米軍のアフガンからの撤退はウクライナでの戦争準備のためだった可能性

米軍のアフガンからの撤退はウクライナでの戦争準備のためだった可能性
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『アメリカ軍やその影響下にある軍隊のアフガニスタンからの撤退はウクライナでの戦争と関連していると推測する人がいる。戦力をウクライナ周辺へ集中させたというのだ。当時から強引な撤退作戦に疑問を感じる人は少なくなかった。

 ドナルド・トランプ米大統領は2020年2月29日、ドーハでタリバンの代表と会い、アフガニスタンからアメリカやその影響下にある軍隊を撤退することをアフガニスタン政府を無視して決めた。ジョー・バイデン大統領もトランプ大統領の撤退方針を継承する。

 以前からカブールの周辺を除く地域はタリバーンが支配していたが、2021年8月15日には首都のカブールが陥落、混乱の中、脱出作戦は進められた。12万2000人以上が空輸されたという。最後のアメリカ兵がアフガニスタンを離れた2021年8月31日にバイデンは戦争の終結を宣言した。

 ドーハ会談の直前、2020年1月3日にバグダッド国際空港でイスラム革命防衛隊の特殊部隊とも言われているコッズ軍を指揮してきたガーセム・ソレイマーニーがPMU(人民動員軍)のアブ・マフディ・ムハンディ副司令官と共にアメリカ軍にUAV(無人機、ドローン)で暗殺された。この攻撃はイスラエルも協力していたと言われている。

 イラクのアディル・アブドゥル-マフディ首相によると、緊張緩和に関するサウジアラビアからのメッセージに対するイランの返書をソレイマーニーは携えていた。つまりイランとサウジアラビアは接近していたのだ。

 ソレイマーニーの喪が明けた直後の1月8日、イラン軍はアメリカ軍が駐留しているイラク西部のアイン・アル・アサド空軍基地やエル・ビルを含も2基地に対して約35機のミサイルで攻撃、犠牲者が出ているとも伝えられている。50分後にエルビル空港近くの米軍基地などに対して第2波の攻撃があったという。

 バイデンは2021年1月からアメリカの大統領を務めているが、それから間もない3月16日、ABCニュースの番組で司会者からロシア大統領のウラジミル・「プーチンは人殺しだと思うか?」と問われ、「その通り」と答えている。ロシアとの軍事的な緊張を高めていたバラク・オバマ政権の副大統領だったとはいえ、他国の大統領を人殺し扱いしたのだ。正気とは思えない。

 その後、バイデン政権はロシアに対して経済戦争を仕掛け、軍事的な挑発を繰り返す。ウクライナの問題を外交的に解決しようというロシア側の呼びかけにも応じなかった。

 そうした中、ドイツやフランスを仲介役としてウクライナの内戦を終わらせるために話し合いが行われ、「ミンスク合意」が成立するが、キエフ政権は合意を守らない。その間、アメリカ/NATOはキエフ側の戦力を増強するため、兵器の供給や兵士の訓練を進める。それによってキエフのクーデター体制はドンバスの反クーデター軍に対抗できるようになった。

 ミンスク合意については早い段階からアメリカ/NATOの「時間稼ぎだ」とする人が少なくなかったがそれが昨年、確認される。ドイツの​アンゲラ・メルケル元首相​が12月7日にツァイトのインタビューで、ミンスク合意はウクライナの戦力を増強するための時間稼ぎに過ぎなかったと語ったのだ。その直後、メルケルと同じようにミンスク合意の当事者だった​フランソワ・オランド元仏大統領​もその事実を認めている。

 アメリカ/NATOは2014年の段階からドンバスやクリミアへの軍事侵攻を計画、ロシア軍との戦いも念頭に置いていたのだろうが、そのためにもネオコンをはじめとする好戦派は2020年の大統領選挙でバイデンを勝たせなければならなかった。そのため、民主党だけでなくCIA、司法省、FBIがトランプ攻撃で手を組んでいる。2016年の大統領選挙ではヒラリー・クリントンを当選させるために同じ仕組みが動いたが、これは失敗した。

 失敗の一因を作ったのは内部告発を支援してきたウィキリークス。その象徴的な存在であるジュリアン・アッサンジは2019年4月11日、ロンドンのエクアドル大使館でロンドン警視庁の捜査官に逮捕された。彼は現在、イギリス版グアンタナモ刑務所と言われているベルマーシュ刑務所へ入れられている。

 1970年代に始まったアフガニスタンでの戦争もソ連/ロシアを弱体化させるためにアメリカが仕掛けたものだ。

 パキスタンのベナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによると、アメリカの情報機関がアフガニスタンの反体制派へ資金援助を始めたのは1973年頃(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)であり、本格的な秘密工作を始めたのはズビグネフ・ブレジンスキーである。この工作で彼はソ連の体制転覆を見すえている。

 ブレジンスキーは1977年1月にジミー・カーター大統領の国家安全保障補佐官に就任、その年にパキスタンでは軍事クーデターが引き起こされた。そのクーデターでベナジル・ブットの父親であるズルフィカル・アリ・ブットの政権が倒され、陸軍参謀長だったムスリム同胞団のムハンマド・ジア・ウル・ハクが実権を握る。ハクはアメリカのノースカロライナ州にあるフォート・ブラグで訓練を受けた軍人だ。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)

 工作の実動部隊はムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を中心に編成された。その多くはサウジアラビアで集められたが、募集活動の中心はサウジアラビアで教鞭を執っていたムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムで、その教え子であるオサマ・ビン・ラディンも協力していた。

 アッザムとビン・ラディンは1984年にパキスタンにMAK(マクタブ・アル・ヒダマト/礼拝事務局)のオフィスを開設するが、このMAKがアル・カイダの源流だと言われている。

 イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックが2005年7月にガーディアン紙で説明しているが、​「アル・カイダ」はCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン(イスラム戦士)」の登録リスト​にほかならない。アラビア語でアル・カイダは「ベース」を意味、データベースの訳語としても使われる。

 アフガニスタンでの戦争はブレジンスキーの思惑通りに泥沼化、ミハイル・ゴルバチョフの命令で1989年2月にソ連軍は撤退、残されたアフガニスタンの政府は崩壊する。これ以降、アフガニスタンにおける女性の権利は大きく損なわれることになった。

 その後、アメリカの手先としてアフガニスタンを統治させるために作られたのがタリバーンだが、そのタリバーン政権は1998年1月にTAPIパイプラインの敷設計画でパートナーとしてアメリカのUNOCALでなくアルゼンチンのブリダスを選び、アメリカの支配層と敵対するようになった。

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最終更新日 2023.02.05 00:01:40 』