フィジー

フィジー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%BC

 ※ 一部のみ抜粋して、紹介する。

『歴史

旧首都レブカ(1842年)
詳細は「フィジーの歴史(英語版)」を参照

伝説によると、フィジーに人が住み始めたのは約8000年前メラネシアンがカヌーでビティレブ島西海岸のヴダ岬に上陸したのが始まりであるとされている。フィジー最古の都であるヴィセイセイはルーツナソバソバ (Lutunasobasoba)によって造営された[3][4]。その後、トンガ人が移り住み、ポリネシア文化の影響を受けた。

紀元前1300年以前と推定される土器類がビティレブ島から発掘されている。

1643年、オランダのタスマンが北部に上陸。
1774年、イギリス人航海家のクックが南部に上陸。
1874年、イギリスの植民地となる。
1881年、ロツマ島がイギリスの植民地となる。
1879年、イギリスは1916年まで[注 1]砂糖のプランテーションのため大勢のインド人契約労働者をフィジーに移民させる。その多くはフィジーに定住し、フィジー社会を劇的に変化させる事になる。
1913年、アポロシ・ナワイによってフィジー系住民の民族運動「ヴィチ・カンバニ運動」が始まる。
1970年、英連邦王国として独立。ロツマ島を保護領とする。
1987年、ティモシー・バヴァドラ(英語版)首相が政権をとるが、5月と9月にシティベニ・ランブカ陸軍中佐によるクーデターが起こり10月に共和国宣言をし、イギリス連邦を離脱。
    同年10月、ロツマ島出身の空手家で王位を自称していたヘンリー・ギブソンが移住先のニュージーランドでロツマ共和国の独立を宣言。同年12月に鎮圧される。
1990年、フィジー系の憲法を公布。
1997年、改正憲法公布。イギリス連邦に再び加盟。
1998年、国名をフィジー諸島共和国に変更。
1999年、5月の総選挙によりインド系マヘンドラ・チョードリー(英語版)首相就任。労働党を中心とする政権誕生。
2000年、5月ジョージ・スペイト率いる集団がチョードリー首相を人質に国会議事堂を2か月占拠し(国会占領事件)、軍が戒厳令を発令し、7月フィジー系ライセニア・ガラセを首班とする文民暫定政権が発足する。
2001年、9月総選挙を行う。ガラセ首相就任。
2006年、5月ガラセ首相再任。12月にフランク・バイニマラマ軍司令官によるクーデター。以降、ニュージーランド・オーストラリア・EUなどが援助停止や入国禁止などの圧力を加えるのに対し、中国が援助を急増させる[5]。
2007年、1月パイニマラマは暫定内閣の首相に就任。総人口に占めるインド系の割合は36%まで落ち込む。
2009年、4月9日に高裁が軍事政権を違法と判断。10日にジョセファ・イロイロ大統領が憲法を廃止し、バイニマラマ軍司令官を暫定首相に就任させた。民政復帰の選挙は2014年まで延期。
2009年、5月2日に太平洋諸島フォーラム(PIF)が、民主的選挙の未実施を理由にフィジーのメンバー資格停止を発表[6]。
2009年、7月28日にイロイロ大統領が健康上の理由から近く退任すると発表。後任にはエペリ・ナイラティカウ副大統領が就いた。
2009年、9月1日にイギリス連邦(コモンウェルス、53カ国)が、2010年10月予定の民主的選挙の未実施を理由にフィジーのメンバー資格停止を発表[7]。
2011年、2月に国名をフィジー共和国と改称。
2013年9月新憲法公布。
2013年12月19日 ベンガ島ルクア村電化プロジェクトが完了。
2014年9月17日 フィジー議会総選挙(英語版)。バイニマラマ暫定首相率いる政党フィジーファーストが大勝。これにより民政復帰。これを受けPIFもメンバー資格停止を解除した[8]。
2014年9月29日 イギリス連邦に復帰。』

『政治

詳細は「フィジーの政治(英語版)」を参照

パプアニューギニアと並ぶ南太平洋の島嶼国のリーダー。

大統領を元首に戴く象徴大統領制(英語版)、首相が行政権を掌握する議院内閣制で、議会は一院制で任期4年、定数は50。更にフィジー全土を一つの選挙区としたオープンリスト比例代表制となっている。選挙権は18歳から[9]。

以前は二院制であったが、2013年の新憲法公布により一院制へ変更された。

2014年9月まで軍事政権。軍事政権は、2009年3月に民政復帰のための総選挙を実施するとしていたが、延期されていた。

2009年4月高裁が軍事政権を違法と判断を下したため、イロイロ大統領は憲法を廃止して自らが政府の実権を握ったと言明し、バイニマラマ軍司令官を暫定首相に再任し、国内に30日間の非常事態宣言を発令し、総選挙を2014年に先送りすると表明した。

軍事政権はメディアへの検閲を開始し、オーストラリアABC放送の記者らを国外退去させた。市民生活は通常通り。2013年に新憲法を2014年9月に総選挙を実施、フィジー第一党が過半数の議席を獲得し、バイニマラマ首相が再任された。その後、2016年9月の内閣改造に伴い、バイニマラマ首相は外相も兼任[10]。

「フィジーの憲法(フランス語版)」および「2013年フィジー憲法(英語版)」も参照

一方、イギリス国王を元首に戴く立憲君主制への復帰も検討されているが、英連邦王国の一部であったカリブ海地域国家のバルバドスが2021年11月30日に共和制へ移行したことにより、その件で今後のイギリス国王の影響力などを踏まえながら動く姿勢が同地域から見え始めている[11]為、余波を考慮すれば立憲君主制への復帰の可能性は現時点で定かとは言えない。 』

『外交・国際関係

フィジーは伝統的に、日本やオーストラリア、ニュージーランドなど、アジア・太平洋諸国との関係を重視してきたが、軍事政権樹立後は民政復帰や民主化への対応をめぐって内政干渉を行うオーストラリアやニュージーランドと対立している。遂には、両国大使のフィジーからの退去を命ずる一方[12][13]、オーストラリアとニュージーランド政府もフィジー大使の国外退去を命じる局面もあった。

一方、多数の国際機関に加盟している国家の一つとしても知られており、その機関の数はかなり多いものともなっている。同国が参加している国際機関は以下。 (※ 省略)』

『オーストラリアやニュージーランドとの関係

オーストラリアやニュージーランドとの貿易額はシンガポールについで大きく、フィジーはオーストラリアから小麦粉や食料品その他を輸入している。ニュージーランドからは牛乳や肉その他食料品の輸入が多い。フィジーにはビジネス目的に暮らしているオーストラリア人やニュージーランド人も多く、Fiji Australia Business CouncilやFiji New Zealand Business Councilもある。

貿易以外では、フィジーのリゾートはオーストラリア人やニュージーランド人による経営が多く、Fiji Australia Business Councilは、オーストラリア政府のフィジー政府に対する姿勢をビジネス促進に対する障害として批判する発言をしたこともある。
日本との関係

太平洋戦争以前には、フィジーへの日本人移民の導入が試みられていた。しかし病気(脚気)が原因で定着せず、太平洋戦争の勃発によって中断された。日本軍とフィジー軍は太平洋上で戦闘状態になったものの、フィジー本土上陸戦は行われなかった。現在も太平洋戦争に備えた防塁等防御構築物の跡は残されている。1970年(昭和45年)の独立を日本も承認し、1979年にはスバに在フィジー日本大使館が開設された。在日本フィジー大使館は1981年に東京都に開設され、1990年(平成2年)には大阪に、2012年には横浜にそれぞれ名誉領事も任命している。フィジーはラグビーが盛んで、日本で活躍するラグビー選手もいる[14]。また、公用語が英語で費用が比較的安価であることから、語学留学先としての人気もある。

中国の進出

オーストラリアとニュージーランドの度重なる内政干渉による圧力のため、近年フィジー軍政は新たな活路として中国との関係を強化している。以前は、ほとんどいなかったとされる中国人がフィジーを訪れるようになり、年間1万人にまでになった。このため首都スバ市内には中国人経営の店舗が拡大している。2010年にはエアパシフィックとキャセイ航空の共同運航で香港から直行便が就航した。中国人は首都スバにいくビジネスマンが大半で、フィジー本島西部ナンディではあまり見かけない。

また、フィジー各地で中国の援助による建築やインフラ整備が進み、娯楽施設や幹線道路、水力発電所を建設している。

中国がフィジーに援助をする狙いは、豊富な漁業資源の獲得にあると見られている。理由は中国の経済成長により、国内のマグロ消費量が多くなっていることがあげられる。近年、中国の遠洋漁船がスバ港で多く見られるようになり、今では7割の外国船が中国の漁船である。また、フィジー最大の水産企業は中国の国営企業3社で、27隻のマグロ漁船で5分の1のマグロを水揚げしている。この国営企業はフィジー軍政のバイニマラマ首相とも太いパイプがある[15]。

2010年1月、中国政府はフィジー大統領府の敷地を囲む塀の無償援助をフィジー政府に約束した[16]。塀の工事は中国の中鉄五局グループ(大手ゼネコン中国中鉄グループの一員)が請け負った[16]。長さ2.4キロメートルの塀は2011年2月に竣工した[17]。

2021年から始まった中国・太平洋島嶼国外相会議に参加。2022年5月30日に開催された第二回会議はフィジーが開催国となり、バイニマラマ首相兼外相と王毅国務委員兼外相が共同議長を務めた[18]。

領土問題

フィジーの南、トンガの南西およそ400kmにあるミネルバ・リーフの領有権を主張している。ミネルバ・リーフにおいては1972年1月にユダヤ系アメリカ人のマイケル・オリバーがマイクロネーションとしてミネルバ共和国の独立を宣言したが、周辺のフィジー、トンガ、ナウル、西サモアとクック諸島自治政府は、オーストラリアやニュージーランドと協議し同年6月にトンガ軍が上陸し占領した。しかし翌月フィジー軍が上陸し領有権を主張、このときはトンガの正式な領有権主張を認めたフィジー政府だったが、再び領有権を主張し2005年国際海底機構に提訴した。また、ミネルバ共和国の後継を主張するメンバーがミネルバ公国として再度領有権を主張するなど混乱が続いている。』

『国民

フィジー系の女性(1935年)
詳細は「フィジーの人口統計(英語版、スペイン語版)」を参照

2020年時点での人口は89万6千人であり、オセアニアではオーストラリア、パプアニューギニア、ニュージーランドに次ぐ4番目の人口を有する。

人種・民族

2007年時の住民は、フィジー系が56.8%、インド系移民が37.5%[21]、ロツマ人1.2%、ヨーロッパ人や他の太平洋の島民、華人などが4.5%である[22]。

フィジー系とインド系

フィジーの住民は、先住民であるフィジー系と、イギリスが植民地時代に強制入植させた新しい住民であるインド系が多数を占める。リトル・インディアの相を呈する。19世紀の後半、西洋との接触でもたらされた伝染病が原因で、フィジー人絶滅の危機にさらされた。宗主国のあいだで奴隷制を終焉させ、先住民保護思想が広がっていたので、宗主国イギリスは人種絶滅を避けるためサトウキビ・プランテーションの契約労働者としてインド人導入政策をとった。こうしてインド人移民が始まったのである。1879年479人が移民した。[23]

フィジー系のみで構成される伝統的社会指導者評議会 (GCC) による大統領任命が行われるなど、歴史的には政治面でのフィジー系の優遇政策がとられてきたが、ビジネスに長けたインド系へのやっかみもある。1999年5月の総選挙でインド系首相が就任したが、2000年5月にフィジー系の政治的優位の強化を主張する武装勢力によるクーデターが発生した。ただし、現政権によってGCCは廃止された。

ライセニア・ガラセ政権がフィジー系・インド系の対立の改善を図るが、2000年のクーデターでフィジー系の攻撃標的にされた軍司令官が宥和政策の実施を行うための法律は、実は2000年クーデター参加者の特赦が目的であると、これを拒否、2006年12月ガラセ首相を強行解任。大統領が司令官の方針に同調。

近年はフィジー系とインド系の結婚が進み、混血も多い。 現政権はフィジー系とインド系の融合で、現政権のトップはフィジー人のバイニマラマであるが、国のナンバー2である司法長官はインド系の元弁護士カイユン(本名:アイヤズ・サイェド=カイユーム/Aiyaz Sayed-Khaiyum)である。カイユンは2011年3月にフィジー系女性と結婚した。

言語

言語は、英語、フィジー語、ヒンディー語(フィジー・ヒンディー語)が公用語。

婚姻

フィジーでは結婚は「家族を作ること」ではなく「個人間の同盟である」と認識されている。その為、婚姻は親側の承認が先に出ないと成立させることが不可能となっている。

同国の結婚は伝統的なものと現在一般的となっている欧米式のものの2種類に分かれている。伝統的な結婚式は地域と種族により、その内容が異なる特徴を持つ。

伝統に基づくものには色々な儀式が必要とされており、地域によっては結婚式後の場合に行なわれる事もある。

殆どの場合は、男性は先に好きな女性の父親の許可を貰いに向かうことが多く、一般的に男性と同じ氏族の男性はクジラの歯を持って、女性の父親を訪ねる仕来りとなっている。
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