米国独立の裏側で暗躍した3人のインテリジェンスの父

米国独立の裏側で暗躍した3人のインテリジェンスの父
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28877

『1997年に米中央情報庁(CIA)は、米国の「インテリジェンスの父」として、3人─ジョージ・ワシントン、ジョン・ジェイ、ベンジャミン・フランクリン─の名前を挙げている。いずれも米国の建国に貢献した偉大な政治家だ。しかし、崇高な理念だけでは国家は建設できず、そこには国家間の権力闘争やインテリジェンス活動など、裏の活動が必要不可欠であった。

現実主義に徹した米国の初代大統領

 ワシントンは20代の頃、英国植民地政府のスパイとして、オハイオ駐留の仏軍の動向を探るべく派遣されたことが、インテリジェンスの世界に足を踏み入れるきっかけとなった。

 そして彼が米国独立戦争で総司令官となると、軍事費の10%を情報にあて、敵の動静を掴むための情報網を構築したのである。現在、欧米諸国は国防費のおおよそ5〜10%をインテリジェンスに割いているので、ワシントンの予算配分はかなり適切なものであった。

 ワシントンは米軍で初となる情報部も創設した。これは「ノールトン・レンジャーズ」として知られている偵察部隊で、ここに所属していたのがネイサン・ヘイルという21歳の大尉であった。
ネイサン・ヘイルが残した言葉は、軍人やインテリジェンス・オフィサーに求められる倫理に昇華され、現在も語り継がれている(BUYEN_ARGE/GETTYIMAGES)

 ヘイルは英軍占領下のニューヨークで活動していたが、最後は英軍に捕まり、スパイとして処刑されている。彼はスパイとして大きな功績を残したわけではないが、「私はこの国のために失う命が一つしかないことを悔やむだけだ」と言い残して処刑されたことで歴史に名を刻んだのである。

 彼の言葉は軍人やインテリジェンス・オフィサーに求められる倫理に昇華され、その後、CIAをはじめとする公的機関にヘイルの銅像や肖像画が置かれるようになったのである。

 ヘイルの活動は英軍に妨害されたものの、ワシントンのスパイ網は英軍内に着々と築かれていた。1780年7月、「レディ」と呼ばれたあるスパイが英軍の極秘計画をもたらしている。

 これはロードアイランドに到着するフランスからの援軍(当時、米仏は同盟国)を、ニューヨーク駐屯の英軍によって迎撃するという内容であった。この情報を得たワシントンは、即座に米軍がニューヨークに侵攻するという噂を流し、さらに現実味を加えるため、彼の部隊をニューヨーク郊外まで行進させた。この噂を信じた英軍は策略にはまり、ニューヨークの部隊をロードアイランドへ移動させることができなかったのである。

 ワシントンは初代米国大統領就任後も、インテリジェンスを重視した稀有な政治家であった。彼は国家予算の12%を機密費にあてているが、決して議会に対してその詳細を説明することはなかった。

 この慣習は現在にも受け継がれているが、ワシントンの後継者たちはその情報運用については学ばなかったようである。

 ワシントンといえば、父が大事に育てていた桜の木を斧で切ってしまったことを自ら打ち明けて称賛されたエピソードが有名なように、正直な人物であるというイメージが強い。

 しかし、このエピソードは後世の創作であり、真実のワシントンはインテリジェンスに秀でた現実主義的な人物であったのである。』

『総合力で勝ち取った強大な国からの独立

 ジョン・ジェイはワシントン政権で、最高裁判所長官やニューヨーク州知事を務めた政治家だが、同時に、国内の防諜にも貢献した。初期のキャリアは、同州議会のメンバーとして、英国勢力の浸透を阻止することだった。彼は「英国の陰謀対処のための委員会」の長となり、10人前後の捜査官を率いて英国のスパイや秘密工作活動を摘発していた。

 当時、英国植民地政府は、米国の独立派リーダーの排除を計画しており、ワシントンのボディーガードも買収されて彼の命を狙うようになっていたが、ジェイの組織はこれを未然に防ぐことに成功した。そこで頭角を現したのが、イーノック・クロスビーだった。クロスビーは「ジョン・スミス」という、英語圏ではよくある名前で英軍の下部組織に加わり、英軍の作戦計画について貴重な情報を多くもたらした。

 ジェイは合衆国憲法の基となった「フェデラリスト・ペーパーズ」起案者の一人であり、その中には、彼の信念が記されている。「交渉の過程では、完全な秘密保持と迅速な処理が要請されることがしばしばある。情報を握っている者がそれを露見させる心配がなければ、もっとも有益な情報を入手し得るだろう」。

 ベンジャミン・フランクリンは科学者として著名で、政治家も務めた多才な人物である。フランスを米国の同盟国とすることに尽力し、インテリジェンス分野では主にプロパガンダや秘密工作を担当した。彼は米国の特使として、1776年12月にパリを訪問しているが、その際、反英プロパガンダを自らの手で作り、欧州各国の大使や軍人に広める工作を行っている。

 彼の偽情報でよく知られるものの一つに、英国が戦場で負傷したドイツ兵にきちんとした報酬を払わず、見殺しにして死亡金だけを払っている、というものがあった。当時、ドイツ語圏のいくつかの領邦国は米国に兵士を派遣し、英軍とともに米軍と戦っていたのである。この偽情報は米国に派遣されたドイツ兵にも広まり、多くの逃亡者を出した。対して駐仏英国大使も米国に関する偽情報を流布していたが、フランクリンの方がはるかに上手だった。

 さらに彼はボストンの新聞に、カナダの英国人総督がインド兵に対して米国兵士の頭皮を収集することを依頼した、というでっち上げの記事を掲載し、英国本国で問題視されるようになる。

 またパリにおいて、フランクリンはエドワード・バンクロフトという、ロンドン在住の米国人をスパイとして雇い、彼から英仏に関する多くの情報を入手していたが、バンクロフトは英国の情報機関にも通じていた二重スパイでフランクリン側の情報も英国に漏洩していた。ただしフランクリンはバンクロフトへの警戒も怠らず、英国に接触していたことに気づいていたようである。

 独立戦争時における米国建国の父たちのインテリジェンス活動は、それぞれが独自の判断で始めたものである。彼らは、強大な英国を打ち倒すためには、軍事力だけではなく、外交やインテリジェンスなどを駆使しなければならないことをよく理解していたのである。』