再び中国に近づくドイツ なぜだか歴史から考えてみた

再び中国に近づくドイツ なぜだか歴史から考えてみた
樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29073

『昨年11月4日、ドイツのオラフ・ショルツ首相が訪中し、習近平国家主席との会談に臨んだ。同首相は、習国家主席が昨年10月の第20回共産党全国大会で3期目続投が確定した後に迎える最初の西側国家トップであり、一方のショルツ首相はフォルクスワーゲン、シーメンス、ドイツ最大化学企業のBASFなどドイツ経済を牽引する大手12社のCEO(最高経営責任者)を引き連れていた――。ここからも両首脳の会談に向けての意気込みが感じられる。

ドイツのショルツ首相は西側諸国として初めて3期目を迎える習近平国家主席と会談した(代表撮影/ロイター/アフロ)

 就任以来、同首相はアンゲラ・メルケル前首相の対中政策を踏襲するかのように、「中国の台頭を理由に中国を孤立させたり協力を阻害したりすることが正当化されてはならない」との方針を掲げ、ジョー・バイデン米政権の対中強硬姿勢とは明らかに一線を画している。ドイツが打ち出す中国に対する融和姿勢を、習国家主席が高く評価しているであろうことは容易に想像できるはずだ。

 たしかに現在、ドイツにとって中国は最大の貿易相手国ではある。だからメルケル(前)、ショルツ(現)の両政権が中国の秘めた経済的可能性に照準を合わせていたとしても、決して不思議ではないだろう。

 だが、短期的にはそうではあっても、長期的に捉え直すならば、やはり中国に対する多年に亘る強い関心がドイツを突き動かしてきたと考えるべきではないか。

 ここで欧米列強に日本を加えたプレーヤーが中国の秘めた富源を標的としたゲームを激しく争っていた清国末から中華民国初年――19世紀末から20世紀初年――に立ち返り、同時代の日本人が残した記録を手掛かりにして、中国におけるドイツの過去の振る舞いを探ってみたい。

 なぜ、あの時代なのか。それは中国において各国の利害が錯綜する構図は、現在に似通っていると考えるからである。もっとも、当時は存在すらしていなかった中国共産党政権が強力なプレーヤーとして参入していると言う大きな違いはあるが。

清国市場を席巻していたドイツ

 清国末期の四川省で日本語を教えていた山川早水(生没年、経歴不詳)は日露戦争が勃発した1905(明治38)年の3月から7月にかけ湖北省宜昌から長江を遡り、成都、嘉定、重慶など四川省各地を踏査し、その報告を『巴蜀』(成文館 1909=明治42年)に記した。

 四川省に近い宜昌市街の「西洋雜貨店」を覗いた山川は、「独仏品其大部分を占め、英米之に次ぐ」。これに対するに日本製品は福神漬などに限られていると綴る。中国(清国)市場に遅れて参入した日本製品は、ドイツを筆頭とする「西洋雑貨」の後塵を拝するしかなかったわけだ。

 宜昌で雇った小舟の舳先に日章旗を立て長江を遡って到着したある港には、極めて厳格な審査を行う英国人税関吏が待ち構えていた。英国の影響力は日本人の想像を超え、長江上流にまで及んでいたのである。

 当時、ドイツ、英国、フランスは「在重慶及沿居留民の保護」に加えて「一種の示威の為めに、特別建造に係る小型の砲艦を以て峡江の往来」をしていた。列強による清国利権をめぐっての激しい戦いは、四川の辺境でも止むことはなかった。

 因みに1897年に長江を遡り山川と同じようなルートで四川省に向かった英国の女性旅行家イザベラ・バードは苦難の旅の詳細を『中国奥地紀行(1、2)』(平凡社ライブラリー 2013年)に残しているが、長江下流に位置する鎮江一帯におけるドイツ企業の企業活動を「わがライバル、ドイツ」と記した。当時、長江流域一帯で経済的利権を先行取得していた英国に対し、ドイツは果敢に商戦を挑んでいたに違いない。』

『山川は激浪を遡り、苦難の旅の果てに「天府」の別名で呼ばれる豊かな四川省に足を踏み入れる。当時、省都の成都は外国には未開放だったが、すでにドイツを軸に列強諸国が活発なビジネスを展開し、同地における「外国商品は主として独、仏、英及日本等より輸入」されていた。

 「毛布、大小時計、靴、玻璃類、莫大小類、金属器具、玩具、缶詰、酒烟、菓子、薬品、西洋食器、陶器、洋傘、洋紙、文具等」に他の雑貨を加えた日用品が上海から運ばれていたが、なかでもドイツ製品が最も人気とあり、ことにドイツが独自に考案・製造した「独特の瀬戸引器具即ち洗面盤、薬缶、手提割盒など」が売れ筋だった。

 山川はドイツ製品が品質堅牢、価格低廉である上に、現地消費者の「嗜好習慣」を巧みに取り入れている点に舌を巻く。

 たとえば手提割盒だが、古くから中国には「携帯用の数段に重ねたる竹製〔中略〕の割盒ありて、家居旅行共に闕く可からざる一要器に数へら」れていた。重箱を何段にも重ねたような「割盒」は、たしかに食べ物の持ち運びには便利ではある。だが、竹製だから長期間の使用には耐えられないばかりか汁物を扱えない。この欠点に、ドイツは目を付ける。

 ドイツは、竹製と同じ機能で鉄製瀬戸引きの手提割盒の大量生産を始めた。当然、価格は中国の竹製よりは高くはなるが、水にも火にも強い。そのうえ長期使用にも耐えられる。さまざまな利点から考えて、コストパフォーマンスは抜群だ。加えて「見懸によらず、体裁を喜ぶ」中国人の消費動向を見抜いて斬新なデザインを採用した販売戦略が奏功し、ドイツ製品は瞬く間に販路を広げることとなる。

 このように中国人が日々接する商品から、ドイツは中国の消費者心理を巧みに捉えることに成功したのだろう。おそらくドイツ人は日本人とは違って、《中国人はこういうものだ》という一知半解な固定観念に左右されることがないのではないか。

 考えればドイツは中国との間に日中関係に象徴される一衣帯水も、同文同種も、子々孫々の友好も、ましてや歴史問題などとの厄介極まりない関係はなく、あるのは主として「双贏(ウィン・ウィン)関係」だろう。この実利関係は、その後の日中戦争期を経て現在にも通じているに違いない。ドイツと中国の間には〝親和性〟とでも呼べそうな関係が続いているように思える。

裏工作にも余念がない

 山川はドイツの成功の要因を、「独乙が真面目なる研究の結果に外ならず、歩を進めて考ふれば、善く詳に身を需要者の側に置」いただけではなく、「主として在留の官商間に於て油断なく注意を払」っていたからだ、とも指摘することを忘れない。成都在留のドイツ官民が共同し現地における消費動向を抜かりなく観察し、ビジネスに生かしていたわけだ。

 そこで、時に〝悪手〟も使って見せる。ドイツ艦船による日本商品輸送妨害工作などは、その顕著な一例だろう。

 東亜同文書院に学んだ後に外務省中国畑を歩くことになる米内山庸夫は、山川から5年遅れた1910(明治43)年、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンから北西に向かい、雲南省から四川省入りした。彼は踏査記録の『雲南四川踏査記』(改造社 1940=昭和15年)のなかで、「官商間に於て油断なく注意を払」っているドイツの姿を記している。

 実は「商品を軍艦で運んで来る」ドイツは、「輸入税を一文も払はない。だから価を安くして売ることが出来る」。こうして他国商品を圧倒し、ますます販路を拡大することになる。

 ドイツ領事は「支那官憲と聯絡するに金を使ふことは少しも惜しまず、あらゆる手段を尽して利権の獲得に努めてゐる。(中国側の)機器局の技師は独逸人で独占し、いま製革廠にまで手を伸ばさんとしてゐる」。

 ドイツ領事は製革廠の責任者に「オルガンだのピヤノなどを贈」るばかりか、彼の邸宅に「自ら洋酒や料理を持つて」出向いて「饗応したりする」。当時、製革廠で技術指導に当たっていた日本人技師を追放し、ドイツ人技師を送り込もうと画策していたのだ。』

『ドイツ領事の活発で老獪な活動は続く。

 ドイツの「領事は、また西蔵(チベット)にも興味を持ち、蔵文学堂教師の西蔵人某を一週二回づゝ自宅に招んで西蔵語を習」っているが、語学教師としては破格の金額の授業料を惜しまない。それというのも、彼は語学教師の傍ら官吏として四川省政府のチベット関連公文書の一切を取り仕切っているからである。

 「西蔵と四川との交渉往復は第一にその西蔵人の知るところとなり」、そのままドイツ領事に筒抜けとなる。だからドイツ領事は、居ながらにしてチベットの内情に加えチベットと四川省政府(ということは中央政府)の交渉の詳細を知ることができた。スパイもどきと言うより、スパイそのものだったわけだ。

 しかも、である。その領事はドイツの「陸軍中尉で、今度帰国に際して西蔵を経て西に向はんとして支那官憲に交渉中といふ」。中国、インド、中央アジアの中央に位置しているゆえに、チベットもまた列強にとっては極めて重要な戦略拠点だったはずだ。かくて米内山は「いかにも独逸の活動心憎きまで溌剌たるものあるを感じ」た、呆れ顔で記している。

鉄鉱山での狡猾な利権獲得

 米内山から9年後の1919(大正8)年夏、東京高等商業学校(一橋大学の前身)の「日頃東亜の研究に志す」若者の一団は「四旬に渉つて支那を南から北へ旅行し」、帰国後に「支那が我々日本青年の目に如何に映じたかを語」ろうとして、『中華三千哩』(大阪屋號書店 1920=大正9年)を上梓する。そこに、長江中流の漢口近くの大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」に「暗中飛躍」する姿が書き留められていた。

 清朝末期に近代化を推し進めた洋務派有力官僚の1人である張之洞は長江中流域を管轄する湖広総督を務めていた当時、古書の記述から管轄区域内の湖北省大冶県一帯に鉄鉱床があろうかと見当を付けた。

 そこで1980年にドイツ人技師の「ライノンを聘して、実地踏査をなさしめた」ところ、果たせるかな張之洞の見立てに狂いはなかった。「ライノンは三旬の探査の後、古代製鉄の遺跡を発見し、次いで世界に有名なる本鉄山(=大冶鉄鉱山)の発見するに至つた」のである。

 だがライノンもさるもの。雇い主の張之洞に対し素直に従うわけではなかった。「単なる支那の忠実なる一傭技師に甘んぜんや、我が本国への忠義立ては此時と、張之洞へは知らぬ顔の半兵衛をきめこんで、裏面では早速北京の独逸公使を通じて本国政府に密電を発し、利権の獲得を慫慂した」と言うのだ。

 ライノンからの「密電」を受けたドイツ政府は、もちろん素早く動いた。直ちに在北京公使に訓令し、大冶県一帯の鉱山採掘権と鉄道敷設権を「支那政府に要求せしめた」のである。

 中央政府にとっては寝耳に水だったろうが、張之洞からしたら飼い犬に手を噛まれたも同然である。烈火のごとく怒りまくったであろうことは、やはり想像に難くはない。

 「当時独逸のやり方が如何に狡猾であつたかは、大冶に行つたものは、素人でも直ぐ気付く程」であった。それというのも「殊更鉄路を迂回せしめて、距離を延長し」、なんとかして「機械材料などを少しでも多く買はせやうかとする魂胆だつた」からだと、大正期の「日頃東亜の研究に志す」若者の1人が『中華三千哩』に綴っている。』

『現代でも頭に入れるべき〝何でもあり〟のドイツ

 清末から民国初年へと続いた列強による中国の富源の争奪戦が展開されていた時期、山川は四川省でドイツの「眞面目なる研究の結果」を目にし、米内山はドイツ領事の暗躍を語る。東京高等商業学校学生は大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」な「暗中飛躍」振りを知る。

 これを言い換えるなら、あの時代の中国におけるドイツの振る舞いは「真面目なる研究」から「狡猾」さを発揮しての「暗中飛躍」まで、まさに〝何でもあり〟ではなかったか。その延長線上にショルツ首相の「中国の台頭を理由に中国を孤立させたり協力を阻害したりすることが正当化されてはならない」との発言を置いてみるなら、時代は違えどもドイツの利益の最大化を目指し「暗中飛躍」する姿が浮かび上がってくるだろう。

 日本のメディアからは、メルケル、ショルツと続くドイツ政権の中国に対する一連の融和姿勢を〝利敵行為〟と批判も聞かれる。だが、中国を取り囲む国際社会が複雑化の度を加えるばかりの現状を考えるなら、日中関係だけを基盤にした画一的な対応では早晩立ち行かなくなるではないか。であればこそ、虎児を得んとするためには、〝虎穴に入るリスク〟を取ることも必要だろう。

 それにしても先人はドイツの「眞面目なる研究の結果」から「暗中飛躍」する「狡猾」な姿まで、じつに冷静な目を持っていたものだと、改めて感心せざるを得ない。』