イスラエルと米軍が大規模な軍事演習を展開

 ※ 今日は、こんな所で…。

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 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)1月25日(水曜日)
       通巻第7604号  <前日発行>
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 なぜこのタイミングを選んで?
  イスラエルと米軍が大規模な軍事演習を展開

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 1月23日、イスラエル軍と米軍合同の大規模な演習が開始された。
「ジュニパー オーク」作戦と銘打たれた軍事演習には6400の米兵、12 隻の船舶ならびに戦闘機が142機、それにドローンが加わった。

嘗てこれほど大規模な軍事演習がイスラエル軍と米軍の共同で行われたことはない。

 表向きの発表では「米国とイスラエルの軍隊間の統合を実証し、深めることを意図する」とされたが、本当のところ、イランの核施設破壊作戦の実験演習ではないか。
 トランプ政権はイランとの核合意を白紙に戻したが、バイデン政権はこれをまた元に戻そうとしている。

 注目すべきポイントは、米軍からKC46など空中給油機が含まれていることだ。現有のイスラエル戦闘機の航続距離はイランの核施設攻撃後、帰国することができないため途中で給油が必要とされる。

 また「ジュニパー オーク」作戦に米軍は最新鋭のハイマース (HIMARS) を投入した。こればウクライナに供与したハイマースとは同型ではなく、射程480 キロメートルという最高度なものが使われる。
 
 B52 爆撃機のはか、最新鋭F35が演習に参加してF15、F16、F18 の戦列に加わった。直前にイスラエルのネタニヤフ首相は、エルサレムを訪問したジェイク・サリバン米大統領補佐官と会談した。

 イランの核計画は依然として深刻な懸念材料である。

     ☆□☆み□☆☆□や☆□☆□ざ☆□☆□き☆□☆□   

 ※ イスラエルのF-35に関しては、

 『 F-35のSDD作業に保全協力参加国として参加していたイスラエルは、イスラエル空軍のF-16A/Bの後継機としてA型をベースにしてイスラエル製の電子機器や兵装を搭載できるよう改修したF-35Iの購入を2010年8月に決定し、2010年10月に当初予定の20機を19機に削減した27億5000万ドルで調印した。

価格高騰を受けてレーダーなどを国内開発することも検討したが、逆に開発費がかかり過ぎる事が判明し、発注済みの19機についてはアメリカ空軍向けの機体と基本的に同じものになるという[214]。

2015年2月には追加の14機が、2016年11月には17機が契約されており、F-35Aの調達は合計で50機となった[215]。

2016年12月12日に最初の2機 "901号機" "902号機"がイスラエル南部のネバティム空軍基地に到着し[216]、16時間後には早くも初ソーティが行われた。2019年にはさらに2機のF-35Iがネバディム空軍基地に到着した[212]。

イスラエル空軍は2021年までに50機のF-35Aでネバティム空軍基地でF-16Aを運用している第140飛行隊、第116飛行隊の2個飛行隊を更新予定で[217]、2017年12月には作戦能力を獲得した[218][219]。

また、オプションを行使することで75機の購入が可能であることから、最終的には3個飛行隊75機のF-35Aで現在運用しているF-16A/B(現在88機/16機運用)を更新することになると見られている[214]。

更に将来必要となるF-16C/D(現在75機/54機運用)の後継として、可能であればF-35Aで代替をイスラエルは希望している。これが実現すれば、F-35保有数は200機近くに達すると見られている[214]。

イスラエル空軍は、ヒズボラやハマスの長射程ロケット弾や、イランの地対地ミサイルによって、イスラエル国内の空軍基地の滑走路が破壊される危険度が高まったため、短距離発進・垂直離陸型のF-35Bの導入も検討している[220]。ベンヤミン・ネタニヤフ首相(当時)もF-35Bの導入に関心を示しており[221]、2015年12月にはイスラエルはF-35Bの購入についてアメリカと協議している[222]。

イスラエルはF-35Iの航続距離延長のために、Elbit Systems Cyclone社がロッキード・マーティンの技術支援を受けて投棄型パイロンを開発しているほか、航続距離と滞空時間の増大化のためにF-35に対応したCFTを開発することも検討されている[223]。

また、イスラエルではF-15やF-16の複座型を多数配備し、機体後席のWSOの配置による攻撃能力強化や、指揮通信システムR2-D2の搭載による指揮管制機としての運用が行われており、F-35Iについても複座型の開発が検討されている。

ただし、F-35の複座型の開発には、前部胴体構造の変更や機体外形の変化に伴うステルス性の低下等、実現へのハードルが高いとされる[223]。』…、とのことだ(wikiより)。

ウクライナへの侵攻「壊滅戦」 ドイツ大使、武器供与に全力

ウクライナへの侵攻「壊滅戦」 ドイツ大使、武器供与に全力
https://www.47news.jp/world/8846912.html

『ドイツのフォンゲッツェ駐日大使が23日までに東京都内で共同通信と単独会見した。ロシアのプーチン大統領がウクライナの国土を徹底的に破壊する「壊滅戦争を続けている」と非難、早期終結は見通せず、欧米諸国は戦いが続く限り「ウクライナに武器を送る」と訴えた。

 ドイツは米国や英国とともに、ウクライナに対する主要な武器供与国。当初は供与に慎重だったが、本格侵攻に直面して方針を転換した。新型防空ミサイルや自走式りゅう弾砲などをウクライナに送っており、支援の意思が今後も揺るがないと明確にした。

 フォンゲッツェ氏は、ロシアが明白な侵略者だと強調した。』

4年内の台湾攻撃、依然懸念 中国巡り前米司令官

4年内の台湾攻撃、依然懸念 中国巡り前米司令官
https://www.47news.jp/world/8847209.html

『米インド太平洋軍のデービッドソン前司令官は23日、東京都内で共同通信の単独インタビューに応じ、中国の習近平指導部の3期目任期が満了する2027年までに中国が台湾を攻撃する可能性があるとの見解は変わらないと強調した。日本の反撃能力(敵基地攻撃能力)保有の動きを歓迎し、米国製巡航ミサイル「トマホーク」導入が「最速の方法だ」と語った。

 デービッドソン氏は習国家主席が昨年10月の共産党大会で台湾統一に向けて「武力行使の放棄を約束しない」と述べたことに触れ、自身が現職司令官時代に27年までに台湾有事が起きる可能性があるとした分析が「今も当たっている」と指摘した。

共同通信 』

「大戦後最大の困難」認める ロシア参謀総長、ウクライナ侵攻

「大戦後最大の困難」認める ロシア参謀総長、ウクライナ侵攻
https://www.47news.jp/world/8848785.html

『ロシア軍制服組トップのゲラシモフ参謀総長がロシア紙「論拠と事実」と会見し、ウクライナ侵攻について「現代のロシアがこのレベルの集中的な軍事行動を取ったことはなかった」と述べ、ロシア軍が第2次大戦以降で最大の困難に直面していることを認めた。同紙電子版が24日に伝えた。

 国家の主権と領土の一体性保持のため「持てるあらゆる手段を講じる」と強調。プーチン大統領の指示に従い軍事作戦の目的を達成する決意を示した。

 フィンランドとスウェーデンの北大西洋条約機構加盟申請や、「ウクライナをロシアへのハイブリッド戦争に利用する」欧米の対応が軍事的脅威だと指摘した。(共同)』

ウクライナ、東部ソレダル撤退か ロシア軍死傷者「18万人近く」

ウクライナ、東部ソレダル撤退か ロシア軍死傷者「18万人近く」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023012300705&g=int

『【ベルリン時事】ウクライナ紙キーウ・インディペンデント(電子版)は22日、ウクライナ軍が東部戦線の激戦地となったソレダルから撤退したとの見方を示した。ロシア軍は東部ドネツク州の要衝バフムト攻略に向け、ウクライナ軍の補給路を断つ狙いからソレダルを集中的に攻撃していた。全体的な戦局への影響は小さいとされるが、目立った戦果に乏しいロシア側には兵士の士気を高める思惑もあったもようだ。

ロシア、ウクライナ南部で攻勢強める ジョンソン元英首相が首都を電撃訪問

 報道によると、ソレダルではロシア側が民間軍事会社ワグネルを中心に多大な犠牲を出しながら徐々に前進。ウクライナ軍は防衛を続けていたが、「年明けにロシア軍の精鋭空挺(くうてい)部隊が投入されたことで、状況が一転した」という。戦力差が生じ今月12日ごろに撤退。ウクライナ軍の重火器や銃弾の不足も一因だと分析した。

 ただ、消耗戦は続いており、双方の被害が膨れ上がっている。ノルウェー軍トップはテレビインタビューで、「ロシア軍の死傷者は18万人近くに上る」と指摘。一方で、ウクライナ側も市民3万人の犠牲に加え、10万人超の兵士が死傷しているという。

 ロシア国防省は22日、南部ザポロジエ州で前進を続けたと発表。攻勢を強めているとみられるが、ウクライナ国営通信は「ザポロジエに関しては、大規模な展開はない」との当局者の発言を伝えた。 』

大砲や戦車と同列に、いまやドローンが、軍隊の必須兵器に昇格した…。

大砲や戦車と同列に、いまやドローンが、軍隊の必須兵器に昇格した…。
https://st2019.site/?p=20811

『John Haltiwanger 記者による2023-1-23記事「Ukraine’s battlefields look like World War I but with a new and terrifying addition that leaves troops with almost nowhere to hide」。

    シンクタンクのピーター・シンガーは言う。ドローンが将来の通常戦争でユビキタスに使われる一般的な道具に昇格することはあるのかという議論は、今次ウクライナ戦争の現実によって、おわった。

 ※昔の砲兵に双眼鏡が必要だったように、これからの砲兵と歩兵の重火器には、ドローンが不可欠である。またそれ以外の兵科にとっても、ドローンの役割は増すばかりで、減ることは考えられないだろう。

 クリストファー・ミラーは言う。ドローンのスウォーム運用はいつ戦争で見られるのだろうかと皆、関心をもっていた。なんとそれを最初に実行したのはロシア軍で、システムはイラン製の「シャヘド136」であった。
 シンガーが着目するのは、露軍が、自爆型ドローンを、意図的に、平気で《都市の民間住民殺害》に投入することである。これは盲点だった。西側では誰もそんなことは考えなかったので。

 しかし考えてみれば、自爆型ドローンは、ロンドンを無差別空襲した「V-1」号と同じなのだ。それがニューテクノロジーによって安価に復活したと思えばよい。

 末端部隊の偵察手段として、DJIの「Mavic 3」は定番に昇格した。オンラインだと3000ドルしないで入手できる市販品である。

 戦術偵察の流儀は、根本から変わってしまった。ロンドンのキングズカレジの研究者マリナ・ミロンは言う。かつては敵部隊の位置を確かめるために長距離偵察小隊や潜入斥候を陸上から派遣する必要があった。その偵察人員が無事に戻って来られる保証はないので、偵察隊を出すか出さないかも指揮する部隊長の悩み所であった。しかし今日、偵察ドローンが撃墜されても誰も死なない。長距離偵察をするべきか控えるべきかの判断は、悩む所ではなくなったのである。すぐに飛ばせるドローンがあるかないかだけが問題になった。ドローンがなければ偵察情報はあつまらず、その部隊は敵よりも単純に不利に陥る。敵は常続的に偵察ドローンを送り出してくるので。

 地上部隊はまた、常に敵のドローンから見られていると意識しなければならなくなった。これを忘れた者は、単純に、生き残れない。

 ドローンは「キルチェーン」を劇的に短くした。敵の高価値目標を遠くで発見し、その座標を特定し、味方砲兵に射撃して命中弾を与えて片付けてもらうまでの時間が、極端に短縮されつつあるのだ。

 シンガーは言う。大砲や戦車と同列に、いまやドローンが、軍隊の必須兵器に昇格したのである。』

サンクトペテルスブルグに白人至上主義の民兵集団がいる。

サンクトペテルスブルグに白人至上主義の民兵集団がいる。
https://st2019.site/?p=20811

『2023-1-23記事「Russian Military Intelligence Linked to Spanish Letter Bomb Campaign ―― NYT」。

    サンクトペテルスブルグに白人至上主義の民兵集団がいる。そやつらが先のスペインの手紙爆弾の実行犯だという報道。背後でけしかけているのはGRUであると。

 6通の手紙爆弾が、昨年11~12月にスペイン高官宛てに配達された。

 ロシア人は、《ロシアは全欧でテロできるんだぞ》ということを示したいらしい。それが動機』

欧州の軍需メーカーが必要とするタングステンは、すべて中共で掘られており…。

欧州の軍需メーカーが必要とするタングステンは、すべて中共で掘られており…。
https://st2019.site/?p=20811

『Defense Express の2023-1-23記事「Europe’s Defense Industry Depends On Chinese Tungsten, Which Is Transported Through the Territory of russia」。

   『ブルームズバーグ』が指摘した。欧州の軍需メーカーが必要とするタングステンは、すべて中共で掘られており、その輸送経路はロシアを通ってくる。
 このタングステン供給が途中で阻止されると、どうなるか。

 2022年の9ヵ月間のうちに、中共から欧州に輸送されるタングステンは、2倍に増えた。3万6100トン。
 ちなみに2020年では1万トン未満だった。

 鉄道輸送の起点は武漢で、終点はドイツのデュイスバーグ。毎日、15両編成の貨物列車が、16日かけて到着している。

 もし露領を通さずに中共から欧州までレアアースを運搬しようとすると、日数が2倍になる。
 それで欧州は、経済制裁をかけるにしても、ロシア領内の鉄道輸送商売についてはお目こぼししなければならないというジレンマに陥っている。

 ダボス会議では、ノルウェーにあるヴァナジウムとチタニウムの鉱山を各国合同で大開発しようという話も出ている。中共やロシアのレアアースや鉄道への依存をすこしでも減らすためだ。』

「レオパルト2」が100km自走するためには軽油が500リッター必要である。

「レオパルト2」が100km自走するためには軽油が500リッター必要である。
https://st2019.site/?p=20811

『Vahur Lauri 記者による2023-1-23記事「RKIK: Estonian tank purchase would need 3 percent of GDP defense spend」。

    もしエストニアが西側製の重戦車を調達しようと思うのなら、国防予算はGDPの3%に達するであろうという。

 戦車兵のトレーニングにはシミュレーターも欠かせない。たとえば「レオパルト2」が100km自走するためには軽油が500リッター必要である。実車を走らせて訓練していたら、破産する。

 2016年のワルシャワ・サミットでNATOは決めた。エストニア領内に重戦車を事前展開しておこうじゃないかと。

 そこで、米、英、仏、独、デンマーク軍が、エストニア領内に重戦車を置いている。英軍はチャレンジャー2、仏軍はルクレールである。

 エストニアのウクライナ支援金額は、GDPの1%に達している。』

ロシア国境沿いのノルウェー領内に住む人々は、毎朝…。

ロシア国境沿いのノルウェー領内に住む人々は、毎朝…。
https://st2019.site/?p=20811

『2023-1-18記事「Latest war news round-up: Border-area residents start locking their doors」。
    ロシア国境沿いのノルウェー領内に住む人々は、毎朝、玄関前を慎重に確かめる。露領から逃亡してきた兵隊や民間人が隠れているかもしれないからだ。

 川ひとつ隔てた向こう岸で、深夜に、照明の光が動き、スノーモビルの走り回る音が響くこともあるという。何かを捜索しているのだ。

 大物の亡命。ワグネルの犯罪を証言する者が、オスロに保護されている。これに続く者が続出してはロシアも困る。』

今年のロシアの軍需工業界は、5万人の技能労働力が不足するだろうとの予測値が出た。

今年のロシアの軍需工業界は、5万人の技能労働力が不足するだろうとの予測値が出た。https://st2019.site/?p=20811

『Defense Express の2023-1-23記事「Russian Defense Industry Has Faced Lack of Qualified Personnel」。
   今年のロシアの軍需工業界は、5万人の技能労働力が不足するだろうとの予測値が出た。

 昨年9月、ロシア政府はウラル戦車工場に24時間操業を命じた。しかるにそれに必要な労務者が足らず、工場ではけっきょく250人の囚人を刑務所から借り出してくるしかなかった。』

「多機能海洋調査船」――略してMROS。

「多機能海洋調査船」――略してMROS。
https://st2019.site/?p=20811

『Andrew Chuter 記者による2023-1-21記事「British naval forces get specialized vessel for seabed operations」。

   「多機能海洋調査船」――略してMROS。いま、リヴァプールの造船所で改造工事が仕上がりつつあるが、これが英国政府にとっての最初の、大陸棚の通信ケーブルや石油ガスパイプラインを、ゲリラ攻撃から保守する専用船になる。ぜんぶで2隻、発注されている。国防省の予算。

 1隻が6000トン。1号船はこの夏から活動を開始できる。

 所属は、英海軍の補給艦などと同じ、「補助艦艦隊」。

 MROSは、ヘリパッド、クレーン、広大な作業デッキ、そして「ムーン・プール」を備える。艦の中央の底部に、下方に貫通した大穴があって、そこから小型潜航艇を出し入れできるのだ。

 艦固有の乗員は24名ほど。加えて、水中作業のスペシャリスト等が60人くらい、臨時に同乗できる。』

敵を困らせる兵器の発明もあれば、味方を困らせる兵器の発明もある。

敵を困らせる兵器の発明もあれば、味方を困らせる兵器の発明もある。
https://st2019.site/?p=20811

『Ashish Dangwal 記者による2023-1-23記事「Australia To Buy ‘Smart Sea Mines’ In Billion Dollar Deal That Can Differentiate Between Military & Civilian Ships」。
    オーストラリアは、ハイテク機雷を大量に調達する。これは、商船とシナ軍艦を自律的に識別できるという。
 ベトナム戦争いらい、豪州が機雷に巨額投資をするのは初めて。総額は10億ドル規模だという。

 ※スマート機雷は、確実に中共を困らせる兵器だ。これは間違いない。しかし、防衛省が計画している三種弾頭とりかえ式の巡航ミサイルとやらは、味方を困らせる兵器じゃないか? そんな匂いがプンプンする。

 戦争は田植えや稲刈りとは違う。不完全情報状況下で、敵司令官よりも一歩早い決断を次々に下していかない限り、イニシアチブとアドバンテージは敵側に握られ、それを決断のノロマな軍隊の側は、二度と奪い返すことはできない。

 偵察キットを弾頭にとりつけて放った初弾が、もし調子が悪かったらどうする? ある海面の偵察だけに失敗したら? あるいは、飛んだは飛んだが、鮮明な映像を送ってこなかったら? 海警か海上民兵か第三国漁船か、画像からは判断し辛かったら? 東京の政府に許可を得るためにあらためて2発目を送り出すのか? そんなことをやっているあいだ、攻撃判断はず~っと保留しておくのかい? 敵はすでにこっちの出方を察知してしまった。時間はどんどん過ぎる。その間に敵が作戦の帰趨を決定的にしてしまう。』

ユーゴスラビア

ユーゴスラビア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2

 ※ まず、バルカン半島の地理と歴史を、押さえておこう…。

 ※ コソボ紛争は、そういうものの「派生」として、生じている…。

『ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija/Југославија)は、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。

国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり[1]、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義が生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった[1]。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。

なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。

国家の多様性から『七つの国境[注釈 1]、六つの共和国[注釈 2]、五つの民族[注釈 3]、四つの言語[注釈 4]、三つの宗教[注釈 5]、二つの文字[注釈 6]、一つの国家』と形容される[1][2][3]。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照 』

『概要

首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年にユーゴスラビア王国に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンを中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置したユーゴスラビア民主連邦が正式なユーゴスラビア政府となり社会主義体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称された[注釈 7]。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。

しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、1991年から2001年まで続いたユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も2006年にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアとなっている。また、セルビア国内の自治州であったコソボは2008年にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり[4]、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。

バルカン半島に位置し、北西にイタリア、オーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニア、ブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。

国名

ユーゴスラビアはスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でЈУГОСЛАВИЈА(スロベニア語: [juɡɔˈslàːʋija]、セルビア・クロアチア語: [juɡǒslaːʋija, juɡoslâʋija])。

日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。過去にはユーゴースラヴィアという表記が使われていた[5]。

ユーゴスラビアは「南スラヴ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。

国名の変遷

1918年 - セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
1929年 - ユーゴスラビア王国
1943年 - ユーゴスラビア民主連邦
1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国
1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国
2003年2月5日 - セルビア・モンテネグロ独立、ユーゴスラビアの国名が消滅。

歴史

王国の成立
詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照
ユーゴスラビア王国の国旗

第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。

1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。

憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年10月3日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。

国王アレクサンダル1世

国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。

1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。

アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。

第二次世界大戦
Axis occupation of Yugoslavia, 1941-43.png
Axis occupation of Yugoslavia, 1943-44.png

ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。

同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印した[6]が、 翌4月6日朝にはドイツ国防軍がイタリア王国、ハンガリー、ブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始[7]。 4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した[8]。

ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。

ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。

ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はイギリスのロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任するヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。

連邦人民共和国の成立

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗

大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り[9]、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[10][11]、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍[12] など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。

社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。

第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照

このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。

1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。

東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。

崩壊

詳細は「ユーゴスラビアの崩壊(英語版)」を参照
「ユーゴスラビア紛争」も参照
1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷

1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。ドイツのハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている[13]。

セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。

連邦共和国の成立

詳細は「ユーゴスラビア連邦共和国」を参照

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。
一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。

ユーゴスラビアの変遷

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指導者
王国

すべてカラジョルジェヴィチ家。

ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)
アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)
ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)

共産主義者同盟

ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(1939年3月-1980年5月4日)
    ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理
    ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理
ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)
ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)
ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)
ミティア・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)
ドラゴスラヴ・マルコヴィッチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)
アリ・シュクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)
ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)
ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)
ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)
スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)
ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)

連邦人民共和国・社会主義連邦共和国

イヴァン・リヴァル(1945年12月29日 - 1953年1月14日)
ヨシップ・ブロズ・ティトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領
ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)
ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)
セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)
ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)
ミカ・シュピリャク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)
ヴェセリン・ジュラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)
ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)
シナン・ハサニ(1986年5月15日 - 1987年5月15日)
ラザル・モイソフ(1987年5月15日 - 1988年5月15日)
ライフ・ディスダレヴィッチ(1988年5月15日 - 1989年5月15日)
ヤネス・ドルノウシェク(1989年5月15日 - 1990年5月15日)
ボリサヴ・ヨヴィッチ(1990年5月15日 - 1991年5月15日)
スティエパン・メシッチ(1991年6月30日 - 1991年10月3日)
    ブランコ・コスティッチ(1991年10月3日 - 1992年6月15日)代理

連邦共和国

ドブリツァ・チョシッチ(1992年6月15日 - 1993年6月1日)
    ミロシュ・ラドゥロヴィッチ(1993年6月1日 - 1993年6月25日)代理
ゾラン・リリッチ(1993年6月25日 - 1997年6月25日)
    スルジャ・ボジョヴィッチ(1997年6月25日 - 1997年7月23日)代理
スロボダン・ミロシェヴィッチ(1997年7月23日 - 2000年10月7日)
ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(2000年10月7日 - 2003年3月7日)

政治

1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。

1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があったことから、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。

1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。
地方行政区分

「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照。
1918年-1941年
詳細は「ユーゴスラビア王国の地方行政区分」を参照

1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。

ドラヴァ州(Dravska banovina)
サヴァ州(Savska banovina)
プリモリェ州(Primorska banovina)
ヴルバス州(Vrbaska banovina)
ドナウ州(Dunavska banovina)
ドリナ州(Drinska banovina)
モラヴァ州(Moravska banovina)
ゼタ州(Zetska banovina)
ヴァルダル州(Vardarska banovina)
ベオグラード市(Grad Beograd、パンチェヴォおよびゼムンを含む)

1945年-1990年
スロベニア
社会主義共和国
クロアチア
社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ
社会主義共和国
モンテネグロ
社会主義
共和国
マケドニア
社会主義
共和国
セルビア
社会主義共和国
ヴォイヴォディナ
社会主義
自治州
コソボ
社会主義
自治州
詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分」を参照

1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。

スロベニア社会主義共和国
クロアチア社会主義共和国
マケドニア社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国
セルビア社会主義共和国
    ヴォイヴォディナ社会主義自治州
    コソボ社会主義自治州
モンテネグロ社会主義共和国

1990年以降

1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。

スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言し、スロベニア共和国となった)
クロアチア共和国(1991年6月に独立を宣言し、クロアチア共和国となった)
マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立し、マケドニア共和国となった。2019年に北マケドニア共和国に改称)
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(1992年3月に独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国となった。その後内戦に突入し、1995年12月和平に調印)
セルビア共和国(2003年に「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の独立に伴って独立し、セルビア共和国となった)
    ヴォイヴォディナ自治州(セルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州となっている)
    コソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日に独立を宣言し、コソボ共和国となった)
モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立しモンテネグロとなった)

地理
河川

ドナウ川
サヴァ川
モラヴァ川
ヴァルダル川
ドリナ川
ウナ川
ネレトヴァ川

山脈

ディナル・アルプス

経済

1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。

また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。

通貨はユーゴスラビア・ディナール

国民

セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、アルバニア人のために南部にコソボ自治州が、ハンガリー人のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。

宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人は主にイスラームである。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えてムスリム人という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。

言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解することができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。

文化
スポーツ
詳細は「ユーゴスラビアのスポーツ」を参照

サッカー

サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第1回から出場している。ワールドカップでの最高成績は1930年および1962年の4位である。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。

1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990 FIFAワールドカップでは準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。

しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応してFIFA、UEFAはユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体とともにユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録はユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ→セルビアが引き継いでいる。

旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承されている。1998 FIFAワールドカップではユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアは3位に入る活躍を果たした。またサッカーが盛んとはいえないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002 FIFAワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに世界を驚かせた。さらに2014 FIFAワールドカップではボスニア・ヘルツェゴビナも本大会初出場を果たし、2018 FIFAワールドカップではクロアチアが準優勝し、さらに大きな驚きを呼んだ。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われたことが上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。

オリンピック

サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。

第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。

有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。

しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦うことを認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年リレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。

ユーゴスラビアは1996年アトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年シドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア
^ スロベニア、クロアチア、セルビア(ボイボディナ、コソボの2自治州が含まれる)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア
^ スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人(ユーゴスラビア内ムスリム)。 また、アルバニア人も多く、彼らのほとんどはコソボ自治州に住む。
^ スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語
^ カトリック、正教、イスラム教。 宗教はスロベニア、クロアチアらほとんどカトリック信者、ボスニア・ヘルツェゴビナ(40%以上)やコソボ(80%以上)では多数のイスラム教徒がおり、セルビアとモンテネグロ、マケドニアでは圧倒的に正教の信者が多い。
^ ラテン文字とキリル文字
^ ユーゴスラビア連邦人民共和国の国家規模は(社会主義国の連邦として)ソ連に次ぐものであった。

出典

^ a b c 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典. “ユーゴスラビアとは” (日本語). コトバンク. 2022年3月8日閲覧。
^ “特集 西バルカン地域 多民族社会の平和を目指して(1/4ページ) | 広報誌・パンフレット・マンガ | JICAについて - JICA”. www.jica.go.jp. 2021年4月29日閲覧。
^ “映画『灼熱』 公式サイト” (日本語). www.magichour.co.jp. 2022年3月8日閲覧。
^ KosovaThanksYou コソボ独立を承認した国の一覧
^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について
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^ ユーゴ全軍が無条件降伏(『東京日日新聞』昭和16年4月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p388
^ W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953
^ Sherman Register - Yugoslavia
^ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)
^ United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force
^ “旧ユーゴ内戦と国際社会” 2017年7月11日閲覧。

参考文献

柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社

関連項目

ユーゴスラビア関係記事の一覧
    ユーゴスラビア紛争
    ボスニア紛争
    セルビア・モンテネグロ
    ユーゴスラビア共産主義者同盟
    ユーゴスラビア人
    ユーゴスラビア辞書協会百科事典
バルカン半島の歴史
ヨーロッパ史
アンダーグラウンド (映画)
石の花 (坂口尚の漫画)
さよなら妖精 (米澤穂信)
ユーゴスラビア (小惑星)(ユーゴスラビアに因んで命名された小惑星)
ロヴロ・フォン・マタチッチ
ユーゴノスタルギヤ: 無くなったユーゴスラビアに対する懐古感情。
ユーゴスラビアの政治犯(英語版)

外部リンク

最後の国王ペータル2世の皇太子アレクサンダル・カラジョルジェヴィチの公式ウェブサイト(英語)
The Weight of Chains (2010) - ユーゴスラビア解体を招いたアメリカ、EUの介入を暴いたカナダのドキュメンタリー映画
旧ユーゴスラビア - NHK for School
『ユーゴスラビア』 - コトバンク

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ユーゴスラビア汎スラヴ主義かつてバルカンに存在した国家過去の国際連合加盟国

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コソボ紛争

コソボ紛争
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コソボ紛争
ユーゴスラビア紛争中
Kosovo War header.jpg
(上)コソボ空爆による被害。
(下)爆撃のため飛び立つNATO軍(米空軍)のF-15E。
戦争:コソボ紛争
年月日:1998年2月 – 1999年6月11日
場所:コソボ
結果:NATOの勝利。コソボからユーゴスラビア軍は撤退、UNMIK開始、KFOR駐留、コソボ解放軍は解体。
交戦勢力
Flag of Albania.svg コソボ解放軍
アルバニアの旗 アルバニア
Flag of Jihad.svg ムジャーヒディーン義勇軍
北大西洋条約機構の旗 NATO[注釈 1]
戦闘参加国:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
イタリアの旗 イタリア
オランダの旗 オランダ
カナダの旗 カナダ
スペインの旗 スペイン
チェコの旗 チェコ
デンマークの旗 デンマーク
ドイツの旗 ドイツ
トルコの旗 トルコ
ノルウェーの旗 ノルウェー
ハンガリーの旗 ハンガリー
ベルギーの旗 ベルギー
フランスの旗 フランス
ポーランドの旗 ポーランド
ポルトガルの旗 ポルトガル
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ユーゴスラビア連邦共和国
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ユーゴスラビア軍
セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 セルビア警察
セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 セルビア人準軍事組織(外国人兵士含む)
指導者・指揮官
北大西洋条約機構の旗 ウェズリー・クラーク(英語版)(SACEUR)
北大西洋条約機構の旗 ハビエル・ソラナ(NATO事務総長)
Flag of Albania.svg アデム・ヤシャリ(英語版)(1996-1998、コソボ解放軍総司令官)
Flag of Albania.svg スレイマン・セリミ(英語版)(コソボ解放軍参謀長、1999年5月まで)
Flag of Albania.svg アギム・チェク(英語版)(コソボ解放軍参謀長、1999年5月から) ユーゴスラビア連邦共和国の旗 スロボダン・ミロシェヴィッチ(ユーゴスラビア軍最高司令官)
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ドラゴリュブ・オイダニッチ(英語版)(参謀総長)
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 スヴェトザル・マリャノヴィッチ(参謀副長)
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ネボイシャ・パヴコヴィッチ(英語版) (ユーゴスラビア第3軍司令官)

戦力

北大西洋条約機構の旗 航空機: 1,031+[1]
Flag of Albania.svg 兵士:

12,000-20,000 人(アルバニア人側の情報)
6,000-8,000 人(セルビア人側の情報)

セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 兵士: 85,000-114,000 人

セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 警察官: 20,000 人
セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 義勇軍 15,000 人

損害
コソボ解放軍: 死者: 2,788 人[2] – 6,000 人[3]

NATO: 死者: 2 人(非戦闘中)[4]
コソボ解放軍による死者数:
不明
NATOによる死者数:
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 兵士: 462 人[5]
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 警官: 114 人[6]

コソボ紛争

    プレカズの攻撃 ロジャの戦い ベラチェヴァツ炭鉱の戦い ユニクの戦い グロジャネの戦い ゴルニェ・オブリニェの虐殺 パンダ・バーの虐殺 ラチャクの虐殺 ユーゴスラビア空爆 ポドゥイェヴォの虐殺 ヴェリカ・クルシャの虐殺 イズビツァの虐殺 アルバニア作戦 コシャレの戦い ツスカの虐殺 スヴァ・レカの虐殺

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ユーゴスラビア紛争

    十日間戦争 クロアチア紛争 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 コソボ紛争 マケドニア紛争

コソボの歴史
Flag of Kosovo.svg
古代 – 中世
イリュリア
ローマ帝国 (100 BC – 395 AD)
東ローマ帝国 (395 – 839)
ブルガリア帝国 (839 – 1241)
セルビア王国
コソボの戦い
オスマン帝国(1455 – 1912)
ルメリ
コソボ州 (en)
アルバニア民族覚醒 (en)
プリズレン連盟
20世紀以降
第一次バルカン戦争
セルビア王国
ユーゴスラビア王国
アルバニア王国
コソボ・メトヒヤ自治州 (1946 – 1974)
コソボ社会主義自治州 (1974 – 1990)
コソボ共和国(1990 – 2000)
コソボ・メトヒヤ自治州 (1990 – 1999)
コソボ紛争 (1996 – 1999)
UNMIK(1999 – 2008)
コソボ共和国 (2008 -)

表話編歴

コソボ紛争(コソボふんそう、アルバニア語:Lufta e Kosovës、セルビア語:Рат на Косову и Метохијиは、ユーゴスラビア紛争の過程で、バルカン半島南部のコソボで発生した2つの武力衝突を示す。

1998年 - 1999年:1998年2月から1999年3月にかけて行われたユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人の武装組織コソボ解放軍との戦闘
1999年:1999年3月24日から6月10日にかけて行われた北大西洋条約機構(NATO)によるアライド・フォース作戦[13]、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。

なお、セルビア語とアルバニア語で地名が異なる場合、この記事では「アルバニア語呼称 / セルビア語呼称」のように表記する。
前史
1945年 – 1986年 : 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボ
詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)」および「コソボ社会主義自治州」を参照

セルビア人、アルバニア人の間には20世紀を通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期には頻発した。第二次世界大戦後、社会主義体制をとるヨシップ・ブロズ・チトーの政府はユーゴスラビア社会主義連邦共和国全域において民族主義者の活動を体系的に抑止し、ユーゴスラビアのいかなる構成国も、ヘゲモニー(覇権)となってユーゴスラビアを牛耳ることのないように努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多くの人口を抱えていた。そのため、セルビアの影響力を制限するために、セルビア北部のヴォイヴォディナと南部のコソボ・メトヒヤはそれぞれヴォイヴォディナ自治州、コソボ・メトヒヤ自治州としてセルビア本体から切り離された。コソボの国境はユーゴスラビアにおけるアルバニア人の居住地域の境と完全には一致していなかった。多数のアルバニア人住民はコソボ域外のマケドニア、モンテネグロ、セルビア本体に残された一方、コソボの北部には多くのセルビア人が住む地域が含まれた。いずれにしても、新設されたコソボの領域全体では、ユーゴスラビア王国時代の1921年の段階でアルバニア人が多数派であった。

コソボの公的な自治は1945年にユーゴスラビア憲法によって定められ、大きな自治権は与えられなかった。チトーの秘密警察(UDBA)は民族主義者を厳しく弾圧した。1956年には、多くのアルバニア人がコソボにおいて国家転覆の企てとスパイの容疑で訴追された。分離主義による脅威は実際にはそれほど大きなものではなく、少数の地下活動組織がアルバニアへの統合を求めて活動しているのみであり、政治的には大きな影響力を持ち得なかった。しかしながら彼らの活動のもたらす長期的な影響は小さくなく、アデム・デマツィ(Adem Demaci)によって組織されたアルバニア人統一革命運動は、後のコソボ解放軍(Ushtria Çlirimtare e Kosovës; UÇK)の政治的中核となっていった。デマツィ自身は1964年に他の賛同者らとともに投獄されている。

ユーゴスラビアでは1969年、政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部と貧しい南部の地域の間で貧富の差が拡大し、政治的・経済的な危機を迎えていた。しかしながら、ユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置を求め、アルバニア語の地位向上を求める学生らの要求に、チトーは応じることになった。1970年には、ベオグラード大学の下部組織であったプリシュティナ大学が独立の教育機関として設置された。コソボにおける教育のアルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身が教材を用意することで合意された。

1974年、コソボの政治的地位はユーゴスラビアの憲法改正に伴って大きく向上し、コソボの政治的権利は拡大された。ヴォイヴォディナとともに、コソボは他のユーゴスラビア構成国と多くの面において同等の地位を持つコソボ社会主義自治州となった。政治権力は依然として共産主義者同盟が独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった。

1980年5月4日のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は大アルバニア主義への始まりと見ていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、軍や警察を大量投入して反乱を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別の者は、この騒動での死者は1000人を超えると主張している。

コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類の民族主義に対して強硬路線が採られ、セルビア人、アルバニア人双方の民族主義者らに対する取締りが行われた。コソボには大量の秘密警察が配置され、当局に認められていないセルビア人、アルバニア人双方の民族主義の活動を厳しく弾圧した。マーク・トンプソン(Mark Thompson)の報告によると、コソボの住民580,000人が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。

この間、アルバニア人とセルビア人の共産主義者の間の緊張は高まり続けていた。1969年、セルビア正教会はその主教に対してコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を命じ、ベオグラードの政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索した。1982年2月、セルビア本国からセルビア人の神品(聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会は沈黙しているのか、なぜ進行中のコソボの聖堂に対する破壊行為、放火、冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めた。このような懸念はベオグラードの政府の関心をひきつけた。コソボにおいてセルビア人やモンテネグロ人が迫害を受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖と不安定化を招く重大な事実として、コソボのアルバニア人マフィアによる麻薬取引の話があった。

これらに加えて、コソボの経済状態の悪化が不安定化に拍車をかける要因となった。コソボの経済状態の悪化によってコソボのセルビア人は同地で職にありつく機会は失われていった。アルバニア人、セルビア人ともに、新しく労働者を採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのものが人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人を自称している者の中に多くのイスラム教の信仰を持つようになったロマが含まれていると信じられるに至った。コソボはユーゴスラビアの中で最も貧しく、1979年の時点で一人当たりGDPは795ドルであった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635ドル、最も豊かなスロベニアでは5315ドルであった。

1986年 – 1990年 : スロボダン・ミロシェヴィッチ登場とコソボ

「パヴレ (セルビア総主教)」も参照

コソボでは、アルバニア人の民族主義が拡大し、分離主義によってアルバニア人とセルビア人の民族間の緊張は高まっていった。有害な雰囲気が拡大し、危険な噂が蔓延し、小規模な衝突の数は増大していった[14]。セルビア正教会の修道院・聖堂等へのアルバニア人による破壊行為、聖職者や修道士への暴行、修道女の強姦なども増え、後にセルビア総主教となった主教パヴレも、1989年にアルバニア人の若者グループに襲われ、全治3ヶ月の重傷を負った。

セルビア科学芸術アカデミー(SANU)が1985年から1986年にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、このような緊張関係に対してのものであった[15]。報告では、この期間にコソボを去ったセルビア人の少なからざる部分は、アルバニア人による追放圧力によるものであると結論した。

SANUの6人の研究者らは、1985年6月に草案に基づいてこの仕事をはじめ、草案は1986年9月にリークされた。この「SANU覚書」は大きな議論を呼ぶものとなった。この文書では、ユーゴスラビアに住むセルビア人の置かれた困難な状況に焦点をあてており、セルビアの地位を低下させるチトーの周到な計画と、セルビア本国の外でのセルビア人の困難について述べている。

メモランダムはコソボに特に高い関心を寄せ、「コソボにおけるセルビア人が物理的、政治的、法的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と論じた。このメモランダムでは、1986年時点でのコソボのセルビア人の地位は、セルビアがオスマン帝国から解放された1804年以降で最悪となっており、ナチス・ドイツの占領下にあった第二次世界大戦時や、オーストリア=ハンガリー帝国と戦った第一次世界大戦時よりも悪いとした。メモランダムの著者らは、この20年間で20万人のセルビア人がコソボを去ったと主張し、急進的な改革がなければまもなくコソボからセルビア人はいなくなる、と警告した。メモランダムでは、その対処法として、「治安、およびコソボ・メトヒヤに住む全ての人々の明白な平等を保障すること」、そして「コソボを離れたセルビア人のコソボへの帰還を可能とする、永続的で実効性のある環境を作り出すこと」であるとした。メモランダムは「セルビアは、過去に見られたような、受身の姿勢で他者が何を言うかを待ってはならないとしている。

SANUメモランダムに対しては様々な反応があった。アルバニア人らは、これをコソボにおけるセルビア人優越主義を喚起するものであるとした。彼らは、コソボを去った全てのセルビア人は、単に経済的理由であると主張した。その他のユーゴスラビアの民族主義者、特にスロベニア人やクロアチア人は、セルビアの拡張主義の伸張であるとみた。セルビア人自身の見解は割れていた。多くのセルビア人らはこのメモランダムを歓迎した一方、古くからの共産主義の守護者らはこれを激しく非難した[16]。メモランダムを非難したセルビア共産主義者同盟の指導者の一人に、スロボダン・ミロシェヴィッチの名があった。

1988年、コソボ自治州の行政委員会の首班が逮捕された。1989年3月、ミロシェヴィッチはコソボおよびヴォイヴォディナでの「反官憲革命」(en)を宣言し、これらの自治権を剥奪し、外出制限をかけ、コソボでの24人の死者が出た暴力的なデモを理由にコソボに対して非常事態宣言を発令した。ミロシェヴィッチとその政府は、セルビアの憲法変更はコソボに留まるセルビア人を、多数派を占めるアルバニア人による迫害から保護するために必要不可欠であるとした。

1990年 – 1998年 : セルビア統治下のコソボ
詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)」を参照

スロボダン・ミロシェヴィッチが1990年、コソボとヴォイヴォディナの自治権を剥奪し、ミロシェヴィッチの支持者によって選ばれた新しい地元の指導者へと挿げ替え、コソボの権限縮小のプロセスを大きく進めた[16]。両自治州はユーゴスラビアの6つの構成共和国と同様にユーゴスラビア連邦の大統領評議会に議決権のある代表者を持っていたため、コソボ、ヴォイヴォディナをミロシェヴィッチ派が乗っ取ったことにより、ミロシェヴィッチ派の支配下となった両自治州とセルビア、モンテネグロを併せて、大統領評議会の8議席のうち4議席をミロシェヴィッチが独占することになった[16]。そのため、これ以外のユーゴスラビアを構成する4箇国、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの代表者は、ミロシェヴィッチによる憲法改正の計画を阻止するために共同行動を維持し続けなければならなかった。セルビアの体制変更は1990年7月5日、コソボを含むセルビア全土での住民投票によって可決された。これらの動きによって、80,000人のアルバニア人がコソボで職を追われることになった。コソボの全ての高等教育に対して、新しいセルビアの教育カリキュラムの導入が強いられた。この動きをアルバニア人は拒絶し、既存の教育機関と並存する独自の教育システムを設立した[17]。

コソボへの影響は絶大なものであった。自治権の縮小は、コソボの政治機構の解体を伴うものであった。コソボ共産主義者同盟、コソボ州政府、議会は公式に解体された。コソボの産業の多くは州が保有していたが、これらの企業の中枢は抜本的に入れ替えられた[16]。形式的には、少数の企業はその例外となった。政府は企業に対して忠誠の誓約を要したが、ほとんどのコソボのアルバニア人はその署名を拒否して追放されたものの、ごく一部は署名に同意し、セルビアの国有企業となった後も雇用を解かれずにいた。

アルバニア人の文化的自治も劇的に削減された。唯一のアルバニア語の新聞である『Ridilin』は発禁され、アルバニア語でのテレビ、ラジオ放送は中止された。アルバニア語は州の公用語から外された。プリシュティナ大学はアルバニア人民族主義の温床と見られていたが、大規模に粛清された。800の講義は閉鎖され、23,000人の学生のうち22,000人は追放された。40,000人程度いたユーゴスラビア軍の兵士や警官は、それまでのアルバニア人による治安維持機構から取って代わった。強権体制は「警察国家」との非難を受けた。貧困と失業は壊滅的な状況に達し、コソボの人口のおよそ80%は失業者となった。アルバニア人成人男性の3分の1は職を求めて国外(ドイツやスイスなど)へと流出した。

ミロシェヴィッチによるコソボ共産主義者同盟の解体によって、アルバニア人による最大の政治勢力はイブラヒム・ルゴヴァの率いるコソボ民主同盟へと移った。コソボ民主同盟は、コソボの自治権剥奪に対して平和的手段で抵抗することで応じた[17]。ルゴヴァは現実的な理由から、武装闘争を選択しなかった。武装闘争はセルビアの軍事力の前には無力であり、単に流血を招くだけと考えたためである。ルゴヴァはアルバニア人らに対してユーゴスラビア、セルビア国家へのボイコットを求め、選挙の不参加、徴兵の拒否、そして納税の拒否を呼びかけた。ルゴヴァはまた、並存するアルバニア語の学校、病院、診療所の設置を呼びかけた[16]。1991年9月、コソボの「影の」議会はコソボの独立を問う住民投票を実施した[16]。セルビア治安部隊による妨害や暴力にも関わらず、コソボのアルバニア人人口の90%の投票率であったと報告されている。そして、うち98%、およそ100万票がコソボ共和国の独立に賛成した[17]。1992年5月、2回目の選挙ではルゴヴァを大統領に選出した。セルビア政府はこれらの投票を違法であり、その結果は無効であるとした。

ルゴヴァは非暴力主義に立ち平和的独立を目指したが、セルビア当局は独立を認めなかった。しかし、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナなどの紛争を抱えるために、コソボに対する対処を十分に採ることができなかった。1991年6月以降、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していたスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナが次々に独立し、残されたセルビアとモンテネグロが新国家ユーゴスラビア連邦共和国を結成する一方で、「コソボ共和国」は国際社会からも無視され、1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の和平会議でも顧みられることはなかった[17]。

ルゴヴァの受動的抵抗の方針によって、1990年代前半のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで独立戦争があった間、コソボは平穏に保たれていた。しかしながら、コソボ解放軍の登場に見られるように、この平穏はアルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった[17]。1990年代半ば、ルゴヴァは国際連合に対してコソボでの平和維持活動を求めた。1997年、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された(上記のように、このユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって1992年4月に発足した新しい連邦である)。

セルビアによる抑圧が続くにつれ、アルバニア人たちの多くが過激化し、その一部は武力闘争のみが状況を打開し得ると考えるようになった[17]。1996年4月22日、セルビア治安部隊の隊員に対する攻撃が同時多発的にコソボの異なる地域でそれぞれ発生した。コソボ解放軍の性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍は小規模で、氏族を基盤とし、組織化の十分でない急進的アルバニア人の集団に過ぎず、その多くはコソボ西部のドレニツァ(英語版)地方の出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元の農民や追放者、失業者らであったと見られる。

コソボ解放軍は、コソボ国外に離散したアルバニア人ディアスポラから資金援助を受けていたと考えられている[18]。そして、アルバニア人による麻薬取引の拠点はヨーロッパ各地に作られた[19]。1997年初期、アルバニアでは、ねずみ講破綻に伴うアルバニア暴動とサリ・ベリシャの失脚の中、無秩序状態となっていた。軍の武器庫から武器が犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へと持ち込まれ、コソボ解放軍の装備を大幅に強化した。ブヤル・ブコシ(英語版)はスイスのチューリヒに置かれた亡命政府の大統領で、ブコシはコソボ共和国軍(英語版)(Forcat e Armatosura të Republikës së Kosovës; FARK)と呼ばれる組織を設立した。 多くのアルバニア人たちは、コソボ解放軍を正当な解放闘争者と見ていたが、ユーゴスラビア政府からは政府や市民を攻撃するテロリストと呼ばれた[17]。1998年、アメリカ合衆国の国務省はコソボ解放軍をテロリストに指定した[19]。1999年、アメリカ合衆国上院の共和党政策委員会は、ビル・クリントン大統領の政治がコソボ解放軍と「実質的に同盟関係にある」ことを指摘した。

「信頼できる複数の非公式の情報源によると(…)、コソボ解放軍は大規模なアルバニア人犯罪ネットワークに深く関与し(…)、イスラム主義のイデオロギーに動かされるテロリスト組織であり、イランやウサーマ・ビン=ラーディンからの援助を受け(…)」[20]

2000年、BBCの記事で、NATOによる戦いでは、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を「テロリスト」と規定しつつも、この時コソボ解放軍と関係を持つことを模索していたと指摘した[21]。

アメリカのロバート・ジェルバード(Robert Gelbard)使節はコソボ解放軍をテロリストと呼んだ[22]。批判に対してジェルバード使節が下院外交委員会に対して、「コソボ解放軍はテロリスト活動を実行しているものの、アメリカ合衆国政府によって法的にテロリスト組織と認定されているわけではない」、と明らかにした[20]。1998年6月、ジェルバード使節は、コソボ解放軍の政治的指導者を名乗る2人と面会した[22]。

アメリカやその他の国々の中には、コソボ解放軍に資金や武器が流入するのを食い止めることに対して積極的ではなかったと指摘されている。コソボ紛争をはじめとする一連の問題が起きた旧ユーゴスラビア地域を、アメリカは「制裁の外壁」の中においていた。制裁をとめることを目的としていたデイトン合意が結ばれた後もこれは維持され続けた。アメリカのビル・クリントン大統領はデイトン合意によって、ユーゴスラビアはコソボに関してルゴヴァと話し合うことができるようになったと主張した。

コソボの危機的状況は1997年12月に上昇した。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題を監督する和平履行評議会の会合がドイツのボンで開かれた際に各国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表に対して、選挙で選ばれた指導者を退ける権利を含む強大な権限を与えることに同意した。同じ時期に、西側各国の外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアはコソボのアルバニア人の要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合うコタンクト・グループ諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決局面に入ったという認識と、セルビアに対するコソボ問題解決の求めに対するものであった。

戦闘の経過

1998年2月 – 10月 : 紛争に突入
1998年、セルビア人犠牲者の遺体

1998年2月、コソボ解放軍による攻撃が激化し、ドレニツァ渓谷地帯に集中、アデム・ヤシャリ(英語版)はその中心的存在となっていた。ロバート・ジェルバードがコソボ解放軍をテロリストと呼んでから数日後、リコシャン(アルバニア語版)(リコシャネ(セルビア語版))地域でのコソボ解放軍の攻撃に対してセルビア警察が応じ、コソボ解放軍の兵士らをチレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)まで追い、30人のアルバニア人市民と4人のセルビア人警官が死亡した[23]。これが紛争において初の本格的な戦闘であった。

複数の捕虜の即決殺害や市民に対する殺害があったものの、西側諸国のユーゴスラビアに対する非難は、この時点ではあまり大きくならなかった。セルビア警察はヤシャリとその支持者をプレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ(Prekazi-i-Poshtem / Donje Prekaze)へと追撃した[24]。この3月5日の出来事は、西側諸国の政府からの大きな非難を呼んだ。アメリカ合衆国国務長官マデレーン・オルブライトは、「この危機はユーゴスラビア連邦共和国の国内問題ではない。」と述べた。

3月24日、セルビア軍はドゥカジン(Dukagjin)作戦地帯にあったグロジャン / グロジャネ(Gllogjan / Glođane)の村を包囲し、村にいた反乱分子を攻撃した[25]。セルビア軍は火力の上で優位にたっていたものの、コソボ解放軍の部隊を壊滅させることはできなかった。アルバニア人側には死者や重傷者もあったものの、グロジャン / グロジャネでの反乱を抑えきることはできなかった。この地域は、後に続く紛争では抵抗勢力側の重要な拠点の一つとなった。

また別のコソボ解放軍の重要な拠点はコソボとの国境に近いアルバニアの北部の、トポロヤを中心とした地域であった。続く1997年のアルバニア暴動によって、アルバニアの一部の地域では政府の統制が及ばなくなった。さらに、アルバニア軍の装備が略奪された。これらの略奪された兵器の多くは、後にアルバニア国境地帯に拠点を構えるコソボ解放軍の手に渡った。ここはコソボ解放軍による攻撃、そして武器をドレニツァ地方へと送り込む拠点であった。メトヒヤ平原には、ジャコヴァ / ジャコヴィツァ(Gjakova / Đakovica)を経由してアルバニアからドレニツァ、そしてクリナを結ぶ道路があり、コソボ解放軍の活動の初期の拠点であった。

コソボ解放軍の最初の目標はドレニツァの拠点とアルバニア本国の拠点を結ぶことであった。そして、戦闘の最初の数箇月でこれは達成された。コソボ解放軍は西側諸国、そしてイスラム世界からの支援を受けており、その中にはムジャーヒディーンたちも含まれる。

セルビア側は交渉の努力も続けており、イブラヒム・ルゴヴァの側の人員と会談もした。何度かに及んだ交渉が全て失敗に終わった後、セルビア側の代表者ラトコ・マルコヴィッチ(Ratko Marković)はコソボの少数民族のグループを呼び、アルバニア側との交渉を続けた。セルビアの大統領ミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)も会談に参加したが、ルゴヴァは参加を拒否している。ルゴヴァとその支持者らはセルビアではなくユーゴスラビア連邦との会談を望んでおり、コソボの独立を目指す立場であった。

この時、セルビアではセルビア社会党とセルビア急進党を中心とした新しい政権が発足した。民族主義者のヴォイスラヴ・シェシェリが副首相となった。これによって、セルビアと西側諸国との軋轢はいっそう激しくなった。

4月上旬、セルビアはコソボ問題に関する外国の干渉問題について、国民投票を実施した。セルビアの有権者らは、この国内問題に対する外国の干渉を明確に拒絶した。

その間、コソボ解放軍はデチャニ(Deçan / Dečani)周辺の大半の地域を制圧し、グロジャン / グロジャネ (Gllogjan / Glođane)の村の周辺を進攻した。5月31日、ユーゴスラビア軍とセルビア内務省の警察は、コソボ解放軍との前線を突破するための作戦に入った。この作戦は数日後に終わり、その中では捕虜の即決殺害や市民の殺害があったとされている。これによって西側諸国からの空爆を招くことになった。

この間、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領はロシアのボリス・エリツィン大統領との間でNATOによる攻撃的行動を中止させ、セルビアではなくユーゴスラビアとの話し合いを望むアルバニア人側と交渉を持つことで合意に達した。実際には、ミロシェヴィッチ大統領とイブラヒム・ルゴヴァとの間で行われた会談は、5月15日にベオグラードでのたった1回のみであった。リチャード・ホルブルックは、交渉が行われるだろうと発表した2日後のことである。1ヶ月後、ホルブルックはセルビアの首都ベオグラードを訪れてミロシェヴィッチ大統領に対して「要求に従わなければ、あなたの国に残された全てが破壊されるだろう」と脅迫した後、5月から6月にかけての作戦行動の跡を見に国境地帯を訪れた。その場所で、ホルブルックがコソボ解放軍とともに写真に写っている。これらの写真の公表は、コソボ解放軍とその支持者、共鳴者らに対して、あるいは広く一般の人々の目に、アメリカがコソボ解放軍を支持していることを示す明確なシグナルとなった。

エリツィン大統領との合意では、ミロシェヴィッチ大統領は国際的な代表者らにコソボ・メトヒヤでの活動を容認することになっていた[17]。これはコソボ外交監視団(Kosovo Diplomatic Observer Mission)と呼ばれ、7月初旬から活動を開始した。アメリカの政府はこの合意の一部を歓迎したものの、双方への停戦の呼びかけを批判した。むしろ、アメリカはセルビア、ユーゴスラビア側が「テロリスト活動の中止とは関係なく、無条件で停戦すべき」であるとした[17]。

6月から7月にかけて、コソボ解放軍はその優位を保ち続けた。コソボ解放軍はペヤ / ペーチ、ジャコヴァ / ジャコヴィツァを包囲し、ラホヴェツィ / オラホヴァツの北のマリシェヴァ / マリシェヴォ(Malisheva / Mališevo)の町にて臨時首都を設立した。コソボ解放軍はバラツェヴェツ(Belacevec)炭鉱を攻撃して6月末に占領し、地域のエネルギー供給を脅かすことに成功した。

7月中旬にコソボ解放軍がラホヴェツィ / オラホヴァツを制圧すると、情勢は一転した。1998年7月17日、ラホヴェツィ / オラホヴァツに近接した2つの村レティムリェ(Retimlije)とオプテルシャ(Opteruša)にて、全てのセルビア人男性が拉致され、後に遺体で発見された。これらほど組織化されてはいないものの、同様の事例はラホヴェツィ / オラホヴァツや、より大きなセルビア人の村ホチャ・エ・マヅェ / ヴェリカ・ホチャ(Hoça e Madhe / Velika hoča)でも発生した。これがきっかけとなり、セルビア人とユーゴスラビアによる攻撃が始まり、8月20日頃まで続いた。

ラホヴェツィ / オラホヴァツから5キロメートルにあるゾツィステ(Zociste)の正教会の修道院は、聖人コスマスとダミアノス(Kosmas and Damianos)のレリーフが有名であったが、この修道院も1999年には地元のアルバニア人によって襲撃・略奪され、修道士らはコソボ解放軍の収容所に送られた。無人となった間の同年9月13日から9月14日にかけて、修道院の聖堂を始め全ての建物は爆破され、消失した。

コソボ解放軍による新しい攻撃は1998年8月下旬に、ユーゴスラビア軍によるコソボ・メトヒヤ南西部のプリシュティナ=ペヤ道路の南で行われた攻撃に反応して始められた。この攻撃によってクレツカ(Klecka)は8月23日にコソボ解放軍に制圧された。この場所はコソボ解放軍による死体焼却場として使われ、その犠牲者らが見つかった。9月1日には、コソボ解放軍はプリズレン周辺で攻勢をかけ、ユーゴスラビア軍はその対処にあたった。ペヤ / ペーチ周辺のメトヒヤ地域において行われた別の攻撃は大きな非難を呼び、各国の政府や国際的な機関は、追放された人々の大規模な一行が攻撃を受けた可能性を危惧した。これに引き続いてドニイ・ラティス(Donji Ratis)が陥落した。同地では、コソボ解放軍が集団死体遺棄現場を築いており、この場所からは行方不明になっていたセルビア人やそのほかのコソボの市民ら60人の遺体が発見されている。

9月中旬の初め頃、コソボ解放軍による戦闘が初めてコソボ北部のベシアナ / ポドゥイェヴォ(英語版)で報じられた。最終的に9月の末には、コソボ解放軍をコソボ北部、中部、そしてドレニツァ渓谷そのものから一掃するための作戦が行われた。この間、西側諸国からセルビアに対して様々な脅迫がなされたものの、それらはボスニア・ヘルツェゴビナで実施される選挙のために中断された。西側諸国はセルビア急進党やセルビア民主党が選挙で勝利することを嫌い、セルビアへの圧力を弱めたのである。しかしながら、ボスニア・ヘルツェゴビナでの選挙が終わると、再びセルビアに対する脅迫を強化させた。しかし、それらは決定的とはならなかった。9月28日、コソボ外交監視団が、アブリ・エ・エペルメ / ゴルニェ・オブリニェ(英語版)の村の外で、ある家族の切断された遺体を発見した。そこから見つかった血まみれの人形は衝撃的な映像として発信され、参戦への大きな理由となった。

このほかにも、参戦の有力な動機となった事実として推計250,000人のアルバニア人が家を追われ、30,000人は森の中に隠れており、寒さから身を守る十分な服も住む場所もなく、季節は冬へと向かっていた。

この間、マケドニア共和国に駐在するアメリカのクリストファー・ヒル大使がルゴヴァ率いるアルバニア人側の代表者と、セルビア、ユーゴスラビアの当局との間でシャトル外交を展開していた。この時の交渉こそが、NATOがコソボ占領の計画を策定している間に、和平合意に盛り込まれるべき内容を形作ることとなった。

この2週間の間、セルビアに対する圧力はさらに強められ、NATOにはついに戦時編成命令が出されるに至った。空爆のためのあらゆる準備が整えられ、ホルブルックはベオグラードへ行き、NATOによる圧力を背景としてミロシェヴィッチ大統領との間での合意を模索した。ホルブルックに同行したマイケル・ショートは、ベオグラードを破壊すると脅した。長く辛い交渉の末に、1998年10月12日にはコソボ査察合意が結ばれた。

公式には、国際社会は戦闘の終結を求めていた。国際社会は特に、セルビア側に対してコソボ解放軍への攻撃を中止するよう求めていた(コソボ解放軍による攻撃には特に触れられることはなかった)[17]。また、コソボ解放軍に対しては、その独立要求を取り下げるように求めた。さらにミロシェヴィッチ大統領に対しては、コソボ全域でのNATOによる平和維持部隊の活動を認めるように要求していた。彼らによる交渉の中で、ヒル大使に対して和平プロセスを進め、和平合意を受諾することを認めた。1998年10月25日、停戦が取り付けられた。合意ではコソボ査察使節団の設置が認められた。コソボ査察使節団は欧州安全保障協力機構(OSCE)による非武装の和平監視団であった。OSCEは10月15日に署名されたNATOコソボ検証ミッション(KVM)のために大量の4WDやトラックを持ち込んだが、それらが鮮やかなホオズキ色に塗装されていたこと、その活動が不十分であるとの批判から”clockwork orange(時計じかけのオレンジ:ロンドンの下町言葉で「外見はまともだが中身はおかしい」の意)”と通称された。ただし、翌年3月の活動縮小とその後のKVMの終了によって監視が緩んだことから殺害、強姦、勾留、国外追放といあった民族浄化キャンペーンが再開されているため、一方的に無意味無価値であったわけではない。

1998年12月 – 1999年1月 : 紛争の再開、激化
紛争により破壊された建物

12月上旬にコソボ解放軍が、戦略的に重要なプリシュティナ=ポドゥイェヴォ幹線道路を見渡すバンカーを占領したことにより、停戦は数週間のうちに破棄され、戦闘が再開された。これは、コソボ解放軍がペヤ / ペーチのカフェを襲撃したパンダ・バー虐殺(Panda Bar Massacre)から程なくしてのことであった。虐殺の2日後、コソボ解放軍はフシェ・コソヴァ / コソヴォ・ポリェの市長を暗殺した。 コソボ解放軍による攻撃とセルビア側の反撃は1998年から1999年にかけての冬の間中続けられ、都市部での危険度は増し、爆破や殺人などが多発した。1999年1月15日にはラチャクの虐殺(英語版)が引き起こされた。事件は直ちに(調査が始められるより前に)虐殺事件として西側諸国や国際連合安全保障理事会から非難された。このことは、ミロシェヴィッチ大統領とその政権の首脳らを戦争犯罪者とみなす基礎となった。テレビカメラは、殺害されたアルバニア人たちの遺体のそばを歩くアメリカのウィリアム・ウォーカー(英語版)外交官を映し出した。ウォーカー外交官が記者会見を開き、一般市民に対するセルビアの戦争犯罪行為について明らかにしたと述べた([26])。この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入することのみが、問題を解決する唯一の手段であると断じた。

連絡調整グループは、「交渉不可能な要素」をまとめあげた。これは”Status Quo Plus”として知られ、コソボをセルビアの枠内で1990年以前の自治水準に戻し、さらに民主主義と国際組織による監督を導入するというものであった。連絡調整グループはまた、1999年2月にも和平交渉を開き、フランスの首都パリ郊外のランブイエ城(Château de Rambouillet)にて交渉が持たれた。

1999年1月 – 3月 : ランブイエ和平交渉
1999年、アルバニアのクケスにおける難民キャンプの写真。

ランブイエ交渉は2月6日に始められ、NATOのハビエル・ソラナ事務総長が両サイドと仲介交渉を行った[17]。彼らは2月19日に交渉をまとめる意向であった。セルビア側の代表者はセルビアのミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)大統領であり、ミロシェヴィッチ大統領自身はベオグラードに留まった。これは、ミロシェヴィッチ大統領自身が直接交渉に臨んでの、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させたデイトン合意の時とは対照的であった。この時は、ミロシェヴィッチ大統領自らが交渉に臨んだ。ミロシェヴィッチ大統領の不在は、交渉に関わらず実際の決定はミロシェヴィッチ大統領がベオグラードで行っていることを示すものとみなされ、セルビア国内、国際社会双方からの非難を受けた。コソボのセルビア正教会の主教アルテニイェ(Artemije)は自らランブイエへ出向き、交渉は代表者を欠いていると抗議した。

歴史的根拠に関する交渉の初期段階には成功した。具体的には、連絡調整グループの共同議長による1999年2月23日の声明では、交渉では「民主的な共同体による自由で公正な選挙、公平な法体系を含む、コソボの自治に関して合意が得られた」としている。さらに、「政治的枠組みは定められた」とし、「合意文書の内容を定める」ことを終えるための更なる作業が残されており、残されたものの中には「コソボにおいて招致された国際的な文民と軍のプレゼンス」が含まれていた。しかし翌月の間、アメリカのルービン(Rubin)外交官とオルブライトの影響を受けたNATOによって、軍のプレセンスは「招致された」ものではなく「強制する」べきであるとした。NATOのコソボ解放軍への傾倒は、BBCテレビの番組『Moral Combat: NATO at War』にて特集された[27]。実際には、NATOの軍事委員会の議長であるクラウス・ナウマン将軍の発言では、「ウォーカー大使は北大西洋理事会(North Atlantic Council)にて、停戦の破棄の大部分はコソボ解放軍によるものであるとしている」とされた。

1999年3月18日、アルバニア人、アメリカ、イギリスの代表者らはランブイエ合意に署名したが、セルビアおよびロシアは署名を拒否した。合意案では、次のことを求めていた。
コソボをユーゴスラビア枠内の自治州としてNATOが統治する。
3万人のNATOの兵士がコソボの治安維持にあたる。
NATO兵士によるコソボを含むユーゴスラビア領内への無制限の通行の権利。
NATOとその人員に対するユーゴスラビア法の適用除外。

アメリカ合衆国およびイギリスの代表者らは、この合意案はセルビア側が受け入れることのできないものであると考えていた[17]。これらの後半の要求内容はボスニア・ヘルツェゴビナの平和安定化部隊に対して適用されたものと同様であった。合意案はアルバニア人側の要求を完全には満たしていなかったものの、合意案はセルビア側にとっては十分に過激なものであり、これに対してセルビア側は合意案の大幅な変更を求め、ロシアも合意案は受け入れ不可能であるとした。

ランブイエ交渉が2月に行われている間も攻撃は続けられ、コソボ査察合意は3月には破綻した。道路上での殺害は増加し、軍事衝突が頻発した。他の地域に加え、2月にはヴシュトリ / ヴチトルン(英語版)で、3月にはこれまで衝突のなかったカチャニク(英語版)でも衝突が起こった。

交渉の失敗以降、事態は急速に進行した。NATOによる空爆が始まる1週間前、西側諸国のほとんどのジャーナリストが滞在しているベオグラードのハイアットホテルに、アルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチが現れ、セルビアを去るように求めた[28]。

欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際監視団は3月22日、NATOによる空爆が予見され、監視団の安全を保障できないとして、監視団を撤退させた。3月23日、セルビア議会はコソボの自治を認め、ランブイエ合意の非軍事部分を受け入れることを決定した。しかし、ランブイエ合意の軍事部分、より厳密には「NATOによるコソボ占領統治」の様相を呈している条項Bの受け入れには反対した[29]。合意案は全てにおいて「欺瞞」であるとし、その理由として合意案の軍事部分は交渉の最終段階になって初めて議題に上がり、十分に交渉する時間も与えられず、またその交渉相手は「分離主義者のテロリストの代表者」であり、ユーゴスラビア連邦共和国の代表者と直接会わず、直接交渉することを交渉中一貫して拒否していたとして激しく非難した。その翌日の3月24日、NATOはセルビアへの空爆を始めた。

1999年3月 – 6月 : NATOによる空爆
詳細は「アライド・フォース作戦」を参照
米ミサイル駆逐艦「ゴンザレス」から発射されるトマホーク巡航ミサイル(1999年3月31日)
イタリアのアヴィアノ空軍基地に駐機するアメリカ空軍所属のF-117攻撃機(1999年3月24日)
セルビア側のSremska Mitrovica兵器貯蔵庫の空爆後に撮影された空中写真(1999年)
NATO軍をナチス・ドイツのハーケンクロイツに喩えたグラフィティが描かれたノヴィ・サドの町(1999年)
NATO軍の空爆後のノヴィ・サド(1999年)

NATOによるセルビア空爆は、1999年の3月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。

NATOによって目標と定められたのは、NATOのスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力を一掃し、平和維持軍を置き、難民を帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍がコソボを去り、国際的な平和維持軍に置き換えられ、そして避難しているアルバニア人がコソボに帰還することを意味していた。作戦は初期の頃には、ユーゴスラビア空軍の防衛力を削ぎ、重要な戦略目標を押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍が容易に隠れられることによるものであった。NATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗の意思を過小評価していた。ブリュッセルでは、大半が作戦は数日のうちに終わると予想していた。初期の爆撃は軽度に留まり、1991年の湾岸戦争におけるイラクの首都バグダードへの集中的な攻撃と比べれば、ほぼ誰もいないような場所への攻撃が加えられるのみであった。地上では、セルビア人による民族浄化作戦は激化し、空爆が始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人が隣接するアルバニアやマケドニア共和国に去り、その他にも多くがコソボ域内で強制移動された。4月の時点で、国際連合は、アルバニア人を中心に85万人が故郷を離れたと報告している。

NATO軍の作戦は次第に変化し、地上のユーゴスラビア軍の、戦車や大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃を加えることに重点が置かれるようになった。この活動はしかし、政治によって強く束縛されたものであった。その攻撃対象は、NATOの加盟19箇国が同意できるものでなければならなかったためである。モンテネグロはNATOにより何度か空爆を受けたものの、モンテネグロの政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派のミロ・ジュカノヴィッチの政治的不安定な状況を支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃は中止された。セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、ドナウ川にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・ミリャナ・マルコヴィッチが党首を務めるユーゴスラビア左翼連合(英語版)の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃の一部は、国際法、特にジュネーヴ条約に違反するのではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、これらへの攻撃が合法であるとした。

5月の始めには、NATOの航空機がユーゴスラビア軍の輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民の輸送車隊を攻撃し、50人ほどの死者を出した。NATOは5日後に誤りを認めたものの、セルビア人らは難民への攻撃を意図的なものであるとして非難した。5月7日、アメリカ空軍はB-2によって、ベオグラードの中国大使館をJDAM爆弾で攻撃し、3人の中国人ジャーナリストを殺害し、26人を負傷させた[17]。これによって中国の世論は沸騰した。

当初、NATOは「ユーゴスラビアの施設への攻撃であった」と主張した。しかし、後に会議が開催され、アメリカ合衆国とNATOは誤りを認めて謝罪し、「CIAによる地図が古かったことによる「誤爆」であった」とした。この見解は、イギリスの新聞『オブザーバー』の記事(1999年11月28日)や、デンマークの新聞『Politiken』から疑問が提示された[30]。それらの記事によると、「NATOは、中国の大使館が、ユーゴスラビア軍の通信信号の中継(「アーカン」と呼ばれる人物からセルビア人の暗殺部隊への情報通信)に使われていたことをアメリカ側が把握していたため、「意図的に」大使館を狙って攻撃したのではないか」と主張されている。また、訪中経験もあるセルビアの指導者ミロシェヴィッチは中国から「老米」と親しまれ[31][32]、後に息子のマルコ・ミロシェビッチ(英語版)とその妻や子供が北京に逃亡を試みたようにミロシェビッチ一家と中国は親密な関係にあった[33][34][35]。この「誤爆」によって、NATOと中国との間で関係が悪化し、北京にある西側諸国の大使館の周辺、NATO加盟国にゆかりのある企業(マクドナルドなど)では、店舗の破壊を伴う攻撃的なデモ活動が起こった。

なお、駐中国大使館を爆撃目標と指定したのは、アメリカ中央情報局(CIA)のウィリアム・J・ベネット中佐であり、「誤爆」の責任を取らされて、2000年にCIAを解雇されている。その後、2009年3月22日、ベネット中佐が妻とともに公園を散歩していた際に、窓のない白い不審車両が公園に入って行き、激しい物音がした後に自動車が走り去るという出来事が発生した。発見された時には、ベネット中佐は既に死亡しており、妻も重傷を負っていた。この殺人事件に関して、2009年4月にアメリカの外交誌『フォーリンポリシー』は、ベネット中佐の過去の経歴が関係している「暗殺」であったと報じている。
一方、米連邦捜査局(FBI)は、「事件とベネットの経歴を結びつける証拠は一切ない」と暗殺説を否定している[36]。

赤い印はNATO軍が空爆で劣化ウラン弾を使用した位置。

また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者が出たと言われる。ヒューマン・ライツ・ウォッチのコソボでの調査によると、5月21日に18人の囚人がNATOの空爆によって死亡し、また3日前の5月19日には3人の囚人と1人の守衛が死亡したとされた。

4月初めの時点において、衝突は終結には程遠いものと見られ、NATO諸国は陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れる前に準備を整えなければならず、その際に予想される、ギリシャやアルバニアの港から、アルバニア北部やマケドニア共和国を経由してコソボに陸路で侵入する経路を確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカのクリントン大統領は、アメリカ軍によるコソボ進攻を究極の選択と考えていた。代わりにクリントン大統領は、セルビア人の政府機能を弱体化させるため、CIAがコソボ解放軍を訓練することを決定した[37]。同時に、フィンランドとロシアによるミロシェヴィッチ大統領の説得交渉が続けられた。ミロシェヴィッチ大統領は最終的に、NATOがコソボ紛争の解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞を並べるロシアには、現実的にはセルビアを守る力がないことを理解した。微修正を加えた後、ミロシェヴィッチ大統領はフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボの平和維持軍の駐留に同意した。

1999年6月 – : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐

KFORの派遣については、指揮系統や担当地域を巡ってアメリカとロシアが交渉を続けていたものの難航し、6月11日に一旦決裂[38]。NATO軍はこの状況下で部隊の派遣に動き、ミロシェヴィッチがKFORの条件を受け入れた後の6月12日、KFORはコソボへの進駐を開始した。KFORの中心となったのはNATOの軍であり、コソボでの戦闘を指揮するために準備されていたものの、平和維持活動に従事することになった。KFORは、イギリス軍の陸軍中将マイク・ジャクソン(Mike Jackson)の指揮の下、連合軍緊急対応軍団(Allied Rapid Reaction Corps)を司令部としていた。KFORは各国の軍によって構成された。イギリス軍(第4装甲旅団と第5空輸旅団からなる旅団)、フランス軍、ドイツ軍は西から、イタリア軍やアメリカ軍などそのほかは南からコソボに入境した。この時のアメリカ軍の働きは初期介入部隊(Initial Entry Force)と呼ばれ、第1機甲師団に率いられた。その配下に置かれたのはドイツのバウムホルダー(Baumholder)から来たTF1-35機甲任務部隊、アメリカのフォートブラッグ(Fort Bragg)から来た第505落下傘歩兵連隊第2大隊、ドイツのシュヴァインフルト(Schweinfurt)から来た第26歩兵連隊第1大隊、第4機甲連隊E中隊である。アメリカ軍の初期介入部隊は、後のボンドスティール基地(Camp Bondsteel)に近いフェリザイ / ウロシェヴァツ(Ferizaj / Uroševac)、およびモンタイス基地(Camp Monteith)に近いジラニ / グニラネの両地域の占領を実現した。初期介入部隊は4箇月にわたってここに留まり、コソボ南西部セクターの秩序回復にあたった。アメリカの初期介入部隊は地元のアルバニア人たちから歓声を浴び、花を投げて迎えられた。その間、KFORの兵士たちはコソボ各地の町や村に順次入っていった。抵抗を受けることは無かったものの、事故によって初期介入部隊のアメリカ軍兵士3名が死亡した[39]。

KFORのロシア軍部隊(2000年8月)。

ロシア側もNATO主導による既成事実化を避けるため、合意未成立の中でKFOR部隊の派遣に踏み切り、最も近いボスニア・ヘルツェゴビナで平和安定化部隊(SFOR)に参加していた空挺部隊から一部を抽出し、約200人規模の派遣部隊を編成[38]。ユーゴスラビア国内を経由して陸路プリシュティナに送り込み[38]、NATO軍に先んじて6月12日にプリシュティナ空港周辺に展開した[40][41]。到着したロシア軍は、過激派の脅威にさらされていた現地のセルビア人住民から歓迎を受けた[40][42]。ロシア軍は、この先遣部隊に続き1,000人規模の主力の空挺部隊をロシア本国から空輸する準備を整えていたが、NATOの圧力を受けたハンガリー、ブルガリア、ルーマニアが上空通過を認めなかったため増派は中断し、第一波の約200名のみが7月初旬まで現地を守ることとなった[43][44]。

NATOとロシア双方の事前合意のない派兵で現地で緊張が高まる中、KFORの指揮系統や派遣地区に関する交渉は6月19日にまとまり、ロシア軍は派遣兵力規模3,600名(うち戦闘部隊は5個大隊2,850名)でKFORに参加し、NATOの指揮系統外の独自の指揮系統で行動することが認められた[45][46]。また、KFORの指揮権の統一を保つため、関連するNATOの各段階の司令部(欧州連合軍・南欧軍・コソボ国際部隊等)にロシア軍代表が派遣されることとなった[45]。7月4日までには、ロシア軍の具体的な行動に関するNATOとの合意も成立し、ロシア軍は、空輸の他、ノヴォロシースクとトゥアプセからギリシャのテッサロニキへの海上輸送も併用して約3,600名の部隊を現地に派遣した[47]。NATO軍側は、第1装甲師団隷下の第3野戦砲兵連隊第2大隊がロシア軍の展開を支援した。

6月の時点で、進駐したロシア軍には、現地のセルビア人住民から、アルバニア系過激派による脅迫などの被害の訴えが寄せられていた[47]。ユーゴスラビア政府は、コソボで少数派となるセルビア人などの保護について懸念しており、ロシアもKFOR派遣にあたっては、セルビア人住民の多い地域を中心にロシア軍の単独進駐地区を設定するようNATO側と交渉していたが[38]、NATO側はコソボの分割につながるとしてこれを認めず、NATO側5箇国がコソボ全域を分担して管轄区域を設け、ロシア軍はそのうちアメリカ・フランス・ドイツの管轄区域の一部に独自の指揮系統を保って組み込まれる形となった[45]。結果的に、KFORはセルビア人など少数派住民を迫害から守りきれず、多数のセルビア人住民などが迫害を逃れて難民となりコソボを離れる事態を防ぐことはできなかった。

戦争に対する反応

NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。NATOは国際連合安全保障理事会による裏づけのないまま攻撃を行った。これは、ユーゴスラビアと親しい関係にある常任理事国の中国やロシアの反対による。ロシアはユーゴスラビアに対する軍事行動を正当化するような決議には拒否権を行使するとしていた。NATOは、国連安全保障理事会による同意のないままでの軍事行動を、「国際的な人道危機」を理由に正当化しようとした。また、NATOの憲章では、NATOは加盟国の防衛のための組織であるとされていたにもかかわらず、今回の場合はNATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃を行ったことも、批判の対象となった。NATOは、バルカン半島の不安定はNATO加盟国への直接の脅威であると主張し、そのためこの軍事作戦はNATOの憲章上、認められるものであるとした。この時、バルカン半島の不安定によって直接の脅威を受ける国はギリシャであった。

多くの西側諸国の政治家たちは、NATOによる作戦はアメリカによる侵略、帝国主義であるとみなし、加盟国の安全保障の利益と一致しないとして批判した。ノーム・チョムスキーやエドワード・サイード、ジャスティン・レイモンド、タリク・アリなどの古参の反戦活動家らによる反戦活動も目立った。しかし、イラク戦争に対する反戦運動と比べると、コソボ紛争介入に対するものは多くの支持を集めることはなかった。テレビに映し出されるコソボ難民たちの姿は、NATOの活動を単純化し、また西側諸国による紛争介入の大きな動機であった。このような中で、コソボ解放軍による蛮行は矮小化されていた。また、イラク戦争時と比べると、介入に踏み切った国々の指導者たちの顔ぶれも大きく異なっていた。このときの各国の指導者たちの多くは中道左派、あるいは穏健なリベラル主義の政治家たちであった。主だった者として、アメリカの大統領はビル・クリントン、イギリスの首相はトニー・ブレア、カナダの首相はジャン・クレティエン、ドイツの首相はゲアハルト・シュレーダー、イタリアの首相はマッシモ・ダレマであった。反戦活動家たちの多くは、リベラル右派、極左、セルビア系移民、そのほか人道主義団体の支援を受けた各種の左翼主義者たちであった。ベオグラードに対するドイツの攻撃(20世紀で3度目のことである)は、オスカー・ラフォンテーヌが連邦金融大臣やドイツ社会民主党(SPD)議長の地位を退く理由の一つであった。

しかし、NATOが軍事作戦を指揮するに至った点については様々な政治的立場からの批判が上がっている。NATOの指導者たちは、コソボへの介入で、誘導爆弾を用いた「きれいな戦争」を実現したいと考えていた。アメリカ国防総省は、6月2日までに使用された20,000の爆弾およびミサイルのうち99.6%は目標に命中していると主張した。しかしながら、劣化ウランやクラスター爆弾の使用、そして「環境への攻撃」として批判を受けた製油所や化学工場への攻撃については強い異論がある。また、紛争の進展の遅れについても批判があった。NATOは小規模な空爆や空中戦から始めるのではなく、最初から大規模な全面攻撃に出るべきであったとの見解も強い。

NATOによる空爆の対象に関して
セルビアの都市、クラグイェヴァツの空爆後に撮影された空中写真。

攻撃目標の選定についても批判がある。ドナウ川にかかる橋への攻撃は、その後数箇月にわたってドナウ川の水上交通を遮断し、ドナウ川沿いの国々の経済に深刻な影響をもたらした。生産設備も攻撃を受け、多くの町の経済を破壊した。後に、セルビアの反体制派らは、ユーゴスラビア軍が民間の工場を武器生産に使用したと主張した。チャチャクにあるスロボダ(Sloboda)の真空クリーナー工場は戦車の修復にも使われ、クラグイェヴァツにあるザスタバの工場は、自動車とともにカラシニコフ銃を生産していた。だが、自動車と銃の生産場所はそれぞれ離れた別の建物であった。国有の工場のみが標的とされており、そのため、外国資本主導による民間ベースでの再建まで見据えて空爆の標的が選ばれたのではないかとの疑念を持たれた[48]。私有、あるいは外国資本の生産施設は一切攻撃を受けていなかった。

最も批判の強かった空爆対象は、4月23日に行われたセルビアの公共放送の本社への攻撃であろう。この攻撃では少なくとも14人が犠牲となった。NATOはこのセルビア公共放送への攻撃について、ミロシェヴィッチ政権のプロパガンダの道具を破壊するためのものとして正当化した。セルビア国内の反体制派らは、放送局の上層部は攻撃を事前に警告されており、空襲警報が発令されていたにもかかわらず、放送局のスタッフに建物内に留まるよう命じたとして、これを非難した。

ユーゴスラビア国内では、紛争へのNATO介入に対する世論は、強く批判するセルビア人と、強く擁護するアルバニア人に分かれた。しかし、アルバニア人すべてがNATOを全面的に擁護したわけではなく、NATOの攻撃が遅いとしてこれを批判する者もいた。ミロシェヴィッチ大統領に対する支持は落ちていったものの、NATOによる空爆によって、セルビア人の間では民族的連帯感が高まった。ミロシェヴィッチ大統領は事態を放置することはなかった。多くの反体制派らは、特にジャーナリストのスラヴコ・ツルヴィヤ(英語版)が4月11日に暗殺されてからは、生命の危機に脅かされることとなった。ツルヴィヤの暗殺は、ミロシェヴィッチ大統領の秘密警察への批判を高めた。モンテネグロでは、同国のミロ・ジュカノヴィッチ大統領がNATOの空爆とセルビアのコソボでの攻撃の双方に反対し、モンテネグロでのミロシェヴィッチ大統領の支持者によるクーデターへの恐れを表明した。

ユーゴスラビア周辺の国々の反応はより複雑であった。マケドニアは旧ユーゴスラビア諸国のうち、モンテネグロ以外ではセルビアとの戦争を経験していない唯一の国であった。コソボでのセルビア人とアルバニア人の衝突によって、マケドニア国内で多数派であるマケドニア人と、規模の大きい少数派であるアルバニア人との関係が緊迫化した。マケドニアの政府はミロシェヴィッチ大統領の行動を支持しなかったものの、マケドニア国内に流入するアルバニア人難民にも強く共感することはなかった。アルバニアは紛争がコソボとの国境の両側での不安定化につながるものとして、全面的にNATOの行動を支持した。クロアチア、ルーマニア、ブルガリアはNATO空軍機に対して上空通過権を認めた。ハンガリーは当時新しくNATOに加盟したばかりであり、攻撃を支持した。アドリア海をはさんで隣接するイタリアでは、大衆世論は反戦に傾いていたものの、政府はNATOに対してイタリアの空軍基地の全面的な使用権を認めた。ギリシャでは、紛争への反対世論は96%に達した[49]

1999年当時、サッカーJリーグの名古屋グランパスエイトに所属していたユーゴスラビア代表(当時)のストイコビッチがゴールを決めた後に、「NATO STOP STRIKE」と書かれたTシャツを見せるパフォーマンスを行った。

紛争に対する批判

紛争に対する批判は、コソボでのジェノサイドを阻止できなかった各方面の指導者たちにも向けられた[50]。アメリカのクリントン大統領は、多くのアルバニア人がセルビア人によって殺害されるのを阻止できなかったことについて批判された[51]。クリントン政権の国防長官であったウィリアム・コーエンは演説のなかで、「コソボでの虐殺に関する恐ろしい報告や、セルビア人による迫害から命を守るためにコソボを逃れるアルバニア人難民の姿は、この戦争がジェノサイドを阻止するための正義の戦争であることを明確にした」と述べた[52]。CBSの『国家の顔』でコーエン国防長官は「現在、100,000人の従軍可能年齢の男性の行方がわかっていない。彼らは殺害されたかもしれない」と述べた[53]。クリントン大統領も同様の見解を引いて、「少なくとも100,000人の行方不明者がいる」と述べた[54]。

後に、ユーゴスラビアの選挙に関してクリントン大統領は「彼らは、ミロシェヴィッチ氏が命じた事実に直面せざるを得なくなるだろう。彼らがミロシェヴィッチ氏を指導者として認めるかどうか、彼らが数万人の人々の殺害を是認するか否か…」と述べた。同じ記者会見でクリントン大統領はさらに、「意図的で、体系的な民族浄化とジェノサイドのための動きを、NATOは食い止めた」とも述べた[55]。クリントン大統領はコソボでの出来事をホロコーストと比べた。CNNは、「ユーゴスラビアでのNATO軍の戦闘への支持を得るために、火曜日の記者会見でクリントン大統領が行った、セルビアのコソボでの民族浄化へを第二次世界大戦でのユダヤ人に対するジェノサイドに類するものとする非難によって、外交による平和的解決への道は一段と難しいものとなった。」と報じた[56]。クリントン政権の国務長官もまた、ユーゴスラビア軍がジェノサイドに加担していると主張した。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「政府は、ユーゴスラビア軍によるジェノサイドの証拠には、大規模な恐ろしい犯罪行為に関するものが含まれている。国務省による言葉は、これまででもっとも強い、ミロシェヴィッチ大統領への批判であった」と報じた[57]。国務省はまた、それまでで最大数のアルバニア人の死者数を挙げた。ニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによると、国務省は、アルバニア人の死者および行方不明者の数は500,000人に上るとした[58]。

国際連合の憲章は、国連安全保障理事会での決議を必要とする一部の例外を除いて、他の独立国への軍事侵攻を禁じている。この問題はロシアによって、国連安全保障理事会に持ち込まれた。その決議案では、特に、「このような一方的な武力行使は、国際連合憲章への重大な違反にあたる」とした。中国、ナミビア、ロシアが決議案に賛成、その他の国々は反対し決議案は否決された[59]。

1999年4月29日、ユーゴスラビアはハーグにある国際司法裁判所でNATO加盟諸国(ベルギー、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ポルトガル、スペイン、アメリカ)を相手に訴えを起こした。裁判所は、紛争当時、ユーゴスラビアが国連の加盟国ではないために、この訴えについての判断を避けた。

西側諸国では、NATOによる攻撃に反対する意見は主にリベラル右派から起こり、またほとんどの極左主義者も攻撃に反対した。イギリスでは、元外務英連邦大臣のマルコム・リフキンド(Malcolm Rifkind)や、元財務大臣のノーマン・レイモント(Norman Lamont)、ジャーナリストのピーター・ヒッチェンズ(Peter Hitchens)、サイモン・ヘッファー(Simon Heffer)などの有力な右派の人物が紛争に反対した。また、The Morning Star紙によると、左翼の議員トニー・ベン(Tony Benn)、アラン・シンプソン(Alan Simpson)らが紛争に反対していることを報じた。しかし、レーニン主義の党派である緑の英国共産党(Communist Party of Great Britain (Provisional Central Committee))は、NATOによる攻撃をアメリカ帝国主義とみなしたものの、コソボ解放軍には同調し、コソボのセルビアからの完全分離を支持した。

紛争が終わった1999年6月11日、紛争はコソボに破壊と混乱を残し、ユーゴスラビアは将来への不安に直面することとなった。

死傷者の数

NATOの空爆による市民の死者数

紛争によって多くの死傷者が出た。1999年3月の時点で既に戦闘による死者と民間人への攻撃をあわせて、戦闘員・民間人あわせて1,500人ないし2,000人の死者が出ていた[60]。最終的な死者数はなお定まっていない。

ユーゴスラビアは、NATOの攻撃によって1,200人から5,700人の死者が出たとしている。NATOは、市民の死者数を1,500人とした。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、90回の攻撃で少なくとも488人の市民の死亡を確認している[17]。(うち90-150人はクラスター爆弾による死者である)。コソボでの攻撃はより激しいものであり、攻撃全体の3分の1で、全死者数の半数以上を出したとしている[61]。

ユーゴスラビア軍の行動による市民の死者数

ユーゴスラビア陸軍による死者数については複数の推計がたびたび行われている。

紛争後ほぼ1年が経過した2000年6月、国際赤十字は、3,368人の市民(2,500人のアルバニア人、400人のセルビア人、100人のロマ)が依然行方不明であるとした[62]。

2000年8月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、2,788体の遺体がコソボで発掘されたが、うちいくつが戦争犯罪の犠牲者であるかは定かではないとした[63]。しかし、KFORの情報筋がAFPに伝えたところによると、2,150体の遺体が1999年7月までに発見され、うち850体は戦争犯罪の犠牲者であると考えられるといわれた[64]。

行方不明になった市民の一部は、セルビア本国の集団墓地で再び焼却された。2001年7月、セルビア当局は、1,000体ちかい遺体が投棄された集団墓地が見つかったと発表した[60]。最大の集団墓地は、ベオグラード郊外のバタイニツァ(Batajnica)にて、セルビアの警察訓練の団体によって発見された。

人権団体に報告された4,400人の死者数を大きく上回っているが、ICTYの検察局の専門家らは、死者数は合計で10,000人程度であると推定している[65]。ICTYの検察局による死者数の推計は、大切な人の死についてICTYに報告しない人々がいることを考慮に入れたものである[66]。

10,000人という死者数の推計は、人道上の犯罪をユーゴスラビア攻撃の最大の理由としているアメリカ国務省によっても使用されている[67]。

アトランタのアメリカ疾病予防管理センターによって、2000年に医学ジャーナル誌『Lancet』に報告された研究調査では、住民全体の死者数のうち、12,000人は紛争によるものとみられるとした[3]この値は、1197世帯に関しての1998年2月から1999年6月までの調査に基づいており、対象となった世帯でのこの期間の死者数105人のうち67人が紛争に関連する外傷によるものであり、これに基づいてコソボの住民全体の死者数を推計した結果が12,000人となる。紛争による死亡率がもっとも大きかったのが15歳から49歳の男性で死者数5421人、50歳以上の男性では5176人とされる。15歳に満たない人々の死者数は男性160人、女性200人とみられる。15歳から49歳の女性の死者数は510人、50歳以上の女性の死者数は541人であった。論文の著者らは、民間と軍人の犠牲者数を正確に区別することは不可能であるとした。

コソボ解放軍による市民の死者数

セルビア政府の報告によると、1998年1月1日から1999年6月10日までの間に、コソボ解放軍は998人を殺害し、287人を拉致したとしている。また、NATOによる統治が行われていた1999年6月10日から2001年11月11日までの期間で、847人が殺害され、1154人が拉致された。この死者数には軍人と民間人の双方が含まれている。1999年6月10日までの期間の死者のうち、335人は民間人、351人は兵士、230人は警官、72人は不明である。民間人の死亡者を民族別に分けると、87人がセルビア人、230人がアルバニア人、18人がその他[68]である。

NATOの損害

NATOの軍人の損害は少なく、戦闘による死者はなしとなっている。しかし5月5日、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターAH-64 アパッチがアルバニアとセルビアの国境近くで墜落した[69]。

AH-64はティラナから64キロメートル北西の、コソボ国境に近いところで墜落した[70]。CNNによると、墜落はティラナから北西に72キロメートルの地点であった[71]。AH-64の2人のアメリカ人のパイロット、上級准尉デーヴィッド・ギブス(David Gibbs)とケヴィン・L・ライチャート(Kevin L. Reichert)はこの墜落で死亡した。NATOの公式発表によると、この2人のみが、紛争中におけるNATO軍人の死者である。

また、紛争後の死者もあり、その多くは地雷によるものであった。紛争が終わった後のNATOの報告によると、最初のアメリカ軍のステルス攻撃機F-117の損失は、敵による撃墜であったことが明らかにされた[72]。さらにもう1機のF-16戦闘機がシャバツ(Šabac)付近でユーゴスラビア空軍によって失われ(NATOはエンジン不良であると報告した)、その残骸はベオグラード空軍博物館(en)に展示されている。また32機の無人航空機も失われた[要出典]。撃墜された無人偵察機の残骸は紛争中に、セルビアのテレビで放映された。2機目のF-117Aは激しく損害を受けたものの、基地への帰還を果たし、それ以降は飛ぶことはなかった[73]。

ユーゴスラビア軍の損害

MiG-29の残骸。1999年3月27日、ボスニア・ヘルツェゴビナのUgljevikにて。

NATOは公式にユーゴスラビア軍の損害の推計を出してはいない。ユーゴスラビア当局は、NATOの空爆によって、169人の兵士が死亡し、299人が負傷したとしている[74]。ユーゴスラビア軍の死者の名前は『記憶の書』に記録されている。

ユーゴスラビア軍の装備に対して、NATOは50機のユーゴスラビアの軍用機を破壊した。その多くは古く、飛べないものであり、実戦投入可能な軍用機への攻撃を逸らすための「おとり」として、わざと配置されたものであった。例外として、11機のMiG-29、6機のG-4スーパーガレブは、頑丈なシェルターの中に収められたものであったが、シェルターのドアの閉め忘れによって攻撃を受けることになった。紛争が終わった時点で、NATOは公式に93輌のユーゴスラビアの戦車を破壊したとした。ユーゴスラビアは13輌の戦車の損失を認めた。ユーゴスラビアの主張は、同国がデイトン合意の枠組みに復した時点で、西側諸国の検査官らによって、デイトン合意当時とコソボ紛争終結後のこの時点での戦車の台数の差から確認された。喪失した戦車は全部で14輌であり、9輌のM-84と5輌のT-55であった。また。18輌の装甲兵員輸送車、20門の大砲も破壊された[75]。

コソボで攻撃を受けた標的の多くは「おとり」であり[17]、プラスチック・シートに電信柱で砲身をつけた戦車や、動かなくなった第二次世界大戦時の戦車などであった。対空戦力は戦略上使用されずに隠し置かれ、破壊を免れた。そのためNATO空軍機は低空を飛ぶことができず、高度5,000メートル(15,000フィート)以上を飛ぶことを余儀なくされ[17]、正確な空爆を困難にした。紛争終結に向けて、コソボ・アルバニア国境でのB-52爆撃機での絨毯爆撃が駐留するユーゴスラビア軍に大きな損害を与えたと宣伝された。後に、NATOの注意深い調査によって、そのような大規模な損害を与えた証拠はないと結論付けられた。

しかしながら、ユーゴスラビア軍の中でもっとも重大な損害は、損害・破壊を受けたインフラストラクチャーであった。ほぼ全ての空軍基地と飛行場(バタイニツァ Batajnica、クラリェヴォ=ラジェヴツィ Lađevci、スラティナ Slatina、ゴルボヴツィ Golubovci、コヴィン Kovin、ジャコヴィツァ Đakovica)や、その他の軍関係の建物、施設は激しく損害・破壊された。これは、部隊やその装備とは異なり、軍事施設は「おとり」によってカモフラージュすることはできないためである。同様に、軍需産業や軍事技術修復施設も激しく破壊された(Utva、Zastava Arms工場、Moma Stanojlović空軍修復拠点、チャチャクおよびクラグイェヴァツの技術修復拠点)。加えて、ユーゴスラビア軍を弱らせるために、NATOは重要な民間施設も標的にした(パンチェヴォの石油精製所、橋、鉄道など)。
コソボ解放軍の損害

コソボ解放軍の損害については解析が困難である。コソボ解放軍の死者数は5000人とする報告もある[76]。コソボ解放軍の兵士の死亡は、軍の退却時に発生することがあることや、遺体が戦場に残され、ユーゴスラビア軍によって集団墓地で焼却されてしまうことも、死者の数を特定することを困難としている。さらに問題を複雑にしているのは、「誰がコソボ解放軍の兵士か」という問題である。たとえば、ユーゴスラビア軍は、武装したアルバニア人はコソボ解放軍であるとみなしており、武装者が実際にコソボ解放軍に徴用されIDを与えられた兵士であるかは問題としていなかった。このことから、ある人物が、アルバニア人側からは民間人として、セルビア人側からはコソボ解放軍の戦闘員として計算されることも起こる。また、コソボ解放軍の兵士の多くは制服を着ておらず、コソボ解放軍の戦術では、死亡した兵士からは武器などを取り去り、ユーゴスラビア軍によって民間人が殺害されたかのように装うこともあったという。
余波
戦後にアルバニア人によって破壊されたセルビア正教会の教会

3週間の間に、50万人のアルバニア人難民が故郷に戻った。1999年11月の時点で、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、難民848,100人のうち、808,913人が故郷に戻った。

しかしながら、大規模な暴力によって、20万人のセルビア人がコソボを去ることを余儀なくされた[77]。ロマ(ジプシー)もまたアルバニア人からの迫害によって、コソボを追われた。1999年6月12日以降、少なくとも1000人のセルビア人やロマが、コソボ解放軍の成員や犯罪組織、あるいは個人による民族的憎悪によって、殺害されるか行方不明となった[68]。ユーゴスラビア国際赤十字は、11月までに247,391人の難民を登録している。新たな難民の発生は、NATOの悩みの種となった。NATOはUNMIK傘下で45,000人の平和維持軍を作り上げていた。

マケドニア共和国から帰還した避難民たちは、ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァの鉛で汚染された難民キャンプに留め置かれた。ポール・ポランスキ(Paul Polansky)による慈善団体によると、鉛汚染によって27人が死亡したとしている。UNMIKはこれを否定し、死亡したのは1人のみであるとした。

アムネスティ・インターナショナルによると、コソボでの平和維持軍の駐留によって、性的搾取を目的とした人身売買が増加したとしている[78][79][80]。
戦争犯罪
詳細は「コソボ特別法廷(英語版)」を参照

空爆が終わる前に、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領は、紛争当時の連邦内相ヴライコ・ストイリコヴィッチ(Vlajko Stojiljković)連邦内相やニコラ・シャイノヴィッチ(Nikola Šainović)連邦副首相、ドラゴリュブ・オイダニッチ(英語版)(Dragoljub Ojdanić)セルビア国防相、ミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)セルビア大統領とともに旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって殺人、強制移住、追放、政治的・人種的・宗教的な迫害を含む人道に対する罪で訴追された。このうち、ストイリコヴィッチ連邦内相は、2002年にセルビア議会前で拳銃自殺を計り死亡している。

2003年10月にはさらに多くの人物が起訴された。このとき起訴されたのは、元ユーゴスラビア連邦軍のネボイシャ・パヴコヴィッチ(Nebojša Pavković)参謀総長、元司令官のヴラディミル・ラザレヴィッチ(Vladimir Lazarević)元司令官、ヴラスティミル・ジョルジェヴィッチ(Vlastimir Đorđević)元警察官、当時のスレタン・ルキッチ(Sreten Lukić)セルビア公安局長であった。これらは全て人道に対する罪と戦時国際法への違反によって訴追された。

ICTYはまた、コソボ解放軍の成員らに対しても起訴を行った。起訴を受けたのはファトミル・リマイ(Fatmir Limaj)、ハラディン・バラ(Haradin Bala)、イサク・ムスリウ(Isak Musliu)、アギム・ムルテジ(Agim Murtezi)であり、人道に対する罪で起訴された。これらは2003年の2月17日から2月18日にかけて逮捕された。アギム・ムルテジに対する起訴はその後、人違いとして取り下げられ、またファトミル・リマイは2005年11月30日に全ての容疑について無罪となった。容疑は、1998年の5月から7月にかけてラプシュニク(Lapušnik / Llapushnik)の強制収容所の護衛であったことに関連する。

戦争犯罪に対する訴追はユーゴスラビア国内でも起こされた。ユーゴスラビア軍の兵士イヴァン・ニコリッチ(Ivan Nikolić)は2002年にコソボでの2人の市民の殺害に関して有罪と認定された。多数のユーゴスラビア軍の兵士らがユーゴスラビアの軍事法廷で裁判を受けた。

2005年3月、ICTYはコソボの首相・ラムシュ・ハラディナイをセルビア人に対する戦争犯罪の容疑で訴追した。ハラディナイ首相は3月8日に首相を辞任した。アルバニア人のハラディナイ首相は、コソボ解放軍の部隊を指揮した元指揮官であり、2004年12月にコソボ議会で72票の賛成をうけて首相に就任したばかりであった。ハラディナイ首相は2008年4月、一審で全ての容疑について無罪となった[81][82]。ICTYの検察局は判決を不服として控訴した。

セルビア政府や多数の国際的な圧力団体は、NATOが紛争中に戦争犯罪をしたと主張している。特に、ベオグラードにあるセルビア公共放送の本社など、軍民共用の施設に対する攻撃に関してこのような見方がもたれている。ICTYはこれらについても調査を命じた[83]。ICTYは、NATOの民間人に対する戦争犯罪について訴追を進める権限がないと宣言した。

2007年までICTY検事であったカルラ・デル・ポンテは、2008年に出版された著書の中で、1999年に紛争が終わった後、コソボのアルバニア人たちは100人から300人のセルビア人やその他の少数民族を殺害し、臓器をコソボからアルバニアに送っていたと主張した[84]。しかし、ICTYの法廷は、デル・ポンテが主張するような嫌疑を支持する確固たる証拠はないとした[85]。

ICTYとは別に、コソボ解放軍による虐待容疑を裁く特別法廷の準備手続きが2017年7月に完了した。コソボの国内法に基づいているが、公正さを確保するため設置場所は国外(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷と同じオランダのハーグ)で、裁判官・検察官・職員も全て第三国民である。コソボ国内には反対論が多いものの、コソボ独立を支持した米国や欧州連合(EU)が、セルビアとの和解を促す一環として設置を強く求めたため、コソボ政府・議会が受け入れた[86]。
余談

2010年3月17日の『ザ・ベストハウス123』によれば、チリ国営テレビの音声担当のアブナー・マチュカが撃たれて、手術するためイタリアに運ぶために、カメラマンのアレシャンド・レアルが世界中のマスコミに報せた。その結果、ジャーナリスト保護委員会がNATO本部へ直接交渉して、1999年5月28日午前2時から4時まで停戦した。マチュカは無事イタリアへ運ばれた。

その後の軍事的・政治的な推移
「コソボ地位問題」も参照

紛争終結以降、コソボは国際連合の監督下におかれた。その間、コソボはその後、政治・軍事の両面で重要な成果を挙げてきた。コソボの地位は2008年まで未確定の状態が続いた。

国際連合安全保障理事会決議1244で規定された、コソボの最終的な地位を決定するための国際的な地位交渉は2006年に開始された。国際連合の元での話し合いは、国連の特使であるマルッティ・アハティサーリの指導の下、2006年2月に開始された。技術的な面での進展は得られたものの、コソボの地位そのものに関するセルビア、コソボ双方の主張は正反対のままであった[87]。2007年2月、アハティサーリは、セルビアとコソボの双方の指導者らに対して、自ら提起した草案を送った。これは国連安全保障理事会の決議の草案の基盤として作成されたものであり、コソボに対して国際的な監督下での独立を提案するものであった。2007年7月までに、草案はアメリカ合衆国、イギリス、その他の安全保障理事会の欧州の理事国からの承認を取り付けたものの、国家の主権に対する侵害にあたるとする懸念を持つロシアの同意を取り付けようと、4度にわたって修正された[88]。ロシアは、安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国であり、セルビアとコソボ双方が受け入れ可能なもの以外、あらゆる解決法を支持しないとしている[89]。2008年2月のコソボの一方的な独立宣言によって、草案は無効となった。

2008年2月17日、コソボは独立を宣言し[90]、直後にアメリカや、イギリス、ドイツなど一部の欧州連合加盟国、トルコなどが独立を承認し、日本政府も3月18日に承認した。一方で、セルビアはアメリカなど独立を承認した国から大使を引き上げた。ロシア、ルーマニア、スロバキア、キプロス、スペインなどは独立を承認しない方針を明らかにしている。2008年末の時点で、コソボは50を超える国際連合加盟国から独立の承認を得ている一方、独立宣言の後も安全保障理事会の決議の上ではコソボの地位は未確定のままであり、引き続き国際連合の監督下に置かれている。

2019年6月12日、コソボのプリシュティナで紛争終結20年の記念式典が開かれ、クリントン元米国大統領、オルブライト元米国務長官、クラーク元NATO最高司令官らが出席した。対セルビア攻撃を決断したクリントンはコソボで英雄視されており、プリシュティナに銅像が建てられている[91]ほか、コソボ当局から勲章を授与された。クリントンは式典で「未来を作るには新たな勇気と忍耐が必要だ」と両国に和解を呼びかけたが、セルビアは式典に参加せず、コソボ担当局長はコソボ側の戦争責任者が訴追されていないことに不満を表明した[92]。

ミロシェヴィッチ大統領は紛争後、しばらくの間は政権に留まったもののコソボを事実上失ったことによって支持は低迷し、[93]セルビア正教会の聖シノドからも退陣勧告が行われた。2000年にミロシェヴィッチ大統領を失脚させた反乱が起こった。ミロシェヴィッチ大統領はその後逮捕され、ハーグに送られた。ICTYによる判決を待つことなく、ミロシェヴィッチ大統領は2006年3月10日、拘置所内で自然死した。
NATOにとっての戦訓

紛争では、アメリカ軍の兵器の弱点も明らかにした。これは後にアフガニスタン侵攻やイラク戦争のために処置されている。AH-64 アパッチ ヘリコプターや、AC-130 ガンシップは前線で使用されていたものの、2機のアパッチがアルバニアの山中で衝突してからは使用を中断した。精密なミサイルの備蓄は危険な水準まで低下し、紛争は想定を超えて長期化し、NATOは選択の余地なく精度の悪い爆弾を使わざるを得なかった。空中戦においても良好な結果は得られなかった。連続した作戦によってメンテナンスが省かれ、多くの航空機が代替パーツを待つ間待機を余儀なくされた[94]。さらに、多くの誘導型の兵器はバルカン半島の気候に順応できておらず、雲によって爆弾のレーザー誘導は遮られた。これは、悪天候でも使用することができる、グローバル・ポジショニング・システム(GPS)を使用した旧型の爆弾によって回避された。多くの無人航空機が使用されたものの、敵側の標的を捕らえるには遅すぎることも明らかにされた。これは、後のアフガニスタン戦争では、敵機の飛行音に合わせてミサイルを使う方法が用いられ、センサ映像を確認して撃つ時間をほぼ完全に削減することができた。

コソボ紛争はまた、NATOのようなハイテクの軍が、単純な戦術によって裏をかかれてしまうことも明らかにした。ウェズリー・クラーク(Wesley Clark)や、紛争後にこれらの戦略を解析したその他のNATOの将軍らによる[95]。ユーゴスラビア軍は、圧倒的に強い敵に対して、ずっと立ち向かい続けていた。ユーゴスラビア軍は効果的に敵を欺いたり隠したりする戦術を発展させてきた。これらは、全面進攻に対しては長期的には無力であると思われるが、上空を飛ぶ航空機や人工衛星を欺くには効果的な方法であった。使われた戦術には、次のようなものがあった:

アメリカのステルス戦闘機が波長の長いレーダーで追跡されていた。ステルス機のジェットが湿る場合や、爆弾を投下している場合、ステルス機はレーダーで捕捉することができる。F-117はこの方法で照準を定められ、ミサイルで撃墜されたものと見られる。
多くのローテク手法によって、熱探知ミサイルや赤外線センサが撹乱された[17]。小さなガス炉などによって、実在しない山腹があるかのように見せかけられた。
「おとり」が頻繁に用いられた[17]。偽物の橋や飛行場、「おとり」の航空機や戦車が用いられた。戦車は古タイヤ、プラスチック・シート、丸太、缶、そして熱放射を装うために燃料が用いられた。しかし、クラークの調査によると、「おとり」に爆弾が投下されたのは974回のうち25回だけだった[96]。しかし、NATOの情報によると、これは作戦遂行の手続きであり、明らかに本物であるとは思えないもの以外は、あらゆる全ての標的に対して攻撃する義務を負っているとしている。明らかに本物であるかどうかが分かるのならば、本物のみを攻撃することになる。NATOは、ユーゴスラビア空軍の損害は10倍に上るとしており、「公式なデータによると、コソボ紛争におけるユーゴスラビア軍の空爆による損害は、戦車の26%、APCの34%、大砲の47%に上る」としている[96]。
アメリカの人工衛星を使った空爆に対して、古い電子妨害装置が用いられた。
第二次世界大戦期のイスパノ・スイザ対空砲が、ゆっくり飛ぶ無人偵察機に対して効果的に使用された。

軍事勲章

コソボ紛争の結果を受けて、NATOは2つめのNATO勲章(NATO Medal)となる「コソボ戦役のNATO勲章」を、国際的な軍事勲章として作った。その後NATOは、ユーゴスラビア紛争とコソボ紛争の両方に対して与えられる「バルカン戦役の非5条事態勲章」を作った。

アメリカのクリントン大統領はコソボ戦役勲章として知られる軍事勲章を2000年に創設した。

ギャラリー

アルバニアKukësのコソボ難民キャンプ。

アルバニアKukësのコソボ難民キャンプ。
原子力空母セオドア・ルーズベルト、搭載されているのはF/A-18ホーネット。

フランス空軍のミラージュ2000の搭載するミサイル。
廃墟と化したコソボ。1999年。

Glogovacの近くにある2S1グヴォズジーカ 122mm自走榴弾砲の残骸。
プリズレンの近くにある破壊されたT-55戦車。

プリズレンの近くにある破壊されたT-55戦車。
セルビアが撃墜したRQ-1 プレデター無人偵察機。

セルビアが撃墜したRQ-1 プレデター無人偵察機。
博物館に飾られる撃墜したF-117の破片。

コソボ紛争を題材とした作品

映画

ブラックバード・ライジング(クラウディオ・ボニヴェント監督、2003年 出演:ジョルジョ・パソッティほか)

音楽

夜鷹の夢(Do As Infinity、アルバム『NEED YOUR LOVE』に収録)

参考文献

柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社』

【コソボ発】きょうも銃撃戦 ウクライナ戦争に乗じてセルビアが蠢く

【コソボ発】きょうも銃撃戦 ウクライナ戦争に乗じてセルビアが蠢く
https://tanakaryusaku.jp/2023/01/00028269

『23日、空路コソボの首都プリシュティナに着くと、荷物をホテルに置き、すぐにセルビアとの国境付近に車を走らせた。

 ドライバーは「国境付近では2時間前にセルビア人(武装勢力)とコソボ警察との間で銃撃戦があったんだ」と話した。なんでそんな所に行くんだ?と顔に書いていた。

 「国境付近での銃撃戦はしょっちゅうだ」。ドライバーは顔をしかめた。

 先だってリポートしたナゴルノ・カラバフの軍事封鎖と対をなすのがコソボ情勢である。

 ナゴルノ・カラバフにはロシアが平和維持軍で駐留していたのだが、ウクライナ戦争で苦戦し軍事力が弱まったところを、アゼルバイジャンとトルコにつけ込まれた。

 コソボにはNATOが平和維持部隊KFOR(兵力3,700)を駐留させ、セルビア軍によるアルバニア系住民の虐殺が再び起きないよう防いでいた。だがNATOはウクライナ戦線に力を注がねばならない。そこをセルビアは突いてきた。

 マスコミ報道によるとセルビアのブチッチ大統領は先月10日の記者会見で、KFOR司令官に「コソボにセルビアの軍と警察計1,000人を入れたい。認めてほしい」と要請したことを明らかにした。

 この情報に触れた時、田中は背筋が寒くなった。エスニック・クレンジング(民族浄化)の嵐が吹き荒れた1998~1999年と同じではないか。

 昨年末、セルビア側のコソボ国境付近に野戦砲が据えられた。現在、どうなっているのか、確認のしようがないが、一触即発の状態にあったことは確かだ。

コソボに向かうドイツ軍兵士。=24日、ウィーン国際空港 撮影:田中龍作=

  ~急進党リーダー「核を使ってでもコソボを取り返す」~

 圧倒的少数(人口の10%弱)のセルビア系住民が、圧倒的大多数(人口の90%)のアルバニア系住民を支配する・・・それがコソボだった。セルビア政府がセルビア人の軍と警察を送り込んで弾圧していたのである。現在の人口は180万人。

 アルバニア系の武装勢力KLA(コソボ解放軍)が蜂起、セルビア軍との本格的衝突に発展する(1998~99年)。軍事力の差は圧倒的で、夥しい数のアルバニア系住民が隣国のアルバニアに逃れた。最大時で85万人に上る。(UNHCRまとめ)

 NATOはエスニック・クレンジング(民族浄化)を止めるためセルビアを空爆した。

 セルビアは降伏し、NATOはそのまま平和維持部隊KFORを駐留させた。

 20年近くも前になるが、セルビア急進党のニコリッチ副党首(のちに大統領)は、田中のインタビューに「コソボには軍と警察を戻したい。核を使ってでもコソボを取り返す」と答えた。190cmの巨躯もあって真に迫った。現実味さえ感じさせた。

 民族の聖地コソボを何としてでも奪還したいセルビアが、ウクライナに大戦力を傾注するNATOのスキに乗じ攻勢をかけている。

地元テレビ局も銃撃現場に駆け付けリポートした。23日、レポサビッチ国境付近 撮影:田中龍作=

     ~つづく~ 』

ウクライナ、メタルネットによる保護装備で徘徊型弾薬の攻撃を防げる

ウクライナ、メタルネットによる保護装備で徘徊型弾薬の攻撃を防げる
https://grandfleet.info/european-region/ukraine-protective-equipment-with-metal-nets-can-prevent-roaming-ammunition-attacks/

『ウクライナ軍の砲兵装備はロシア軍の徘徊型弾薬やドローンによる攻撃の被害が目立ち始めているが、これを保護するメタルネットが「ランセットの攻撃を首尾よく防いだ」とウクライナメディアが報じている。

参考:Артилеристи отримали екрани-сітки проти ударів БПЛА
参考:Сітка врятувала САУ Krab від “Ланцета”

拾ってきたような木材の支柱で支えられてるメタルネットでランセットの攻撃を防げた?
ウクライナ軍の榴弾砲や自走砲といった砲兵装備はロシア軍の使用する徘徊型弾薬やドローンの被害が目立ち始め、これを保護するメタルネットをウクライナ軍は使用し始めたと報じられていたが「徘徊型弾薬による自走砲KRABへの攻撃を特殊なネットが防いだ視覚的な証拠」が登場して注目を集めている。

#Ukraine: A Ukrainian Krab 155mm self-propelled howitzer was destroyed by two Russian Lancet loitering munitions in the vicinity of Bakhmut, #Donetsk Oblast.

The first hit apparently didn’t inflict any serious damage however the second one led to ammunition cookoff. pic.twitter.com/cpZweJ8sog

— 🇺🇦 Ukraine Weapons Tracker (@UAWeapons) January 11, 2023

SNS上に登場した写真は自走砲KRABの頭上に設置されたメタルネットに徘徊型弾薬「ランセット」の残骸が引っかかっており、ウクライナ側は「メタルネットを正しく設置すれば徘徊型弾薬から榴弾砲や自走砲を保護できることが判明した」と主張している。

ただし徘徊型弾薬は目標に対してあらゆる方向から突入してくるため「頭上だけでなく四方をメタルネットで囲む必要がある」とも述べているのが興味深い。

Well, it really works. pic.twitter.com/ELdCAa9hZi

— Kriegsforscher (@OSINTua) January 22, 2023

因みに写真に映るメタルネットは拾ってきたような木材の支柱で支えられてるため「本当にランセットの攻撃を防げたのか?」と効果を怪しむ声もあるが、ウクライナ軍はバフムート方面で使用するM777もメタルネットで保護し始めたと報じられている。

関連記事:現代戦に大きな影響をもたらしたウクライナ侵攻、米軍も1万ドルの自爆型無人機を要望

※アイキャッチ画像の出典:Kriegsforscher
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 16 』

独国防相が未承認移転を否定、レオパルト2提供は連邦首相府が決める

独国防相が未承認移転を否定、レオパルト2提供は連邦首相府が決める
https://grandfleet.info/european-region/german-defense-minister-denies-unauthorized-transfers-chancellors-office-decides/

『ドイツのピストリウス国防相は23日「ウクライナへのレオパルト2提供の決定は連邦首相府で行われる」と述べ、ベアボック外相の「未承認移転」を容認する発言を否定した格好だ。

参考:Auch Pistorius wartet auf den Kanzler

ここまでくると政治的責任を押し付けられるドイツがかわいそうに思えてくる

ポーランドは正式に「保有するレオパルト2をウクライナに移転したい」とドイツに要請していると推定(英国のウォレス国防相が遠回し示唆)されているが、RMF-FMの番組に出演したポーランドのパヴェル・ヤブロンスキー外務次官は「もしドイツがレオパルト2の移転に強く抵抗するようなら非正規なアプローチを採用する用意があると思う」と述べたため、最終使用者の変更に関する承認手続きを無視して「戦車提供に踏み切る用意がある」とロイターが報じていた。

L’Allemagne franchit un seuil inédit sur @LCI par la voix de la ministre A.Baerbock. Elle «ne s’opposerait pas» si la Pologne envoie les Léopards.
-J’ai bien entendu, vous avez dit, si les Polonais l’envoient, vous ne vous y opposeriez pas?
-A.Baerbock: Vous m’avez bien compris. pic.twitter.com/HGykBGhocL

— Darius Rochebin (@DariusRochebin) January 22, 2023

仏メディア(LCI)の取材に応じたドイツのベアボック外相は「もしポーランドが承認なしにレオパルト2を送ったらどうなるのか?」という問いについて「我々は邪魔しないだろう。この戦車がどれだけ重要かを知っており、だからこそ我々は同問題をパートナーと協議している」と述べたが、ドイツのピストリウス国防相は23日「ウクライナへのレオパルト2提供の決定は連邦首相府で行われる」と述べて、外相の「未承認移転」を容認する発言を否定した格好だ。

ピストリウス国防相は「この問題は戦車を提供するかしないかというだけでなく、行動しないことが引き起こす結果と行動したことが引き起こす結果も検討することが重要で、勢いに任せて考えなしに決定を下さないことがドイツを含む欧州の利益になる。先週のラムシュタイン会議でも戦車提供で参加国の意見が一致した訳では訳ではなく、まだ国内の調整が終わっていないとはっきり言う国もあった」と指摘。

出典:U.S. Secretary of Defense/CC BY 2.0

さらに「ドイツはウクライナに33億ユーロもの武器や装備を提供しており、これ以上のことをしている国は米国と英国だけだ。我々はこの事実を隠す必要もないし、こんな責任のなすり合いは何の役にもたたない」と戦車提供をドイツが止めているという批判に反論した。

ドイツのウクライナ支援は「国際社会(NATO加盟国を含む)と歩調を合わせる」というのが大前提で、ピストリウス国防相の主張を信じるなら「ウクライナ支援を議論するラムシュタイン会議の参加国の中に『戦車提供』を拒む国がいるため連邦首相府はレオパルト2提供に踏み切れない」という話になり、つまり合意形成を無視してレオパルト2提供に踏み切り「戦いのエスカーレションを招いて欧州全体に取り返しのつかない影響が出た時の政治的責任がとれない」という意味だろう。

出典:Photo by Spc. Joshua Bolding

だからこそ榴弾砲、多連装ロケットシステム、防空システム、歩兵戦闘車の提供で常に歩調を合わせてきた米国(エイブラムス)との同時提供をショルツ首相は望んでいるのが、米国は「エイブラムス提供を条件にするのではなくドイツ自身が主体的に決定すべきだ(ドイツに戦車提供を強要するつもりはないとも述べている)」と回答、米国も主体的に検討した結果「エイブラムスは提供しない」という立場を堅持、ドイツの決断を後押しするため英国(チャレンジャー2提供)とフランス(ルクレール提供の検討)が政治的責任の分散を図っているのだ。

あとはショルツ首相が主体的に「(戦車提供を拒む国の意見を無視できないという)原理原則」と「ウクライナの状況」を天秤にかけて判断するだけなのだが、レオパルト2提供に踏み切ればチャレンジャー2やルクレールよりも提供数が多くなるため「影響が出た際の政治的責任の割合」はドイツの肩にのしかかってくる。

出典:Kremlin.ru / CC BY 4.0

恐らくラムシュタイン会議で戦車提供の合意形成を阻止しているのは、EUのウクライナ向け軍事援助を度々阻止しているハンガリー、政治的にウクライナとロシアの停戦を試みるトルコ、ロシアとの関係悪化を危惧するイスラエル辺りだと予想されるが、ここまでくると政治的責任を押し付けられるドイツがかわいそうに思えてくる。

関連記事:疑惑のハンガリー、ロシアのウクライナ侵攻に協力で旧領復活を期待?
関連記事:ハンガリーが方針転換、自国領を通過するウクライナへの武器輸送を容認
関連記事:ウクライナへの戦車提供問題が最終局面、米国が出せばドイツも出す
関連記事:独外相はレオパルト2の未承認移転を容認、仏大統領はルクレール提供を検討

※アイキャッチ画像の出典:Krauss-Maffei Wegmann GmbH&Co.KG
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 60  』

『 コメント

コメント ( 60 )
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    あ
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

やっぱドイツって○だわ
24
        みい
        2023年 1月 24日
        返信 引用 

    別で書いた通り、米国は大統領に包括的な権限があり、米国憲法は大統領を信用している

    だがドイツ基本法(憲法)は首相や大統領を信用していない
    連邦憲法裁判所に最大の権限がある

    時の首相が「ロシアを支援するぞ!」「ロシアと協力してウクライナを分割するぞ!」なんて言い出してもドイツ基本法が許さない
    だが逆に言えば時の首相の判断で非NATOのウクライナを支援する事もできないのだ
    第三国の保護のための行動は、基本法87条で禁じられている
    他国の支援については、同盟事態として「NATOのための集団的自衛」のみ許される
    それはドイツが敗戦国だからなのだ
    5
    現場猫
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

ポーランド「しまったー、うっかりウクライナ国境に並べておいたレオパルト2が盗まれてしまったー(棒)」
ドイツ「盗まれたならしかたないねー(棒)」

これでヨシ!
40
        くらうん
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    某戦車道アニメならC-5ギャラクシーで空輸した後に紛失届提出
    10
    ななし
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

重要なテーマで外相と国防相の意思統一が出来ていないのは、
ドイツの国家としての信用を落とすことになる
38
        TKT
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    それは一方的な見方で、逆にドイツからすれば未承認移転を口にするポーランド政府や、遠回しな言い方をするイギリスのウォレス国防相、さらに解任された駐独ウクライナ大使がすぐに復帰していたり、内務大臣が墜死したり、SBUのスペツナズアルファが要人を路上で処刑して、見せしめにするのが放置されていたウクライナ政府の方が信用と落としている、ということかもしれません。

    NATOがレオパルド2戦車の未承認移転を黙認するということは、ポーランド軍が持つエイブラムス戦車を無断でウクライナ軍に供与するのも可能ということになります。

    レオパルド2戦車はドイツの許可なしにウクライナ軍に供与できるが、エイブラムス戦車はアメリカの供与なしにウクライナ軍に供与できない、というような二重の基準では同盟は成立しないでしょう。

    韓国政府もまたウクライナへの兵器供与を拒否しており、ポーランドが韓国製戦車を輸入したときはやはり同じような問題が起きるでしょう。
    20
            ななしの
            2023年 1月 23日
            返信 引用 

        エイブラムスも無断で出せるとか、二重の基準とか言うのは外交や政治というものを理解してない考えですね。これは移転の権利を持つドイツと、レオ2を保有し移転したい(&保有してないが移転させたい)各国との政治的なパワーゲームです。

        もしエイブラムスもポーランドが出したいなら、同様のパワーゲームをNATOの事実上の盟主であるアメリカ相手に仕掛けるということです。その時味方になってくれる国は遥かに少ないでしょう。エイブラムスを持ってる欧州国家も、アメリカ相手に圧力をかけようなんて考える国も殆どないからです。

        これは仮に無断で供与した後の展開も含まれます。既にエイブラムスとK2で国内の戦車を置き換えるつもりのポーランドは、無断供与でドイツとの関係を損ねてアフターサービスが受けれなくなってもそれほどの痛手ではありません。しかし、アメリカを怒らせて米製兵器の将来の購入やアフターサービスを危険に晒すのは国家が受ける影響が違います。

        そんなことは誰にでも明らかなので、ポーランドもエイブラムスを出したいとは言わないのです。
        エイブラムス供与について圧力をかけられるほぼ唯一の存在は、アメリカ自身の連邦議員です。
        21
                名無しさん
                2023年 1月 23日
                返信 引用 

            外交と言うのは立場が異なれば求められる役割も異なるわけで、それぞれが自国の国益にかなった主張をするのは間違った話ではありません。

            ただ、ドイツが「レオパルド2の供与を承認する代わりに、エネルギーの確保やロシアの核攻撃からの安全保障を求める」と言うのであれば、交渉材料として議論は進められるのですが、「アメリカもエイブラムスを供与してほしい」と言うのは「先陣を切って支援したとロシアに思われたくない」という実に消極的な理由が見えて、NATOの中核国としてはあまりに残念過ぎます。
            20
            tokumei
            2023年 1月 23日
            返信 引用 

        ウクライナにも様々な問題があるのは確かだけど、それが問題で支援しにくいってのはドイツ周辺国の行動見てると違う気がする。東欧、北欧、英蘭とかロシアを脅威として強く認識している国は支援が大きいし、結局は対露感情と国内政治の問題でしょう。
        2重の基準というかそもそもドイツが国として認めた話でもないし、仮に認めたとしてもNATO云々は関係ないと思う。各契約は各国の国内法によるものだし、トルコみたいな問題児を抱えてることの方が大きな問題では?
        K2の導入が進む上での懸念は最もで、それだけでなく次期欧州戦車なんかもどうなるんでしょうね。130mm砲なんて備蓄している既存兵器との互換性すらないですし。
        3
        匿名
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    結局のところドイツだけが、リスク回避に専念しているように見えてしまうのがまずい訳で…
    イギリスやフランスポーランドがリスクを背負ってまで提供するのに、
    EUの盟主であるドイツだけが、その足並み乱す振舞をしているのが致命的だと思われます。
    ぶっちゃけ最終的には提供するんだから、グダグダやってドイツの信用を落とすのならさっさと決断した方がいい。
    なんちゃらの腐ったような奴状態ですよ、今のドイツ外交。
    6
        トト
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    ドイツ政府は連立政権であり各与党から選出された国務大臣も独立した発言力があるイメージがあります。最大与党のSPD以外は元から戦車提供に積極的なので外相の発言と首相や国防相の姿勢の矛盾は折り込みでしょう。
        7743
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    元々、SPD、緑の党、自由民主党の3党連立政権は、その基本方針から相容れない要素が多く、メルケル引退後のドイツの政局はいずれ行き詰まると言われてきました。ウクライナ支援に関しても各党ごとに温度差があり、なおかつ、ドイツの世論もロシアに融和的なAFDを含めて、支持層がバラバラで、どこも主導権を取れない状況にあります。
    戦車供与問題はドイツの世論が分散している現状が顕著に現れた例で、決断力と指導力の欠けるショルツ首相では、このままズルズルと決定を先送りにして、最後には押し切られる未来しかないように思えます。
    9
    hoge
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

>「戦いのエスカーレションを招いて欧州全体に取り返しのつかない影響が出た時の政治的責任がとれない」

言いたいことはわかるけれども、最新自走砲や歩兵戦闘車やアメリカの出資でアップグレードされたT-72やPT-91(製造含めて西側戦車なのでは?)はよいというのはどういうロジックなの?🤔
22
    774rr
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

貧乏くじ感あるよね ドイツくん

ノルドストリーム2を稼働させずにロシアの収入源を潰し
パトリオットやゲパルトを出して対空防御に貢献し
プーマが全滅してる中でマルダーを出し
自国の防衛よりウクライナ支援を優先してる位なのにあっちゃこっちゃから文句を言われ
責任だけは押し付けられる。。。南無三
40
        shkk
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    確かにやってることだけ見れば欧州有数なんだけど、でもドイツの戦争前の行動を見ると…
    26
            774rr
            2023年 1月 23日
            返信 引用 

        戦争前の事は忘れよう
        それは過去の事だし 誰もがロシアの軍事進行が本当にあるとは思ってなかったから。。。(震え声
        5
            samo
            2023年 1月 23日
            返信 引用 

        昔の人は言いました。
        「Happy is that city which in time of peace thinks of war.」

        考えてなかったドイツは、そのツケを今支払っているに過ぎない
        8
                333
                2023年 1月 24日
                返信 引用 

            本邦もいつかそのツケを支払う日が来るんでしょうか?
        ななし
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    貧乏くじはドイツ軍の現場の人たち
    現場は一生けん目頑張っているのに、上に立つ政治家が下手な動きをしてイメージを悪くしている状況
    28
        名無しさん
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    軍事力・経済力はあるのに外交が下手すぎて失点を稼ぐと言うのはドイツの伝統のようなものでしょう。
    金額ベースでは圧倒的に支援していると言えるのですが、他国の支援に口出ししている(せざるを得ない)のがイメージを致命的に悪くしています。
    こういう時、「ドイツは認めないけど、阻止する方法もない」と言って、シレっと提供を見逃せるような腹芸ができないのがドイツらしいとも思います。
    17
    F
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

ハンガリーやトルコは一体何のためにNATOに加盟したんだか
ロシアや中国を中心とする東側諸国と対立したくない、むしろ仲良くしたいって国が加盟するものではないだろう
ドイツが敗戦国ゆえの弱腰なのはまだ分かるし
自業自得とはいえ天然ガスパイプライン止められたらやばいってのも理解できる

ハンガリーやトルコってオルバーンやエルドアンがプーチンと似た政治思想もってて
民主的に選ばれてるのであれば投票した国民を含めてプーチンに共感もってるだけだろう
そんな国が東側に対抗するために生まれた軍事同盟に加盟して何がしたいのやら

イスラエルはNATOに加盟してるわけじゃないし好きにすればいいと思うよ
NATOに加盟してるくせにってのがおかしいと思うところ
19
        poc
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    東欧の国は歴史的にロシアが大嫌いなので。
    時代が変わって取引先としてのロシアとは仲良くはしたいと思うようにはなったけど、友達にはしたくないのさ。
    5
        幽霊
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    ウクライナはNATO加盟国では無いからね
    NATO加盟国が攻撃されているのに戦わないなら批判されても仕方ないけどそうでは無い以上ロシアと仲良くしようが中国と仲良くしようが各国の自由でしょう。
    結局はウクライナを支援する国が反対国の意見を無視して戦車を提供するという決定を下せば良いだけの話ですし。
    28
    無題
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

責任取れないなら最初から兵器なんて売らなきゃよかったんじゃないですかね
17
         
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    違うでしょ
    ドイツに拘束されずに提供したいなら、購入時にそういう条件を付けるべきだった
    第三国への提供にドイツの許可が要るという条件でレオ2を購入することを選んだのはポーランド
    提供を認めろ!という主張は全くその通りだが、「最初から売るな」は理屈がおかしい
    30
            7c
            2023年 1月 23日
            返信 引用 

        多分それ無理ぽ。

        だって幾ら中古品でも、敵国が第三国経由で自国の兵器持って参戦されたら困るやんけ。
        13
            samo
            2023年 1月 23日
            返信 引用 

        制限をつけないライセンスなんて存在するわけがないので、その反論はまったく意味がないよ
        11
    ぁ
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

 EU使って周辺国から普段はチューチューお金を吸って、盟主面して脱炭素、ポリコリ、移民受け入れ(自国の安価な労働力確保)には頼んでもないのにちゃちゃ入れてきてやれやれうるさいくせに、いざヨーロッパの危機になったら僕1EU国家だもんつらしてたらまあねえそらねえ・・・・。
28
         
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    EUとNATOは別の組織ですよ
    22
        ロジカルに考えましょう
        2023年 1月 24日
        返信 引用 

    > EU使って周辺国から普段はチューチューお金を吸って

    EUがドイツが周辺国を経済的に搾取するための組織になっているのなら、どんどん脱退国が出るはずですが、脱退したのはイギリスだけ
    それどころかウクライナを含めEU加盟希望国が列を作って待っている状態ですよ
    6
    無無
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

まわりが首相を追い込んでいるようであり、いやドイツにとっては国の行く末のかかる重大事になってしまってる、まさに宰相の責務で決断すべき案件
レオパルドは今年キーワード入りか
4
    横田
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

外相と国防相で真っ向から食い違う声明が出てる中でショルツ首相は地蔵してるだけ
ドイツ完全に政治的にやばいことになってるのでは
29
    もり
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

絶対にババを引きたくない米国
そりゃ主力戦車まで横流しされたら堪んねぇもんな仕方ねぇか
6
        匿名
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    エイブラハムは燃費最悪のためにドイツの戦車のほうが優れている戦車扱いされてぐらいですしね。
    三時間で燃料ぎれになる局地戦用戦車投入して、燃料ぎれでロシアに奪われでもしたら大変。
    制空権持ち八時間に三回燃料補給できれば、ドイツのレオポルド2など他国の戦車を圧倒する最強の攻撃力や機動力や防御力性能あるんですが、ウクライナは制空権や有り余る充分な兵站は持っていないですからね。
    6
            御影渦音
            2023年 1月 24日
            返信 引用 

        あるいはドイツの言い訳用に数両だけ供与するとか?
        samo
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    ジェット燃料で動くエイブラムスを、ウクライナの最前線で使うのは非現実的
    アメリカですら、過去の戦争でエイブラムスの兵站を支えるのに四苦八苦していた
    12
            tokumei
            2023年 1月 24日
            返信 引用 

        補給の問題はよく聞く話だけど、首都やリヴィウとかの防衛用ってわけにはいかないのだろうか?ポーランドやイラクだって導入してる(する)わけだし、遠くの戦場で駆け回らず、再侵攻へのけん制として北部・西部に置いとけないようなものなの?
        2
        おさげ
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    過去イラクに供与した車両がis に鹵獲されてますし、特に困ることも無さそうですが
    5
    al-rachid
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

そうそう、フランスがルクレール戦車を……って話関連なんですが、いま西アフリカのフランスの権益ゾーンをロシアが侵しているんですね。
マリやブルキナ・ファソといったフランス語圏の西アフリカ諸国にロシアが働きかけて親露派の政権を後押しし、フランスの影響力を弱めようとしている。
フランス軍を退去させてロシア軍(ワグネル)をこの地に招き寄せよせている。
なので、フランス政府としてはロシアの行動にムカッ腹立っている事は間違いなく、これが積極的なウクライナ支援の理由の一つと思われます。
国際情勢というのはこうして遠くの点と点がリンクしている事がままありますので、じつはウクライナ戦争と仏露関係とアフリカ情勢までが繋がってくるというのは、単一の情報だけ追っているだけでは中々イメージしにくいですから、大きな視点で見ていく必要があります。
30
        名無しさん
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    ロシアはアフリカでフランスの救援ヘリの映像を、「フランスが反政府テロを支援している」と騙った動画を拡散させてたりイメージダウンに邁進してますね。
    SNSへのリテラシーの低いアフリカ人は、ロシアの稚拙なフェイクニュースも簡単に信じる傾向にあり、それが反欧米親中露に繋がっているようで実に厄介な問題です。
    日本のアピール下手も有名ですが、フランスのような国際外交で主導権を取れる立場の国であっても、フェイクニュースによる攻撃は防ぎにくいモノであるというのは、重大な教訓だと思います。
    16
    panda
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

ドイツの対露融和、資源依存がロシアの増長を招いたという側面もある
ドイツはその責任を果たすべきだ
24
    戦略眼
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

まあ、落としどころは、Leopard1A6だな。
今のうちに種車集めて改修するこった。
1
    トーリスガーリン
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

全ては開戦初期にヘイト稼ぎすぎたのが原因なので自業自得感かなぁ…
あんまりかわいそうだとは思わないけど新国防大臣はとばっちりもいいとこだよなとは思う
22
        ホテルラウンジ
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    そこが全てだと思いますよ
    開戦前から経済安全保障の根幹を中露に握らせる一方で防衛費削減してきたのに加えて、
    ヘルメット5000個と海軍大臣だけじゃなくてその他にSWIFTだのなんだので10個ぐらいドイツは開戦当初ロシア側に与する形で動いてましたもんね。
    NATOの大ボスであるアメリカが「お前が決めろ」とドイツを突き放したのはこれまでのドイツ外交の集大成の象徴と思います。
    これまでも西側の価値観に基づいた安全保障に積極的に汗を流してきたのであれば、この局面でアメリカはこんな事は言わず、協調的な調整をしたと思います。
    つまり、もしドイツがこれでレオ2を「出さない」という決定をした場合、アメリカはもう一発ドイツを欧州のリーダーの地位から引き摺り下ろすようなタマを出してくると予想します。
    ドイツが実績として3位になる多額の武器をそのあとに送ってると本人はアピールしていますが、それでもアメリカが突き放してるのは、積みあがったツケはそんなもんじゃないという事でしょう。
    要は「お前がレオ2支援決定して、ロシアの報復の矢面に立って自分から金玉を差し出したエネルギー安全保障のツケを払え」
    という事かもしれませんね。
    アメリカは普段は温いですが、こういう時に怖さが出ますよね。
    平時に舐めた振舞いをずっとカウントしていってるんですね。そんな上司居ますけどw
    8
            あいう
            2023年 1月 24日
            返信 引用 

        > アメリカはもう一発ドイツを欧州のリーダーの地位から引き摺り下ろすようなタマを出してくると予想します。

        そうなればプーチンにとっては大きなプレゼントになりますね
        2
    魚虎
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

レオパルド2の移転問題を巡ってドイツの内閣が空中分解といった様相でしょうか。
外相としては諸国と歩調を合わせたいと願い、防衛相としては未承認移転を含んだ移転など断固認められないという立場。
ショルツ首相が防衛相と同じ立場なら、レオパルド2の移転はよほど劇的な変化でもない限りは難しいと見た方が良さそう。
ドイツがテコでも動かないとなると煽った周りの方がより過激にチキンレースするか手の平を返す展開が待っているかも。
2
    L
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

ドイツが今までのつけを払っているのを見るにつけ、日本はもっと酷いんだろうなと暗澹とした気持ちになる
ポーランドがウクライナに行っているような事を日本は台湾に行うべきなのに
戦後70年経っても変えられないんじゃもう政党がどうこうじゃなく無理だわ
10
    台湾大好き
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

ポーランドの言う「非正規なアプローチ」とは何でしょうね。契約実務に関わる身としては興味津々です。
①強行:単にドイツ未承認でも提供、②契約の穴をつく:書類上廃棄して鉄くず売却、③東側的解決法:戦車旅団がまるっと義勇兵化、④責任転嫁:盗まれた!キーがついてないのが悪いんやー、⑤斜め上:ウクライナから1ズロチでバフムトを取得「無慈悲な防衛」発動
(まぁ②かな)
6
    paxai
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

ウクライナ支援ってのは寄付みたいなもんでドイツがどの程度支援するかは誰かに強要されるものではないと思ってる。
日本が武器は出さず金を出してるのも同じ理由じゃないかな。
5
    58式素人
    2023年 1月 23日
    返信 引用 

実際のところ、必要な戦車の数はあと何輌なのでしょう。
300輌とゼレンスキー大統領が言っていたけれど。
前にも書いたけれど、チェコからの90輌、英国からの10輌、
の他に200輌ということでしょうか。
鹵獲再利用分は別勘定なのかな。それとも整備は進んでいないのかな。
早急に戦争を終わらせるつもりなら、その200輌は、ほぼ現役でないとですね。
記事で予想しているように、英/仏/独で、1/3づつで分担するならば、
各々70輌ほどで良いことになります。多分、可能では。
そうなれば、独が突出することはないので、独が自身の突出を言い立てるのはなぜかな。
4
        月虹
        2023年 1月 23日
        返信 引用 

    ウクライナの場合、部隊間での鹵獲武器の情報共有がされていないことや武器が不足気味の前線では部隊間で縄張りがあって武器を相互に融通することが難しいなど鹵獲兵器の活用は必ずしも上手くいっているとはいえない状況にある。また鹵獲兵器の中にはBMP-3、T-90、T-80など主要コンポーネントをロシアでしか製造していないために実質使い捨てにせざるをえないような兵器もあり、その点もウクライナ側にとって悩ましい問題の様です。
    5
            58式素人
            2023年 1月 24日
            返信 引用 

        素人の想像を交えて書きます。
        ウクライナの報道を見ていると、領土防衛隊の名がよく出てきます。
        彼らは、地域限定(?)の義勇軍であり、ロシアが攻めるときは、
        防衛側の最前線になっている様ですね。
        おそらく、鹵獲品も彼らが得るのでしょう。
        その利用についても一義的な使用が認められているのではと思います。
        何せ、兵器が足りないのでしょうから。
        編成は地域ごとに完結しており、横のつながりはあまりないように見えます。
        鹵獲品も、軍需工場のある地域は再生できますが、そうでない地域は使い捨てなのでは。
        素人にはそんなふうに見えます。
        正規軍が鹵獲品を得るのは、攻勢期なのではないでしょうか。
        tokumei
        2023年 1月 24日
        返信 引用 

    英仏は現役200両ちょっとしか持ってないから出せない。しかも按分で出すと旅団ごとに補給・整備が別々になる。
    欧州各国がドイツに求めているのは各国所有のレオパルド2のウクライナへの移転許可。
    各国が出したいといっているのはレオパルド2A4・A5などが中心で退役予定だったりするので出しやすい。
    しかも各国で訓練ができるので戦力化の見通しも立ちやすい。
    戦車支援国でドイツが突出するのではなく、支援戦車のうち西側製戦車の製造国比率でドイツ製が突出してしまうということではないでしょうか。1位はソ連製なんですけどね。
    3
            58式素人
            2023年 1月 24日
            返信 引用 

        各国の内情を無視して勝手なことを言うと。
        英国はチャレンジャー2を、現在227輌配備し、内79輌を廃棄予定なので、
        現在の10輌に加えて更に60輌を提供するのは、出来そうな気がします。
        フランスは、ルクレルクを、400輌配備中です。70輌ならば可能なのでは。
        ドイツですが、他所の記事によると、本国仕様と輸出仕様で差がある様です。
        砲塔旋回の動力が、本国仕様では電動、輸出仕様では油圧なのだそうです。
        油圧の動力源が電気なのか、主機(ティーガーは主機)なのかは判りません。
        ですので、仕様を揃えるならば、全て輸出仕様になるのでは。
        であれば、現在ポーランドが提供を申し出ているそうですが、同じく提供を
        申し出ているとされるフィンランドを合わせれば、70輌は出来そうに思えます。
        配備については、これは地域・部隊で分けるより仕方ないでしょうね。
        メンテの問題もついて回りますから。この部隊はこの戦車みたいな。
        チャレンジャー2では既に訓練も始まっている様ですが、
        戦車は各国で用兵思想が違いますから、そうなるのも仕方ないかなと思います。

          
    あああ
    2023年 1月 24日
    返信 引用 

仏としてはそのリスク分散でルクレールの供与と言い始めてますが首都防衛戦車中隊とかでやらん事には酷い様晒すと思います。そこまでしてレオ2供与に協力してるのに米国がM1を出さんのがよく分かりません。納期未定で乗員訓練だけ開始でも良いかと思いますが一体何が理由なんでしょうか。
この流れを見るに米国の対応がそのうち問題視され始めると思います。独がこうまで言うのになぜ乗らないのか。訓練用で供与したらよいではないか。理由は兵站だと言われてもポーランドが戦時準備でそれを完全輸入で導入してるわけですし、説得力がありません。
破壊や鹵獲のリスクにおいても中東では既にある話です。機密性においてもイラク軍が運用してる時点でどうにもなります。とするとNATOのMBTで戦線を押し返す場合の露国民心情を考慮した結果なんでしょうか。
露国民はNATOとの対決であれば動員に乗り気になる。これは間違いありません。さらなる戦争動員で国民負担が高まってもNATO相手なら挙国一致になりかねません。これは西側としては最悪の方向です。同胞殺しの汚名を着せる事で戦争協力の抑制を狙いたいはずが真逆の結果に進みます。
チャレンジャー1と2は無名なMBTだから良いという考えなのか分かりません。しかしレオ2とM1はどうやら特別な地位にあるようです。たかがAFVなんですがね。
4
    みり
    2023年 1月 24日
    返信 引用 

ドイツも敗戦国だという事を忘れていないだろうか。アメリカは中立法を撤廃してレンドリース法を可決したが西ドイツは再軍備の条件として極めて厳しい制約を受けている。ドイツでは連邦憲法裁判所が最大の権威を持ち、ドイツ基本法による制約が大きい。湾岸戦争ではアメリカの参戦要求を違憲として拒否

例えば米国では大統領が包括的な権限を持つのに対し、ドイツは立法府(議会)と司法が権限を持つ。ドイツ基本法は極めて細かく手続きを決めており、軍事支援についても首相がなんと言おうが議会の2/3の賛成や裁判所の判決が必要になってくる

例えば「ドイツが自由に軍事支援できる」という基本法(憲法)なら、例えばドイツがロシアを支援する事もできるという事だ。だからNATOに敵対しないように、自国の防衛以外は「同盟事案」としNATO条約第5条集団的自衛権によって初めて軍事支援を行う事が可能になるという仕組み
すなわち、第三国の保護のための行動は、基本法87条で禁じられている。戦時国際法では中立国の回避の義務
として「直接、間接を問わず交戦当事国に援助を行わない義務を負う」としており、当事国への武器の供与は軍事支援とみなされる

つまりドイツは敗戦の結果自国防衛とNATOの集団的自衛権によってのみ行動できる国になっており
イラク戦争でも自衛隊同様、人道支援しかしていない
>ドイツ連邦憲法裁判所は七日、イラク戦争開始前後の時期におけるドイツ軍の北大西洋条約機構(NATO)軍の偵察活動への参加を違憲だとする判決を出しました

よって同盟関係にない「第三国」であるウクライナを支援するという事は、ドイツ基本法の理念を根本的に変更する
ドイツは時の権力者を一切信用せず基本法で縛るという政治システムであり、基本法を替えた場合、時の権力者がロシアなり中国なりNATOと敵対する国を支援できる様な法律にもなるという事

まとめると、ドイツ基本法(憲法)は首相や大統領を信用していない(米国憲法は信用)
時の首相が「ロシアを支援するぞ!」「ロシアと協力してウクライナを分割するぞ!」なんて言い出してもドイツ基本法が許さない
だが逆に言えば時の首相の判断で非NATOのウクライナを支援する事もできない
5
    かませ
    2023年 1月 24日
    返信 引用 

ドイツの政治的ミスが話を大きくした要因の一つでは間違いなくあると思うがいくらなんでもポーランドの態度デカ過ぎだ
ドイツは自国の防衛ほぼガン無視でNATO諸国に戦車を供与してるのにポーランドは2線級の古いT72を何百両提供しようとほとんど防衛に影響無い
もともと自国の防衛の為に使いますって契約で買ったのに勝手に供与しようとするし
3
    ak
    2023年 1月 24日
    返信 引用 

ドイツも敗戦国だという事を忘れていないだろうか。アメリカは中立法を撤廃してレンドリース法を可決したが西ドイツは再軍備の条件として極めて厳しい制約を受けている。ドイツでは連邦憲法裁判所が最大の権威を持ち、ドイツ基本法による制約が大きい。湾岸戦争ではアメリカの参戦要求を違憲として拒否

例えば米国では大統領が包括的な権限を持つのに対し、ドイツは立法府(議会)と司法が権限を持つ。ドイツ基本法は極めて細かく手続きを決めており、軍事支援についても首相がなんと言おうが議会の2/3の賛成や裁判所の判決が必要になってくる

例えば「ドイツが自由に軍事支援できる」という基本法(憲法)なら、例えばドイツがロシアを支援する事もできるという事だ。だからNATOに敵対しないように、自国の防衛以外は「同盟事案」としNATO条約第5条集団的自衛権によって初めて軍事支援を行う事が可能になるという仕組み
すなわち、第三国の保護のための行動は、基本法87条で禁じられている。戦時国際法では中立国の回避の義務
として「直接、間接を問わず交戦当事国に援助を行わない義務を負う」としており、当事国への武器の供与は軍事支援とみなされる

つまりドイツは敗戦の結果自国防衛とNATOの集団的自衛権によってのみ行動できる国になっており
イラク戦争でも自衛隊同様、人道支援しかしていない
>ドイツ連邦憲法裁判所は七日、イラク戦争開始前後の時期におけるドイツ軍の北大西洋条約機構(NATO)軍の偵察活動への参加を違憲だとする判決を出しました

よって同盟関係にない「第三国」であるウクライナを支援するという事は、ドイツ基本法の理念を根本的に変更する
ドイツは時の権力者を一切信用せず基本法で縛るという政治システムであり、基本法を替えた場合、時の権力者がロシアなり中国なりNATOと敵対する国を支援できる様な法律にもなるという事

まとめると、ドイツ基本法(憲法)は首相や大統領を信用していない(米国憲法は信用)
時の首相が「ロシアを支援するぞ!」「ロシアと協力してウクライナを分割するぞ!」なんて言い出してもドイツ基本法が許さない
だが逆に言えば時の首相の判断で非NATOのウクライナを支援する事もできない
3
    mun
    2023年 1月 24日
    返信 引用 

ドイツは長年の失策のツケを払うハメになっているだけの話で同情の余地はない
7
    makumaku
    2023年 1月 24日
    返信 引用 

ドイツが一度、ウクライナ向けにレオ2移転を認めれば、大量のレオ2ー当然レオ1もーがウクライナへ送り込まれる可能性が高い。それは戦況を一変させる戦力になりうるだろう。

他方で、ドイツの首班与党SPDの支持者には、親ロ派(ロシア移民)やロシア宥和派(エネルギー産業界、環境左派)が多く、SPD内にもレオ2移転の反対議員が多いため、レオ2移転の決定はショルツ政権の政治的打撃になりうる。よって、ショルツ政権が早期にレオ2移転を認めるかは不透明だ。まずはSPD内の意思統一(政治的妥協)が必要だろう。
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米英の支配者やその従者が主張する「共通の価値観」とは侵略、破壊、殺戮、略奪

米英の支配者やその従者が主張する「共通の価値観」とは侵略、破壊、殺戮、略奪 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301240000/

『アメリカの歴史は先住の「アメリカ・インディアン」を殲滅、土地を奪い、奴隷に働かせるところから始まる。そのアメリカはイギリスから独立するが、人権を否定するという点で両者に大差はない。アメリカのいわゆる「独立宣言」は「すべての人間は平等」としているが、その人間の中に先住民や奴隷が含まれていないことは歴史が示している。

 西側の支配層やその従者たちは「共通の価値観」なる用語をしばしば使う。彼らが行っていることは侵略、破壊、殺戮、略奪であり、民主的な体制を倒し、民主主義を実現しようとする人びとを排除してきた。それが彼らの真の価値観であり、かつて彼らは「帝国主義者」と呼ばれていた。そうした事実が語られることを嫌い、最近では言論の弾圧を強めている。

 そうした帝国主義的な行為を正当化するため、彼らはしばしば「神」を持ち出す。アメリカを「自由と民主主義」に基づく「正義の国」だと主張する人は、虐殺されたアメリカ・インディアンを「悪魔の創造物」だと考えているのかもしれない。特定の人以外は劣等だとする優生学がイギリスやアメリカで生まれ、発展したことは本ブログでも書いてきた。

 優生学の創始者とされているフランシス・ゴールトンは『種の起源』で知られているチャールズ・ダーウィンの従兄弟にあたる。ダーウィンはトーマス・マルサスの『人口論』から影響を受け、「自然淘汰」を主張していた。当時、イギリスの支配階級に広まっていた信仰だが、その信者にはセシル・ローズも含まれていた。彼は1877年6月にフリーメーソンへ入会、その直後に『信仰告白』を書いている。

 その中で彼はアングロ・サクソンを最も優秀な人種だと位置づけ、その領土が広がれば広がるほど人類にとって良いことだと主張している。大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)

 イギリスで生まれた優生学はアメリカの支配層へ広まり、イギリス以上に社会へ大きな影響を与えることになる。支援者の中心はカーネギー財団、ロックフェラー財団、そしてマリー・ハリマンで、優生学に基づく法律も作られた。

 マリーは鉄道で有名なE・H・ハリマンの妻だが、ハリマン家は金融の世界でも有名。ハリマン家の銀行で重役を務めていたジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘と結婚したのがプレスコット・ブッシュだ。プレスコットはウォーカーの下でブラウン・ブラザーズ・ハリマンやユニオン・バンキング・コーポレーションの重役を務めていたが、いずれもウォール街からナチスへ資金を供給する重要なルートだ。同僚のひとりにW・アベレル・ハリマンがいる。

 優生学の信奉者はアングロ・サクソン、ドイツ系、北方系の人種が優秀だと主張、劣等な種を「淘汰」するべきだと考える。そうした考えに引き寄せられたひとりがアドルフ・ヒトラーであり、ウクライナを支配しているネオ・ナチもその神話を信奉している。

 いわゆる『新約聖書』にもそうした思想が書き込まれている。例えば「ヨハネの黙示録」の第7章には天使が「我々の神の僕たちの額の上に我々が印をつけるまでは、地と海と木を害してはならぬ」と語ったとしてある。その僕とは「イスラエルの各支族の中から印をつけられた者」で、その印を付けられた人だけが殺されるのを免れるのだという。(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 7 ヨハネの黙示録』作品社、2017年)

 田川健三によると「民族伝説の趣旨からすれば「ユダヤ人」は十二支族の中の二支族にすぎない」のだが、これは無視されている。勿論、「十二支族」は歴史的な事実に裏付けられていない。(前掲書)

 田川は「黙示録」の中にギリシャ語の文法を理解している人物と初歩の知識もない人物の文章が混在していると指摘、少なくともふたりの人物によって書かれているとしている。大量殺戮に関する記述は後で文法的な知識のない人物によって書き加えられた部分だ。(前掲書)

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最終更新日 2023.01.24 00:00:07 』

ロシアとの戦争で劣勢のアメリカはNATOとEUの戦略的な関係を宣伝

ロシアとの戦争で劣勢のアメリカはNATOとEUの戦略的な関係を宣伝 – 《櫻井ジャーナル》:楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301230001/

『 N​ATOとEUは「共通の価値観、共通の課題に取り組む決意、ユーロ大西洋地域における平和、自由、繁栄を促進し、保護するという責務」に基づき、戦略的な協力関係を築くとしている​。アメリカ/NATOが仕掛けた対ロシア戦争で劣勢になった危機感の現れだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、NATOはヨーロッパを支配する仕組みとしてアメリカやイギリスの支配層によって創設された。NATOの初代事務総長でウィンストン・チャーチルの側近だったヘイスティング・ライオネル・イスメイはNATOを創設した目的について、ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえつけることのあると公言している。

 そのイスメイはドイツ軍が「バルバロッサ作戦」を始めて間もない1941年10月の段階で3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 勿論、心配していたわけではない。アドルフ・ヒトラーはこの作戦に約300万人を投入、西部戦線には約90万人しか残さなかったことから西からの攻撃はないと確信していた可能性が高い。

 ナチス政権は1934年1月にポーランドと不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があったのだが、交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになった。

 ところがベックは姿を現さず、ロンドンへ向かった。ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)のだが、これは「ミンスク合意」のようなもので、守られない。

 1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻。チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まったのだが、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。そしてバルバロッサ作戦へと進む。

 ドイツの対ソ連戦はイスメイの思惑通りには進まず、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツが降伏する直前の1945年4月に反ファシストのフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、降伏直後にチャーチル英首相はソ連に対する奇襲攻撃の作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)へ命令、5月22日には。「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 下野したチャーチルは第2次世界大戦後、冷戦の開幕を告げる。その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」​だ。

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1991年12月にソ連が消滅して以来、NATOはソ連首脳との約束を無視して東へ拡大させるが、これはロシアにとって「新たなバルバロッサ作戦」にほかならなかった。

 2014年2月にアメリカのバラク・オバマ政権はネオ・ナチを使った暴力的なクーデターでキエフを制圧、クーデターに反対する東部や南部を軍事的に占領しようとする。そして始まったのがドンバスにおける内戦だ。

 軍や治安機関の内部にもネオ・ナチによるクーデターに反発する人は少なくなかったこともあり、内戦はドンバスの反クーデター派が優勢。そのまま進めばドンバス軍の勝利で終わりそうだったが、そこで話し合いによる解決を目指す動きが出てくる。ドイツやフランスを仲介者とする停戦交渉が始まったのだ。

 その結果、ウクライナ、ロシア、OSCE(欧州安全保障協力機構)、ドネツク、ルガンスクの代表が2014年9月に協定書へ署名する。これが「ミンスク合意」だが、キエフ政権は合意を守らず、2015年2月に新たな合意、いわゆる「ミンスク2」が調印された。

 この合意について​アンゲラ・メルケル元独首相​は昨年12月7日、ツァイトのインタビューでウクライナの戦力を増強するための時間稼ぎに過ぎなかったと語っている。メルケルと同じようにミンスク合意の当事者だった​フランソワ・オランド元仏大統領​もその事実を認めた。

 アメリカ/NATOは兵器や装備品を供給、兵士を訓練、軍事情報を提供する態勢を整備していく。のちにロシア軍が回収したウクライナ側の機密文書によると、2022年春に軍事作戦を始める計画を立てていた。その直前、2022年2月にロシア軍は軍事作戦を始動させた。

 この軍事作戦についてNATOは「深刻なユーロ大西洋の安全保障への脅威」だと表現、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー政権に対する支援をEUと共同でさらに強化すると宣言している。

 アメリカ/NATOは2014年2月、ウクライナの独立や主権を無視したクーデターで領土を占領、ウクライナ人から自らの運命を選択する権利を奪ったわけである。そしてロシアに対する軍事的な恫喝を強化した。

 クーデターで占領できなかったドンバスやクリミアを制圧するため、アメリカ/NATOはウクライナの戦力を増強する必要があり、そのための時間稼ぎがミンスク合意だった。

 ところがロシア軍が先手を打ち、戦況はアメリカ/NATOの思惑通りに進んでいない。ジョー・バイデン政権が始めたロシアに対する経済戦争はロシアへダメージを与えられないだけでなく、EU社会に混乱をもたらしている。それが西側を苦しめている「食糧とエネルギーの危機」だ。

 アメリカ/NATOからの攻撃を受けたロシアは中国との関係を強化、今では「戦略的同盟関係」にある。米英の支配層は中国経済を1970年代に新自由主義化、経済だけでなくアカデミーの世界も支配することに成功したのだが、ロシアと中国との接近を阻止できなかった。

 シティやウォール街を拠点とする金融資本がナチスへ資金を提供していたことが判明しているが、その金融資本はネオコンの黒幕として対ロシア戦争を継続しているように見える。

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最終更新日 2023.01.23 16:40:11 』