ナポレオンの命運を左右した「情報」とは

ナポレオンの命運を左右した「情報」とは
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29218

 ※ 今日は、こんな所で…。

『ナポレオン・ボナパルトは、その軍事的才覚によって19世紀初頭のヨーロッパを席巻して巨大な帝国を築き上げ、一介の軍人から皇帝に上りつめた。その手法は、「国民皆兵制度」による国民軍の創設や、砲兵・兵站の重視など枚挙にいとまがないが、意外なことにナポレオンは戦場において情報を重視しなかったとされる。

 その理由は、戦場の情報が司令官の元に届くのに時間がかかったことや、多くの報告は斥候が自分の目で確認したものではなく、伝聞情報を基にしており信頼性が低かったことにある。また、ほとんどの場合、司令官に情報が届く頃には情勢が変化しており、使い物にならなかった。

 ただし彼は、情報そのものには価値を見出しており、自らの参謀本部に情報部門を設置したり、英国で発行される新聞を熱心に読んでいたとされる。当時、英国内では検閲制度が廃止され、新聞各社は自由に記事を書くことができ、その情報の信頼性がフランスのものより高かったためである。

抜擢された大臣が皇帝さえも監視下に

 ナポレオンを情報面から支えた人物としては、警察大臣を務めたジョゼフ・フーシェが有名だろう。当時、フランスでは革命に起因する密告がはびこっており、フーシェの秘密警察はその延長に確立されたのである。

 フーシェは大臣に抜擢されると、あっという間にフランス国内に情報網を築き上げ、政治家の書簡や外交文書を秘密裏に開封して中を読み解くことで、国内の反ナポレオン派や外国スパイ、さらには上司のナポレオンまでをも監視下に置いていた。ナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌは放蕩三昧の生活であり、金銭目的でナポレオンの私生活の情報をフーシェに売っていたようである。

 フーシェは毎日、ナポレオンに情報報告を行うほどその能力を高く評価されていたが、決して信頼はされなかった。ナポレオンは「私のベッドをのぞくような大臣はうんざりだ」と不平を漏らしつつも、フーシェの首を切れなかったようである。

 そのためナポレオンは、個人的に12人の情報提供者を別に雇って情報を得ていた。フーシェが国内で逮捕した政治犯は数千人にもなるとされ、フランス国内だけではなく、ウィーン、アムステルダム、ハンブルクにも拠点を設置し、海外の動向にも目を光らせていた。

 ハンブルクにおいては、スパイ網を築きつつあった英国人、ジョージ・ランボルド卿の邸宅に忍び込んで、スパイのリストを奪い、ランボルドの身柄も押さえることで、英国の陰謀を未然に防いでいる。

 海外からナポレオンに貴重な情報を届けていたのは、カール・シュルマイスターである。ドイツ生まれのシュルマイスターは、仏独ハンガリー語に堪能であったので、オーストリア軍のカール・マック将軍にスパイとして採用されている。しかし、オーストリア軍はシュルマイスターの情報を重視しなかったため、密かにフランス軍に接触し、ナポレオンの副官であったアン・ジャン・マリエ・サヴァリ将軍のスパイとして活動した。

 サヴァリはフーシェの後任として警察大臣を務めた人物である。シュルマイスターはオーストリア軍の情報をナポレオン軍に伝える一方、偽情報をオーストリア軍に伝えることで、1805年10月のウルムの戦いでのフランス軍の勝利に貢献した。そしてその貢献を認められ、シュルマイスターは対外情報の責任者に抜擢されるほど重用された。』

『勝敗を決した重要情報の扱い

 他方、強大なナポレオン軍に対峙していたのが英国やプロイセン、ロシアといった国々である。中でも英軍はインテリジェンスを武器の一つとして活用することで、劣勢を補おうとした。

 英軍司令官、初代ウェリントン公爵は、ナポレオンと同い年で、第二外国語がフランス語という共通点があり(ナポレオンの母語はイタリア語)、ナポレオンのライバルの一人に数えられる。ただし、ウェリントンはインドにおける9年もの戦争経験から、戦場での情報の重要性を認識していた点がナポレオンと異なる。

 ウェリントンの配下の卓越した暗号解読官であったジョージ・スコウベル将軍は、ナポレオンの兄でスペイン王のジョゼフ・ボナパルトの暗号書簡を解読し、仏軍はスペインでゲリラ戦に専念するため、英軍に対する兵力を減らす旨の情報を得ていた。そこでウェリントンは、スペイン・ポルトガル軍とともに十分な兵力を準備し、13年6月のビトリアの戦いで、仏軍を打ち破ることに成功している。

 その後、天下分け目の「ワーテルローの戦い」の直前にも、ウェリントンの部下がナポレオンの戦争計画について知らせてきた。その情報は15年6月18日にナポレオン軍が英蘭軍を攻撃するというものであった。この戦闘は、英蘭軍とプロイセン軍が戦場で合流できるかが勝敗の鍵であり、ウェリントンはプロイセン軍の参戦を確定させてから、仏軍に挑むことになる。

 他方、ナポレオンは戦いの当日、末弟のジェローム・ボナパルトから、プロイセン軍がワーテルローに接近中との情報を得ていたが、プロイセン軍の到着にはあと2日かかるとして、この重要情報を退けたのである。

 戦端が開かれると予定通り、プロイセン軍はその日の夕刻までには参戦を果たし、英蘭軍とプロイセン軍に挟撃された形の仏軍は崩壊した。

 さらにナポレオン戦争で、巨万の富を築いたのが、英国の銀行家であったネイサン・ロスチャイルドである。ロスチャイルドは欧州大陸中にビジネスのための情報網を開拓しており、そこに生じたのがワーテルローの戦いであった。ロンドンの金融市場もこの戦いに注目しており、英国が勝てば英国債を買い、負ければ売りとの観測であった。

 この時、ロンドンにいたロスチャイルドは、ドーバー海峡を隔てた数百㌔メートル先の戦場の情報を得ており、英国政府よりも早く英軍の勝利を知ったという。

 しかしここでロスチャイルドは、英国債を猛烈な勢いで売りこんだのである。ロスチャイルドの一挙一動を見守っていた市場関係者は、彼の売りを見て英国が敗北したと判断し、市場の英国債は暴落するも、ロスチャイルドは価格が底をついたのを見計らい、今度は猛烈な買いに転じ巨万の富を得ることとなった。これは「ネイサンの逆売り」として知られている。』