用とそれによって生じる社会的構成とい
う現象を分析対象とする、②国際政治上でアクターと構造は一方的な関係でなく、相互作
用の関係にある、③アイディアやアイデンティティといった観念的要素を分析の中心とす
るという点が全ての潮流に通底する前提である(30)。また、基本的に「リミナル国家」はアイ
デンティティが曖昧な状況から脱却を図ることが念頭に置かれている。大庭は、「リミナ
ル国家」がアイデンティティの葛藤を克服するために採る戦略を、①既存の地域(集団)に
取り込まれるための適応努力をする、②二つの地域(集団)の懸け橋として行動する、③新
たな地域(集団)の枠組みを設定し、その中心的な役割を担うという三つに分類している(31)。
③の戦略は、既存の地域において、冷戦体制の崩壊や9 -11のような何らかの国際レベル
もしくは当該地域での大変動があり、地域認識が変化する場合に志向されることが多い。
トルコは大庭が指摘する①から③の戦略を全て実行している。

①に関しては、2005年12
月以降、欧州連合(EU: European Union)加盟交渉国としてEU加盟交渉を継続している。


に関しては、2002年初頭に9 -11アメリカ同時多発テロで関係が悪化した西洋諸国とイス
ラーム世界に属する諸国家の和解を目指して、当時のイスマイル・ジェム(Ismail Cem)外
相が主導する形で「イスラーム諸国会議機構(OIC: Organization of Islamic Cooperation) — EU
共同フォーラム」が開催された。さらにトルコは2005年に設立された国連機関である「文明
間の同盟(Alliance of Civilizations)jにおいて共同議長に就任し、西洋世界とイスラーム世界
の「文明間の衝突」を防ぐために積極的な活動を展開している(32)。

③に関しては、トウルグ
ット・オザル(Turgut Ozal)をはじめ、冷戦体制崩壊後に黒海を取り巻く地域を顕在化する
ための黒海経済協力機構(BSEC: Organization of the Black Sea Economic Cooperation)の立ち
上げや、アフメト・ダーヴトオール(Ahmet Davutoglu)がトルコを地域の「中心国」と位置付
けて外交を展開していることが該当するだろう。


しかし、「リミナル国家」の概念もトルコを分析する道具として適切かどうかは疑問が残
る。なぜなら、根本的にリミナル国家の概念は、アイデンティティが曖昧なことをネガテ
イブに捉えているのに対し、トルコはむしろ曖昧なアイデンティティを多面的な外交につ
なげている。例えば、EU加盟交渉もヨーロッパへの適応努力という側面と、トルコ国内
(30) 大矢根聡「コンストラクティヴィズムの視角:アイディアと国際規範の次元」大矢根聡編『コンストラクティヴィ
ズムの国際関係論』有斐閣,2013年、4-5頁。国際関係論におけるコンストラクティヴィズムの詳細に関しては、
同書に加えて、差しあたり以下を参照。宮岡勲「コンストラクティヴィズム:実証研究の方法論的課題」田中
明彦、中西寛、飯田敬輔編『学としての国際政治(日本の国際政治学1)』有斐閣、2009年、77-92頁。
(31) 大庭『アジア太平洋地域形成への道程』、40-41頁。
(32) トルコ外交における文明概念に関しては、例えば、今井宏平「国際関係論における『文明』概念の理念と実
践:トルコ外交を事例として」『中央大学社会科学研究所年報』15号、2011年、47-63頁を参照のこと。
121
今井宏平
と国際社会において、トルコが民主化を促進させていることの根拠とするという側面があ
り、必ずしもアイデンティティの問題だけに収斂されない。3)。また、トルコはEUだけで
なく、2013年4月に上海協力機構の対話パートナーになるなど、一つのアイデンティティ
を確立することに固執していない。トルコは曖昧なアイデンティティを逆手にとって、外
交の窓口や手段を広げている。


2.4「尖端国家」


リミナル国家とは逆に、尖端国家の概念には積極的でポジティヴな意味が付与されてい
る。フィリップ・ロビンス(Philip Robins)が中心となり、ある地域の「端」に位置する「尖端
国家」を概念化し、該当する国家を分析するプロジェクトが2005年から進められ、2013年
にその成果が『国際関係における尖端国家のエージェンシー・位置付け・役割』として出版
された33 (34)。ロビンスによると、「尖端国家」の対象となるのは、主権国家の中で超大国でも
小国でもなく、国際政治上一定の重要性を持つ、また、特定の地域に限定しておらず、複
数地域に所属している国家である(35)。その上でロビンスは、「尖端国家」の分析で重要な
点として、①地理的位置、②歴史的経験と「尖端国家」としての行動様式の繰り返し、③内
政と外交における「尖端国家」としてのアイデンティティ構築、④国家もしくは国家機関が
「尖端国家」としての視点を重視する点を指摘している(36)。とりわけロビンスは特定の行動
様式が「尖端国家」を「尖端国家」足らしめていると強調している。通常、ある地域の端に位
置する「尖端国家」は否定的な文脈から理解されてきたが、ロビンスは「尖端国家」は、地域
間のリンケージ、仲介、ソフトパワーの行使、多国間主義において積極的な役割を果たす
アクターと見なしている(37)。要するに、「尖端国家」は地域の端という地理的特性を活かし
たその行動様式によって成り立つ。トルコ以外に「尖端国家」としては、ウクライナ、イラ
ン、イスラエル、ブラジル、メキシコ、日本、台湾が事例として選択されている。
また、アルトウンウシュクは「尖端国家」と「絶縁体国家」は異なるものであるとし、「尖
端国家」は主体に焦点が置かれ、複数地域の関係連結に貢献するという肯定的な概念であ
るのに対し、「絶縁体国家」は構造に焦点が置かれ、複数地域間の断絶を強調するという否
定的な概念であると指摘している(38)。また、「尖端国家」と「リミナル国家」の概念はいずれ
(33) トルコの民主化とEU加盟の関係に関しては、例えば、今井宏平「西洋とのつながりは民主化を保障する
のか:トルコのEU加盟交渉を事例として」『国際政治』182号、2015年11月、44-57頁を参照のこと。
(34) Marc Herzog and Philip Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States in International Relations (New
York: Routledge, 2014).
(35) Philip Robins, “Introduction: ‘Cusp States’ in international relations: in praise of anomalies against the ‘milieu’,” in
Herzog and Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States, pp. 2-3.
(36) Robins, “Introduction,” pp. 6-7.
(37) Robins, “Introduction,” pp. 15-17.
(38) Meliha Benli Altuni§ik, “Geopolitical Representation of Turkey’s Cuspness: Discourse and Practice”, in Herzog and
Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States, p. 28.
122
トルコにおける地政学の展開
も所与の属性に基づくものではなく、時代によってそのアイデンティティが再構築される
という視点は共通するものの、「リミナル国家」はあくまで、国際政治上の「隙間」、言い換
えれば当該国家と隣接地域とのアイデンティティの相違を考察対象とするのに対し、「尖
端国家」は当該国家の外交アイデンティティの変化を考察対象とするとアルトウンウシュ
クは述べている(39)。トルコの場合、歴史的にヨーロッパ、アジア、中東の国家という地政
学的な曖昧性と、サミュエル•ハンチントン(Samuel Huntington)が「イスラームに根ざした
生活習慣、制度をもった社会を、エリートの支配階級が確固たる決意で近代化•西洋化し、
西洋と一体化させようとした」国家として「引き裂かれた国家(torn state)」(40)と呼んだ国内
でのアイデンティティの葛藤の両方がいかに外交アイデンティティの形成に影響を与える
かが焦点となる。アルトウンウシュクは、とりわけ公正発展党が「尖端国家」として展開し
た行動様式、具体的には、民主化の成功国としてのモデルの提示、「文明間の同盟」におけ
る活動、仲介政策、エネルギー通路としての役割を評価している(41)。


「尖端国家」の概念は、アルトウンウシュクが強調しているように、特殊な地理的位置が
国内の外交アイデンティティ形成にどのような影響を及ぼすか、その行動様式に焦点を当
てる。そのため、枠組みとしての汎用性はかなり広く、今後、この枠組みを用いた研究が
増えることが予想される。しかし、この概念にも問題が内包されている。それは、『国際
関係における尖端国家のエージェンシー ・位置付け•役割』における「尖端国家」の概念が、
基本的に地理的位置に基づく隣国または隣接地域との連結が当該国家の利益になるという
ことを前提としているという点である。隣国または隣接地域との連結は必ずしも利益にな
るだけではない。トルコに関して、ヨーロッパからの外国人戦闘員の流入は、「尖端国家」
であることが他地域からのテロリストたちにゲートおよび通行路として使用されてしまう
現実を提供している。公正発展党政権期にトルコはヴィザ・フリー政策に代表されるよう
に他地域との連結性を強めたことが、かえって外国人戦闘員を招く結果になるという皮肉
な結果を生んでいる。


表1 トルコをめぐる国家概念の整理
形態/項目 分析対象 地理的認識 理論的背景
絶縁体国家 安全保障 受身 安全保障共同体
リミナル国家 アイデンティティ 不安定 コンストラクティヴィズム
尖端国家 実践的な行動 肯定的 コンストラクティヴィズム、批判地政学
出典:筆者作成
(39) Ibid.
(40) サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳『文明の衝突』集英社、1998年、104頁。
(41) Altuni§ik, “Geopolitical Representation of Turkish Cuspness,” pp. 36-39.
123
今井宏平


3•公式地政学に関する批判的検証


3.1冷戦期に関する知識人検証の妥当性
トルコを批判地政学の視点から分析したビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュ
クの論考に共通しているのは、彼らが主に公式地政学と実践地政学に焦点を当てて分析し
ているという点である。ビルギンは、冷戦期における軍部とポスト冷戦期における文民政
治家に焦点を当てている。ビルギンによると、トルコ共和国の建国とその維持の責任を組
織的に共有していた軍部は、対外的には冷戦期の最大の脅威であるソ連に対抗できる安全
保障を確保するために、対内的には軍部の行動、特に、軍事クーデタを正当化するために
地政学を利用した(42)。陸軍士官学校や国家安全保障学校では、1960年代後半からスアット・
イルハン(Suat ilhan)が中心となり、地政学が正規の講義科目として設立された(43)。軍部は、
一貫してムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal)がトルコ共和国建国後の1931年に示した「国
内平和・世界平和(Yurtta Sulh, Cihanda Sulh)」の原則、言い換えれば、受身の現状維持政策
と西洋化政策を推進した。ここでの「世界平和」というのは、「世界平和に貢献すること」で
はなく、「世界で平和裏に生存する」という意味であった(44)。
ポスト冷戦期においては、オザルやダーヴトオールが新たな地政学的状況を積極的に外
交政策に反映させたこともビルギンは指摘している。イエシルタシュは、冷戦期において
は外務省官僚、ポスト冷戦期においてはビルギン同様、ダーヴトオールに注目した。アル
トウンウシュクもダーヴトオールを主な考察の対象としている。
しかし、彼らの公式地政学の手法に関して、次のような疑問が残る。それは、建国期か
ら冷戦期に至るまでの知識人の検証が手薄な点である。特にイエシルタシュの研究では、
冷戦期における知識人として、数人の外務官僚の回顧録などを使用しているが、分析対象
としては質、量ともに圧倒的に不足している。一方、ビルギンはイルハンという陸軍士官
学校や国家安全保障学校で教官を務めた人物に焦点を当てており、イエシルタシュのよう
な不足感はない。しかし、本当にイルハンの言説が公式地政学として分析できるほどのイ
ンパクトを持っているのかは疑問である。建国期から冷戦期に至るまで、軍部は内政では
絶大な影響力を有していたものの、外交においてはその影響力がどれほど浸透していたの
かは検討の余地がある。アルトウンウシュクは、冷戦期の知識人に関してはほとんど触れ
ていない。いずれにせよ、まず外交の分析に欠かせないのは外務省である。トルコは外交
文書が非公開であり、確かに資料面での制約は存在する。しかし、外務大臣の演説や発言
は過去の新聞などから断片的に入手可能である。また、1964年から1973年の間に外務省
(42) Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography”(前注12参照),pp. 742-746.
(43) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma” (前注13参照),pp. 160-161.イルハンの貢献に関しては、Bilgin, “Only
Strong States Can Survive in Turkey’s Geography,” pp. 740-756.
(44) Mesut Ozcan and Ali Resul Usul, “Understanding the New Turkish Foreign Policy: Changes within Continuity: Is
Turkey Departing from the West?” Uluslararasi Hukuk ve Politika Cilt 6, Sayi 21(2010), p.110.
124
トルコにおける地政学の展開
から『外交紀要(Di海leri Belleteni)』が刊行されており、こうした資料を分析対象とすること
ができたはずである。


3.2ポスト冷戦期における「新オスマン主義」分析の不在
冷戦体制の崩壊、特にソ連崩壊によって中央アジア、南コーカサス、バルカン半島に新
興独立諸国が登場したことは、トルコの知識人、政策決定者とその地政学的ヴィジョン
を刺激した。中央アジアと南コーカサスのアゼルバイジャン、ジョージァ(グルジア)に
はトルコ系民族が居住しており、バルカン半島はオスマン帝国の領土であった。そのた
め、オザルは、これらの地域との民族的(「共通のトルコ性」)、歴史的(旧オスマン帝国領)
関係を軸にトルコの地域的な影響力を拡大しようと考え、その際に「新オスマン主義(Neo-
Osmanlilik)」という概念を使用した。オザルと著名なジャーナリストであるジェンギズ・チ
ヤンダル(Cengiz ¢andar)をはじめとしたそのブレーンたちが目指したのは、オスマン帝国
の領土を再度物理的に支配するということではなく(45)、オスマン帝国の「イメージ」を梃子
に、新興独立諸国に一定の影響力を行使する、新たな地政学的ヴィジョンの構築であっ
た(46)。さらにこの動きは、トルコ国内に留まらず、例えば、アメリカのランド研究所の研
究員が中心となり出版された『トルコの新しい地政学(Turkey’s New Geopolitics)』(47)に見ら
れるように、国際的な広がりも見せたことで強化された。また、とりわけ1992年4月から
95年11月までのボスニア紛争に際して、トルコ政府はムスリム系住民(ボスニア人)の保
護をオスマン帝国の後継国家としての「義務」と捉えていた(48)。オザルは、ソ連の消滅とい
う地政学的変化から、オスマン帝国に対するノスタルジーを強めた。チャンダルとランド
研究所のグラハム・フラー(Graham Fuller)は、ケマル以来の既存の国境の維持を重視した
時代を「古いトルコ(old Turkey)」と皮肉を込めて表現している(49)。ただし、トルコの「新才
スマン主義」の試みは、オザルに多くを負っていたため、1993年4月にオザルが急逝する
と、その影響力は大きく低下した(50)。
(45) Graham Fuller, “Turkey’s New Eastern Orientation,” in Graham E. Fuller and Ian Lesser, eds., Turkey’s New
Geopolitics: From the Balkans to Western China (Boulder: Westview Press, 1993), pp. 47-48.
(46) オザルのブレーンたちの「新オスマン主義」の言説に関しては、例えば、今井宏平『中東秩序をめぐる現代
トルコ外交』ミネルヴァ書房、2015年、176-179頁を参照。
(47) Fuller and Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics.
(48) Meliha Altuni§ik, “Worldviews and Turkish foreign policy in the Middle East,” New Perspectives on Turkey, no.
40 (2009), p.178.ボスニア紛争の詳細に関しては、例えば、月村太郎『ユーゴ内戦:政治リーダーと民族
主義』東京大学出版会、2006年;佐原徹哉『ボスニア内戦:グローバリゼーションとカオスの民族化』有志
舎、2008年を参照。トルコのボスニア紛争への関与を「新オスマン主義」の視点から分析した研究として、
Mustafa Turke§, “Turkish Foreign Policy towards the Balkans: Quest for Enduring Stability and Security,” in Idris Bal,
ed., Turkish Foreign Policy in Post Cold War Era (Florida: Brown Walker Press, 2004), pp. 197-209.
(49) Cengiz Candar and Graham Fuller, “Grand Geopolitics for a New Turkey,” Mediterranean Quarterly 12, no.1(2001),
p. 22.
(50) ilhan Uzgel ve Volkan Yarami§, “Ozal’dan Davutoglu’na TUrkiye’ de Yeni Osmanlici Arayi§lar,” Dogudan (mart-nisan
2010), pp. 38-40.
125
今井宏平

冷戦体制の崩壊という物理的な地理的変動は、トルコの実践地政学を動揺させるととも
に「新オスマン主義」という新たな公式地政学を登場させることになった。しかし、ビルギ
ン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクはともに90年代初期の明確な地政学的な変容に
触れているものの、「新オスマン主義」には焦点を当てていない。明確な地政学的変化が起
こり、新たな地政学的ヴィジョンが登場したにもかかわらず、相対的にこの時期を軽視し
ている点は理解に苦しむ。


3.3ダーヴトオールに関する「問題解決理論」的分析


批判地政学の観点からトルコ外交を分析したイエシルタシュとアルトウンウシュクは、
多くの頁をダーヴトオールの分析に割いている。ダーヴトオールは1990年代から論壇や
テレビで活躍していたが、何といっても2001年に執筆した『戦略の深層(Stratejik Derinlik)』
が注目された(51)。同書において、ダーヴトオールはハルフォード・マッキンダー (Halford
Mackinder)、アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)、ニコラス・スパイク
マン(Nicholas Spykman)といった伝統的な地政学的知見に基づき、トルコが周辺地域にど
のように外交政策を展開すべきかを説いた。同書はトルコにおいて40版を越える大ベスト
セラーとなり、伝統的な地政学の知見を一般市民に深く浸透させた。この著書が注目され
たもう一つの理由は、ダーヴトオールが2003年1月に首相の外交アドヴァイザー、その後
2009年からは外務大臣として、『戦略の深層』に基づく外交を実際に展開したためである(52)。
批判地政学の用語で説明すると、ダーヴトオールはアメリカにおけるヘンリー・キッシン
ジャー (Henry Kissinger)やズビグニュー・ブレジンスキー (Zbigniew Brzezinski)のように、
公式地政学と実践地政学を架橋する人物であった。
『戦略の深層』執筆以降、ダーヴトオールがトルコの優位性を説明する際の中心概念とし
たのが、歴史的責任(歴史的深層)と地政学(地理的深層)である。ダーヴトオールによる
と、歴史的責任は歴史的な出来事の中心地に位置する国家(center state)の特徴とされ、卜
ルコもその特徴を有している(53)。具体的にダーヴトオールは、「トルコは歴史的事実とし
てオスマン帝国の後継国家であり、オスマン帝国が統治していた地域と密接な関係を取り
結ぶ素地がある。歴史的責任はポスト冷戦期において地理的連続性が復活したことと、90
年代のバルカン半島における危機によって高揚した」と述べている(54)。また、地政学は歴
(51) Ahmet Davutoglu, StratejikDerinlik (Istanbul: Kure yayinlari, 2001).
(52) ダーヴトオールは、2003年1月18日に当時のアブドウツラー ・ギュル(Abdullah Gul)首相の外交アドヴァ
イザーに就任した。そして、2009年4月まで同職を務めた後、同年5月1日に外務大臣に就任、2014年8月
以降は首相を務めている(2015年12月11日現在)。
(53) トルコ以外にこの特徴を有している国家は、イギリス、ロシア、オーストリア・ハンガリー帝国、フラン
ス、ドイツ、中国、日本とされる。
(54) Ahmet Davutoglu, “Turkish Vision of Regional and Global Order: Theoretical Background and Practical
Implementation,” Political Reflection (June-July-August, 2010), p. 41.
126
トルコにおける地政学の展開
史的深層の構成要素の一つであり、特にトルコはアジアとヨーロッパという二つの地域的
側面を同時に有しているだけでなく、「中東地域、南コーカサス地域、バルカン地域とい
う陸地(近接地域)、黒海、東地中海、カスピ海、中東の湾岸という海洋地域、ヨーロッ
パ、北アフリカ、南アジア、中央アジア、東アジアという大陸(周辺地域)に影響力を行使
できる国家である」と強調している(55)。さらにダーヴトオールは、地政学に関して、「例
えばトルコとシリアの国境は植民地秩序の時代に引かれ、冷戦秩序期に固定化したものだ
が、この国境は不自然なものであり、民族的•文化的な意味を持たない。こうしたことは
ディヤルバクルとイラクのモースル、トラブゾンとジョージアのバトウーミ、エディルネ
とギリシャのサロニカの間でも見られる」とし、西洋の植民地主義政策によって創られた
国境ではなく、民族的•文化的な国境こそが重要であると主張している(56)。


ダーヴトオールは歴史的な責任を重視しているが、オザルとそのブレーン達が注目し
た「新オスマン主義」という言説は敢えて使用しないように注意を払っている。2010年5月
のオックスフォード大学での講演において、ダーヴトオールは「私は一度も『新オスマン
主義』という概念を使用したことはない」と強調している(57)。オメル・タシュプナル(Omer
Ta§pinar)は公正発展党の外交におけるオスマン帝国の影響を、①帝国的な支配の遺産では
なく、平和的なマルチナショナルな共有空間としてオスマン帝国を捉えている、②「新オ
スマン主義」的外交が地域の平和と安定に貢献すると考えている、③トルコが西洋とムス
リム諸国の橋渡しになると考えている、という三点に集約している(58) 59。
ダーヴトオールは2004年2月にラディカル紙に掲載された「トルコは中心国となるべきだ」
という論説において、トルコが地域秩序安定の「中心国」となるための原則を提示した㈣。そ
れらは、自由と安全保障のバランス、近隣諸国とのゼロ・プロブレム、多様な側面且つ多
様なトラック(経路)による外交、地域大国として近隣諸国への間接的な影響力行使、リズ
ム外交という五つであった。自由と安全保障のバランスとは、安全保障政策と市民の自由
を両立することである。近隣諸国とのゼロ・プロブレムとは、できるだけ全ての近隣諸国
と関係を良好に保つことを目指す外交である。多様な側面かつ多様なトラックによる外交
とは、冷戦期に安全保障だけを重視し、外交ルートも政府間交渉に限られていたトルコの
外交姿勢を反省し、経済や文化など多様なイシューを扱い、官僚機構、経済組織、NGOと
いった多様なトラックを外交カードとして使用することである。近隣諸国への間接的な影
響力を行使とは、地域大国として周辺各国と良好な関係を保つだけでなく、様々な地域機
(55) Davutoglu, StratejikDerinlik, p.118.
(56) Davutoglu, “Turkish Vision of Regional and Global Order,” pp. 42-43.
(57) Davutoglu, “Turkish Vision of Regional and Global Order,” p. 41.
(58) Omer Ta§pinar, “Turkey’s Middle East Policies: Between Neo-Ottomanism and Kemalism,” Carnegie Papers, no.10
(2008), pp. 14-15 [http://www.carnegieendowment.org/files/cmec10_taspinar_ final.pdf] (2015 年 6 月 ? 日閲覧).
(59) Ahmet Davutoglu, “Turkiye Merkez Ulke Olmali,” Radikal(26 $ubat, 2004).五つの原則についてダーヴトオー
ルが最初に言及したのは、2004年2月19日に放送されたCNN Turkにおいてであった。
127
今井宏平
構に所属し、重要な役割を担うことで影響力を高める外交である。リズム外交とは、冷戦
後に急速に変化した国際情勢に際して、トルコが冷戦期と変わらない静的な外交を採り続
けたことを反省し、積極的に新たな状況に適応する動的な外交のことを指す。


ダーヴトオールは、オザルと同様に、新たな地政学的状況に対応する必要性を説き、さ
らにその根拠として歴史的な責任を挙げ、国境を越えた心理的な境界を意識した。ダーヴ
トオールはオザルよりもさらに一歩踏み込み、新たな言説を浸透させるためにそれを実践
する原則を精緻化した。前述の五つの原則に見られるように、ダーヴトオールの外交ドク
トリンの目標は地域秩序の安定であり、とりわけシリアとの間での関係改善に象徴的なよ
うに、権威主義国家であっても友好関係を取り結ぶ「現状維持」がその特徴であった(60)。ま
た、ヴィザ・フリー政策に見られるように、国境が安全保障の手段というよりも、より開
かれた隣接地域との結びつきの象徴となった(61)。


イエシルタシュとアルトウンウシュクによるダーヴトオールの公式地政学の分析の問題
点は、「はじめに」の部分でも指摘した点だが、ダーヴトオールの考えを全面的に受け入れ
る結果となっていることである。これでは、批判理論分析というよりも、むしろ、批判理
論が攻撃対象としている問題解決理論である。権力関係を暴くのではなく、既存の権力の
影響力強化を促す結果となってしまっている。


4.実践地政学に関する批判的検証


4.1既存の説明の焼き直し


次に、ビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクの実践地政学の分析に関する問
題点について検討したい。まず、全ての論文に共通するのは、建国期から冷戦期までの批
判地政学による分析の結論が、既存の西洋化、現状維持、脅威認識による分析の結論と同
様のものであり、あえて地政学という分析に固執する理由と根拠がないという点である。
例えば、戦間期のトルコ外交はビルギンが批判の対象としている「セーヴル症候群(Sever
Syndrome)」という概念による説明の方が、説得力がある(62)。
「セーヴル症候群」とは、1920年8月10日に締結されたセーヴル条約に基づく脅威認識の
ことである。セーヴル条約がトルコに与えた恐怖は、領土を解体される不安と西洋諸国に
植民地化される不安であった(63)。セーヴル条約は文字通り、オスマン帝国の解体であり、
(60) ダーヴトオールの外交ドクトリンの実践に関しては、今井『中東秩序をめぐる現代トルコ外交』(前注46
参照)、第8章から第10章に詳しい。
(61) 国境渡航に関してヴィザを必要としない国家の数は2002年に42カ国であったが、2013年には69カ国ま
で増加した。Sorumluluk ve Vizyon 2014 Yilina Girerken Turk Di§ Politikasi (Ankara: Turkiye Cumhuriyeti Di§i§leri
Bakanligi,2014), p.10.
(62) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma” (前注13参照),pp.157-158.
(63) セーヴル条約の領土に関する内容は以下のようであった。①東トラキアとイズミル周辺がギリシャ領土
となる、②ボスフォラス・ダーダネルスの両海峡は「海峡委員会」の管理下におかれ、全ての国の船舶に開
128
トルコにおける地政学の展開


トルコはイスタンブルとアナトリア中央部しか領有を認められなかった。この悪夢が再現
されないよう、初代大統領ケマル、二代大統領イスメト・イノニュ(ismet Inonu)など、共
和国初期の政策決定者たちは領土拡張よりも領土保全の考え、国境の画定と既存の国境の
強化を重要視した(64)。そのため、政策決定者たちは、国境は安全保障のための不可欠で、
既存の国境を境界と認識することで一致していた。セーヴル条約による二つ目の不安は、
西洋諸国に対する恐怖感である。セーヴル条約はヨーロッパのオスマン帝国支配としての
「東方問題」(65)の最終的な形態であった。西洋諸国に対抗するためにも、トルコ共和国で
は西洋化を達成し、「ヨーロッパの一員になること」が追求された。


「セーヴル症候群」の説明で浮かび上がってくるのは、オスマン帝国とイスラームの「後
進性」が結局、帝国の崩壊を招いたとするケマルの考えであり、地政学よりも西洋化こそ
が外交政策に影響を与えてきた概念という点である。西洋化は、政教分離に代表的な内
政の文化的改革はもちろんのこと(66)、冷戦期以降、NATOへの加盟や、ヨーロッパ共同体
(EC: European Community)およびEU加盟の意欲に見られるように、外交政策にも大いに反
映された。しかし、批判地政学の視点から検証した各論者とも西洋化には言及しているも
のの、あくまで説明変数の一っという程度の扱いしかしていない。


冷戦期において、確かに「ソ連と陸続きの唯一のNATO国」という地政学的条件はトルコ
の外交政策を左右してきた。しかし、スティーヴン・ウォルト(Stephen Walt)の古典的な
研究に見られるように、冷戦期のトルコ外交を説明する概念としては、「脅威」で十分では
ないだろうか(67)。冷戦期、トルコの最大の脅威はソ連であった。ソ連は第二次世界大戦末
期の1945年にトルコへの圧力を急速に強めた(68)。ソ連は、1945年2月のヤルタ会談では、
放、沿岸地域は非武装化される、③東部アナトリアには独立アルメニア国家が建設される、④レバノン、
シリアはフランスの委任統治となり、アナトリア南東部もフランスの勢力圏に入る、⑤モースルを含めた
現在のイラク、パレスチナ、シリア南部(トランスヨルダン)はイギリスの委任統治となる。また、キプロ
スはイギリス領土となる、⑥アナトリア南西部はイタリアの勢力圏となる。また、エーゲ海諸島もイタリ
アが領有する、⑦モースルから北のクルディスタンはクルド人に自治権が与えられる、⑧ヒジャーズ王国
はアラブ人国家として独立する。新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年、166-167頁。セーヴル
条約はその後、1923年7月14日に締結されたローザンヌ条約の締結を受け、廃止された。
(64) ローザンヌ条約によってブルガリア、ギリシャ、イタリアとの間でトルコ西部の国境は確定された。北
東部に関しては、ソ連との間で結ばれた1921年3月16日のモスクワ条約とそれに続く同年10月13日のカ
ルス条約で確定された。イラクとの国境は1926年6月5日にイギリスとの間でアンカラ条約が締結され、
モースルはイラク領となった。また、シリアとの国境は1939年6月23日にフランスとの間で八タイをトル
コ領とするアンカラ条約が締結された。戦間期のトルコの国境策定に関しては、松谷浩尚『現代トルコの政
治と外交』勁草書房、1987年、84-94頁。
(65) 東方問題とは、「オスマン帝国の衰退と内部分裂の危機を利用したヨーロッパ列強による、バルカン・中
東への進出と介入によって18世紀から19世紀にかけて発生した一連の国際紛争を指すヨーロッパ側の呼
称」のこと。山内昌之「東方問題」大塚和夫、小杉泰、小松久男、東長靖、羽田正、山内昌之編著『岩波イス
ラーム辞典』岩波書店、2002年、673頁。
(66) ケマルによる内政改革に関しては、例えば、新井『トルコ近現代史』、200-204頁。
(67) Stephen Walt, “Testing theories of alliance formation: the case of South West Asia,” International Organization 42,
no. 2 (1988), pp. 292-297.
(68) 1945 年前後の中東の北層の状況に関しては、Bruce Robellet Kuniholm, The Origins of the Cold War in the Near
129
今井宏平
1936年に締結されたモントル一条約の改訂を、3月19日には1925年に結ばれた中立不可侵
条約の破棄、そして、6月?日には新たな条約を結ぶためにはカルス、アルダハンの領土
割譲も考慮すべきとトルコ側に要求した。こうしたソ連の圧力に対して、トルコはアメリ
力を中心とする西側諸国との同盟を選択することとなり、1952年2月にはNATO加盟を達
成する(69) 70。


また、冷戦期においても西洋化はトルコ外交を規定してきた。冷戦期、トルコの北部国
境はトルコの国境であると同時にNATOと西側陣営の境界線でもあった。そのため、トル
コの国境は「防御壁(barrier)」(?0)として機能し、西側陣営の中で「最前線国家」(71) 72と見なさ
れた。1960年代から?0年代にかけて、トルコとアメリカの関係が悪化し、トルコはソ連
とも外交関係を復活させるが、基本的に冷戦期を通して「防御壁」の役割を果たしたと言え
るだろう。NATO加盟国として、冷戦という「緩やかな双極体制」下での共産主義圏に対す
る「防御壁」、「最前線国家」としての役割は、安全保障分野に特化しているものの、トルコ
の西洋化という目標を一定程度満たすものであり、他の西洋諸国からもトルコは「西側の
一国」として認知されたのである。


4.2冷戦体制崩壊に伴う変化の相対的軽視


ビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクが冷戦体制の崩壊に伴う物理的な地政
学的変化を軽視していたことはすでに指摘した。それでは、冷戦体制の崩壊は、実践地政
学にどのような影響を与えたのか。以下では冷戦体制崩壊がトルコに与えた二つのダイナ
ミズムを概観しておきたい。
第一のダイナミズムは、安全保障を基盤とした西洋化の基礎が揺らいだという点であ
る。冷戦体制の崩壊により脅威の源泉であったソ連が消滅したことで、トルコは国家の安
全保障を達成することになった。しかし、ソ連の消滅は皮肉にも、「防御壁」、「最前線国家」
としてのトルコの役割が終了したことも意味し、これまで安全保障での貢献を通して「西
洋の国家」として他国から認識されてきた基盤が揺らく、、ことになった。冷戦体制崩壊当時
の大統領であったオザルは、国際関係論でいうところの同盟から「見捨てられる恐怖」四に
直面することとなった。80年代後半、アメリカとソ連の緊張が緩和されるに従い、アメリ
カのトルコに対する軍事•経済援助が次第に先細りになっていたこと、1989年にトルコの
East: Great Power Conflict and Diplomacy in Iran, Turkey, and Greece (Princeton: Princeton University Press,1980).
第二次世界大戦前後のトルコとソ連の関係に関する詳細は、例えば、Kamuran Gurun, THrk-Sovyet iliskileri
(1920-1953) (Ankara: Turk Tarih Kurumu Basimevi,1991),pp. 239-310.
(69) Walt, “Testing theories of alliance formation,” pp. 292-293.
(70) Ian Lesser, “Bridge or Barrier? Turkey and the West After the Cold War” in Fuller and Lesser, eds., Turkey’s New
Geopolitics (前注 4 参照),p.101.
(71) Davutoglu, StratejikDerinlik, p.19.
(72) Glenn Snyder, “The Security Dilemma in Alliance,” World Politics 36, no. 4 (1984), p. 467.
130
トルコにおける地政学の展開
EC加盟申請が却下されたことも、こうしたオザルの懸念を後押しした(73)。オザルは1990
年8月に起きた湾岸危機において、アメリカを中心とした多国籍軍の要請を積極的に受け
入れたが、その背景にはイラクに対する新たな「防御壁」になることで、西洋諸国にトルコ
の安全保障上の価値を再認識させる狙いがあった(74)。しかし、イラクがソ連のような強大
な戦力とイデオロギーを有していなかったことから、イラクは脅威の源泉としては不十分
であった。とはいえ、これはトルコの西洋化を押しとどめたわけでない。トルコは90年代
以降、安全保障を基盤とした西洋化から、EU加盟を目指すヨーロッパ化の側面が強い西
洋化にシフトしていくことになる。


冷戦体制崩壊がトルコの実践地政学にもたらしたもう一つのダイナミズムは、中央アジ
ア、南コーカサス、バルカン半島に新興独立諸国が登場したことである。これに対し、大
統領であったオザルを中心に、近隣の新興独立諸国への関与を強める、「新オスマン主義」
の考えが外交に反映されることになる。ここでは特に中央アジアと南コーカサスに対する
オザルの外交を取り上げたい(75)。例えば、トルコはウズベキスタン、カザフスタン、ク
ルグズスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンとの外交関係を取り結んだ最初の国
家となった。オザルは主に四つのアプローチをこの地域に対して展開した。第一に、外務
省に中央アジアを扱う新しい部門を加え、4億600万ドルという大規模な予算をつぎ込ん
でトルコ開発援助機関(TIKA: Turk I^birligi ve Kalkinma idaresi)を中心に援助政策を展開し
た。第二に、オザル自身が何度も中央アジア諸国と南コーカサス諸国を訪問し、幅広い諸
協定も取り結んだ(76)。第三に、オザルは国内のビジネスマン、宗教グループ、メディア
など民間の機関に対して、積極的に中央アジアや南コーカサスへ進出するように促した。
第四に、オザルはBSECや黒海海軍合同任務部隊(BLACK-SEAFOR: Black Sea Naval Co-
Operation Task Group)といった地域レジームの設立でイニシアティヴを発揮した。
しかし、結果的にオザルの中央アジア、南コーカサスに対する外交は失敗に終わる。そ
の象徴となったのが、1992年10月にトルコの首都アンカラで開催された「テユルク系諸国
会議」における、カザフスタンのヌルスルタン•ナザルバエフ(Nursultan Nazarbayev)大統
領とウズベキスタンのイスラム・カリモフ(Islam Karimov)大統領の宗教・民族に基づく卜
(73) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma”(前注13 参照),p.163.
(74) オザルの湾岸危機への関与に関しては、例えば、今井『中東秩序をめぐる現代トルコ外交』(前注46参照)、
57-82 頁。
(75) この部分に関して、著者の過去の論文と一部重複する。今井宏平「ポスト冷戦期におけるトルコのユーラ
シア外交:安全保障共同体モデルを枠組みとして」『中央大学政策文化総合研究所年報』15号、2012年、
55-80 頁。
(76) 具体的に、二国間レベルでのさまざまな委員会や組織を設立、トルコの大学への奨学金制度の充実、卜
ルコ国営テレビをはじめとしたトルコ語番組の放送、トルコ航空の定期便運行、トルコ輸出入銀行による
信用貸付などである。トルコが主導した奨学金制度でトルコへ留学した中央アジアの学生は総勢ー万人以
上に上ると言われている。こうした留学生をはじめとした教育面の協力に関しては以下を参照。Turan Gul,
ilter Turan and idris Bal, “Turkey’s Relations with the Turkic Republic,” in Bal, ed., Turkish Foreign Policy in Post
Cold War Era (前注 48 参照),pp. 300-306.
131
今井宏平
ルコのリーダーシップに対する懐疑的な姿勢であった(77)。トルコの「新オスマン主義」は、
中央アジアと南コーカサスの国々に歓迎されなかったのである。
4.3挑戦を受けるダーヴトオール外交
2,000,000
1,800,000
1,600,000
1,400,000
1,200,000
1,000,000
800,000
600,000
400,000
200,000
0
201I年9月 2012年9月 2013年9月 2014年9月 2015年9月
—トルコに流入したシリア眼の総数—難民キャンプに融:する域
–難民キャンプの外で暮らす難民
前述したダーヴトオー
ルの公式地政学は、「ア
ラブの春」に端を発した
シリア危機とその後の
「イスラーム国」の台頭に
よって、地域と国際社会
の秩序安定化という目標
の達成が難しい状況とな
図3 トルコにおけるシリア難民の数(登録者のみ)
っている㈣。この部分
は、構造地政学とも関連
するが、ダーヴトオール
だけでなく、公正発展党
(出典)Kemal Kirisci and Elizabeth Ferris, “Not Likely to Go Home: Syrian
Refugees and the Challenge to Turkey and the International Com-
munity,^ Turkey Project Policy Paper, no. 7 (September 2015), p. 8.
の政策決定者たちはグローバル化を積極的に受け入れ、最大限活用する外交を展開してき
た。そのため、公正発展党は「保守的なグローバリスト」と呼ばれていた(79)。しかし、シリ
ア危機に際しては、そのグローバル化を積極的に受け入れ、活用する政策が裏目に出てい
る。トルコとシリアは900キロメートルに渡る国境を有しているが、ヴィザ・フリー政策
の結果、国境は事実上なくなった。しかし、シリア危機によってトルコ国境は冷戦期のよ
うに安全保障上の機能が強調される契機となっている。とはいえ、中東の国境線はもとも
と人工的に引かれたことに加え、一度国境機能を棚上げしていたため、国境の安全保障機
能は脆弱な状態となっている。例えば、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR: Office of the
United Nations High Commissioner for Refugees)の発表によると、シリア危機によって、シリ
アからトルコには2011年3月から2015年10月までに約194万人が難民として国境を越えて
いる(図3参照)。シリア難民はヨルダンとレバノンにも流入しているが、トルコへの流入
者数が最も多い。


また、「イスラーム国」に参加する外国人戦闘員の主要なルートは、イスタンブルから卜
(77) Philip Robins, Suits and Uniforms: Turkish Foreign Policy Since The Cold War (London: Hurst & Company, 2003),
pp. 284—288.
(78) ダーヴトオールの秩序安定化政策に関しては、例えば、今井宏平「トルコ外交の継続と変容:ダーヴト
オールの考えを中心に」『外交』31号、2015年、132-137頁。
(79) Ziya Oni§, “Conservative globalists versus defensive nationalists: political parties and paradoxes of Europeanization
in Turkey,” Journal of Southern Europe and the Balkans 9, no. 3 (2007), pp. 247-261.
132
トルコにおける地政学の展開
ルコ国内を通ってシリア国境に至るものである(80)。イギリスの「急進派研究のための国際
センター (ICSR: The International Centre for the Study of Radicalisation and Political Violence)j
が2015年1月26日に発表した報告書によると、「イスラーム国」に参加する外国人戦闘員の
数は二万人を越えると見積もられており、西ヨーロッパから「イスラーム国」へと渡った戦
闘員も4,000人にのぼるとされる(81)。この西ヨーロッパからの戦闘員の多くがトルコ経由
でシリアに入国していると見られている。一方、トルコ政府も外国人戦闘員の潜入に対す
る取り締まりを強化しており、メヴルット・チャヴシュオール(Mevlut Cavu§oglu)外務大
臣(当時)によると、2012年から2015年3月13日までの時点でトルコ政府は外国人12,519
人に対して「イスラーム国」との関連を理由に入国を禁止し、1,154人を拘束または国外退
去させている(82)。特に2015年1月?日に起きたシャルリー・エブド社襲撃事件以降、トル
コ政府は入国者に関して各国のインテリジェンス機関との情報交換を密にし、その取締り
に努めている。
このように、シリア内戦に際し、2000年代以降、トルコの公式地政学として影響力を持
ってきたダーヴトオールの地政学的ヴィジョンは、実際の外交において機能不全となって
きている。


おわりに


本稿では、トルコのアカデミズムにおいて見られる地政学の積極的な受容に関して、そ
の受容がいまだに発展途上であることを前提に、トルコの地政学的特徴を捉えようとする
国家概念の有効性と限界、そして古典的地政学を構成する公式地政学と実践地政学に基づ
くトルコの分析に関する批判地政学の見解について概観してきた。


トルコの地政学的特徴を捉えるために創出された国家概念である「絶縁体国家」、「リミ
ナル国家」、「尖端国家」の有効性と限界に関しては、以下の点を指摘することができた。


まず、「絶縁体国家」は安全保障に関する概念であり、トルコは多くの隣接地域を有するも
のの、それらの地域を有機的に結び付けることはせず、むしろ各地域のダイナミズムを遮
断する働きがあるとされた。しかし、ダーヴトオールの「ゼロ・プロブレム」政策に代表さ
れるように、2002年以降、トルコは安全保障も含め、近隣諸国と積極的な関係構築を図っ
てきた。そのため、「絶縁体国家」は現在のトルコ外交を分析する概念としては適していな
(80) 外国人戦闘員の経由地としてのトルコに関しては、以下を参照。今井宏平「イスラーム国に翻弄される卜
ルコ:ダーヴトオール・ドクトリンの誤算と国際社会との認識ギャップ」『中東研究』522号,2015年,32-43頁;
今井宏平「シリア内戦と『イスラーム国』をめぐるトルコの対応」『中東動向分析』13巻11号、2015年,1-13頁。
(81) Peter R. Neumann, “Foreign fighter total in Syria/Iraq now exceeds 20,000; surpasses Afghanistan conflict in the
1980s,” ICSR [http://icsr.info/ 2015/01/foreign-fighter-total-syriairaq-now-exceeds-20000-surpasses-afghanistan-
conflict-1980s/] (2015 年 6 月 ? 日閲覧).
(82) “Turkey calls for more cooperation on foreign fighters issue,” Anadolu Agency (March 13, 2015) [http://aa.com.tr/en/
politics/turkey-calls-fbr-more-cooperation-on-fbreign-fighters-issues/67181] (2016 年1月 31日閲覧).
133
今井宏平
いと結論付けた。

また、「リミナル国家」も多様なアイデンティティを有することをネガテ
イブに捉える概念であり、多様なアイデンティティを全方位的な外交に活用している公正
発展党政権下のトルコを考察することは難しい。それに対して、「尖端国家」は多様な地域
と接し、多様なアイデンティティを有することをポジティヴに捉えたうえで、その地理的
特性を生かした行動様式を考察の対象としている。ダーヴトオール主導の公正発展党の外
交を分析する概念としては「尖端国家」が最も適していると言える。


「尖端国家」に関して、これまでは国際システム、地域における役割というマクロな視点
から分析が行われてきたが、今後はよりミクロの分析が求められる。そのためには、さし
あたり以下のニ点が指摘できる。

第一に、「尖端国家」の内部をブラックボックスとせず、
国家内部の下位アクターが「尖端国家」の行動様式をどのように担っているのか、例えば、
下位アクターが地域のリンケージにどのような役割を果たしているかといった点を検証す
る必要がある。

加えて、第二に、「尖端国家」がどのセクターで「尖端国家」として行動して
いるのかを検討する必要がある。ブザンは国家に焦点を当てた初期の著作『人間・国家・
恐れ』(1983年/1991年)で、脅威に関して、軍事、政治、社会、経済、生態(環境)とい
う五つの部門に分類している(83)。「尖端国家」の分析に際してもこうしたセクター別の視点
を取り入れることで、より綿密な検証を行うことが可能となる。


一方で、シリア危機が勃発して以降、トルコの地理的特性を生かし、地域秩序に貢献す
る外交は機能不全に陥っている。そのため、「尖端国家」の連結が当該国家にとって有益で
あることを所与とする点は再考の余地がある。


次に、批判地政学の分析に関してまとめておきたい。特定の地理的世界観、もしくは地
政学的ヴィジョンの構築に焦点を当てる公式地政学の視点からトルコに関する既存の批判
地政学の研究を見ていくと、冷戦期における知識人検証が不十分である点、冷戦体制崩壊
後の「新オスマン主義」の分析が不十分である点、ダーヴトオールの理論を肯定的に評価す
ることで、批判理論ではなくむしろ問題解決理論の機能を果たしている点を指摘すること
ができる。また、地政学的ヴィジョンがどのように外交政策に反映されたのかに焦点を当
てる実践地政学に関する検証では、トルコに関する既存の批判地政学は、結局のところ、
これまでの使用されてきた説明の焼き直しに終始している点、冷戦体制崩壊による物理的
な地政学的変化を相対的に軽視している点、肯定的に評価されてきた公正発展党政権下の
ダーヴトオール主導の秩序安定化を試みる外交が、特に安全保障の側面で挑戦を受けてい
る点が明らかになった。


いずれにせよ、トルコのアカデミズムにおいて見られるようになった地政学の積極的な
受容は、いまだに発展途上である。第一章で見たように、非西洋の国際関係論には、非西
(83) Barry Buzan, People, States and Fear: An Agenda f〇r International Security Studies in the Post-Cold War Era (Second
Edition) (Boulder: Lynne Rienner Publishers,1991),pp.116-134.
134
トルコにおける地政学の展開
洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創出される視点と、非西洋世界の地域・国
家・社会の中から創出される自前の思想や見方という二つのアプローチがある。さらに後
者は批判と代替物の提示という二つのステップに分けることができた。トルコにおける
非西洋の国際関係論の理論的展開は、現段階では第一のアプローチと第二のアプローチの
第一ステップである既存の国際関係論の批判的検討の間で揺れ動いている。今後、トルコ
の多面性を最も良く捉えている「尖端国家」の再考と批判地政学的分析の量的かつ質的向上
を図ることがトルコにおける非西洋の国際関係論を進展させていくためには不可欠であろ
う。
135 』

ウクライナの二転三転する政権人事、レズニコフ国防相の解任問題を先送り

ウクライナの二転三転する政権人事、レズニコフ国防相の解任問題を先送り
https://grandfleet.info/european-region/ukrainian-administration-personnel-changes-postponing-the-issue-of-dismissal-of-defense-minister-reznikov/#comment_headline

 ※ ウクライナが膠着状態化しているところへ、トルコ・シリア地震による大災害まで変数として加わった…。

 ※ ウクライナ、トルコ、両国の「地政学的位置付け」が、ますます重要となるだろう…。

 ※ 世界情勢的には、これにスパイ気球を巡る米中対立の激化が加わっている…。

 ※ 全く「先の見通し」は、立たんな…。

『ゼレンスキー政権は国防省の汚職スキャンダルに関連して国防相の交代を計画したが後任人事の調整が難航、次回のラムシュタイン会議が迫っているため「レズニコフ国防相の解任問題を先送りした」と報じられている。

参考:Переполох в Минобороны. Почему у Зеленского решили уволить Резникова и тут же передумали
解任決定の報道が出た後もレズニコフ氏が国防相の地位に留まっているため欧米のパートナーたちは驚いているだろう

ゼレンスキー政権は今年に入って大規模な政府関係者の汚職や権力乱用に直面、発電機調達で40万ドルの賄賂を受け取ったインフラ省のロジンスキー副大臣、厳戒令を無視して家族とスペイン旅行に出かけたシモネンコ副検事総長、寄贈された高級SUVを私的に乗り回したティモシェンコ大統領府副長官、兵士向けの食料を市価の約3倍で契約したスキャンダルに巻き込まれたシャポワロウ国防副大臣など1月だけで10人以上の政府高官を解任した。

出典:Oleksii Reznikov

レズニコフ国防相も食料や装備品の調達に関連したスキャンダルに巻き込まれ調査対象になっており野党や市民活動家が政治的責任を要求、この騒動を納めるためウクライナ最高議会で過半数を占める与党「国民のしもべ」がレズニコフ国防相の解任を決定、後任の国防相に国防省情報総局のキリロ・ブダノフ准将、レズニコフ氏を法務相に起用する方向で調整が進められていたが、ウクライナの国防相は民間人でなければならないため現役のブダノフ准将を起用するのが難しく、ゼレンスキー政権も現在の法務相を交代させる意思がなく調整が難航。

レズニコフ氏を戦略産業相と起用するアイデアも本人が「仮にポストを打診されても専門知識がないので辞退する」と拒否、ブダノフ准将の代わりに国防省情報総局のトップを誰に任せるのかという問題も浮上、そうこうしている内に14日開催のラムシュタイン会議が迫ってきたため「ゼレンスキー政権はレズニコフ国防相の解任問題を先送りした」と報じられている。

出典:Oleksii Reznikov

現地メディアは「何れにせよ国防省の汚職スキャンダルを2週間以上も引きずのは国防上好ましくなく、解任決定の報道が出た後もレズニコフ氏が国防相の地位に留まっているため欧米のパートナーたちは驚いているだろう。そして今回の結果に至った経緯も理由も不明のままだ」と批判しているが、情報筋は「14日開催のラムシュタイン会議後にレズニコフ国防相の解任が再度議論される可能性が高い」と述べており、政権人事に関するゴタゴタは当分続くのだろう。

因みにウクライナ大統領府顧問を辞任したオレクシー・アレストビッチ氏は「もう自由に喋ることができる、キーウ内部は権力闘争の真っ最中だ」と述べていた。

関連記事:ウクライナ与党がレズニコフ国防相の解任を決定、後任にブダノフ准将を起用
関連記事:現地メディア、ウクライナ軍を支えてきたレズニコフ国防相が近日中に辞任

※アイキャッチ画像の出典:Oleksii Reznikov
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 14 』

米国、気球分析で「中国の能力と意図明確に」 返却否定

米国、気球分析で「中国の能力と意図明確に」 返却否定
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN06CGK0W3A200C2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は6日、米軍が4日に撃墜した中国の偵察気球を分析すれば中国の偵察能力と意図が明らかになるとの認識を示した。記者団に、回収した気球の残骸を中国に返却する予定はないと表明した。

撃墜した偵察気球は南部サウスカロライナ州の沖合6マイル(約10キロメートル)ほどの米領海に落下した。残骸は少なくとも7マイルほどにわたり散らばってい…

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『残骸は少なくとも7マイルほどにわたり散らばっているもようだ。米軍によると、気球の大きさは高さ最大200フィート(約60メートル)だった。海面の残骸に加え、無人機を使って海中からの回収も急ぐ。

カービー氏は気球の解析で「能力だけでなく中国が気球を使って何をしようとしたのか、より明確にできる」と指摘。「(飛来中の)気球の監視と残骸の回収によって得られる情報は価値があると証明されるだろう」と語った。

米国は過去に少なくともトランプ前政権時代に3回、バイデン政権発足後に1回は米領空で中国の偵察気球を確認している。カービー氏は飛来の範囲や通信技術など「能力を改善しようとしている。中国が国家安全保障上の利益があると信じているのは明らかだ」と話した。

飛行した西部モンタナ州には大陸間弾道ミサイル(ICBM)を運用するマルムストロム米空軍基地がある。米国防総省は「軍事施設を偵察しようとした」(高官)と断定。カービー氏は中国側が制御でき、速度を変えたり旋回したりする能力を持つ偵察気球だったとの見方を示した。

中国外務省の毛寧副報道局長は6日の記者会見で、米国が撃墜した中国の偵察気球を巡り「中国は一貫して国際法を順守し、ほかの国の主権を尊重している」と主張した。

カービー氏は米領空内で気球を撃ち落とした対応について国際法違反ではないと明言した。「米国は国際法に従い、領空内で撃墜した。国際法を守らず、米領空を飛行させた中国とは異なる」と訴えた。

これからの米中関係に関し「世界でも最も重要な2国間関係のひとつだとのバイデン大統領の考えは変わっていない。米国は中国との紛争を求めていない」と指摘。気球の飛来を受けて延期を決めたブリンケン米国務長官の訪中を巡っては「時期が来れば中国側と議論を始めるだろう」と述べた。

国務省のプライス報道官は6日の記者会見で、撃墜の事実は事後に中国に通告したと明かした。「中国にとって驚きはなかったはずだ。ブリンケン氏が3日に(中国外交担当トップの)王毅(ワン・イー)氏に電話で『米国は国益を守るために適切な行動をとる用意がある』と強調していた」と説明した。

【関連記事】

・米軍、過去の気球飛来を即時発見できず 欠陥認める
・米軍、偵察気球の残骸回収 中国の情報収集能力を分析

多様な観点からニュースを考える
※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

青山瑠妙のアバター
青山瑠妙
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 教授
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ひとこと解説 今回、中国の偵察気球を撃墜する任務を担当した二人のパイロットたちのコールサインは”FRANK01″ 、”FRANK 02″であり、第1次世界大戦で14機ものドイツ軍偵察気球を撃墜した英雄Frank Lukeにちなんでいる。中国の国防部は対抗して「中国は類似の状況で類似の対処を行う権利」を明言した。この偵察気球問題は、米中間の安全保障対立を間違いなくさらにエスカレートさせている。
撃墜された気球はカナダ領空を通過したのち、アメリカに入ったものである。さらに、もう一つの偵察気球が中南米上空に発見されたようだ。コロンビアやコスタリカがどう反応するのか。問題は米中関係以外にも波及しそうだ。
2023年2月7日 8:27 (2023年2月7日 8:47更新)
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41

今村卓のアバター
今村卓
丸紅 執行役員 経済研究所長
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分析・考察 根源的には、中国政府の「相手の立場に立って考える」という経験と自覚の不足から生じている問題では。しかもこの気球飛来と撃墜は、中国のような巨大な国の場合、この自覚が首脳や外務省など一部にあるだけでは不十分なことをも示したと思います。政府の活動を分担する細部にまで浸透していないと、このタイミングで米国に気球を飛ばしてしまう、通知が発見されてからになるという国全体として自覚がないと言われても否定できない行動をしてしまうのでしょう。この事態を受けて中国政府の内部で自覚が細部に浸透すればよいのですが、権威主義の中国ではそれも難しそう。今後も同様の事態が起こるリスクは大きいと思います。
2023年2月7日 13:09いいね
39

渡部恒雄のアバター
渡部恒雄
笹川平和財団 上席研究員
コメントメニュー

分析・考察 今回の中国の米国の気球への対応について、ニューヨークタイムズ紙に米国の中国専門家の見方が掲載されています。共通しているのは中国政府の危機管理能力の欠如が、今後も米中の不要な対立を高めかねないという危機意識です。今回の事件で、ブリンケン国務長官の訪中が延期されましたが、気球を管理する人民解放軍の部局が、昨年11月の習・バイデン首脳会談で米中関係改善の貴重な成果であるこの外交日程を考慮せずに気球を運行させていたのではないか、という疑問をテイラー・フラベルMIT教授は持っています。これが偵察機墜落のような展開の早いものなら事態は深刻だとドリュー・トンプソン元国防総省中国部長は指摘しています。
https://www.nytimes.com/2023/02/06/world/asia/china-balloon-xi-jinping.html
2023年2月7日 7:34いいね
91

柯 隆のアバター
柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
コメントメニュー

分析・考察 この小さなことがここまで大事になってしまったというのは、やはり北京のリスク管理に問題があるといわざるを得ない。この気球について国際法上の解釈はわかれているが、立場を置き換えれば、外国、たとえば、米国気球は中国の上空に進入した場合、どんな結果になるか。偏西風によって従来の軌道から外れてしまったならば、いち早く沿線国に知らせておけば、大事にならなくて済むはず。一番よくないのは報復措置を取るとちらつかせること。それによって、問題の解決に資しないだけでなく、国際社会における中国イメージが悪くなる。外交は中国から外国をみる目だけでなく、外国から中国をみる目も必要である
2023年2月7日 8:03いいね
145 』

バイデン氏、米中関係悪化を否定 偵察気球飛来で

バイデン氏、米中関係悪化を否定 偵察気球飛来で
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN071AC0X00C23A2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】バイデン米大統領は6日、米軍が米領空を飛行していた中国の偵察気球を撃墜した問題で米中関係は悪化するかと記者団に問われ「いいえ(No)」と否定した。気球飛来を受け「中国には米国が何をするかを明確にした。我々は引き下がるつもりはない。正しいことをした」と話した。

気球を巡る米中の見解は食い違う。米国は気球が「軍事施設を偵察しようとした」(高官)と断定する一方、中国は「民間の気象研究用」などと主張する。バイデン氏は中国を信用できるかとの質問に「信用の問題でなく、どこで協力し、どこで反対するかが問題だ」と答えた。

米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は6日、記者団に米中関係に関し「世界でも最も重要な2国間関係のひとつだとのバイデン氏の考えは変わっていない。米国は中国との紛争を求めていない」と述べた。気球の飛来を受けてブリンケン米国務長官は2月上旬に計画していた訪中を延期した。

米軍がアリューシャン列島付近の米領空に気球が侵入したのを最初に確認したのは1月28日だった。米アラスカ州を横断して同30日にカナダ領空を通過後、同31日に西部アイダホ州の上空で再び米領空に入った。

その後、飛行したモンタナ州には大陸間弾道ミサイル(ICBM)を運用するマルムストロム米空軍基地がある。4日に撃ち落とした偵察気球は南部サウスカロライナ州の沖合6マイル(約10キロメートル)ほどの米領海に落下した。

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バイデン政権』

米中貿易、4年ぶり過去最高 日用品・食品など依存高く

米中貿易、4年ぶり過去最高 日用品・食品など依存高く
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN06CQP0W3A200C2000000/

『【ワシントン=飛田臨太郎、ニューヨーク=堀田隆文】米国の中国とのモノの貿易額が2022年に4年ぶりに過去最高を更新した。米商務省が7日発表した貿易統計によると輸出入の合計額は6905億㌦(約91兆円)で、最も多かった18年を上回った。米国は玩具などの日用品、中国は大豆などの食品関連で輸入が増えており、相互依存はなお高い。

米中両政府が18年夏から19年に繰り広げた制裁関税の応酬や、新型コロナウイ…

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『米中両政府が18年夏から19年に繰り広げた制裁関税の応酬や、新型コロナウイルス危機に伴うサプライチェーン(供給網)の混乱で米中貿易は19〜20年に落ち込んだ。22年は米政府が10月に先端半導体の輸出規制を導入するなどハイテク分野での取引規制を強化したが、消費財の貿易は増えた。世界的なインフレが貿易額を押し上げた面もある。

米中貿易戦争の影響が本格化する前の18年と比べて貿易構造は変化した。米国の22年の中国からの輸入額は5367億㌦で過去最高の18年とほぼ同水準だった。輸入額に占める比率が高まったのは玩具やプラスチック製品などの汎用品だ。

1〜11月の玩具やゲーム類は7.5%と18年比で2ポイント以上増えた。22年前半は米個人消費が好調だった。丸紅ワシントン事務所の阿部賢介氏は「輸入業者にとって、制裁関税がかかっても中国製品の原価の安さのメリットが大きかった」と語る。

トランプ前政権が課した玩具やプラスチック製品など中国製品への計3700億ドル分の制裁関税は現在も大半が残ったままだ。バイデン政権は見直しを検討したが、22年8月のペロシ米下院議長(当時)の台湾訪問などで関係が悪化し、機運が薄れた。

米国からの22年の対中輸出は1538億㌦と過去最高を更新した。最も変化が大きかったのは大豆やトウモロコシなどを含む穀物類で、1〜11月の輸出額に占める比率は11%と18年の同時期(3%)から大幅に上昇した。中国の消費量が多い大豆の生産は米国と中南米が8割を占め、食用だけでなく養豚など飼料用の需要が拡大している。

一方、航空機や宇宙関連の輸出に占める比率は18年の14%から3%に落ち込んだ。米ボーイング製などの民間航空機は中国向けの最大の輸出品だったが、貿易戦争とコロナ危機で受注が低迷した。中国は国産航空機の製造開発に力を入れる。

米中の政治的緊張を抱えながらも、企業は双方の巨大市場でビジネスチャンスを逃すまいと動く。米中ビジネス評議会のクレイグ・アレン会長は「安全保障に関係のない95%の貿易産業は関係が継続している」と明かす。

貿易統計に表れない企業活動もある。中国企業は米国への輸出継続に向け、生産拠点としてメキシコに注目する。中国の家電大手ハイセンスはメキシコの新工場で米国向け冷蔵庫を生産する。

米ピーターソン国際経済研究所のバーグステン氏は「米国が中国を封じ込めようとしても失敗する。機能的なデカップリング(分断)戦略を模索しながらも、世界経済は米中が引っ張っていくべきだ」と指摘する。

日本貿易振興機構(ジェトロ)の佐々木伸彦理事長は「日本企業はチャイナリスクを注目しているが、チャイナチャンスも同時にみるべきだ。機微な技術品目には留意が必要だが、それ以外の分野はチャンスを逃さない対応が求められる」と強調する。

米中貿易が今後も伸び続けるかは不透明だ。中国の偵察気球が米国に飛来した問題で、米中外交は厳しさを増す。ボストン・コンサルティング・グループは1月のリポートで、米中貿易額が31年にかけて10%減ると予測した。

米貿易赤字、2022年過去最高156兆円

米商務省が7日発表した22年の米国のモノの貿易赤字は1兆1818億ドル(約156兆円)で過去最大を更新した。前年に比べて10%近く増加した。同年前半に個人消費が伸び、輸入品の需要が高まった。

輸入は3兆2466億ドルと14.7%増えた。携帯電話などの消費財が伸びた。新型コロナウイルス危機後のサプライチェーン(供給網)の混乱が一服し、産業関連の輸入も増加した。

輸出は2兆647億ドルで17.7%増加した。原油や天然ガスの輸出が大きく伸びた。欧州を中心にロシア産から米国産にエネルギー調達を切り替える動きが広がった。

この記事の英文をNikkei Asiaで読む
Nikkei Asia https://asia.nikkei.com/Economy/U.S.-China-trade-hit-record-in-2022-despite-tensions 

【関連記事】

・イエレン米財務長官、中国副首相と会談 対話強化で一致
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前嶋和弘のアバター
前嶋和弘
上智大学総合グローバル学部 教授
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ひとこと解説米中貿易そのものは増えていますが、中身が確実に変わってきました。安全保障に関係するデジタル分野などでは中国の影響を削ぎ、それ以外は元に戻す動き。つまり、「デカップリングの精緻化」が進んでいます。
2023年2月8日 0:51 (2023年2月8日 0:52更新)
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上野泰也
みずほ証券 チーフマーケットエコノミスト
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ひとこと解説景気回復局面で輸入が増えやすい、すなわち貿易赤字が膨らみやすいという、米国経済の体質には変わりがないことが確認されたと言えるだろう。このため、コロナ禍を脱した22年に、対中国も含めて、米国の貿易赤字幅は拡大した。
2023年2月8日 8:08いいね
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柯 隆のアバター
柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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分析・考察したがって、いつもコメントさせていただいているのは、日米欧にとってゼロチャイナはありえない。いかにウィズチャイナを続けるかがポイント。ただし、半導体などの最先端技術と部品は徹底的にディカップリングしていくものと思われる。日米欧にとって中国は巨大な市場であり、日用品の供給元でもある。サプライチェーンを強靭化するという意味では、中国への依存度を多少調整する必要があるかもしれないが、中国に代わる国は見つからないのは確かなことである
2023年2月8日 7:27』

米仏独の経済閣僚、EVの北米優遇策巡り協議

米仏独の経済閣僚、EVの北米優遇策巡り協議
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN080G30Y3A200C2000000/

『【ワシントン=飛田臨太郎】米政府は7日、イエレン財務長官やレモンド商務長官がドイツのハベック経済・気候相、フランスのルメール経済・財務相と会談したと発表した。北米生産の電気自動車(EV)を優遇する米国の歳出・歳入法(インフレ抑制法)について協議した。独仏は早期の見直しを改めて求めたとみられる。

インフレ抑制法は3960億ドル(約50兆円)の気候変動対策を盛り込み、EVの優遇策は北米で組み立てた車に限定した。欧州政府には企業が生産拠点を北米に移すとの懸念がある。AFP通信によるとルメール氏は会談を前に「同盟国と協力しながら、交付される補助金について透明性を確保する」と強調した。

商務省によると、レモンド氏は会談で「インフレ抑制法は米国にとって重要な手段であり、これまでで最も重要な米国の気候変動対策法だ」と指摘した。EVを巡る協議結果は明らかにしていない。

バイデン米大統領は2022年末に欧州からの批判を受けて修正する方針を示した。その直後に開いた米国と欧州連合(EU)の閣僚協議でも米側が「建設的に対処する」との共同声明をまとめたが、米政府の対応は遅れている。

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米国防総省、中国が「電話協議を拒否」 偵察気球めぐり

米国防総省、中国が「電話協議を拒否」 偵察気球めぐり
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN0808W0Y3A200C2000000/

『【ワシントン=中村亮】米国防総省のライダー報道官は7日の声明で、中国がオースティン米国防長官と中国の魏鳳和国防相の電話協議を拒否したと明らかにした。中国の偵察気球をめぐる協議を目的としていた。ライダー氏は国防トップの意思疎通を重視する立場は変わらないと強調した。

国防総省は、米軍が4日に偵察気球を撃墜した直後に電話協議を中国側に申し入れたという。ライダー氏は「責任を持って米中関係を管理するために開かれた対話ルートを維持する重要性を強く認識している」と言及し、中国に協議を受け入れるよう促した。

オースティン氏は2022年11月、訪問先のカンボジアで魏氏と会談した。軍事衝突の回避に向けて対話ルートを維持する考えで一致していた。米インド太平洋軍によると、同12月に中国軍機が南シナ海の上空で米軍機に異常接近していた。国防当局の危機管理が重要になっている。

ブリンケン米国務長官は3日、米本土への気球飛来を受けて中国訪問を延期すると決めた。同日に中国外交トップの王毅(ワン・イー)氏と電話協議して飛来に関し「無責任な行動であり、明白な主権侵害と国際法違反だ」と非難した。

バイデン政権は気球について偵察目的だと断定しているが、中国は「民間の気象研究用」と説明して米中の主張は食い違っている。

【関連記事】

・米海軍、中国気球残骸の写真公開 回収作業と分析急ぐ
・米軍、過去の中国偵察気球発見に遅れ 本土防衛に隙
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GAFAM襲う「中年の危機」 米テック大手に地殻変動

GAFAM襲う「中年の危機」 米テック大手に地殻変動
米州総局編集委員 阿部哲也
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN301HK0Q3A130C2000000/

『米国のテック業界では、こんな見方が長く常識とされてきた。「テクノロジーにバブルは絶対起こりえない」。米カリスマ起業家、ピーター・ティール氏の言葉だ。しかし現実の各社はいま、長いバブルの後遺症ともいうべき厳しい冬の時代に直面している。
史上最悪ペースの人員削減

異変は史上最悪ペースの人員削減にあらわれる。グーグル、メタ、アマゾン・ドット・コム、マイクロソフト……。「GAFAM」と呼ばれる大手はほぼ…

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『異変は史上最悪ペースの人員削減にあらわれる。グーグル、メタ、アマゾン・ドット・コム、マイクロソフト……。「GAFAM」と呼ばれる大手はほぼ総崩れとなり、2023年に入ってからもリストラ計画が止まらない。

世界のデータ経済の成長を引っ張り、米国の繁栄の象徴でもあったテック業界だ。いったい何が起きているのか。現象をひもとくキーワードが「midlife crisis(中年の危機)」である。

「最も興味深く重要な山を征服し、次を探して苦しんでいる」(米アトランティック誌)
「激しい気移りに、衝動的な決断、そしてひどい後悔にさいなまれている」(米ブルームバーグ通信)

中年の危機とは老いを自覚し、気力を失った精神状態をさす。人生の折り返し地点を過ぎ、生き方に揺れる。米国では昨年末以降、テック各社を惑う中年になぞらえ、論評する声が増えた。

「コロナブーメラン」響く
短期的にみれば、足元の相次ぐリストラは単に悪環境が重なったからだとする解釈は多い。

グーグルのピチャイCEOは大規模リストラについて、新型コロナ特需を見越した事業の急拡大が原因と釈明した(写真は22年10月、東京)
「過去2年間の劇的な成長に見合うよう、いま直面する現実とはまったく異なる判断を下してしまった」

1万2000人を削減するグーグルのスンダー・ピチャイ最高経営責任者(CEO)が釈明するように、とりわけ「コロナブーメラン」が各社を悩ます。新型コロナウイルス禍でリモートワークが普及し、各社は自社サービスの利用増を見越して競うように大量採用に踏み切った。だがその特需は過ぎた。

時を同じくして急ピッチの利上げが始まり、新事業に欠かせないイージーマネーも断たれた。業績は伸びが鈍り、株主のフラストレーションはたまる。経営者ともども長期への余裕をなくし、株価を保つには人件費をはじめとするコスト削減でしのがざるをえない。

3つの地殻変動

問題はなぜ、こうした負の連鎖が一斉に業界全体へ広がっているかにある。背景にはコロナやインフレだけでは片付けられない構造的な変化、各社を襲う中年の危機があるというのだ。

フェイスブックを展開するメタをはじめ、ビッグテックは大きな構造変化に悩まされている=ロイター

米テック業界、とりわけビッグテックをめぐっては、3つの地殻変動がその基盤を根本から揺らしている。

第1は市場の成熟だ。グーグルは世界の検索の9割を独占し、各国で普及するアップル端末は20億台を超す。メタのフェイスブックは月間30億人が使い、アマゾンだけで消費大国である米国のネット通販の4割を担う。

もはや各社とも大きくなりすぎて、互いの事業領域を食い合うカニバリズムも深刻になっている。ブルーオーシャン(未開拓市場)を謳歌できたこれまでのようにはいかない。

さらに内なる危機、巨大化に伴う文化の変容も強まる。

「従来型の企業にはならない」。共同創業者のラリー・ペイジ氏がこう言ってスタートしたグーグルも、いまでは兄弟会社含めて19万人が働く。

遊び場のようなオフィスに無料のカフェテリア、医療保険など福利厚生も手厚い。斬新な職場づくりで一世を風靡したが、現在は昼食の牛肉ひとつに異論が出る。人工知能(AI)やドローンで米国防総省と接近し、大規模な反対運動も招いた。多様化への対応と責任は膨らむ。

テック業界が存在感を増すにつれ、各国政府との関係も微妙になってきた。第3の逆風が世界的な監視網である。

グーグルに対し、ガーランド米司法長官は「15年にわたり反競争的な行為を繰り返してきた」と鋭く批判した=ロイター

包括的なテック規制で先行する欧州だけにとどまらない。米司法省もついにグーグルのネット広告事業に対し、分離分割を求めて訴訟に動いた。主要各社が過去最高額のロビー活動を展開していたにもかかわらずだ。

いまや各社のサービスは各国の政治や社会をも動かす。シリコンバレー流を前面に、自由奔放にやってこられた時期は終わった。

短命化する米主要企業

米コンサル会社、イノサイトの調べによると、S&Pの株価指数を構成する主要500社は短命化が進む。1970年代後半の「平均寿命」は30〜35年だったが、今後10年間は15〜20年にまで短くなる。

メタ19歳、グーグル24歳、アマゾン28歳、アップル46歳、マイクロソフト47歳……。主役交代の激しい米国経済にあっては、各社とも決して若くはない。むしろすでに全盛期を過ぎたと見られてもおかしくない局面にさしかかっている。

テック各社はスマートフォンとアプリによる新たな情報革命を推し進め、広告、娯楽、金融とあらゆる分野を一変させてきた。これまで成し得たものが大きいだけに、次に挑む山もなかなか見つからない。

アマゾン創業者のベゾス氏(左から2人目)は宇宙開発ビジネスへ転身した=ロイター
迷いは何より有力経営者の相次ぐ転身にも見て取れる。

アマゾン創業者のジェフ・ベゾス氏は宇宙開発のためにCEOを辞し、メタをネット広告の巨人に変えたシェリル・サンドバーグ氏も引退した。高く険しい山を登り切った経営トップらがテック各社を次々と離れていく。こうした傾向は業界全体が惑いのさなかにあることと無縁ではない。

消えるムーンショット

気になるのは、次代を担うはずのムーンショット事業も次々と消えている点だ。たとえばアマゾンは22年秋、社内の極秘研究所を大幅に縮小し、エネルギーや環境関連の一部プロジェクトを取りやめた。

「テック企業が夢と野心を失えば、何が残るのか」。グーグルのニューヨーク拠点に勤めていた元従業員は病気の家族を救うため、ヘルスケア関連の新興企業に転職するという。老いるビッグテックを去った人材が各地で新たな種をまけるか。米国のみならず、世界の経済の「次」にも関わってくる。

Nikkei Views
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【関連記事】

・Google・Microsoft…米テック人員削減、年間最多ペース
・Google、1万2000人削減 持ち株会社社員の6%に相当
・米テック、「優等生」も人員削減 Microsoftが1万人
・米テック、拡大路線転換 AmazonやSalesforce人員削減
・Amazon、人員削減1万8000人に拡大 メタ上回る規模に

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堀越功
日経BP 日経クロステック副編集長
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分析・考察 今のビッグテックに起きている人員削減や分離分割を求める動きは、過去の歴史に照らし合わせると、1984年の米AT&Tの分割に匹敵する動きにつながるかもしれません。当時世界最大の企業で米国の通信市場を独占していたAT&Tの分割は、ベビーベルと呼ばれる地域通信事業者を生んだほか、その後のインターネット革命を生む土壌になったと言われています。現在のビッグテックを襲う地殻変動は、次の産業を生みだすという米国流のダイナミズムにつながる可能性があります。
2023年2月8日 9:16いいね
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南川明
インフォーマインテリジェンス シニアコンサルティングディレクタ
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別の視点6万人強の人員削減は大規模であるが全社員220万人の3%である。株価維持の為には更なる人員削減が必要なほどに見える。GAFAMと言われる5社が次のプラットフォームを構築して全社が生き残れるとは思えないが、次のプラットフォーム構築に向けた開発は着実に進んでいると見ている。
近年のコンピューティング能力の向上で医療の進歩は急速に高まっているようだ。2035年にはほとんどの病気は治療可能とまで言われるようになってきた。そんな事を実現できるテック産業が終わるとは思えない。
2023年2月8日 8:51 』

中国「偵察気球」問題の伏線は仙台に、日本揺さぶる撃墜

中国「偵察気球」問題の伏線は仙台に、日本揺さぶる撃墜
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK050QT0V00C23A2000000/

『まさか、子供の頃に見て恐ろしさを覚えた思い出があるUFO(未確認飛行物体)なのだろうか……。

心が騒いだのは、朝の出勤途中のことだった。日本の安全保障にとって重要な自衛隊関連施設も多い東北地方の宮城県。その中核都市、仙台市にある宮城県庁近くから、ふと空を見上げた。梅雨入りしたうっとうしい季節には珍しく、完璧に晴れ渡った真っ青な天空だったからだ。

何かおかしい。そこに真っ白な見慣れない風船が浮かん…

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『何かおかしい。そこに真っ白な見慣れない風船が浮かんでいる。いや、風船のはずがない。目をこらすと、超高空をまん丸い物体が、南西から北東にゆったり移動してゆく。距離から推し量ると、かなり大きい。

これは2020年6月17日、仙台在住の市民が目撃した謎の白い球体の鮮明な記憶である。その頃、日本は初期の新型コロナウイルス禍と、東京五輪の延期などでざわついていた。地方での「UFO」目撃談などは、全国的に大きな話題にはならなかった。

自衛隊施設の集積地付近を航行

目撃者は、まさか、球体を巡る「真相」が、3年後の今になって明らかになるとは思わなかったという。しかも、米全軍の最高指揮官である大統領、バイデン(80)の命令によって米軍が誇る最新鋭ステルス戦闘機F22が出撃し、そのミサイルで撃墜されるなんて。米国での中国気球撃墜の伏線は、仙台にあったかもしれないのだ。

中国の巨大気球をミサイルで撃ち落としたのは米軍のF22戦闘機だった=ロイター

米東海岸の大西洋上空で破壊された白い球体。「それはバス3台分もの大きさだった」。米メディアは米政府関係者の話としてこう伝えている。下部にはソーラーパネルのような板状構造物がぶら下がり、海に落下していった。付属プロペラを使った移動も可能という。米北方軍司令官のバンハークは6日、気球の高さは約60メートルで、小型ジェット機大の機材を搭載し、機材の重さが900キログラムを超えるとの分析を示した。

3年前の仙台での目撃談によると、肉眼では、球体にぶら下がる構造物をはっきり確認できなかった。だが宮城県警が警戒のために飛ばしたヘリコプターからの目視や、仙台市天文台などによる撮影写真からは、白い球体から下がる十字型の構造物とソーラーパネルのようなもの、くるくる回る2基のプロペラなどが確認できたという。

多くの仙台市民らは、地元メディアの報道で大きく取り扱われた異形の真っ白な飛行球体をしっかり覚えている。確かに今回の撃墜で世界的話題になった「中国の偵察気球」と似ている。

球体は偏西風のジェット気流にも乗りながら南西から仙台上空にやってきた。20年6月17日は、早朝から宮城県内を北東方向に長い時間、ゆっくり飛行し、最後は太平洋側に消えていった。見逃せないのは、宮城県内の飛行ルート付近には自衛隊の重要施設が複数あった事実だ。

宮城県庁から東5キロメートルには、2011年3月11日の東日本大震災の際、被災者救援活動の指揮拠点になった陸上自衛隊東北方面総監部がある。同15キロメートルには陸自多賀城駐屯地、そして東北東40キロメートルにはブルーインパルスで有名な航空自衛隊松島基地。後ろ2つは、いずれも甚大な津波被害を受けた。

撃墜され、落下する中国の気球(4日、米サウスカロライナ州沖)=ロイター
考えてみれば、今回の米国での球体撃墜では、それを「気球」と呼んでいるから、要らぬ誤解を生む。バス3台分もの大きさがあれば、我々がイメージする優雅でふわふわした観光用などの気球ではない。立派な中小型の飛行船なのだ。

これが米領空を侵犯し、何日間も上空を飛行すれば、米国民が身構えるのは当然である。中国の公式発表も民用の無人飛行船だ。ぶら下がる構造物には十分な面積がある。安保関係者は「特殊カメラ、通信施設、計測器など様々な物を載せることも可能」と指摘する。

宮城県知事の村井嘉浩(62)は陸自出身で、かつてヘリコプターパイロットとして東北方面航空隊(仙台霞目駐屯地)に勤務していた。その経験で培われた感覚は一定の参考になるため、6日の宮城県庁での記者会見のやりとりをQ&A形式で紹介する。

Q:米国(で撃ち落とされた問題)の気球は3年前、宮城で発見された気球との関連があるのか?

A:県としては(気球の所属を)調べようがなかったので、「正体不明」ということになった。中国のものかは今も分からない。ただ今回、米国であのような事案があったので、同じ事案が発生したときには、速やかに国に連絡をして対策を求めたい。

Q:当時は国や防衛省に調査を依頼したのか?

A:宮城県として何らかの申し入れをしたことはない。

Q:(県警がヘリを飛ばすなどした)3年前の調査は、あれが限界だったということか?
A:そうだ。県としては限界だった。

Q:米国と日本の対応が全く違う。3年前の日本の対応をどう考えるか?

A:安全なものかも不明で、もしかしたら放射能を含むかもしれないと考えると、しっかり追尾をし、正体不明であれば、しっかりと調べるということは、今後必要になるかもしれない。しかし県には権限がない。国の方で考えてほしい。

Q:3年前のものと今回の米国の気球は似ていると思うか?

A:実際、(捕獲したりして詳細に)調べたわけではないが、似ていると言われれば、確かに似ている気がする。

早急に具体的な対処法検討を

知事の発言はあくまで慎重だ。しかし「確かに似ている気がする」という最後の言葉と、複数の目撃談を合わせると、かなり似ているのは明らかだ。米国での撃墜は、日本にとってひとごとではない。仙台での目撃証言を思い起こしても、日本政府は深刻に受け止めるべきだ。

宮城県の村井嘉浩知事(1月18日、仙台空港)

米政府が言及する軍事目的を持つ「偵察気球」かどうかの断定は、今後の調査結果を待たねばならない。だが、少なくとも、今後も起こりうる同様の事案にどう対処するか、日本政府として早急かつ具体的に検討する必要がある。

20年6月17日の仙台での目撃について当時、官房長官だった菅義偉は翌日の記者会見で、敵意を持つ他国からの物体であることを否定した上で、「必要な警戒監視は行っている」と述べるにとどめた。米国で撃墜事件が起きた今から振り返ると、再考し、修正すべき内容にみえる。

中国では、基本的に共産党があらゆる組織をコントロールしている。「(航空・宇宙、通信、気象観測など)安全保障に関係する部門に、純粋な民間など存在しない」。中国での経験が長い日中外交筋の指摘である。必ず共産党・政府の関与があるのが常識だ。

例えば、中国版GPSである衛星測位ナビゲーションシステム「北斗」の管理・運用は形式上、軍が直接行っているわけではない。だが最も重要な用途は、通信や軍用機、軍艦、公船の誘導など軍事・安保用であるのは間違いない。これは、深刻な米中間の安保上の対立、技術覇権争いの最前線に立つシステムだ。

中国当局が、55基目の衛星打ち上げによって「北斗」の完成を宣言したのは、20年6月23日だった。関係性はまるで不明とはいえ、日本領空である仙台上空で謎の球体が目撃された6日後のことだった。

中国建国70年の記念式典で、人民解放軍を閲兵する習近平国家主席(2019年10月1日、北京)=新華社・共同

国家主席の習近平(シー・ジンピン、69)もトップに就いてから一貫して軍事技術と民用技術の一体開発と運用を意味する「軍民融合」の旗を振っている。17年の第19回共産党大会からは、軍民融合を明確に掲げたプロジェクトが様々な分野で大々的に進められてきた。

仮に今回の飛行船が気象観測を主体にしていたとしても、軍事施設が点在する米上空で様々な機器を駆使して情報を集めていたなら、軍事目的への転用の可能性は十分ある。それが習が命じた軍民融合の意味なのだから。

中国も自国の「無人飛行船」である事実は認めた。ただ軍用ではなく、民用と強調しただけだ。民用という表現は、中国軍に直接、所属している飛行船ではない、という意味にすぎない。

ブリンケン訪中直前、謎の挑発の意味

それにしても、ひとつ大きな疑問が残る。今回の米領空侵犯は、米国務長官、ブリンケン(60)が予定していた訪中直前に起きた。習がブリンケンと面会する予定も固まったという西側メディア報道もあった。

記者会見するブリンケン米国務長官(3日、ワシントン)=ロイター

対米関係で緊張緩和を探るのは、習の意向に沿った中国外務省の大方針でもあったのだ。では、なぜそのタイミングで米国を挑発するチグハグな対応になったのか。中国の安保に詳しい人物の分析はこうだ。

「(中国軍など)安保を担う部門は、(中国外務省が)外交的に発信する対外的な緊張緩和のサインなどと全く無関係に、敵側の出方を試す『試探』と呼ばれる行動を定期的にとってきた。それはトップを含む最高指導部から直接、強い中止命令が出ない限り、各部門の判断で随時、実行される。今回もその可能性がある」

こう考えれば、仙台での目撃談の前後から、似た飛行球体が日米などで延々と発見されてきた謎が解ける。今回もその流れで実行されたにすぎないのかもしれない。中国トップは、安保関係部門の全ての行動を把握し、命令・指示しているわけではない。

日本周辺での中国艦船、公船の目立つ航行でも似たチグハグな「挑発」が度々起きる。これも、あらかじめ決まっている方針に従っているだけだ。具体的にどのような行動をとるか現場で判断されることも多い。

記者の質問に答えるバイデン米大統領(4日)=ロイター

バイデンの命令で中国飛行船が撃墜された結果、早期に米中関係の緊張緩和が実現する道は閉ざされた。それでも米中のパイプが全て切れたわけではない。できるだけ早い時期に双方が話し合いのテーブルに着くことが、米中両国と交流を持つ日本を含む各国の利益にもなる。

その日はいつ来るのか。そもそも、いかなる理由があろうと、自国の飛行船を米領空に侵入させてしまった中国側が米政府に抗議するのは筋違いだ。ここは無用なメンツを捨てて、まず真摯に謝罪するのが先決だろう。(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部部次長、東日本大震災特別取材班統括デスクなどを歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員件論説委員。14年度ボーン・上だ記念国際記者賞受賞。』