『バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)は、カスピ海のアゼリ・チラグ・グネシュリ油田(英語版)(ACG油田、en:Chirag oil field : Early Oil Projectを含む)から地中海までを結ぶ全長1,768キロメートルの原油パイプライン。アゼルバイジャンの首都バクーから発し、ジョージアの首都トビリシを通り、トルコの地中海沿岸南東部に位置する港ジェイハンへ抜ける。これはドルジバパイプラインに次いで世界第2位の規模の石油パイプラインである。
ソビエト連邦の崩壊によって、新たな輸送路が模索されるようになった。ロシアは新パイプラインはロシア領を通過すべきだと主張し、参加を拒否した[1][2]。イランを通ってペルシャ湾に至るパイプラインが地理的に最も短く、採算性に優れていたが、イランは様々な理由から西側諸国にとって望ましくないパートナーだと考えられた。その神政的な政府や、原子力計画 (Nuclear program of Iran) 、イランでのアメリカ企業の投資を大きく制限するアメリカによる経済制裁、などが懸念された[3]。
パイプラインはアゼルバイジャンのバクー近くのサンガチャル・ターミナルから始まる。パイプラインはアゼルバイジャン、ジョージア、トルコを通り、ジェイハンに達する。終着地はトルコの地中海沿岸南東部にあるジェイハン海上ターミナル(ヘイダル・アリエフターミナル)。全長の1768 km のうち、443 km がアゼルバイジャン、249 km がジョージア、1076 km がトルコにある。いくつもの山岳地帯を通過し、最高のものはカフカース山脈で標高2,830メートルになる[17][18]。また、3000もの道路・鉄道・配管と地上および地下で交差し、幅500メートルのジェイハン川を含む1500の水路を渡る[19]。パイプラインは幅8メートルの回廊を通り、全長にわたって地下1メートル以下に埋められている[20]。BTCパイプラインとは並行に、サンガチャル・ターミナルからトルコのエルズルムまで天然ガスを輸送するサウス・コーカサスパイプライン(バクー・トビリシ・エルズルムパイプライン)が走っている[17]。サルズ – ジェイハン間ではサムスン・ジェイハンパイプラインが同じ回廊を共有する[21]。
石油収入が腐敗した役人に流用されるのではないかという懸念を抑えるため、アゼルバイジャンは政府基金 (State Oil Fund of the Republic of Azerbaijan, SOFAZ)[36] を立ち上げ、天然資源による収入を将来世代のために使うものとして委任し、主要な貸し手からの支持を強め、透明性と説明性を高めることを図った。アゼルバイジャンはまた、イギリスの主導するExtractive Industries Transparency Initiative (EITI) に参加する世界初の産油国となった[20]。
^ a b c d e 木谷(1975)pp.21-24
^ a b c d e f 菊池(2003)pp.214-219
^ 明石『ウェストファリア条約』3頁、48頁。
^ 中嶋(1992)p.190
^ a b 明石『ウェストファリア条約』21頁注1。
^ 明石『ウェストファリア条約』40-41頁。
^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。ポーランドを不参加とする説があるが、使節を参加させていたようである(同書78-79頁注21)。
^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。
^ 明石『ウェストファリア条約』60-61頁。
^ オスナブリュック講和条約第17条、明石『ウェストファリア条約』65-66頁に訳出。明石は、参加しない者が講和に含まれたのは、全ヨーロッパ的な平和状態への移行をともにする、という意味合いだと説く(同書68-69頁)。
^ a b c d e f g h i j k l 木谷(1975)pp.24-29
^ a b c d e f g h i j 菊池(2003)pp.223-226
2000年代に入り、国際関係論の西洋中心主義に疑問を呈する形で、非西洋の国際関係論 に注目が集まり始めた。その中心となったのが、2004年からアーリーン・ティックナー (Arlene B. Tickner)、オーレ・ウェーヴァー (Ole W&ver)、デヴィッド・ブラネイ(David L. Blaney)等によって始められた「地理文化的認識論と国際関係論(Geocultural Epistemologies and International Relations) jというプロジェクトと三巻にわたるその成果である(2)。非西洋 の国際関係論を検討する作業は、大きく二つの段階的アプローチから成り立つ。第一のア プローチは、非西洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創出される独自の視点を 検討するものである。これに次ぐ第二のアプローチが、非西洋に属する地域•国家・社会 の中から創出または発見される自前(homegrown)の国際関係に関する思想や見方を検討す るものである。
第一のアプローチは、言い換えれば、既存の国家単位で独自の国際関係論が存在するか を問うもので、国際関係論において前提とされてきた西洋起源のウェストファリア体制に 懐疑的であるが、その前提を受け入れたうえで、西洋の諸国家とは異なる、非西洋の特殊 性に着目する。「地理文化的認識論と国際関係論」の最初の成果として2009年に刊行された 『世界各国の国際関係論』、二つ目の成果として2012年に刊行された『異なった国際関係を 考える』は、まさにウェストファリア体制を前提としたうえで非西洋国家の国際関係論を 検討するものであった。それに対し、三つ目の成果である『国際を求める』は、第二のアプ 図1 非西洋国際関係論へのアプローチ 出典:筆者作成 (2) Ole Waever and Arlene B. Tickner, eds., International Relations Scholarship Around the World (London: Routledge, 2009); Arlene B. Tickner and David L. Blaney, eds., Thinking International Relations Differently (London: Routledge, 2012); Arlene B. Tickner and David L. Blaney, eds., Claiming the International (London: Routledge, 2013). ノレー卜 リッジ社では、上記の三巻本を皮切りに、その後も「西洋を越えた世界化(Worlding beyond the West)jという シリーズで非西洋の国際関係について論じた著作を刊行している。 114 トルコにおける地政学の展開 ローチに分類され、西洋起源の国際関係から脱し、西洋の国際関係論に代わる概念や視点 を提供することを荒削りながらも目指している。『国際を求める』に基づくと、第二のアプ ローチは、さらに二つに峻別することが可能である。まず、ウェストフェアリア体制を含 む、既存の国際関係論の前提を批判し、その問題点をあぶり出す作業が必要となる。次い で、非西洋世界の経験を取り入れた、西洋起源の既存の国際関係論に代わる考えや見方を 提示するアプローチが想定される(以上、図1参照)。
二つ目の潮流は、地理とアイデンティティの関係やテキスト分析に基づく批判地政学 (critical geopolitics)の枠組みを取り入れ、トルコ外交に付与されている「言説」を暴こうとす るものである。ここでの言説とは、「権力と権威とを言語の構成物に混合させたもの」のこ とを指す(5)。批判地政学は、伝統的地政学(古典的地政学)を再考し、その偏りや政治課題 (3) Lerna Yanik, “The Metamorphosis of Metaphors of Vision: ‘Bridging’ Turke’s Location, Role and Identity After the End of the Cold War,” Geopolitics 14, no. 3 (2009), p. 535. (4) トルコの地政学的特徴を表現する概念として最も頻繁に用いられてきたのは「橋(bridge)」のメタファーで ある。この表現は、トルコ外交に関する古典であるフェレンク・ヴァリ(Ferenc Vali)の『ボスポラスを横断 する橋』から使用され始め、1990年代のオザルの新興独立諸国に対する外交を指す言葉として用いられた。 しかし、「橋」はあくまでメタファーであり、分析概念ではないので、ここでは考察の対象から除く。「橋」 メタファーの視点からトルコを論じたものとして以下を参照。Yanik, “The Metamorphosis of Metaphors of Vision”; Ference Vali, Bridge across the Bosporus: The Turkish of Foreign Policy of Turkey (Baltimore: The Johns Hopkins Press, 1971); Ian Lesser “Bridge or Barrier? Turkey and the West After the Cold War,” in Graham E. Fuller and Ian Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics: From the Balkans to Western China (Boulder: Westview Press, 1993); Ian Lesser, “Beyond ‘Bridge or Barrier’: Turkey’s Evolving Security Relations with the West,” in Alan Makovsky and Sabri Sayari, eds., Turkey’s New World: Changing Dynamics in Turkish Foreign Policy (Washington, D.C. : The Washington Institute for Near East Policy, 2000), pp. 203-221. (5) コーリン・フリント著、高木彰彦編訳『現代地政学:グローバル時代の新しいアプローチ』原書房、2014年、 115 今井宏平 を暴くことを目的とする(6)。
トルコにおける批判地政学的分析の第一人者は、批判安全保障研究(critical security studies)を提唱したケン・ブース(Ken Booth)の弟子、プナール・ビルギン(Pinar Bilgin)で あった。ビルギンは2007年の「強い国家だけがトルコの地理的位置で生き残れる:トルコ における『地政学的真実』の活用」(12)、2012年の「トルコの地政学的教義」(13)という論文で、 トルコにおいて地政学の概念が外交の形成にどのように利用されてきたのかをアイデンテ イティとの関係を中心に論じている(14)。また、ムラト・イエシルタシュ(Murat Ye§ilta§)は 6頁。批判地政学と言説に関しては、例えば、Geraoid O’Tuathail and John Agnew, “Geopolitics and Discourse: Practical geopolitical reasoning in American Foreign policy,” Political Geography 11(1992), pp.190-204. (6) フリント、『現代地政学』、6頁。 (7) O’Tuathail and Agnew, “Geopolitics and Discourse,” p.191. (8) フリント、『現代地政学』、5頁。 (9) ジェラルド・トール「批判地政学の理解のために:地政学とリスク社会」コリン・グレイ、ジェフリー・スロー ン編、奥山真司訳『進化する地政学:陸、海、空、そして宇宙へ(戦略と地政学1)』五月書房,2009年、235頁。 (10) トール「批判地政学の理解のために」、235-237頁。 (11) トール「批判地政学の理解のために」、249-252頁。 (12) Pinar Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography: The uses of ‘geopolitical truths’ in Turkey,” Political Geography 26 (2007), pp. 740-756. (13) Pinar Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma,” in Stefano Guzzini, ed., The Return of Geopolitics in Europe?: Social Mechanisms and Foreign Policy Identity Crises (Cambridge: Cambridge University press, 2012), pp. 151-173. (14) ビルギンはまた、国際政治において、地理的位置に基づき、自己と他者を明確に区別する認知地図とし てジョン・アグニュー (John Agnew)が概念化した「文明的地政学(civilizational geopolitics)」を使用して、卜 116
1.3地政学の受容の未完性 このように、トルコの研究者、もしくはトルコを素材として扱った研究者たちは地政学 をキーワードに、既存の国際関係論の再検討を模索してきた。しかし、二つの潮流を巡る 議論にはいまだに根本的な問題点が散見される。第一の潮流に関しては、そもそも「絶縁 体国家」、「リミナル国家」、「尖端国家」という国家概念は分析概念としてどれほどの有効 なのだろうか。国際政治は動的な現象によって成り立っており、一時的に有効であった分 析概念も時間と共にその有効性を失うことがある。第二の潮流に関しては、批判地政学 の視点がどこまで「批判的なのか」疑問の余地が残る。例えば、イエシルタシュの分析で は、冷戦期とポスト冷戦期(90年代)の地政学的文化(geopolitical culture)が「防御的地政学 (defensive geopolitics)jだったのに対し、公正発展党政権期は「保守的・イスラーム主義的地 政学(conservative and Islamist geopolitics)」とされ、前者が静的な外交であったのに対し、後 者は動的な外交を可能にしたとして評価されている(19)。「防御的地政学」は、国際関係理論 の「防御的リアリズム」を念頭に置いており、現状維持と相対的な利得を重視するものであ ルコ と EU を分析している。Pinar Bilgin, “A Return to ‘Civilizational Geopolitics’ in the Mediterranean?: Changing Geopolitical Images of the European Union and TUrkey in the Post-Cold War Era,” Geopolitics 9, no. 2 (2004), pp. 269-291. (15) 公正発展党は2002年11月から2015年6月まで単独与党の座を維持していた。2015年11月の再選挙以降、 再び単独与党の座についている(2016年1月現在)。 (16) Murat Ye§ilta§, “The Transformation of the Geopolitical Vision in Turkish Foreign Policy,” Turkish Studies 14, no. 4 (2013), pp. 661-687. (17) Gertjan Dijkink, National Identity and Geopolitical Vision: Maps of Pride and Pain (New York: Routledge, 1996), p. 11.訳出するに当たり、フリント『現代地政学』、143頁も参考にした。 (18) Pinar Bilgin, Murat Ye§ilta§,ve Sezgi Durgun, der., Turkiye Dunyanin Neresinde?: Hayali Co忘rafyalar ve Qarpi§an Anlatilar (Istanbul: Ko¢ Universitesi yayinlari, 2015). (19) Ye§ilta§ “The Transformation of the Geopolitical Vision,” pp. 668-679. 117 今井宏平 った。
本節では、トルコの地政学的特徴を捉えるために近年創出された国家概念について考察 する。まず、今日のトルコの地政学的特徴を確認しておこう。第一に、トルコは、中東、 南コーカサス、東欧、バルカン半島という多様な地域に陸続きで隣接している点が指摘で きる。第二に、黒海、東地中海、マルマラ海に接し、近隣のカスピ海、中東の湾岸にも影 響力を行使できる点が挙げられる。黒海と東地中海を結ぶボスフォラス海峡とダーダネル 黒海 ブルガリア キプロス 。 市町村 —河川 トルコとその周辺国 出典:編集部作成 (20) Robert Cox, “Social forces, states and world orders: beyond international relations theory,” Millennium: Journal of International Studies 10 (1981),pp.128-29. (21)トール「批判地政学の理解のために」、232頁。 118
バリー・ブザン(Barry Buzan)とウェーヴァーは2003年に出版した『地域とパワー』におい て、トルコをアフガニスタン、ミャンマーと共に「絶縁体国家」と定義している。『地域と パワー』は、グローバルな観点から地域別の安全保障共同体(22)の関係について論じた著作 であり、その中で「絶縁体国家」は「地理的に地域間の谷間に位置しているものの、安全保 障分野において地域間を結びつける作用は薄い」と定義されている(23)。伝統的に「絶縁体国 家」は相対的に「受け身」であるとされ、ヨーロッパ・中東・旧ソ連圏・バルカン半島と接 するトルコも建国から冷戦期に至るまでは戦争に巻き込まれないことを目的とした受け身 の外交を展開したと説明される(24)。冷戦後の時期において、トルコは依然として各地域間 を結び付ける役割は薄いものの、各地域に積極的な外交を展開している点で、通常の「絶 縁体国家」の概念とは一線を画しているとブザンとウェーヴァーは結論付けている(25)。 ブザンとウェーヴァーの著作が刊行されてから10年以上経った現在、トルコは安全保 障分野でヨーロッパと中東を結び付ける役割を意図的にも非意図的にも果たすようになっ ている。例えば、シリア危機に際して、NATO諸国の中では唯一中東の国家にも分類され (22) 安全保障共同体とは、カール・ドイッチュの定義に従うと、「ある領域において、共同体意識、(統治)機構、 力強い実行力、人々の間で長期に渡る平和的変革への期待感が十分に浸透すること、という四点を実現す ることによって統合を達成した人々の集団」とされる。Karl Deutsch et al, Political Community and the North Atlantic Area: International Organization in the Light of Historical Experience (Princeton: Princeton University Press, 1957), p. 5. (23) Barry Buzan and Ole W^ver, Regions and Powers: The Structure of International Security (Cambridge: Cambridge University Press, 2003), p. 41. (24) Buzan and W^ver, Regions and Powers, pp. 391-393. (25) Buzan and W^ver, Regions and Powers, pp. 394-395. 119 今井宏平 るトルコは、アサド政権からの攻撃を防止するためにパトリオット・ミサイルの配備を NATOに要請した。その結果、2013年1月から2月にかけてアメリカ、ドイツ、オランダ (2015年1月からはスペイン)がシリア国境のガジアンテプ県、カフラマンマラシュ県、ア ダナ県にパトリオット・ミサイルを配備した。また、2014年以降、「イスラーム国」の支配 地域へ渡航する外国人が後を絶たないが、とりわけヨーロッパからシリアへの渡航に際し ては、トルコが主要な経由地となっている。このように、「アラブの春」以降の中東の不安 定化に際して、トルコはヨーロッパと中東の安全保障問題の結節点となりつつある。よっ て、「絶縁体国家」という概念は、トルコ外交を分析する国家概念としては有効ではなくな っている。
2.3「リミナル国家」
「絶縁体国家」の概念が安全保障におけるトルコの位置を考慮していたのに対し、バハー ル・ルメリリ(Bahar Rumelili)とレーナ・ヤヌク(Lerna Yanik)は、文化人類学者のヴィクタ ー・ターナー (Victor Turner)の「リミナリティ(liminality)」概念を援用し、多様な地域に隣接 するトルコを地政学的な場所とアイデンティティが曖昧な「リミナル国家(liminal state)」と 定義した例。ターナーは、リミナリティを必ずしも明確に定義しているわけではないが、 安定と安定の境目に生じる不安定性と見なしている26 (27) 28 29。ヤヌクによると、トルコ以外には オーストラリア、エストニアなどが「リミナル国家」に該当するとされる例。例えば、オー ストラリアは、地政学的な場所はオセアニア、もしくはアジア・太平洋に位置するにもか かわらず、そのアイデンティティはイギリスの植民地の経験や英連邦の一つであることか らヨーロッパであり、地理的な場所とアイデンティティに矛盾を抱えている。オーストラ リアを「リミナル国家」の枠組みから分析した大庭三枝は、「リミナル国家」の特徴を、「あ るーつの地域もしくは複数の地域の周縁に位置する国家が抱えるアイデンティティの不安 定性」に求めている㈣。地政学的位置とアイデンティティの葛藤を特徴とする「リミナル 国家」の認識は、当該国家とその他の関係国、また、当該国家の政策決定者の中でも異な るため、間主観性が重視され、主要な政治家の自国に対する発言などが分析の対象とされ (26) Lerna Yanik, “Constructing TUrkish ‘exceptionalism’: Discourses of liminality and hybridity in post-Cold War Turkish foreign policy,” Political Geography 30 (2011),p. 82; Bahar Rumelili, “Liminal identities and processes of domestication and subversion in International Relations,” Review of International Studies 38, no. 2 (2012), pp. 495-508.このリミナリ ティ概念を最初に国際関係論に適用したのは、リチャード・ヒゴット(Richard Higgot)とキム・リチャード・ ノサル(Kim Richard Nosal)で、事例とされたのはオーストラリアであった。Richard Higgot and Kim Richard Nossal, “The International Politics of Liminality: Relocating Australia in the Asia-Pacific,” Australian Journal of Political Science 32, no. 2 (1997), pp. 169-185.また、liminalityは「境界」と訳される場合が多いが、本稿ではborderとの 混同を避けるため、liminalityを「リミナリティ」、liminal stateを「リミナル国家」とする。 (27) ヴィクター・ターナー著、梶原景昭訳『象徴と社会』紀伊國屋書店、1981年、40頁。 (28) Yanik, “Constructing Turkish ‘exceptionalism’.” (29) 大庭三枝『アジア太平洋地域形成への道程:リミナル国家日豪のアイデンティティ模索と地域主義』ミネル ヴァ書房、2004年、38頁。 120 トルコにおける地政学の展開 る。
①に関しては、2005年12 月以降、欧州連合(EU: European Union)加盟交渉国としてEU加盟交渉を継続している。
② に関しては、2002年初頭に9 -11アメリカ同時多発テロで関係が悪化した西洋諸国とイス ラーム世界に属する諸国家の和解を目指して、当時のイスマイル・ジェム(Ismail Cem)外 相が主導する形で「イスラーム諸国会議機構(OIC: Organization of Islamic Cooperation) — EU 共同フォーラム」が開催された。さらにトルコは2005年に設立された国連機関である「文明 間の同盟(Alliance of Civilizations)jにおいて共同議長に就任し、西洋世界とイスラーム世界 の「文明間の衝突」を防ぐために積極的な活動を展開している(32)。
③に関しては、トウルグ ット・オザル(Turgut Ozal)をはじめ、冷戦体制崩壊後に黒海を取り巻く地域を顕在化する ための黒海経済協力機構(BSEC: Organization of the Black Sea Economic Cooperation)の立ち 上げや、アフメト・ダーヴトオール(Ahmet Davutoglu)がトルコを地域の「中心国」と位置付 けて外交を展開していることが該当するだろう。
リミナル国家とは逆に、尖端国家の概念には積極的でポジティヴな意味が付与されてい る。フィリップ・ロビンス(Philip Robins)が中心となり、ある地域の「端」に位置する「尖端 国家」を概念化し、該当する国家を分析するプロジェクトが2005年から進められ、2013年 にその成果が『国際関係における尖端国家のエージェンシー・位置付け・役割』として出版 された33 (34)。ロビンスによると、「尖端国家」の対象となるのは、主権国家の中で超大国でも 小国でもなく、国際政治上一定の重要性を持つ、また、特定の地域に限定しておらず、複 数地域に所属している国家である(35)。その上でロビンスは、「尖端国家」の分析で重要な 点として、①地理的位置、②歴史的経験と「尖端国家」としての行動様式の繰り返し、③内 政と外交における「尖端国家」としてのアイデンティティ構築、④国家もしくは国家機関が 「尖端国家」としての視点を重視する点を指摘している(36)。とりわけロビンスは特定の行動 様式が「尖端国家」を「尖端国家」足らしめていると強調している。通常、ある地域の端に位 置する「尖端国家」は否定的な文脈から理解されてきたが、ロビンスは「尖端国家」は、地域 間のリンケージ、仲介、ソフトパワーの行使、多国間主義において積極的な役割を果たす アクターと見なしている(37)。要するに、「尖端国家」は地域の端という地理的特性を活かし たその行動様式によって成り立つ。トルコ以外に「尖端国家」としては、ウクライナ、イラ ン、イスラエル、ブラジル、メキシコ、日本、台湾が事例として選択されている。 また、アルトウンウシュクは「尖端国家」と「絶縁体国家」は異なるものであるとし、「尖 端国家」は主体に焦点が置かれ、複数地域の関係連結に貢献するという肯定的な概念であ るのに対し、「絶縁体国家」は構造に焦点が置かれ、複数地域間の断絶を強調するという否 定的な概念であると指摘している(38)。また、「尖端国家」と「リミナル国家」の概念はいずれ (33) トルコの民主化とEU加盟の関係に関しては、例えば、今井宏平「西洋とのつながりは民主化を保障する のか:トルコのEU加盟交渉を事例として」『国際政治』182号、2015年11月、44-57頁を参照のこと。 (34) Marc Herzog and Philip Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States in International Relations (New York: Routledge, 2014). (35) Philip Robins, “Introduction: ‘Cusp States’ in international relations: in praise of anomalies against the ‘milieu’,” in Herzog and Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States, pp. 2-3. (36) Robins, “Introduction,” pp. 6-7. (37) Robins, “Introduction,” pp. 15-17. (38) Meliha Benli Altuni§ik, “Geopolitical Representation of Turkey’s Cuspness: Discourse and Practice”, in Herzog and Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States, p. 28. 122 トルコにおける地政学の展開 も所与の属性に基づくものではなく、時代によってそのアイデンティティが再構築される という視点は共通するものの、「リミナル国家」はあくまで、国際政治上の「隙間」、言い換 えれば当該国家と隣接地域とのアイデンティティの相違を考察対象とするのに対し、「尖 端国家」は当該国家の外交アイデンティティの変化を考察対象とするとアルトウンウシュ クは述べている(39)。トルコの場合、歴史的にヨーロッパ、アジア、中東の国家という地政 学的な曖昧性と、サミュエル•ハンチントン(Samuel Huntington)が「イスラームに根ざした 生活習慣、制度をもった社会を、エリートの支配階級が確固たる決意で近代化•西洋化し、 西洋と一体化させようとした」国家として「引き裂かれた国家(torn state)」(40)と呼んだ国内 でのアイデンティティの葛藤の両方がいかに外交アイデンティティの形成に影響を与える かが焦点となる。アルトウンウシュクは、とりわけ公正発展党が「尖端国家」として展開し た行動様式、具体的には、民主化の成功国としてのモデルの提示、「文明間の同盟」におけ る活動、仲介政策、エネルギー通路としての役割を評価している(41)。
3.1冷戦期に関する知識人検証の妥当性 トルコを批判地政学の視点から分析したビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュ クの論考に共通しているのは、彼らが主に公式地政学と実践地政学に焦点を当てて分析し ているという点である。ビルギンは、冷戦期における軍部とポスト冷戦期における文民政 治家に焦点を当てている。ビルギンによると、トルコ共和国の建国とその維持の責任を組 織的に共有していた軍部は、対外的には冷戦期の最大の脅威であるソ連に対抗できる安全 保障を確保するために、対内的には軍部の行動、特に、軍事クーデタを正当化するために 地政学を利用した(42)。陸軍士官学校や国家安全保障学校では、1960年代後半からスアット・ イルハン(Suat ilhan)が中心となり、地政学が正規の講義科目として設立された(43)。軍部は、 一貫してムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal)がトルコ共和国建国後の1931年に示した「国 内平和・世界平和(Yurtta Sulh, Cihanda Sulh)」の原則、言い換えれば、受身の現状維持政策 と西洋化政策を推進した。ここでの「世界平和」というのは、「世界平和に貢献すること」で はなく、「世界で平和裏に生存する」という意味であった(44)。 ポスト冷戦期においては、オザルやダーヴトオールが新たな地政学的状況を積極的に外 交政策に反映させたこともビルギンは指摘している。イエシルタシュは、冷戦期において は外務省官僚、ポスト冷戦期においてはビルギン同様、ダーヴトオールに注目した。アル トウンウシュクもダーヴトオールを主な考察の対象としている。 しかし、彼らの公式地政学の手法に関して、次のような疑問が残る。それは、建国期か ら冷戦期に至るまでの知識人の検証が手薄な点である。特にイエシルタシュの研究では、 冷戦期における知識人として、数人の外務官僚の回顧録などを使用しているが、分析対象 としては質、量ともに圧倒的に不足している。一方、ビルギンはイルハンという陸軍士官 学校や国家安全保障学校で教官を務めた人物に焦点を当てており、イエシルタシュのよう な不足感はない。しかし、本当にイルハンの言説が公式地政学として分析できるほどのイ ンパクトを持っているのかは疑問である。建国期から冷戦期に至るまで、軍部は内政では 絶大な影響力を有していたものの、外交においてはその影響力がどれほど浸透していたの かは検討の余地がある。アルトウンウシュクは、冷戦期の知識人に関してはほとんど触れ ていない。いずれにせよ、まず外交の分析に欠かせないのは外務省である。トルコは外交 文書が非公開であり、確かに資料面での制約は存在する。しかし、外務大臣の演説や発言 は過去の新聞などから断片的に入手可能である。また、1964年から1973年の間に外務省 (42) Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography”(前注12参照),pp. 742-746. (43) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma” (前注13参照),pp. 160-161.イルハンの貢献に関しては、Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography,” pp. 740-756. (44) Mesut Ozcan and Ali Resul Usul, “Understanding the New Turkish Foreign Policy: Changes within Continuity: Is Turkey Departing from the West?” Uluslararasi Hukuk ve Politika Cilt 6, Sayi 21(2010), p.110. 124 トルコにおける地政学の展開 から『外交紀要(Di海leri Belleteni)』が刊行されており、こうした資料を分析対象とすること ができたはずである。
3.2ポスト冷戦期における「新オスマン主義」分析の不在 冷戦体制の崩壊、特にソ連崩壊によって中央アジア、南コーカサス、バルカン半島に新 興独立諸国が登場したことは、トルコの知識人、政策決定者とその地政学的ヴィジョン を刺激した。中央アジアと南コーカサスのアゼルバイジャン、ジョージァ(グルジア)に はトルコ系民族が居住しており、バルカン半島はオスマン帝国の領土であった。そのた め、オザルは、これらの地域との民族的(「共通のトルコ性」)、歴史的(旧オスマン帝国領) 関係を軸にトルコの地域的な影響力を拡大しようと考え、その際に「新オスマン主義(Neo- Osmanlilik)」という概念を使用した。オザルと著名なジャーナリストであるジェンギズ・チ ヤンダル(Cengiz ¢andar)をはじめとしたそのブレーンたちが目指したのは、オスマン帝国 の領土を再度物理的に支配するということではなく(45)、オスマン帝国の「イメージ」を梃子 に、新興独立諸国に一定の影響力を行使する、新たな地政学的ヴィジョンの構築であっ た(46)。さらにこの動きは、トルコ国内に留まらず、例えば、アメリカのランド研究所の研 究員が中心となり出版された『トルコの新しい地政学(Turkey’s New Geopolitics)』(47)に見ら れるように、国際的な広がりも見せたことで強化された。また、とりわけ1992年4月から 95年11月までのボスニア紛争に際して、トルコ政府はムスリム系住民(ボスニア人)の保 護をオスマン帝国の後継国家としての「義務」と捉えていた(48)。オザルは、ソ連の消滅とい う地政学的変化から、オスマン帝国に対するノスタルジーを強めた。チャンダルとランド 研究所のグラハム・フラー(Graham Fuller)は、ケマル以来の既存の国境の維持を重視した 時代を「古いトルコ(old Turkey)」と皮肉を込めて表現している(49)。ただし、トルコの「新才 スマン主義」の試みは、オザルに多くを負っていたため、1993年4月にオザルが急逝する と、その影響力は大きく低下した(50)。 (45) Graham Fuller, “Turkey’s New Eastern Orientation,” in Graham E. Fuller and Ian Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics: From the Balkans to Western China (Boulder: Westview Press, 1993), pp. 47-48. (46) オザルのブレーンたちの「新オスマン主義」の言説に関しては、例えば、今井宏平『中東秩序をめぐる現代 トルコ外交』ミネルヴァ書房、2015年、176-179頁を参照。 (47) Fuller and Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics. (48) Meliha Altuni§ik, “Worldviews and Turkish foreign policy in the Middle East,” New Perspectives on Turkey, no. 40 (2009), p.178.ボスニア紛争の詳細に関しては、例えば、月村太郎『ユーゴ内戦:政治リーダーと民族 主義』東京大学出版会、2006年;佐原徹哉『ボスニア内戦:グローバリゼーションとカオスの民族化』有志 舎、2008年を参照。トルコのボスニア紛争への関与を「新オスマン主義」の視点から分析した研究として、 Mustafa Turke§, “Turkish Foreign Policy towards the Balkans: Quest for Enduring Stability and Security,” in Idris Bal, ed., Turkish Foreign Policy in Post Cold War Era (Florida: Brown Walker Press, 2004), pp. 197-209. (49) Cengiz Candar and Graham Fuller, “Grand Geopolitics for a New Turkey,” Mediterranean Quarterly 12, no.1(2001), p. 22. (50) ilhan Uzgel ve Volkan Yarami§, “Ozal’dan Davutoglu’na TUrkiye’ de Yeni Osmanlici Arayi§lar,” Dogudan (mart-nisan 2010), pp. 38-40. 125 今井宏平
「セーヴル症候群」の説明で浮かび上がってくるのは、オスマン帝国とイスラームの「後 進性」が結局、帝国の崩壊を招いたとするケマルの考えであり、地政学よりも西洋化こそ が外交政策に影響を与えてきた概念という点である。西洋化は、政教分離に代表的な内 政の文化的改革はもちろんのこと(66)、冷戦期以降、NATOへの加盟や、ヨーロッパ共同体 (EC: European Community)およびEU加盟の意欲に見られるように、外交政策にも大いに反 映された。しかし、批判地政学の視点から検証した各論者とも西洋化には言及しているも のの、あくまで説明変数の一っという程度の扱いしかしていない。
冷戦期において、確かに「ソ連と陸続きの唯一のNATO国」という地政学的条件はトルコ の外交政策を左右してきた。しかし、スティーヴン・ウォルト(Stephen Walt)の古典的な 研究に見られるように、冷戦期のトルコ外交を説明する概念としては、「脅威」で十分では ないだろうか(67)。冷戦期、トルコの最大の脅威はソ連であった。ソ連は第二次世界大戦末 期の1945年にトルコへの圧力を急速に強めた(68)。ソ連は、1945年2月のヤルタ会談では、 放、沿岸地域は非武装化される、③東部アナトリアには独立アルメニア国家が建設される、④レバノン、 シリアはフランスの委任統治となり、アナトリア南東部もフランスの勢力圏に入る、⑤モースルを含めた 現在のイラク、パレスチナ、シリア南部(トランスヨルダン)はイギリスの委任統治となる。また、キプロ スはイギリス領土となる、⑥アナトリア南西部はイタリアの勢力圏となる。また、エーゲ海諸島もイタリ アが領有する、⑦モースルから北のクルディスタンはクルド人に自治権が与えられる、⑧ヒジャーズ王国 はアラブ人国家として独立する。新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年、166-167頁。セーヴル 条約はその後、1923年7月14日に締結されたローザンヌ条約の締結を受け、廃止された。 (64) ローザンヌ条約によってブルガリア、ギリシャ、イタリアとの間でトルコ西部の国境は確定された。北 東部に関しては、ソ連との間で結ばれた1921年3月16日のモスクワ条約とそれに続く同年10月13日のカ ルス条約で確定された。イラクとの国境は1926年6月5日にイギリスとの間でアンカラ条約が締結され、 モースルはイラク領となった。また、シリアとの国境は1939年6月23日にフランスとの間で八タイをトル コ領とするアンカラ条約が締結された。戦間期のトルコの国境策定に関しては、松谷浩尚『現代トルコの政 治と外交』勁草書房、1987年、84-94頁。 (65) 東方問題とは、「オスマン帝国の衰退と内部分裂の危機を利用したヨーロッパ列強による、バルカン・中 東への進出と介入によって18世紀から19世紀にかけて発生した一連の国際紛争を指すヨーロッパ側の呼 称」のこと。山内昌之「東方問題」大塚和夫、小杉泰、小松久男、東長靖、羽田正、山内昌之編著『岩波イス ラーム辞典』岩波書店、2002年、673頁。 (66) ケマルによる内政改革に関しては、例えば、新井『トルコ近現代史』、200-204頁。 (67) Stephen Walt, “Testing theories of alliance formation: the case of South West Asia,” International Organization 42, no. 2 (1988), pp. 292-297. (68) 1945 年前後の中東の北層の状況に関しては、Bruce Robellet Kuniholm, The Origins of the Cold War in the Near 129 今井宏平 1936年に締結されたモントル一条約の改訂を、3月19日には1925年に結ばれた中立不可侵 条約の破棄、そして、6月?日には新たな条約を結ぶためにはカルス、アルダハンの領土 割譲も考慮すべきとトルコ側に要求した。こうしたソ連の圧力に対して、トルコはアメリ 力を中心とする西側諸国との同盟を選択することとなり、1952年2月にはNATO加盟を達 成する(69) 70。
ビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクが冷戦体制の崩壊に伴う物理的な地政 学的変化を軽視していたことはすでに指摘した。それでは、冷戦体制の崩壊は、実践地政 学にどのような影響を与えたのか。以下では冷戦体制崩壊がトルコに与えた二つのダイナ ミズムを概観しておきたい。 第一のダイナミズムは、安全保障を基盤とした西洋化の基礎が揺らいだという点であ る。冷戦体制の崩壊により脅威の源泉であったソ連が消滅したことで、トルコは国家の安 全保障を達成することになった。しかし、ソ連の消滅は皮肉にも、「防御壁」、「最前線国家」 としてのトルコの役割が終了したことも意味し、これまで安全保障での貢献を通して「西 洋の国家」として他国から認識されてきた基盤が揺らく、、ことになった。冷戦体制崩壊当時 の大統領であったオザルは、国際関係論でいうところの同盟から「見捨てられる恐怖」四に 直面することとなった。80年代後半、アメリカとソ連の緊張が緩和されるに従い、アメリ カのトルコに対する軍事•経済援助が次第に先細りになっていたこと、1989年にトルコの East: Great Power Conflict and Diplomacy in Iran, Turkey, and Greece (Princeton: Princeton University Press,1980). 第二次世界大戦前後のトルコとソ連の関係に関する詳細は、例えば、Kamuran Gurun, THrk-Sovyet iliskileri (1920-1953) (Ankara: Turk Tarih Kurumu Basimevi,1991),pp. 239-310. (69) Walt, “Testing theories of alliance formation,” pp. 292-293. (70) Ian Lesser, “Bridge or Barrier? Turkey and the West After the Cold War” in Fuller and Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics (前注 4 参照),p.101. (71) Davutoglu, StratejikDerinlik, p.19. (72) Glenn Snyder, “The Security Dilemma in Alliance,” World Politics 36, no. 4 (1984), p. 467. 130 トルコにおける地政学の展開 EC加盟申請が却下されたことも、こうしたオザルの懸念を後押しした(73)。オザルは1990 年8月に起きた湾岸危機において、アメリカを中心とした多国籍軍の要請を積極的に受け 入れたが、その背景にはイラクに対する新たな「防御壁」になることで、西洋諸国にトルコ の安全保障上の価値を再認識させる狙いがあった(74)。しかし、イラクがソ連のような強大 な戦力とイデオロギーを有していなかったことから、イラクは脅威の源泉としては不十分 であった。とはいえ、これはトルコの西洋化を押しとどめたわけでない。トルコは90年代 以降、安全保障を基盤とした西洋化から、EU加盟を目指すヨーロッパ化の側面が強い西 洋化にシフトしていくことになる。
冷戦体制崩壊がトルコの実践地政学にもたらしたもう一つのダイナミズムは、中央アジ ア、南コーカサス、バルカン半島に新興独立諸国が登場したことである。これに対し、大 統領であったオザルを中心に、近隣の新興独立諸国への関与を強める、「新オスマン主義」 の考えが外交に反映されることになる。ここでは特に中央アジアと南コーカサスに対する オザルの外交を取り上げたい(75)。例えば、トルコはウズベキスタン、カザフスタン、ク ルグズスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンとの外交関係を取り結んだ最初の国 家となった。オザルは主に四つのアプローチをこの地域に対して展開した。第一に、外務 省に中央アジアを扱う新しい部門を加え、4億600万ドルという大規模な予算をつぎ込ん でトルコ開発援助機関(TIKA: Turk I^birligi ve Kalkinma idaresi)を中心に援助政策を展開し た。第二に、オザル自身が何度も中央アジア諸国と南コーカサス諸国を訪問し、幅広い諸 協定も取り結んだ(76)。第三に、オザルは国内のビジネスマン、宗教グループ、メディア など民間の機関に対して、積極的に中央アジアや南コーカサスへ進出するように促した。 第四に、オザルはBSECや黒海海軍合同任務部隊(BLACK-SEAFOR: Black Sea Naval Co- Operation Task Group)といった地域レジームの設立でイニシアティヴを発揮した。 しかし、結果的にオザルの中央アジア、南コーカサスに対する外交は失敗に終わる。そ の象徴となったのが、1992年10月にトルコの首都アンカラで開催された「テユルク系諸国 会議」における、カザフスタンのヌルスルタン•ナザルバエフ(Nursultan Nazarbayev)大統 領とウズベキスタンのイスラム・カリモフ(Islam Karimov)大統領の宗教・民族に基づく卜 (73) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma”(前注13 参照),p.163. (74) オザルの湾岸危機への関与に関しては、例えば、今井『中東秩序をめぐる現代トルコ外交』(前注46参照)、 57-82 頁。 (75) この部分に関して、著者の過去の論文と一部重複する。今井宏平「ポスト冷戦期におけるトルコのユーラ シア外交:安全保障共同体モデルを枠組みとして」『中央大学政策文化総合研究所年報』15号、2012年、 55-80 頁。 (76) 具体的に、二国間レベルでのさまざまな委員会や組織を設立、トルコの大学への奨学金制度の充実、卜 ルコ国営テレビをはじめとしたトルコ語番組の放送、トルコ航空の定期便運行、トルコ輸出入銀行による 信用貸付などである。トルコが主導した奨学金制度でトルコへ留学した中央アジアの学生は総勢ー万人以 上に上ると言われている。こうした留学生をはじめとした教育面の協力に関しては以下を参照。Turan Gul, ilter Turan and idris Bal, “Turkey’s Relations with the Turkic Republic,” in Bal, ed., Turkish Foreign Policy in Post Cold War Era (前注 48 参照),pp. 300-306. 131 今井宏平 ルコのリーダーシップに対する懐疑的な姿勢であった(77)。トルコの「新オスマン主義」は、 中央アジアと南コーカサスの国々に歓迎されなかったのである。 4.3挑戦を受けるダーヴトオール外交 2,000,000 1,800,000 1,600,000 1,400,000 1,200,000 1,000,000 800,000 600,000 400,000 200,000 0 201I年9月 2012年9月 2013年9月 2014年9月 2015年9月 —トルコに流入したシリア眼の総数—難民キャンプに融:する域 –難民キャンプの外で暮らす難民 前述したダーヴトオー ルの公式地政学は、「ア ラブの春」に端を発した シリア危機とその後の 「イスラーム国」の台頭に よって、地域と国際社会 の秩序安定化という目標 の達成が難しい状況とな 図3 トルコにおけるシリア難民の数(登録者のみ) っている㈣。この部分 は、構造地政学とも関連 するが、ダーヴトオール だけでなく、公正発展党 (出典)Kemal Kirisci and Elizabeth Ferris, “Not Likely to Go Home: Syrian Refugees and the Challenge to Turkey and the International Com- munity,^ Turkey Project Policy Paper, no. 7 (September 2015), p. 8. の政策決定者たちはグローバル化を積極的に受け入れ、最大限活用する外交を展開してき た。そのため、公正発展党は「保守的なグローバリスト」と呼ばれていた(79)。しかし、シリ ア危機に際しては、そのグローバル化を積極的に受け入れ、活用する政策が裏目に出てい る。トルコとシリアは900キロメートルに渡る国境を有しているが、ヴィザ・フリー政策 の結果、国境は事実上なくなった。しかし、シリア危機によってトルコ国境は冷戦期のよ うに安全保障上の機能が強調される契機となっている。とはいえ、中東の国境線はもとも と人工的に引かれたことに加え、一度国境機能を棚上げしていたため、国境の安全保障機 能は脆弱な状態となっている。例えば、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR: Office of the United Nations High Commissioner for Refugees)の発表によると、シリア危機によって、シリ アからトルコには2011年3月から2015年10月までに約194万人が難民として国境を越えて いる(図3参照)。シリア難民はヨルダンとレバノンにも流入しているが、トルコへの流入 者数が最も多い。
また、「イスラーム国」に参加する外国人戦闘員の主要なルートは、イスタンブルから卜 (77) Philip Robins, Suits and Uniforms: Turkish Foreign Policy Since The Cold War (London: Hurst & Company, 2003), pp. 284—288. (78) ダーヴトオールの秩序安定化政策に関しては、例えば、今井宏平「トルコ外交の継続と変容:ダーヴト オールの考えを中心に」『外交』31号、2015年、132-137頁。 (79) Ziya Oni§, “Conservative globalists versus defensive nationalists: political parties and paradoxes of Europeanization in Turkey,” Journal of Southern Europe and the Balkans 9, no. 3 (2007), pp. 247-261. 132 トルコにおける地政学の展開 ルコ国内を通ってシリア国境に至るものである(80)。イギリスの「急進派研究のための国際 センター (ICSR: The International Centre for the Study of Radicalisation and Political Violence)j が2015年1月26日に発表した報告書によると、「イスラーム国」に参加する外国人戦闘員の 数は二万人を越えると見積もられており、西ヨーロッパから「イスラーム国」へと渡った戦 闘員も4,000人にのぼるとされる(81)。この西ヨーロッパからの戦闘員の多くがトルコ経由 でシリアに入国していると見られている。一方、トルコ政府も外国人戦闘員の潜入に対す る取り締まりを強化しており、メヴルット・チャヴシュオール(Mevlut Cavu§oglu)外務大 臣(当時)によると、2012年から2015年3月13日までの時点でトルコ政府は外国人12,519 人に対して「イスラーム国」との関連を理由に入国を禁止し、1,154人を拘束または国外退 去させている(82)。特に2015年1月?日に起きたシャルリー・エブド社襲撃事件以降、トル コ政府は入国者に関して各国のインテリジェンス機関との情報交換を密にし、その取締り に努めている。 このように、シリア内戦に際し、2000年代以降、トルコの公式地政学として影響力を持 ってきたダーヴトオールの地政学的ヴィジョンは、実際の外交において機能不全となって きている。
いずれにせよ、トルコのアカデミズムにおいて見られるようになった地政学の積極的な 受容は、いまだに発展途上である。第一章で見たように、非西洋の国際関係論には、非西 (83) Barry Buzan, People, States and Fear: An Agenda f〇r International Security Studies in the Post-Cold War Era (Second Edition) (Boulder: Lynne Rienner Publishers,1991),pp.116-134. 134 トルコにおける地政学の展開 洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創出される視点と、非西洋世界の地域・国 家・社会の中から創出される自前の思想や見方という二つのアプローチがある。さらに後 者は批判と代替物の提示という二つのステップに分けることができた。トルコにおける 非西洋の国際関係論の理論的展開は、現段階では第一のアプローチと第二のアプローチの 第一ステップである既存の国際関係論の批判的検討の間で揺れ動いている。今後、トルコ の多面性を最も良く捉えている「尖端国家」の再考と批判地政学的分析の量的かつ質的向上 を図ることがトルコにおける非西洋の国際関係論を進展させていくためには不可欠であろ う。 135 』