中国官僚「プーチンは狂った」辛辣批判…FT紙「ロシアと距離を置く」

中国官僚「プーチンは狂った」辛辣批判…FT紙「ロシアと距離を置く」
https://japanese.joins.com/JArticle/299817

『 ⓒ 中央日報/中央日報日本語版 2023.01.11 17:39

昨年ロシアと経済・軍事協力を拡大し関係強化に乗り出した中国が、最近になり両国関係の再設定に出た。習近平中国国家主席はプーチン大統領率いるロシアがますます衰退すると予想し、ロシアと距離を置くことにしたとみられるとフィナンシャル・タイムズが10日に報道した。

◇中国、プーチンへの不信拡大…対ロ関係再評価

同紙によると、中国政府はウクライナを侵攻したロシアが戦争で勝利するのは難しく、今後ロシアは世界の舞台で経済的・外交的に影響力が大きく落ち込み弱小国に転落する可能性が大きいとみている。これを受け中国はこれまでのロシアとの密着関係が与える利点について再考し、ウクライナ情勢をめぐり悪化した欧州との関係回復が必要だと判断した。
英シンクタンク王立国際問題研究所のユー・ジエ中国首席研究委員は「中国は外交的に西側のすべての国と競争することを望まず、多国間外交の舞台で孤立したくない。ウクライナ戦争でロシアの立地が大きく揺らぎ中国がロシアと密着する利点が顕著に減少した」と評価した。

中国共産党高位層の間ではロシアに対する不信がますます深まっている。ある中国官僚は同紙に「プーチンは狂った」と辛辣に批判したほどだ。ロシアが昨年2月にウクライナに対する全面侵攻を決めながら事前に中国にしっかりと知らせなかったことで不信が芽生えたという話だ。中国はロシアが全面侵攻ではなく限定的な軍事介入をすると思っていたという立場だ。

最近中国は次期外相候補に名前が上がっていた楽玉成外務次官を突然中国の放送規制当局である国家ラジオテレビ総局副局長に降格させたが、ウクライナ情勢に対する正確な情報を得られなかったという責任を追及したとものとされる。楽玉成氏は中国外交部で最高のロシア通とされる。

同紙は中国の動きに対し、「ロシアのウクライナ全面侵攻を事前に知らなかったと主張し、ロシアと同一視されるのを防ぎ西側と近づくための戦略」と解釈した。

◇西側に敵対感引き下げ…対欧関係回復中

中国はロシアと徐々に距離を置くと同時に、西側に関係回復に対するシグナルを送り続けている。これまで米国など西側に強硬な発言をしてきた中国外交部の趙立堅報道官が最近になり領土・海洋領有権紛争を管轄する国境・海洋事務局の副局長に突然異動したりもした。

香港浸会大学のジャンピエール・カベスタン名誉教授は「中国は主要経済パートナーである先進国が自国に敵対感を持っていることを悟った。ドイツ、フランス、イタリア、スペインなど欧州の主要国だけでなく、韓日やベトナムなど米国と親密なアジア諸国にも熱心に連絡している」と話した。

ただ中国がロシアに完全に背を向けることはないだろうと同紙は予想する。中国はプーチン大統領と親密な関係を維持することが欧州との関係改善で有用な交渉カードになると考えている。一例として習主席がプーチン大統領の核兵器使用を抑制するなど仲裁者の役割を受け持ち欧州から好感を買う形だ。

中国と欧州の関係がやや改善されたというシグナルも相次いで出ている。昨年11月にドイツのショルツ首相が、12月には欧州連合(EU)のミシェル大統領が訪中した。フランスのマクロン大統領も今年初めに訪中する予定だ。ショルツ首相は「デカップリング(脱同調化、中国との関係断絶)はない」と述べ、マクロン大統領も同様の立場だと同紙は伝えた。

中国復旦大学欧州研究センターの丁純所長は「欧州は米国と違い、中国との分離を擁護せず戦略的独立を追求して中国との関係が大きく好転している。ただこの関係がどれだけ進展するかは未知数であり、過度な期待をしてはならない」とした。

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オミクロン株派生型国内で4件確認と松野氏

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https://www.47news.jp/bulletin/8795696.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『12時28分 共同通信

松野博一官房長官は11日の記者会見で、新型コロナウイルスの新たなオミクロン株派生型「XBB・1.5」が国内で4件確認されたと明らかにした。』

米、沖縄に即応部隊を創設へ 海兵沿岸連隊、離島防衛に備え

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https://www.47news.jp/world/8790456.html

『2023年01月10日 共同通信

【ワシントン共同】バイデン米政権は沖縄県に駐留する海兵隊を数年以内に改編し、離島防衛に備えて小規模で即応性のある「海兵沿岸連隊(MLR)」を創設する方針を固めた。

11日に日米の外務・防衛担当閣僚がワシントンで開く安全保障協議委員会(2プラス2)で議題になる見通し。日米関係筋が9日明らかにした。

 南シナ海や東シナ海で海洋進出を強める中国への抑止力を高め、周辺地域で有事の対処力を強化する狙い。沖縄では、新たな基地負担につながるとして反発が強まる可能性がある。

 海兵隊は昨年3月、ハワイの部隊を改編し、MLRを創設したと発表した。』

米、宇宙でも安保5条適用へ 対日防衛義務、2プラス2で

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https://www.47news.jp/world/8790922.html

『2023年01月10日 共同通信

日米両政府は、宇宙空間での攻撃に関し、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象とする方向で調整に入った。11日に開催する外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)の共同文書に盛り込む考えだ。関係者が10日、明らかにした。

日本の人工衛星に対する破壊行為などを抑止する。宇宙には国境の概念がないものの、日本が持つ衛星は施政下にあると位置付ける。

 宇宙空間で中国やロシアが軍事的影響力を増す中、日米の抑止力向上に向けた対応の一環。

日米は19年の2プラス2で日本へのサイバー攻撃が第5条の適用対象になると確認、適用範囲を宇宙に拡大する。』

独外相、東部ハリコフを電撃訪問 ロシア侵攻後、欧州の要人で初

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https://www.47news.jp/world/8794529.html

『【キーウ共同】ドイツのベーアボック外相は10日、ロシア国境に近いウクライナ東部ハリコフを電撃訪問した。ドイツ外務省が明らかにした。昨年2月のロシアの侵攻開始以降、欧州要人のハリコフ訪問は初めてとみられる。欧米メディアによると、同氏はウクライナへの武器供与を約束し、同国の欧州連合(EU)加盟に向け「具体的な提案」をすると表明した。

 ベーアボック氏はウクライナのクレバ外相らと砲撃の被害を受けた現場を視察。「この町は、ロシアによる侵略戦争の狂気とウクライナ国民の苦しみの象徴だ」と述べ、連帯を示した。』

米下院、超党派で中国特別委設置 委員長「全ての米国民の脅威」

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https://www.jiji.com/jc/article?k=2023011100257&g=int

『【ワシントン時事】米下院は10日、対中国問題を専門に扱う超党派の「米国と中国の戦略的競争に関する特別委員会」を設置した。

中国による知的財産の窃取や人権侵害、米国の台湾政策、サプライチェーン(供給網)の脱中国依存など、経済・安全保障問題を幅広く議論。バイデン政権の対中外交に圧力をかける狙いがある。

 同委を主導する共和党のギャラガー委員長は同日の討議で、「中国共産党の攻撃は台湾や南シナ海や香港、ジェノサイド(集団虐殺)が行われている新疆ウイグル自治区だけで起きているわけではない」と強調。米国内でも知財や技術を盗み、経済や雇用をむしばんでいるとし、「中国共産党は全ての米国民の脅威だ」と明言した。 』

フランス、定年退職64歳へ 年金改革案発表、9月にも施行

フランス、定年退職64歳へ 年金改革案発表、9月にも施行―大規模デモ再来の恐れ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023011100169&g=int

『【パリ時事】フランスのボルヌ首相は10日、マクロン政権の最大の課題の一つと位置付けられてきた年金改革案を発表し、実質的な定年退職年齢に当たる年金受給開始年齢を現行の62歳から段階的に引き上げ、2030年には64歳にする方針を打ち出した。激しい反発と抗議行動も予想されており、欧州連合(EU)の中核国フランスの政治が再び揺らぐ恐れもある。

年金開始「75歳」可能に 高齢者の就労後押し

 マクロン大統領は当初、65歳への引き上げを目指していた。しかし、検討過程での国民の反発を受け、一定の譲歩を示した形だ。

 改革案は2月から議会で審議される。仏メディアによれば、与党連合は穏健右派・共和党の支持をおおむね取り付けており、法案可決を視野に入れる。政府は9月1日の施行を目指すが、国民の不満は依然として強く、2018年11月から全土へ広まった反政府デモ「黄色いベスト運動」の再来となる大規模な抗議行動が懸念されている。

 ボルヌ氏は記者会見で「現実を直視することが必要だ」と訴え、高齢化が進む中で年金制度を維持するには改革が不可欠だと強調した。改革により「フランス人の間で疑問や不安が生じるのはよく承知しているが、説得していきたい」と決意を語った。その上で「議会審議が進む中で改革案を発展させる用意はある」と指摘し、柔軟な対応に含みを持たせて反発する世論をけん制した。

 今回の改革案では、電力やガス業界など主な公共部門で認められている優遇策「特別年金制度」について、新規採用者には今後適用しない。一方で整備士やパン職人など、20歳未満から見習いとして働き始めた人については、早期退職を可能とする。

 ボルヌ氏と記者会見に臨んだルメール経済・財務相も「フランスの年金制度は世界でも最も寛大な制度の一つだ」と強調。「定年退職年齢を引き上げなければ、年金支給額引き下げなどさらに不当な措置を取る必要がある」と警告した。国民に向けて「これが唯一の選択肢だ」と訴えた。 』

ウクライナに地対空ミサイル 防空システム初の供与―カナダ

ウクライナに地対空ミサイル 防空システム初の供与―カナダ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023011100343&g=int

『【ニューヨーク時事】カナダ政府は10日、米国から地対空ミサイル「NASAMS」を購入し、ウクライナに供与すると発表した。4億600万カナダドル(約400億円)相当で、カナダからウクライナへの防空システム提供は初めて。

主力戦車供給、議論へ 20日にウクライナ支援会議―ドイツ

 カナダのトルドー首相が10日、バイデン米大統領とメキシコ市で会談した際に購入の意思を伝えた。カナダのアナンド国防相はツイッターで「ドローン、ミサイル、航空機による攻撃からウクライナの人口密集地や重要インフラを守る助けになる」と強調した。 』

再び中国に近づくドイツ なぜだか歴史から考えてみた

再び中国に近づくドイツ なぜだか歴史から考えてみた
樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29073

『昨年11月4日、ドイツのオラフ・ショルツ首相が訪中し、習近平国家主席との会談に臨んだ。同首相は、習国家主席が昨年10月の第20回共産党全国大会で3期目続投が確定した後に迎える最初の西側国家トップであり、一方のショルツ首相はフォルクスワーゲン、シーメンス、ドイツ最大化学企業のBASFなどドイツ経済を牽引する大手12社のCEO(最高経営責任者)を引き連れていた――。ここからも両首脳の会談に向けての意気込みが感じられる。

ドイツのショルツ首相は西側諸国として初めて3期目を迎える習近平国家主席と会談した(代表撮影/ロイター/アフロ)

 就任以来、同首相はアンゲラ・メルケル前首相の対中政策を踏襲するかのように、「中国の台頭を理由に中国を孤立させたり協力を阻害したりすることが正当化されてはならない」との方針を掲げ、ジョー・バイデン米政権の対中強硬姿勢とは明らかに一線を画している。ドイツが打ち出す中国に対する融和姿勢を、習国家主席が高く評価しているであろうことは容易に想像できるはずだ。

 たしかに現在、ドイツにとって中国は最大の貿易相手国ではある。だからメルケル(前)、ショルツ(現)の両政権が中国の秘めた経済的可能性に照準を合わせていたとしても、決して不思議ではないだろう。

 だが、短期的にはそうではあっても、長期的に捉え直すならば、やはり中国に対する多年に亘る強い関心がドイツを突き動かしてきたと考えるべきではないか。

 ここで欧米列強に日本を加えたプレーヤーが中国の秘めた富源を標的としたゲームを激しく争っていた清国末から中華民国初年――19世紀末から20世紀初年――に立ち返り、同時代の日本人が残した記録を手掛かりにして、中国におけるドイツの過去の振る舞いを探ってみたい。

 なぜ、あの時代なのか。それは中国において各国の利害が錯綜する構図は、現在に似通っていると考えるからである。もっとも、当時は存在すらしていなかった中国共産党政権が強力なプレーヤーとして参入していると言う大きな違いはあるが。

清国市場を席巻していたドイツ

 清国末期の四川省で日本語を教えていた山川早水(生没年、経歴不詳)は日露戦争が勃発した1905(明治38)年の3月から7月にかけ湖北省宜昌から長江を遡り、成都、嘉定、重慶など四川省各地を踏査し、その報告を『巴蜀』(成文館 1909=明治42年)に記した。

 四川省に近い宜昌市街の「西洋雜貨店」を覗いた山川は、「独仏品其大部分を占め、英米之に次ぐ」。これに対するに日本製品は福神漬などに限られていると綴る。中国(清国)市場に遅れて参入した日本製品は、ドイツを筆頭とする「西洋雑貨」の後塵を拝するしかなかったわけだ。

 宜昌で雇った小舟の舳先に日章旗を立て長江を遡って到着したある港には、極めて厳格な審査を行う英国人税関吏が待ち構えていた。英国の影響力は日本人の想像を超え、長江上流にまで及んでいたのである。

 当時、ドイツ、英国、フランスは「在重慶及沿居留民の保護」に加えて「一種の示威の為めに、特別建造に係る小型の砲艦を以て峡江の往来」をしていた。列強による清国利権をめぐっての激しい戦いは、四川の辺境でも止むことはなかった。

 因みに1897年に長江を遡り山川と同じようなルートで四川省に向かった英国の女性旅行家イザベラ・バードは苦難の旅の詳細を『中国奥地紀行(1、2)』(平凡社ライブラリー 2013年)に残しているが、長江下流に位置する鎮江一帯におけるドイツ企業の企業活動を「わがライバル、ドイツ」と記した。当時、長江流域一帯で経済的利権を先行取得していた英国に対し、ドイツは果敢に商戦を挑んでいたに違いない。』

『山川は激浪を遡り、苦難の旅の果てに「天府」の別名で呼ばれる豊かな四川省に足を踏み入れる。当時、省都の成都は外国には未開放だったが、すでにドイツを軸に列強諸国が活発なビジネスを展開し、同地における「外国商品は主として独、仏、英及日本等より輸入」されていた。

 「毛布、大小時計、靴、玻璃類、莫大小類、金属器具、玩具、缶詰、酒烟、菓子、薬品、西洋食器、陶器、洋傘、洋紙、文具等」に他の雑貨を加えた日用品が上海から運ばれていたが、なかでもドイツ製品が最も人気とあり、ことにドイツが独自に考案・製造した「独特の瀬戸引器具即ち洗面盤、薬缶、手提割盒など」が売れ筋だった。

 山川はドイツ製品が品質堅牢、価格低廉である上に、現地消費者の「嗜好習慣」を巧みに取り入れている点に舌を巻く。

 たとえば手提割盒だが、古くから中国には「携帯用の数段に重ねたる竹製〔中略〕の割盒ありて、家居旅行共に闕く可からざる一要器に数へら」れていた。重箱を何段にも重ねたような「割盒」は、たしかに食べ物の持ち運びには便利ではある。だが、竹製だから長期間の使用には耐えられないばかりか汁物を扱えない。この欠点に、ドイツは目を付ける。

 ドイツは、竹製と同じ機能で鉄製瀬戸引きの手提割盒の大量生産を始めた。当然、価格は中国の竹製よりは高くはなるが、水にも火にも強い。そのうえ長期使用にも耐えられる。さまざまな利点から考えて、コストパフォーマンスは抜群だ。加えて「見懸によらず、体裁を喜ぶ」中国人の消費動向を見抜いて斬新なデザインを採用した販売戦略が奏功し、ドイツ製品は瞬く間に販路を広げることとなる。

 このように中国人が日々接する商品から、ドイツは中国の消費者心理を巧みに捉えることに成功したのだろう。おそらくドイツ人は日本人とは違って、《中国人はこういうものだ》という一知半解な固定観念に左右されることがないのではないか。

 考えればドイツは中国との間に日中関係に象徴される一衣帯水も、同文同種も、子々孫々の友好も、ましてや歴史問題などとの厄介極まりない関係はなく、あるのは主として「双贏(ウィン・ウィン)関係」だろう。この実利関係は、その後の日中戦争期を経て現在にも通じているに違いない。ドイツと中国の間には〝親和性〟とでも呼べそうな関係が続いているように思える。

裏工作にも余念がない

 山川はドイツの成功の要因を、「独乙が真面目なる研究の結果に外ならず、歩を進めて考ふれば、善く詳に身を需要者の側に置」いただけではなく、「主として在留の官商間に於て油断なく注意を払」っていたからだ、とも指摘することを忘れない。成都在留のドイツ官民が共同し現地における消費動向を抜かりなく観察し、ビジネスに生かしていたわけだ。

 そこで、時に〝悪手〟も使って見せる。ドイツ艦船による日本商品輸送妨害工作などは、その顕著な一例だろう。

 東亜同文書院に学んだ後に外務省中国畑を歩くことになる米内山庸夫は、山川から5年遅れた1910(明治43)年、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンから北西に向かい、雲南省から四川省入りした。彼は踏査記録の『雲南四川踏査記』(改造社 1940=昭和15年)のなかで、「官商間に於て油断なく注意を払」っているドイツの姿を記している。

 実は「商品を軍艦で運んで来る」ドイツは、「輸入税を一文も払はない。だから価を安くして売ることが出来る」。こうして他国商品を圧倒し、ますます販路を拡大することになる。

 ドイツ領事は「支那官憲と聯絡するに金を使ふことは少しも惜しまず、あらゆる手段を尽して利権の獲得に努めてゐる。(中国側の)機器局の技師は独逸人で独占し、いま製革廠にまで手を伸ばさんとしてゐる」。

 ドイツ領事は製革廠の責任者に「オルガンだのピヤノなどを贈」るばかりか、彼の邸宅に「自ら洋酒や料理を持つて」出向いて「饗応したりする」。当時、製革廠で技術指導に当たっていた日本人技師を追放し、ドイツ人技師を送り込もうと画策していたのだ。』

『ドイツ領事の活発で老獪な活動は続く。

 ドイツの「領事は、また西蔵(チベット)にも興味を持ち、蔵文学堂教師の西蔵人某を一週二回づゝ自宅に招んで西蔵語を習」っているが、語学教師としては破格の金額の授業料を惜しまない。それというのも、彼は語学教師の傍ら官吏として四川省政府のチベット関連公文書の一切を取り仕切っているからである。

 「西蔵と四川との交渉往復は第一にその西蔵人の知るところとなり」、そのままドイツ領事に筒抜けとなる。だからドイツ領事は、居ながらにしてチベットの内情に加えチベットと四川省政府(ということは中央政府)の交渉の詳細を知ることができた。スパイもどきと言うより、スパイそのものだったわけだ。

 しかも、である。その領事はドイツの「陸軍中尉で、今度帰国に際して西蔵を経て西に向はんとして支那官憲に交渉中といふ」。中国、インド、中央アジアの中央に位置しているゆえに、チベットもまた列強にとっては極めて重要な戦略拠点だったはずだ。かくて米内山は「いかにも独逸の活動心憎きまで溌剌たるものあるを感じ」た、呆れ顔で記している。

鉄鉱山での狡猾な利権獲得

 米内山から9年後の1919(大正8)年夏、東京高等商業学校(一橋大学の前身)の「日頃東亜の研究に志す」若者の一団は「四旬に渉つて支那を南から北へ旅行し」、帰国後に「支那が我々日本青年の目に如何に映じたかを語」ろうとして、『中華三千哩』(大阪屋號書店 1920=大正9年)を上梓する。そこに、長江中流の漢口近くの大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」に「暗中飛躍」する姿が書き留められていた。

 清朝末期に近代化を推し進めた洋務派有力官僚の1人である張之洞は長江中流域を管轄する湖広総督を務めていた当時、古書の記述から管轄区域内の湖北省大冶県一帯に鉄鉱床があろうかと見当を付けた。

 そこで1980年にドイツ人技師の「ライノンを聘して、実地踏査をなさしめた」ところ、果たせるかな張之洞の見立てに狂いはなかった。「ライノンは三旬の探査の後、古代製鉄の遺跡を発見し、次いで世界に有名なる本鉄山(=大冶鉄鉱山)の発見するに至つた」のである。

 だがライノンもさるもの。雇い主の張之洞に対し素直に従うわけではなかった。「単なる支那の忠実なる一傭技師に甘んぜんや、我が本国への忠義立ては此時と、張之洞へは知らぬ顔の半兵衛をきめこんで、裏面では早速北京の独逸公使を通じて本国政府に密電を発し、利権の獲得を慫慂した」と言うのだ。

 ライノンからの「密電」を受けたドイツ政府は、もちろん素早く動いた。直ちに在北京公使に訓令し、大冶県一帯の鉱山採掘権と鉄道敷設権を「支那政府に要求せしめた」のである。

 中央政府にとっては寝耳に水だったろうが、張之洞からしたら飼い犬に手を噛まれたも同然である。烈火のごとく怒りまくったであろうことは、やはり想像に難くはない。

 「当時独逸のやり方が如何に狡猾であつたかは、大冶に行つたものは、素人でも直ぐ気付く程」であった。それというのも「殊更鉄路を迂回せしめて、距離を延長し」、なんとかして「機械材料などを少しでも多く買はせやうかとする魂胆だつた」からだと、大正期の「日頃東亜の研究に志す」若者の1人が『中華三千哩』に綴っている。』

『現代でも頭に入れるべき〝何でもあり〟のドイツ

 清末から民国初年へと続いた列強による中国の富源の争奪戦が展開されていた時期、山川は四川省でドイツの「眞面目なる研究の結果」を目にし、米内山はドイツ領事の暗躍を語る。東京高等商業学校学生は大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」な「暗中飛躍」振りを知る。

 これを言い換えるなら、あの時代の中国におけるドイツの振る舞いは「真面目なる研究」から「狡猾」さを発揮しての「暗中飛躍」まで、まさに〝何でもあり〟ではなかったか。その延長線上にショルツ首相の「中国の台頭を理由に中国を孤立させたり協力を阻害したりすることが正当化されてはならない」との発言を置いてみるなら、時代は違えどもドイツの利益の最大化を目指し「暗中飛躍」する姿が浮かび上がってくるだろう。

 日本のメディアからは、メルケル、ショルツと続くドイツ政権の中国に対する一連の融和姿勢を〝利敵行為〟と批判も聞かれる。だが、中国を取り囲む国際社会が複雑化の度を加えるばかりの現状を考えるなら、日中関係だけを基盤にした画一的な対応では早晩立ち行かなくなるではないか。であればこそ、虎児を得んとするためには、〝虎穴に入るリスク〟を取ることも必要だろう。

 それにしても先人はドイツの「眞面目なる研究の結果」から「暗中飛躍」する「狡猾」な姿まで、じつに冷静な目を持っていたものだと、改めて感心せざるを得ない。』

バフムト攻防の露の目的は塩と石膏?露は春に50万人動員?

バフムト攻防の露の目的は塩と石膏?露は春に50万人動員? – 北の国から猫と二人で想う事
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5402414.html

『ゼレンスキー大統領は2023年1月8日夜の演説で「(ウクライナ東部)バフムートBkhmutやソレダルSoledarではロシア軍の攻撃で街の大半が破壊されが、敵の攻撃を撃退して持ちこたえている。陸軍のシルスキー司令官が同拠点を視察し追加戦力の投入や砲撃の強化を指示した」と明かした。参照記事

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ロシアとワグナーがバフムートに執着するのは「同地で産出される岩塩と石膏の支配に関心interested in taking control of salt and gypsumがあるためだ」と報じられており、ワグナーは中央アフリカ、マリ、スーダンなどで搾取した天然資源を戦争資金に活用していると米国が指摘した事がある。

ドネツク州のクラマトルスクKramatorskからバフムートBakhmut, Donetsk regionに掛けた一帯には大規模な岩塩鉱床が存在し、10以上の採掘坑に眠る岩塩の総量量は50億トン以上と見積もられ、食用や工業用の塩化ナトリウムを年間150万トン以上生産、さらに同地には石膏の採掘坑も存在するため「ロシアとワグナーがバフムートに執着するのは同地で産出される岩塩と石膏の支配に関心があるためだ」とホワイトハウス当局は見ているらしい。

最も多くの塩を産出する採掘坑を手に入れるにはスラビャンスクSlavyansk(Slovyanskスロビヤンスク)を制圧する必要があり、岩塩鉱床を完全に手に支配するlong-tunnel-gypsum-mine-ukraine-207157935ためにはドネツク州全体を支配する必要があるため、仮にホワイトハウス当局の見立てが正しいなら「バフムートBakhmut」ではなく「ドネツク州 Donetsk region」に執着していると表現した方が正しいだろうとする見方がある。

また、その地域に多い、地下採掘場跡を利用したいとワグネルが述べたとのある。確かに、弾薬の貯蔵や隠れ家としてはいいだろう。 参照記事 英文記事
FireShot Webpage Screenshot #479 – ‘ウクライナ 、、、

実際ロシア軍は、傭兵部隊を主力に、この小さな地域に想像を超える戦力、兵員を導入し、ウクライナ戦でロシアは、この地域で最も多くの損失を出していると言われている。

一般的には、北部への補給路確保や、州都ドネツク(右図下)の防衛と言われているが、それでは説明が付かないとも言われていた。過去ブログ:2023年1月各国がウクライナの地上兵器支援を強化 1月ロシア兵がウクライナ東部で1日800人死亡とウクライナ報道 1月ウクライナ軍の年末の単一の砲撃で露軍兵士400人死亡か? 
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ロシア国防省は1月8日、東部ドネツク州クラマトルスクKramatorskに「報復」攻撃を行い「(ウクライナ軍の)600人以上を殺害した」と主張した。ただ、ウクライナ側は、教育機関などの建物が砲撃を受けたことは認めつつも死者はいなかったと反論し、軍当局者はロシア側の発表について「虚偽」と否定し、現場入りした海外メディアも、ロシアの主張を否定した。

ドネツク市に隣接するマケエフカ(マキーウカ、マケエフカ)Makiivkaでは昨2022年12月31日深夜、米国提供の高機動ロケット砲システム(HIMARS)により、ロシア側発表で少なくとも89人が死亡した。

死亡したロシア兵は当時、プーチン大統領の新年演説を視聴するために兵舎に集められていたと言う。

ロシアの強硬派は報復感情を募らせ、先の36時間の「クリスマス停戦」も弱腰と不満を抱いており、今回の「600人殺害」の主張は国内向け「宣伝」の意味合いが強い。参照記事 英文記事 過去ブログ:2023年1月ウクライナ軍の年末の単一の砲撃で露軍兵士400人死亡か?

プーチン政権が宣言した一方的「停戦」は、8日午前0時(日本時間同日午前6時)の期限を過ぎた。6日からの期間中も攻撃は続き、停戦は「名ばかり」(英BBC放送)のものだった。

ロシアは、年明けから兵力を増強し、形勢挽回を狙っているとされ、英紙ガーディアンによると、ウクライナ国防省情報総局幹部は、ロシア政府が今月中に50万人規模の予備役動員を計画していると指摘。春から夏にかけてウクライナ南東部で見込まれる大規模攻勢に向けた準備とみられている。 参照記事
  
2023年1月10日:ロシア軍は、バフムート近郊の小さな町ソレダルSoledarに向け新たな侵攻を試みている。ウクライナのマリアルHanna Maliar国防次官が9日、明らかにした。

同氏によるとロシア軍は、以前ソレダルの奪取に失敗して退却した後、軍を再編成。被害を回復し、追加の攻撃部隊を配備した。戦術も変更し、強力な攻撃を仕掛けてきたという。

また大人数の攻撃集団はロシアの傭兵(ようへい)会社「ワグネル」の予備軍の精鋭で構成され、文字通り味方の兵士の遺体の上を進軍しているとも指摘。大砲や多連装ロケット砲、迫撃砲を大規模に使用し、味方の兵士らに対してさえ砲火を浴びせていると付け加えた。

ウクライナ軍は民間人をソレダルから避難させようとしたが、中には町から出ようとしない人々もいると明かした。町は事実上破壊されており、引き続き避難を呼び掛けているが、特に高齢者が残っているという。

ウクライナのゼレンスキー大統領は8日、ソレダルについて、「持ちこたえている」ものの「極めて厳しい」状況にあると述べ、10日報道でも攻撃は続いている。参照記事 映像記事 英文記事  』

ウクライナ兵に対する、ペトリオットSAMの運用訓練は、米国内の「フォート・シル」で行なう。

ウクライナ兵に対する、ペトリオットSAMの運用訓練は、米国内の「フォート・シル」で行なう。
https://st2019.site/?p=20783

『Dan Lamothe 記者による2023-1-10記事「Pentagon to train Ukraine on Patriot missile system at Fort Sill」。

 ウクライナ兵に対する、ペトリオットSAMの運用訓練は、米国内の「フォート・シル」で行なう。オクラホマシティの南西である。
 今月中に、教練は開始されるという。

 ただし訓練の修了まで、半年以上もかかるであろう。

 ※ホッジズ大将がメディアにコメントしていて、10ヶ月前、スティンガーをウクライナに供与したらエスカレーションになるからやめるべきだという愚かしい議論が米国内でもあった、と指摘し、防禦用の武器ばかり送ろうとするのはこの戦争をコスパの悪い泥沼長期戦にするだけでまったく愚かしい戦略だぞと示唆している。

しかしペトリの供与には、もうちょっと遠謀があると思う。

ウクライナの上空に将来、NATO空軍が介入するようになったとき、ウクライナの防空部隊には、敵味方識別をしっかりしてもらわないと困ってしまうわけだ。Bukみたいな、スイッチポンで見境無くなんでも撃墜するシステムでは困るのだ。その識別の手順、特に、暗号化された防空情報の伝達と共有法について、みっちり教育をしようとしていると考えるべきだと思う。』

岩塩坑の地下トンネルが四通八達しているという、ソレダー市に対する露軍ワグネルの猛攻。

岩塩坑の地下トンネルが四通八達しているという、ソレダー市に対する露軍ワグネルの猛攻。
https://st2019.site/?p=20783

『ANDREW MELDRUM記者による2023-1-10記事「’What madness looks like’: Russia intensifies Bakhmut attack」。

 岩塩坑の地下トンネルが四通八達しているという、ソレダー市に対する露軍ワグネルの猛攻。文字通り仲間の死体を踏んで敵兵は前進してくる。その頭上に、容赦なく味方の支援砲撃が降り注ぐ。ほとんどWWII中の露軍戦法だ。

 地下坑道は総延長が200kmもあるという。ソレダー市はバフムト市からは10kmしか離れていない。

 ※プリゴジンが岩塩鉱山が欲しいのだという話の根拠は何か。

じつはワグネルはアフリカの各地で、地下資源利権のあるところでばかり、活動しているのである。

かならず地元の一派と結託して、カネになる鉱山や油井を押さえて行く。

そのヤマの臨時支配者(やくざボス)からのみかじめ料によって、ワグネルを養う。これがプリゴジン流のビジネスモデルなのだ。

アフリカで慣れているやりかたを、ウクライナでもしようとしているだけなのだ。カネのないところに傭兵なし。』

露ワグナーが「ソレダル制圧」を発表、大釜にウクライナ軍を捉えた?

露ワグナーが「ソレダル制圧」を発表、大釜にウクライナ軍を捉えた?
https://grandfleet.info/russia-related/russia-wagner-announces-soledar-capture-captures-ukrainian-army-in-cauldron/

『ワグナーのプリゴジン氏は11日「ソレダル全体をワグナーが支配している、市内中心部に形成された大釜内で取り残されたウクライナ軍部隊が最後の抵抗を続けている」と明かし、ロシアによるソレダル制圧を宣言した格好だ。

参考:Бойцы “Вагнера” взяли под контроль всю территорию Соледара
市内中心部を守っていたウクライナ軍はロシア軍の大釜に捉えられた可能性がある

ワグナーの創設者であるエフゲニー・プリゴジン氏は11日「ソレダル全体をワグナーが支配している」と明かし、市内中心部に形成された大釜内で「取り残されたウクライナ軍部隊が最後の抵抗を続けており、捕虜になったウクライナ軍兵士の数を明日発表する」と付け加えた。

出典:GoogleMap ソレダル方面の戦況/管理人加工(クリックで拡大可能)

さらにプリゴジン氏は市内の岩塩坑を制圧した証拠として「自身も映っている岩塩坑内の写真」を公開、今のところウクライナ側はプリゴジン氏の発表に何の反応も示していないが、ワグナーが市内中心部を管理している視覚的証拠も登場しているためウクライナ軍はソレダルの支配を失った可能性が高い。

問題はワグナーが完成させた大釜に「どれだけのウクライナ軍が取り残されているのか?」だが、降伏して捕虜になるウクライナ軍兵士は必ずロシア軍のプロパガンダに活用されるだろう。

因みにクラスナ・ホラでも「ロシア軍が拠点内に到達してウクライナ軍と交戦中だ」という報告があり、ロシア軍はシヴェルシク方面の兵站ルート=T0513に約2kmの地点まで迫っているため、この地域を巡る戦いはクライマックスに差し掛かっている。

追記:記事内容を大幅に加筆し戦況マップを更新

関連記事:危機的な状況のソレダル、ロシア軍がウクライナ軍の補給ルートを遮断か

 ※アイキャッチ画像の出典:Генеральний штаб ЗСУ
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投稿者: 航空万能論GF管理人 ロシア関連 コメント: 22 』

危機的な状況のソレダル、ロシア軍がウクライナ軍の補給ルートを遮断か

危機的な状況のソレダル、ロシア軍がウクライナ軍の補給ルートを遮断か
https://grandfleet.info/european-region/soledar-in-crisis-russian-troops-block-ukrainian-supply-routes/

『ウクライナ人ジャーナリストのユーリ・ブツソフ氏は9日夜「ソレダルは危機的な状況だ。敵は主要な補給ルートを攻撃できる位置まで迫っており、通常ルートによる補給は不可能になった」と明かした。

参考:Юр?й Бутусов
ソレダルの状況は危機的であっても絶望的ではないので諦めるにまだ早い

ウクライナのマリャル国防次官は9日「ソレダル制圧に失敗したロシア軍が部隊を再編、損失を補充し、新たな戦力と共に戦術も変更して強力な攻撃を再び仕掛けてきた」と言及していたが、ウクライナ人ジャーナリストのユーリ・ブツソフ氏は「ソレダルは危機的な状況にある。敵はソレダルに繋がる主要な補給ルートを攻撃できる位置まで迫っている」と明かして注目を集めている。

出典:GoogleMap ソレダル方面の戦況/管理人加工(クリックで拡大可能)

ブツソフ氏は「完全にソレダルがロシア軍に包囲されたという意味ではないが通常のルートでの補給は不可能になった」と付け加えており、どうやら「T0513方向からソレダルに向かう道路を見下ろせる丘=?」をロシア軍に取られたらしい。

この指摘は視覚的な証拠を伴っていないため観測者の中には「ウクライナ人ジャーナリストの情報だからといって無条件に信用していいのか?=事実と断定するには時期尚早」と主張する人々もいるが、ブツソフ氏は2日前にも「現在ソレダルにいる」と写真付きで投稿しているため今回の指摘を「事実」と判断する観測者も少なくなく、管理人も「入手できる情報の中では比較的信頼性が高い」と思っている。

Доброго ранку з Соледару, пишу зараз саме з цього м?ста, на Донбас? мороз, сонячний день. Во?ни 46-? десантно-штурмово? бригади впевнено захищають укра?нське м?сто. #Soledar #UkraineRussiaWar #ArmedForcesofUkraine pic.twitter.com/YzbbzW7ixB

? Бутусов ПЛЮС (@UButusov) January 7, 2023

ソレダル以外の部分では「ロシア軍部隊の先端がクラスナ・ホラやクラスノポリフカの郊外に到達した」という報告もあり、バフムート東部で「ロシア軍がウクライナ軍を押し込んでいる」という印象を受けるが、バフムート南部のオプトネも「ロシア軍が拠点の大半を支配した」と推定する観測者が多く、バフムートとクリシェイフカの接続も遮断されつつあるので「ロシア軍の攻勢」はソレダル方面に限定されていないのかもしれない。

因みにブツソフ氏は「ここには多くの人員や機材があるのでチャンスは残されている。この困難な状況を改善にするには行動が必要だが無秩序では駄目だ。少しづつでも良いので計画的に前進することが必要だ」と指摘しているため、ソレダルの状況は危機的であっても絶望的するにはまだ早い。

関連記事:ロシア軍が再びソレダルに大規模攻撃、ウクライナ軍部隊と交戦中
関連記事:バフムートを巡る戦い、ウクライナ軍は追加戦力の投入や砲撃強化を指示
関連記事:ロシア軍が攻勢をかけるバフムート周辺の戦い、状況的には非常に際どい
関連記事:ロシア軍がバフムート周辺で大きな前進を遂げる、ソレダルの防衛ラインを突破か
関連記事:ウクライナ侵攻314日目の戦況、ロシア軍がバフムート攻勢に全力を傾ける

?

※アイキャッチ画像の出典:Сили територ?ально? оборони ЗСУ
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 33 』

国境を越える「民族」 : アウスジードラー問題の歴史的経緯

 ※ テキストがガタガタなのは、.pdfファイルを手持ちの変換ソフトにかけただけだからだ…。

 ※ 時間が惜しいんで、整形しない。

 ※ 読みにくければ、原文に当たってくれ。

 ※ まあ、オレは、この程度で充分に意味取れるがな…。

 ※ 内容的には、「領土」「民族」「喋っている言語」「国家」「国民」「国民国家」…、などというものを「一致させること」がいかに困難かということの、参考になる…。

 ※ ひいては、現下の「ウクライナ事態」の「背景にあるもの」を考察する際の、参考になる…。

 ※ それと、「ドイツ国民」の「被害者意識」と「加害者意識」の混在…、なんて話にもつながってくることだろう…。

 ※ ロシアは、「巧みに」そういう「ドイツ国民の意識・認知構造」に働きかけて、操っている…、という情報も、見たぞ…。

国境を越える「民族」 : アウスジードラー問題の歴史的経緯
著者
佐藤 成基
出版者
法政大学社会学部学会
雑誌名
社会志林

54

1
ページ
19-49
発行年
2007-07
URL
http://doi.org/10.15002/00021040
19

1. アウスジードラー理解への視点
    −在外同胞問題としてのアウスジードラー−

ドイツ連邦共和国は建国から1990年代初頭までのあいだ,東欧(ないし中東欧)からやって来 た人間を,当人が「ドイツ人」であるという理由により,当人およびその祖先がかつて一度もドイ ツ国籍を取得したことがなかった場合ですら無条件で受け入れ,国籍を付与してきた。この政策に
より,戦後継続的に400万人以上の「ドイツ人」が東欧からドイツ連邦共和国にやってきた(表1
参照)。1988年以後,その数は急激に増加し,世間の注目を浴びることになった。彼らを総称して
「アウスジードラーAussiedler」と呼んでいる。連邦共和国のこのアウスジードラー政策により, 東欧からの「ドイツ人」移民は,アウスジードラーという資格によって,外国人労働者や庇護権請 求者等の他の移民集団と比較して大幅に有利な待遇を受けることになった。

これまでアウスジードラーは,外国人労働者や庇護権請求者とセットで「ドイツの移民問題」と いう枠組みで理解されることが多かった
1
。そのような枠組みから見ると,「民族帰属」を認定され た「ドイツ人」に対する優遇は突出して見える。

そのため,ドイツのアウスジードラー政策を, 「血統」や「文化」を重視する「エスニック(エスノ文化的)」なナショナリズムの象徴であるとか, ナチス時代の「民族政策」への回帰であるとか,あるいはドイツの非「西欧」的な特殊性を示す現象であるなどと批判的ないしは文化宿命論的にとらえる解釈が,ドイツ国内・国外を問わず少なくなかった。

しかしこのような見方をすると,アウスジードラー問題が負っている固有の歴史的経緯,すなわ ち,なぜアウスジードラー政策が採用され,それがどのような形で継続されてきたのかという側面 への視点が失われてしまう。

確かにアウスジードラー政策において,ナチスの民族政策を想起させる「民族帰属」という概念を,「ドイツ人」の認定基準として用いている。だが,その点だけをとりあげて,戦後から1990年代初頭まで続いた(その後改訂されながらも現在までも継続している)
アウスジードラー政策の特徴を決定付けてしまうのは単純に過ぎる。

そこで本論文では,アウスジードラー問題を「移民問題」という観点からではなく,在外同胞と
4 4 4 4 4
国境を越える「民族」
―アウスジードラー問題の歴史的経緯―
佐 藤 成 基
1
例えばその理解の仕方は,ドイツの代表的な移民研究者クラウス・バーデの1994年の著作『外国人,
アウスジードラー,庇護』(Bade 1994)の題名の中に表わされている。
20

(表1)1950 年以来のアウスジードラー統計(連邦行政局)

旧ソ連邦 ポーランド
旧チェコ
スロバキア
ハンガリー ルーマニア
旧ユーゴ
スラヴィア
その他 計
1950 0 31,761 13,308 3 13 179 2,233 47,497
1951 1,721 10,791 3,524 157 1,031 3,668 3,873 24,765
1952 63 194 146 30 26 3,407 9,503 13,369
1953 0 147 63 15 15 7,972 7,198 15,410
1954 18 664 128 43 8 9,481 5,082 15,424
1955 154 860 184 98 44 11,839 2,609 15,788
1956 1,016 15,674 954 160 176 7,314 6,051 31,345
1957 923 98,290 762 2,193 384 5,130 6,264 113,946
1958 4,122 117,550 692 1,194 1,383 4,703 2,584 132,228
1959 5,563 16,252 600 507 374 3,819 1,335 28,450
1960 3,272 7,739 1,394 319 2,124 3,308 1,013 19,169
1961 345 9,303 1,207 194 3,303 2,053 756 17,161
1962 894 9,657 1,228 264 1,675 2,003 694 16,415
1963 209 9,522 973 286 1,321 2,543 629 15,483
1964 234 13,611 2,712 387 818 2,331 749 20,842
1965 366 14,644 3,210 724 2,715 2,195 488 24,342
1966 1,245 17,315 5,925 608 609 2,078 413 28,193
1967 1,092 10,856 11,628 316 440 1,881 262 26,475
1968 598 8,435 11,854 303 614 1,391 202 23,397
1969 316 9,536 15,602 414 2,675 1,325 171 30,039
1970 342 5,624 4,702 517 6,519 1,372 368 19,444
1971 1,145 25,241 2,337 519 2,848 1,159 388 33,637
1972 3,420 13,482 894 520 4,374 884 321 23,895
1973 4,493 8,903 525 440 7,577 783 342 23,063
1974 6,541 7,825 378 423 8,484 646 210 24,507
1975 5,985 7,040 516 277 5,077 419 343 19,657
1976 9,704 29,364 849 233 3,766 313 173 44,402
1977 9,274 32,857 612 189 10,989 237 93 54,251
1978 8,455 36,102 904 269 12,120 202 71 58,123
1979 7,226 36,274 1,058 370 9,663 190 106 54,887
1980 6,954 26,637 1,733 591 15,767 287 102 52,071
1981 3,773 50,983 1,629 667 12,031 234 138 69,455
1982 2,071 30,355 1,776 589 12,972 213 194 48,170
1983 1,447 19,121 1,176 458 15,501 137 85 37,925
1984 913 17,455 963 286 16,553 190 99 36,459
1985 460 22,075 757 485 14,924 191 76 38,968
1986 753 27,188 882 584 13,130 182 69 42,788
1987 14,488 48,423 835 581 13,994 156 46 78,523
1988 47,572 140,226 949 763 12,902 223 38 202,673
1989 98,134 250,340 2,027 1,618 23,387 1,469 80 377,055
1990 147,950 133,872 1,708 1,336 111,150 961 96 397,073
1991 147,320 40,129 927 952 32,178 450 39 221,995
1992 195,576 17,742 460 354 16,146 199 88 230,565
1993 207,347 5,431 134 37 5,811 120 8 218,888
1994 213,214 2,440 97 40 6,615 182 3 222,591
1995 209,409 1,677 62 43 6,519 178 10 217,898
1996 172,181 1,175 14 14 4,284 77 6 177,751
1997 131,895 687 8 18 1,777 34 0 134,419
1998 101,550 488 16 4 1,005 14 3 103,080
1999 103,599 428 11 4 855 19 0 104,916
2000 94,558 484 18 2 547 0 6 95,615
2001 97,434 623 22 2 380 17 6 98,484
2002 90,587 553 13 3 256 4 0 91,416
2003 72,289 444 2 5 137 8 0 72,885
2004 58,728 278 3 0 76 8 0 59,093
2005 35,396 80 4 3 39 0 0 35,522
総  計 2,334,334 1,444,847 105,095 21,411 430,101 90,378 55,716 4,481,882

典拠:連邦内務省ホームページ(http://www.bmi.bund.de)"Aussiedlerstatistik seit 1950" をもとに作成
21
国境を越える「民族」
いう「民族問題」の観点
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
から考察してみたい。

確かにアウスジードラーが現象として移民の一種で
あることには間違いはない。だが彼らは移民であると同時に,というよりもそれ以前に,ドイツ連 邦共和国にとっての在外同胞(つまり「在外ドイツ人Auslandsdeutsche」)なのである

2

このことがアウスジードラーに対し,その他の移民とは異なった歴史的負荷を与えている。

国家の境界線の外にいながら,同一の「ネーション(民族)」(それがどのように定義されるにせ よ)に帰属する「同胞」。これが在外同胞である。在外同胞は,同一の「ネーション」の成員でありながら国境外に散在している。それは,西欧,アメリカ,日本などでは問題になることは少ないが,イスラエル,ギリシャ,朝鮮,東欧地域の諸ネーションなどでは重要な「民族問題」である。

より一般的な視点
4 4 4 4 4 4
から,「民族問題」を国家とネーションとの不一致に伴う問題
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

と捉えるとするならば,在外同胞問題は,民族マイノリティ問題とともに「民族(ネーション)問題」の二大テーマを構成することになるだろう

3
。民族マイノリティが国境内における国家とネーションとの不一致
であるとすれば,在外同胞は国境外における国家とネーションの不一致である
4

ドイツでは,その統一国家の建国(1871年)以来,国境外に多くの在外ドイツ人を抱えてきた。

彼らは,その時々の政治的・社会的状況の中で,様々に理解され,誤解され(時に見過ごされ,忘れられ),テーマ化され,様々な政治的関心の下に道具化されてきた。

また,ドイツのネーション概念それ自体も,在外ドイツ人問題との関わりを通じて形成されてきたという面がある。

ドイツ史を見ると,国家によって領土的に区切られたネーション概念のほかに,それとは連動しつつも独立
した非国家的ないし超国家的なネーション概念
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
が,様々な形で「想像」されてきた
5

その過程に
おいて,在外ドイツ人問題への関与が少なからぬ役割を果たしてきた。戦後連邦共和国のアウスジードラー問題は,このような在外ドイツ人の歴史,さらにはドイツのネーション概念形成史の文脈の中で捉えて行く必要がある。

2
アウスジードラーを在外マイノリティ問題と関連で分析した研究としてオーリガーとミュンツのもの
(Ohliger and Münz 2002)がある。本報告はこの論考から大きな示唆を得ている。

だが,この分析も「マイノリティから移民へ」という転換が主題であり,アウスジードラー問題そのものを「民族」の問題と捉える視点が一貫しているわけではない。
3
ナショナリズムにおける在外同胞問題,さらには国家を超えたナショナルな関係性の重要性を指摘したのはロジャース・ブルーベイカーであった(Brubaker 1996)。彼は,「民族化する国家」「民族マイノリテ
ィ」とならんで「外部の民族的故郷」からなる,民族問題の「三項関係」を指摘している。
4

アーネスト・ゲルナーによる有名なナショナリズムの定義によれば,「ナショナリズムとは,第一義的に,政治的な単位とナショナル(民族的)な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理である」
(Gellner 1983: 1=2000: 1)。

この表現を借りて言うならば,民族政策とは,政治的な単位とナショナルな
(民族的な)単位を一致させるための具体的な方策ということになるだろう。

そこで問題となるのが,領土内の異民族である民族マイノリティと領土外の民族同胞である在外同胞である。
5

言うまでもなく,その歴史はフィヒテやヘルダーにまで遡る。フリードリッヒ・マイネッケは,国家の基盤を持たない統一以前のドイツのネーション概念を「文化ネーション」と呼んだ(Meinecke 1919)。

ブルーベイカーは,統一以後のドイツのネーションの自己理解においても,やはり国家的な概念よりも 「エスノ文化的」な概念の方が優位していると論じている(Brubaker 1992=2005)。
22

しかしまたアウスジードラー問題は,戦後に固有のものでもある。既存国境外のドイツ人を受け入れるアウスジードラー政策は,第二次大戦終結前後,東欧のドイツ人が被った「追放」と呼ばれ る歴史的事件と不可分に結びついている。

「追放」とは,1400万人以上のドイツ人が戦争による避難やその後の強制移住政策の被害にあった出来事である
6

「追放」は1950年にいちおうの終結を見た。しかしドイツ連邦共和国(当時の「西ドイツ」)は,「追放」が終わったあとも,「被追放者」の受け入れを続けるための法体制を構築した。アウスジードラー政策の起源はここにある。

また,その後のアウスジードラー政策は,ドイツ連邦共和国が「追放」という歴史的事件とその帰結に対して,また「追放」犠牲者である「被追放者」に対して,どのように対峙し,対処するのかという問題と不可分の関係にあった。

「追放」はドイツ連邦共和国に対し,「被追放者」たちが東方で受けた被害に対する補償や救済の要求,「故郷」を守りたい(できれば帰還したい)という願望,「故郷」(戦後は社会主義国家群の下に置かれた)に依然残されたドイツ人マイノリティなど,国境を
4 4 4
超える「民族」
4 4 4 4 4 4 4
の諸問題を,それ以前の在外ドイツ人問題とは異なった形でつきつけたのである。

アウスジードラー政策は,これらの問題と関連させつつ,さらにそれを国際政治上の文脈の中に置きつつ理解してかなければならない。

それは1960年代からドイツにやってくる外国人労働者や,
1980年代末に急増する庇護権請求者がもたらす問題とは,当然その歴史的文脈を異にしているのである。

本論文では,まず在外ドイツ人がドイツ建国以来ドイツ本国(政府や社会)においてどう理解され,テーマ化されてきたのかを,アウスジードラー問題の「前史」として簡単に回顧したあと,本題である戦後の「アウスジードラー」概念の形成とその展開に沿って論じていきたい。

最後に,
1990年以後明らかになってきたアウスジードラー終結への方向性が,国境を越える「民族」としてドイツ・ネーションの終焉を意味するのか否かを検討する。

2. アウスジードラー前史
    −ドイツ統一以後の在外ドイツ人問題−
7
(1)帝政ドイツの時代

1871年に統一されたドイツ帝国は,オーストリアのドイツ人を含む大量のドイツ人,ヘルダー やフィヒテ的にドイツ語を母語とする人間という意味でのドイツ人を外部に残すことになった。

特にハプスブルク帝国やロシア帝国内には,多くのドイツ人居住地域があり,それらが皆ドイツ帝国の外に残されたことになる。これをもって「在外ドイツ人問題の起源」とすることもできるが,それがナショナリスト的なアナクロニズムに陥るということにも注意をする必要がある。

というのは,帝政ドイツ時代,エルンスト・ハーセなど,「全ドイツ協会」や 「ドイツ学校協会」 などに所属す
6
「追放」についてはBeer(2004)を参照せよ。
7
この章での論述は,筆者が以前に公刊した論文(佐藤 1999; 佐藤 2000)に依拠している。
23
国境を越える「民族」
る一部の「全ドイツ」派知識人
8

を除いて,これら東欧の在外ドイツ人に対する社会的な関心は低く,
ビスマルクを初めとする政治指導者も,外交関係への配慮から,在外ドイツ人問題には介入しないというスタンスをとっていたからである。

帝政ドイツ時代のドイツのネーションは,主流としては国境内に限定された「国家的ネーション」として形成されたと見ることができるだろう(Schieder
1961)。

純粋血統主義の原理を確立した1913年の帝国国籍法は,「エスノ文化的」 と特徴づけられることが多いが(Brubaker 1992=2005),あくまでも国家の領土内の住民(そこには非ドイツ民族も含まれるが)の国籍の血統主義を確立したにとどまり,東欧に住む民族的ドイツ人は問題にされていない。

東欧からのドイツ人移民に国籍を付与する戦後連邦共和国の国籍政策は,1913年の国籍法と はなんら直接のつながりは持たないのである
9

確かに,国籍法をめぐる帝国議会の討論を見ると,
「在外ドイツ人」 という概念が頻出するが,この 「在外ドイツ人」 とは,当時の海外植民地に移住したドイツ国籍保持者(あるいは,かつての保持者)のことを主として意味していた。

それまでの国籍法では,国外に10年以上居住すると自動的に国籍を喪失する規定になっていたため,海外植民地に移住したドイツ人の中には国籍を喪失したり,これから喪失する可能性の高い者が多く存在したのである。政府や政治家たちは,それを「世界政策」の時代に適合しないものとして問題にしたのである
10

その関連で,血統主義の国籍法により 「ドイツ民族Volkstum」 の結合の強化が称揚
されることも多かった。しかし,国籍を一度も持ったことのない「民族帰属」のみのドイツ人に, 国籍を付与するということが考えられていたわけではなかった。

(2)ヴァイマル共和国からナチス時代へ

第一次大戦後,在外ドイツ人問題の構図は大きく変化する。その要因は大きく言って三つある。
8
ハーセは,『ナショナルな国家としてドイツ帝国 Das Kaiserreich als Nationalstaat』(Hasse 1905)とい
う著作の中で,国外にドイツ民族の一部を排除,国内に非ドイツ民族を包摂しているという点において,
ドイツ帝国がナショナルな国家として「未完結 unvollendet」であると規定している。この議論の中では,
ドイツの「ネーション」(ないし「民族 Volk」)は国家とは別の実体として理解されている。また,全ド
イツ協会の「全ドイツ的活動」については,Alldeutscher Verband(1910)を参照せよ。
9

この点に関しては,専門家の間でも誤解が多いように思われる。例えば,他の点では優れたナショナリズム史研究である伊藤定良(伊藤 2002)による理解がその典型である。

「ドイツを「真の国民国家」につくり替えるためには,「在外ドイツ人」(「民族的ドイツ人」)にドイツ市民権を与えねばならないのである。

こうして彼ら[全ドイツ派]の要求は1913年の国籍法に結晶した。それは市民権を「血縁共同体」として定義し,「在外ドイツ人」に開かれ,帝国内の移住者に対しては排他的であった」(Ibid.: 178)と伊藤
は述べている。

だが,1913年の国籍法は中東欧の「民族的ドイツ人」(この概念はナチス時代に多用され たものだが)に「開かれていた」わけではなく,また「全ドイツ派」がもった政治的影響力も限られたものであって,決して彼らの要求がそのまま国籍法に「結晶」したわけではない。

「エスニック」な移民政策であるアウスジードラー政策は,同じく「エスニック」な(つまり血統主義的な)国籍規定を確定した1913年の帝国国籍法と連続しているという誤った理解に基づくものであり,ドイツの「エスニックな特殊性」を前提においた理解がうみだす弊害の一つである。
24

第一は,敗戦によってドイツが東方の領土を喪失したことである。

これによって,東欧の新興国家の下に在外ドイツ人が新たに発生しただけでなく,それが戦後ドイツの国境修正運動とも関連していくようになる。賠償金の負担軽減と並んで,国境修正はヴァイマル共和国時代のドイツ政府の大きな外交上の目標だった。

第二に,ハプスブルク帝国が解体し,代わって多くの国民国家が新たに建国されたことにより,東欧の在外ドイツ人の多くが,そこにおける民族マイノリティの地位に転落したということである。彼らは新たに「国民化」を目指す新興国家のもとで,差別や同化の圧力 にさらされることになる。

第三に,戦後のパリ講和会議や新たに設立された国際機関の国際連盟な
どの場において,「民族自決」や 「民族マイノリティの権利」 の概念が国際的(ヨーロッパ内での)な規範として広まっていくということである。

しかし敗戦国のドイツでは,この原則が適応されず(オーストリアのドイツ人の「結合」の決議も却下された),しかもマイノリティとなった在外ドイツ人たちも,「民族的」な権利を阻害されることになる。

こうして,戦後の在外ドイツ人問題は,ドイツの国境修正運動とマイノリティの権利主張運動とに連動していくことになるのである。

ドイツ人は,当時のヨーロッパにおいて最大のマイノリティ集団であった。

ナチスが対外拡大を始める直前の1937年段階で,オーストリアとドイツ以外の東欧,南東欧に約850万のドイツ人が存在したとされている(Münz and Ohliger 1998: 156)。

各地のドイツ人マイノリティは団体を結成し,自らの文化的・言語的権利が認められず,ホスト国家の中で差別され 「民族の権利」 が侵害されて
いることについて抗議を行い,国際連盟に対しても盛んに陳情書を提出している(Pieper 1974;
Fink 1972)。

また,ドイツ国内でも,失地回復運動との関連で在外ドイツ人の問題についての公共
的関心が高まり,在外ドイツ人を支援する運動が行なわれるようになる(Jaworski 1978)。ドイツ
学校協会から発展した「在外ドイツ民族協会 Verein für Deutschtum im Ausland」は,そのメンバ
ーを劇的に増加させた。在外ドイツ人を扱った研究(「東方研究」 と呼ばれる)も発達し,多くの
著作も出版された(Burleigh 1988)。

そのような中で,「ドイツ民族 Volkstum」の姿を,国境を越えたもの,超国家的なものとして理
解することが一般的になっていった。その一例として地理学者アルブレヒト・ペンクが描いた「民
族・文化領土 Volks- und Kulturboden」の地図を紹介しおこう。これは1925年に出版されたもので
ある(Herb 1997: 57)。そこにはドイツの「文化領土」「民族領土」が,ヴァイマル共和国の国境
線を越えたものとして描かれている(図参照)。このような地図は,当時のヴァイマル共和国の国
10
例えば,帝国国籍法修正案を帝国議会で紹介している内務大臣のハンス・デルブリュックの演説などを
参照せよ(RT 13/13: 249-250)。そこで彼は,「この法律は,われわれが植民地や保護領を所有していな
い時代に公布されています。状況の変化に合わせて,今皆さんに紹介するこの法律案は,特定の条件で,
保護領において直接的帝国帰属を得ることを許可しています。……皆さん,ドイツ帝国はかつてとは異な
った利害関心を持っています。自らに繋がれていたものは,今や海を越えて出かけていくのです。移民の
理由も,大部分,かつてとは別のものになっています。今日出かけていくものは,経済的・政治的に祖国
から自らを切り離すためにそうするのではないのです。経済的・政治的に祖国のために奉仕するがために
出かけていくのです」と述べている。
25

国境を越える「民族」

境が「ヴェルサイユの命令」によって作り出された不当なものであるという一般的な認識とともに,
国境修正につながる政治的な意味合いも強く持っていた
11

「ドイツの民族・文化領土の地図」(Herb 1997: 57より転写)

このように,ヴァイマル時代に広まってきた「民族」概念を,政治的に利用したのがナチスであ
った。ナチスの対外拡大は,オーストリア,ズデーテンラント,ポーランド西部というように,
「民族自決」の論理で正当化されるような在外ドイツ人居住地域を皮切り
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
に進められている。特に
前二者関しては,イギリスなどの西欧諸国も,「民族自決」の原理から承認せざるを得なかったの
である。ポーランドにおいては,「民族リスト」を作成して,民族的にドイツ人と見なせる住民を
集団帰化させた(後述)。また,帝国の範囲外のソ連,バルト諸国,ルーマニアなどから合計で約
90万人のドイツ人を「帝国への帰還」の名の下にドイツ帝国内に集団移住させ(Hürter 2006: 41),
代わりに大量の非ドイツ人住民を国外に強制移住させるか虐殺するという方法によって,「帝国」
と「民族共同体」とを一致
4 4
させることを目指したのであった。
11
1926年にはこのような新たな地理学的概念を基にした地図作成に従事する「ドイツ民族・文化領土財団」
が組織され,政府からの研究委託や支援を受けていた(Herb 1997: 65-75; Burleigh 1988: 25-26)。そこに
は,ヴェルサイユ条約によってつくられた第一次大戦後の国境がドイツにとって不当なものであるという
認識が反映されている。
26

3.アウスジードラー概念の発生
    −「追放」とアウスジードラー−

(1)領土喪失と「追放」

ナチスドイツの敗戦により,在外ドイツ人問題の構図は,再び劇的に変化する。敗戦の結果ドイ
ツは,戦前の領土の約四分の一にあたる東方領土(オーデル=ナイセ線以東の領土)を喪失し,東
欧からは大量のドイツ人が強制移住させられた(表2を参照)。一般に「追放Vertreibung」と呼ば
れる強制移住は,最初はソ連軍の侵攻による避難民の発生に始まり,最終的には連合国のポツダム
協定第13条に基づく組織的大量移住政策へと発展した。結果的に,1950年までに,東方領土から
ソ連,ユーゴスラビアにかけて広がる東欧一帯から,1200万人以上のドイツ人(国籍を持つもの
も持たぬものも含めて)がオーデル=ナイセ以西の占領地区に移住することになる。また,その過
程で約200万人が死亡したと言われている。「アウスジードラー」は,この「追放」の歴史と不可
分の関係にある。本節では,その関係をやや詳しく考察していくこととする。

(2)被追放者受け入れのための法的整備

追放されたドイツ人(これを「被追放者 Vertriebene」と呼ぶ)の約3分の2にあたる約800万
人が西側占領地域(後の連邦共和国)に移住した(表2参照)。1950年当時,連邦共和国の住民の
約16.5%が(Beer 2004: 24),この被追放者であった。被追放者の中には,すでにドイツ国籍を保
持したものもいたが,保持していないものも少なくなかった。ドイツ連邦共和国は既存の国籍法
(1913年のもの)を維持したまま,これらドイツ人被追放者を国内に法的に編入するための法整備
を行うこととなる
12

その被追放者編入のための法整備の基本にあたるものとして,先ず連邦共和国の憲法に当たる基
本法の第116条1項をあげておかなければならない。ここでのポイントは,国籍法によるドイツ国
籍保持者とは別の概念
4 4 4 4
として,「ドイツ人 Deutscher」なる概念が導入されているということであ
る。この条文が,これが戦後長くアウスジードラーを受け入れるための,究極的な法的根拠となっ
ていく。

第116条
( 1) 基 本 法 の 意 味 に お け る ド イ ツ 人 と は, 他 の 法 的 規 定 を 条 件 と し て, ド イ ツ 国 籍
Staatsangehörigkeitを持つか,あるいはドイツ人の民族帰属 Volkszugehörigkeit をもち難民か被追放者
12
1913年の帝国国籍法が維持されたのは,ドイツの国家的分裂は平和条約締結の時には解消され,国家的
一体性が回復されるはずのものであり,連邦共和国はそれまでの間の暫定的な国家であるという(建国当
初は広く受け入れられていた)前提からである。しばしば誤解されているように,「血統主義への固執」
からではない。連邦共和国の暫定的性格については,基本法前文に明確な記載がある。連邦共和国は統一
後しばらく経った1999年まで,連邦共和国自身の
4 4 4 4 4 4 4 4
国籍法を持たなかった。
27
国境を越える「民族」

(表2)1950年段階における連邦被追放者法で定義された意味での被追放者の総数
A. 喪失した領土
1)

との故郷被追放者数
/ B. 故郷被追放者で
ない被追放者数
受け入れ国(地域)ごとの被追放者数
総 数 連邦共和国
民主共和国
と東ベルリン
オーストリア
西欧諸国と
海外
(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)
A. 故郷被追放者
2)
ドイツ東方領土 6980 54.7 4380 54.1 2600 63.4 − − − −
自由都市ダンツィヒ 290 2.3 220 2.7 70 1.7 − − − −
ポーランド 690 5.4 410 5.1 265 6.5 10 2.3 5 4.2
チェコスロバキア 3000 23.5 1900 23.4 850 20.7 200 46.5 50 41.6
バルト諸国 170 1.3 110 1.3 50 1.2 − − 10 8.3
ソヴィエト連邦
3)
100 0.8 70 0.9 5 0.1 − − 25 20.8
ハンガリー 210 1.6 175 2.2 10 0.2 20 4.7 5 4.2
ルーマニア 250 2.0 145 1.8 60 1.5 40 9.3 5 4.2
ユーゴスラヴィア 399 2.4 150 1.8 35 0.9 100 23.3 15 12.5
オーストリア 80 0.6 70 0.9 10 0.2 − − − −
他のヨーロッパ 135 1.1 70 0.9 15 0.4 50 11.6 − −
海外 20 0.2 15 0.2 5 0.1 − − − −
小 計 12225 95.9 7715 95.3 3975 96.9 420 97.7 115 95.8
B. 被追放者
4)
525 4.1 385 4.7 125 3.1 10 2.3 5 4.2
総 計 12750 100 8100 100 4100 100 430 100 120 100
1) 国,国の一部,1937年12月31日の国境線内の地域。
2) 連邦被追放者法第二条の意味における故郷被追放者,すなわち追放されて来た領土に1937年12月31
日時点あるいはそれ以前に居住地を持っていた者。連邦被追放者法第15条第2段落第1項の規定によ
り,故郷被追放者は被追放者証明書Aを所持している。
3) 西部ポーランドから追放されたロシアドイツ人「行政移住者」(戦争末期に帝国軍撤退と共にソ連か
ら西部ポーランドに移住させられたロシアドイツ人)は,ソヴィエト連邦からの故郷被追放者と見な
される。ただし,連邦被追放法第2条の定義に従えば,彼らは故郷被追放者ではない。後にやって来
たロシアドイツ人アウスジードラーは法律的にも故郷被追放者であり数量的にも圧倒的に多いが,彼
らのことを考慮に入れて,「行政移住者」 を故郷被追放者と見なしたのである。
4) 連邦被追放者第1条の意味での被追放者,すなわち居住地が連邦被追放者第2条での故郷被追放者と
して認知できる条件を満たさない者。法律上の意味で「故郷喪失なき被追放者」とされる者は,第15
条第2段落第2項に従って被追放者証明書Bを所持する。
典拠:Reichling(1986: 59, 61)をもとに作成
28
あるいはその配偶者や子孫として1937年12月31日時点でのドイツ帝国の領土に受け入れられた者のこ
とである。(BGBl 1/1949)
ここで「ドイツ人」は,①ドイツ国籍保持者と② 「ドイツ民族帰属」保持者で難民か被追放者と
してドイツ国内に受け入れられたもの(「1937年のドイツ帝国」とは,戦後も存続していると想定
されている統一のドイツ国家のことを指している)の二種類であることが分かる。つまり「ドイツ
人」はドイツ国籍を超えた
4 4 4
概念なのである。 ②のカテゴリーを一般に「地位上のドイツ人
Statusdeutsche」と呼ぶ。この「地位上のドイツ人」としてドイツ国内(実際上は連邦共和国内)
に受けいれられた者には自動的にドイツ国籍が与えられる。
ここに,問題の「民族帰属」という概念が登場している。しかしこれは,決してナチス時代への
ノスタルジーから採用されたわけではない。これは,大量に流れ込んでくる(基本法制定時にはま
だ「追放」は終わっていなかった)大量の難民・移住者たち(1950年までに800万人を超える)を
法的に編入するための緊急の法的措置として,いわば機会主義的
4 4 4 4 4
に採用されたものと言える。「追
放」の憂き目を見たドイツ人は,必ずしもドイツ国籍保持者だけではない。国籍の有無に関わらず,
東方においては,民族的に「ドイツ人」であるという理由で「追放」の被害にあったのである。連
邦共和国は彼ら全員を戦後「国民」として受け入れるための法的整備を,喫緊に必要としたわけで
ある。
そこで重要になるのが「難民あるいは被追放者として」という語句である。戦後の連邦和国は,
単にドイツの「民族帰属」を持っているからというだけで
4 4 4
自動的に国民として受け入れる「純粋エ
スノ文化的」な国家ではない。連邦共和国が受け入れるのは,「追放」されたドイツ人
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
だけである。
だから,オーストリア,スイス,ルクセンブルク,あるいはアルザスなどのドイツ語住民が,ある
いはアメリカのドイツ系アメリカ人が,その「民族帰属」が主張できるからといって(彼らがそう
主張しようと思えば主張できるだけの理由は,十分に立つと考えられるが),連邦共和国に「ドイ
ツ人」として受け入れられることはないのである。それは,彼らが「難民あるいは被追放者」では
ないからである。
「難民あるいは被追放者」を総称して「被追放者」と呼ぶ。それでは,いったい誰が「被追放
者」なのか。それを法的に規定したのが1953年の「連邦被追放者法」である。連邦共和国は,こ
の法によって「被追放者」概念を規定し,空襲被害者などと共に,戦争被害者として「負担均衡」
という被害保障政策を,国家をあげて行っていくことになる
13

連邦被追放者法は,その冒頭の第1条で「被追放者」を次のように定義している。
13
「負担均衡Lastenausgleich」とは,国民が戦争で喪失した財産やその他の被害に対する補償政策である。
残された財産に税をかけることによってその費用とした。戦争被害を国民全体で「均衡に負担する」とい
う意味の政策である。被追放者は,その負担均衡政策の中心的な補償対象であった。
29
国境を越える「民族」

第1条 被追放者
(1) 被追放者とは,ドイツ国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者として,差し当たり外国の行政
下にある東方領土に,または1937年12月31日時点でのドイツ帝国国境の外部にある領土におい
て居住地を持ち,その居住地を第二次大戦と関連して追放の結果,特に駆逐や避難により失った
者のことである。いくつかの居住地がある場合には,その当事者の個人としての生活状況に決定
的であった居住地でなければならない。戦争のために,第1文で示された領土に居住地を移住し
た場合に関しては,その者が戦争の後この領土に継続的に定住しようとしていたという事情にお
いてのみ被追放者である。

(2) 被追放者とは(また),ドイツの国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者として,以下のよう
な者である。
1.1933年1月30日以後,政治的信念,人種,信仰,世界観を理由にその者を脅かしたり,そ
の者に対して行使された国民社会主義の暴力措置の故に,第1段落で示された領土を去り,ドイ
ツ帝国外部に居住地を得た者。
2.第二次大戦中締結された国家間条約を理由にドイツ外部の領土から移住させられた者,ある
いは同時期にドイツの行政機関の措置を理由に,ドイツ陸軍に占領された領土から移住させられ
た者。(移住者Umsiedler)
3.全般的な追放措置が終結したあと,差し当たり外国の行政下にあるドイツ東方領土,ダンツ
ィヒ,エストニア,ラトヴィア,リトアニア,ソヴィエト連邦,ポーランド,チェコスロヴァキ
ア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,ユーゴスラヴィア,あるいはアルバニアを離れた
(または離れる)者。ただし1945年5月8日以後に初めてここの領土に居住地を定めた者を除外
する。(アウスジードラー)
4.居住地は持たないが,第1段落に示した領土に継続的に仕事あるいは職業を営んでいて,追
放の結果その活動をやめざるを得なかった者。

(3) 被追放者とはまた,自らはドイツ国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者ではないが,被追放
者の配偶者として第1段落に示された領域において居住地を失った者を言う。(BGBl 22/1953)
(引用部分の下線は引用者によるもの。以下同様。)
「アウスジードラー」という概念が最初に登場するのはここである((2)3)。それによれば,
アウスジードラーとは「被追放者」の下位概念
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
なのである。ただし,直接「追放」が行われていた
時期にそれを経験した人々のことではない。実質的に「追放」が終わった1950年以後に,「追放」
が行われた領域から移住してくる人々のことなのである。被追放者法の第7条で,「追放」以後に
生まれた被追放者の子供も被追放者の地位を得られることが規定されているので,アウスジードラ
ーの地位が取得できる者の範囲も,直接の「追放」経験者世代を超えて継承されることになる。
こうして,基本法第116条と被追放者法第1条の規定により,連邦共和国では,東欧に居住する
在外ドイツ人を「ドイツ人」として受け入れるアウスジードラー政策が可能になったわけである。
また,この体制は連邦共和国がオーデル=ナイセ線以東の東欧諸地域に対し,「全ドイツ民族」
30
の名の下に関わることのできる法的な前提となった。連邦政府は,国内に800万以上も存在する被
追放者の利益を代弁するという立場から,被追放者の保護・援助を任務とする「被追放者省」を設
置し,「追放」の歴史を公式に記録し,被追放者の「故郷権」さえ支持した
14
。また,連邦政府は
東方領土を含む「追放」が行なわれた全地域におけるドイツ人に対する「保護義務」をもつものと
された。このように連邦政府は,「追放」という歴史への関わりを立脚点として,オーデル=ナイ
セ線を越えて東方に広がる「全ドイツ民族」へのコミットメントを続けることになったのである
15

4. 冷戦下でのアウスジードラー問題

(1)アウスジードラーと反共主義 − 「追放」 概念の解釈転換−

実際の「追放」が終わったとされる1950年以後も,東欧諸国からのアウスジードラーの流れは
続いた。1950年代の段階で,その多くは戦後の「追放」の混乱期に離れ離れになった妻や子供が
連邦共和国にいる夫や親・親類を求めて移住したり,戦後に捕虜や強制労働につかされていた者が
連邦共和国に移住して生活している家族のもとに戻ったりするケースであった。連邦共和国ではそ
れを,ドイツ赤十字の活動を通じて,「家族再会 Familienzusammenführung」という問題の枠組み
において処理していた。しかし東欧の社会主義諸国は,しばしばそのような被追放者家族の「再
会」のために出国を希望するドイツ人の移動を制限した。残留ドイツ人の出国問題は,連邦共和国
とソ連を始めとする東欧社会主義諸国とのあいだの外交交渉のテーマの一つであった。
スターリンの死後,1956年から58年にかけての「雪解け」の時代は,ソ連やポーランドにおい
てドイツ人出国制限を大きく緩和している。それはアウスジードラーの統計に如実に表れている。
例えばポーランドからのアウスジードラーの数は,1955年の860人から1958年の117,550人へと劇
的に増大している。しかし「雪解け」ムードが終わると1960年には7,739人へと激減している(表
1参照)。このようにアウスジードラーの動向は,東欧社会主義国との関係に大きく左右された。
しかし1950年代から60年代にかけて,アウスジードラーそれ自体が政治的な争点になったとい
うケースは余り多くはない。アウスジードラーは毎年,1957年から58年のあいだを除き,ほぼコ
ンスタントに2万人前後来ていたが,それだけが独立して政治的な論争のテーマとされたことはな
かったといってよいであろう。やはりこの時代の東方政策(東欧諸国との外交政策)の主たる問題
は,オーデル=ナイセ線の承認や被追放者の帰還をめぐるものだった。連邦共和国ではそれらは,
「全ドイツ民族」の「自決権」や「故郷権」の問題,さらには将来のドイツ統一に関する問題の枠
組みの中で議論されていた
16
。「ポーランドの行政下に残留するドイツ人」や「追放が行われた領
14

しかしそのような東欧諸国に対する「全ドイツ」の名による介入は,東欧諸国から「修正主義」「報復 

主義」の名で批判された。そのようななか連邦政府は,被追放者の「故郷権」を露骨に主張することは,
外交的配慮から困難になっていた。詳しくは佐藤(2006)を参照。
15
なお,オーデル=ナイセ線は事実上のドイツ国家(ドイツ連邦共和国)の国境線だが,ドイツ連邦共和
国がこれを正式の国境線と見なしたのは,1990年になってからである。詳しくは佐藤(2006)第9章を参照。
31
国境を越える「民族」

域に残留するドイツ人」に関する言及はしばしばなされたが,それも「全ドイツ」に関わる諸問題
のもとに一括して扱われる傾向が強かった。

しかしヨーロッパの冷戦体制が定着し,ドイツの分裂も既成事実化してくると,当初はあくまで
「追放」の直接的な延長で考えられていたアウスジードラーについて,新たな理解の仕方が発生し
てくる。アウスジードラーは,社会主義圏国から「自由」を求めて連邦共和国に移住を求めるドイ
ツ人として見なされるようになっていくのである。

社会主義諸国に残留したドイツ人は,財産を没収されただけでなく母語を使用する権利も奪われ,
ドイツ人であることによって差別されている。しかもドイツ人に対して当然認められている移動の
自由も奪われ,出国を申請が却下されることが少なくないばかりか,申請することによって逆に当
局からの嫌がらせを受けることもある。そのような自由と権利を奪われた状況。それが「追放」の
もたらした帰結であると見なされた。アウスジードラーは,そのような苦境から逃れ,「自由なド
イツ」へと移動してくるドイツ人のことであると見なされるようになる。

アウスジードラーが,
「追放」が事実上終結した後も「被追放者」としての資格で受け入れられ続けたことの背後には,
このような冷戦下におけるアウスジードラー理解の転換があった。このような「追放」概念の解釈
4 4 4 4 4 4 4 4 4
転換
4 4
の背景には,当時の連邦共和国の反共主義があったことは間違いない。

戦争直後から連邦共和国では,「追放」の非人道性や法的不当性が繰り返し問題にされてきた。
被追放者に対する積極的な支援や保護政策も,そのことと関係していた。しかし今や,社会主義諸
国における残留ドイツ人の「人間的苦境」(BT-Ds 3/2807)が,「追放」がもたらした「ドイツ人
の運命」と見なされるようになった
17

。例えば,次のようなラインホルト・レースの発言は,こう
した冷戦期のアウスジードラー観をよく表わしている
18

[東方領土]でのドイツ人たちは,外国にいる囚人なのです。その国家は彼らの土地を占拠し,何年に
も渡って彼らの言語を,彼らにとってそこでドイツ人でいられる唯一のものである言語を,話すことを
禁じているのです。ドイツ人アウスジードラーがドイツ語で歓迎の言葉を聞いたとき,どれほど筆舌に
尽くしがたい感動でいるかを,一度でも見た人ならば,そこで生活する人々にとって,同じ民族から励
ましの言葉を聞くことがどのような意味を持つかがわかるでしょう。(BT 5/160: 8355)
16
1960年代前半頃まで,「全ドイツの統一」と言えば,「1937年時点のドイツ」の国境線における統一が
一般には意味されていた。ここにはオーデル=ナイセ以東の東方領土が含まれている。詳しくは佐藤
(2006)第3章を参照。
17
この時代,東欧に残留するドイツ人について集中的に言及した数少ない議会文書として,「ヤークシュ
文書」がある。これは,連邦議会外務委員会に設置されたヴェンツェル・ヤークシュを座長とする「ヤー
クシュ小委員会」が,1961年6月に連邦議会に提出した,東欧諸国の国交正常化に向けての諸問題に関
する報告書(通称 「ヤークシュ報告」)である(BT-Ds 3/2807)。この報告書は,社会主義諸国との外交
関係を結ぶことに余って,残留ドイツ人の状況は改善されるだろうと論じている。ヤークシュは,被追放
者連盟の代表であり,社会民主党所属の議員であった。詳しくは佐藤(2006)第4章を参照。
18
1968年3月14日の連邦議会より。ここで発言しているライホルト・レースは,当時の被追放者連盟の
会長で社会民主党の議員であった。
32

(2) 「新東方政策」とアウスジードラー問題

1969年10月にブラント政権が誕生し,いわゆる「新東方政策」が進められていく中,アウスジ
ードラー問題のとらえられ方はさらに変化していく。そのきっかけは,ブラント政権がポーランド
とのワルシャワ条約に向けての外交交渉の中で,残留ドイツ人の出国の自由に関する問題を「人道
的問題」としてとりあげるようになったことにある。ワルシャワ条約は,連邦共和国建国以来の東
方政策上の大問題だったオーデル=ナイセ線を承認するというものだった。ブラント政権は,この
条約が連邦共和国のポーランドに対する一方的譲歩であるという批判をかわすため,この「人道的
問題」における「成果」を国境線承認の代価として提示しようとしたのである(Bingen 1998:
142)。野党に回ったキリスト教民主/社会同盟の主流派は,オーデル=ナイセ線の承認に強く反発
していた。また与党の社会民主党と自由民主党の中にも,この国境線を認めることに反対する勢力
が存在していた。そのため,オーデル=ナイセ線承認を規定したワルシャワ条約を連邦議会で批准
するには,野党の一部穏健派の支持を取り付ける必要があった。そのような中,アウスジードラー
問題でのポーランドからの譲歩は,ワルシャワ条約交渉の双方向性を示す一つの有効な材料を提供
しえたのである。
外務大臣のヴァルター・シェールは,ワルシャワ条約締結直前の1970年12月3日の『シュトゥ
ットガルト新聞』への寄稿の中で,次のように書いている。
ポーランド側が,われわれにとって決定的に重要な人間的負担軽減に関する領域において譲歩する用意
があることに,十分な確証を得ない限り,われわれはこの条約を締結することにはならない。この問題
は最初からワルシャワ交渉の重要なテーマなのである。(Bingen 1998: 142における引用)
シェールは,その「人間的負担軽減」として,残留ドイツ人の「家族再会」の問題とともに,ポ
ーランドにおける彼らの「民族集団権」の問題あげる。後者の問題での成果を得ることは現段階で
は難しいが,前者の問題に関しては成果をあげることができた。そうシェールは論じている。
その「成果」の具体的現われが,ポーランド政府が公表した『人道的問題(家族再会問題)の解
決に関するポーランド人民共和国政府からドイツ連邦政府に対する情報』(通称『情報』)という文
書である。この文書は,ワルシャワ政府がポーランド国内に「ドイツの民族帰属」を持った人々が
「若干の数eine gewissene Zahl」存在し,彼らがその民族帰属ゆえに出国を希望していること,そ
してドイツへの出国を許可できる基準にかなうドイツ人が「数万人einige Zehntansend」存在する
ことを認めている。そして,全体として,ポーランド政府がドイツ人の出国について前向きの姿勢
を示したものであった(DDF 6: 543)。これは,ポーランド政府がそれまで国内のドイツ民族の存
在を否定してきたことに比べると,大きな変化であった。
だが,このような外交交渉の経緯は,かえって反対派からの批判の材料を提供してしまうことに
なる
19
。条約反対派は,この『情報』に記された出国許可の基準に適合するドイツ人の数をとりあ
げた。『情報』には「数万」だったが,長らくアウスジードラーの出国事業に関わってきたドイツ
33
国境を越える「民族」
赤十字の調査によれば,ポーランドから出国を希望しているドイツ人の数は28万人とされていた
からである(Miszczak 1993: 81-83)。さらにポーランドに住む残留ドイツ人の総数はさらに多いも
のとされていた。反対派はこの数字のギャップを問題にした。ポーランド政府は,ドイツ人の数を
低く見積もることにより,ドイツ人の出国の自由を依然として制限しているものと解釈されたので
ある。
例えば,エアリッヒ・メンデは次のように述べている。この政治家は,オーバーシュレージエン
出身の被追放者であり,シェールの前の自由民主党の党首でありながら,ブラント政権の東方政策
に反対してキリスト教民主同盟に移籍していた。
ドイツとポーランドとの条約とその交渉における文書,それはわれわれの手元にあるものですが,この
文書においては移住を申請するであろう人間は数万人と述べられています。しかしこの期間,約30万
人が確認されたのです。ドイツおよび国際的な観察者の推計に寄れば,シュレージエン,東プロイセン,
ポンメルン,西プロイセンには,ドイツ民族であると信じている人間がおよそ150万にいるそうです。
……ここで問われるのは次の問題です。連邦政府は,ドイツ東方領土において移住の許可を得られない
人々
  (キリスト教民主/社会同盟からの野次:嫌がらせだ!)
よって統治に留まらなければならない人々に対する配慮や保護の義務に関し,いかに対処するのでしょ
うか。(BT 6/172: 9988-9989)
このようにアウスジードラー問題は,ワルシャワ条約締結・批准をめぐる政治過程の中で,オー
デル=ナイセ線承認を進める連邦政府と与党に対する批判の材料として取り上げられるようになる
のである。
ブラント政権が進める「新東方政策」は,オーデル=ナイセ線の承認をめぐって国内の世論を二
分することになった。一方はブランと政権を支持し,社会主義国との関係を正常化し,ポーランド
の西側国境を認めていこうという左派・リベラル的立場である。もう一つは,それに反対する立場
である。キリスト教民主同盟/社会同盟を中心とする保守派は,被追放者からなる諸団体(被追放
者連盟のもとに糾合されている)の支持を受けつつ,ブラント政権の東方政策と鋭く対立するよう
になった。そしてアウスジードラー問題は,この国内の党派対立の中で,一つの政治的テーマとし
て浮上したのである。
19
「新東方政策」をきっかけに,東方領土問題をめぐる争点は,単に国境線問題プロパーだけでなく,ア
ウスジードラー問題,残留ドイツ人問題,被追放者の権利問題などの,国境線の設定・変更に伴う「属人
的」な問題へと分化した。詳しくは佐藤(2006)第6章,第7章を参照せよ。
34

(3)ワルシャワ条約以後のアウスジードラー問題

1970年12月のワルシャワ条約締結の直後,予想されていたようにポーランドからのアウスジー
ドラーの数は急激に増大した。1970には5624人であったものが,その1年後の1971年には25,241
人と5倍に増大した。しかしその後,ワルシャワ条約の連邦議会批准にあわせたかのようにアウス
ジードラーの数は減少の一途をたどった。1971年には13,482人,1973年には8,903人,1974年には
7,825人となった。
このような,あまりに恣意的なアウスジードラーの数の減少は,国境承認に消極的な保守派から
は格好の批判の材料となった。例えば,キリスト教民主同盟/民主同盟の議員団長カール・カルス
テンスは,以下のようにアウスジードラー問題をとりあげた。
そこ[=ポーランド政府の行政下]に生活するドイツ人で15回も出国申請を行い,毎回拒否されてい
るケースがいくつもあるということです。さらに悪いことには,移住の申請をした人たちの多くが,申
請を出した後彼らや彼らの家族がすぐさま嫌がらせにあっているのです。正しく理解された緊張緩和の
一部として,ポーランドにいるドイツ人の人間的負担緩和や自由がいっそう実現されることを,われわ
れは緊急に望むものです。(1973年9月13日,BT 7/48: 2748)
1956年から1970年までの間,年平均2万2千人のドイツ人アウスジードラーがポーランドからドイツ連
邦共和国に来ていました。1974年は6000人になるでしょう。
  (ドレッガー議員(キリスト教民主同盟):信じられないことだ!)
そして現在,連邦政府はアウスジードラー問題をポーランドの補償要求との取引材料と見なしているの
です。……皆さん,1970年のワルシャワ条約でオーデル=ナイセ線に関するポーランドの要求に応え
ておきながら,そのための唯一の条件であるポーランドからのドイツ人の移住 Aussiedlung を実際に期
待できるだけ保証することのできない政治とは,いったいなんなのでしょうか。(1974年11月6日,BT
7/127: 8533)
このように当時のドイツでは,アウスジードラーを単なる移民の問題ではなく,ポーランドに残
留するドイツ人(彼らは在外ドイツ人ではあるが,連邦共和国の国内法の立場から見ればドイツ国
籍保持者である)の自由や権利の問題として捉える議論が一般的であった。つまり,アウスジード
ラー問題は「ドイツ人」の権利にかかわる問題であった。この段階において,アウスジードラーが,
例えば当時発生していた外国人労働者(ガストアルバイター)と同列に論じられるというケースは
見られなかった。保守政党や被追放者諸団体が問題としていたのは,アウスジードラーの数の低下
であって,それがポーランド残留ドイツ人の権利を保護する立場にある連邦共和国が,その義務を
果たしていないということ,すなわち連邦政府の東方政策の失策の指標として理解されたのである
(上の引用では,アウスジードーラーがポーランドの戦争被害への補償要求への取引材料として用
いられていることが批判されている)。
35
国境を越える「民族」

ブラントの後を継いだヘルムート・シュミットは,このような批判を回避するために,1975年
の協定でポーランドにドイツ人出国許可に関する合意を,経済支援とセットで認めさせることにな
る。東方領土に対するドイツの権利要求に対して一貫して冷淡だったシュミットでさえ,アウスジ
ードラー問題に関する保守派からの批判には答えざるを得なかったのである。1975年のドイツ=
ポーランド協定に付随して作成された『出国関連文書』では,ポーランド政府が四年間で12万人
から12万5千人の出国者を許可するとされていた(DDF 8: 452-453)。この数字は,ドイツ赤十字
の28万よりは少ないものの,出国許可の可能性のあるものが「数万人」としていた1970年の『情
報』と比べると,大きな前進であった
20
。連邦政府は,ドイツ赤十字の出している数字とのギャッ
プについても,この後のポーランドとの関係改善の中で解決できる問題であるという立場をとった。
外務大臣のハンス=ディートリッヒ・ゲンシャーは連邦参議院で,政府にとってのアウスジードラ
ー問題の重要性を次のように強調した。
ドイツ赤十字の資料によれば,少なくとも28万人のドイツ人がまだドイツ連邦共和国への出国を希望
しています。連邦政府の確信するところによれば,この問題についての安定的な規定が,ドイツ=ポー
ランドの関係の長期にわたる良い形態のための重要な前提になります。それゆえ,連邦政府が過去にも
常に出国者数の増大に努力し,申請者に対する不利な扱いに対して抗議してきたことは当然でしょう。
それゆえ,連邦政府が近年ポーランド政府と両国の関係の永続的な改善をめぐって交渉してきた際,こ
の問題はわれわれの努力の中核に位置するものでした。(BR 425: 310)
実際に,この協定以後,ポーランドからのアウスジードラーの数は顕著に増大し,1976年には
29,364人,その後も1987年まで毎年2万から3万人のアウスジードラーが連邦共和国に移住してき
たのである。

5.アウスジードラーの終結へ 向けて
    ―東欧の民主化とドイツ「再統一」のインパクト―
前節で述べたように,冷戦下において,法的には「被追放者」の下位概念として規定されたアウ
スジードラーは,社会主義圏での非民主的で抑圧的な政治体制の犠牲者と見なされるようになった。
20
この協定ではまた,連邦政府がポーランドに対し,3年間で10億円の融資を2.5%の利率で行なうこと
も合意された。野党は,アウスジードラー問題を経済融資と結びつけることに対し,「人道的問題」を経
済取引の対象としているとして批判した。しかし,このように社会主義国がドイツ人アウスジードラーの
出国許可を経済援助を引き出す取引材料とした例はこれだけではない。ルーマニアとの間には,よりに露
骨な「人身売買」的合意を結んでいる。1978年,連邦政府はルーマニアと協定を結び,ルーマニアが毎
年12200人のアウスジードラーの出国を許可する代わりに,一人当たり8000ドイツマルクの支払いを約束
したのである(Wagner 2000: 137)
36

そして1970年代以後,アウスジードラー問題は東方政策の改善度をはかるバロメーターとしてテ
ーマ化された。野党は連邦政府の東方政策を批判する材料として,与党は政府の東方政策の成功を
証明する材料として,それぞれアウスジードラー問題をとりあげた。その中で一貫して前提にされ
ていたことは,社会主義圏に残留したドイツ人が経験している「人間的苦境」や「人道上の問題」
が戦争直後の「追放」の帰結であり,彼らの生活状況を改善することは連邦政府の義務であるとす
る考え方であった。

しかしアウスジードラー問題は,1980年代末から始まる東欧の民主化,社会主義体制の解体,
ドイツの「再統一」という大きな政治・社会変動の中で,再びその意味を大きく変化させる。そし
て,1990年代に入ると,アウスジードラーという地位そのものが終結に向かうことが確実となっ
たのである。ここではその過程を,①1980年代後半の社会主義圏民主化に伴うアウスジードラー
の急増, ②社会主義圏の解体とドイツ「再統一」がアウスジードラーの意味にもたらしたインパク
トという二つの段階に分けて考察する。

(1)東欧の民主化とアウスジードラーの急増

1988年以後のアウスジードラーの急増は,おそらく誰もが予期しえぬものであった。その予想
外の急増は,それまでは一般的な世論や政治の場ではあまり注目されてこなかったアウスジードラ
ーに対する関心を著しく高めた。
しかし当時,増大したのはアウスジードラーだけではなかった。社会主義圏からの庇護権請求者
の数も増大した。その中で,すでに連邦共和国国内に在住していた外国人労働者とともに,アウス
ジードラーは同じ「移民」の枠組みで捉えられるようになる。
「移民問題」の枠組みの中で見ると,アウスジードラーは際立った存在であった。彼らがその
「民族帰属」を証明できれば,単に「ドイツ人」として国籍を自動的に付与されるというだけでは
ない。住宅援助,職業支援,言語教育,年金支払など,他の移民よりも手厚い社会的援助を得るこ
とができたのである(IDDO 7/1989)。連邦政府はアウスジードラーの受け入れと統合を「国民的
な義務」であるとして,その援助政策のための財源を増額した。しかしそれは,急増するアウスジ
ードラーは,州政府と連邦政府にとって,極めて高いコストの負担を強いることになった。その結
果,アウスジードラーの「エスニック」な特権それ自体が問題視されるようにもなってきた
21

エスニックな基準でアウスジードラーを特別扱いすることは,単に人権と言う普遍的基準から見
て公正性を欠き,世論からの批判を買ったばかりではない
22
。「ドイツ人の下でのドイツ人」とし
て生活することを求めてやってくるアウスジードラーたちが表象する「ドイツ民族Deutschtum」
概念は,すでに「克服」されたはずのナチス時代の,「フェルキッシュ」な民族政策を想起させる
ものでもあった(Bade 1994: 161)。しかも,アウスジードラーが実際には十分なドイツ語力を持
21
ミュンツとオーリガーは,「1988年以前,アウスジードラーは西ドイツの政治,社会,世論からほとん
ど注目されてこなかった。しかし1988年からの大量移住は,エスニックな特権をもった移民に関する論
争へとつながった」と述べている(Münz und Ohliger 2001: 383)。
37
国境を越える「民族」

たず,文化的には他の外国人移民とほとんど変わらなかったこと(彼らはしばしば「ロシア人」
「ポーランド人」と見なされ,庇護権請求者と同じく,ネオナチ的極右排外主義の攻撃の対象にす
らなっていた)は,その「民族帰属」による認定基準の虚構性を浮き彫りにしていた。アウスジー
ドラーは結局,「経済難民」と変わらないだろうということで,「フォルクスヴァーゲンドイツ人
Volkswagendeutsche」という揶揄も使われた。

アウスジードラーとナチス民族政策との連想は,アウスジードラー(特にポーランドからの)の
「民族帰属」地位認定の実務手続きにおいて,実際にナチス時代の記録が頻繁に用いられたことと
も関係していた。ナチス占領時代のポーランドでは,集団帰化政策の際「民族リストVolksliste」
が作成され,4つに分類して「ドイツ民族」が登録されていた。その「第3類」には「ドイツ化可
能」とされた多くのポーランド人が登録されていた
23

戦後ポーランド人として問題なく生活して
いたこれら元「第3類」のポーランド人たちが,1980年代後半に自分たちのドイツ民族帰属を主
張して,アウスジードラーの申請を行ったのである。ナチス時代の「第3類」の登録は,彼らの民
族帰属を証明する有力な証拠となった(S 52/1989: 50-58, 1989年12月25日)
24

彼らはその「民族
帰属」を証明できれば,「基本法の意味でのドイツ人」であると認定され,ドイツ国籍を取得でき
ることになるわけである。
このようなナチス時代の文書や記録の利用は,しばしばメディアでスキャンらダラスに報道され
た。例えば週刊誌『シュピーゲル』は,「ナチス時代の記録は,[アウスジードラー]申請者,官庁,
裁判所が疑いもなく利用する,あまりにも価値の高い文書になっている」と述べ,あるポーランド
からのアウスジードラー申請者が,「SSの嫁として相応しくない」と記したナチス時代の書類が見
つかったために,申請が許可されなかった例をレポートしている(S 43/1989: 103-108, 1989年10
22
『シュピーゲル』誌は次のような報道をしている。
アウグスブルクの社会局係官のジークハルト・シュラム(社会民主党)は,「このような何十億も
つぎ込まれた特権が世論からの恨みを買ってる」のだから,連邦政府は「アウスジードラーにかえ
って迷惑をかかている」のだと非難している。シュラムは言う「われわれは全ての必要な人々に好
都合な住宅を必要としているのであって,特定の集団にだけそれを必要としているのではない。」
(S 34/1988: 58,1988年8月22日)
23
これは,元来ドイツ民族だったが長いポーランド化の結果ほとんどポーランド化したドイツ人という意
味であり,よって「再ドイツ化」も可能であるという意味である。なお,この「民族リスト」は,第1類
は「戦前にドイツ民族への帰属を積極的に公言していた者」,第2類は「積極的な民族的ドイツ人ではな
いがドイツ民族を明白に保持していた者」,第3類は「ポーランド民族とのつながりを持ったドイツ起源
の人間で,ドイツ民族に再帰させうる前提のある者」,第4類は「ポーランド民族に吸収されドイツ人に
敵対的だった者」の4種の「ドイツ民族」概念から構成されていた(Urban 2000: 22)。通過収容所にお
ける行政手続上の「ガイドライン」にも,ポーランド東部からのアウスジードラーの「民族帰属」の基準
の一つして,「民族リスト」の登録があげられている(Liesner 1988: 71)。
24
集団帰化政策により,彼らには「取り消し中の国籍 Staatsangehörigkeit auf Widerruf」が与えられてい
た。戦後ポーランド国籍を得た彼らは,すでにナチス時代の「取り消し中の国籍」を失ってはいたが,民
族帰属の証拠としては有力と見なされたわけである。
38
月23日)。このような報道は,アウスジードラーとナチス時代の民族概念との連想を強め,結果と
して一般世論のアウスジードラーへの懐疑を強めるものであった。
そのような中で,のアウスジードラー受け入れ政策に対し批判的な意見が広がった。特に社会民
主党が政権を握る州政府からは,アウスジードラーを制限すべきという声が上がっていた。その理
由の大きなものは財政問題,住宅問題,労働問題などであったが,アウスジードラー政策がナチス
時代の民族政策を想起させるというシンボリックな面がもつ意味も少なくなかった。しばしばアウ
スジードラー政策は,ナチス時代の「帝国への帰還 Heim ins Reich」政策の再来と見なされたので
ある。
例えば,ザールラントの州政府首相であり,社会民主党の中では左派として知られるオスカー・
ラフォンテーヌ(現在は「左派党」の代表)は,「ドイツ民族妄想 Deutschtümelei」という言葉を
用いてアウスジードラー政策を批判している。そのようなラフォンテーヌの批判は,アウスジード
ラーに対する「差別的」で「デマゴーグ的」な言辞として連邦議会でも問題にされている。そこで
ラフォンテーヌは,次のように弁明する(1988年10月26日の連邦議会)。
連邦共和国で外国人嫌いを掻き立てようとするものは,ドイツ語を話せもしないアウスジードラーに対
する躊躇感を強めてもいるのです。これは,一方で外国人嫌いの波をうまく利用できると考え,また同
時にアウスジードラーの移住に向けて強力な宣伝をしようとしているものにとっては,ディレンマなの
です。……隣人愛への義務ないし連帯,あるいは禁じられた制限のない啓蒙思想の遺産の有効性を認め
ることによってのみ,このディレンマから脱却することができるのです。人道性 Menschlichkeit への
義務が先ず最初になければなりません。それは不可分なもので,隣人愛への義務と同じく,古き国家機
構の境界によって制限されるものではないのです。最近私は,このことについて何度もはっきりさせて
きましたし,誇張されたドイツ民族妄想 ―『デューデン』の辞書によれば,「ドイツ民族
Deutschtum の押し付けがましい強調」なのだそうですが―について警告を発してきたのです。人間
としてのわが隣人 unsere Mitmenschen のための援助対策は,その隣人がわれわれの援助をどれだけ必
要としているのかに応じて行っていかなければならない。私はそう主張してきました。(BT 11/102:
7005)
それに対し,当時の政権与党であるキリスト教民主同盟のゲルスターは「ドイツ人アウスジード
ラーは,基本法第16条の意味においてドイツ人なのであり,無条件でドイツ国民なのです」(Ibid.:
7004)と述べ,ドイツ人,ドイツ国民としての基本的権利は保障されるべきであると主張している。
そして,庇護権請求者とアウスジードラーを同列に論じるのは誤りであることを強調した。
政府や与党(特に保守のキリスト教民主同盟,キリスト教社会同盟)はアウスジードラー政策を
維持するため,第二次大戦と「追放」がドイツ人にもたらした被害を指摘し,「追放」の影響をい
まだに被っているアウスジードラーを保護するのは「ドイツの義務」であるという立場を堅持した。
しかし,アウスジードラー政策の時代錯誤性は広く世論で認知されるようなり,政治家や専門家の
39
国境を越える「民族」
間では,アウスジードラーの制限のみならず,その基盤となっている戦後の被追放者の受け入れ体
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
制それ自体
4 4 4 4 4
を見直すべきだと言う声も高まっていった
25

(2)社会主義圏の解体と「戦後時代」の終結

社会主義圏の解体はアウスジードラーをめぐる状況に大きな変化をもたらした。それまでアウス
ジードラー受け入れの前提であった社会主義圏の自由や権利の抑圧という状況が解消したのである。
連邦共和国では,そのような社会主義圏の「人間的苦境」を「追放圧力Vertreibungsdruck」
26
が継
続しているものととらえ,その前提の下で,アウスジードラーの認定基準としてあえて「被追放
者」であることの証明を求めることをしてこなかった。社会主義圏で生活しているということが,
自動的に「追放圧力」の下にあるものとみなされた。しかし社会主義圏の自由化・民主化の展開は,
「追放圧力」というそれまでのアウスジードラー受け入れの自明の前提を揺るがすことになった。
そうなると,アウスジードラーの受け入れを続ける必然性も揺らいでくることになる。
社会主義圏の解体にともなう「追放圧力」解消は,しばしば「戦後時代 Nachkriegszeitの終結」
とみなされた。「戦後時代」とは,「戦争の帰結 Kriegsfolgen」としての「追放」の圧力が継続され
た時代であった。今やその圧力が急激に消滅の方向に向かいつつある。そのような中,被追放者受
け入れを規定してきた連邦被追放者法を改正しようというこのような動きが促進されることになる。
ベルリンの壁が崩壊してから数ヵ月後の1990年初めには,早くも当時野党の立場にあった社会
民主党の側で,「被追放者」という地位の付与を終わらせるべく連邦被追放者法を改正すべきとい
う主張が高まってきた。1990年1月には連邦議会で「被追放者の地位の新規付与を終わらせる」
ための法律案が社会民主党から提出された。この提案は否決されている(BT-Ds 11/631; BT
11/197)。だが連邦政府も,東欧における政治変動が,もはやこれまで同様にアウスジードラー概
念を維持し得なくなっていることは認識していた。政府はアウスジードラー受け入れの手続き変更
に関して規定した「アウスジードラー受け入れ法」
27
を提出したが(1990年4月25日連邦議会可決),
興味深いのはその法案に書かれた「根拠」の中で,東欧での政治的変化が,「追放圧力」を和らげ
ていることを明確に認めていることである。これは,アウスジードラー概念終止へ向けての一つの
転換点になっている。
25
『シュピーゲル』誌は,次のように被追放者法を問題視している。
[民族帰属ゆえに受け入れると言う]被追放者法の基本は,ハンブルクの国家法教授ヘルムート・
リットシュティークによればナチス時代の民族政策の継続であり,それが東方からの貧しい難民の
流入の原因になっている。フィクション抜きで言えば,仮にアウスジードラーが今日でもなお,祖
父母のドイツ民族への帰属意識ゆえに故郷から追放されているとしても,彼らはこの地では哀れな
庇護権請求者の法的地位しか持たないはずである。(S 3/1990: 79,1990年1月15日)
26
「追放圧力」という概念は,アウスジードラー受け入れの行政手続き上一般に用いられた概念で,行政
裁判所の判決文などにも用いられている(Liesner 1988: 97-107)。
27
この法律は,アウスジードラーがその出身地でアウスジードラー申請を行うことを可能にした法律であ
る。
40
アウスジードラーの出身地域Aussiedlungsgebieteにおける変化した実状は,連邦被追放者法の意味での
アウスジードラーの数を減少させている。一般に言って,ハンガリーやユーゴスラビアからのドイツ国
籍保持者,ドイツ民族籍保持者においては,もはや追放圧力を受けていない。彼らはそこで,マイノリ
ティとしての権利を保持しているか,何年も前からその国を離れることが可能であった[=つまり出国
の自由が何年も前から保証されていたという意味]かのどちらかである。(BR-Ds 222/90)
ここで連邦政府は,ハンガリーとユーゴスラビアには,もはや「追放圧力」が存在していないこ
とを認めた。この法案の審議の過程で,社会民主党議員は,この点に関する連邦政府の態度の変化
を評価しつつも,まだ不足があるとして批判している。同党のヘンマーレは,以下のように述べる。
法案の根拠の中で,連邦政府は,ハンガリーとユーゴスラヴィアではもはや追放圧力はないと確言して
います。それは,連邦被追放者法に述べられている他の国,特にポーランドとチェコスロヴァキアにも
当てはまります。それゆえわれわれは,連邦被追放者法を終わらせるという[従来の]提案を堅持しま
す。あなた方の提案は第一歩に過ぎないものです。(BT 11/206: 16192)
「被追放者」という地位で特権的な移民として入国してくるアウスジードラーという存在に,な
るべく早く終止符を打ちたい社会民主党議員と,制限を加えつつもアウスジードラーという地位は
保持したい政府与党の立場とが対立していることが,ここに示されている。
ドイツが統一を果たした後,1991年の2月1日の連邦議会では,社会民主党のペンナーは,連
邦被追放者法に加え,被追放者という地位の究極的根拠となっている基本法第116条の改訂にまで
触れるようになる。
第一に,基本法116条は,ドイツ連邦共和国の国家領土に限定されます。第二に,地位上のドイツ人
[=本論文3(1)参照]の概念は削除されます。……第四に,被追放者法は,被追放者の地位を,こ
れまで連邦共和国領域内に移住することが不可能であった民族帰属保持者だけに付与されるべく限定す
べく改訂されます。(BT 12/7: 232)
社会民主党の考えは,被追放者の地位は(つまり今後のアウスジードラーは),これまで移動の
自由が認められていなかった一部の民族帰属保持者を例外として,原則的に廃止していくというも
のであった。それに対し,内務大臣でキリスト教民主同盟の有力政治家であるショイブレは,次の
ように反論している。
連立政権では,基本法第116条には改訂を加えないということを決めました。……われわれが特別な義
務を負っている全ドイツ人に対して扉は開いておきます。(Ibid: 231)
41
国境を越える「民族」
「被追放者」が言及されている基本法第116条は,戦争と「追放」に由来する「全ドイツ人」に
対する連邦共和国の「特別の義務」を保持するために,残しておく必要があるとショイブレは述べ
る。これは保守派に典型的なアウスジードラーの解釈である。
だが,被追放者法の改訂は,もはや時間の問題となっていた
28
。政府と与党にとっても,アウス
ジードラー政策をこれまでのように続行できないことは明らかだった。問題は,アウスジードラー
政策にどのような形で「終止符」を打つのかであった。
被追放者法の根本的改訂は,1992年11月に可決された法律(「戦争の帰結清算法 Kriegsfolgenbereinigungsgesetz」)によって実現された
29
。「被追放者」の地位をなるべく削減したい社会民主党に
対し,「追放」への言及をなるべく残したいキリスト教民主/社会同盟。多くの法律がそうである
ように,この法律もこのような与野党の双方の立場の妥協的形態となっている。結果として,この
法律によりアウスジードラーの終結への道は確実になったが,アウスジードラー受け入れそれ自体
は継続されるというものとなった。しかし「アウスジードラー」の法的地位は大きく変わった。
1993年1月から施行されたこの法律により,これまでの「アウスジードラー」は停止され,代
わって新たに「遅発アウスジードラーSpätaussiedler」なる概念が公式に導入された。法律施行以
後のアウスジードラーは,原則的に「遅発アウスジードラー」として入国してくるものとなった。
さらに,その「遅発アウスジードラー」の地位も,1993年1月1日以後に生まれた者には適用さ
れないこととなった。これにより,長期的に見れば,アウスジードラーという地位そのものに終止
符が打たれたことになる。同法提案の際の「根拠」には,この法律が「戦後時代の終わり」を意味
することが明言されている。
ドイツ統一の実現とともに,ドイツとポーランドの国境の国際法的確定とともに,そして四カ国とポー
ランドとの条約とともに,戦後時代は終わりを迎えた。このことはポーランド共和国,旧ソ連の共和国,
その他の中東欧諸国に住むドイツ国籍保持者,ドイツ民族帰属保持者の受け入れを,変化した現状を考
慮に入れた法的基礎の上に置くという目的に向けて修正することを必要にしている。そこで次のことを
考慮に入れなければならない。これらの諸国には依然として何百万ものドイツ人が生活しており,その
生活の基礎は第二次大戦の最中およびその結果,暴力的な移住,追放政策,離散と抑圧により破壊され,
28
連邦参議院では,連邦政府が被追放者法の改訂に躊躇していることを非難する決議も採択されている。
1991年12月19日の決議文は次のようになっていた。
連邦政府は,戦争の帰結終結法の中で,アウスジードラーの特権的な移住を,戦後の終結と追放圧
力の消滅の後,まもなく終結させるための規定に至らなければならないことに,明らかに困難を抱
いている。連邦参議院は,そうした規定を,将来の移民政策の中へと取り込むためにも喫緊に必要
であると考える。(BR-Ds 754/91)
29
以下,この法律の理解に関しては,(Juncker 2001)(Delfs 1993)(Wolf 1993: 4-20)(DOD 3/36, 1993:
1-2)を参照した。また改訂連邦被追放者法の法律文は http://www.juris.de から採ることができる。
42
その帰結は現在の社会的・国家的な構造の変化によってもなお乗り越えられてはいないということを。
これらのドイツ人たちに対し,ドイツ連邦共和国は引き続き特別な義務を担っている。(BT-Ds
12/3212: 19)
この文は「戦後時代の終わり」とともに,「追放」の帰結が依然として消滅してはいないことも
また明言している。そして,連邦共和国は引き続きアウスジードラーを「遅発アウスジードラー」
として受け入れることとなる。だが遅発アウスジードラー(連邦被追放者法第4条での規定)は被
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
追放者の下位概念としてのアウスジードラー(同第1条(2)3)ではもはやない
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
。大きな違いは,
旧ソ連地域以外から来る者は,必ず 「ドイツ民族帰属が理由で不利に扱われた」 ことの証明を,自
ら示さなければならないということである。かつてのような,集合的な 「追放圧力の継続」 の存在
は,旧ソ連地域のみに認められていた。このような法規定の改訂は,当然旧ソ連以外の地域からの
アウスジードラーの流入を,大幅に減少させる結果となる。
この法律をきっかけに,アウスジードラーの数は顕著な減少に向かう。この法律が施行される前
に,与野党で年間のアウスジードラーの受け入れ人数を約20万人と決めたことも大きかった。
その後1996年から,「民族帰属」 の証明としてのドイツ語テストの導入があり,アウスジードラ
ーの数は益々減少の一途をたどった。2000年には,ドイツ語テスト受験者の約半分が不合格にな
ってアウスジードラーの資格を得られなくなっている
30
。こうして,2000年には約9万5千人いた
アウスジードラーも,2005年には3万5千強にまで減っているのである。
このようにアウスジードラー受け入れは,終止符に向けて軟着陸していくように見える。振り返
ってみれば,アウスジードラー受け入れの起源は戦後東欧ドイツ人の 「追放」 にあった。「追放」
とアウスジードラーの大量流入は,人口学的な意味で東欧在外ドイツ人の大民族移動(暴力や強制
を伴った)を意味していた
31
。これが,建国以来様々な形で問題になってきた在外ドイツ人問題を
「解決」したことになったのだろうか
32
。ドイツは,在外同胞問題のない,「西欧」 型の,「完結し
たネーション・ステート」 へと変貌したのか。一見そうにも見える。だが,その前にもう一点検討
しておかねばならない問題がある。民族マイノリティとしての在外ドイツ人
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
の問題である。
30
被追放者連盟のHPによる(http://www.bund-der-vertriebenen.de/infopool/spaetauss2.php3)。
31
被追放者諸団体のリーダーやそれに近い学者の中には,このドイツ人の強制移住を「民族浄化」という
挑発的な語で表現するものもいる。もちろん,ユーゴスラヴィアでの 「民族浄化」 との連想を意図したも
のである。だが,その含意はどうあれ,戦後の追放とそれに続くアウスジードラーの移住で,東欧の在外
ドイツ人が大規模に「一掃」されたことは確かである。また,現在ドイツでは,「追放」の問題を,より
一般的に「純粋な民族国家」形成を目的とした大規模民族移動政策との関連で理解しようという研究も行
われている。例えばBeer(2004a)を参照せよ。
32
実際,戦争末期イギリスの首相チャーチルは,東欧での民族紛争の火種を除去するという観点から,ド
イツ人移住政策の必要性を考えていた(Beer 2004)。となると,このチャーチルの目論見は,戦後60年以
上たってその結果にたどり着いたと言えるかもしれない。
43
国境を越える「民族」
6.在外ドイツ人マイノリティの問題
社会主義圏における民主化の動きは,残留するドイツ人マイノリティの生活や権利の状況も向上
させた。ドイツ人マイノリティの文化的活動の自由も出てきた。ポーランドにように,それまでド
イツ人マイノリティの存在を公的に認めていなかった国でも,その存在が認められるようになった。
彼らの西側諸国に対する出国制限も著しく緩和された。そのような中,連邦政府の政治家も,在外
ドイツ人との接触をもつ機会も増えていく。また,政府間交渉で,ドイツ人マイノリティの権利問
題が取り上げられることも多くなってきた。例えばポーランド政府は,1989年11月に,コールと
の会談の中で国内のドイツ人マイノリティの権利保護を約束したのである。ドイツ人マイノリティ
の権利は,1991年6月に締結されたドイツ=ポーランド善隣有効協力条約においても規定される
ことになる
33

そのような文脈の中で,ドイツ政府は,アウスジードラーの認定条件を制限していくのと並行し
て,在外ドイツ人マイノリティの現地での生活環境を向上させるための援助活動を政府が行うよう
になっていく。それはまた,東欧からのアウスジードラー申請者の数を減らすためにも有効と考え
られた。このような傾向は,ドイツ「再統一」以後強まっていく。内務省は,入国したアウスジー
ドラーの統合と並び,「出身地である領土において,ドイツ人たちの生活条件を,文化,社会,経
済領域における多種多様な施策によって改善し,彼らに継続的な生活の見込みが開けるようにする
こと」をアウスジードラー政策の政策目標に掲げるようになる(IDDA 18/1990: 1)。また,この政
策はヨーロッパにおける 「マイノリティの保護Minderheitenschutz」(CSCEや欧州評議会など)の
法的枠組みを基礎として目指されるようになっていく。1991年1月30日,第二期政権成立直後,ヘ
ルムート・コール首相は政府声明演説で,「統一されたドイツにとって,民族マイノリティの保護
は特別な課題となります」 と述べたあと,次のように在外ドイツ人問題をとりあげている。
ここで問題になりますのは―私はこのことをこのことを強調したいのですが―何よりもまずわれわ
れドイツ人,中央ヨーロッパ,南東ヨーロッパ,そしてソ連に暮らしているドイツ人同胞たちのことな
のです。われわれは,彼らが出身国からの出国を唯一の逃げ口とみなしてしまうことを望んではいませ
ん。われわれは,彼らが自分が生まれた故郷において,自分たちのために,そして子供たちのために再
び安全な将来を見つけ出すことを望んでいるのです。それには,彼らが自分たちの言語,歴史,伝統を
守り,自由に宗教活動のできる権利と機会を持つことが,そして彼らの生活環境が改善されることが前
提となります。連邦政府は,問題となる諸国との間との二国間協定の中で,この問題を書き込んでいき
ます。(BT 12/5: 88)
33
ポーランドとの関係においてドイツ人マイノリティの問題をテーマ化しえたことの理由の一つは,ドイ
ツ連邦共和国がオーデル=ナイセ線を国境として最終承認したことである。これにより,それまで国境修
正要求の手段として用いられがちだったドイツ人マイノリティ問題が,両国の間で以前よりもオープンに
論じられるようになったのである。詳しくは佐藤(2006)第9章を参照。
44
また,前に論じた 「戦争の帰結清算法」 の 「根拠」 でも,前に5(2)の項で引用した部分の直
後に,以下のような文章が来る。
連邦政府は,アウスジードラー出身地の領土に生活しているドイツ国籍保持者,ドイツ民族帰属保持者
を援助し,彼らの文化的を擁護するという目的を,何年も前から追求してきた。彼らは,将来への見込
みが開かれるような条件の下で生活できていなければならない。かつての東側ブロック諸国の民主化と
経済的変動の過程は,そのような対策を貫徹することを容易にしている。この過程が,その対策を今ま
で以上の規模で貫徹することを,今初めて可能にしたのである。これらの諸国における経済的変動とド
イツ連邦共和国の援助は,ドイツ人マイノリティの生活状況の向上につながることになりうる。それが
最終的には,ドイツ連邦共和国へのアウスジードラーの波を終わらせることになるだろう。(BT-Ds
12/3212)
この法案をめぐる連邦議会の討論では,野党の社会民主党議員も「出国移民の原因をできる限り
除去する」という観点から,ドイツ人マイノリティに対する援助対策を支持している(BT 12/107:
9147)。つまり,在外ドイツ人マイノリティ援助に関しては,与野党の間で合意がほぼ成立してい
たのである。
コールが前出の演説の中で述べていたように,連邦政府による東欧のドイツ人マイノリティの援
助政策は,東欧諸国との二国間条約で規定され,ドイツ語教育,ドイツ語メディア,企業活動や農
業,インフラ整備,医療,ドイツ人団体や集会所などへの資金,人材,技術の援助などが行われる
ようになる(Wolff 2000: 194-200; Delfs 1993: 9-10)。ポーランド人マイノリティへの援助の金額だ
けを見ても,1989年には830万ドイツマルクから1994年には3320万ドイツマルクへと急増している
(BT-Ds 13/1036)。援助が特に集中していたのが,ロシアにおけるドイツ人マイノリティであった。
1996年に東欧のドイツ人マイノリティに対する全支援額の約60%にあたる9千万ドイツマルクが,
ロシアのドイツ人マイノリティに支払われていた(Wolff 2000: 197)。1990年代のアウスジードラ
ーの大部分がロシアから来ていることを考えれば,当然の処置であっただろう。
1995年以後,ドイツに流入するアウスジードラーの数は急激に減少してく。1997年に内務省は
それを,ドイツ人マイノリティの現地での生活が定着した結果であるとして歓迎する姿勢を示して
いる(IDDA 88/1997: 2)。アウスジードラーの減少が,政府の在外ドイツ人マイノリティ援助の成
果と見なされたのである。
しかしその後,政府からの在外マイノリティへの財政援助からは手を引くようになる。例えば,
内務省による在外マイノリティ保護のための費用は,1998年の1億2500万マルク(約7200万ユー
ロ)から2005年には2100万ユーロへと減額されている(DOD 8/2005)。社会民主党/緑の党政権
の方針は,在外マイノリティは,ドイツ文化は維持しつつも現地国家の国民として生活していくべ
きであるという姿勢であり,内政干渉とも受け取られかねない在外マイノリティ支援からは距離を
置こうとしていたように見える。
45
国境を越える「民族」
だが,地域や民間レベルでの在外ドイツ人マイノリティの文化保護活動は続いている。特に最近,
ヨーロッパという枠組みにおいて,民族マイノリティの保護が一つのテーマとして浮上してきてい
る。1993年のEUのいわゆる「コペンハーゲン基準」や,欧州評議会のいくつかの合意文書が,民
族マイノリティの保護を規定している。西欧諸国において,このテーマはそれほどの関心を引いて
いないようだが,EUが東方へと拡大していくのに比例して,民族マイノリティの保護というテー
マは,これまで以上に重要なテーマになっていく可能性はある
34

被追放者諸団体は,この在外ドイツ人マイノリティ問題に一貫して積極的な関与を続けてきた。
被追放者諸団体はかつてオーデル=ナイセ線の承認に強硬に反対し,また現在に至るまで 「追放」
の不正に対して強い非難の声を上げてきた集団であり,「領土修正主義」 として批判的に語られる
ことの多い集団である。特にポーランドでの評判は悪い。しかし1990年の国境最終確定の前後から,
被追放者諸団体は在外ドイツ人マイノリティ問題を重要な活動の場とし,ポーランドを始めとする
東欧諸国の在外ドイツ人との交流を深めつつ,国境を越えた 「東方のドイツ」 の歴史と記憶(それ
は彼らの 「故郷」 の歴史と記憶でもある)を喚起しようとしている(Salzborn 2001)。
また,在外ドイツ人問題と並べて注目すべきは,ドイツ国内での「東方のドイツ」に関する博物
館,展示,出版,研究施設などへの援助の増大である。被追放者の「故郷」の文化伝統の保存や学
術研究の推進は,連邦被追放者法第96条で規定されたものであり,すでに長い歴史があるが,そ
の援助額は1980年代末から増大し,1982年に年間約400万マルクであったものが,1994年には4700
万マルクに増額されている(BT-Ds 12/2311)。社会民主党・緑の党連立政権の下,この「東方の
ドイツ」の文化保存活動に対する援助も減額される。しかしこの政権は,活動の「専門化」と「ネ
ットワーク」の強化を提案し,特に東プロイセン,シュレージエン,ジーベンビュルゲン等と言っ
た東欧のドイツ人定住地域ごとの文化や歴史を展示した博物館の「強化」に力を入れるとされた
(BT-Ds 15/2967)。
現在,アウスジードラーは終結に向かいつつある。だが,在外ドイツ人マイノリティ問題や「東
方のドイツ」の文化保存の問題として,「国境を越える民族」としてのドイツのネーションはまだ
終結していないのである。アウスジードラーの終止をもってドイツが「西欧」型の,「完結したネ
ーション・ステート」になったと判断するのは,いまだ時期尚早のように思われる
35

34
現在の在外ドイツ人マイノリティの数について,確定的な数字はない。被追放者連盟の推計では,ロシ
アに80万,カザフスタンに35万,ポーランドに30万から50万,ハンガリーに20万,ルーマニアに8万,
チェコに10万となっている。総計で183万から203万人の在外ドイツ人ということになる(http://www.
bund-der-vertriebenen.de/infopool/dt-minderheiten.php3)。連邦内務省の推計では,ロシアに70万,カザ
フスタンに35万,ポーランドに40万,総計で150万から200万人の在外ドイツ人マイノリティが存在する
とされている(http://www.bmi.bund.de/cln_012/nn_122688/sid_90F0FFC389894859661FEFFA3E6E569
C/Internet/Content/Common/Lexikon/M/Minderheiten__deutsche__Id__19916__de.html)。おそらく彼ら
の中には状況に応じて機会主義的に民族帰属を変えることのできる人も多いので,数字を正確に確定する
のは,事実上困難であろう。
46
結 語
    −国境を越える「民族」の将来−
本報告では,アウスジードラー問題が移民問題としてだけではなく,在外ドイツ人問題の一変異
として,すなわちドイツの国境を越える「ネーション」問題の枠組み
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
の中で理解する必要があるこ
とを論じてきた。そのような枠組みで見ると,アウスジードラー受け入れの終止は,在外ドイツ人
問題の消滅
4 4
ではなく,変容
4 4
に過ぎないことが分かる。現に連邦共和国は,アウスジードラーの終止
に向かう方向性を打ち出すと同時に,在外ドイツ人マイノリティの援助策に乗り出していた。この
二つの政策には,不可分のつながりがある。
しかし戦後ドイツ人の「追放」と,その後のアウスジードラーの流れは,ドイツ人の人口学的分
布の状態に劇的な変化をもたらしたことも否定できない。戦間期には900万人近くいたドイツ人マ
イノリティも,現在は150万人にまで減少した。国境を越える「民族」(あるいは,ディアスポラ
民族)としてのポテンシャリティは,数量的に確実に縮小している。しかしながら,在外ドイツ人
マイノリティや「東方のドイツ」文化は,戦後の「追放」の歴史の記憶と共に,依然としてドイツ
の「ネーション」をめぐる問題の一角をなしている。この国境を越えたドイツの「ネーション」の
問題が,周辺諸国・諸民族との対立の火種になるのか,あるいはヨーロッパ諸民族の「架け橋」に
なるのか(連邦政府や被追放者諸団体は後者の面を強調するのだが),今後の展開を見ていかなけ
ればならない。
追記:この論文は,2006年11月26日に法政大学大学院付置ヨーロッパ研究所の研究報告会で配布した報
告資料に大幅な加筆修正を加えたものである。なお,本論文での研究にあたっては,平成18年度日本学術
振興会科学研究費補助金(基盤研究(C))(課題番号:18530406)の援助を受けた。
35
他方で,フランス型の出生地主義の要素を多く取り入れた1999年のドイツ国籍法改訂は,ドイツが,
政治的原理による「西欧型」の「完結したネーション・ステート」に変貌していることを示している。筆
者は,それがドイツのネーションの変容の主たる流れであることを否定しない。だがそれと並行して,国
境を越えた,「未完結」なネーションの伝統は,今もなお消滅してはいない。
47
国境を越える「民族」
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(インターネットからの引用・参照は脚注に直接記載した)
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BR-Ds=Verhandelngen des Deutschen Bundesrates: Drucksache, 1-[ドイツ連邦参議院議事資料]
BT=Verhandelngen des Deutschen Bundestages: Stenographische Berichte, 1.- Wahlperiode/1.- Sitzung[ドイ
ツ連邦議会議事録]
BT-Ds=Verhandelngen des Deutschen Bundestages: Drucksache, 1.- Wahlperiode/1-[ドイツ連邦議会議事資
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Reichling, Gerhart. 1986. Die deutschen Vertriebenen in Zahlen, Teil I: Umsiedler, Verschleppte, Vertriebene,
Aussiedler 19401985. Bonn: Kulturstiftung der deutschen Vertriebenen,
Wagner, Richard. 2000. “Ethnic Germans in Rumania,” in Stefan Wolff (ed.), German Minorities in Europe:
Ethnic Identity and Cultural Belonging. New York and Oxford: Berghahn Books.
Wolf, Adolf. 1993. Der Status des Spätaussiedlers nach dem Kriegsfolgenbereinigungsgesetz. Wiesbaden:
Kommunal und SchulVerlag.
Wolff, Stefan. 2000. “Changing Priorities or Changing Opportunities? German External Minority Policy,
19191998, in Stefan Wolf (ed.), German Minorities in Europe: Ethnic Identity and Cultural
Belonging. New York and Oxford: Berghahn Books.

〔ドイツの領土の変遷〕

北方領土問題の本質と対応 その12 大戦時の同盟国ドイツに学ぶこと
https://kirashuji.com/s/message/?p=303

『北方領土問題シリーズ第12弾です。

前回の第11弾では、平和条約締結ができなくても、4島の主権を主張し続ける選択肢と一部の島の主権を放棄することになるが、ロシア側が受け入れる可能性のある現実的選択肢を提示させてもらいました。

今回は、第二次世界大戦時、日本の同盟国であったドイツの戦後対応に学ぶべきことについてお伝えします。尚、下記するドイツの歴史については、東京大学名誉教授の坂井榮八郎先生(歴史学者、専門は西洋近代史、ドイツ史)の著書や講演録(1991年の学士会会報790号)を参考にしています。

1.東西統一に当たり固有の領土を永久放棄したドイツ

(1)現代ドイツが、現在のポーランドや東ドイツを領土とするプロシアから起こった国であることを考慮すると、1990年の東西ドイツ統一の際、ドイツは、日本でいえば奈良・京都ともいえるオーデル川、ナイセ川(オーデル・ナイセ線)以東の「プロシア以来の固有の領土」(プロイセンの東半分)をポーランドに永久に永久割譲しています。

(2)もう少し正確に解説すれば、第二次世界大戦後は東ドイツもポーランドも事実上ソ連の支配下におかれました。そのため、ソ連の意向のまま、ソ連・ポーランド間の国境とポーランド・東ドイツ間の国境は、現在に至る国境線で固定されました。この国境線固定により、ポーランドの固有の領土ともいえる同国の東の領土はソ連領となりました(現在のベラルーシの西側の領土に当たる)。

(3)当時の西ドイツは、東ドイツとポーランドの国境線となっていたオーデル・ナイセ線以東の、プロシア以来の固有の領土がポーランド領になっている状況を受け入れませんでした。

(4)しかし、何としても東西統一を実現したい西ドイツ(政府と国民)と東ドイツの国民は、ベルリンの壁崩壊後、大決断の上、「ドイツ・ポーランド国境条約」を締結し、オーデル・ナイセ線以東の固有の領土を永久放棄することにより、ポーランド、ソ連はじめ、関係諸国から東西統一の了解を得たのです。

この説明だけで理解しづらいと思いますので、ドイツ領土の変遷を示した地図、および、ドイツ・ポーランド国境条約の地図を含む詳細を以下のとおりご参照願います。

2.第二次世界大戦後のドイツ人の苦難

1985年に開催された「ナチス・ドイツ敗戦40周年記念日」において、当時の西ドイツのワイツゼッカー大統領が、世界中の人々に感銘をあたえた有名な演説を行います。

この演説の奥深さを理解するためには、第二次世界大戦直後のドイツ人が難民として味わった苦難の歴史を知る必要があります。

(1)ドイツは第二次世界大戦中のある時期、欧州全域を占領下においていました。敗戦後、特に東欧に住んでいたドイツ人は着の身着のまま即時追放ということになります。追放されたのは、ドイツ人だけではなく、ソ連がポーランド領東部を併合したことにより。そこに住んでいたポーランド人が追い出され、そのポーランド人が今度はドイツ人を追い出すという玉突き現象が生じたのです。
(2)このポーランド地域や、チュコ、ハンガリー、その他の地域を追われて難民化したドイツ人は1800万人です。第二次世界大戦後の世界全体の難民が3000万人といわれていますので、その2/3がドイツ人ということになります。また、東西統一前の東ドイツの人口が1600万人ですから、そのすさまじさがご理解戴けると思います。そして、この追放の過程で300万人が犠牲(死亡)になっています。
(3)ナチスの占領地における統治はあまりにも残虐でしたので、レジスタンス運動に代表されるナチスへの抵抗はすさまじく、ドイツの敗戦が濃厚となってからは、ドイツ人が倍返しで仕返しされるという悲惨な状況でした。
(4)ちなみに、ドイツは第二次世界大戦中に780万人(軍人400万人、民間人380万人)、ソ連は独ソ戦の影響で2000万人、ユダヤ人はホロコーストの影響で500万人、ポーランドは420万人、日本は310万人が犠牲になっています。
(5)独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻したことにより、2000万人の犠牲が出ていることは、ソ連の日ソ中立条約を破っての対日参戦や日本降伏後の北方領土の占領、実効支配が許されるものではありませんが、北方領土問題を議論する際には頭に入れておくべき事実です。

3.世界中に感銘を与え、ドイツ国民の心を打ったワイツゼッカー大統領の演説

1985年のナチス・ドイツ敗戦40周年記念日に、ワイツゼッカー大統領がおこなった演説の有名な一節を下記します。

(1)「過去を忘れる国民は未来をもたない」

(2)「戦後のドイツ難民の苦難は到底言葉には尽くせないけれども、その苦難の原因は、ドイツが戦争に負けたことにあるのではなく、ドイツが戦争を始めたことにある。このことを取り違えないでほしい」

(3)「今まで我々は国境をめぐって血を流してきた。しかし、これからの国境は諸国民をわけ隔てるものではなく、諸国民をつなぐ架け橋にならなければならない」

以上、ドイツの第二次世界大戦後の対応はいかがでしたか。

シリーズ第5弾で共有させてもらったように「北方4島は日本の固有の領土」であることは間違いがありません。しかし、大戦時の同盟国であったドイツは、その固有の領土、それも歴史的に心臓部にあたる領土を戦争の結果として失いました。そして、その固有の領土を永久放棄することにより、悲願の東西統一を成し遂げました。ポーランドは歴史的に何度か世界地図から消えることがありました。歴史的にはどこが固有の領土かわかりません。
世界の歴史を見る限り、「固有の領土」論は残念ながら説得力を持たないことがおわかり戴けると思います。
ドイツがそうであるように、固有の領土である北方4島を第二次世界大戦の結果、失ってしまった、という認識を持つことは、多くの批判を受けるかもしれません。しかし、歴史を含めて世界を見渡せば、それが冷徹な現実なのです。

またまた長くなりましたので、シリーズの最終回にあたる第13弾は次回にさせてもらいます。

吉良州司』

吉良州司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E5%B7%9E%E5%8F%B8

『吉良 州司(きら しゅうじ、1958年3月16日 – )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、院内会派「有志の会」代表。

外務副大臣(野田第3次改造内閣)、外務大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員長等を務めた。 』

ドイツが急転換「ウクライナへ戦闘車供与」のなぜ ロシアの侵攻から10カ月、軍事支援を一段と強化

ドイツが急転換「ウクライナへ戦闘車供与」のなぜ ロシアの侵攻から10カ月、軍事支援を一段と強化
https://news.infoseek.co.jp/article/toyokeizai_20230111_644946/

『ウクライナ紛争が長期化する中、フランスが軽戦車を供与すると発表したのに続き、ドイツも地上戦に有効な自国製の歩兵戦闘車の供与を表明した。ウクライナは紛争開始当初から戦車などの強力兵器の供与を求めていたが、西側諸国、とくにドイツはためらってきた。

今回の方針転換は紛争に一歩足を踏み入れたことになるが、欧州の安全保障にとって、過去にないレベルのドイツの指導力が問われるところだ。

フランスのマクロン大統領は1月4日、自国製の軽戦車(AMX-10RC)の供与をウクライナのゼレンスキー大統領に伝えた。提供される時期や台数は今後、明らかにされる。

翌5日、ドイツのショルツ首相は、アメリカのバイデン大統領との電話会談後、アメリカとドイツの双方がそれぞれ歩兵戦闘車を供給する意向を確認した。さらに地対空ミサイルシステム「パトリオット」を訓練プログラムとともに提供する。
強力な兵器の提供には消極的だったドイツ

西側諸国は10カ月以上もの間、ウクライナから戦車などの供給を求められながら控えてきたために、今回の決定は前例のない軍事支援の段階に入ったことを意味する。とくに強力な兵器の提供に消極的だったドイツの決断は注目されている。決定の理由は今後春にかけてロシアの攻撃激化が予想され、ウクライナの防衛能力強化が急がれるからと見られ、ウクライナは今回の供与を「偉大な勝利」と述べた。

ショルツ首相は従来、戦車であろうと他の重火器供与であろうと、ドイツ単独で支援しないことを表明していた。理由は第2次世界大戦でウクライナを挟んで歴史上最大規模の犠牲者を出した独ソ戦争の過去があり、ロシアを過度に刺激し戦争に巻き込まれる懸念があったからだ。

だが、フランスが軽戦車の供与を決定したことで、ドイツも「供与しない理由がなくなった」とドイツ公共TVのZDFは指摘した。マクロン氏の決断で「タブーが破られた」ともドイツの専門家は指摘した。

ドイツはこれまでも間接的ではあるが、ウクライナがスロバキア、チェコ共和国、スロベニア、ギリシャから旧ソ連の戦車を受け取り、その後、より近代的なドイツの装備を受け取る取引には参加していた。ソ連製戦車は訓練の必要がないうえに、ドイツ製の戦車や歩兵戦闘車を提供することによって、ロシアをいら立たせることも避けられたからだった。

ウクライナは紛争開始当初から、戦車や空からの攻撃に対処するため防空圏を守る戦闘機の供与や軍艦の供与を今も期待しており、軽戦車や歩兵戦闘車の供与は第1段階にすぎない。』

(※ 以下、省略。4ページある)