2014年から2016年にかけて、露軍のハッカーは一枚上手だった。

2014年から2016年にかけて、露軍のハッカーは一枚上手だった。
https://st2019.site/?p=20840

 ※ 今日は、こんな所で…。

『Maya Villasenor 記者による2023-1-31記事「Why Military Leaders Need to Rethink Battlefield Intelligence in a Smartphone Era」。

    2014年から2016年にかけて、露軍のハッカーは一枚上手だった。ウクライナ軍砲兵隊が持っていたアンドロイドのスマホにマルウェアを仕込み、彼らの刻々の位置を把握できるようにしていたという。』

2022年の中共国内でのスマホの販売台数は、2021年より13%少なく、2億8600万台であった。

2022年の中共国内でのスマホの販売台数は、2021年より13%少なく、2億8600万台であった。
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『ストラテジーペイジの2023-2-1記事。

    2022年の中共国内でのスマホの販売台数は、2021年より13%少なく、2億8600万台であった。
 はじめて3億台よりも減った。

 全世界では、スマホは、2022年に12億台売られた。それも、前年より11%少ない。

 世界不況よりも中共不況の方が深刻だということ。理由はいくつかある。中共の労働者人口が急激に減りつつある。だから買い手は減り、造り手も足らない。追い討ちをかけたのが、政府。新コロ閉鎖がムチャクチャであった。

 ロシアの独立系メディアはどうやって政府による通信弾圧をかいくぐっているのか?
 「Telegram」という暗号アプリにシフトしたのである。ロシア政府は「テレグラム」のブロックに未だに成功していない。それで、ロシア国民は誰でも閲覧できる。

 ウクライナ国内での露軍の、旅団レベル以下の軍内通信は、スマホ頼りになっている。ウクライナ軍は、それを傍受することができている。
 露軍の部隊長は、戦闘地域では、音声通信はしない。スマホでテキストメッセージをやりとりする。それは電波送信時間を最短化するので、敵から位置を標定されるリスクを局限できる。しかし、内容は、やはり、読まれてしまう。

 専用の、暗号化される軍用無線機を支給すればいいのに、露軍はそれができていない。そんな実態も、独立系メディアが内外に報じている。』

合衆国は木曜日に「ソロモン諸島」に大使館をオープンした。

合衆国は木曜日に「ソロモン諸島」に大使館をオープンした。
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『NICK PERRY 記者による2023-2-1記事「US opens embassy in Solomon Islands to counter China」。

   合衆国は木曜日に「ソロモン諸島」に大使館をオープンした。中共の外交攻勢に対抗するため。
 前にも大使館はあったが1993に閉じていた。冷戦後に大使ポストを大削減したため。

 別な朗報。フィジーの新大統領は、それまで続いていた中共との「警察合同訓練」をもう止めると地元新聞に語った。先週。』

米空軍はF-35を初めてグリーンランドのトゥール基地に展開した。

米空軍はF-35を初めてグリーンランドのトゥール基地に展開した。
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『Sakshi Tiwari 記者による2023-2-1記事「1st Time In History, US Deploys F-35 Fighters To Greenland Where Russia & China Are Boosting Military Presence」。

    米空軍はF-35を初めてグリーンランドのトゥール基地に展開した。

 1月31日まで2週間、NORADの演習があって、それに参加した。
 機数が非公開なのだが、常識で考えて4機であろう。

 カナダ空軍はCF-18を参加させたようである。』

ジェネラルアトミクス社が政府(※ 米政府)に対して積極提案。

ジェネラルアトミクス社が政府(※ 米政府)に対して積極提案。
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『Ashish Dangwal 記者による2023-2-1記事「US Offers MQ-9 Reaper Drones To Ukraine! General Atomics Ready To Sell ‘Cutting Edge’ UAVs For $1 ―― WSJ」。

    ジェネラルアトミクス社が政府に対して積極提案。政府と議会が許してくれるなら、我が社は2機の「MQ-9 リーパー」を総額「1ドル」でウクライナ軍に納品する用意がある、と。

 これは『WSJ』紙が、GA社の書簡を入手して報じた。

 ただし、タダほど高いものはない。GA社は、トレーニングとメンテナンスサービスを有償で提供する。ウクライナ政府は、初度支度金として1000万ドルを寄越さねばならず、また、爾後毎年、800万ドルのメンテナンスサービス料を払いなさい――という、いい気な提案だ。』

ワグネルの下級隊長だったロシア人がノルウェーに越境して亡命申請中。

ワグネルの下級隊長だったロシア人がノルウェーに越境して亡命申請中。
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『CNNの2023-1-31記事「Wagner Commander Who Fled Russia Details Summary Executions 」。
   ワグネルの下級隊長だったロシア人がノルウェーに越境して亡命申請中。
 その証言。
 戦闘を拒否した隊員2名を、他の全員の前に引き立ててきて射殺したのを見た。
 こういうケースはたくさんあるんだと。

 ワグネルはロシア本土に、彼ら専用の墓地を用意している。その拡張ぶりは、衛星でモニターされている。

 この亡命希望隊長、生まれはシベリアのトムスクで、孤児として育ち、何件もの強盗事件にかかわった。ワグネル志願は2022-7である。

 下っ端だったからプリゴジンと直接口をきいたことはない。しかし訓練センターで見かける機会はあった。プリゴジンは何か病的な男だという印象を受けたという。』

ドイツのディール社とラインメタル社、ならびにイスラエルのラファエル社の3者JVである「ユーロスパイク」社。

ドイツのディール社とラインメタル社、ならびにイスラエルのラファエル社の3者JVである「ユーロスパイク」社。
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『2023-1-31記事「Finnish Armed Forces Obtain Anti-Tank Missiles From Eurospike」。
    ドイツのディール社とラインメタル社、ならびにイスラエルのラファエル社の3者JVである「ユーロスパイク」社。そこが製造しているトラック発射型の長射程対戦車ミサイル「スパイク」を、フィンランド軍が調達することを決めた。

 「スパイク」は射ち放し式。オペレーターは、発射後は、誘導のことは忘れてよい。
 飛翔距離は、短射程型で4000m~5500mというところ。
 フィンランドは、中射程型と長射程型も購入する。』

ベルギーの民間軍事企業「OIP・ランド・システムズ」社は、その保有する多種多数のAFVのなかから、46両の「M113A1-B」を英政府に売った

ベルギーの民間軍事企業「OIP・ランド・システムズ」社は、その保有する多種多数のAFVのなかから、46両の「M113A1-B」を英政府に売った
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『2023-2-1記事「「Britain purchased 46 M113A1-B for Ukraine」

   ベルギーの民間軍事企業「OIP・ランド・システムズ」社は、その保有する多種多数のAFVのなかから、46両の「M113A1-B」を英政府に売った。英政府はそれをウクライナへ届ける手筈になっている。

 じつはウクライナ領内ではとっくに、同じ「M113A1-B」が目撃されている。それらもOIP社の所有品だったのだろう。

 ベルギーには「フランダース・テクニカル・サプライ」という中古軍需品の買取販売企業もある。2008年にベルギー陸軍が退役させた64両の「M109A4BE」を、そのとき買い入れた。

 それら私企業はいま、ウクライナ景気でうるおっている。
 「M109A4BE」自走砲の場合、英政府やベルギー政府がウクライナ援助用として買ってくれることから、売価は2021年の10倍になっているという。』

ドイツのラインメタル社は、ヨルダン政府にオファーを出した。

ドイツのラインメタル社は、ヨルダン政府にオファーを出した。
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 ※ ヨルダンは、NATO加盟国ではないが、「域外協力の枠組み」である「地中海ダイアローグ」というものの一員となっている。

『Boyko Nikolov 記者による2023-2-1記事「British Gulf War tanks may be modernized and sent to Ukraine」。

   ドイツのラインメタル社は、ヨルダン政府にオファーを出した。
 ヨルダン陸軍が保有する古い「チャレンジャー1」を買い取りたいと。
 それをドイツ国内にてリファービッシュした上で、ウクライナへ提供するつもり。

 ドイツの新聞『ハンデルスブラット』が報じた。
 ヨルダンには「チャレンジャー1」が数十両、まだ残っている(買った数はトータルで402両である)。

 おそらく2023年末までに、ウクライナ軍が手にすることになるだろう。

 ヨルダン軍は2018年に「チャレンジャー1」を引退させて倉庫におさめてしまった。なにしろ、1999年の購入いらい、使う機会はゼロだったという。

 しかし米国製の「M60A3」はまだ使っている。そっちの方がもっと古いのだが、整備性が良好なのだ。
 FCSは、レイセオン社の最新式にアップグレードされている。

 ※チャレンジャー1は湾岸戦争でその120ミリ砲の威力を示し、それで売り込みに成功した。だが施条砲身対応の120ミリ砲弾は英国製を買うしかないのでどうしても割高。しかもエンジンが1200馬力で非力。重すぎるので故障しやすく、故障すると動かすのがたいへん。捨てられた理由はそんなところだろう。しかしなぜ今回、ラインメタルが乗り出したのかは、謎。』

ギリシャの首相が『ニッケイ・アジア』紙のインタビューに答えた。

ギリシャの首相が『ニッケイ・アジア』紙のインタビューに答えた。
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『『The Kyiv Independent』の2023-1-31記事「PM: Greece won’t send Leopard 2 tanks to Ukraine」。

    ギリシャの首相が『ニッケイ・アジア』紙のインタビューに答えた。ギリシャ軍保有のレオ2をウクライナに送ることはない。それらはギリシャの防衛に必要だから。

 ギリシャはすでにウクライナへはAPCを送っている。

 首相はトルコも非難した。ギリシャ国境にはりついてこっちを窺っている。またモスクワに対する制裁には加わろうとせず、むしろ経済協力し、スウェーデンやフィンランドのNATO加盟も妨害している。

 なおフィンランド政府は、コーランを燃やして騒ぎを起こした連中はロシア発の工作の結果だと言っている。』

米議会が定めた「USAI」というのがある。「ウクライン・セキュリティ・アシスタンス・イニシャティヴ」。

米議会が定めた「USAI」というのがある。「ウクライン・セキュリティ・アシスタンス・イニシャティヴ」。
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『Mike Stone 記者による2023-2-1記事「U.S. readies $2 billion-plus Ukraine aid package with longer-range weapons -sources」。

    ロイターが火曜日聞き出したところによれば、米政府がまた20億ドルの対宇の追加軍事支援を決めたが、その中には、長射程のロケット弾が初めて含まれることになる模様。いよいよATACMSを渡すのか?

 米議会が定めた「USAI」というのがある。「ウクライン・セキュリティ・アシスタンス・イニシャティヴ」。総枠17億2500万ドル。もしここから大統領がカネを引き出して使う場合、それを現有の装備や中古武器の転送のために使ってはならない。必ず、米国内の軍需産業に新規に発注して製造させ、新品を納品させねばならぬ。そのような縛り。それでM1戦車の供給も年内には間に合わなくなってしまったのだ。

 ボーイング社とSAABか共同開発した新兵器「GLSDB」も新品発注になるはず。射程は150km。
 それより長射程の兵器としては、300km弱届くATACMS。

 ※新造ということは、また1年かかるわけじゃないか。どうも各国は、今から2年後以降のウクライナ関係の商売スキームを考え始めたようだ。半永久に自国企業が儲かるようなスキームを。さもないと国内政治で足をすくわれるからね。

 米軍の現有装備の中古兵器を他国に供与してやれる枠組みは「プレジデンシャル・ドローダウン・オーソリティ・ファンズ」という。これはしかし緊急事態の場合にかぎられる。

 ※有事となったら弾薬は米国からの補給をたのめばいい……などとのんびり構えていたわが国は、いかに危うかったか。まさしくウクライナが他山の石となってくれていると思う。』

プロパガンダ

プロパガンダ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80

『この項目では、宣伝手法について説明しています。その他の用法については「プロパガンダ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
曖昧さ回避 「プロパンガス」とは異なります。
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出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2019年6月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2021年7月)
出典検索?: "プロパガンダ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL

誤報と偽情報

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一覧

種類

大きな嘘(英語版) チェリー・ピッキング サーキュラー・レポーティング 欺瞞 (en)  ダブルスピーク エコーチェンバー ユーフェミスティック・ミススピーキング(英語版) Euromyth(英語版) 偽旗作戦 ファクトイド 誤謬 虚偽報道
    国別(英語版) オンライン フィルターバブル ガスライティング 半面の真理(英語版) 悪戯 イデオロギーフレーミング(英語版) ネット操作(英語版) 情報操作 ポスト真実 プロパガンダ 恣意的な引用 科学での捏造 ソーシャルボット スピン

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詐欺 情報操作 プロパガンダ

表話編歴

プロパガンダ(羅: propaganda)は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為のことである。

「ボリシェヴィキの自由」 – 裸の戯画化されたレフ・トロツキーが描かれた、ポーランド・ソビエト戦争でのポーランド側の反共プロパガンダポスター。ソビエト政権下で多数の人民が虐殺されたことを風刺している。

概要

情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。政治宣伝ともいう。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、1622年に設置されたカトリック教会の布教聖省 (Congregatio de Propaganda Fide、現在の福音宣教省) の名称である[1]。ラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。

観念

あらゆる宣伝や広告、広報活動、政治活動はプロパガンダに含まれ[1]、同義であるとも考えられている[2]。利益追求者(政治家・思想家・企業人など)や利益集団(国家・政党・企業・宗教団体など)、なかでも人々が支持しているということが自らの正当性であると主張する者にとって、支持を勝ち取り維持し続けるためのプロパガンダは重要なものとなる。対立者が存在する者にとってプロパガンダは武器の一つであり[3]、自勢力やその行動の支持を高めるプロパガンダのほかに、敵対勢力の支持を自らに向けるためのもの、または敵対勢力の支持やその行動を失墜させるためのプロパガンダも存在する。

本来のプロパガンダという語は中立的なものであるが、カトリック教会の宗教的なプロパガンダは、敵対勢力からは反感を持って語られるようになり、プロパガンダという語自体が軽蔑的に扱われ、「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」と同義と見るようになった[1]。このため、ある団体が対立する団体の行動・広告などを「プロパガンダである」と主張すること自体もプロパガンダたりうる。

またプロパガンダを思想用語として用い、積極的に利用したウラジーミル・レーニンとソビエト連邦や、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツにおいては、情報統制と組み合わせた大規模なプロパガンダが行われるようになった[注釈 1]。そのため西側諸国ではプロパガンダという言葉を一種の反民主主義的な価値を内包する言葉として利用されることもあるが、実際にはあらゆる国でプロパガンダは用いられており[1]、一方で国家に反対する人々もプロパガンダを用いている[4]。あらゆる政治的権力がプロパガンダを必要としている[5]。

なお市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)は、戦争や人種差別を扇動するあらゆるプロパガンダを法律で禁止することを締約国に求めている[6]。

報酬の有無を問わず、プロパガンダを行なう者達を「プロパガンディスト(propagandist)」と呼ぶ[7]。

プロパガンダの種類

プロパガンダには大別して以下の分類が存在する。

ホワイトプロパガンダの例。痴漢の撲滅を目的とした大阪府警による中吊り広告。

ホワイトプロパガンダ
情報の発信元がはっきりしており、事実に基づく情報で構成されたプロパガンダ[1]。
ブラックプロパガンダ(英語版)
情報の発信元を偽ったり、虚偽や誇張が含まれるプロパガンダ[1]。

グレープロパガンダ
発信元が曖昧であったり、真実かどうか不明なプロパガンダ[1]。

コーポレートプロパガンダ
企業が自らの利益のためにおこなうプロパガンダ。

カウンタープロパガンダ
敵のプロパガンダに対抗するためのプロパガンダ[1]。

プロパガンダ技術

アメリカ合衆国の宣伝分析研究所(英語版)は、プロパガンダ技術を分析し、次の7手法をあげている[8]。

ネーム・コーリング 攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける[注釈 2]。

恐怖に訴える論証

カードスタッキング 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。

バンドワゴン その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する[注釈 3]。 衆人に訴える論証

証言利用 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする。 権威に訴える論証

平凡化 その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。

転移 何かの威信や非難を別のものに持ち込む[注釈 4]。

華麗な言葉による普遍化 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。

また、ロバート・チャルディーニ(英語版)は、人がなぜ動かされるかと言うことを分析し、6つの説得のポイントをあげている。これは、プロパガンダの発信者が対象に対して利用すると、大きな効果を発する[9]。

返報性 人は「利益が得られる」という意見に従いやすい。

コミットメントと一貫性 人は自らの意見を明確に発言すると、その意見に合致した要請に同意しやすくなる。

また意見の一貫性を保つことで、社会的信用を得られると考えるようになる。

社会的証明 自らの意見が曖昧な時は、人は他の人々の行動に目を向ける。

好意 人は自分が好意を持っている人物の要請には「YES」という可能性が高まる。 ハロー効果

権威 人は対象者の「肩書き、服装、装飾品」などの権威に服従しやすい傾向がある。
希少性 人は機会を失いかけると、その機会を価値のあるものであるとみなしがちになる。

ウィスコンシン大学広告学部で初代学部長を務めたW・D・スコットは、次の6つの広告原則をあげている[10]。

訴求力の強さは、その対象が存在しないほうが高い。キャッチコピーはできるだけ簡単で衝撃的なものにするべきである。

訴求力の強さは、呼び起こされた感覚の強さに比例する。動いているもののほうが静止しているものより強烈な印象を与える。

注目度の高さは、その前後に来るものとの対比によって変わる。

対象を絞り、その対象にわかりやすくする。

注目度の高さは、目に触れる回数や反復数によって影響される。

注目度の高さは、呼び起こされた感情の強さに比例する。

J.A.C.Brownによれば、宣伝の第一段階は「注意を引く」ことである。

具体的には、激しい情緒にとらわれた人間が暗示を受けやすくなることを利用し、欲望を喚起した上、その欲望を満足させ得るものは自分だけであることを暗示する方法をとる[11]。またL.Lowenthal,N.Gutermanは、煽動者は不快感にひきつけられるとしている[12]。

アドルフ・ヒトラーは、宣伝手法について「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対して訴えかける部分は最小にしなければならない」「宣伝を効果的にするには、要点を絞り、大衆の最後の一人がスローガンの意味するところを理解できるまで、そのスローガンを繰り返し続けることが必要である。」と、感情に訴えることの重要性を挙げている[13]。

また「大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。とりわけそれが何度も繰り返されたならば」(=嘘も百回繰り返されれば真実となる)とも述べた。

杉野定嘉は、「説得的コミュニケーションによる説得の達成」「リアリティの形成」「情報環境形成」という三つの概念を提唱している。また敵対勢力へのプロパガンダの要諦は、「絶妙の情報発信によって、相手方の認知的不協和を促進する」事である、としている[13]。

歴史

有史以来、政治のあるところにプロパガンダは存在した。ローマ帝国では皇帝の名を記した多くの建造物が造られ、皇帝の権威を市民に見せつけた。

フランス革命時にはマリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と語ったとしたものや、首飾り事件に関するパンフレットがばらまかれ、反王家の気運が高まった。

プロパガンダの体系的な分析は、アテネで紀元前6世紀頃、修辞学の研究として開始されたと言われる。自分の論法の説得力を増し、反対者への逆宣伝を計画し、デマゴーグを看破する技術として、修辞学は古代ギリシャ・古代ローマにおいて大いに広まった。修辞学において代表的な人物はアリストテレス、プラトン、キケロらがあげられる。古代民主政治では、これらの技術は必要不可欠であったが、中世になるとこれらの技術は廃れて行った。

テレビやインターネットに代表される情報社会化は、プロパガンダを一層容易で、効果的なものとした。わずかな費用で多数の人々に自らの主張を伝えられるからである。現代ではあらゆる勢力のプロパガンダに触れずに生活することは困難なものとなった。

国家運営におけるプロパガンダの歴史

プロパガンダは独裁国家のみならず民主主義国家でも頻繁に行われる。写真は第二次世界大戦中にドイツ・日本の枢軸軍を「自由の女神を破壊する悪魔」として描き、戦争の大義を説こうとするアメリカ合衆国のポスター。「どうにも止まらないこの怪物を止めろ……限界まで生産せよ! これはあなたの戦争だ!」と呼びかけている。

国家による大規模なプロパガンダの宣伝手法は、第一次世界大戦期のアメリカ合衆国における広報委員会が嚆矢とされるが、ロシア革命直後のソ連[14]で急速に発達した。

レーニンは論文[15]でプロパガンダは「教育を受けた人に教義を吹き込むために歴史と科学の論法を筋道だてて使うこと」と、扇動を「教育を受けていない人の不平不満を利用するための宣伝するもの」と定義した。

レーニンは宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし、「宣伝扇動」(agitprop)という名でそれを表した。十月革命後、ボリシェヴィキ政権(ソビエト連邦)は人民に対する宣伝機関を設置し、第二次世界大戦後には社会主義国に同様の機関が設置された[16]。

またヨシフ・スターリンの統治体制はアブドゥルアハマン・アフトルハーノフ(英語版)によって「テロルとプロパガンダ」の両輪によって立っていると評された[17]。

1930年代にドイツの政権を握った国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、政権を握る前から宣伝を重視し、ヨーゼフ・ゲッベルスが創刊した「デア・アングリフ」紙や、フェルキッシャー・ベオバハター紙による激しい言論活動を行った。また膨大な量のビラやポスターを貼る手法や、突撃隊の行進などはナチス党が上り調子の政党であると国民に強く印象づけた。

ナチ党に対抗した宣伝活動を行ったドイツ共産党のヴィリー・ミュンツェンベルク(ドイツ語版)は、著書『武器としての宣伝(Propaganda als Waffe)』において「秘密兵器としての宣伝がヒトラーの手元にあれば、戦争の危機を増大させるが、武器としての宣伝が広範な反ファシズム大衆の手にあれば、戦争の危険を弱め、平和を作り出すであろう」と述べている[18]。

ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送、出版、絵画、彫刻、映画、歌、オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党によるドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。

第二次世界大戦中は国家の総動員態勢を維持するために、日本やドイツ、イタリアなどの枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連などの連合国を問わず、戦争参加国でプロパガンダは特に重視された。終戦後は東西両陣営の冷戦が始まり、両陣営はプロパガンダを通して冷たい戦争を戦った。特に宇宙開発競争は、陣営の優秀さを喧伝する代表的なものである。
1950年代、中華民国政府(台湾政府)が反共文芸を推奨し、趣旨に共鳴した「中華文芸奨金委員会(中国語版)」が活躍していた。

プロパガンダポスター

満州国を天国、中国を地獄と表現したポスター

日本人を戯画にした、アメリカ人の勤労意欲を刺激する為のプロパガンダポスター、第二次世界大戦中。訳:どうぞ休みを取って下さい!

ヴィーンヌィツャ大虐殺の事実を以って共産主義の暴虐性を強調する反共主義のプロパガンダポスター 下端の文字はロシア語読みで「ヴィーニツィア」と書かれている

バターン死の行進の事実を以って旧日本軍の暴虐性を強調するアメリカのプロパガンダポスター。『あなたはこれにどう抵抗する? 日本兵がフィリピンにて捕虜5200名を虐殺。残酷な「死の行進」の詳細。人殺しジャップを殲滅するまで仕事を全うしよう!』

日本軍による日華基本条約一周年の伝単。基本国策要綱で規定された東亜新秩序建設の国是に基づき、「互助互尊」「共同防共」「互恵共栄」「顕揚文芸」を掲げている。

コーポレートプロパガンダ

コーポレートプロパガンダ(企業プロパガンダ)は、企業がその活動やブランドイメージに関する市場・消費者意見を操作するために行なうプロパガンダの一種である。

特定の人間がその企業の製品やサービスに対して支持を表明する事で、社会における好意的な印象形成に影響をもたらす。このようなコーポレートプロパガンダについてジークムント・フロイトの甥であるエドワード・バーネイズは著書「プロパガンダ(1928年刊行)」の中で詳細に解説しており、また一般大衆の稚拙さについても歯に衣着せず言及している。

バーネイズは大衆向けのイベント、メディアや有名な俳優などを多用し、その影響力を駆使して大衆の意思決定を操り、大衆行動をクライアントの利益に結びつけてきた。

叔父であるフロイトが示唆した、人間の潜在的な欲求に関する心理学理論を駆使し、バーネイズは人々に現実的には何の利益もない商品を一般大衆が自ら買い求めるように仕向ける事に成功し、そのプロパガンダの手法を進化させていった。

現実に、今日多用されているような、有名人の広告への起用や、実際には偽科学的だが一見科学的な主張のようにみえる意見を利用した広告など、悪意的な現在の大衆操作に関する知識の多くは、バーネイズの開発したミーム論を利用した広告戦略に基づいたものであり、彼の著書「自我の世紀」に、その手法の多くが言及されている。

大衆の世論操作に際してのプロパガンダの有効性について、バーネイズは次のように述べている。

もし我々が、集団心理の仕組みと動機を理解するならば、大衆を我々の意志に従って 彼らがそれに気付くことなしに制御し組織化することが可能ではないだろうか。プロパガンダの最近の実践は、それが可能であることを証明してきた。少なくともある地点まで、ある限界の範囲内で。
— エドワード・バーネイズ

企業プロパガンダは一般的に、婉曲的な表現として広告、広報もしくはPRとも呼ばれている。

国策プロパガンダ

宗教組織や企業、政党などの組織に比べて、強大な権力を持つ国家によるプロパガンダは規模や影響が大規模なものとなる。国策プロパガンダの手法の多くはナチス体制下のドイツ、大東亜戦争直前・戦中の日本、太平洋戦争直前・戦中のアメリカ合衆国、革命下のロシアやその後のアメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華人民共和国など全体主義・社会主義の国のみならず資本主義諸国でも発達した。社会主義国や独裁国家では情報活動が国家によって統制・管理されることが多いため、国家による国内に対するプロパガンダは効率的で大規模なものとなりがちである。

どのような形態の国家にもプロパガンダは多かれ少なかれ存在するものだが、社会主義国家や ファシズム国家、開発独裁国家など、情報を国家が集中して管理できる国家においては、国家のプロパガンダの威力は強大なものがある。

また、特定のグループが政治権力とメディアを掌握している国でも同じ事が起こる。こうした国家では、国家のプロパガンダ以外の情報を入手する手段が著しく限られ、プロパガンダに虚偽や歪曲が含まれていたとしても、他の情報によって情報の精度を判断することが困難である。

さらに、こうした国家では教育とプロパガンダが表裏一体となる場合がしばしば見られる。初等教育の頃から国民に対して政府や支配政党への支持、ナショナリズム、国家防衛の思想などを擦り込むことにより、国策プロパガンダの威力は絶大なものとなる。

しかし、こうした国家では情報を統制すればするほど、また国内向けのプロパガンダが効果を発揮すればするほど、自由な報道が保障されている外国のメディアからは疑惑の目で見られ、そのプロパガンダが外国ではまったく信用されない、という背理現象も起こりうる。

また、国家のプロパガンダは国家、政府機関、政党などが直接手がけるとは限らない。民間団体や民間企業、個人が自主的、受動的、または無意識に行う例もある。

大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点を出来るだけ絞り、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。……

……大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。
— アドルフ・ヒトラー「我が闘争」より

軍のプロパガンダ

部隊・装備
スウェーデン軍の軍楽隊

軍隊は国家が直接行動を命令できるため、プロパガンダに利用されやすい。このため本来軍事行動には必要の無い人員や装備が配備されている。

多くの軍隊では国民や諸外国に正当性や精強さをアピールするため、見栄えの良い宣伝用の写真や映像を多数公開しており、それらの撮影のために第301映像写真中隊(自衛隊)のような専門の部隊が編成されている。特にアメリカ軍は兵器が運用される様子から休憩中の兵士にいたるまでほぼ全ての広報写真をウィキメディア・コモンズに投稿し、ウィキペディアなどで自由に使えるようにしているが、公開されるのは軍に都合が良い写真だけである。アメリカ軍では第二次世界大戦時に隊員教育やプロパガンダ用の映画を制作するため第1映画部隊を編成し、映画業界人を徴兵扱いで多数動員していた。

第二次世界大戦時のアメリカによる日系人の強制収容に対し、日本は「白人の横暴の実例」として宣伝し日本の軍事行動は「アジアの白人支配からの解放」であると正当化した。アメリカではこれに対抗するため日系移民の志願者による部隊(第100歩兵大隊)を急遽創設した。

ブルーエンジェルス

多くの空軍では実戦部隊以外にも曲技飛行による広報活動を任務とする曲技飛行隊を有している。これは国民向けに曲技飛行を披露し軍への関心を高めることに加え、パイロットの技量を外国へ誇示する目的もある。使用する機体は既存機の流用であっても武装の撤去、スモーク発生装置の搭載、派手な塗装を施すなど実戦には不適格な改造を施したり、既に時代遅れとなった複葉機を曲技専用に配備するなど予算的に優遇されている。またアメリカ軍では空軍(サンダーバーズ)、海軍(ブルーエンジェルス)、太平洋空軍(PACAF F-16 Demo Team)など複数の部隊が併存している。なおブルーエンジェルスは、第二次大戦終結により海軍航空隊への国民の関心が低下し、予算の減額や空軍との統合など権限縮小を危惧したチェスター・ニミッツ提督が「大衆の海軍航空兵力への関心を維持しておく事」を意図して組織され、第1映画部隊はアメリカ陸軍航空軍司令官だったヘンリー・アーノルド将軍が陸軍航空軍の独立性を強調する為にも独自の撮影部隊が必要だと考え、宣伝映画を担当していた陸軍信号隊とは別の組織として映画業界人に依頼して編成されたなど、宣伝部隊でありながら純粋な広報ではなく政治的な意図で創設された例もある。

自衛隊音楽まつり。中央は“自衛隊の歌姫”三宅由佳莉

軍楽隊が担ってきた国賓栄誉礼や軍の式典での音楽演奏は、現代では録音した曲を流すことで代用できるが、多くの軍楽隊では国歌や行進曲を生演奏させるために、音楽大学などで専門教育を受けた者を演奏専業の軍人として雇用している。これは警察音楽隊や消防音楽隊の多くが一般職員の有志で編成されているのとは対照的である。軍楽隊は国民向けの広報演奏を行うこともあるが、その際は流行しているポップスなど国民の関心が高い曲を演奏することが多い。自衛隊では毎年大規模な音楽イベント「自衛隊音楽まつり」を開催しているが、その演奏曲目の中で行進曲や旧軍歌・自衛隊歌は一部に過ぎず、大半はポップス、テレビドラマのテーマ音楽、アニメソング、民謡など自衛隊とは無関係な曲である。

顕彰

戦傷は名誉の負傷とされ、パープルハート章のような戦傷章の授賞式はマスコミを通じて報道される。さらに戦死者は二階級特進の他に英雄的な扱いを受け、戦時中には英霊・軍神など神格化されることも多く、爆弾三勇士のように愛国心を煽るために軍の宣伝として利用される例が多い。

示威

自衛隊中央観閲式

観閲式・観兵式や観艦式は非実戦的な訓練や兵力の移動が必要なため軍事的には無駄であるが、軍の規律や能力をアピールする目的で定期的に行われている。また式典のための礼装用の軍服が規定されている。北朝鮮では車両や航空機の燃料を調達することも難しい状況であるが、大規模な軍事パレードは定期的に行われている[19]。

公開

板妻駐屯地の開設記念行事一般公開

軍では退役した車両や航空機を展示する広報施設を整備したり、博物館に寄贈するなどしている。自衛隊では陸上自衛隊広報センター、海上自衛隊佐世保史料館・呉史料館、航空自衛隊浜松広報館と陸海空それぞれ別の広報施設を有している。

駐屯地などの軍事施設に部外者を立ち入らせることには警備上の問題が多いが、国民の理解を得るという目的で多くの軍隊では特定の日に基地祭として公開している。特に駐屯地や基地周辺の住民に対しては別にツアーを用意していることが多い。

多くの軍隊ではマスコミを駐屯地、航空機、艦船へ招待し訓練の様子を報道させているが、これも事前にプログラムが組まれたツアーであり、軍は都合の良い部分だけをマスコミに見せることが出来る[19]。海上自衛隊ではマスコミや要人を接待する専用艦「はしだて」を保有している。

ベトナム戦争で、アメリカ政府はマスコミの前線取材に協力的でほぼ自由に行動、報道させていた。しかし、そのためリアルに悲惨な戦闘の様子や戦闘に巻き込まれた民間人犠牲者の様子が家庭へ直に報道されたり、米軍の不祥事がすぐに露見し、国内での反戦運動を誘発する結果となった。それに懲りたアメリカ政府は、以降の軍事作戦では厳しい報道制限を敷いて米軍に都合がよい報道しかなされないようにしている。

民間との相互利用

戦争映画の製作に協力することもあるが、軍が美化されるなどの作品には協力するが都合の悪い作品には協力しないなど、軍側で協力の可否や程度をコントロールしている。1964年の米国映画『未知への飛行』では、アメリカ軍の核兵器が適切に管理されていないことが前提の作品であるため協力を得られず、航空機の映像は一般公開されていた資料映像に頼っている。1978年の角川映画『野性の証明』も自衛隊が悪役であるため協力を得られず、アメリカ陸軍州兵の演習場などで映像を収録している。

アメリカ海軍が保有するF-18の飛行を体験できる移動式シアター。訓練に使うフライトシミュレータではなく座って映像を見るだけである。

「スクランブルに向かうB-58のクルー」とされたアメリカ空軍の広報用写真。B-58はスクランブル任務に就く機体ではなく実戦にも投入されていないが、最新鋭機であったため宣伝に使われた。

駐屯地の一般公開で行われた74式戦車の試乗体験(タンクデサント)。仮設の座席を取り付ける作業が必要となる。

戦争遂行のためのプロパガンダ

国家が戦争を遂行するためには、国民に戦争以外の選択肢はないことを信じ込ませるために国策プロパガンダが頻繁に行われる。アーサー・ポンソンビーは、第一次世界大戦でイギリス政府が行った戦争プロパガンダを分析して、主張される事に関する10の要素を以下のように導き出した[20]。

1、我々は戦争をしたくはない。
2、しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。
3、敵の指導者は悪魔のような人間だ。
4、我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命(大義)のために戦う(正戦論)。
5、我々も誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
6、敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
7、我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大(大本営発表)。
8、芸術家や知識人も、正義の戦いを支持している。
9、我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)。
10、この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴、非国民)である。

フランスの歴史家アンヌ・モレリは、この十要素が第一次世界大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した[18]。そして、著書『戦争プロパガンダ10の法則』の序文中で、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘している。

もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。
— ヘルマン・ゲーリング[注釈 5] ニュルンベルク裁判中、心理分析官グスタフ・ギルバートに対して

使用されるメディア・媒体

プロパガンダには様々なメディア・媒体が利用されるが、マスメディアは、一度に多くの対象に強烈なメッセージを送ることができるため、プロパガンダの要として最も重要視されている。権威主義的国家では、インターネットメディアを含むマスメディアに対する様々な統制が行われ、実質体制の宣伝機関となっているところもある。

自由主義国家では利益関係はさらに複雑なものがあり、体制からの圧力だけではなく、私企業・外国・政党・宗教・団体の影響を受け、自主的にプロパガンダを行うこともある。また、新聞社や雑誌社、テレビ局のスタッフなどの個人的信条が影響を与えることがある。
テレビの手法

ソビエト連邦では、アメリカ合衆国の「貧富の差」を強調してアメリカの貧民街や低所得者の住宅などの映像を流すプロパガンダを行った。しかし、配給不足が慢性化するにつれ視聴者は干してある下着など生活物資の豊富さに気づき、結果的にプロパガンダとしては逆効果となった。これは北朝鮮も同様のミスをしており、韓国大統領を大々的に批判するデモを流したところ、「韓国では指導者を批判することができるのか!」と驚いたり、背景の裕福な物質を見て、韓国の豊かさを思い知ったことがある。

東西分断時代のドイツでは、イデオロギーの異なる両国が自国の優位・正統性をアピールするため、西ドイツが「赤いレンズ」、東ドイツが「黒いチャンネル」という番組をそれぞれ放送していた。これらの番組は互いの敵対する陣営で起きたニュースに関して、司会者が恣意的に批判・誹謗中傷を加えた解説を行うというスタンスを取っていた。ドイツ統一後は、いずれの番組も必要性が無くなり打ち切りとなっている。

王制国の国営放送では、定時ニュースのトップは国王の動静に関する事項であることが多い[注釈 6]。また北朝鮮などの独裁国家でも、国家指導者の動静を定時ニュースのトップとして扱うことが多い。

軍事パレード(観閲式観艦式)や兵器実験、またマスゲームや元首・指導者演説の様子をニュース映像に取り入れ、自国の軍事力、指導者の権威を宣伝する。また対立国ではこれを逆用し相手国政府の異常さと脅威を強調する[注釈 7]。

ニュース番組や討論番組などで特定の団体の構成者やその支持者を多く出演させ世論の支持が大きいように見せる。また出演者が放送局の意向に合わない意見を出すと、司会がわざと別の話題に話をそらしたり大声で相手の話を遮り妨害する。

やはりニュースで、伝えるべき情報・論議されるべき問題を黙殺しそれ以外の話題を大きく採り上げる。報じられない話題は存在しないことにされる[21]。報道しない自由も参照。

政策などで政策上の争点を限定し、世論を誘導する。

特定の政党や勢力を持ち上げ、その組織に都合のいい番組構成にする。または対立する勢力への批判を行う。

戦争報道ではエンベデッド・リポーター(兵士と一体的に行動する従軍記者)のみの同行を認める。特に湾岸戦争以降のアメリカ軍が重視している。

スローガンの流布のために人気タレントなどを起用したCMを制作し、そのファンを中心に意識の誘導を図る。

ラジオの手法

1933年当時、ドイツ国内のラジオ受信機の市場価格は大体250マルク前後であった。これに対して宣伝大臣ゲッベルスの後押しで発売された「国民ラジオ」の価格は76マルクと極めて安価であり、どれほどラジオ宣伝の重要性を認識していたかが窺える。

日本では1925年の放送局発足後、太平洋戦争における日本の降伏に伴う改組(1952年6月の民間への電波開放)まで、唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKの前身)は政府の宣伝機関であった。

第二次世界大戦開戦後、ドイツはベルリンからアイルランド人のホーホー卿が対英宣伝放送を担当し、枢軸サリーと呼ばれるアメリカ女性が対米宣伝放送で活躍した。また日本も英語に堪能な女性パーソナリティ、通称:東京ローズを起用し、太平洋戦域のアメリカ軍兵士向けに宣伝放送を行った。戦後彼らは共に反逆に問われた。支那事変時の中華民国では『南京の鶯』を放送した。その後の戦争でも朝鮮戦争でのソウルシティ・スー、ベトナム戦争でのハノイ・ハンナなどのプロパガンダパーソナリティが活躍した。

ソ連では第二次世界大戦中から国外への対外宣伝を行う機関としてドイツ語や日本語によるモスクワ放送(現在のロシアの声)と呼ばれる積極的な対外放送を行った。また、アメリカもボイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・ヨーロッパ、ラジオ・フリー・アジアによる対外放送を行っている。

近年は頻度が減ったが、朝鮮半島の軍事境界線を挟んで、複数スタックさせた高出力の拡声器を使用した宣伝放送が相互に行われていた(拡声器放送)。

ルワンダ虐殺を煽ったラジオ局のように、普段は音楽などを流すラジオ局が政治的扇動を行うこともある。

映画の手法

アラビア海に展開するアメリカ海軍の舟艇を慰問するアメリカの女優、パメラ・アンダーソン

プロパガンダを目的として国家や軍、政治団体やその支援者が映画を直接製作したり、積極的に協力していることがある。

ソ連ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えのもと、世界で最初の国立映画学校が作られ、共産主義プロパガンダ映画の技法としてモンタージュ理論が発明された。特にエイゼンシュテインの作品がその代表である。1920年代のソ連映画は当時としては非常に革新的であり、ダグラス・フェアバンクスなどのハリウッドの名士、後のドイツの宣伝相ゲッベルスを絶賛させている。また、この頃のソ連では、宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機を製造・活用している[注釈 8]。編集することで対象を操作しようとしたモンタージュ理論は現代の映画にも生かされている。『ベルリン陥落』のようにスターリンを神格化する国策プロパガンダ映画も作られた。同作はあまりにもプロパガンダ色が強く、スターリン批判によりソ連国内でも上映禁止となる。

アメリカの映画産業は政府の要請よりも利潤追求が優先される。投資家に利益を還元する目的で経営者が選ばれ、市場においても資本の合併と分割が営利を目的に繰り返される。憲法も裁判所も政府からの映画産業への介入を禁じている。しかし第二次世界大戦下には数多くのプロパガンダ的作品が製作され、『カサブランカ』(1942)は政府からのホワイトプロパガンダとの関連も指摘される。

アメリカ映画は基本的にアメリカ人の時の視点に拠っている。暴力的で敵に対して容赦をしない姿勢と、自由主義の裏側を鋭く描く自己を告発する両面でバランスを取ってきた結果として発展を遂げた。この意味でアメリカ人気質を飲み込んだ製作者が成功を収め権力と大衆の橋渡しを務める場合がある。大衆文化史におけるミッキーマウスなどがこの例である。観客も当然アメリカ人を対象としている。登場人物は英語を話し、アメリカの価値観と信条を守る不文律で形成される。映画の主題もこの原則からは不即不離の関係にある。商品として輸出される場合は音楽や文芸と同様に文化の先遣隊としての役割を果たす結果となる。また、時の視点により過去は味方として扱われた対象が、その後敵、もしくは憎悪の対象として扱われるケースも多い。

アメリカ政府は基本的に国内における人気が支持基盤に直結する点を熟知しており、大衆に対して正義、公正、真実を守るための運動を提唱し賛同を求めようとする。ここでは事実の強さ、迅速さ、正確さが優先される「ニュース」が主眼であり「映画」の順位は相対的に低い。近年はアメリカ国内における階層格差が深刻化した結果、統合させる思想面の弱体化を普遍的価値観の一つである「家族愛」[注釈 9]で代用する事があからさまになってきている半面、同時にマイケル・ムーアなどの社会告発的な映画が暗い面を指摘するなど全体としての先細りも指摘される。

満州国では満州映画協会により日満友好の国策宣伝映画が数多く製作され、日本や満州などで上映された。人気女優李香蘭は中国語が堪能な日本人であったが、中国人女優、また歌手として絶大な人気を集めた。また、同盟国である日本とドイツの友好関係を醸成するために、日独共同で「新しき土」などの映画が制作されている。
『ハワイ・マレー沖海戦』のポスター。

日本では1939年、国策に則った映画を製作させる映画法が制定されている。これにより設立された日本映画社が『日本ニュース』などのプロパガンダ映画の制作に関与。特に太平洋戦争の開戦後は戦意高揚映画と称される戦争映画が盛んに制作され、東宝が製作した『加藤隼戦闘隊』は陸軍が全面協力で実物の戦闘機が多数登場する他、円谷英二が開発した特撮技法が駆使されるなど日本映画史においても重要な作品が多数撮影されている。また予科練を描いた『決戦の大空へ』は映画だけでなく挿入歌『若鷲の歌』も大ヒットを記録した。1945年の敗戦後はこのような国策映画は撮影されなくなったが、1990年代以降、防衛省・自衛隊が『ゴジラ』など怪獣映画、『男たちの大和/YAMATO』などの戦争映画、『守ってあげたい!』などの自衛隊をテーマにした映画に協力しているが、これらは映画を利用した自衛隊の宣伝という指摘もある。

イギリスの植民地であった香港では、1997年に中華人民共和国に返還されるまで、映画の上映が始まる前にイギリス国歌の演奏が必ず行われたほか、地元資本のゴールデン・ハーベストの作品においても、イギリス植民地軍や警察は常に「正しき側」として扱われた。さらに映画の内容はイギリス植民地政府の検閲を必ず受けることとなっており、これらの映画はいわばイギリスによる植民地支配のツールの一つとして機能していた。

ドイツのナチス政権は絵画、音楽など古いメディアだけでなく、新しいメディアである映画も重視した。映画産業を積極的に支援し、ナチス政権時代には1100本に上る映画が制作された[22]。レニ・リーフェンシュタールによる『意志の勝利』や『民族の祭典』などは、その大胆な映像美から戦前は世界的に高く評価された。しかし、戦後は一転して「典型的なナチプロパガンダ」と酷評されるようになる。また、『コルベルク』のように大戦末期にもかかわらず、多くの資金や資材、多人数の軍人エキストラを動員して撮影された作品もある。

建国から15年ほど経った北朝鮮において、映画など娯楽産業の宣伝効果を知り所轄ポストの席を狙った金正日と朝鮮労働党甲山派との間で党内抗争が起こった。詳細は、甲山派#北朝鮮国内文化事業を巡る金正日との闘争を参照のこと。

俳優や女優、歌手は大衆にとって親しみやすい対象であるため、彼らへの好感を彼らが支持している対象への好感にすり替えることができる。現在もイラク戦争においてアメリカが使う手段として、キャンペーンやアピールに俳優や女優、歌手を起用したり、彼らを戦地へ慰問させ、士気を高める手法などがある。

タイでは本編上映前に、必ず国歌演奏と共に国王肖像が投影され、観客はこれに対し総員起立で表敬することが義務付けられている。

新聞報道・出版の手法

言論統制により新聞や書籍でもプロパガンダ的手法がとられる場合がある。第二次世界大戦中の日本の新聞やイギリスのタイムズ紙などが行った例では、記事の構成や社説などを操作し、対象への印象を悪化させたり、好ましい印象を与えたりする[注釈 10]。例として産経新聞は保守層と財界のために、財政支援を受ける代償として論調を転向した。

国家が書籍を検閲し、発禁処分等を行うことで反対意見を封殺することもある。ナチス政権下のドイツの焚書が代表的である。

内外を問わず白書、各種政党機関紙や団体の宣伝冊子、国営新聞や政党新聞はその政党の主張に則った報道を行うが、民間の新聞でもその新聞社の思想的背景や株主や広告主などの資金源、または個人的信条からプロパガンダとなる報道を行うこともある。アメリカでは新聞社も、立場が保守とリベラルに分かれることが許容されており、またそれが当然視されている。

また、政府のみならず企業によっても、意図的な言葉や単語の言い換え、使い換えも行われる。たとえば、第二次世界大戦後のドイツにおいては、ナチス党が自由選挙によって(つまりドイツ人の意志として)選ばれたにもかかわらず、「ナチス政権下において行われたことはナチス党とその関係者のみが行ったことで、ドイツ人の総意として行われたわけではない。つまり、近隣諸国やユダヤ人のみならず、ナチス党政権下のドイツ人もまた被害者である」という理論のすり替えがなされ、それを象徴する言葉として、「ナチス・ドイツ」という造語が「ドイツ」という国家と切り離されて使われ、結果的にこの理論を手助けすることとなっている。

写真

レーニンとスターリン。本作は合成写真と言われているが未確認で、どのように創作されたのかも憶測の域を出ていない。1922年。

1920年代に実用的な小型カメラが開発されたことから報道写真が急速に発展した。これに対応し政治家や独裁者の報道写真が新聞や雑誌、ポスターに使われるのみならず、肖像写真が出回ることになる。

例として、イタリアのファシスト党党首のベニート・ムッソリーニは、自らのサイン入りのブロマイドを全国にばらまいた他、中華人民共和国やソビエト連邦、北朝鮮などの一党独裁制の共産主義国家を中心に、独裁者の正統性や権威を高めるために合成写真が作られたり、逆に失脚した有力者を集合写真から削除することすら行われた[注釈 11]。

グラフ誌による宣伝活動

また、報道写真の発展に伴い、フォトモンタージュなど多くの撮影、編集技法や利用法が生み出される。多くの民間写真雑誌(グラフ誌)が創刊されたが、国家や軍などもその宣伝効果に着目し、機関誌や国策会社からの出版という形で世界中で創刊された。これら国策で出版された雑誌は、採算を度外視して資材や人員を投入したため、非常に技術的完成度が高いものが多い。しかし第二次世界大戦後、テレビの普及により徐々に衰退する。
国策グラフ誌の例

戦時下ドイツ
    『Signal』[注釈 12]
大日本帝国
    『NIPPON』[注釈 13]
    『FRONT』[注釈 14]
    『写真週報』[注釈 15]
琉球列島米国民政府
    『守礼の光』
    『今日の琉球』

    上記のいずれも日本語版のみ。住民向けの宣伝誌。

ソビエト連邦
    『CCCP НА СТРОЙКЕ(ソビエト連邦の建設)』[注釈 16]
    『今日のソ連邦』
    『月刊スプートニク』[注釈 17]
    『ママとわたし』[注釈 18]
中華人民共和国
    『人民中国』
    『人民画報』
朝鮮民主主義人民共和国
    『朝鮮画報』[注釈 19]

インターネットでの手法

ネット風評監視サービスも参照のこと。
1910年‐1911年にかけての満洲における疫病の犠牲者の写真 [1]。ウィキペディアで2005年 – 2009年にわたって日本軍の731部隊に投棄された遺体と喧伝された。

現実世界で既存の集団・国家・勢力が道具・手段として利用するケースの他、近年の傾向として、掲示板サイトそのものが歪んだ連帯意識・独自の思想を育み、書き込みが自由である他掲示板サイト・ウィキ(Wiki)・ブログのコメント・投票形式サイトに支持掲示板で大勢を占めている価値基準に則った記事やレスポンスを大挙書き込み(或いは不正連続投票し)、力を誇示(甚だしい場合は乗っ取りを目論む)するケースも増えつつある。

国家や団体などによるインターネット・プロパガンダ組織には、中国の五毛党、韓国のVANK、アメリカ合衆国のOEV、ロシアのWeb brigades、ユダヤのJIDFなどがある。

立場を偽ったサイトを作って情報を発信し、誤認させる[注釈 20]。
ネット掲示板などで匿名性を利用して自作自演などを行い、多数派意見を装う。
コピー・アンド・ペーストによる情報の大量頒布[注釈 21]。
賛同ウェブサイトや団体(グループ)を多数立ち上げて自分たちをあたかも多数であるかのように見せかける[24]。
検索エンジンに登録させなかったりエンジン運営者に苦情を申し入れて外させたり、検閲をおこない、利用者に情報開示を行わないなど[注釈 22]。
検索エンジンにおける検索結果・検索候補の操作[注釈 23]。
自社の広告を出稿しているポータルサイトのニュース欄において、自社のトラブルの記事を早期にトップ画面から削除するよう、また、自社にとって都合のいい記事をトップに掲載するよう、広告代理店などを使い運営会社に対して圧力をかける。
特定団体お抱えの弁護士もしくは団体幹部が、ISPやレンタルサーバーの管理者(企業)に対して、都合の悪いHPを削除するように圧力を掛ける。
ウィキペディアのような、誰でも編集可能なウェブサイトで執拗に宣伝意図を持った編集を繰り返す。また主観的な、あるいは特定利益集団にとっての視点的な記事を新規作成したり、既存の内容をそう変貌させるよう」に虚偽の内容を加筆する。あるいは情報を編集する際にニュアンスを変えたりさりげなく削除したりする、あるいは記事についての議論を起こしたり編集合戦に持ち込んだりして容易に編集できなくしたり、できるだけ有利な状態を保つようにしたりする。最近ではWikiScannerの公開によりウィキペディアでも編集者の所属する組織と密接に関わった記事の編集が大量に存在したことが発覚し、問題視された[注釈 24]。
ウィキを用いて、都合のよい情報だけを集めた「まとめサイト」を作り公開する。
一般消費者が書いていると装っているブログが、実は広告代理店から資金提供を受けて商品やサービスの宣伝をしている場合がある[注釈 25]。

外部の組織や個人を媒介とした手法

イギリスのシンクタンク「ヘンリー・ジャクソン・ソサエティー」(HJS)が実施した中国の対外政策に反対するキャンペーンで、HJSは在英日本大使館からひと月1万ポンドの資金提供を受けていた。HJSはその関係性を伝えないまま元外相のマルコム・リフキンド(英語版)に、ヒンクリー・ポイントC原子力発電所への中国企業関与に対する懸念を訴える2016年8月の新聞記事[25]の執筆者となるよう頼んでいた[26][27]。

貨幣、切手、有価証券などの手法

第二次世界大戦時、イギリスで作成されたハインリヒ・ヒムラーの肖像切手。当時のドイツではヒトラー以外の政治家肖像切手が使用されることはまれであったため、ヒムラーの切手を偽造して流通させることによってヒトラーの猜疑心を誘い、ヒムラーの失脚を謀った。

公共性や価値が高く、極めて広く流通するため、支配権の誇示に用いられる。紙幣や硬貨に国家指導者の肖像が彫刻・印刷で入れられることが多い。古代ギリシャ、古代ローマ時代より西欧では貨幣に神の横顔、後に国家元首の横顔を刻むのが伝統となっており、国内や勢力範囲の住民に統治者を意識させていた。その伝統にのっとり、イギリスやイギリス連邦各国で切手に国王(2015年現在は女王)の横顔のシルエットが入れられているのを始め、アメリカ合衆国のアメリカ合衆国ドルなど、共和制国家では歴代の国家指導者の肖像画を紙幣や硬貨に入れて使用している国も多い[注釈 26]。そのため、1979年にイラン・イスラム革命で国王が失脚したイランでは、紙幣に描かれた国王の肖像を全て塗り潰した。

逆に日本では、皇太子(徳仁親王・雅子親王妃)夫妻の肖像が記念切手に使われた例が1度だけあるのみで、在位中の天皇の肖像が硬貨に刻まれたり切手肖像になったりした事は一切ない。「“陛下のお顔が手垢にまみれるなど畏れ多い”という菊タブーがあるためである」とか、「明治天皇が自身の肖像を切手や硬貨に載せることを嫌ったからだ」といわれるが、東洋では一般的に統治者の顔を民衆に公表する伝統が無いので、歴史的に見ても統治者の肖像画も少なく貨幣に刻印することもほとんどない。

街宣車による手法

戦後、日本では国家主義や皇室礼賛を標榜する右翼団体による街宣車を使った公道での街宣活動がしばしば見られる。使用される街宣車は、大判の日章旗や菊花紋章旗を掲げ、団体名が大書された黒塗りの大型車であることが多く、取り付けられたスピーカーから大音量で軍歌や演歌を流す、あるいは自らの政治的思想等を喧伝する。こうした右翼団体(街宣右翼)の構成員は少なからず暴力団員であるために反社会的な勢力と見られることや、大音量のスピーカーを使った街宣行為が騒音として迷惑がられることも多い[誰によって?]。

選挙活動中に立候補者や政党が名前等を連呼する為に使用される選挙カーも、現代日本における一つの街宣およびプロパガンダといえる[注釈 27]。

なお、日本のように威圧的なものではないが、アメリカのロビー活動を行う団体の中はワシントンD.C.周辺などを自動車で周回し、特定の政策の宣伝活動を行う事例が存在する[28]。

集会・イベントの手法

会場の規模や装飾などの豪華さ・贅沢さ。または逆に貧弱なものを見せつけ、大衆の味方であるように装う。1934年のナチス党大会は、党大会自体が映画『意志の勝利』として記録され、政治宣伝に用いられた。
デモ・集会に支持者を大量に動員し、如何にも多数の支持を集めているかのようにメディアで演出する。逆に反対者は少数しか集まらなかったように見せる[注釈 28]。公表される参加者数は「警察発表」と「主催者発表」で大幅に異なるのが通例である。企画された演説集会の成功例としては、第二次世界大戦中にドイツで行われた「総力戦演説」がある。
式典における演説や部隊の行進、マスゲームなどの一糸乱れぬ団結力の誇示。
記念日制定や運動週間(旬間・月間)など宣伝活動の実施。
国内や国際的なスポーツ大会での国威発揚[注釈 29]。
敵対国での運動を支援し、自勢力に有利な状況を作り出す(色の革命)。

薬物乱用防止運動

ポスター・看板の手法

街頭のポスターや看板を、色や図柄で埋め尽くし強い印象を与える。
ポスターや看板を大量に設置することで、その勢力を大きく見せる。
キャッチコピーに、強い口調・表現を用いる。

音楽の手法

国歌に愛国的な歌詞や他国を攻撃するような歌詞、元首を称える歌詞を挿入し、繰り返し聞かせ、また歌わせることで洗脳していく。また、イギリスにおける「希望と栄光の国」やアメリカにおける「ゴッド・ブレス・アメリカ」などの「第2国歌」的な「愛国歌」や、共産主義国における「インターナショナル」のような「革命歌」や「党歌」をあえて制作し、戦時のみならず平時においても、国威発揚のためのツールとして、国家とともに様々な場面で流したり合唱させることも多い。いわゆる「軍歌」もこの手法の1つと言える。

日本でも戦時になると、庶民的人気を誇る「流行歌」に対する厳しい取り締まりが行われ、戦意高揚を狙った戦時歌謡や軍国歌謡が政府や軍の主導だけでなく民間でも自主的に製作され、ラジオを通じて放送された。戦後になると、左派による「うたごえ運動」として反戦歌、労働歌や革命歌などが広く歌われ、左派の政治活動と深く結びついた。

敵国の音楽を悪い文化の象徴であると喧伝する手法もあり、ナチス・ドイツではアメリカで始まり1920年代にはイギリスでも流行していたジャズをシュレーゲムジーク(ドイツ語で「変な音楽」の意)と呼び、アメリカ人が広める退廃的な文化であるというプロパガンダを流していた。ソビエト連邦など共産主義国家でも同様にジャズやロックなどの西側の音楽を敵視するプロパガンダを流していた。

ソ連や共産主義国家においては社会主義革命を正当化させ、人民の団結を奨励する「革命歌」が作られた。これらの曲は、事実上の共産党の「党歌」であり、他の共産主義国のみならず、資本主義国における左翼的な労働組合運動においても歌われることがあった。なお、ドイツのナチス党も「旗を高く掲げよ」のような「党歌」を国家内に広めた。

軍隊においても愛国心や団結精神の高揚を狙った隊歌が部隊単位で制作され、式典の際に唱和される。

代表的な「第2国歌」や「革命歌」、「党歌」としては、次のようなものがある。

「ラ・マルセイエーズ」:フランス国歌[注釈 30]
「威風堂々」(希望と栄光の国):イギリスの愛国歌、なお、現在この曲がイギリスの公共放送局である英国放送協会(BBC)で流される時には、エリザベス2世女王の画像が必ず同時に流される。
「ルール・ブリタニア」:イギリスの愛国歌
「旗を高く掲げよ」:ドイツ、ナチス党の党歌。ナチス政権下では国歌に準じる扱いを受けた。(ホルスト・ヴェッセルの歌とも)
「ゴッド・ブレス・アメリカ」:アメリカ合衆国の愛国歌
「星条旗よ永遠なれ」:アメリカ合衆国の公式行進曲
「インターナショナル」:ソ連及び共産主義国家、共産党における革命歌、党歌
「東方紅」:中華人民共和国の愛国歌
「ワルチング・マチルダ」:オーストラリアの愛国歌

かつて日本においても、君が代に代わり得る新国歌や第2国歌を作る幾つかの運動が起こり、各種の企業・団体が公募などで集めた歌より選び、世に広めようとしたが、GHQの占領政策の影響もあり、その後の世代に伝えられなかった。

「愛国行進曲」:1937年(昭和12年)
「海行かば」:1937年(昭和12年)、当時の日本政府が国民精神強調週間を制定した際のテーマ曲。敗戦までの間、玉砕を伝える大本営発表等のニュース映画で流された。
「われら愛す」:1953年(昭和28年)、壽屋(現・サントリーホールディングス)社長佐治敬三が中心となって呼びかけ公募された。
「若い日本」
「緑の山河」:1951年(昭和26年)1月、日本教職員組合(日教組)が『君が代』に代わるものとして公募し選定した。曲は軍歌調。
「この土」

芸術などの手法

第二次世界大戦時の日本では、国家の統制管理下に芸術家らをおき、政府直轄の芸術家協会(報国会)に所属させ表現を利用した。反体制主義の芸術家は投獄、協会へ所属しない者は即召集とされた[注釈 31]。日本の植民地であった台湾島での実話を基に誇張、脚色した「サヨンの鐘」など愛国美談として語られ製作されたものもある。

ナチス党政権下のドイツでは、抽象画やモダンアート、アバンギャルド芸術やコンテンポラリー・アートを「退廃芸術」と称し、かつて美術館が買い入れた作品を集め、「退廃芸術展」という美術展を各地で開催した。作品は粗末に扱われ、罵倒に満ちた解説と、国による購入価格も並べて展示された。退廃芸術展の総入場者数は300万人を超え、史上最大の観客数を集めた美術展となった。また、音楽分野でも「退廃音楽展」が開かれている。

一方で、ナチス党が奨励する芸術を集めた「大ドイツ芸術展」も開かれている。その内容はヒトラー好みの分かりやすい内容であり、その描写方法や内容は敵であるはずのソ連の社会主義リアリズムにも類似する。

プロパガンダと芸術家

古代から芸術家は権力者から庇護を受けることで芸術活動を行い、作品が後世に残される可能性が高まる。現在、名作とされる作品にも権力者の依頼により製作されたものが多くあり、その権力者を礼賛する為に制作された作品も少なくない。近代以降、芸術の大衆化により芸術家は必ずしも権力者から庇護を受ける必要はなくなったが、商業上の成功を目的として作家みずからが大衆の求めに応じる形で意図せずプロパガンダを助長する作品を製作する例も多い。また、権力や時流により不本意ながら体制を称える作品を製作せざるを得なかった芸術家もいた。逆に体制に便乗して、多少の不満は抑えて自分の才能を積極的に売り込むことを意図した芸術家もいた。

また、ロシア・アヴァンギャルド運動やプロレタリア文学のように、芸術の表現により政治的な変革を目指すといったプロパガンダと不可分な芸術活動も存在する。

一方でこうした芸術家は、プロパガンダに協力したということで、後に不当に低い芸術的評価を受けることもある。藤田嗣治は戦時中に戦争画を描いたことで、戦後になって日本の美術界を追放され、フランスで制作活動に従事せざるを得なくなった。

それに対し、体制側が自己が主張する政治信条に合わせた芸術を嗜好する傾向も見られる。たとえば、全く新しい体制を目指す場合は新進の芸術運動を保護し、復古的体制を目指す場合には復古的芸術運動を保護する。
主要な人物

ロシア・アヴァンギャルド
    カジミール・マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリン、アレクサンドル・ロトチェンコ、エル・リシツキー、パーヴェル・フィローノフ、グスタフ・クルーツィス
映画
    ソ連:セルゲイ・エイゼンシュテイン
    ドイツ:レニ・リーフェンシュタール[注釈 32])、ヘルベルト・セルピン[注釈 33]
画家・彫刻家
    ドイツ(画家):アドルフ・ツィーグラー、イヴォー・ザリガー、マルティン・アールバハ、パウル・マーティアス・パードゥア、ルドルフ・リプス、ゼップ・ヒルツ
    ドイツ(彫刻家):ヨーゼフ・トーラク、ゲオルグ・コルベ、アルノ・ブレーカー
    フランス:ジャック=ルイ・ダヴィッド[注釈 34]
    日本:藤田嗣治 (戦争画)
    日本(漫画・イラストレーション):小松崎茂、横山隆一[注釈 35]
    アメリカ:ベン・シャーン、国吉康雄など[注釈 36]
小説・劇作家
    ドイツ:テア・フォン・ハルボウ
    日本:菊池寛[注釈 37]、海野十三、住井すゑ
音楽
    ソ連:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ[注釈 38]
    アメリカ:マレーネ・ディートリヒ[注釈 39]
    日本:大木惇夫(作詞家、『国民歌山本元帥』などの作詞)、西条八十、山田耕筰[注釈 40]、北原白秋、高階哲夫、藤原義江、佐々木すぐる、古関裕而
写真
    ドイツ:アンドレ・ズッカ(fr:André Zucca ナチス宣伝誌『シグナル』専属カメラマン)
    アメリカ:マーガレット・バーク・ホワイト
    日本:木村伊兵衛、名取洋之助
アニメーション
    日本:瀬尾光世[注釈 41]
    アメリカ:ウォルト・ディズニー[注釈 42]、フライシャー兄弟、ウィリアム・ハンナ・ジョセフ・バーベラ(ハンナ・バーベラ・プロダクション)
漫画家
    日本:はすみとしこ(『そうだ難民しよう! はすみとしこの世界』)

旗・紋章・マーク

ナチス政権当時のドイツ国国旗。現在のドイツなど、複数の国では掲示行為自体が処罰の対象となる。

旗や紋章はその所属する立場をわかりやすくし、プロパガンダの効果を高める。古代から洋の東西を問わずに用いられてきた。軍隊の軍旗などが典型例である。ドイツのナチス党によって使用されたハーケンクロイツは特に有名であり、現在もナチスの象徴として広く知られている。そのため欧米では似通った模様の「卍」の使用すら忌避される傾向がある。

他にも共産主義の象徴としての赤旗・鎌と槌、各国の国旗などが広く知られている[注釈 43]。

建造物・像・都市計画

巨大建造物の建設は古代から為政者にとり、自己の権力を誇示し、己の世界観を視覚的に宣伝する手段として広く用いられてきた。現代でもそれは変わらず、為政者の権力を誇示し、イデオロギーを視覚的に宣伝する手段として、特に権威主義的中央集権国家でこれらの構造物が多く見られる。たとえば新古典主義建築はナポレオン・ボナパルト治世下のフランスやナチス党政権下のドイツ、ファシスト党政権時代のイタリアで多数建てられている。スターリン統治下のソ連でも、壮大な巨大建造物が国家の肝いりで次々と建てられた。それらの建築群をスターリン様式と呼ぶ。

また、古代から国家や民族の創始者とされる人物や英雄、君主、信仰対象である神や仏の像も集団の在り方を具体的に提示し権力者の権威を示すものとして用いられている。特に西欧では君主の像が古代ローマの甲冑を纏わせるなど、正統なローマ帝国継承者を想起させる演出もなされた他、君主の肖像画を公共の場に掲示して、被支配層にも君主の顔を公示する伝統がある。

一方で貧困などの不都合な事実を隠すために、立派な外観の建物やモデル村落などを作り、外国人や報道陣などに公開する場合もある。こうした見せかけだけの建物は「ポチョムキン村」と呼ばれる。
特徴

既存都市に対する都市計画・デザインについて、指導者を讃える壮麗な建築を行う[注釈 44]。:全く新規に都市を建設することについては、計画都市を参照のこと。
統一した建築様式や記念碑の巨大さで、民族性や政治性の誇示・偉大としたい文明の後継者であることの誇示・巨大建築を作らせる技術力や動員力の誇示を行う。
その勢力のお抱え建築家に主要建造物の設計を任せるケースは、過去より多くみられる。たとえばスターリンにとってのボリス・イオファン、ヒトラーにとってのアルベルト・シュペーアやヘルマン・ギースラーが知られる。シュペーアとイオファンは1937年のパリ万博で、ソ連とドイツの双方の国家出展パピリオン建物のデザインを担当し、しかもその建物が道路一本だけ隔てて向かい合うというエピソードを持つ。
シリアのクネイトラ、ドイツのドレスデン旧市街、広島市の広島県産業奨励館(原爆ドーム)、ドイツ首都ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会初代建物(「旧教会」と呼称)のように、戦災などで被害を受けた建造物は、あえてその痕跡を残すことで、被害の記憶を留める効果がある。
建造物の建設予定地の選定(即ち、元々そこに存在していた施設やモニュメントの破壊も意味する)自体が政治ショー的意味合いを持つこともある。この場合、その体制が崩壊した後に、旧体制を否定するためにその建造物を解体したり、旧施設を再建する例もみられる。
    ソ連のソビエト宮殿(未完成)は共産主義思想の敵とされた、ロシア正教会の救世主ハリストス大聖堂を破壊した跡地に建設される予定であった。ソ連崩壊後、救世主ハリストス大聖堂は再建された。
    旧ドイツ民主共和国でもやはり共産主義思想の敵である旧プロイセン王政およびドイツ帝政時代の象徴・ベルリン王宮破壊後に共和国宮殿が建設された。ドイツ統一後の2008年に解体され、「フンボルトフォーラム」という名称で旧王宮を再現した建造物が建設されている。
    ソウルにあった朝鮮王朝の正宮である景福宮は、日韓併合後に日本政府により宮殿正門の光化門をはじめとする8割以上の建物が破却され、宮殿正面に朝鮮総督府庁舎を建設して、街から宮殿を見えなくした。戦後成立した大韓民国では「旧王宮の景観改善」[注釈 45]を理由に旧朝鮮総督府庁舎を解体した。
    ルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領が建設した大統領官邸である「国民の館」未完成のままチャウシェスク政権が崩壊したが、その後も建設工事が進められ、ルーマニア議会議事堂、博物館として利用され、ルーマニア最大の観光名所にもなっている。
これらに準じる行為として、都市や道路、広場の改名がある。特に欧州諸国では、都市の大通の名が歴史上の英雄や政治家の名に因んでいることが多い。
国の経済力や技術力を示すため、また、ランドマーク的な意味合いを持たせ、国や都市としての存在感を示すために、「世界で最も高いビル」、もしくは「世界で最も高いタワー」を建設する。
戦場において、敵勢力の戦意を削ぐ(あわよくば戦わずして、停戦・降伏交渉を促す道具とする)のを主目的としたプロパガンダ建築の場合、芸術性などは特に考慮されない。史実上の例としては、安土桃山時代の日本に於ける豊臣秀吉の一夜城(石垣山城、益富城、墨俣城)が挙げられる。

主要例
ワシントン記念塔

ソ連:レーニン像、スターリン建築やレーニン廟、指導者の銅像、ソビエト宮殿計画、オスタンキノ・タワー、ソ連国民経済達成博覧会、第三インターナショナル記念塔、コミンテルン記念塔
中華人民共和国:天安門の毛沢東の肖像画、人民大会堂、北京展覧館、上海展覧センター
中華民国:台北国際金融センター、中正紀念堂、国立故宮博物院(台湾台北市)
朝鮮民主主義人民共和国:主体思想塔、金日成の巨大像、平壌市復旧建設総合計画、凱旋門[注釈 46]、柳京ホテル
日本
    大日本帝国:八紘一宇の塔、大東亜聖戦大碑、奉安殿、大東亜建設記念営造計画、靖国神社の大鳥居
満州国:建国忠霊廟、コミンテルンとの戦闘者の記念碑(ロシア語版)
マレーシア:ペトロナス・ツインタワー
ラオス:アヌサーワリー・パトゥーサイ
パキスタン:ミナーレ・パーキスターン
インド:クトゥブ・ミナール
イラク:サッダーム・フセイン元大統領の銅像
アラブ首長国連邦:ブルジュ・ハリーファ
トルコ:アヌトゥカビル(アタテュルク廟)、アタチュルクタワー
イギリス:インド門、オベリスク
ドイツ
    ナチス・ドイツ:勝利の塔、ツェッペリンフェルト(ニュルンベルクナチス党大会会場)、オリンピアシュタディオン、世界首都ゲルマニア計画(de:Welthauptstadt Germania)
    ドイツ民主共和国(東ドイツ):ドイツ民主共和国首都ベルリンの社会主義的都心改造、ベルリンテレビ塔、スターリンシュタット(現・アイゼンヒュッテンシュタット)、カール=マルクス=アレー[注釈 47]
フランス:エッフェル塔、エトワール凱旋門、オベリスク
イタリア:エウル(ローマ新都市42)
ルーマニア:国民の館
アメリカ:自由の女神、ワシントン記念塔、リンカーン記念堂、第二次世界大戦記念碑、海兵隊記念碑(硫黄島の星条旗)、ラシュモア山の4大統領像、アラモ伝道所、アリゾナ記念館、ワールドトレードセンター (ニューヨーク)、フリーダム・タワー計画
ブラジル:バンデイランテスの丘

自然物

山、岩、海、川なども民族や国家の象徴としてプロパガンダとなる。アメリカのラシュモア山のようにプロパガンダとして自然物に手を加え、環境破壊が発生することもある。

白頭山
ラシュモア山
富士山
ライン川

ファッションの手法

ファッションは発言者の印象を大きく左右するために、イメージを向上させるために様々な工夫が施される。また、独自の衣服を着ることでイメージを定着させる方式もある。集団で独自の衣装を着、集団内での団結力の向上や、示威作用を得ることもある。黄巾の乱や紅巾の乱、ボリシェヴィキの革服[29]、ファシスト党の黒シャツ隊、国家社会主義ドイツ労働者党突撃隊の茶色開襟シャツ、毛主席語録が必携でこれを掲げて練り歩いた紅衛兵、日本の国旗や旭日旗を掲げてデモ行進する行動する保守の事例が知られる。

建国神話・英雄譚・伝説・学説の利用
「易姓革命」および「王権神授説」も参照

建国神話は国家の正当性を表すため、重要な位置を占める。また、人々に広く知られる伝説や物語はプロパガンダに利用されるものがある。ただし、革命により成立した共和制の人工国家は神話は持たない[注釈 48]。

ラーマヤーナ、マハーバーラタ、リグ・ヴェーダ、古代核戦争説#モヘンジョダロ遺跡、ヴィマナ復元研究:インド人民党政権下のインド
古事記、日本書紀、神風、義経=ジンギスカン説、復興軍神、皇国史観、神州不滅:大日本帝国。また復興軍神には楠木正成、新田義貞といった中世時代にて武家優位の趨勢であるにもかかわらず当時の天皇に忠誠を尽く通した武将が選ばれ、小学校教育の題材にもされた。
古代ゲルマン神話、北欧神話、アトランティス大陸神話、ワーグナー作楽劇、チベット・シャンバラ神話、宇宙氷説、優生学、優性遺伝、遺伝子汚染:ナチスドイツ
ミシェル・ノストラダムス師の予言集:第二次世界大戦中の英国、ナチスドイツ
新約聖書、ヨハネの黙示録:チェルノブイリ原発事故直後のソ連
旧約聖書:神聖ローマ帝国、十字軍、島原の乱、太平天国、イスラエル
檀君神話:韓国、北朝鮮
「金日成元帥」「金正日将軍」の伝説(金日成・金正日を参照):北朝鮮
バビロンの空中庭園:サッダーム・フセイン政権下のイラク
アーサー王物語:イギリス
三皇五帝神話:中国諸王朝
西遊記:清朝末期の義和団
原初年代記、スラヴ神話:帝政ロシア
スタハノフ運動、ルイセンコ学説:ソビエト連邦
ヘネッケ運動:東ドイツ
ポール・リビアの伝令活動:アメリカ合衆国

プロパガンダ研究・解説・紹介資料(書籍・ドキュメンタリー映像作品)
研究資料(書籍・論文など)

ハーバート・アービング・シラー(斉藤文男訳)『世論操作』(青木書店、1979年、ISBN 978-4-25-079038-6)、Herbert I. Schiller "THE MIND MANAGERS"
アラン・ジョベール(村上光彦訳)『歴史写真のトリック 政治権力と情報操作』(朝日新聞社、1989年、ISBN 978-4-02-255939-5)、Alain Jaubert "Le Commissariat aux Archives, Le photos qui falsifient L'histire" (1986)
鳥飼行博『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(青弓社、2008年、ISBN 978-4-7872-2028-8)
ズビニェク・ゼーマン(山田義顕訳)『ヒトラーをやじり倒せ 第三帝国のカリカチュア』(平凡社、1990年、ISBN 978-4-582-28604-5)、Zbynêk Zemann "Heckling Hitler, Caricatures of the Third Reich"(1984,1987)
佐藤卓己『大衆宣伝の神話・マルクスからヒトラーへのメディア史』(弘文堂、1992、ISBN 978-4-335-25051-4)
アンソニー・プラトカニス、エリオット・アロンソン(社会行動研究会訳)『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』(誠信書房、1998年、ISBN 978-4-414-30285-1)、Anthony R. Pratkanis, Elliot Aronson "Age of Propaganda, The everyday use and abuse of persuasion"
ロバート・キング・マートン(森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳)『社会理論と社会構造』(みすず書房、1961年、ISBN 978-4-622-01705-9)、Robert K. Merton "Social Theory and Social Structure, Toward the Codification of Theory and Research"(1949)
アンヌ・モレリ(永田千奈訳)『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社、2002年、ISBN 4-7942-1129-5)、Anne Morelli "Principes élémentaires de propagande de guerre"(2001), ISBN 2-8040-1565-3
須藤遙子『自衛隊協力映画 「今日もわれ大空にあり」から「名探偵コナン」まで』(大月書店、2013年、ISBN 978-4-272-33081-2)
ジェフリー・ゴーラー『日本人の性格構造とプロパガンダ』ミネルヴァ書房 2011/04/16
池田徳真『プロパガンダ戦史』中央公論社 (1981/01)、中央公論新社 (2015/7/23)

漫画

「栄光なき天才たち」16巻「名取洋之助」(集英社)
「実録 アメリカ大統領選 陰で笑った必殺歴史の仕掛け人」(講談社)
「ゴルゴ13」(作:さいとうたかを、小学館)
    単行本120巻収録 第403話、文庫コミックス版101巻収録 『世紀末ハリウッド』 - TVアニメ化されている。
    単行本128巻収録 第424話、文庫コミックス版110巻収録 第380話『演出国家』
    単行本135巻収録 第445話、文庫コミックス版113巻収録 第388話『ダブル・ミーニング』
    単行本149巻収録 第495話、文庫コミックス版126巻収録 『ピンヘッド・シュート』
    ビッグコミック増刊ゴルゴ13シリーズ171号収録(単行本未収録)『ボリバル2世暗殺計画』

映像作品

ドキュメンタリー「撃墜 大韓航空機事件〜情報戦争の9日間〜」(1990年 NHK製作)
ドキュメンタリー「メディアと権力」 (1992年 BBC製作)本作品紹介HP(「大衆操作の天才・ゲッベルス」「テレビがアメリカ政界を変える」「タレント政治家の功罪」)
ドキュメンタリー「アメリカ情報部隊」 (NHK製作)(「作られた謎・下山事件」「占領下の米ソ諜報戦」)
ドキュメンタリー「狂気の生贄」第二部「悲劇の美人監督レニ・リーフェンシュタール」
ドキュメンタリー映画「アトミック・カフェ」
ドキュメンタリー「検証!ナチス製作映画「タイタニック」」(ヒストリーチャンネル製作) - タイタニック (映画)内の「タイタニック (1943)」も参照の事。

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ 詳細は「ナチス・ドイツのプロパガンダ」を参照。
^ いわゆる「レッテル貼り」のこと。
^ 人間は本能的に集団から疎外されることを恐れる性質があり、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させることで引きつけることが出来る。
^ たとえば愛国心を表象する感情的な転移として国旗を掲げる。
^ 宣伝相ゲッベルスの言葉とされることが多いが、ゲッベルスの言葉ではない。
^ 絶対制の国に多いが、イギリスやタイなど立憲制の国にも見られる。日本でも天皇・皇族の動きは扱いの違いこそあれ必ず報じられる。
^ NHKニュース7に見られる北朝鮮関連報道が特徴的である。
^ 例としてマクシム・ゴーリキー号など。
^ 国家が安全保障上の危機を迎える=国内で生活している愛する家族の生存権・生命・健康・財産が脅かされる→家族を守る為にも国家・連邦政府に協力し続けないといけない といった誘導構図になっている。
^ ただし日本での場合は自発的なものではなく新聞紙法による強制である。
^ 当時としては最新の特殊技術である。
^ 25ヵ国語で30ヵ国に向けて発行され、交戦中のアメリカでさえ1942年まで発行されていた。
^ 日・英・仏・西の4か国語版が有。
^ 内閣情報部の支援により東方社が発行。一時は日本語を含む16か国語で製作されていた。
^ 日本国内向けの国策グラフ誌。
^ 5か国語版が有。
^ 欧米の著名雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』を参考に創刊。日本語版も存在した。
^ 日本万国博覧会で、ソ連館の入場客に配布された。
^ 1996年まで発行されていた日本語版は、かつて日本国内にあった朝鮮総連系企業の朝鮮画報社で発行・印刷されていた。
^ 多くは何らかの公式サイトを偽装したり、全くの第三者を装ったりしている。
^ 2007年の統一地方選挙の際には、匿名掲示板2ちゃんねるやブログ等で民主党を中傷する捏造情報が大量に書き込まれ、組織的犯行として警察が捜査に乗り出す事態に発展した[23]。
^ 例として中華人民共和国におけるネット検閲、タイ王国のYouTube接続遮断などがある。
^ 例としてグーグル爆弾、サジェスト汚染(検索エンジン最適化の亜種)がある。
^ 「工作活動」と確定しているわけではない。
^ ただし、商業活動は政治宣伝とは別個に扱われることがほとんどである。
^ ただし、フランスのフランは自国の偉人、ソ連及びロシアのルーブルは都市が用いられているなど、少なからず例外がある。
^ 諸外国では候補者の戸別訪問が容認されており、こうした選挙カーの使用は、日本特有のものである。また公職選挙法の規定により、走行中の演説は出来ないので、勢い、党名と人名の連呼だけになる。
^ 会場が“広場”“公園”なら定員はあって無きが如し。また“来る者拒まず、去る者追わず”の自由参加であることがほとんどなので、その場にいる人数も一定しない。
^ 特にオリンピックに顕著である。
^ 元はマルセイユの義勇部隊の隊歌であった。
^ 兵役は経験済みなのでみな予備役である。
^ 『意志の勝利』、『オリンピア』など。
^ 『タイタニック』が有名。
^ ナポレオンに重用され、ナポレオンを讃える作品を多く描いた。
^ アニメ映画に『フクちゃんの潜水艦』。また、アメリカ軍の宣伝ビラにも無断でキャラクターが使用された。
^ 太平洋戦争中、アメリカ人画家としてアメリカの対日プロパガンダに参加。
^ 内閣情報部参与、文芸銃後運動を提唱
^ 『交響曲第2番ロ長調「十月革命に捧げる」』、『交響曲第3番 変ホ長調「メーデー」』など。
^ 歌謡曲リリー・マルレーンをカバーし、ヨーロッパ戦線の連合軍兵士を慰問した。
^ オペラ『黒船』、軍歌『燃ゆる大空』などを作曲。軍服姿を好んだため、戦後戦犯論争が起きた。
^ アニメ映画『桃太郎の海鷲』、『桃太郎 海の神兵』が有名。
^ ドナルドダックが主人公の短編アニメ映画『総統の顔』は1943年アカデミー短編アニメ賞を受賞した。
^ アメリカ同時多発テロ事件直後、アメリカでは街じゅうに星条旗が掲げられ、“団結するアメリカ市民”を印象付けた。
^ 巨大な宮殿や城、パレード用の大通りや広場など。
^ この他、同国内で広く信奉されている風水術上での問題や日本治世下時代への忌避を背景とした世論の後押しなども挙げられる。
^ エトワール凱旋門より10m高くなるように建設された。
^ 旧東ドイツ建国〜1961年の期間は「スターリンアレー」という名称。戦前のベルリンでの中心繁華街であった「ウンターデン・リンデン通り」に代わる存在かつ旧西ベルリン一の中心繁華街「クーダム通り」への対抗として整備されたが、やがて後に同じ東ベルリン内のフリードリヒ通りにその座を奪われていく
^ 例としてアメリカ合衆国とソビエト連邦、中華人民共和国、中華民国

出典

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^ 「首相官邸前異状なし、報告すべき件なし」―テレビ報道の劣化 水島朝穂・早稲田大学教授 公式ウェブサイト内「今週の直言」2012年7月2日
^ 瀬川裕司 「ナチ娯楽映画の世界」 平凡社 ISBN 978-4-582-28238-2
^ ネット中傷:民主党“標的”10万件 都知事選と参院補選 毎日新聞 2007年4月27日
^ NHK総合テレビ特報首都圏「ネットの“祭り”が暴走する」、2007年7月6日放送分
^ Rifkind, Malcolm (2016年8月16日). “How China could switch off Britain's lights in a crisis if we let them build Hinkley C”. デイリー・テレグラフ 2021年1月21日閲覧。
^ British think tank funded by Japan pushing anti-China campaign into mainstream UK media The Drum 2017年1月29日
^ 英媒:日本资助英国智库展开反华公关宣传 BBC(中国語)
^ “米最高裁、リベラル派判事が退任へ 後任は黒人女性か”. BBC (2022年1月27日). 2022年1月28日閲覧。
^ イリーナ・メーリニコワ「ソヴェート映画に見るモスクワ神話」『言語文化』第2巻第1号(1999年7月)

参考文献

松井一洋「「真実」の情報はありうるか」『広島経済大学研究論集』33(4)、広島経済大学、2011年、 23-37頁、 NAID 40018794715。
亀田真澄「共産主義プロパガンダにおけるメディア・イメージ : ソヴィエトと旧ユーゴの「労働英雄」報道の例から」『東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報』第26巻、東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室,東京大学大学院人文社会系研究科、2011年、 69-87頁、 NAID 120002871423。
石井貫太郎「宣伝の政治学 : 政治的リーダーシップとプロパガンダ」『目白大学人文学研究』第1巻、目白大学、2004年、 39-45頁、 NAID 110007000922。
今井仙一「<論説>プロパガンダについて」『同志社法學』第22巻、同志社大学、1954年、 24-55頁、 NAID 110000199417。
ハーバート・アービング・シラー著、斉藤文男・訳『世論操作』青木書店、1979年 ISBN 9784250790386

関連文献

貴志俊彦『帝国日本のプロパガンダ-「戦争熱」を煽った宣伝と報道』 (中公新書 2703)、中央公論新社、2022年、ISBN 4121027035
アンソニー・プラトカニス/エリオット・アロンソン著 社会行動研究会・訳『プロパガンダ ―広告・政治宣伝のからくりを見抜く―』誠信書房、1998年 ISBN 4414302854

関連項目

メディア・リテラシー
情報操作 - 虚偽報道
偏向報道 - 写真編集#政治的・倫理的問題 - スピン (パブリック・リレーションズ)
教育 - 管理教育 - 絵本作家 - 子供番組
洗脳 - 児童文学 - 認知心理学
標語 - スローガン - 公共広告
伝単 - 刷り込み - パブリック・ディプロマシー
ネガティブ・キャンペーン
ドン・ブラウン - デイヴィッド・オグルヴィ - エドワード・バーネイズ
社会主義核心価値観
ウクライナにおける「ネオナチ問題」
攻撃戦だ(コンギョッチョニダ)

外部リンク
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新領域からの攻撃阻止に失敗したスウェーデン、NATO加盟が遠く

新領域からの攻撃阻止に失敗したスウェーデン、NATO加盟が遠く
https://grandfleet.info/european-region/sweden-is-far-from-joining-nato-after-failing-to-stop-attacks-from-new-territories/

 ※ 他国には、「心理防衛庁」なるお役所が、あるらしい…。

 ※ 『スウェーデンは冷戦中に偽情報や心理戦に対する防衛を専門に扱う機関を運用していたが2008年に閉鎖。しかしロシアのウクライナ侵攻を懸念して昨年1月に心理防衛庁を設置』…、と言うことだ…。

『トルコとのNATO加盟交渉が難航しているスウェーデンでは「エルドアン大統領に似せた人形を逆さ釣り」「トルコ大使館の外でコーランを燃やす」などの騒ぎが発生、クリステルソン首相は「自国を脅かす勢力に役立つ馬鹿者だ」と批判している。

参考:Kristersson: ”Alla behöver bidra till att kyla ner temperaturen”

トルコを刺激する抗議活動を行った個人やグループは、我が国の安全保障を脅かす勢力に役立つ馬鹿になっている

ウクライナ侵攻を契機にフィンランドとスウェーデンはNATO加盟を目指しているものの、欧州諸国でテロ組織に指定されているクルディスタン労働者党(PKK)関係者の身柄引き渡しを拒否してきたためトルコが両国のNATO加盟に反発、フィンランドとスウェーデンは「トルコが要求したPKK関係者の身柄引き渡しに同意した」と報じられていたが、依然としてスウェーデンはPKK関係者の引き渡しに抵抗している。

出典:Kurdishstruggle / CC BY 2.0

フィンランドはトルコが要求するPKK支援の禁止、PKKの資金調達や組織の拡張活動の禁止、PKKを含むテロ組織の活動阻止、PKK関係者の身柄引き渡し、トルコに対する禁輸措置の解除などの条件をほぼ満たしたためエルドアン大統領は「フィンランドのNATO加盟承認」を示唆しているが、交渉が難航しているスウェーデンでは「エルドアン大統領に似せた人形を逆さ釣り」「トルコ大使館の外でコーランを燃やす」などの騒ぎが発生してトルコ側が激怒。

この抗議活動をスウェーデン政府は非難しているものの「言論の自由」に関してして引き続き支持する立場で、これを受けてエルドアン大統領は「フィンランドとは異なる対応をとるため(スウェーデンは)ショックを受けるだろう」と言及、そのためスウェーデンのクリステルソン首相は「この時期にトルコを刺激する抗議活動を行った個人やグループは、我が国の安全保障を脅かす勢力に役立つ馬鹿になっている」と批判し、偽情報や心理戦に対する防衛を専門に扱う心理防衛庁も「海外勢力の関与」を示唆した。

出典:pixabay

スウェーデンは冷戦中に偽情報や心理戦に対する防衛を専門に扱う機関を運用していたが2008年に閉鎖。しかしロシアのウクライナ侵攻を懸念して昨年1月に心理防衛庁を設置、同庁は「欧州の安全が悪化しているため安全保障問題や国防問題が選挙で重要さを増してくる。我々が正しいアプローチを選択するのを嫌う海外勢力(ロシア)が選挙に干渉して間違ったアプローチへ誘導しようと試み可能性は高い」と主張して警戒を強めていたが、外部勢力による世論への干渉(NATO加盟のためトルコの要求に屈指するのかなど)を阻止できなかった格好だ。

フィンランドはスウェーデンとの同時加盟の立場を崩していないがスウェーデンとトルコの加盟交渉は長引くことが予想され、最近では「もし単独加盟に踏み切れば安全保障政策で歩調をとってきたスウェーデンの背中を刺すことになる」という主張が出回っており、これも外部勢力が干渉して作り上げた偽の世論なら「NATO加盟を阻止する新領域からの攻撃は大成功」と言えるだろう。

関連記事:ロシアの偽情報や干渉に蝕まれる民主主義、スウェーデンは対心理機関を設置
関連記事:NATO加盟国を目指すスウェーデン、トルコ要求の身柄引き渡しに同意
関連記事:トルコ、フィンランドやスウェーデンにテロ容疑者33人の引き渡しを要請

※アイキャッチ画像の出典:Presidency Of The Republic Of Turkey
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 17 』

ロシア軍は命を顧みない兵士の波でウクライナ軍を圧倒、春攻勢に影響が出る可能性も

ロシア軍は命を顧みない兵士の波でウクライナ軍を圧倒、春攻勢に影響が出る可能性も
https://grandfleet.info/us-related/russian-forces-overwhelm-ukrainian-forces-with-wave-of-life-defying-soldiers-could-affect-spring-offensive/

『ニューヨーク・タイムズ紙は「部分的動員で変化したロシア軍の戦術は命を顧みない兵士の波で敵を圧倒することにあり、訓練も装備も未熟な兵士と質が高い兵士の交換は痛みを伴い、春攻勢に必要な戦力消耗に繋がる」と指摘している。

参考:Seeing a Prize, Russia Inundates a Ukraine City With Troops

もうバフムートの主要な補給ルート(T0504とM03)はロシア軍の大砲や戦車の主砲の射程圏にあるため移動が制限されているらしい

エストニアの国防次官は「プロセスの欠点がどうであれ動員は効果を発揮して戦線を安定させた。西側諸国に5週間で30万人を前線に動員するのは不可能だ」と語り、西側メディアにロシアの軍事力や動員計画を嘲笑して過小評価するなと警告したが、ニューヨーク・タイムズ紙も「部分的動員で変化したロシア軍の戦術は命を顧みない兵士の波でウクライナ軍を圧倒することにあり、バフムートを巡る終わりのない戦いで訓練も装備も未熟なロシア軍兵士と質が高いウクライナ軍兵士の交換は痛みを伴い、春の攻勢に必要な戦力の消耗に繋がる」と指摘している。

出典:Генеральний штаб ЗСУ

ロシア軍が昨年7月にセベロドネツクやリシチャンシクを制圧したことでルハンシク州の制圧に成功、ドネツク州の制圧に向けてイジューム方面からスラビャンスクに迫り、8年間かけて準備されたドネツク周辺の陣地を迂回するためバフムートに突破口を求めた戦いはハルキウ州やヘルソン州での反撃で大幅に計画が狂ったものの、ドニエプル川左岸を放棄することで戦線を整理、動員した30万人の一部を僅か5週間で投入してルハンシク方面におけるウクライナ軍の前進を阻止することに成功した。

崩壊しかけた戦線を安定させたロシア軍は再びドネツク州制圧に力を入れ始め、バフムート攻略に囚人で構成された兵士(ワグナー所属の兵士)を大量投入したものの想像を絶する人的被害を出していたためウクライナ側は「兵士の消耗比率は1対10だ」と主張、そのため「ロシア軍を消耗させるのに理想的なキルゾーンだ」と考えられていたが、この話は現実とかけ離れていたことが判明する。

出典:Сухопутн? в?йська ЗС Укра?ни

部分的動員で変化したロシア軍の戦術は命を顧みない兵士の波でウクライナ軍を圧倒することにあり、バフムート周辺の拠点が次々とロシア側に制圧され始めるとドイツ連邦情報局は「バフムート方面の戦いでウクライナ軍は毎日3桁台の兵士を失っている」と安全保障関係の連邦議員に報告、米軍のミリー統合参謀本部議長も「ロシア軍の死傷者数は10万人を大幅に上回っている。この戦いは非常に血なまぐさい戦争で双方にかなりの死傷者が出ている」とウクライナ軍の人的被害も大きいことを示唆。

最終的にノルウェー軍のエイリック・クリストファーセン陸軍大将が「ロシア軍の死傷者数は18万人に近づきつつあり、ウクライナ軍の死傷者数も恐らく10万人以上だ。さらにウクライナ側には民間人に約3万人の死傷者がいる。これだけの損失を被ってもロシア軍は武器生産の加速と動員によってウクライナとの戦争を長期間維持できる」と明かしたため、両軍の人的損害に10倍近い差がついているという話はおとぎ話に過ぎないことが判明した。

出典:President of Ukraine

ウクライナは約100万人(軍70万人、国家親衛隊9万人、国境警備隊・沿岸警備隊6万人、国家警察10万人)の動員を完了した昨年7月以降「これ以上の追加動員は必要ない」と主張してきたが、ウクライナ軍の人的被害が明るみになったタイミングでゼレンスキー大統領も「軍に追加の予備戦力を確保するよう指示した」と言及しており、正確な人的損害の数は不明なものの11ヶ月間に及ぶ戦いで軍の戦力にギャップが生じているのは間違いない。
それでも両軍の人的損害は約1対2なのでウクライナ軍優勢と言えるが、NYT紙は「訓練も装備も未熟なロシア軍兵士と質が高いウクライナ軍兵士の交換は痛みを伴う」と指摘、軍事アナリストも「バフムートをロシア軍に奪われても東部戦線で決定的な敗北には繋がらないが、東部地域における交通の要衝なのでロシア軍の優位性は高まる」と言及しており、もうバフムートの主要な補給ルート(T0504とM03)はロシア軍の大砲や戦車の主砲の射程圏にあるため移動が制限されているらしい。

出典:GoogleMap バフムート周辺の戦況/管理人加工(クリックで拡大可能)

米国や同盟国の諜報機関は「ロシアの方が多くの弾薬と兵士を持っているため現在の戦闘スタイルを持続するのは不可能だ」と考え、バイデン大統領が派遣したファイナー大統領副補佐官、シャーマン国務副長官、カール国防次官はキーウを訪問して「バフムートで展開される消耗戦から機動戦へ移行することを支援したい」と提案、つまり米国側は遠回しに「持続不可能な消耗を止めるためバフムートを放棄して南部での反撃を優先させろ」と助言しているのだが、抵抗のシンボルと化したバフムート放棄をゼレンスキー大統領が決断できるかは不透明だ。

ゼレンスキーの考えをよく知る人物は「ロシアのバフムート勝利を認めおらず、ここを保持できればドンバス全体を奪還する可能性が広がり、逆に失えばロシア軍にスラビャンスク方面への前進を許すことになると考えている」と述べ、NYT紙は「これまでのロシア軍なら都市の包囲を優先し、ウクライナは当該都市を守るための代償を支払うかどうかを検討して抵抗するか後退するかを判断してきたが、バフムートの戦いは相手を消耗させること狙っている」と指摘しており、このままバフムートでの消耗戦に付き合えば予備戦力が消耗して春攻勢に影響がでるかもしれない。

関連記事:激しいバフムート巡る戦い、ゼレンスキー大統領が追加動員を行うよう指示
関連記事:ロシア軍の死傷者数は約18万人、ウクライナ軍の死傷者数も10万人以上
関連記事:米軍のミリー統合参謀本部議長、ロシア軍の死傷者数は10万人を大幅に上回る
関連記事:激しさを増すバフムートを巡る戦い、ウクライナ軍も毎日3桁台の兵士を失う
関連記事:欧州委員会のフォンデアライエン委員長、ウクライナ軍の戦死者数を漏らす?
関連記事:バフムートを巡る戦い、じわじわと後退を強いられるウクライナ軍

※アイキャッチ画像の出典:Сухопутн? в?йська ЗС Укра?ни
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投稿者: 航空万能論GF管理人 米国関連 コメント: 50 』

『 名無し
2023年 2月 01日

返信 引用 

NATO諸国のゴールは、ウクライナが勝つことではなくて、自国が対岸の火事として「絶対の安全が保証された状態」で、ロシアの体力をコスパ良く削ること、ですから、
様子を見て供与武器のエスカレーションはあっても、西側供与の武器を使ったロシア本土攻撃は、軍事より上位である政治の判断として、現時点では極めて低いでしょう。
戦闘機の供与拒否も、たぶんこっち側の文脈の理由だと思う。
22

    general
    2023年 2月 01日
    返信 引用 

冷たい言い方ですがロシアの人的資源を削って弱体化が達成できれば最終的にウクライナが負けてもNATOにしてみれば別に損はないんですよね。
フィンランド(加盟成功した場合)?バルト三国?ポーランド?ルーマニアでロシアを抑止する2013年以前の体制に戻るだけですし。
この場合モルドバがかわいそうなことになりますが…
16
    HY
    2023年 2月 02日
    返信 引用 

>NATO諸国のゴールは(中略)ロシアの体力をコスパ良く削ること、ですから

 実際はロシアの体力が思いのほか続いて(弾薬製造の面で)NATO側の体力が削れている気がするけど?』

衆院予算委 志位委員長の基本的質疑

衆院予算委 志位委員長の基本的質疑
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2023-02-02/2023020204_01_0.html

 ※ 一部を抜粋して、紹介する。

『2023年2月2日(木)

敵基地攻撃能力の恐るべき実態

志位 長射程ミサイルを大量導入・開発し、搭載する戦闘機、護衛艦、潜水 艦を大増強――なぜ「他国に脅威を与えることはない」と言えるのか

首相 (質問に答えず)まずは外交で国際社会にしっかり説明する

志位 答えになっていない。外交の姿は全く見えない

 志位 さらに聞きます。

 「安保3文書」でやろうとしていることは具体的にどういうことか。

 「GDP比2%以上」の軍事費となれば、日本は米国、中国に次ぐ世界第3位の軍事費大国になります。

 敵基地攻撃のためにどんな兵器を持とうとしているのか(パネル3)。パネルをご覧ください。これは「安保3文書」で導入するとしている主なスタンド・オフ・ミサイル――相手国の脅威圏の外から発射する長射程ミサイルです。

 「12式地対艦誘導弾能力向上型」――これは、従来のものの射程を大幅に長くするものです。「高速滑空弾(能力向上型)」は、極超音速で飛行する長射程の滑空弾です。「極超音速誘導弾」は、音速の5倍以上の極超音速で飛行することにより、迎撃を困難にするミサイルです。米国製トマホークは、アフガニスタン戦争、イラク戦争などで先制攻撃に使われた長射程の巡航ミサイルです。

写真

(写真)日本共産党の志位和夫委員長の追及を受け、職員に説明を求める岸田文雄首相=1月31日、衆院予算委

 これらの長射程のミサイルを大量に導入、開発し、それを搭載する戦闘機、護衛艦、潜水艦を大増強する。これが、政府が今持とうとしている敵基地攻撃能力であります。

 総理、こうした攻撃能力を保有しても、「他国に脅威を与えることはない」と、どうして言えるか。私は、代表質問でそういうシンプルな問いを聞いたんですが、答弁がありません。端的に説明していただきたい。なぜ「他国に脅威を与えることはない」と言えるのか。どうでしょうか。

 首相 先ほどの田中角栄総理の答弁については、いわゆる海外派兵は一般に憲法上許されないということを述べたものであると申し上げましたが、この考え方は今も変わっておりません。海外派兵は今も憲法違反であるという認識に立っている。

 認識は変わらないということをまず申し上げた上で、他国に脅威にどうしてならないのかということでありますが、まずこの防衛力のこの内容、規模については戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に対峙(たいじ)していく中で、国民の命を守り抜けるか、この極めて現実的なシミュレーションを行った上で必要となる防衛力の内容を積み上げ、そして導き出したものであります。その結果として、ご指摘のような装備を、この今のこの厳しい現実の中で国民の命を守るための反撃能力として必要であるという結論に達したということです。

 そして海外からこれが脅威にならないと理解されるかというご指摘でありますが、だからこそ、この国家安全保障戦略をはじめとするこの防衛3文書の中に、まずは外交というものを掲げて、この地域のこの平和と安定に貢献するという考え方を書いておるわけであり、そしてこうした装備が何のために必要なのか、こうしたものをこの国際社会にしっかり説明することが大事であるというこの観点を重視しているわけであります。

 今、国際社会にこうしたわが国の取り組みについて今説明をし続けています。もちろん一部、こうした内容について、わが国の内容について反論している国があるというのは事実でありますが、ほとんどの国において、こうしたわが国の取り組みに対して批判的な声は上がっていないと認識をしております。ぜひ引き続きまして、この厳しい安全保障環境の中で、なぜ、わが国がこうした体制を国民の命を守るために必要としているのか、そしてわが国はどういったこの外交政策を進めようとしているのか。こういった点について説明努力を続けたいと思っています。

 志位 まずは外交とおっしゃいましたが、外交の姿が全く見えません。それから、丁寧な説明をするとおっしゃった。しかし私が聞いたのは、「他国に脅威を与えるようなことにならない」と、なぜかと聞いた。それに対する答えがありません。

志位 長射程ミサイルの射程距離は、何キロか

防衛相 お答えできない

志位 「説明する」というが一番大事なことは説明しない。射程距離を明らかにしないこと自体が脅威になっていく

 志位 一つ、具体的に聞きます。この四つの長射程ミサイルの射程距離、それぞれ何キロですか。通告してあります。総理どうぞ。

 根本匠予算委員長 防衛大臣。

 浜田靖一防衛相 誘導弾の射程距離は、これを明らかにすれば国の具体的な防衛能力を明らかにすることとなるため、安全保障上控えるべきであり、お答えできないことをご理解いただきたいと思います。

 志位 射程距離は明らかにしない。「説明する」って言うけど、一番大事なことは説明しない。射程距離を明らかにしないこと自体が、私は脅威になっていくと思います。

 報道では、「12式地対艦誘導弾能力向上型」の射程は1000キロ、「高速滑空弾(能力向上型)」の射程は2000キロ、「極超音速誘導弾」の射程は3000キロ。トマホークの射程は1600キロとされます。中国や北朝鮮の主要都市がすっぽり射程内に入ることになります。文字通り「他国に脅威」を与える兵器そのものじゃないですか。
志位 マッハ5を超える「極超音速兵器」――中国やロシアが持てば「脅威」で、日本が持つことは「脅威」でないと、どうして言えるか

首相 (質問に答えず)G7はじめとする諸国、国際社会は歓迎している

志位 首相の言う「国際社会」とはアメリカを中心とする社会ではないか。「脅威」に「脅威」で対抗したら軍事対軍事の悪循環に陥る

 志位 具体的に聞いていきます。

 パネルご覧ください(パネル4)。これは防衛装備庁が作成したもので、敵基地攻撃能力を獲得した後の「将来像」が描かれております。

 ここで非常に重要な位置づけを与えられているのが、「極超音速誘導弾」です。音速の5倍以上で飛行し、飛行コースを機動的に変えることができ、空母の飛行甲板等を撃破可能な貫徹弾頭、地上目標を面的制圧可能な高密度弾頭を持つと書かれています。

 「極超音速兵器」とはどんなものか。ここに持ってまいりましたが、海上自衛隊幹部学校のウェブサイトに掲載された戦略研究室3等海佐の米田光一氏の一文では、「極超音速兵器」について次のように述べております。

 「極超音速兵器とは、飛行速度が概(おおむ)ねマッハ5を超える飛翔(ひしょう)体で、飛翔中に一定の機動(飛行コースの変化)が可能なものを指す」「極超音速兵器の特徴は、『弾道ミサイルに比べて飛翔高度が低い』、『飛翔体が一定の機動性を有する』及び『巡航ミサイルに比べて高速』、である。これらの特徴が重なることにより、探知の遅れ、飛翔経路予測の困難性、迎撃時間の短縮、という3重の困難を防御側に強いる。……極超音速兵器は、従来の弾道ミサイルや巡航ミサイルに比して突破力に優れた兵器である」

 そして、こう結んでおります。中国やロシアが「極超音速兵器」の開発を進めていることについて、「極超音速兵器の脅威に対し、各国がどのように対応していくのかが注目される」と。「極超音速兵器の脅威」ということを述べているわけであります。

 「極超音速兵器」とは今、軍事の専門家が述べたように、マッハ5を超える超高速で飛行し、飛行コースを機動的に変えることができ、弾道ミサイルや巡航ミサイルと比較しても「突破力」に優れ、そして日本にとっての「脅威」だと言っている。総理、中国やロシアがこの兵器を持つことは「脅威」で、日本が持つことは「脅威」ではない。どうして言えるんですか。

 首相 わが国の今回の防衛力強化について、たしかに北朝鮮をはじめいくつかの国はこの否定的なコメントを発している。これは事実ではありますが、一方で、今月、私が訪問した欧州、北米そしてG7をはじめとする諸国は、この歓迎をしておりますし、多くの国々も否定的なことをこの発しているということは承知しておりません。

 そして、こうした能力についてご説明がありましたが、これは大切なのは、こうした兵器をどう運用するかということであります。わが国は基本的な運用の仕方として、憲法、あるいは国際法、そしてわが国の国内法、これに準じて、専守防衛、これはしっかり守っていく。非核三原則は維持する。こうした考え方を再三繰り返し、繰り返し国際社会に対して説明をし続けてきました。こうした原則のもとに、わが国がこうした兵器を、運用するんだということ、これに対する信頼感を本当に得られるかどうか、これが大事であり、結果として、先ほど申し上げたように、多くの国際社会は今回のわが国の取り組みに否定的なコメントを発している国は少ないという状況にあるということ、これが重要であると認識をしております。

 志位 あなたのいう「国際社会」というのは、結局、G7、アメリカを中心とする世界じゃないですか。そういう世界が、軍事ブロックのもとにある世界が、応援しているというだけのことじゃないですか。

 私が聞いたのは、これが「脅威」にならないとどうして言えるのかと聞いたわけですけども答えがない。

 私は、「脅威」に対して「脅威」で対抗したら、それこそ軍事対軍事の悪循環が起こる。そんなことをやりだしたら、結局、核兵器を持たなきゃならなくなる。その道をとらない。日本は「盾」に徹する。これが「専守防衛」じゃないんですか。

「抑止力」とは恐怖であり威嚇

志位 敵基地攻撃能力が「抑止力」になるというが、「抑止力」とは恐怖であり、威嚇ではないか

首相 脅威にならないことを丁寧に説明する

志位 「抑止」の本質が相手に脅威を与えることにあることは軍事の常識だ。相手国に脅威を与える敵基地攻撃能力保有を進めながら、「他国に脅威を与えない」とは、根本的に論理が矛盾している

 志位 もう1問聞きたいと思います。総理、私の代表質問に対して、「反撃能力は相手に攻撃を思いとどまらせる抑止力になる」とおっしゃいましたね。それでは敵基地攻撃能力がなぜ抑止力になるのか。それは、“もし日本を攻撃したら、手痛い反撃を受け、耐え難い損害を被ることになるぞ”と相手を威嚇し、恐怖を与えることによって、攻撃を思いとどまらせるということではないんですか。「抑止力」とは、恐怖であり威嚇じゃないですか。どうですか。

 首相 わが国の今回の対応に対して理解を示している国は、G7諸国だけではありません。アジアをはじめ、多くの国々がこうした厳しい安全保障環境の中で、わが国が対応しようとしている努力に対して理解をし、評価している。こうした声を上げているということは、事実であります。

 そうした中で、抑止力、対処力を強化するということは、おっしゃるように、このわが国に対して、不当な武力攻撃をする国々に対する行動を抑止、対処するという意味で重要であると思っておりますし、わが国が国際社会において、この平和や安定に貢献するための外交力の裏付けとしても、こうしたものは重要であると認識をしています。こうした取り組みは決して他国に対する脅威にはならないということ。これからも、丁寧に説明を続けていきたいと思っています。

 志位 脅威を与えることによって抑えるというのが、「抑止力」の基本であります。

 ここに私、持ってまいりましたけれども、防衛大学校のグローバルセキュリティセンターが出しているものでありますけれども、『日本の防衛政策と抑止』(と題して)、岩田修一郎さんという防衛大学校の教授の方が、かなり突っ込んだ考察を書いております。この論考は、結びでこう述べているんです。

 「抑止の要件の一つは、敵対国に対する威嚇であり、日本の専守防衛の考え方と相いれない面がある。抑止の本質は昔も今も恐怖である」

 これは私は、軍事の常識だと思いますよ。「抑止」の本質は、まさに、威嚇と恐怖、相手に脅威を与えることにある。

 私は、「抑止力」を強めるということで、相手国に脅威を与えるような敵基地攻撃能力の保有を進めながら、「他国に脅威を与えるような軍事大国にならない」という。これは根本的に論理が矛盾していると思います。

志位 「専守防衛」を投げ捨てることは、軍事対軍事の悪循環をつくり出し、地域の緊張と対立を激化させる。絶対に許されない

 志位 「安保3文書」が「専守防衛に徹し」と言いながら、「専守防衛」を完全に投げ捨てるものであることは、私は明らかだと思います。

 日本弁護士連合会の意見書では、「専守防衛」について、「近隣諸国に対する『攻め込まれない』という『安心の供与』となって、平和的外交関係の形成・維持に大きく寄与してきた」と評価しています。そして、敵基地攻撃能力保有について、「近隣諸国に脅威と不信を呼び起こし、限りない軍拡競争に陥ることになりかねない」と警鐘を鳴らしています。

 私は、その通りだと思うんですよ。「専守防衛」を投げ捨てることは、軍事対軍事の悪循環をつくり出し、地域の緊張と対立を激化させる有害極まりないものだということを強く述べ、絶対に許されないということを表明したいと思います。

日米が「融合」して先制攻撃の危険

志位 日米合意では、敵基地攻撃能力は「米国との緊密な連携の下」で「効果的に運用」されるものであり、その取り組みの一つが「統合防空ミサイル防衛」(IAMD)と言っている

首相 「統合防空ミサイル防衛」は、アメリカと日本は全く別物であり、自衛隊は独立の指揮系統で動く

志位 日米共同声明で「協力を強化する」と 言っている。単独でやるわけではない

 志位 さらに進みます。

 重大なことは、「反撃能力」の名での敵基地攻撃能力が、米軍と自衛隊が融合するように一体化するもとで、行使されるということです。

 総理に確認したい。1月13日に出された日米共同声明では、「日本の反撃能力及びその他の能力の開発および効果的な運用について協力を強化する」ことを確認しています。
 それに先立つ11日の日米安全保障協議委員会――「2プラス2」共同発表では、「米国との緊密な連携の下での日本の反撃能力の効果的な運用に向けて、日米間の協力を深化させることを決定した」とあります。そして、「日米同盟の抑止力・対処力」の強化の冒頭に、「統合防空ミサイル防衛」――IAMDをあげています。

 総理、これは確認です。政府が今保有しようとしている「反撃能力」――敵基地攻撃能力は、「米国との緊密な連携の下」で「効果的に運用」されるものであり、その取り組みの一つとして、「統合防空ミサイル防衛」――IAMDがあることは間違いないですね。これは確認です。

 首相 まず、わが国の防衛力の強化は、他国に恐怖や脅威を与えるために、強化しているわけではありません。これはわが国に対する不当な武力攻撃に対して、対処力、そして抑止力を高めるために、強化していくということは、もう今一度確認しておきたいと思います。

 その上で、ご質問の統合防空ミサイル防衛能力ですが、これはわが国の国家防衛戦略において、統合防空ミサイル防衛能力、これを強化し、わが国に対するミサイル攻撃については、ミサイル防衛システムを用いて迎撃しつつ、反撃能力を持つことにより、ミサイル防衛と相まって、ミサイル攻撃そのものを抑止していくこととしている。

 こうしたことですが、その際におっしゃるように、日米の連携は重要であります。しかし、アメリカの統合防空ミサイル防衛とわが国の統合防空ミサイル防衛、これは全く別物であり、自衛隊、米軍はですね、おのおの独立した指揮系統に立って行動するわけです。わが国としてはあくまでも、自衛隊、憲法、国際法、国内法に従って行動していく。こうしたことであります。こうした日米の連携、もちろん大事ではありますが、それぞれ独立した指揮系統に従って行動するということは、わが国として今一度確認しておりますし、これからも変わっていかないと思っています。

 志位 「抑止力」について、またおっしゃったけども、「抑止」の本質は、恐怖と威嚇だというのは、これは軍事の常識です。それがなければ「抑止」にならない。これを私は言いました。

 今ご答弁がありました、IAMD(「統合防空ミサイル防衛」)について、これが重要な柱だということをお認めになった。しかし、日本は独自にやるんだということもおっしゃった。しかし、あなたは、日米共同声明の中で「効果的な運用について協力を強化する」、こう言っているわけですから、単独でやるわけじゃないでしょう。ですから、この問題を突っ込んで聞いていきたいと思うんです。

志位 米国の「統合防空ミサイル防衛」に自衛隊が参加することがことの本質。米軍の基本原則では公然と先制攻撃を宣言している

首相 アメリカとて国際法違反を堂々とやることはあり得ない

志位 アメリカは数限りなく国連憲章違反の先制攻撃をやってきた。日本政府は一度も「ノー」と言ったことがない

 志位 もともと「統合防空ミサイル防衛」は、アメリカが2013年ごろから同盟国と一体に、地球的規模で構築しているシステムですが、敵基地攻撃能力を持つことによって、ついに自衛隊がこのシステムに参加するというのが、今起こっていることの本質だと思います。

 では、アメリカは「統合防空ミサイル防衛」をどのように説明しているのか。ここに私、持ってまいりましたが、2017年4月、(米)統合参謀本部が作成した『対航空・ミサイル脅威』と題する文書であります。この文書では、「統合防空ミサイル防衛」の基本原則を詳しく明らかにしております。

 パネルご覧ください(パネル5)。この文書では、米国と同盟国の、このシステムの一体的な運用の重要性を繰り返し、繰り返し強調したうえで、米軍の「統合防空ミサイル防衛」では「ミサイル防衛」とともに、「相手国の領域」において攻撃作戦を行う「攻勢対航空作戦」――オフェンシブ・カウンターエアが重要な構成部分となっていることを述べ、そして、米軍の基本原則として二つの点を明記しております。

 まず第一は、「攻勢対航空作戦」の攻撃目標です。米軍の基本原則では、「ミサイルサイト、飛行場、指揮統制機能、インフラストラクチャー」と明示しています。つまりミサイル基地、軍用飛行場だけでなく、指揮統制機能、さらには軍事基地を支えるインフラストラクチャー――鉄道、道路、港湾、空港などが攻撃対象になることを明示しております。

 第二は、「攻勢対航空作戦」は、「敵の飛行機やミサイルを離陸・発射の前と後の双方において破壊、または無力化する」。「前」と言うことが出てきます。「攻勢対航空作戦は、先制的にも対処的にもなる」。「先制的」という言葉が出てきます。つまり、公然と先制攻撃を行うことを宣言しているのが、このドクトリンであります。

 総理にうかがいます。自衛隊と米軍が協力して進める「統合防空ミサイル防衛」――一体ではないというけど、協力してやることは認めました――米軍がこういう原則を持っているということをご存じですか。

 首相 まず、最後の質問にお答えすると、米国のIAMDにご指摘のような方針を示しているということは承知しておりますが、先制攻撃は国際法違反であります。アメリカとて、国際法違反を堂々とやることはあり得ません。これは、国際法の範囲内で対応するものであると認識をしております。

 なおかつやっぱり、基本的に申し上げたいのは、わが国はこのIAMDに参加する、統合される、そんなことは全くありません。わが国のこの統合防空ミサイル防衛と米国のIAMDは全く別物であり、わが国として、わが国の国民の命を守るために必要とするこの統合防空ミサイル防衛をしっかりと準備しようと。その際に日米同盟に基づいて協力を得ることはある。しかしながら、このわが国の目的は、あくまでもわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、わが国はこの武力を行使するわけです。その範囲を超えて、わが国が行動することはないということも、丁寧に世界にしっかり説明をしていく必要があると思っています。

 志位 アメリカは国際法に違反するようなことはしないとおっしゃった。しかし、戦後、アメリカは、数限りなく、国連憲章に違反した先制攻撃の戦争をやっていますよ。1980年代には、グレナダ侵略、リビア爆撃、パナマ侵略、これらについて、国連総会で「国連憲章違反」と非難決議があがっている。そして、日本政府は1回もアメリカの武力行使に「ノー」と言ったことがない。そのだらしのない政府が、「アメリカは先制攻撃をやらない」と言っても、誰も信用するものではありません。

 そして、日米は別々にやるんだとおっしゃいますが、先ほど言ったように、あなたも確認したように、「日米で協力して開発し運用する」と合意を結んでいるじゃないですか。別々ってことはないんです。

志位 米国と同盟国が「シームレス――切れ目のない融合」をはかるというのが米軍の方針だ。自衛隊だけは独立した指揮系統などあり得ない。米国が先制攻撃の戦争に乗り出した時に、自衛隊も一緒に戦争することになる

首相 わが国独自の「統合防空ミサイル防衛」に日米同盟に基づいて協力を得る

志位 あなたがどう信じようと米軍は(融合運用という)方針を持っている

 志位 「自衛隊は独立指揮系統に従って行動する」とおっしゃいますが、「統合防空ミサイル防衛」で自衛隊が独立した指揮系統に従って行動することがありうるか。

 これは米空軍が発行している『航空宇宙作戦レビュー』(ASOR)という機関誌です。2022年の夏号です。米インド太平洋軍が進めている「IAMD構想2028」についての解説が載っております。公式の解説です。パネルをご覧ください(パネル6)。その要点を書き抜きました。

 第一に、インド太平洋軍の広大な管轄で「統合防空ミサイル防衛能力」を高めることは、米国単独では不可能であり、同盟国や友好国が絶対に重要だと書かれています。

 第二に、同盟国との協力のあり方は、「サイド・バイ・サイド――隣に並んでの統合」でなく、「シームレス――切れ目のない融合」が必要だと強調されています。「融合」――合金を意味する「アマルガム」という言葉も使っています。

 これはどういうことか。これまでの米国と同盟国との協力は、「サイド・バイ・サイド――隣に並んでの統合」だった。例えば、ノルマンディー上陸作戦では、それぞれの同盟国が、それぞれに上陸する海岸を受け持った。イラク戦争、アフガニスタン戦争の際にも、多国籍軍は各国の責任地域に分かれてたたかった。

 しかし、「統合防空ミサイル防衛」とはそういうものじゃないと書いてある。ここでは、米国と同盟国とは、「シームレス――切れ目のない融合」をしていくことが必要だ。「すべてのプレーヤー・コーチが、同じプレーブックを持ち、一緒に訓練し、一緒に作戦を実行し、敵からは一つのチームとして見られる」――そうした「シームレス――切れ目のない融合」こそが求められる。そのように米軍は強調しているんですよ。

 これが、米軍の「統合防空ミサイル防衛」の方針なんです。総理、あなたがいくら自衛隊は独自にやると言ったって、「シームレスな融合」が必要だと、これが米軍の方針なんです。自衛隊だけは、独立した指揮系統に従って行動するなんてことはあり得ない。あり得ない。どんな方針を持ったって、「シームレスな融合」と言っているんですからね。

 アメリカが、この方針に基づいて、先制攻撃の戦争に乗り出した時に、自衛隊も一緒に戦争することになる。つまり、憲法違反であるだけでなく、国連憲章と国際法に違反する無法な戦争に乗り出すことになる。どうですか。いかがですか。

 首相 文書は、さまざまな文書があり、さまざまな表現が行われているかとは思いますが、わが国は、再三申し上げているように、わが国のこの憲法と国際法と国内法に従って、専守防衛、非核三原則、この従来の、この原則をしっかり守りながら、こうした拡充される、その最新のこの、さまざまな装備を運用していく、こうした姿勢が国際社会から信用されるんだと思っています。

 アメリカのIAMDに参加する、こんなことはあり…ありえません。わが国独自のこの統合防空ミサイル防衛、これに日米同盟に基づいて協力を得る、これは当然、抑止力、対処力を向上させるために重要であると思っています。

 しかし、いずれにせよ、その中で行動するわが国の対応、これはわが国の存立が脅かされて、国民の生命や自由や幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に限られている、この武力行使の3要件、これをしっかり守って対応するんだということ、これをしっかりと、この繰り返し確認をし、国民の…あっ、国際社会に理解をしてもらうことこそ、わが国の信頼につながると信じております。

 志位 あなたがどう信じようと、米軍はこういう方針を持っている。だから自衛隊が単独で行動することはできないんです。

結果は、相手国の報復攻撃による国土の焦土化

志位 南西地域への敵基地攻撃兵器配備の動きのもと、沖縄では甚大な犠牲をこうむるとの強い批判の声があがっている

首相 南西地域の体制強化は、柱の一つだ

志位 「沖縄戦」では県民の4人に1人が亡くなった。歴史の教訓を踏まえよ

 志位 そして、それがもたらす結果は何か。報復攻撃による日本の国土の焦土化です。

 総理は、敵基地攻撃兵器の配備先を明らかにしておりませんが、「南西地域の防衛体制を強化する」ことを強調しておられます。

 大軍拡の最前線に立たされようとしている沖縄では、万一有事となったら甚大な犠牲をこうむるとして強い批判の声が上がっている。

 石垣市議会では、昨年12月に採択された意見書で、「ここにきて突然、市民への説明がないまま、他国の領土を直接攻撃するミサイル配備の動きに、市民の間で動揺が広がっており、今まで以上の緊張感を作りだし危機を呼び込むのではないかと心配の声は尽きない。石垣市議会は、『平和発信の島』、『平和を希求する島』との決意のもと議会活動しており、自ら戦争状態を引き起こすような反撃能力をもつ長射程ミサイルを石垣島に配備することを到底容認することはできない」

 総理、この声にどう答えますか。そういう心配をたくさんの方が持っているんです。どうですか。

 首相 あのー、わが国の防衛力の強化、存立危機事態をはじめとするさまざまなこの対応については、これはあくまでも武力行使の3要件をはじめ、わが国の原則に従って、わが国の原則に従って、この行使するものであり、このわが国の防衛のために行うものであり、そして国民の保護にもつながるものであると思っています。

 そして、さまざまな意見があること、これは丁寧におうかがいしていかなければならないと思いますが、このわが国のこの基本的な考え方、そして装備の運用のあり方、そして国際社会の理解を得る努力、こうしたものもしっかり示しながら、国民の理解をより深めていくことは重要だと思っています。

 そして、南西地域の防衛体制を強化すること、これは今回の防衛力強化の柱の一つであると思っています。

 こうした、あの、この考え方について、丁寧に沖縄県をはじめ地域のみなさま方にも説明を続けていきたいと考えています。

 志位 沖縄県民というのは、「沖縄戦」で4人に1人が亡くなったんです。その歴史の教訓を踏まえて言っている。

 そして、「日本を守るため」というけど、日本に対する武力攻撃がなくても、集団的自衛権の行使としても敵基地攻撃がやれるとあなた方が言っている。このような動きには私たちは断固反対です。

平和を望むならば平和の準備を

 志位 そして、私は、「戦争の準備をすれば、戦争になる確率が大きい。もし平和を望むならば、戦争を準備せよではない。平和を望むならば、平和を準備した方がいい」――この評論家の加藤周一さんの言葉を訴えて、終わりたいと思います。』

日本統治時代の朝鮮人徴用

日本統治時代の朝鮮人徴用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本統治時代の朝鮮人徴用(にほんとうちじだいのちょうせんじんちょうよう)は、第二次世界大戦中の日本統治時代の朝鮮において国策として日本政府により朝鮮人に対して1939年9月[1]より行われた労務動員に対する呼称。

朝鮮人に対する戦時動員は、軍要員の動員(兵力動員)と労務動員に大別され、軍要員の動員(兵力動員)は志願(1938-1943)、徴兵(1944-1945)の2形式で、労務動員は募集形式(「個別渡航」(1938-40)、「集団渡航」(1939-42)、「官斡旋」(1942-1945))[2]と徴用形式(1941年より「軍関係労務」、1944年9月より「一般徴用」)[3]、道内動員(道内官斡旋[注釈 1]、無償の勤労奉仕[注釈 2]、募集)などの形式で実施された。

動員形式の種類や形式ごとの動員数は時期により変動があるが、朝鮮半島の内部を動員先とする道内動員が最も多数を占めた[5]。

動員を受けた元労務者が、実際の形式にかかわらず「徴用された」と回顧する傾向が強く[6]、マスコミ報道などでは、募集形式による動員も含め、朝鮮半島に対する戦時動員を一律に「徴用」と呼称する慣行が広く行われている。

本記事も、記事名を「日本統治時代の朝鮮人徴用」とする。

概要

日本政府は1939年から毎年、日本人も含めた動員計画を立て閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め日本の行政機構が役割を担った。朝鮮半島に対する動員の形態は、時期により、軍要員の動員(兵力動員)は志願制から徴兵制へと変化し、労務動員は募集(「個別渡航」(1938-40),「集団渡航」(1939-42),「官斡旋」(1942-45))と徴用(「軍関係労務への徴用」(1941- ),「一般徴用」(1944-45))、道内動員(朝鮮半島内部への動員。「道内官斡旋」,「勤報隊(勤労報国隊)」,「募集」等)などが併用された。

朝鮮半島内部への動員がのべ約344万7千人、「内地」(日本本土)・「その他」(樺太・千島・南洋諸島等)への動員がのべ約53万8千人。別の数値や、数値をめぐる議論は後節を参照)を数えた。

上記の諸形式による動員の実態については、まだ未解明な点が多く、当事者の証言の収集と整理、史料の発掘と分析は現在も継続中である。現時点での主要な史料や証言、主な研究に見える諸見解については歴史・太平洋戦争期、労働現場の実態と事例、証言、人数・総数、歴史認識問題などの各節を参照。

戦時中の朝鮮半島における戦時動員のうち、軍要員の動員(兵力動員)を含まない労務動員は、朝鮮半島内部への動員が総数の70%?90%を占めた(→詳細は次節を参照)が、動員形式の種類を問わず、朝鮮半島の外部(「内地」>および「その他(樺太、千島列島、南洋諸島等)」)への動員を指す「強制連行」という表現が、1970年代から2000年代初頭にかけて盛んに使用され、現在もこの呼称の是非・妥当性について議論が続いている[7][8][9][10](→詳細は後節を参照)。

戦時中の朝鮮人に対する労務動員については、朝鮮人労働者移入という呼称を用いる論者も見られる[11]。

戦後、朝鮮人に対する戦時動員は歴史認識問題・歴史教科書問題、戦後補償問題として取り上げられてきた[12]。

朝鮮半島における戦時動員の諸形式と人数

本節では、朝鮮半島における戦時動員の諸形式とその動員人数について述べる[13][注釈 3]。統計数値は在外財産調査会,1948に依る。他の典拠に見える数値や人数をめぐる議論は「日本での調査・主張」節を参照。

朝鮮半島に対する戦時動員は、軍要員の動員(志願・徴兵)と労務動員に大別される。
軍要員の動員(兵力動員)

動員形式と人数は以下の通り。

朝鮮半島からの兵力動員[14] 陸軍特別志願兵 〃 海軍特別志願兵 〃 学徒志願兵 〃 小計 〃 徴兵 〃
志願者数 訓練所入所者 志願者数 訓練所入所者 学徒志願者 採用入隊数 志願者 採用数 陸軍 海軍 動員総数
1938 2,946 406 2,946 406 406
1939 12,528 613 12,528 613 613
1940 84,443 3,060 84,443 3,060 3,060
1941 144,743 3,208 144,743 3,208 3,208
1942 254,273 4,077 254,273 4,077 4,077

1943 303,294 6,300 1,000 3,366 3,117 306,660 10,417 11,193

1944 90,000 2,000 90,000 2,000 55,000 10,000 67,000
1945 – 55,000 10,000 65,000

「1944年以後の数は「予定或いは概数であり、実際に動員された数とは異なっている」[14]。

労務動員

動員先により、朝鮮半島を動員先とするものと、その他(内地(日本本土)や樺太・千島列島・南洋諸島など)を動員先とするものに大別される。

内地やその他の各地を動員先とする労務動員には、

募集
個別渡航(1938-40)
集団渡航(1939-42)
官斡旋(1942-45)
徴用
    軍関係労務への徴用; 1941年-
    一般徴用; 1944年9月-

などの形式がある[15]。

朝鮮半島を動員先とする労務動員の形式には募集・官斡旋・徴用・道内動員などがあり[16]、このうち道内動員が最大多数を占める。道内動員は、さらに

道内官斡旋
勤報隊(勤労報国隊)
募集

などに区分される。

以上の諸形式の中では、道内動員の勤報隊が最大多数(1944年で約192万人,この年の動員数の82%)を占めていた[17]。
朝鮮半島からの労務動員(動員形式別;1942年度 – 1944年度)[18] 動員先 動員形式 1942年度 % 1943年度 % 1944年度 %
朝鮮 官斡旋 49,030 9.4 58,924 6.7 76,617 2.6
〃 徴用 90 0.0 648 0.1 19,655 0.7
〃 軍要員 1,633 0.3 1,328 0.2 112,020 3.8
〃 道内動員 333,976 64.1 685,733 77.7 2,454,724 82.9
〃 小計 384,729 73.8 746,633 84.6 2,663,016 90.0
日本 官斡旋 115,815 22.2 125,955 14.3 85,243 2.9
〃 徴用 3,871 0.7 2,341 0.3 201,189 6.8
〃 軍要員 300 0.1 2,350 0.3 3,000 0.1
〃 小計 119,986 23.6 130,646 14.8 289,432 9.8
その他 軍要員 16,367 3.1 5,648 0.6 7,796 0.3
〃 徴用 135 0.0
〃 小計 16,502 3.2 5,648 0.6 7,796 0.3
小計 官斡旋 164,845 31.6 184,879 20.9 161,860 5.5
〃 徴用 4,096 0.8 2,989 0.3 220,844 7.5
〃 軍要員 18,300 3.5 9,326 1.1 122,816 4.1
〃 道内動員 333,976 64.1 685,733 77.7 2,454,724 82.9

  • 合計 521,217 100.0 882,927 100.0 2,960,244 100.0
    朝鮮半島外への労務動員(行先別)[19] 年度 当初計画数 石炭山 金属山 土建 工場他 合計
    1939 85,000 34,659 5,787 12,674 – 53,120
    1940 97,300 38,176 9,081 9,249 2,892 59,398
    1941 100,000 39,819 9,416 10,965 6,898 67,098
    1942 130,000 77,993 7,632 18,929 15,167 119,721
    1943 155,000 68,317 13,763 31,615 14,601 128,296
    1944 290,000 82,859 21,442 24,376 57,755 286,432
    1945 50,000 797 229 836 8,760 10,622
    907,300 342,620 67,350 108,644 206,073 724,687
    道内動員の内訳(動員形式別)[17] 1944年
    道内官斡旋 492,131
    勤報隊 1,925,272
    募集 37,321
    合計 2,454,724
    概念・定義
    戦時動員の諸形式についての概念・定義
    [icon]
    この節の加筆が望まれています。
    軍要員の動員(兵力動員) 軍要員[20]
    志願
    徴兵

労務動員

募集
    個別渡航(1938-40):内地の事業者が朝鮮半島において人員を募集することを解禁、企業は個別に募集・選考を行い、採用者は個別に内地へ渡航[2]
    集団渡航(1939-42):内地の事業者が朝鮮半島において「募集・選考・自社の事業所への移送」までを一括して行う[3]
    官斡旋(1942-45):朝鮮総督府が半島内の地方自治体に人数を割り当て、募集・選考・動員先の内地事業所への移送までを一括担当して実施[3]
徴用
    軍関係労務への徴用;1941月?[3]
    一般徴用;1944年9月?[3]
道内動員[21];朝鮮半島の13道内の動員先へ配属
    道内官斡旋:朝鮮総督府が半島内の地方自治体に人数を割り当て、募集・選考・配属までを一括担当[注釈 4][22]。
    勤報隊(勤労報国隊):1941年12月、国民勤労報国協力令に基づき、勤労奉仕隊を改組して、日本領の全域で発足。学校・職場ごとに、14歳以上40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の独身女性を対象として組織され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された。1945年3月、国民義勇隊に改組されて廃止。
    募集

歴史

明治時代の朝鮮人渡航

1876年(明治9年)、日朝修好条規が結ばれ、朝鮮が開国すると1880年、金弘集らが第二次朝鮮通信使として来日、東京に朝鮮公使館が設置される。その後、留学生や亡命者などが入国し始める(朴泳孝、金玉均、宋秉畯、李光洙など)。また、韓国併合以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた[23]。

韓国併合以降

「韓国併合」および「日本統治時代の朝鮮」を参照

1910年の韓国併合以降、渡航する朝鮮人は急増し、内務省警保局統計によれば1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していた[23]。

併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で[24]、単身者が多い出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せ家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた[23]。

河宗文によれば、「日本政府は朝鮮人の渡航を抑制したり受容したりしながら、朝鮮人労働者を日本資本の差別的構造の中に編入させて行った」とする[25][26]。

当時、日本での朝鮮人の生活は劣悪なもので川辺や湿地帯に集落を造り、賃金も日本人の約半分であったとされる[27]。

それでも当時の朝鮮国内の賃金と比較すると破格の高収入だった。朝鮮人の朴代議士によると1933年当時、年間約5万人の朝鮮人が日本で増加して問題になっていた[28]。

移入制限と解除

1919年4月には朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により日本への移民が制限され、1925年10月にも渡航制限を実施したが、1928年には移民数が増加した。朝鮮では1929年から続いた水害や干害によって、国外に移住を余儀なくさせられる者が増えた[29][30]。

1934年10月30日、岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化する[31]。

日中戦争期

労務動員計画

「労務動員計画」を参照

1937年に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した[26][32]。

1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された(朝鮮では1944年9月から実施[1])。

同じ1939年7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった[26][33]。

1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた[34]。

水野直樹はこの当時、「募集方式の段階から会社・事業所の募集は行政機関、警察の支援を得ていた」としている[34]。

山口公一[35] もまた「1939年に開始される朝鮮人強制連行は戦争の長期化によって日本の労働力不足が深刻化すると同時に朝鮮内での軍需工業の拡張にともない、朝鮮人を労働力として強制的に動員するためのものであった」と説明している。

山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、1) 1939年1月からの「募集形式」、2) 1942年からの「官斡旋方式」、3) 1944年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[36][37]。

1940年、日本政府は日本工場の労働需給の調整と、朝鮮の技術水準の向上を目的とした「朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件」を発信し、「労働者の朝鮮への往路旅費および帰郷旅費は雇用主が負担」「雇用主は朝鮮の技術向上を目的に必要な知識・技能を授ける事」「雇用主は徳を養う事」「雇用期間は5年以内」などの条件を日本陸軍に通達した[38]。

住友鉱業の1939年9月22日付「半島人移入雇用に関する件」では、総督府は、労務者動員計画遂行に協力すること、旱魃による救済のため、内地移住につき積極的援助をなすとあり、募集の実務は「朝鮮官権によって各道各郡各面に於いて強制供出する手筈になつて居る、即ち警察に於て割当数を必ず集める之を各社の募集従事者が詮衡(選考)することになって居る」と書かれていた[39]。

国民徴用令の施行は1939年7月であるが、朝鮮では全面的発動をさけ1941年に軍関係の労務に徴用令を適用している[40]。

1941年から1945年までに朝鮮から日本内地へ動員された軍関係の徴用労務者数は6万2784人である[41]。日本内地で働いていた朝鮮人労務者には、1942年10月から一部に徴用令を発動し軍属として採用稼働されていた。1944年9月以降は、朝鮮から送り出される新規労務者に一般徴用が実施された[40]。

満州国三江省

また、1940年12月の関東軍通化憲兵隊の報告によれば、満州国三江省の鶴岡炭鉱における募集では、苦力募集をしたが、人が集まらなかったので「強制募集」をし、140人の内15人が逃亡したと記録がある[42]。

1942年3月、朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集が開始された(細かな地域ごとに人数を割り当て)。

国民総力朝鮮連盟と愛国班

1940年に朝鮮では国民総力朝鮮連盟が組織された。庵逧由香は、「日中戦争を契機に、中央連盟ー地方連盟と学校、職場の各種連盟ー愛国班による二重の組織化・統制が朝鮮民衆を戦争動員に引き入れて行った」としている[43]。また愛国班に参加を強制した女性動員の実情については、樋口雄一が「特に農村部の女性動員は、流出した男子労働力の補充と食料増産の構造の中で行われた」と指摘している[44]。

太平洋戦争期

1941年12月8日、日本とイギリス、アメリカ、オーストラリアなどとの太平洋戦争が開始する。

朝鮮人の戦時徴用(1944年 – 1945年)

朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は『大陸東洋経済』1943年12月1日号での「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」において、『従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこで官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています』と述べている[45]。

1944年9月、日本政府は国民徴用令による戦時徴用を朝鮮半島でも開始し、1945年3月までの7か月間実施された。1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かったともいわれる[26]。『朝鮮人強制連行論文集成』に記録されている証言では、徴用令には召集令状と同じ重みがあったこと、北海道や樺太、九州の炭鉱に面(村)で500人徴用されたという[46]。

1944年4月13日付の朝鮮総督府官報 第五一五五号 (四)労務動員ニ就テ

1944年4月13日付の朝鮮総督府官報に載った、政務総監(総督の次席にあたる高官)田中武雄の訓示には次のように、

『国民動員計画に基く内地その他の地域に対する産業要員および軍要員の送出また激増を来し、今日なお相当弾力性を有する半島の人力が我が国戦力増強上最大の鍵となって居るのであります。…(中略)…官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関もまた概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません』

自由意志が守られるはずの官斡旋だが、実情は自由意志を無視した強制供出が行われていたと書かれている[47]。

1944年5月霊光郡での事例

1944年5月31日付の、北海道炭礦汽船株式会社の霊光郡送出責任者が釜山の駐在員に宛てた書簡では、霊光郡において「集合日指定時間内に120名割当に対し参集せる者36名よりなく(之れも面にて強制的に連行せるもの)」、このため「郡庁職員9名警察署高等経済係員及面職員を総動員、寝込みを襲ひ或は田畑に稼動中の者を有無を言はせず連行する等相当無理なる方法を講し」て動員対象者を確保し、また「万一割当責任数供出不能の場合は理事長の自己の家族中より適任者を送出するか或は本人出動する様、郡、警察、面長等より夫々申渡しを」するなどの措置をとって動員対象者の確保に努めていた。だが、この段階ではそのような強硬な手段を以ってしても十分な人員は集められず、「郡庁迄連行中逃走せしもの或は宿舎にて逃走せるもの等簇生又は不具者或は老人(息子逃走身代りとして父親を連行せる者)病人等多数あり」、しかも、「送出に無理せりたる為家族等と郡職員及面職員との間に大乱闘あり労務主任、次席等は顔面其他を殴打され負傷する等の騒ぎあり」というような事態を現出させていたことが書簡に記されていた[48]。

外村大は「地方組織や警察などを通じての動員」と「密航や縁故渡航による渡航」では、働く場所や条件が違っていたと記述する。「朝鮮人労働者を希望した炭鉱の経営者など」は「劣悪な労働条件でも働いてくれる人材を調達するため」朝鮮にそれを求めたがやがて集まらなくなった。そこで「寝込みを襲ひ或は田畑に稼働中の者を有無を言はさず連行する等相当無理なる方法」を講し、徴用令の令状を交付した。ゆえに朝鮮において国民徴用令の発動が遅かったのは「“より寛大な方法”での動員が続いていたのではなく」「要員確保の実態は日本内地での徴用よりも厳しいものであった」と書いている[49]。

内務省復命書

1944年7月31日付、内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された復命書[50] では「民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ」とある[51]。また「…然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であろうか、一言を以って之を言うならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない。朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である…」[52]、「徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである」と記録されている[53]。

この復命書について、元朝鮮総督府高級官僚であった大師堂経慰は「この報告は朝鮮総督府への要求を緩和させるための、陳情の目的もあった事を理解して頂きたい」「これは朝鮮全体として見ると、決して一般的ではなかった。地方地方で事情が異なっており、各人により対応が異なっていた」と語っている[54]。

千葉県東金警察署長の報告書

終戦直後の1945年9月28日付の千葉県東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」では、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きでしかも自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた」「朝鮮人も日本人である以上大東亜戦争をして有終の美を得せしむべく不可能なる労働を可能ならしめ戦力の増強に寄与したる点は内地人に劣らざる」と書いている[55]。

労働現場の実態と事例

労働環境
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この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2015年10月)

山口公一は「動員された強制労働は過酷を極め、炭鉱労働者の場合はたこ部屋に入れられ、12時間を超える平均労働時間、生命の危険が多い炭鉱夫への配置がなされ、実際に死亡率が高かった。また、賃金は日本人の半分程度であり、強制貯金と労務係のピンハネの結果、手元には残らなかった」と主張している[56]。

西岡力は朝鮮人徴用工自身が書いた手記を元に、朝鮮人徴用工の待遇は良かったとしている[57]。1944年12月に広島市の東洋工業に徴用されたある徴用工は、月給140円という高給を受け、なまこやあわびを食べ酒を飲んで宴会をするなど食生活も豊かだった。工場勤務も厳しいノルマなどなく、日本人の女工達と楽しく過ごしていた。夜には寄宿舎から外出して、日本人の戦争未亡人と愛人関係になっていた[58]。また、1945年3月に大阪府の吉年可?鋳鉄工場に徴用された別の徴用工は、徴用工の隊長とケンカで殴り合いを繰り返し、宿場を抜け出し鉄道で東京の立川へ行き、「自由労働者」として働いた。朝鮮人の親方の飯場で雇われ、半日仕事で日給15円もらった。仕事を休み東京見物もしていた。さらに別の飯場に移ると日給20円に上がった[59]。

また、韓国の落星台研究所イ・ウヨン研究員は、当時の炭坑の賃金台帳を元に朝鮮人炭鉱労働者の賃金が朝鮮半島で働く教員の4.2倍にもなる炭坑もあったとし、また他の職に就く日本人に比べても賃金面で優遇されていたとしており、韓国の映画などで「やせ細った朝鮮人労働者」のイメージが広がっているが「当時の写真を見れば健康で壮健堂々としていた」としている[60]。

ジャーナリストの赤石晋一郎は韓国で複数の元徴用工に取材し、韓国内で流布されている被害者像とは異なる証言を得た。福岡県飯塚市の三菱炭鉱で働いていた崔漢永は「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。」「朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。」と語った[61]。20歳のときに佐賀県の造船所へ徴用された金炳鐵は、食料事情が厳しかった戦争末期も日本人と同じ食事が支給されていたと語っている。金は「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。」と語っている[61]。同郷だった姜彩九と孫義奉は10代の頃に徴用され、大阪の鉄工所で働いていたが、孫は「日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。」と語った。姜は「仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」と語った。日本本土への空襲が酷くなった1945年以降は工員は散り散りとなり、姜は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた[61]。

松代大本営建設における徴用

1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった[62]。「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた[63]。飯島滋明はその労働は過酷であったとし[64]、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められた主張している[65]。李性国、李浩根、李性欽は「松代」で働いていた朝鮮人は給金がもらえ、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と主張している[66]。飯島は「その生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいた」と主張している[67]。また、「朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある[68][69]。林えいだいは「天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害された」と主張している[70]。

逃亡例

特別高等警察の記録[71] でも「移入朝鮮人労働者」による多くの逃亡があったとされている[72][73]。日本内地に動員された朝鮮人労務者の逃走者総数は22万6497人である。内訳は、募集時7万8181人、官斡旋及び徴用時14万8316人。これら逃走者で発見送還された者4121人、職場復帰した者1万2626人、所在不明者は20万9750人に上った[74]。

1944年の福岡県飯塚市住友鉱業所における労務斡旋と逃亡の事例は次のようなものだった。

福岡県飯塚市住友鉱業所に於ては、五月二十四日朝鮮総督府より朝鮮労務者72名の斡旋を受け、同所労務補導員にて引率鉱山到着までの間に於て内54名は逃走所在不明となり、又、同県粕屋郡志免町所在九州鉱業所の於いても五月二七日朝鮮総督府より朝鮮人労務者37名の斡旋を受け労務補導員2名にて引率鉱山到着までの間に於て、内36名逃走所在不明となりたる事案発生せり[75]。

山口公一は、1940年代の九州筑豊炭田地帯では全労働者の30 – 50%が朝鮮人労働者であったが、40%以上が逃亡したと言う[37]。

君島和彦は「こうした戦時強制連行については、抵抗運動があった」と書き、遠藤公司の『戦時下の朝鮮人労働者連行政策の展開と労資関係』[76] や山田昭次の『朝鮮人強制連行研究をめぐる若干の問題』[77] を参考文献に挙げている[78]。

証言

朝鮮総督府関係者の証言

鎌田澤一郎の証言

宇垣一成が朝鮮総督を務めた時代(1927-1936年)に政策顧問を務め、同時に韓国統監府の機関紙である京城日報社の社長も務めた鎌田澤一郎は著書『朝鮮新話』1950年において、南次郎が朝鮮総督であった時代(1936-1942年)の労務者の強制的な徴募方法について、

もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。

と証言している[79][80]。

ただし、鄭大均によれば、鎌田の証言は朴慶植など強制連行論者によく引用されてきたが、証言中の「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」という朝鮮人官僚が実行したという箇所について引用されることはまずないと指摘している[80]。

朝鮮総督府に勤務し、戦後法務省入国管理局総務課で勤めた森田芳夫は、1939年から1945年の労務動員について「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」と説明している[81]。

労務者の証言

強制性の証言

崔亮鎬の証言では、兵隊や憲兵による「片っ端」徴集がなされたので面長や面役所の募集係は断り切れなかったという[46]。

うちの面に徴用令が来ると、人間がいないから出せませんじゃすまされなかった。徴用令は軍隊の召集令状と同じ重みがありましたからね。面役所のほうでぐずぐずしていると、兵隊とか憲兵を連れて来て、畑の中で仕事をしていようと、道を通っていようと片っ端でね。面の募集係も巡査も、どこの部落に何人の働き手がおる、どこの家には誰と誰がおるとか、手にとるように分かっていますからね。徴用令が来ても、うちの面にはやるだけの人間がもうおらんからと、嘘のことをいうて追い返すが、そういつまでも駆け引きはできん。病気の両親がおるとか、子供や女房が体が弱いとか、行かれない事情が、それぞれありましたよ。最後には、もうそんなことは理由にはならない。子供であろうと年寄りであろうと無差別でしたから。命令ですから反対はできん。 強制して恨まれるのは面長とか、面役所の募集係でね。結局、もう村の人に顔が立たんから、面役所の何人かは、引率隊長として自分から志願して行きました。北海道や樺太の炭鉱、それに九州の炭鉱よ。うちの面は一二〇〇戸あって、五〇〇人徴用で行きましたからね。炭鉱で亡くなったら名誉の戦死だ。お国のために働いて死んで嬉しいと、心にもないことをいわんといけんやった。日本が戦争勝つために朝鮮人が死ぬる理由なんか一つもありませんからね。(中略)男がごっそり徴用にとられてから、子供ができんで、うちの面では急に人口が減りましてねえ」

徴用志願者による証言

戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬は、当時1,000名の鉱夫募集に対して7,000人の応募者が殺到したために1,000人が選考試験を受けたこと、「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言している[82]。

また、崔基鎬は北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判し、さらに北朝鮮が「日帝に強制連行されたのは750万人」と主張したのを「でたらめ」であるとして、その理由を、当時徴用に応募した者は南朝鮮出身者であったし、北朝鮮地域出身者は1%にも満たないし、大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史調査」では1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人であると反論している[83]。また北朝鮮と朝鮮総連は「強制連行と主張するが、強制連行か、志願か、または徴用に対する応募であったかは、主観的判断による」「国民徴用令に基づく徴用、または挺身隊の志願者が多かったのは明白な事実であって、それらすべてを強制的に連行したというのはおかしい」と批判している[84]。また、崔基鎬は、自身の徴用志願の体験を韓国の学者に語っても、その学者は「新聞で読んだ話は正反対」だとして、知人の実体験に基づく証言よりも、新聞の宣伝を信用するのであると述べている[85]。

人数・総数

当時の在日朝鮮人の全人口

1959年7月1日の韓国政府見解では在日韓人は1939年に961,591人、1944年に1,936,843人[86]。1959年(昭和34年)7月11日の日本外務省発表では在日朝鮮人の総数は1939年末で約100万人。1945年終戦直前には約200万人とした[87][88]。

法務省入国管理局「終戦前における在日朝鮮人人口の推移」によると、労務動員計画が開始された1939年の在日朝鮮人の人口は96万1591人、1940年119万444人、1941年146万9230人、官斡旋による動員が開始された1942年は162万5054人、1943年188万2456人、1944年9月から朝鮮全土で国民徴用令による動員が開始されたこの年の人口は193万6843人[89]。他方、1944年当時の朝鮮における総人口は2591万7881人であり、このうち内地人は71万2583人であった[90]。

法政大学大原社会問題研究所によれば、終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人[91]。また朝鮮人強制連行真相調査団は、2,365,263人だとする[92]。

日本での調査・主張

朝鮮人の労務動員の総数については、政府調査でも確定しておらず、研究者間でも様々な見解がある。

日本への労務動員数としては、

1945年9月の厚生省勤労局「朝鮮人集団移入状況調」で66万7684人とある[93]。この厚生省調査については、日韓両政府が採用している[1][93][94][95]。韓国政府は1961年12月21日の日韓会談で動員数に関する資料「被徴用者数」を提出し[95]、労務者または軍人軍属として日本に強制徴用された韓国人が、その徴用により蒙った被害に対し補償を請求するものであるとし次のように主張した。「太平洋戦争前後を通じ日本に強制徴用されたものは、労務者66万7684人、軍人軍属36万5000人、計103万2684人で、うち労務者1万9603人、軍人軍属8万3000人、計10万2603人が死亡または負傷した。これらにつき、生存者単価200ドル、計1億8600万ドル、死亡者単価1650ドル、計1億2800万ドル、負傷者単価2000ドル、計5000万ドル、総計3億6400万ドルを請求する」[96]。死者数については、労務者1万2603人、軍人軍属6万5000人としている[95]。また韓国政府は被徴用者(軍人軍属を含む)の未払い賃金等の未収金として2億3700万円を請求した[97]。一方、日本政府は1962年2月13日の日韓会談で「朝鮮関係軍人軍属数」を提出[98]、1962年2月23日に「集団移入朝鮮人労務者数」を提出した[1]。労務動員数については、自由募集(1939年9月~1942年2月)14万8549人、官斡旋(1942年2月~1944年8月)約32万人、国民徴用(1944年9月~1945年4月頃)約20万人、総数66万7684人との数値を提示した[1][99]。1939年から1945年までに期間満了で帰還したもの(5万2108人)、不良送還(1万5801人)、逃亡(22万6497人)、死亡・病気・転出等(4万6306人)を除外すれば、終戦時現在数は32万2890人としている[1][100][101]。これらの数値は朝鮮半島から日本内地へ動員された労務動員数であり、朝鮮半島内・樺太・南洋占領地等に動員された朝鮮人労務者は対象外となった。朝鮮人の労務動員について外務省は、「同統計[102]によると、昭和14年から昭和20年までに朝鮮総督府が送り出した朝鮮人労務者数は725,000名[102]であるが、同数は強制度の殆んど加わらなかった自由募集、強制徴用の徴用、およびその中間の官斡旋の三者を含む」としている[100]。また朝鮮から日本内地への移入数について「厚生省勤労局の移入朝鮮人労務者勤労状況報告なるものの昭和19年3月分が存在し、それまでの移入労務者数を、392,997名と記録している。他方、同じく厚生省資料と思われる昭和19年度(但し20年2月まで)朝鮮人労務者移入状況調(当課、森田事務官所有)によれば、昭和19年度の移入総数は254,397名であり、前記労働省資料と合計すれば、昭和20年2月までの労働者移入総数は大体64万程度[41]となり、同年3月より8月の終戦までの移入数を適当に推定すれば終戦までの移入総数は65万ないし70万程度[41]と推定される。上記移入総数は、前記総督府の資料[100][102]である送り出し労務者数725,000名とも大差のないものである。(送り出し総数が日本の移入総数より多数なのは輸送途次の逃亡者の多かったこと、および日本以外の南洋、樺太等に送り出されたものが移入数には入っていないこと等に基因するものと思われる。)またこの意味では昨年末請求権委員会で、韓国側の提示した移入労務者667,684名の数値も必ずしも不正確とはいえないものの如くである」との見解であった[100]。日本政府が主張した朝鮮人軍人軍属数は、陸軍(復員13万4512人、死亡8861人)14万3373人、海軍(復員8万5647人、死亡1万3321人)9万8968人、総計24万2341人としている[98]。被徴用者に対する韓国政府の請求について日本政府は、「被徴用韓人未収金」については、原則「支払う方針とする」とし、「被徴用韓人補償金」については、「徴用自体は、わが国内法上不当ではなく日本人にも徴用したことに対する補償金は支払っていないから、かかる請求は拒否する。(ただし、特別の配慮として引揚者に準じた見舞金の支払は、考慮の余地ありという考え方も一部にあった。)」との見解であった[100][103]。
1947年頃に書かれた大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(通巻第10冊:朝鮮編第9分冊)では日本への労務動員数は72万4787人とある[93]。また、朝鮮内外での国民徴用数を約27万人、現員徴用者は約26万145人、朝鮮内の官斡旋数は約42万人、軍要員は約15万人。
1959年(昭和34年)7月11日の外務省発表では、1939年末から1945年終戦までに増加した在日朝鮮人約100万人のうち、約70万人は自発的渡航と出生による自然増加、残り30万人の大部分は仕事の募集に応じて自由契約にもとづいたものと報告した[87][88]。また、終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げ(1946年までに約148万人が韓国に、1947年の北朝鮮引揚計画では350人が帰還)、残る約42万人は自由意思で日本に残留したのであり、1959年時点で在日朝鮮人約61万1085人のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人と報告した[87][88][104]。

軍務動員については、

厚生省援護局「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」(1962年)に24万2341人とある[93]。
1953年の法務省入国管理局総務課「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」では25万7404人、同「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」に10万6782人とあることから、強制動員真相究明ネットワーク(代表飛田雄一、上杉聡、内海愛子)では合計36万人4186人としている[93]。
日韓会談で日韓双方が主張した軍人軍属数は、韓国政府主張36万5000人[95]、日本政府主張24万2341人[98]であった。

様々な見解

森田芳夫は1955年の著書『在日朝鮮人処遇の推移と現状』で、昭和14年以来の約60万の動員労務者中、逃亡・所在不明が約22万、期間満了帰鮮者,不良送還者その他をのぞくと事業場現在数は動員労務者の半数にもみたなかった」と書いており[105][40]、これに従えば約30万未満となる。

1974年の法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年から1944年の間で1万4514人とされ、同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった[106]。

「(強制連行について)日本政府は、72万人としている」と水野直樹は書いている[107]。ただし、日本政府は公式に72万人と計算を公表していない。
角川書店『角川新版日本史辞典』(1997年)では朝鮮人動員数は「72万人とも150万人とも」と書かれている(中国人は約4万人)[108]。
西岡力は終戦時の在日朝鮮人は約200万人であり、1939年(昭和14年)からの朝鮮人内地移送計画によって終戦までに増加した120万人のうち戦時動員労働者が32万人、計画期間中に自発的に日本へ渡航した朝鮮人労働者とその家族が63万人、官斡旋・徴用で渡航した後に現場から逃走し自由労働者となった者が25万人であると述べている[109]。

80万説
山口公一は、日本や樺太、アジア太平洋地域などへの強制連行は約80万人だが、朝鮮内への動員もなされており、合計485万人に達すると主張している[37]。2014年、強制連行研究者の竹内康人が韓国の新聞聯合ニュースに報告したところによれば、内務省警保局理事官の種村一男の資料から、1939年度から1944年9月までに朝鮮人59万9306人を労務動員の名目で「強制連行」したことが判明した[110]。その内訳は1939年度が7万9660人、1940年度が8万7133人、1941年度が7万5155人、1942年度が12万2262人、1943年度が11万7943人、1944年度4月?9月が11万7152人(以上合計59万9305人)で、これに1944年?1945年に動員30万人の推計を計算すると、約80万人となるとした[110]。これまでの説では66?72万人であったが、それには縁故募集は含まれていなかったとした[110]。

在日韓国人による調査

在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを-我々の歴史を取り戻す運動報告書 –』では、渡日理由について、在日一世1106名から聞き取り調査し、「徴兵・徴用13.3%」「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」となっている(1,106名のうち、渡航時12歳未満だった者は回答に含まず)[111]。
韓国における主張

在日韓僑について李承晩政権は、「300万人が帰国したが、まだ60万人が残っている」として「彼らに正当な権利を与えるべきだ」と主張した[112]。

李承晩政権は1959年7月1日に「在日韓人の北送問題に対する政府の立場」で、1905年から1945年にかけて約200万人の韓国人が日本移住を強要され、1942年から1945年だけでも約52万人が強制労役に従事した。戦後約134万が送還されたが、約65万人が日本に残ったと主張した[86]。日本の外務省はこれに反論した(後述)[87][88]。

大韓民国国定教科書では、650万人の朝鮮人が強制的に動員され、数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされたと記載された[113]。しかし、李栄薫ソウル大学教授は1940年当時の20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人で、16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であるため、この数値は虚構であり、日本帝国による被害が誇張されていると批判した[113][114][115]。
北朝鮮における主張

2002年の日朝首脳会談後、北朝鮮の朝鮮労働党機関誌「労働新聞」は2003年1月31日記事で、強制連行された朝鮮人は840万人と新調査で解明されたと報道した[116]。

また朝鮮新報2003年2月4日記事では、「強制徴兵者」の数は陸軍(志願兵)が1万7664人、陸海軍(徴兵)が24万847人、学徒兵が4385人、陸海軍(軍属)が15万4186、強制徴用者の総数は778万4839人で、これに日本軍慰安婦20万人[117] を足して840万人と計算された[118]。同記事では日本が朝鮮を占領した当初から朝鮮人を野蛮な方法で抑圧、搾取し、さらに朝鮮人労働者に「中世期的な奴隷労働」を強要したことは「類例のない非人間的で反人倫的な犯罪」「人類史に前例のない最大、最悪のもの」「想像を絶する悪行」であると批判した[118]。具体的には朝鮮人労働者は一日に14-16時間の労働を強いられた、朝鮮の青年を戦場で弾除けにした、朝鮮人女性を手当たり次第、慰安婦として連行して性奴隷の生活を強要したと述べた[118]。2005年4月の国連人権委員会でも北朝鮮は同様の主張をした[113][114][119][120]。

こうした北朝鮮の主張について李栄薫は虚構とした[113][114]。

戦後

終戦時の帰国状況

韓国併合の翌年(1911年)、内地在留の朝鮮人は2527人にすぎなかったが、大正中期以後朝鮮における人口増加、鉱工業未発達等のため、低賃金労働者として日本内地に移住する者が増加した。1926年(昭和元年)の在留朝鮮人の人口は14万3798人であったが、1934年に53万7695人、1938年には79万9878人に増加した[89]。さらに、第二次世界大戦中、徴用などの労務動員により著しく増加し、朝鮮で官斡旋による労務動員が開始された1942年には162万5054人に増加し[89]、1945年の終戦時には200万人を超えていたとされている[121]。終戦後、日本が連合国の占領下に置かれてから間もなく集団的な引揚げが開始され、1946年3月末までに一挙に約140万人が内地から南鮮(韓国)に引揚げた[104][122]。次いで、日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)の指令に基づき、1946年3月に残留朝鮮人全員約65万人について帰還希望者の有無を調査したが、その結果、朝鮮への帰還希望者は約50万人であった。しかし、朝鮮は北緯38度線を境に国土が二分され経済再建が思わしくなく、生活の見通しも立たないことから帰還した者は約8万人にすぎず、1950年に勃発した朝鮮戦争により引揚げは事実上終了した。韓国政府発表によれば、1949年末までに正式登録された引揚者数は141万4258人としている[123]。北鮮(北朝鮮)への引揚げは、佐世保より1947年3月に233人、6月に118人、計351人が帰還した[124]。1946年6月、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書「日本への不法入国の抑制」により不法入国者の収容所が設けられ、以後1950年11月までに第二次世界大戦後の不法入国者約4万6000人が南鮮(韓国)に送還されている[125]。1950年10月に出入国管理庁が設立され、1950年12月から日本の出入国管理法令に基づいて強制送還業務が実施されるようになり、これ以後1964年までに大村入国者収容所・川崎入国者収容所浜松分室に収容中の第二次世界大戦後の不法入国者や刑余者など2万2192人が韓国に強制送還された[126]。1959年12月からは北朝鮮への帰還事業が実施され、1984年までに9万3340人(日本人、中国人、国内仮放免中の朝鮮人を含む)が北朝鮮に帰還している[127][128][129][130]。法務省統計によれば、1952年から1964年までに帰化(日本国籍取得)した朝鮮人は3万3897人と記録されている[131]。1964年4月1日現在、在留朝鮮人の総数は57万8572人であった[132]。

朴慶植によれば、日本の敗戦によって強制労働させられていた朝鮮人労働者は先を争って帰国した[133]。ノンフィクション作家の金賛汀は1945年8月15日を「強制連行、強制労働からの解放の日」であったとした[134]。金はさらに「すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ」が、「日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人が集結することを禁止した。(中略)事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。」「強制連行者の多くは、この時期に帰国した」と書いている[134]。金賛汀はまた、帰国する朝鮮人の未払い賃金を、朝鮮総連が各企業に請求して徴収したが、そのほとんどは労働者個人には渡らず、朝鮮総連の活動資金となり、また朝鮮総連から日本共産党にも渡された、と述べている[135]。

在日朝鮮人帰還事業と強制連行論

詳細は「在日朝鮮人の帰還事業」を参照

朝鮮戦争休戦後、1959年から北朝鮮への在日朝鮮人の帰還事業が推進されるようになった。これに対して韓国は「北送」として抗議した[136]。外務省は朝鮮人渡来等に関する外務省発表(1959)を発表した[136]。

韓国による強制連行論

李承晩政権は1959年7月1日に「在日韓人の北送問題に対する政府の立場」で、日本政府に対して以下のことを主張した[137]

「日本が植民地として韓国を占領した1905年から1945年の期間中、約200万人の韓国人が日本に移住することを強要された」
「1942年から1945年に至る間でだけでも約52万人の韓国人が日本に連れて行かれ、軍需工場で強制労役に従事した。」
「1939年に961,591人だった彼ら在日韓人は、1944年には1,936,843人に増加した。1945年日本が降伏した後約134万名の韓国人が現在の大韓民国の地に送還されたが、彼らは過去数年間の強制労働の代価や財産上の損失、または彼らが受けて来た不当な待遇に対して何の補償も受けられないで送還されたので、残る約65万人の韓国人は日本に残る道を選んだ」。
「在日韓人は移住を強要され、また強制労働者として利用されただけでなく、日本で出生した日本人と同等の地位を付与しなかったのに、日本は彼らを日本国民として看做した」「1952年日本が独立を回復した後に、彼らは特別に優待されなければならなかったのにも拘わらず、日本政府は却って雇用、教育、厚生、法律適用、一般社会生活その他、すべての面でわざと差別待遇をした」
「日本は1923年の東京大震災の時、数十万の韓国人を大量虐殺した」
「罪名も裁判もなく、またいつ釈放されるという希望も与えず、数多くの韓国人を強制収容所に閉じ込めて置いた」

日本外務省による反論

このような「現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるという主張」に対する反論として、外務省は1959年(昭和34年)7月11日に「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」を発表した[87][88]。この朝鮮人渡来等に関する外務省発表では「第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する」と明記され、実情として以下のことが記載されている[88]。

1939年末日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人。1945年終戦直前には約200万人に達した。この間に増加した約100万人のうち、約70万人は「自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加による」。「残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したもの」であった[87][88]。
元来、国民徴用令は朝鮮人(当時は日本国民)のみに限らず、日本国民全般を対象としたもので、日本内地では1939年7月に施行されたが、「朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施」され、1945年3月(関釜間の運航が杜絶したため)までの短期間であった[87][88]。
終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げた。

1945年8月から1946年3月までに、帰国を希望する朝鮮人は日本政府の配船によつて、約90万人、個別的引揚げで約50万人、計約140万人が朝鮮へ引揚げ、また復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた[87][88]。
1946年3月、連合国最高司令官の指令に基づき残留朝鮮人約65万人について帰還希望の有無を調査。帰還希望者は約50万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものは約8万人にすぎず、「残余のものは自から日本に残る途をえらんだ」[87][88]。
1946年3月の米ソ協定、1947年3月連合国最高司令官の指令により北朝鮮引揚計画がたてられ、約1万人が申し込んだが、実際に帰還したのは350人だった。
朝鮮戦争中は朝鮮南北いずれへの帰還も行わなかつた。休戦成立後南鮮へは1958年末までに数千人が南鮮へ引揚げた。

北朝鮮へは香港経由等で数十人が、自費で「北鮮へ引揚げたのではないかと思われる」[87][88]。

このように記載したあと、「こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である」とし、1959年時点での在日朝鮮人の総数は約61万で、外国人登録票について調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきたものは245人であったとした[87][88]。さらに、「終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記245人を含みみな自分の自由意志によつて日本に留まつた者また日本生れのものである。したがつて現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もない」と結論した[87][88]。

1959年の在日朝鮮人の来住特別内訳表[87][88]。

登録在日朝鮮人総数 611,085人

所在不明 13,898人(1956年8月1日以降登録未切替)
居住地の明らかなもの 597,187人
    終戦前からの在留者 388,359人
        1939年8月以前に来住したもの 107,996人
        1938年9月1日から1945年8月15日までの間に来住したもの 35,016人
        来住時不明のもの 72,036人
        終戦前の日本生れ 173,311人
    終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人

外務省発表への批判

外務省の見解については発表直後から在日コリアンによって批判された[136]。朝日新聞1959年7月14日記事によれば、朝鮮総連が具体的な数字を挙げて反論の声明を出した[136]。

朴慶植[138] は、外務省発表が史実に目を向けていないことに大きな憤りを感じて事実発掘の研究をはじめ[139]、1965年『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を発表した。この本は、強制連行という言葉が広がるきっかけになった[138]。朴によれば、朝鮮人の強制連行は日本政府企画院が策定した「労務動員計画」に基づき実施された。朝鮮人に対しては1944年8月まで内地(日本)人と異なり国民徴用令は適用されなかったが[140]、「企業による募集形式で強制連行された」と指摘している[141]:50。鄭大均首都大学東京教授によれば、朴慶植によって初めて「強制連行」という言葉が日本軍による徴用に限定して使われた[138]。『朝鮮人強制連行の記録』には付録として北朝鮮の平壌での「朝鮮民主法律家協会の声明」(1964年3月20日)が添付されている[138]。

東京大学大学院准教授外村大は「在日コリアンの大部分が強制連行によって日本に来たとする主張は誤りである」が[136]、この外務省発表には「労務動員の実態把握の誤謬がある」と批判している。外務省資料は、徴用(国民徴用令適用による徴用)以外の労務動員についてあたかも問題なしに進められ朝鮮人が望んで日本にやってきたかのように「『自ら内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加』が約70万人」と記録しているが、1939年以降の徴用ではない「募集」「官斡旋」と呼んでいた制度も「自由契約」とは到底言えないケースが多数見られており、それは、朝鮮総督府の事務官が『大陸東洋経済』1943年12月1日号において「労働者の取りまとめは…半強制的にやっております」と述べている事からも確認できるのだという。外村は2010年の論文で「戦時期の動員計画に基づく日本の事業所への朝鮮人の配置は徴用によってのみ行われたわけではない。すでに述べたようにそれ以前の「募集」「官斡旋」によっても行われたのであり、それらの場合でも暴力性を伴う労働者の充足=強制連行と呼ぶにふさわしい実態があった。在日コリアンのルーツのどれだけが強制連行と関係しているのかを論じるのであれば、徴用によって日本に来た朝鮮人の外国人登録者の数字のみを挙げて云々するではなく少なくとも「募集」「官斡旋」によって日本に来た者でその後も居住している朝鮮人の数字を含めて考えなければならない」と主張している[142]。さらに「外務省資料は「朝鮮人徴用労務者」の日本内地への「導入」が「1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運行が途絶したためその導入は事実上困難となった)までの短期間」としているが、これも間違いであり企業の文書や当時の新聞史料から1945年3月以降も徴用された朝鮮人の日本内地への送り出しが続けられていることが確認できる」としている[136]。なお、外村は「強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」と主張している[143]。

戦後補償問題

日韓基本条約・日韓請求権協定

詳細は「日韓基本条約」「日韓請求権協定」「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照

日本と韓国は1965年の日韓基本条約と[要出典]日韓請求権協定によって日韓請求権問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認した。

対日請求の再燃と賠償請求裁判

詳細は「徴用工訴訟問題, 新日鉄株金強制徴用訴訟/朝鮮語版ページ」を参照

韓国は1965年の請求権協定によって対日請求権を放棄したとしてきた。しかし、1991年8月27日、日本の参議院予算委員会で当時の柳井俊二外務省条約局長が「(日韓基本条約は[要出典])いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ」と答弁。それを受けて、韓国では1997年に朝鮮人強制連行に関連して賠償請求訴訟がはじまった[144]。その後、原告敗訴が続いた[144]。

2002年10月には、日本弁護士連合会が小泉政権に朝鮮人強制連行問題の真相究明と被害回復措置を講じるよう勧告した[145]。

また、朝鮮人強制連行問題は未解決であるとする強制動員真相究明ネットワークが組織され、日韓政府へ働きかけて行った。

2005年の盧武鉉政権以降、対日請求が再燃したが、2009年、韓国政府は日韓請求権協定によって完了したと確認した[146]。

しかし、さらに2012年5月、韓国最高裁(大法院)が「個人請求権は消えていない」と判定し、三菱重工業や新日本製鉄(現新日鉄住金)など日本企業は、徴用者に対する賠償責任があるとした[144][147][148]。

2013年2月、富山市の機械メーカー不二越による戦時中の動員に対して、強制動員被害者13人と遺族が計17億ウォン(約1億5000万円)の賠償を求める訴訟をソウル中央地裁に起こした[148]。

2013年3月、日本製鐵(現日本製鉄)の釜石製鉄所(岩手県)と八幡製鐵所(福岡県)に強制動員された元朝鮮人労務者ら8人が、新日本製鐵(現日本製鉄)に8億ウォン(約7000万円)支払いを要求してソウル中央地裁に損害賠償請求訴訟をおこした[148]。2013年7月10日、ソウル高裁は判決で新日鉄住金に賠償を命じた[149]。その後、新日鉄住金は上告し[144][150]、菅義偉官房長官は「日韓間の財産請求権の問題は解決済みという我が国の立場に相いれない判決であれば容認できない」とコメントした[144]。

しかし、前記柳井局長答弁にあるように協定自体は個人の請求権を国内法的な意味で消滅させるものではない。1993年5月26日の衆議院予算委員会における丹波實外務省条約局長答弁や[151]、2003年に参議院に提出された小泉総理の答弁書によれば同協定を受けて日本国内で成立した措置法によって請求の根拠となる韓国国民の財産権は国内法上消滅した[152]。実際に日本の裁判所で争われた旧日本製鉄大阪訴訟において、大阪高裁は2002年11月19日の判決で協定の国内法的措置である財産措置法による財産権消滅を根拠に一審原告の控訴を棄却している[153]。この裁判はその後上告を棄却され確定した。大阪高裁が決め手とした財産措置法は日本の国内法であるから、日本法が準拠法として採用されない限り韓国の裁判所を拘束しない[154]。そのため、大阪高裁で決め手となった財産措置法は韓国の裁判所では争点となっていない[153]。

その後、2018年10月30日、韓国大法院は個人的請求権を認めた控訴審を支持し、新日鉄住金の上告を退けた[155]。大法院判決多数意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれないと判断した。これに対し、3人の裁判官の個別意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれるが、両国間で外交上の保護権が放棄されたに過ぎないとした。この中で現在の日本政府の見解を肯定した日本の2007年最高裁判決の事案で問題となったサンフランシスコ平和条約についても言及し、個人損害賠償請求権の放棄を明確に定めたサンフランシスコ平和条約と「完全かつ最終的な解決」を宣言しただけの請求権協定を同じに解することは出来ないとしている。また、2人の裁判官の反対意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれ、かつ、請求権協定によって日韓両国民が個人損害賠償請求権を裁判上訴求する権利が失われたとした。その意見によれば、個人損害賠償請求権自体は消滅していないものの、日韓請求権協定によって外交上の保護権が放棄されただけでなく、日韓両国民が個人損害賠償請求権を裁判上訴求する権利も制限されたため、個人損害賠償請求権の裁判上の権利行使は許されないとのことである[156]。これに対して安倍首相は衆議院本会議において「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。この判決は、国際法に照らしあり得ない判断だ。日本政府として毅然として対応していく」と答弁している[157]。

2018年11月29日には同じく新日鉄住金に対して別の徴用工の遺族3人が提訴した訴訟の第二審判決が下される予定である[158]。

歴史認識問題

朝鮮半島における労務動員のうち、朝鮮半島外部への動員に着目し、これを「強制連行」と定義する用法が1960年代半ばに出現、1970年代から2000年代初頭にかけてマスコミ報道、教育現場などでも盛んに使用された。この定義・用語には疑問が提示され、現在も議論が続いている。

「朝鮮半島からの労務動員(動員形式別;1942年度?1944年度)」,「道内動員の内訳(動員形式別)」より[159] 動員形式 動員先 1942年度 % 1943年度 % 1944年度 %
道内動員 朝鮮のみ 333,976 64.1 685,733 77.7 2,454,724 82.9
(道内動員内訳) (道内官斡旋) 492,131
〃 (勤報隊) 1,925,272
〃 (募集) 37,321
官斡旋 朝鮮 49,030 9.4 58,924 6.7 76,617 2.6
〃 日本 115,815 22.2 125,955 14.3 85,243 2.9
〃 その他 – – – – – –
徴用 朝鮮 90 0.0 648 0.1 19,655 0.7
〃 日本 3,871 0.7 2,341 0.3 201,189 6.8
〃 その他 135 0.0
軍要員 朝鮮 1,633 0.3 1,328 0.2 112,020 3.8
〃 日本 300 0.1 2,350 0.3 3,000 0.1

  • その他 16,367 3.1 5,648 0.6 7,796 0.3
    合計 – 521,217 100.0 882,927 100.0 2,960,244 100.0

「強制連行」の呼称をめぐる議論

「強制連行#概念・定義」および「在日韓国・朝鮮人#徴用・強制連行と渡航」も参照

日本による朝鮮半島への戦時動員のうち、主に労務動員の各種形式による「内地」への動員[注釈 5]に対し、「集め方が強制的であった」として「強制連行」という呼称[12][160]が1970年代から2000年代初頭にかけて盛んに使用された。しかし、この「強制連行」という呼称には疑義が出されており、在日朝鮮人運動史研究家の金英達は、「定義が確立しておらず、ひとによってまちまちな受け止め方がなされている」「もともと、強制連行とは、『強制的に連行された』という記述的な用語である。そして、強制や連行は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられていることに混乱の原因がある」と指摘している[7]。

戦時動員・労務動員との関連

金英達は、日本語の文脈で「強制連行」と記述する場合、ほとんどの場合は国家総動員法を制定した戦時体制下の大日本帝国政府が朝鮮半島で行った労務動員を指して使われる言葉となっていると指摘している[8]:61[161]:32。金は、戦時中の朝鮮人の強制動員については「戦時動員」を使い、そのなかの具体的な暴力的なケースを「強制連行」とすることを提案している[7]。

また、鄭大均も朝鮮人の労務動員を「強制連行」と呼ぶのは、「日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎている」として、当時の朝鮮人は大日本帝国の国民であり、日本人男性が戦場に送られていたのを代替するものとして朝鮮人の労務動員があったとしている[162]。

これらのほか、山田昭次立教大学名誉教授は1980年代には「朝鮮人強制連行」と論文で記していたが[163]、2005年の共著『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)で「朝鮮人戦時労働動員」と呼ぶこととした[164]。ただし、これは「強制連行」という言葉が攻撃されたからではなく、強制連行というと強制労働、民族差別の問題に目を向けなくなる恐れがあるためと述べている[105]。山田は「戦時動員」には労働動員と軍事動員の二つがあり、同書ではこのうち軍事動員を除外した労働動員、それも日本内地に限定しこれを「朝鮮人戦時労働動員」と呼び、「強制連行・強制労働・民族差別」の三つの問題点を含めるとした[164][105]。

従軍慰安婦問題を含む一連の“強制連行”という言葉が広く紹介されるようになったのは朴慶植の著作である『朝鮮人強制連行の記録』(未来社1965)によってである。

的場光昭は自著『反日石碑テロとの闘い』(展転社)で、朴の著書において南方へ強制連行されたという人物について、北海道新聞が記事で紹介した総督府に残る資料と照合した結果、当該人物は干ばつによる飢饉を逃れて妻子とともにパラオに移住したことが判明したとして、実態は朴の著書にあるような昼夜分かたず官憲が男たちを狩り集めて連れ去ったという内容とは異なると述べている。

人権用語として

朝鮮人強制連行真相調査団の洪祥進は「朝鮮人強制連行」は、歴史用語としてでなく人権用語になったと主張した[145]。

事典・辞書の記載

百科事典等

平凡社の世界大百科事典第2版の「強制連行」(田中宏執筆)では「1937年に日中全面戦争に突入して以降,労働力や軍要員の不足を補うために,日本は国策として朝鮮人,中国人を日本内地,樺太,南方の各地に投入したが,駆り集め方が強制的であったためこう呼ばれる。」とし、「38年4月には国家総動員法が,翌年7月には国民徴用令が公布され,日本の内外地における労務動員計画がたてられた(徴用)。1939年の労務動員計画数110万のうち8万5000は朝鮮人に割り当てられ,各事業主にその狩出しを認可し,42年からは国家自身の手になる〈官斡旋〉に移行した。」とある[165][166]。

丸善エンサイクロペディアでは「(中国人1943-45、朝鮮人1939-45)第二次大戦中、中国人、朝鮮人を強制的に軍需動員したもの。総力戦体制の一環として、中国人労働者、朝鮮人労働者内地移入に関する件が各々閣議、朝鮮総督府により決定された」と記述する。
小学館の日本大百科全書には「朝鮮人強制連行」という項目がある(朴慶植執筆[要ページ番号])。「朝鮮総督府の官公吏・警察官および会社労務係らが一体となって暴力的に各事業所に強制連行した。それらは割当て動員数を満たすため昼夜を分かたず、畑仕事の最中や、勤務の帰りまでも待ち伏せしてむりやりに連行するなど「奴隷狩り」のような例が多かった。(中略)陸軍慰安婦として数万人の女性が女子挺身(ていしん)隊の名のもとに狩り立てられた。」と記載している。

角川書店『角川新版日本史辞典』(1997年)には「アジア太平洋戦争時に日本政府が朝鮮人や中国人に強制した労務動員を指して、一般に使われる。戦時統制経済下で、政府は1939年(昭和14年)に労務動員実施計画綱領を作成し、不足する労働力を「移入朝鮮人」で補おうとする方針を立てた」「連行先は日本国内だけでなく、樺太、東南アジア、太平洋諸国と広範囲におよび、炭坑・土木工事など、危険な重労働につかされたため死傷・逃亡が多かった」と書かれている[108]。

近現代史研究者外村大[167] は「辞典によっては朝鮮人を日本軍の兵士や軍属、「従軍慰安婦」としたことも強制連行として説明しているケースもある。このような記述はこれまでの歴史研究の成果を反映したものである」と書いている[168]。

辞書の記載

岩波書店の広辞苑は4版以後で「朝鮮人強制連行」として記載が登場する[169][170]。

【朝鮮人強制連行】
(6版2008年1月)日中戦争・太平洋戦争期に100万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の慰安婦とされた。

谷沢永一と渡部昇一は5版の記載を前提に、これは史実と異なる記述でありイデオロギーにもとづく記述は辞書に値しないと批判し、岩波書店は訂正と謝罪を行うべきであると主張している[171]。

辞典に言及した1997年の政府答弁

1997年3月12日の参議院予算委員会において、小山孝雄議員の質問に対して政府委員である文部省中等教育局長辻村哲夫は次のように答弁している[172]。

一般的に強制連行は国家的な動員計画のもとで人々の労務動員が行われたわけでございまして、募集という段階におきましても、・・・任意の応募ということではなく、国家の動員計画のもとにおいての動員ということで自由意思ではなかったという評価が学説等におきましては一般的に行われているわけでございます。(中略)例えば、ここに国史大辞典を持っておりますが、募集、官あっせん、徴用など、それぞれ形式は異なっていても、すべて国家の動員計画により強制的に動員した点では相違なかったというような、歴史辞典等にも載せられているところでございまして、私どもはこうした学界の動向を踏まえた検定を行っているということでございます。

戦時中の労務動員を「強制連行」とする説

外村大は[173]、「内地」等への「強制連行」について、「日本政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め日本の行政機構が役割を担った。動員の形態は年代により「募集」「官斡旋」「徴用」と変わったが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が朝鮮半島から日本内地・樺太・南洋占領地等に送り出された。内務省が調査のため1944年に朝鮮に派遣した職員[174]は、動員の実情について「拉致同様な状態」と文書で報告している」とする。

西成田豊も1939年7月に厚生次官・内務次官より地方長官あてに発出された「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル件」を受けて朝鮮総督府により制定された「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」が運用開始されたことを朝鮮人強制労働の始まりと定義し、『ここでいう強制連行とは、労働市場の権力的組織化による「帝国」国家が介在した朝鮮人の強制的「移入」をさす。(中略)朝鮮人強制連行政策は、朝鮮人の「内地」渡航を強制連行という権力的な募集形態に一元化するという意味を有していたといわなければならない』としている[175]。

批判

戦時中の労務動員を「強制連行」とする説への批判

西岡力は斡旋・徴用で渡航した朝鮮人労働者は、現場を逃走し条件のよい飯場に移動するケースもあり、それは「自由労働者」と当時呼ばれた[109]。また、日本政府は移送計画中も密航者を取締り、送還することもしていたが、西岡はこの朝鮮への送還こそ「本当の強制連行だ」と述べた[109]。

鄭大均は、日本人の15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子も徴用されたが、それは強制的なものであったし、応じない場合には「非国民」として制裁を受けたのであって、「強制連行などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本の加害者性を強調する態度はミスリーディングといわなければならない」と述べた[162]。鄭大均は2006年にも労務動員や徴用で渡日した朝鮮人を「強制連行」とするのは「後世の発明」であって、むしろ当時の渡航朝鮮人の多くは渡航を選択したとして、渡航をすべて強制連行のせいにするような議論はむしろ渡航した朝鮮人の品位を傷つける行為であると批判した[176]。また「強制連行」という言葉が1980年代の歴史教科書問題などを背景に大衆化させたのは日本人の左派であり、彼らは「贖罪意識を自らの使命とするような人々であった」と論じている[176]。山田昭次は鄭大均による強制連行批判を「無理解」「誤解」として批判したが[177]、これについて鄭大均は「有効な批判にはなりえていない」と反論した[176]。

「現在の在日は強制連行の子孫」説への批判

田中明は『現代コリア』1991年1月号で「戦時中、徴用などという強制によって多くの朝鮮人が日本に連れてこられたことは事実である」としながら、戦後、自由を回復したあと日本に居住した在日韓国・朝鮮人が、自分たちで選んだ行為をなかったことにして、自分たちが日本に居る理由を「強制連行の結果」とすることは御都合主義であると批判している[178]。田中は「自分たちは戦前、日本人にやられたまま、戦後の45年をも送ってきた哀れな存在」だとみなすことは、「みずからを貶めている」のであり、自己責任において決断と選択を繰り返す事が主体的に生きることであるが、「強制連行」論者は自分たちを「責任負担能力のない被害者」にしたてあげることで、それが「なんでもひとのせいにする韓国人」という不名誉な通念を補強していると批判した[178]。

小倉紀蔵は、植民地時代に日本に来た朝鮮人のすべてを強制連行の結果とみなすことは「甚だしい歴史の改竄」であり「政治的な言説以外の何ものでもない」と批判し、教育の機会や経済的成功を夢見て日本へ渡航したと論じている[179]。

戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性について

研究・分析

木村, 2005は、朝鮮人元労務者の証言・回顧を分析するなかで、1944年9月の「一般徴用」開始以前に動員されているはずの人々が自身の動員を「徴用された」と回顧していること、また量的に多数を占めていたはずの「官斡旋」への言及がほとんど見られない点に気づき、次のように分析している。

ここではこの点を知る為の具体的資料として比較的良く知られた、朝鮮人強制連行真相調査団編『強制連行された朝鮮人の証言』(明石書店、1990年)から見てみることにしよう。この資料には、都合、23名の「体験者」の証言が挙げられている。これらの事例は、目次を見ると、12件13人の「強制連行」に関する事例と、10件10人の「強制労働」に関する事例とに区分されている。

「強制連行」に関わるとされる10件の事例の概略は<表9>のようになる。一見してわかることが幾つかある。第一は、ここで挙げられている事例においては、正確な期日が明らかでないものを含めて、全てが1944年9月の一般徴用開始以前の時期の動員であること、第二に、にも拘らずその多くが、自らが「徴用」により日本へと動員されてきた、と回想していることである。『日本人の海外活動に関する歴史調査』が述べるように、1944年9月以前には、一般労務に対する徴用は未だ実施されておらず、その範囲は、「軍関係方面労務」に狭く限定されていた。このことは既に挙げた統計的数値にも明確に現れている。
第三に注目されることは、これまでの分類においては重要な地位を占め、就中、1942年から43年までの間の朝鮮半島から内地に対する人的動員において圧倒的な比重を占めた筈の、「官斡旋」に関する直接的言及が見られないことである。(中略)このような問題を考える上で、最初の手がかりとなるのは、文献資料においては、朝鮮半島における総動員において重要な比重を占める筈の「官斡旋」に対する直接的言及が、どうして『強制 連行された朝鮮人の証言』に収録された「体験者」の回想においては出てこないのか、ということであるかも知れない。既に述べたように、朝鮮半島において国民徴用令による一般徴用が開始されたのは、1944年8月閣議決定を経て後のことであり、それ以前における徴用は、狭く「軍関係労務」に限定され、その数も朝鮮半島から内地への動員全体に対して数パーセントの比重を占めるだけに過ぎなかった36。徴用先等の性格から見て、『強制連行された朝鮮人の証言』に収録された事例においては、これ以前に内地へと既に移住し、内地にて徴用を受けた事例を除いては、これに該当すると思われる事例は極めて少ない。
このような資料と「証言」の両者を整合的に理解する唯一の方法は、そもそも当時の朝鮮半島 の人々の意識の中には、「官斡旋」という独自の分類は存在せず、「官斡旋」と「徴用」を一括りにして、「徴用」として理解されていたのではないか、ということであろう。そのことは、「官斡旋」とは異なり、「募集」の方は様々な資料37において比較的明確な形で出ていることによって裏付けられるかかも知れない。(pp.334,337)

証言

以下の3例は、戦争前から渡日していた自身と、労務動員されて来た人々を区分していた事例。文中「成合」は、大阪府高槻市北部の地名のほか、同地で建設されていた地下司令部/地下工場タチソの建設現場もさす。

--本などによると、かなり虐待され、殺されたり、ひどいようですが。
朴さん 炭鉱地帯は特にひどい。それは、あの当時の常識や。炭鉱や鉄道敷き、ダム工事なんかに行かされた人間はかわいそうや。成合ではそういうことはなかった。炭鉱ではたこ部屋といって、監獄よりまだひどい。徴用以外でも自ら来た人間でも、そういう目にあっている。ここは3交代だから時間内きちっと働いたらあとはいい。ただ落盤事故で3人程死んだけど。(中略)徴用で連れてこられた人はすぐ帰国して行った。だから、今の成合に住んでいるものは、戦争が始まる前から住んでいた者がほとんどだ。--朴昌植「差別は今も変わらへん」,p.49

成合には徴用で連れてこられた人間も何人かいるけど、朝鮮での生活は苦しかったので、わしのように徴用の前に来た人間も多い。--宋慶熙「これでも自分たちの学校や」,p.51

私が成合きてみたらね。山という山に穴ばっかりや。トンネルの中で兵隊に仕事さした訳や。私らは,それを掘るために働かされた訳や。私はしなかったけれども,ここの成合は,徴用でひっぱられてきて働かされた朝鮮人たちの飯場や。--金盛吉「仕事いうても何もあらへんねん」,p.51

以下は、戦時動員の現場で働いたことを「徴用」と称している例。

姜さん佐賀県から逃げてきたあくる年に、ここへあがってきた。19年(昭和)11月や。成合に来たのは、だまされてきた。「大阪のどこか、ええとこあるから行こや」と言われた。こっち(自分)はまだ若いから、ええとこと聞いたらどこでも行く。それで又だまされてここへきたわけや。
--きてみたら、ここは軍事工場でしたか。
姜さん ああ、そうや。(中略)最初、徴用に来た時、日本語全然知らんかった。--姜明寿「ハラへってどうにもならん」,p.50

日本の教育における問題

センター入試出題事件

2004年の大学入試センター試験の世界史B第1問の問5で、『日本統治下の朝鮮で、第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた。』を正しい選択肢とする出題が行われた[180]。

これに対して、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会は、北朝鮮の根拠のない主張に通じる出題をしたとして採点から削除するよう要求し、また新しい歴史教科書をつくる会[181] が、①戦時中に強制連行を指令した文書を示せ②強制連行は全部の教科書にのってはいないはず、との質問をしたが、大学入試センター側は「①入試問題は教科書に準拠して作成するが、当センターでは史実に基づいているかどうかは検討していない②すべての教科書に載っていることだけをもとに試験問題をつくることは不可能。多くの教科書に記載されていれば出題してかまわない」と回答した[182]。

受験生の中には「第二次大戦当時の言葉としてはなかった朝鮮人の『強制連行』が、確定的史実として出題され思想の自由を奪われた」として、大学入試センターに対し、この問題を採点から除くことを求める仮処分命令申し立てを東京地方裁判所に行なった者も出た[183]。なお請求は2005年10月2日、棄却決定が出ている(つくる会のサイトには未掲示)。

2004年2月26日、文部科学省高等教育局は自由民主党の議員連盟・日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会の総会にて、問題作成者の氏名を公表する方針を示した[184]。これに対して史学会は反対した[185] が、問題出題者が自らネット上を含めて論文などを発表した[186][187]。

朝鮮人慰安婦問題と強制連行説

詳細は「日本の慰安婦問題」を参照

国家総力戦の様相を呈した第二次世界大戦では、日本でも女性や子供が戦時体制の為に挺身隊として動員され、動員対象地も内地から当時大日本帝国の一部であった朝鮮半島や台湾へと広がった。

挺身隊と慰安婦は違うものの、正義連の前身である「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は挺身隊問題を扱うはずなのに、挺身隊と慰安婦を混同させていたこと、元慰安婦らを利用してきたこと、日本からの謝罪と賠償を妨害してきたことを告発されている。寄付金の不正流用などの疑惑が続出している前理事長から国会議員となった尹美香は「罪を問われ、罰を受けるべきだ」と非難されている[188]。

吉田清治と挺対協

戦後の1977年以降、元軍人を自称する吉田清治は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語った。しかし1992年には様々な調査によって否定されるようになり、93年の韓国の研究家の著作者である『証言・強制連行された朝鮮人慰安婦たち』でさえその証言の信憑性が疑問視され[189]、1996年には吉田が自ら証言の虚偽を認めた[190]。

秦郁彦は『日本陸軍の本・総解説』(1985年、自由国民社)で千田夏光の著作『従軍慰安婦』の紹介を書き、そこで「昭和期の日本軍のように、慰安婦と呼ばれるセックス・サービス専門の女性軍を大量に戦場に連行した例は、近代戦史では他にない。その7・8割は強制連行に近い形で徴集された朝鮮半島の女性だったが、建前上は日本軍の「員数外」だったから、公式の記録は何も残っていない。・・・・他に類書がないという意味で貴重な調査報告といえよう」と書いていた[191]。しかしその後の調査で秦は「問題は・・・女子挺身隊と慰安婦を混同したり・・「半強制・強制狩り出し」が横行したかのような書き方をした点にあった」と千田夏光の調査力を批判した[192]。また、慰安婦問題の最大争点は「官憲による組織的な強制連行があったか否か」であったとし、これについて吉見義明や韓国挺身隊問題対策協議会の鄭鎮星の意見を例に出して、「学術的レベルでは「強制連行はなかった」とする見方が浸透しつつあるので、運動家たちは次に示すような論拠で再構築をはかろうとしている。」として、「(1)未発見文書に期待」「(2)監督責任を問う」「(3)強制連行の定義の拡大」「(4)挙証責任の転嫁」を挙げている[193]。

挺対協結成以降

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹貞玉は1990年「挺身隊取材記」をハンギョレ新聞に発表し、朝鮮人女性が挺身隊の名目で慰安婦として動員されたとして日本政府に真相究明と謝罪を求める声を挙げた[194]。これを受けて日本社会党は国会で責任を追及し、政府は1990年6月6日の第118回国会参議院予算委員会において「徴用の対象業務は国家総動員法に基づきます総動員業務でございまして、法律上各号列記をされております業務と今のお尋ねの従軍慰安婦の業務とはこれは関係がないように私どもとして考えられます」と、慰安婦の募集は国家総動員法業務とは無関係であると答弁していた[195]。また、第120回国会でも、業務を担当した厚生省や労働省などからは資料は発見されなかったとも説明した[196]。

こうした日本政府の答弁に対して、尹貞玉らに率いられた韓国の女性団体は「“天皇”直属の日本軍の要請で慰安婦用に『朝鮮人女子挺身隊』の動員を命ぜられ」「従軍慰安婦を動員する業務が徴用の対象業務に含まれていたことは明らか」[197] と反発した。1991年には、この答弁をテレビで見て憤激した金学順が被害者として初めて名乗り出て「強姦」された体験などを語った。これを朝日新聞は、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」の一人が名乗り出た」と報じた[198]。1991年12月には、日本政府を相手に損害賠償裁判を起こした[199]。1993年に挺対協は「当時の国際条約に規定されているように[詐欺または、暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段]による動員を強制連行だと把握するならば、本調査の(慰安婦)19人の場合は大部分が強制連行の範疇に入る。」と主張した[200]。

政府調査と河野談話

「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を参照

日本政府は、関係省庁における関連文書の調査、米国国立公文書館等での文献調査、さらには軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析等の一連の調査を行ったが「強制連行」に該当する事例は確認できなかった[201][202][203][204][205] が、韓国政府の意向・要望について受け入れられるものは受け入れ、受け入れられないものは拒否する姿勢で、当時の官房長官河野洋平の名で談話を発表した(河野談話)。この談話の中には強制連行という言葉はないが、河野が記者会見で強制連行の事実があったという認識なのかという質問に対して 「そういう事実があったと。結構です」と述べている。また、韓国政府は河野談話を受けて「日本政府が今次発表を通じ、軍隊慰安婦の募集・移送・管理等において全体的な強制性を認定した」と論評した[205]。

日本軍慰安婦強制連行説

林博史は、オランダ人女性を強制連行して慰安婦にしたスマラン事件以下インドネシアの8事例や中国慰安婦訴訟の2004年12月の東京高裁判決(最高裁判決は上告棄却)から「強制連行は事実である」とのべている[206]。

林は日本軍による慰安婦の「強制狩り出し」はハーグ陸戦条約43条および46条への違反であり、日本が植民地化していた朝鮮半島及び台湾、占領した中国、フィリピン、インドネシアなどでの「未成年者の強制連行」について婦人児童売買を禁止する国際条約違反であり、また朝鮮半島における就業詐欺や騙しによる慰安婦の徴集を戦前日本の刑法226条に違反する誘拐事件であると主張している[207]。また、朝鮮半島での慰安婦業者は就業詐欺行為を行っていたが、警察と軍はそれを黙認し、「軍と共謀して慰安婦集めも組織した」。また警察文書に「内密に」「何処迄も経営者の自発的希望に基く様取運」ように指示している事から[208]、「軍と警察が共謀して慰安婦を集めているが、それがばれると困るので、業者が勝手にやっているような振りをした」のだと解釈している[209]。ゆえに慰安婦制度は、「国家による大規模な犯罪」であり、それは現在の人権の水準に照らしてそうであるだけではなく、「当時の国際法に照らしても国内法に照らしても犯罪だ」と述べている[210]。

朝鮮人慰安婦強制連行説への批判

ソウル大学名誉教授の安秉直は、韓国挺身隊問題対策協議会と共同で3年間に渡って日本軍慰安婦について調査をおこなった[211] 結果、強制連行があったとする一部の慰安婦経験者の証言はあるが、客観的資料は一つも見つからなかったとした[212]。また、2007年3月に「私の知る限り、日本軍は女性を強制動員して慰安婦にしたなどという資料はない。貧しさからの身売りがいくらでもあった時代に、なぜ強制動員の必要があるのか。合理的に考えてもおかしい」と発言し、当時兵隊風の服を来たものは多数いたし日本軍とは特定できないと発言している[213]。(日本の慰安婦問題#安秉直による検証調査も参照)

韓国陸軍元大佐の評論家池萬元は、元日本軍慰安婦は大半が厳しい経済事情のため自ら性売買を望んだ人だとしている[214]。

秦郁彦は、実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と異議を唱えている[215]。

勝岡寛次は、慰安婦の募集は現地の業者が行い、悪質な業者に騙されて慰安婦になるケースはあったものの、大多数の慰安婦は自由意思によるもので、強制連行には当たらないと主張している[216]。また、慰安婦は一般兵士の10?50倍の報酬を支払われ、2015年現在の価値で1億円相当の収入を得た慰安婦もいたことや、接客拒否、外出、廃業、帰国の自由もあったことから、性奴隷とも言えないとしている[216]。

研究史

この節は歴史学論文を紹介していますが、全ての文献が網羅されているわけではありません。

1965年5月、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』以来、1967年に松村高夫が、翌1968年には田中直樹が、以後依田豪家や琴乗洞がそれぞれ論文を発表した後に、1975年には金賛汀の『証言 朝鮮人強制連行』が書かれている[217]。

1977年に戸塚英夫は『日本帝国主義の崩壊と移入朝鮮人労働者』を「日本労使関係史論」(東京大学出版社)に発表し、翌年藤原彰は『日本軍と朝鮮人』を書いて、当時の新聞社説から連行朝鮮人を調査した[217]。また、畑中康男は樺太の炭坑を調査し、『記録・朝鮮人労働者の戦い』を書いている[218]。

1985年の遠藤公嗣の論文を巡って長沢秀との論争が起こった[217]。

1960年代に公表された朴慶植[161] らの古典的研究は金英達、鄭大均、木村幹らによって研究の精度の問題が指摘されている。一方で廉仁縞は[219]「金ミンヨンの研究[220] において、強制連行の実態は学会では様々な文献証拠によって証明されている」と解説している[221]。

東京学芸大学とソウル市立大学は歴史教育研究会を共同で設立し[222] 1997年より活動を開始し、日韓共通教材が作成され際に「強制連行」についての論文が提出された[223]。
朝鮮人の徴用を扱った作品

『三たびの海峡』……帚木蓬生の小説。1995年に神山征二郎監督、三國連太郎主演で映画化された。

脚注
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注釈

^ 在外財産調査会,1948の統計は、「官斡旋・徴用・軍要員」の動員先を「朝鮮半島」・「日本」・「その他」に区分する一方、これらとは別枠で「道内動員」を区分、さらに1944年分のみ「道内動員」の内訳を「道内官斡旋・勤報隊・募集」に3区分している[4]。
^ 時期により根拠法が変遷するが、勤労奉仕隊(1938-41)・勤労報国隊(1941-45)・国民義勇隊(1945)などが朝鮮を含む日本全土で組織された。
^ 木村,2005は大蔵省在外調査局の統計資料(在外財産調査会, 1948の復刻版である法務研修所, 1977)を主たる史料として活用している
^ 木村,2005が整理した在外財産調査会,1948の統計数値では、1944年における通常の官斡旋による朝鮮半島内への動員は「76,617」人、道内官斡旋による動員は「492,131」人と、異なる数値が挙げられている。
^ 論者により定義はまちまちであるが、実数で際大多数を占める道内動員、なかんずく従前の職場や学校に勤務・通学しつつ動員を受けた勤報隊(勤労報国隊)を含まない論者が多い。

出典

^ a b c d e f 外務省アジア局北東アジア課「一般請求権徴用者関係等専門委員会第3回会合」(別添:集団移入朝鮮人労務者数)1962年2月23日 ※日韓会談 日本側提出資料
^ a b 木村,2005,pp.327-328.
^ a b c d e 木村,2005,p.328.
^ 木村,2005,pp.327-330.
^ 木村,2005,pp.328-330.
^ 木村,2005,pp.334-339.
^ a b c 『朝鮮人強制連行の研究』(明石書店2003年)、p45-46
^ a b 鄭大均 『在日・強制連行の神話』 文春新書 2004年6月 ISBN 978-4166603848
^ 崔基鎬「日韓併合」祥伝社、2004年,p40-46
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リンク切れの代替えとして、1997年版 荒木和博 『在日韓国・朝鮮人の参政権要求を糺す : 「外国人参政権」という名の虚構』現代コリア研究所〈韓国・朝鮮を知るためのシリーズ〉、1997年。ISBN 4750597112。 NCID BA31484313。全国書誌番号:98051950。
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^ 廉仁縞(ヨムイノ)ソウル私立大学校国史学科教授
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^ 今野日出晴「「東アジア史」で考える : 歴史教育にわたるということ」『岩手大学文化論叢』7-8、岩手大学教育学部社会科教育科、2009年、 145-159頁、 doi:10.15113/00010489、 ISSN 0912-3571。
^ 歴史教育研究会、監修加藤章、李存、編集君島和彦、木村茂光、坂井俊樹『日本と韓国 歴史教科書を読む視点』p206,216、梨の木舎

参考文献
資料
一次史料

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942年
小暮泰用「8.復命書及意見集/1 復命書及意見集の1」(国立公文書館 アジア歴史資料センター 外務省外交史料館A門「本邦内政関係雑纂/植民地関係 第二巻」)1944年7月31日,国立公文書館アジア歴史資料館,レファレンスコードB02031286700/請求記号A-5-0-0-1_1_002(所蔵館:外務省外交史料館)
厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」1946年。

編纂史料

「在外朝鮮人の保護 戦争と朝鮮統治」(法務研修所編『朝鮮における日本人の活動に関する調査』現代日本・朝鮮関係史資料 第3輯(湖北社,1977).p.66-.
    在外財産調査会編『日本人の海外活動に関する歴史的調査 : 朝鮮篇』(大蔵省管理局,1948)の一部を復刻したもの。
朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』三一書房 1975-1976年
むくげの会編『こんなんして生きてきたんや 成合における在日朝鮮人の生活史』「成合における在日朝鮮人の生活史」合同編纂委員会発行1980年
戦争の記録を残す高槻市民の会事務局編『戦争の記録を残す高槻市民の会 資料集NO.1』,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1981年12月).
戦争の記録を残す高槻市民の会編『戦争の傷跡 地下軍事工場の記録』資料集NO.2,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1982年7月).
    朴昌植の証言,1982(同上,p.49).
    朴承徳の証言,1982(同上,p.51).
    姜明寿・「奥さん」の証言,1982(同上,p.50).
戦争の記録を残す高槻市民の会編『わが街たかつきの戦争の記録 続地下軍事工場』資料集NO.3,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1984年7月).
朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行された朝鮮人の証言』明石書店、1990/8/15
林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』1991年、明石書店
長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍捕虜強制連行資料集』緑蔭書房 1992年。
札幌学院大学北海道委託調査報告書編集室『北海道と朝鮮人労務者・朝鮮人強制連行実態調査報告書』1999年
朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会『北海道と朝鮮人労働者』1999年

文献目録

勝岡寛次「徴用工問題(朝鮮人・中国人「強制連行」)に関する文献目録(1) (2000年以前)」,『歴史認識問題研究』第2号,2018年3月15日,pp.77-99.

研究

朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社、1965年
松村高夫「日本帝国主義下における植民地労働者-在日朝鮮人・中国人労働者を中心にして」三田経済学研究第2号、経済学年報10、慶応義塾大学経済学会、1967年
田中直樹[要曖昧さ回避]「太平洋戦争前夜における炭坑労働者について 石炭連合会資料を中心に」三田経済学研究.1 2巻、1968年3月
田中直樹「第二次大戦前夜 炭坑における朝鮮人労働者」朝鮮研究72、1968年
明石博隆, 松浦総三『昭和特高弾圧史 朝鮮人に対する弾圧』(上中下)太平出版社 1975年
小沢有作編『近代民衆の記録 在日朝鮮人』新人物往来社 1978年
山田昭次「朝鮮人・中国人強制連行研究史試論」旗田巍先生古稀記念会編『朝鮮歴史論集』龍渓書舎、1979年
林えいだい『強制連行・強制労働・筑豊朝鮮人坑夫の記録』現代史出版会、1981年
山田昭次「朝鮮人強制連行の研究ーその回顧と展望」季刊三千里第31号、1982年
金慶海『鉱山と朝鮮人強制連行』明石書店、1987年
林えいだい『松代地下大本営』明石書店、1992
長野暹, 金旻榮「1940年,日本石炭産業における労働問題と「朝鮮人労働者移入」 : 「石炭鉱業聨合会」の「労務担当者会議々事録」の分析を中心として」『佐賀大学経済論集』第25巻第1号、佐賀大学経済学会、1992年、 91-124頁、 ISSN 0286-7230、 CRID 1050287462776249472。
朝鮮人強制連行真相調査団『検証・朝鮮植民地支配と補償問題』明石書店、1992/8/15
神奈川県と朝鮮の関係史調査委員会『神奈川と朝鮮』神奈川県 1994年。
金ヨンミン『日帝の朝鮮人労働力収奪研究』ハンウルアカデミー、1995年
西成田豊 『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』東京大学出版会、1997年5月。ISBN 978-4130260664。
いのうえせつこ『女子挺身隊の記録』新評論, 1998/07
奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会『朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック』みずのわ出版、1998/09
栃木県朝鮮人強制連行真相調査団『遥かなるアリランの故郷よ;栃木県朝鮮人強制連行真相調査団の記録』1998/11
歴史教育研究会編『日本と韓国 歴史教科書を読む視点』梨の木舎、2000年。
金英達『朝鮮人強制連行の研究』明石書店、2003年
崔基鎬『日韓併合』祥伝社、2004年
木村幹「総力戦大戦期における朝鮮半島に関する考察 人的動員を中心にして」日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報告書』第3分科篇下巻、日韓歴史共同研究委員会、2005年、321-344ページ.
山田昭次、古庄正、樋口雄一『朝鮮人戦時労働動員』岩波書店2005
洪祥進(朝鮮人強制連行真相調査団)「朝鮮人強制連行、歴史用語から人権用語に」,『フォーラム平和・人権・環境』第45回護憲大会第3分科会「歴史認識と戦後補償」報告,2009年2月1日
外村大「朝鮮人強制連行―その概念と史料から見た実態をめぐって―」[7],2006年
外村大 「在日コリアンと強制連行―1959年発表の「外務省資料」をめぐる議論に関連して―」,2010年
木村光彦「日本帝国と東アジア」『学際. [第三次]』第1号、統計研究会、2016年、 49-62頁、 ISSN 21895988、 CRID 1520010380454748544。
西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析 (PDF) 」 『歴史認識問題研究』第2号、モラロジー研究所歴史研究室、2018年、 61-76頁、 ISSN 24333980、 CRID 1521136280905597696。
秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』新潮社〈新潮選書〉、1999年。ISBN 9784106005657。 NCID BA42040446。

一般

山田昭次「朝鮮人強制連行調査の旅から」季刊三千里第21号、1980年
鄭大均『在日・強制連行の神話』文春新書 2004年
外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書2012年
朝日新聞デジタル「(インタビュー)強制連行、史実から考える 歴史学者・外村大さん」2015年4月17日(ミラー)
ガイドブック高槻「タチソ」編 編纂委員会編『朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック 高槻「タチソ」編』戦争の記録を残す高槻市民の会発行,解放出版社販売(1999年8月). ISBN 4-7592-6210-5
高槻タチソ戦跡保存の会編『タチソ物語 高槻地下倉庫 敗戦前夜高槻における朝鮮人強制労働を見る』高槻タチソ戦跡保存の会発行(1994).

関連団体

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)
強制動員真相究明ネットワーク
日韓市民でつくる日韓会談文書全面公開を求める会

関連項目

朝鮮半島における戦時動員に関連して
    個別渡航
    集団渡航
    官斡旋
その他の日本による戦時動員に関連して
    強制連行
    強制労働
    華人労務者(中国人強制連行)
    動員
    徴用
    徴兵 - 強制徴募
    総力戦
    国家総動員法
    日本の戦争賠償と戦後補償
    国民徴用令
    日本の慰安婦 - 日本の慰安婦問題
    北朝鮮による日本人拉致問題
    反日種族主義

外部リンク

日韓会談文書 情報公開アーカイブズ
韓国の落星台経済研究所(李宇衍)
    ”強制徴用”の神話
    果たして”奴隷労働”だったのか
    朝鮮人労働者”民族差別的賃金”の真実

カテゴリ:

日本の戦後処理歴史認識問題歴史上の人間の移動日韓関係強制労働

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日本政府「痛切な反省とおわびの気持ち示す。韓国肩代わり案決定で」

日本政府「痛切な反省とおわびの気持ち示す。韓国肩代わり案決定で」・嘘や偽物に馬鹿!学習能力ゼロ
https://ameblo.jp/deliciousicecoffee/entry-12787083083.html

『日本政府は、元徴用工訴訟問題で韓国の原告らが求める日本側の謝罪について、日本企業の賠償を韓国財団に肩代わりさせる解決案を韓国政府が正式決定すれば、「痛切な反省」と「おわびの気持ち」を示す方向で検討に入った。

日本政府関係者が1月28日に明らかにしたと、共同通信が報じた。

まず、『日本企業の賠償を韓国財団に肩代わりさせる解決案』とか報じているが、全然『肩代わり』ではない!

1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」しているため、現時点で日本企業が賠償する必要はゼロだ!

次に、『「痛切な反省」と「おわびの気持ち」を示す』とか言っているが、徴用された労働者たちには高額の給与が払われていたのだから、何について反省してお詫びを示すのか全く意味不明だ!

徴用令は、日本人や台湾人に対してはもっと長期間発令されていたのだから、もしも朝鮮人の元徴用工に対して反省とお詫びの気持ちを示すなら、日本人や台湾人の元徴用工に対しても同様に反省とお詫びの気持ちを示す必要が生じる!

さらに、そもそも当該『韓国の原告ら』は本物の元徴用工ではなく、完全な偽物だ!

つまり、本件については、自称『徴用工』(偽物)が真っ赤な嘘を吐いて被害を捏造していることが明白なのだ!

偽物や嘘に反省と謝罪を繰り返す日本政府は、学習能力ゼロ!

韓国は、竹島から出て行くまで、完全なる日本の敵国!

日韓断交!

1月30日、所謂『元徴用工問題』をめぐって、日本と韓国の外務省の局長が、ソウルて議論した。

日本の外務省関係者は「一致するところと相違するところがある」と述べ、日韓の考えに溝があることを示唆した。

以上が、概要。

20230131日本政府「痛切な反省とおわびの気持ち示す。韓国肩代わり案決定で」・嘘や偽物に馬鹿!学習能力ゼロ』

動くゴールポストにゴールを入れる

動くゴールポストにゴールを入れる | 韓国しじぷさり日記
https://ameblo.jp/edamamemame/entry-12787159379.html

『岸田政権でまた動くゴールポストにボールを入れようとし始めるとは、

なんかしがらみがあるんでしょうか?国益があるんでしょうか?

徴用工問題で、謝罪をするかどうか、自民党内でも慎重論。

しかし、一番大きな問題は、たとえ動くゴールポストに見事にゴールインしたとしても、・・・・実は得点にはならないという問題。

・・・・・保守派のユン大統領は、ゴールしたら得点したことにしてくれるんでしょうかね?

オウンゴールで逆に得点を取られたりしてー笑

日本メディア「強制徴用の日本企業、賠償に直接関与しないことで調整」中央日報 – 韓国の最新ニュースを日本語でサービスしますリンクjapanese.joins.com

徴用工として強制労働をさせられたとして裁判を起こしている韓国人たちが実は徴用工ではなく斡旋工や応募工であったりすることから、日本政府は「旧朝鮮半島出身労働者問題」としており、この問題を、

大韓民国による日韓請求権協定に基づく仲裁に応じる義務の不履行

としています。ですので、

日本人としてみれば、「韓国政府は条約に基づく義務を履行せよ」。この当たり前のことを言っているだけなのですが、それがどうややこしいことになるのかというと、韓国がややこしいことをしているからです。

今回、日本側としては「蒸し返し」でしかないのですが、韓国側としては進展(つまり韓国としての大後退)があります。

賠償は韓国側で行う、ということです。これは日本から見たら当然なことですが、韓国にしてみればあり得ないこと。でもそれをユン大統領は行います。

申し訳程度に、日本の協賛企業も募る、としてあります。心ある良心的な日本企業は(ロッテとか?ラインとか?)韓国に寄付してもいいんですねー。

韓国が「日韓請求権協定に基づく仲裁に応じる義務を履行」する大決断をしたことへの応援として、岸田政権は応援として、もういちど「反省とお詫び」を表明する・・・ことになるわけかな?支持基盤の弱いユン大統領ですから応援。

リップサービスならする? 

いえいえ、「心からの反省とお詫びじゃない」って、いつもの堂々巡りに終わるでしょうよねー。

せっかく無視していたのに蒸し返して、永遠に終わらないことを再確認するだけになりそうな・・・

でも永遠に蒸し返されるのもこの立場としては日本としてはリップサービスを蒸し返されるわけで、申し訳として日本企業も参加するとして、実質の賠償責任は韓国が取るというのが本質かな。

一応大進展なわけですよ。

いやいや、大統領が変われば元の木阿弥ですから何とも言えましぇーんがね。

対馬から盗難の仏像「日本側に所有権」 韓国高裁が1審取り消し【ソウル=時吉達也】長崎県対馬市の観音寺から韓国人窃盗団が韓国に持ち込んだ仏像をめぐり、「数百年前に略奪された」と所有権を主張する韓国の浮石寺(プソクサ)が像…リンクwww.iza.ne.jp

これも韓国がややこしいことをしていたわけです。そして当たり前なことを当たり前にせよという判決なのですが、韓国人としては本意ではないでしょうね。

本意ではないとしても、

高裁判決は、14世紀の仏像製作当時は浮石寺が所有権を保有していたと認めた上で、現在の浮石寺と同一の運営実体だとする証明が不十分だと指摘。日本に渡った経過については「倭寇による略奪をうかがわせる相当の状況がある」としたが、観音寺が長年占有したことにより日韓の民法上の「取得時効」が成立し、現在の所有権は観音寺側にあると認定した。

民法上は、「10年前に窃盗団に盗まれて不法に韓国に持ち込まれたという事件の本質に立ち返るべきだ」(対馬の観音寺住職さんの訴え)

韓国の情緒法上は「倭寇に奪われたという事件の本質に立ち返るべきだ」なわけですが、大統領が検事さんですときちんと「法を守って」くれるのかもしれません。(大統領が人権弁護士さんですと、「法で弱者を守って」くれるわけですが)

韓国の最高裁でこう決めてくださいましたので、(慰安婦問題は最高裁がああ決めましたが)、

日本としては、韓国の気が変わる前に、つまり政権が変わる前に、引き渡しを急がなければなりません。

日本人として「当たり前」なことは韓国では「当たり前」ではありません。

日本人の約束や法や国際法を守る感覚も韓国では受け入れられない。

けれども、保守脳、リベラル脳というのがきっとあるのでしょうよ。私見ですが、韓国の保守さんたちの考え方は日本人に近い現実的な思考回路をします。もちろん国益の違いはあれども、現実を見ていること、周りを見ていること、それら基本認識が共通であって、その上での考え方やアプローチが似ていれば、すり合わせはしやすいことでしょう。

一方、韓国のリベラルさんたちの考え方は、「楽しいいつものぶっ飛んだ韓国の考え方」なようです。非常に観念的。

見えている世界が違い、思考回路が違い、使う方程式が違う上に代入するXやYやAやBの変数も違うならば出てくる回答は想像を絶するものになります。

事実の選択と観念に基づいた、「こうであるべき韓国論」「こうであったに違いない韓国論」「こんなにひどい日本論」、「半万年の歴史、日本の文明の起源は韓国」「サムライの起源は韓国のサウルアビ(戦う父ちゃん)」「万葉集は全て韓国の流行歌」「日本は韓国が生んだ国」「韓国は全ての面で日本を圧倒した」「二度と負けない」「NO JAPAN」「行きません買いません」「人類普遍の倫理道徳性」「韓国は世界の霊的指導国家」・・・そんな感じ。

(リベラルでひとくくりにまとめてはいけないものまでまとめてしまったかな?現実脳と理想脳、ネガティブ・リアル・シンキングとポジティブ・ファンタジー・シンキングと言いたかったわけですが。)

ムン政権が一つのピークでしたでしょうか。

まぁそれでも、そのお隣の北朝鮮に比べれば、それでも圧倒的に理解しやすい人たちではあります。

だって日本人も隣国の思考回路を、もう相当わかってきているではありませんか。

つまり、それでも比較的わかりやすい人たちなわけですよ。

韓国は序の口で、その後に序二段がいるとな。笑

わたしたちもレベルアップしていかなくてはいけません。

ようやく、一番近い隣国のことをちょっと知って、ちょっと進展しただけなのです。

今年ももう1か月が過ぎてしまいました。

今日から2月、ふぁいてぃ~ん。(韓国式英語)

徴用工 #旧朝鮮半島出身労働者問題 #観音寺 #仏像 』

韓国与党が「日本はこれほど放射能に汚染されている」と出した地図

韓国与党が「日本はこれほど放射能に汚染されている」と出した地図、引用元とされた団体から「我々のデータではない」と言われてしまう……捏造確定です: 楽韓Web
https://rakukan.net/article/470513692.html

『 2019年09月27日 カテゴリ:東京オリンピック コメント:(200)
タグ: 日本ヘイト 日本経済侵略対策特別委員会 共に民主党 チェ・ジェソン 東京オリンピック

日本「韓国民主党の放射能汚染地図公開、風評被害を助長」(中央日報)

日本政府は27日、共に民主党の日本経済侵略対策特別委員会が福島原発事故による放射能汚染地図を製作・公表したことについて「風評被害を助長する動きだ」と主張した。

日本政府のスポークスマンである菅義偉官房長官は同日の定例記者会見での質問に「他国の個別の政党の活動についてコメントは控えたい」と前置きした後、「従来から我が国(日本)に関していわれのない風評被害を助長するような(韓国側の)動きは懸念を持って注視している」と述べた。
(引用ここまで)

 韓国の与党である共に民主党が「福島あづま球場は205万Bq/平方メートル、新国立競技場や埼玉スタジアム2002も20万Bq/平方メートルを超えている」として出してきた「自称・放射能汚染マップ」に対して、管官房長官が「他国の政党である」として慎重な発言をしていますが、不快感を表明しています。
 質問は産経新聞の記者。6分20秒くらいから。

 昨日のエントリでは文章を書いている途中に共に民主党の「日本経済侵略対策特別委員会」による「自称・放射能汚染マップ」を見つけたのですが、うまいことからめることができなかったのですね。

fukushimafalsemap.jpg

 そもそも原発からこんな風に同心円状に放射性物質が拡がるわけがないだろうが。
 どれだけ静的なモデルでの計算だよ。

 偏西風もあるし、放射性物質が拡散した際に北西方面へのの風が吹いたこととちょうど雨があったことから、DASH村のある浪江町や飯舘村周辺の数値が極端に高くなっている。
 一切知識がない人間が作ったでっち上げ地図であることが分かります。

 さらに共に民主党が引用元であるとしている「みんなのデータサイト」からも、「これは我々のデータに基づくものではない」という表明が出ています。

朝鮮日報日本語版 9月26日付けの報道についてのお問い合わせ(みんなのデータサイト 新着情報ブログ)

現時点でわかった事実としては、数値は、私たちの団体で測定したものではなく、他の団体が測定したホットスポットを含むデータが用いられている模様です。
私共にはデータについて、また今回団体名を記載する旨、一切の連絡を受けておりません。
(引用ここまで)

 引用をしているように見せかけて、風評被害を助長させようとしている。
 意図してのものか、あるいはただ単に能力が低くて理解できないからそうしているのか不明ですが。

 どちらにせよ、共に民主党のやったことを絶対に忘れないからな。』

韓国人「福島からの貨物船が汚染されたバラスト水をばらまいている!」

韓国人「福島からの貨物船が汚染されたバラスト水をばらまいている!」→韓国政府「調査したけど韓国の海水と同じでした」→韓国人「そんなはずはない!!!」: 楽韓Web
https://rakukan.net/article/497997486.html

『福島「海水」韓国で放流された… 政府「放射能数値問題ない」(JTBC・朝鮮語)

最近の5年5ヵ月間、日本の福島県周辺のバラスト水を積んで出発した貨物船が韓国の港まで入ってそのまま排出しました。
福島県を含めて千葉県、茨城県、宮城県など計6つの県から積んできた平衡水路321万トンにもなります。
政府が汚染の可能性があるといった福島県と、宮城県から来た船も37隻、約12万トンのバラスト水を流しました。 日本の船はもちろん、韓国国籍の貨物船も含まれています。

海洋水産部は2021年8月からこの二つの県から来る船は韓国の海域に入る前にバラスト水全て交換することにしました。
ただ、バラスト水を交代していなくても入港を阻止はなかったが、これまでの全数検査で韓国の海水と同レベルの放射能数値が出たと説明しました。

チェ・ギョンスク市民放射能監視センター活動家「もちろん日本政府が原発に浸透している地下水と雨水を統制しているとするが、事実はすべてを統制できないんですよ」

バラスト水を交代した船は標本を選んで調査しているが、これも全数調査と変更しなければならない必要があります。
(引用ここまで)

 福島近隣から入港する貨物船のバラスト水が問題だ、と韓国ではされていまして。
 去年の10月にも同様に問題だとして報道されています。
 具体的になにが問題なのかは一切語られることなく、ただただ「問題」だ、と。

 韓国政府は「韓国に入港する前にバラスト水を交換しろ」と言い出しているのですが。
 それを守らない船もある。
 そうした船に対しても入港拒否はしていないが、全数調査をしているとのこと。
 で、その結果は「韓国の海水と変わらないレベルのものだった」と。

 単純に無駄なことを延々とやっているだけなんですよね。
 韓国では「福島近隣の海水は汚染されているし、土壌も汚染されている」というのが大前提なのです。
 以前、韓国の国会議員が福島第一原発から同心円状に汚染が広がっているとする地図を公開して、ミリほどでも科学を知っている人間からは嘲笑されていました。

 曰く「福島、埼玉、新国立競技場といった日本のオリンピック会場はどこも土壌汚染がひどく、まともなら『即座に避難』すべきレベルだ」って話だったのですが。
 これを信じこんでいる連中が少なからず存在しているのです。

 実際、冒頭記事にも「異常がないわけがない。数字を公開しろ!」等のコメントが多数。
 韓国人にとっては「日本はもう人が住めないレベルに汚染されている」のが前提なのですよ。事実はどうあれ、「そうあってほしい」のです。

 ま、そんなわけで韓国などを一切相手にせずに、問題解決のためにIAEAとだけ連絡をとっている日本のやりかたはとても正しいというわけです。
 ヒステリーにつきあっちゃらんないよ。

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