ノモンハン事件

ノモンハン事件
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 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ 相当に長いので、ごくごく一部だけ紹介する。

『ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。

1930年代に、満州国、後に日本(大日本帝国)と、満州国と国境を接するモンゴルを衛星国にしていたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つ。第一次(1939年5月 – 6月)と第二次(同年7月 – 9月)の二期に分かれる。

満州国軍とモンゴル人民軍(英語版)の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。 』

『情報管理

ノモンハン事件当時の日本陸軍の情報統制は厳しく、ノモンハン事件の情報についても管理されていた。憲兵隊が新聞などのマスコミ報道や、手紙・電報などの私書について検閲を実施し、それを毎月データ化して関東憲兵隊に報告し、関東憲兵隊はそれを取りまとめて『検閲月報』という極秘資料を作成していた。1938年は年間の総頁は550頁であったが、これがノモンハン事件が始まると1939年には1200頁に倍増した。太平洋戦争開戦後の1942年には4900頁まで激増したが、戦局が悪化すると検閲の余力も無くなったのか1944年には1300頁、1945年にはたった130頁にまで減少している[388]。

事件当時の新聞などの報道では、日本軍の苦戦や損害に対する記事は検閲される一方で戦果と武勇伝が強調され、新聞紙面上からは日本軍が苦戦している状況は微塵も感じられなかった[389]。私書についても同様で、日本軍が苦戦していることが判るような表現や、日本軍や兵器の問題点を指摘した記述は削除されていった[390]。

しかし、膨大な私書全てを検閲し削除や差し押さえできることは困難で、例えば1939年8月には667,502通の電報と682,309通の郵便に検閲を実施したが、何らかの処置を行った数は電報で1,345通、手紙で793通に過ぎず、それぞれ処置率は電報0.2%、手紙0.11%とごくわずかな数に過ぎなかった[391]。この中で最も多かったのが『防諜上要注意通信』で、検閲処置がなされた郵便793通の内の295通がそれに該当し37%の構成率であったが、その中でも、軍の作戦行動や移駐に関するものや、部隊の固有名を記述したものなど、通常の軍事機密に関する検閲が多数を占めた[392]。

また、満州で事業を展開していた日本の建設業などの事業者には情報が筒抜けだったようであり、ハルハ河渡河戦に失敗後、司令部に戦況を報告するためハイラルに立ち寄った関東軍参謀の辻は、兵站宿舎で休憩していたところ、隣室で建設業者らが酒で酩酊しながら「軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨てておる、阿呆な奴じゃ」と大声で騒いでいるのを聞くや激高し、その部屋に乗り込むと、建設業者ら数名を殴り倒している[393]。

情報を全て遮断することは困難であったため、ノモンハンは負け戦だったという噂が兵士のみならず一般国民にも広がりつつあった[394]。さらに、多くの参戦者やジャーナリストからの見聞記が多数出版され、中には中隊長であった草葉栄の著作『ノロ高地』のように100万部以上のベストセラーも生まれるに至って、陸軍は部外からの問い合わせに備えるための質疑応答集である「ノモンハン事件質疑応答資料」を作成した。その中に「民間に相当広くデマの流布せられたる現在、何故、詳細なる発表を行わざるや」という想定質問があったのを見ても判る通り、国民の間にかなりノモンハンの敗戦や苦戦の情報が広まっていた[395]。

その後、1939年10月3日になって日本陸軍は当時としては異例の自軍の損害の公表に踏み切った。まずは地方官会議で発表され、翌日に各新聞で報道された。その報道では日本軍の死傷者は18,000名とされていた[9]。当時、陸軍は自軍の死傷者を正確に発表することはなかったが、この18,000名という死傷者数は戦後に日ソの多くの資料によりほぼ正確な数字と判明しており、陸軍が敢えて日露戦争の旅順攻囲戦並みの衝撃を与える覚悟で正確な損害の公表に踏み切った理由は、このまま負け戦という噂が広まるより、我が方も損害は大きかったが、敵にも大損害を与えた“痛み分け”だったという情報を開示して、国民の士気を引き締めようという計算があったのではと推測されている[394]。さらに『朝日新聞』は「軍当局がノモンハン事件から今後の軍事訓練を改善すべき必要があるとの教訓を学び、十分考察した。軍は最大限機械化部隊で満たす必要がある」とする自戒と教訓についても述べるという異例ぶりであった[396]。

この記事の反響は大きかったようで、師団長の小松原には多くの批判の投書が寄せられている。小松原がその内の「愛児を失った父親」からの投書を自分の日記に引用しているが「ノモンハンの大事件は、国民一般、実に悲痛の思いにて、真相を知り其の責任者(平野で、ソ軍の大部隊の集結を気付かず、陛下の赤子を、多数失いたる実相)の男らしき弁明を、ほめ居候」との記述で、小松原らがソ連軍の総攻撃を事前に察知できなかったことについて認識している。また、小松原が満州から帰京する前日に熱海に一泊したことも知れ渡っており「戦塵を、熱海に悠々洗う、実に馬鹿馬鹿しき悪習慣に…戦塵洗いを、止めて下さい(有りもせぬ塵、兵隊さんは一体どうするのですか)」などと強い批判も書かれている[397]。

その他にも、苦戦や敗戦を十分に連想できる吉丸、大内、森田の3大佐に東中佐の4名の指揮官級の佐官の戦死も新聞紙面で報道された。その記事では後年、硫黄島の戦いで戦死する栗林忠道大佐が、陸士第26期の同期であった4名への追悼の言葉を送っており、陸軍が主導してこの記事が掲載されたことが窺える[398]。

既にこの時点では、翌1940年2月28日の帝国議会の決算委員会において福田関次郎議員が畑俊六陸軍大臣に「ノモンハンにおいては、色々と総合して見てますと、どうも日本の、軍装備に、欠陥があったのではないか、斯う云う風に見られるのであります」と質問したことでも判る通り[399]、ノモンハンの敗戦や日本軍の問題点についてはかなり広く認識されていた。

ノモンハンの戦いについては、その敗戦を陸軍は国民にひた隠しにしたという主張が目立つが[400]、逆に、情報が広まったことによる後追い的な情報開示とはいえ、当時の日本としてはむしろ意図を持って積極的に情報を開示した戦闘であった。 』

『ソ連軍の損失

人的損失

ソ連は従来、イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定を大きく膨らませる一方で、自軍の人的損害を故意に小さく見せようとしてきた[524]。冷戦下で、ジューコフの報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編集した『大祖国戦争史(1941〜1945)』といった、ソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデータが広く知れ渡り、ソ連側の一方的勝利が定説化する大きな要因ともなった[525]。

その定説が大きく覆されるきっかけとなったのが、ソ連の共産主義独裁体制が崩壊した1990年前後であり、グラスノスチにより次々とソ連軍のかつての極秘資料が公開される度に、ソ連軍の人的損害が激増していき、ついには日本軍の損害をも大きく超えていたことが判明し[526]、ソ連が情報を意図的に操作していたことが明らかになっていった[527]。

ソ連・モンゴル公表人的損失数の推移表[6] 軍隊 出典 日付 死亡・行方不明 捕虜 戦傷 総計

ソ連軍 タス通信[528] 1939年10月 300名 – 400名 900名 1,200名 – 1,300名
ジューコフ報告書 1939年11月 1,701名 7,583名 9,284名
極東国際軍事裁判判決文 1948年11月 9,000名
大祖国戦争史(1941〜1945)[529] 1960年 9,284名
ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告[12] 1991年8月 4,104名 94名 14,619名 18,815名
戦争、軍事行動および軍事紛争におけるソ連軍の損害[530] 1993年 7,974名 15,251名 23,926名
20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析[18][531] 2001年 9,703名 15,952名 25,655名
モンゴル軍 ロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐の報告[12] 1991年8月 165名 401名 566名
モンゴル戦史研究所 2001年 280名 710名 990名

2016年時点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害は下記の通りである。

ソ連軍戦死:9,703人[16]
戦傷:約15,952名[16](約16,000名とする見解もある)
    ソ連軍合計:約25,655名[16][531][18]
モンゴル軍死傷者990名[18]
    ソ連軍・モンゴル軍合計:26,645人[16][18]。

ソ連軍の損失率はノモンハン事件の全期間を通じて高い水準で推移し、投入兵力に対するソ連軍の損失率は34.6%の高い水準に達した。これは同じソ連軍の攻勢における損失で、後の第二次世界大戦での東部戦線の激戦の一つであるクルスクの戦いにおける、最大の激戦地区となった南部戦区の損失率13.8%を大きく上回る損失率となっている[532]

日本軍は事件直後には、ソ連軍の損害を比較的正確に把握していた。停戦後1939年10月17日に参謀本部作戦課長稲田正純大佐らが纏めた報告書『ノモンハン事件に関する若干の考察』にて、「(ソ連軍)人員ノ死傷ハ恐ラク弐萬に及ビ」とソ連軍の死傷者は20,000名前後だと捉えていた[533]。

事件当時、あまりにも莫大に発生したソ連軍の戦傷者を寝かせるベッドが全く足らず、ノモンハンに近いソ連の都市チタは負傷者で病院は満杯となり、溢れた負傷者はイルクーツクや西シベリアの各都市に送られ、さらにはソ連の欧州部であるクリミア半島やコーカサスにも送られている[503]。その様子をソ連の駐在武官補佐の美山要蔵中佐が目撃しており「ソ連軍も相當な損害を得まして、シベリア極東方面の病院には概ね九千余名を収容しております。尚モスコウ(モスクワ)方面には医者を要求しているし、駅の待避線に入っている病院列車を見ます」と報告している[534]。

装甲車輌損失
鹵獲したソ連軍のBT-5戦車・FAI装甲車の上で万歳斉唱する日本軍兵士

車種別損失数[535] 兵器名 損失数 備考
BT-7 59 通常型30・無線機搭載型27・火力支援型2
BT-5 157 通常型127・無線機搭載型30
T-26 20 通常型8・kHT-26化学戦型10・kHT130化学戦型2
T-37 17
BA-3 8
BA-6 44
BA-10 41
FAI装甲車 21
BA-20 19
T-20 9
SU-12 2
合計 397

これ以外にも多数の戦車・装甲車輌が撃破され修理されたが、数が膨大で特定は困難である[535]。また、ソ連軍の装甲車輌の損害は800輌以上とする見解もある[531]

航空機損失
撃墜されたソ連軍戦闘機I-15bis
機種別損失数[17] 兵器名 損失数 備考
I-16 109 うち4機が翼内にShVAK機関砲 2丁を搭載したI-16P型
I-15bis 65 I-15の改良型
I-153 22
SB-2 52
TB-3 1
R-5 2
合計 251 うち非戦闘損失43

日本軍による戦果報告では航空戦にて撃墜したソ連軍機は1,340機とされ[328]、航空戦のほかにも高射砲攻撃で180機、戦車で26機、歩兵攻撃で3機が撃墜したと報告した[531]。日本軍は事件後も1300機撃墜を喧伝し、地上では負けていたものの航空戦は例外的勝利だったと主張、その認識は戦後も消えなかった[536]。第24戦隊長だった梼原秀見少佐は「確実撃墜じつに1200機を越え、我が方の損害50機足らず…類例のない嘘のような事実」と揚言し、従軍記者の入江徳郎は1958年に発売した著作「ホロンバイルの荒鷲」で「空中戦では文字通り圧倒していた」と回想した[536]。しかし、1980年代以降には航空戦の実態が明らかとなっていき、飛行第11戦隊所属の滝山和大尉が「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は劣勢」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と証言した[536]。ソ連邦崩壊後は被害の実態が明らかとなった。ソ連空軍の被害は戦闘損失207機で、日本の損失176機との比率は1対1.2であった[537]。ただしこの比率はソ連側の戦闘損失と日本側の大破・未帰還数を比べた結果であり、両軍の分類基準が異なる以上単純な比較は出来ないともされている[536]。』