併合4州の統合推進指示 ロシア大統領、経済発展に自信

 ※ 今日は、こんな所で…。

併合4州の統合推進指示 ロシア大統領、経済発展に自信
https://www.47news.jp/world/8696878.html

 ※ 『生活やインフラの水準をロシアの他地域と同じレベルに引き上げる社会経済発展計画を来年3月末までに策定するよう政府に指示』…。

 ※ 侵攻して来たロシア兵が、ウクライナの「生活水準」の高さに驚愕して、家電やパソコンなんかを略奪しまくった…、中には「5トンもの荷物を作った」兵士もいた…、という話しもあるんだが…。

 ※ 併合4州は、発展の遅れている地域なのか…。

『ロシアのプーチン大統領は15日、9月に併合を宣言したウクライナ東部・南部4州の生活やインフラの水準をロシアの他地域と同じレベルに引き上げる社会経済発展計画を来年3月末までに策定するよう政府に指示、併合地域の統合を進める決意を改めて表明した。非欧米諸国との関係強化で国際的孤立は回避できるとし、欧米の制裁下での経済発展に自信を示した。

 ロシアによる4州併合を認めないウクライナの意向を無視した形で、欧米の反発は必至。』

連合会長「許容できない」 国民民主の連立政権入り

連合会長「許容できない」 国民民主の連立政権入り
https://www.47news.jp/politics/8696204.html

『連合の芳野友子会長は15日の記者会見で、国民民主党が自民、公明両党の連立政権に加わるとの見方を否定した。「今の段階では(連立政権参加を)許容できない」と述べた。自民が公明との連立政権に国民を加える案を検討しているとの一部報道に関連し答えた。国民にとって、連合は最大の支援組織。

 国民の榛葉賀津也幹事長から「誤報だ」と連絡が来たことを明かし「関係者全てが否定しており、それを受け止めたい」と強調。「立憲民主、国民両党とは連携方針を確認している」として、来春の統一地方選や将来の国政選挙では協力していく考えを示した。』

海保強化、「自衛隊と連携」明記 3文書改定で新方針

海保強化、「自衛隊と連携」明記 3文書改定で新方針
https://www.47news.jp/politics/8697842.html

『政府は16日、安全保障関連3文書の改定に合わせ、自衛隊との連携強化を盛り込んだ新たな海上保安庁の能力強化方針を決定した。自衛隊との関係は「それぞれの役割分担の下、あらゆる事態に適切に対応する」と明記。有事の際に防衛相が海保を指揮下に置く「統制要領」の策定やこれに基づく共同訓練の充実を図るとしている。

 岸田文雄首相は、首相官邸で開いた関係閣僚会議で「日本の海の安全を守り抜くため、関係省庁の持てる力を結集する」と表明。海保は、安保3文書改定に連動し、自衛隊との結びつきを強める形になる。海上保安庁法25条は非軍事性を定めており、整合性を問われる可能性もある。』

域内産業の保護へかじ EU、補助金ルール見直しへ

域内産業の保護へかじ EU、補助金ルール見直しへ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022121600434&g=int

 ※ 保護主義は、保護主義を呼ぶ…。

 ※ そうやって、貿易総額は、どんどん縮小して行く…。

『【ブリュッセル時事】欧州連合(EU)は15日、ブリュッセルで首脳会議を開き、気候変動対策やデジタル移行を促進するため、域内産業の補助金に関するルールを見直すことで一致した。欧州委員会が1月にも新たな方針を示す見通しだ。』

EU、ボスニア・ヘルツェゴビナを加盟候補国に

EU、ボスニア・ヘルツェゴビナを加盟候補国に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR160I80W2A211C2000000/

『【ブリュッセル=竹内康雄】欧州連合(EU)は15日の首脳会議で、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナに、将来のEU加盟の道を開く「加盟候補国」の地位を付与することを承認した。ロシアへの追加制裁やウクライナ支援の拡充でも合意した。

加盟候補国には、ウクライナとモルドバも6月に承認された。ロシアの脅威に直面するウクライナを早期に承認したことから、長年にわたってEU加盟を希望しているバルカン諸国の不満が高まっていた。

バルカン半島ではロシアや中国の影響力が増しており、EUはバルカン諸国に寄り添う姿勢を示すとともに、加盟交渉を加速させる考えだ。

一方、ロシアへの追加制裁でも合意した。合意内容は明らかになっていないが、欧州委員会は12月上旬にロシアへのドローン関連のエンジンの輸出禁止や、一部銀行への全面的な取引禁止などを提案していた。

ウクライナには2023年に180億ユーロ(約2兆6000億円)の財政支援を供与することを確認した。ウクライナのゼレンスキー大統領は首脳らの前でビデオ演説し、「次の6カ月はさらに努力する必要がある」として防空システムやインフラ整備といった支援を求めた。』

[FT]「ロシアは戦争目的を果たせず」 英国軍参謀総長

[FT]「ロシアは戦争目的を果たせず」 英国軍参謀総長
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB1626G0W2A211C2000000/

『ウクライナ戦争ではロシアの敗勢が強まり、自由世界は勝利を収めつつある。ロシア軍は弾薬が不足するなどの困難に陥っている――。英国軍の制服組トップが14日、こう語った。
英国のトニー・ラダキン国防参謀総長=ロイター

トニー・ラダキン国防参謀総長はロンドンで講演し、「ロシアは戦争の目的を何一つ達成できておらず、今後も実現できない」と述べ、ウクライナ侵攻は「ロシアにとって不利になる一方だ」と強調した。
ロシア軍の弾薬庫は底を突きつつある

ラダキン氏はロシアの弾薬庫を「空っぽだ」と表現した。50カ国以上の同盟国、友好国が「政治的決意をもってウクライナに資金や弾薬、兵器を支援している」のに対し、ロシア軍の弾薬庫は底を突きつつあり、地上攻撃作戦の遂行能力が「低下している」と指摘した。

ロシア軍は数カ月にわたってウクライナ軍の最前線を集中砲撃してきた。ここにきて攻撃の勢いが止まったのは弾薬不足が原因とみられるものの、在庫がすぐに払底すると考える軍事アナリストはほとんどいない。

エストニア軍の情報機関による最新の推計では、ロシア軍は年初時点で1700万発あった砲弾のうち、これまでに1000万発を使い果たした。

英王立防衛安全保障研究所(RUSI)での講演は全体的に悲観的な内容が多かった中で、ラダキン氏のコメントはとりわけ楽観的だった。数々の世界的脅威を取り上げ、それらの問題を「将来の世界秩序構築に向けた同世代人の闘争」と表現した。

イランが攻撃用ドローン(無人機)をロシアに供給し、北朝鮮が「平時なら世界を仰天させたであろう」60発以上もの弾道ミサイルを発射し、中国はますます権威主義に傾いているとして、ラダキン氏は「今や並外れて危険な時代になった」との認識を示した。

「いずれの問題もそれぞれが無関係に存在しているわけではない。世界の安全を保障し、生涯にわたる広範な繁栄と機会を享受してきたルールに対し、それぞれの問題が試練を課している」
さらなる国防支出が必要

ロシアの脅威に対し西側が共同で対応したのは朗報だったと同氏は指摘した。これにより「真の勝利が手の届くところまできた」とし、他の権威主義国家に対する強力なメッセージにもなったと述べた。一方悪い知らせとして、こうした脅威に立ち向かうためにさらなる投資が必要な点を挙げた。

英政府はウクライナ戦争が始まる前の2021年にまとめた外交・安全保障政策の方針「統合レビュー」の改定作業を進めている。ラダキン氏はそのさなかで国防支出の増加を訴えた。

英政府は国防費を国内総生産(GDP)比2%にするという北大西洋条約機構(NATO)の目標の達成を確約しているが、ウクライナ戦争を受けて同3%へ引き上げるとしたトラス前首相の公約とは距離を置いている。

「弱体化したとはいえ報復の手を緩めないロシアに長期的にどう対処するのか。我々が今後も世界の平和と繁栄に貢献し続けるとすれば、どれだけの追加投資が必要なのか」。ラダキン氏はこう問いかけ、「統合レビューの改定作業でその答えが明らかになるだろう」と述べた。

By John Paul Rathbone

(2022年12月15日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/

(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.』

中国経済、需要減で再失速 ゼロコロナ・海外減速で

中国経済、需要減で再失速 ゼロコロナ・海外減速で
11月、生産・投資伸び鈍化、大都市雇用悪化で消費マイナス拡大
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM153MS0V11C22A2000000/

『【北京=川手伊織】中国経済が再び失速している。2022年11月の小売売上高は減少率が拡大し、サービス業の生産指数はマイナスに転じた。工業生産も伸びが鈍り、10~12月は前期比でマイナス成長になるとの予測もある。新型コロナウイルスを抑え込む「ゼロコロナ」政策で雇用が悪化した内需に加え、米欧経済の減速で外需も落ち込んでいる。

中国国家統計局は15日、11月の主な経済統計を発表した。消費動向を映す小売売上高は前年同月比5.9%減で、減り幅は10月の0.5%から広がった。サービス業の生産指数も1.9%下落し、5月以来6カ月ぶりに前年同月を割り込んだ。

企業の生産活動もさえない。工業生産の増加率は2.2%に減速。自動車やスマートフォンの生産量はマイナスに転じ、パソコンは減少幅を広げた。

主要な経済指標の低迷の要因は、国内外の需要が落ち込んでいることだ。「消費者の購入意欲の低下が心配だ。在庫が適正水準より増えることは避けたい」。日系メーカーの中国法人幹部は打ち明ける。

ゼロコロナ政策に伴う厳しい移動制限で、消費を左右する雇用が打撃を受けた。11月の都市部失業率は5.7%と10月を0.2ポイント上回った。北京や上海など直轄市や省都など主要31都市に限ると6.7%で、0.7ポイントも上がった。サービス業の比率が高い大都市ほど雇用が悪化し、家計は節約志向を強めている。

米欧経済が急激な利上げで減速した影響も大きい。11月のドル建て輸出は前年同月比8.7%減少した。新型コロナの流行初期で4割減った20年2月以来の大きなマイナスとなった。

野村ホールディングス傘下の野村国際(香港)は、10~12月の実質国内総生産(GDP)が季節調整済みの前期比で0.3%減ると予測する。確認できる11年以降で前期比マイナス成長を記録したのは、20年1~3月(10.1%)と22年4~6月(2.7%)だけだ。夏場に持ち直しかけた景気が再び落ち込む「二番底」の様相を呈している。

過去2回は、ロックダウン(都市封鎖)などサプライチェーン(供給網)の混乱が足を引っ張った。

一方、足元の景気失速は供給網の混乱というより需要不足の色が濃い。製造業購買担当者景気指数(PMI)を構成する、部品などの配送時間を示す指数をみると、11月は前月比1%弱の低下にとどまった。20年2月は4割、22年4月は2割下がっていて、物流の混乱による配送時間の長期化が顕著に表れていた。

今後の経済動向を占ううえで関心を集めるのは、ゼロコロナ政策の緩和による内需の回復だ。中国政府は7日に緩和策を発表し、省をまたぐ国内移動がしやすくなった。中国の証券会社、中信証券によると、5~11日の航空旅客輸送量は前の週と比べて7割近く増えた。

23年は1月下旬に、大勢の中国人が帰省や旅行を楽しむ春節(旧正月)休暇に入る。過去2年は、政府が感染拡大を防ぐため帰省などの自粛を求めたが「23年はその可能性がとても小さい」(感染症専門家の鍾南山氏)。旅客数が増えて、観光などサービス業が持ち直すとの期待が大きい。

サービス業の回復が雇用の改善につながるかが、GDPの4割を占める個人消費復調のカギを握る。一方、春節休暇での移動によって北京など大都市の感染拡大が医療資源の乏しい地方都市や農村に広がり、経済に混乱をもたらすリスクも残る。

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米国、政府当局者を台湾に2年派遣へ 対中国連携を加速

米国、政府当局者を台湾に2年派遣へ 対中国連携を加速
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN040S30U2A201C2000000/

『米国のバイデン政権と議会は2023年秋から政府当局者を台湾に長期派遣する方向で調整に入った。複数の関係者が日本経済新聞の取材で明らかにした。台湾統一を目指す中国が台湾に圧力を強めており、安全保障や経済政策について当局者の連携を深める土台を整える。

米議会は23会計年度(22年10月から23年9月)の国防予算の大枠を定める国防権限法案に政府当局者の台湾派遣の枠組みを盛り込んだ。1人あたりの派遣期間は最大2年間とし、1年目は中国語の習得に当て、2年目は台湾の行政機関や立法院(国会)で職務にあたる。派遣は毎年実施する。

派遣プログラムの運営に関わる見通しのNPO、米ウエスタン・パシフィック・フェローシップ・プロジェクトのリチャード・ピアソン事務局長は取材で、12月中に法案が成立すれば23年初めに希望者を募って9月に派遣を始める計画だと話した。

米政府当局者の派遣は年10人を想定し、当初は数人から始める。ピアソン氏によると、経済や安保に関わる幅広い省庁から募集し米軍制服組も対象とする。情報機関からは応募できないという。ピアソン氏は11月末から12月初めにかけて派遣計画について台湾の行政当局や立法院の関係者と協議したと述べた。

米国が長期派遣を始めるのは、台湾をめぐる米国と中国の対立が長期に及ぶとみられるからだ。台湾の行政機関で勤務して意思決定プロセスや政策立案を熟知し、米台当局間の連携に役立てる。米国の上下両院議員の台湾訪問と併せて、当局者の交流も増やして台湾を支援する方針を打ち出す。

米議会関係者によると台湾への長期派遣は珍しく、これまで数カ月程度のプログラムがあったという。

バイデン政権はこれまでも米台当局の接触を促してきた。21年4月には連邦政府の建物で米台の実務者レベルの定期会合の開催を積極的に認める指針を公表した。米首都ワシントンにあり、事実上の台湾の在米大使館に相当する駐米台北経済文化代表処でも会合を開けるようにした。

米国は18年に台湾旅行法を制定し、閣僚を含むあらゆる地位の高官の往来を促進した。トランプ前政権下では当時のアザー厚生長官が台湾を訪れて中国が激しく反発した。

(中村亮)

【関連記事】

・台湾有事「起こる」中国人56%、日本人44% 世論調査
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・台湾有事に進出企業の半数が対応策 50社調査、備え拡大

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中林美恵子
早稲田大学 教授
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趣旨は大分違うのだが、この米官僚の台湾長期派遣プログラム、どこか米マンスフィールド・フェローの日本研修の仕組みに似ている気がするのは、私だけだろうか。行政府・立法府での経験を促すことやフェローの募集対象など、マンスフィールド財団の好例を参考にしたのではないかと感じてしまった。バイデン大統領は、マンスフィールド元駐日大使の名前や、マンスフィールド・フェローの重要性について、日米首脳会談などでしばしば言及している。さすがにフェローの目的は大分違うし、もちろん時代背景も全く違うのだが、仕組みだけでも日台で似たようなプログラムが存在するようになるとしたら、それは非常に興味深いことだ。
2022年12月15日 23:53 』

米当局、中国企業の監査確認可能に 上場廃止リスク低下

米当局、中国企業の監査確認可能に 上場廃止リスク低下
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN15EA70V11C22A2000000/

『【ニューヨーク=斉藤雄太】米上場企業会計監視委員会(PCAOB)は15日、米株式市場に上場する中国企業の監査状況を確認するため、中国本土と香港の会計監査法人を検査できるようになったと発表した。中国企業は監査の「質」を担保できずに米国で上場廃止となる懸念がくすぶっていた。今回の進展はそうしたリスクの低下につながりそうだ。

PCAOBは8月の米中証券規制当局の合意に基づき、9~11月に国際会計事務所のKPMGの中国法人とプライスウォーターハウスクーパース(PwC)の香港法人に試験的な検査を実施した。中国国営企業を含む8つの契約案件について、監査状況を調べた。

米国側は検査にあたって①対象案件の選定で中国当局や監査法人に事前通知せず、干渉も受けない②改ざんのない完全な監査報告書を含め、必要な情報を保持できる③案件の担当者に直接面談し、証言を得られる――の3点を重視した。一連の作業を踏まえ、中国・香港企業の監査状況を検査するための「完全なアクセス権を確保した」(PCAOBのエリカ・ウィリアムズ委員長)と判断した。

今回の検査では、監査状況について多数の潜在的な問題点が見つかったものの、そうした点を発見できたこと自体が検査プロセスが正常に機能した証拠だと前向きに評価した。2023年以降も定期的な検査・調査を実施する計画という。今後、中国当局による妨害などがあった場合は、現在の評価をただちに変更する考えも示した。

米証券取引委員会(SEC)の監督下にあるPCAOBは投資家保護の観点から、米上場企業の監査を担当する監査法人を定期的に検査している。米上場の海外企業も対象で、世界で50以上の国・地域の監査法人を検査・調査しているが、中国政府は国家安全保障にかかわる情報が流出しかねないとして拒んできた。

米中対立の激化や中国企業の不正会計問題の続発を受け、米議会では20年12月、外国企業説明責任法が成立した。3年連続でPCAOBの検査を拒んだ場合、その監査法人が担当する企業を米国で上場廃止にするもので、24年にも多くの中国企業が米市場から締め出される可能性が出ていた。

米議会の超党派諮問機関の米中経済安全保障再考委員会によると、ニューヨーク市場に上場する中国企業は9月末時点で262社ある。このうち過半はSECが監査状況を検査できていないとして社名を公表しており、ネット通販大手アリババ集団や検索大手の百度(バイドゥ)などを含む。資本市場を舞台にした米中の摩擦が和らぐ方向に向かっていくのかが今後の焦点になりそうだ。
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蛯原健
リブライトパートナーズ 代表パートナー
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ひとこと解説

米中のディカップリングは資本市場においても急速に進んでいたところ何とか本件に関しては繋ぎ止めた形である。当然に株価も反応している。本件が報道された先月ころから中国銘柄により構成されるナスダックゴールデンドラゴンインデックスは、本国のコロナ政策転換の影響もあるだろうがこれまでの下落から底を打って上昇に転じている。
2022年12月16日 8:57

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柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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ひとこと解説

公正な監査を行うのは、いうまでもなく投資家を保護するためであるが、同時に、上場企業経営の健全化を促す措置でもある。さらに他の上場企業を保護する効果もある。それができなければ、投資家は安心して投資できなくて、その影響は上場企業に大きな影響を及ぼす。こういう問題は外交問題とみなすと、話は混乱してしまう。そうすると、いわゆる陰謀論が出てきて、議論の本質がみえなくなる
2022年12月16日 8:37』

科学誌、オミクロン派生型「深刻な脅威」 米既存薬効かず

科学誌、オミクロン派生型「深刻な脅威」 米既存薬効かず
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN160260W2A211C2000000/

『【ニューヨーク=吉田圭織】米国で新型コロナウイルスのオミクロン型派生型への警戒感が高まっている。米科学誌セルは15日までに、米国内で流行するオミクロン派生型「BQ.1」「XBB」は既存のワクチンや抗体薬では感染予防が難しく「深刻な脅威になる」と指摘する論文を発表した。

米コロンビア大学とミシガン大学の研究者が共同で発表した論文では「BQとXBBのオミクロン派生型は既存のコロナワクチンが効きづらく、深刻な脅威となる。承認されている抗体薬については効果がない」と警告した。同時に「免疫をすり抜ける性質を持つため、両派生型が感染者の大半を占めるようになった可能性がある」と指摘した。

米疾病対策センター(CDC)によると、これらの派生型は全体の新規感染者の7割以上を占めている。12月4~10日の新規感染のうち「BQ.1」が31.1%、「BQ.1.1」が36.8%、「XBB」が4.7%と推定した。

オミクロン派生型にも対応する新型ワクチンを接種した人をサンプルに、感染や重症化に対する効き目を調べた。抗体薬については英アストラゼネカ製「エバシェルド」や米イーライ・リリーの「ベブテロビマブ」を対象にしたが、どちらも「完全に効果がなかった」と指摘した。米食品医薬品局(FDA)は11月下旬に「BQ.1 とBQ.1.1への有効性が期待できない」としてベブテロビマブの緊急使用承認を取り下げている。

研究結果として「オミクロン派生型によって感染の突破や感染を繰り返す人が増える可能性がある」と強調した。一方でワクチンは「感染予防の効果が低いものの、オミクロン派生型に対しても入院や重症化は予防でき、後遺症のリスクを和らげる可能性がある」とも指摘した。』

米高官 英豪との軍事枠組み「日本と協力探る」

米高官 英豪との軍事枠組み「日本と協力探る」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN160BD0W2A211C2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】米国防総省のライダー報道官は15日の記者会見で、米英豪の安全保障枠組み「AUKUS(オーカス)」をめぐり「日本を含む同盟国・パートナーと協力する機会を探る」と表明した。極超音速兵器や無人潜水機の開発など先端技術を使う分野で同盟国が結束し、インド太平洋地域で中国への抑止力を高める。

オーカスは2021年9月、米英によるオーストラリアの原子力潜水艦の量産支援を柱として発足した。インド太平洋で中国への抑止力を高めるのが主眼だ。22年4月には協力分野を拡大すると発表し、既存のミサイル防衛システムでは迎撃が難しいとされる極超音速兵器や量子技術、人工知能(AI)、サイバーなど8分野も対象に加えた。

日米は極超音速ミサイル技術の共同研究を検討することで合意しており、日本も協力できる分野に想定される。バイデン政権が重視する同盟国や友好国の能力を総動員する「統合抑止力」の一環で、英国や豪州とも安保で連携を深める日本に期待する声が米政府にある。

まずは特定の分野でオーカスとの協力を模索していくとみられる。一方、日本の情報の収集や保持の体制に不安が残る。14年に機密を漏らした人に厳罰を科す特定秘密保護法を施行したものの、機密や先端技術の取り扱いの資格(セキュリティー・クリアランス)制度などが整っていないためだ。』

米軍、ウクライナに「高度な訓練」実施 月500人対象

米軍、ウクライナに「高度な訓練」実施 月500人対象
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN160BJ0W2A211C2000000/

『米国防総省のライダー報道官は15日の記者会見で、ウクライナ軍に高度な実践的訓練を提供すると発表した。米国製武器の使い方を中心に訓練してきたが、戦場での部隊間の連携を重視した訓練に着手する。2023年1月から始めて月500人を対象とする。

ライダー氏は「オースティン国防長官が言うように武器は重要だが、戦場で決定的な効果を発揮できるようにそれをどのように使うかも重要だ」と強調した。訓練は欧州で実施する。ライダー氏は新たな訓練のために在欧州米軍の規模を増やす考えはないと説明した。
米紙ニューヨーク・タイムズによると、米軍はこれまでに月300人程度のウクライナ兵を訓練しており、規模が大幅に増える。英国などもウクライナ軍への訓練を拡充してきた。ロシアは訓練の乏しい兵士を戦場に送っているとの見方があり、米欧の訓練拡充はウクライナ軍に追い風となる公算が大きい。』

[FT]FTXの教訓 「誇大宣伝は信じるな」

[FT]FTXの教訓 「誇大宣伝は信じるな」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB161WI0W2A211C2000000/

『「相手が信じるまでだまし通せ」。破綻した暗号資産(仮想通貨)交換業大手FTXトレーディングの創業者サム・バンクマン・フリードは、この格言をうのみにしすぎていたのかもしれない。短パンとぼさぼさの髪で知られる30歳はSBFと名乗り、2022年年初には推定200億ドル(約2兆8000億円)の金融資産があると豪語していた。だが、年末はバハマの刑務所でやつれた顔をして迎え、通信詐欺、資金洗浄、選挙資金法違反の疑いで米国への身柄引き渡しが求められている。米連邦議会の委員会に宛てた書簡では「しくじった」ことを認めた。それも一つの見方だろう。だが、検察当局は違う見方をしている。史上最大の金融詐欺の実行犯とみているのだ。最も説得力があるのはどちらの主張なのか。最終的な判断は法廷に委ねられる。

サム・バンクマン・フリード容疑者が収容されているとみられるバハマの施設=ロイター

FTXの破綻からは深刻な影響が生じるが、米国と天才起業家との親密な関係が損なわれるとすれば極めて遺憾だ。個人が壮大な構想を掲げて経済的成功を収められる点は、米国資本主義最大の長所の一つだ。テクノロジー業界などで因習を打破した人物は輝かしい歴史を築いた。スティーブ・ジョブズなくしてアップルはない。ジェフ・ベゾスなしのアマゾンも、ビル・ゲイツなしのマイクロソフトもない。イノベーションには大胆さが必要だ。

しかし、そろそろ現実を直視すべき時がきている。あまり理解されてはいないが、テクノロジーは事実をうやむやにし、中身より外見を整え、時流に乗らなければ取り残されると不安をあおってベテラン投資家すら取り込むことができる。今は完全に終わったが、低金利と金融緩和が続く時代はペテン師にとって理想的な環境だ。証拠物件第一号。かつて話題を集めた血液検査会社セラノスの創業者エリザベス・ホームズはスティーブ・ジョブズが好んで着用したタートルネックのセーターと彼独特の癖をまねることはできたが、セラノスの技術に関する彼女の主張は唾棄すべきものだった。ホームズは現在、投資家をだました罪で11年間の服役中だ。

ルパート・マードックやオラクル共同創業者のラリー・エリソンといった名だたる人物までホームズに投資していたのは驚きだが、意外ではない。アイザック・ニュートンですら、南海会社の売り文句にだまされたのだ。米ベンチャーキャピタルのセコイア・キャピタルと少なくとも2つの年金基金などの優良投資家にとっては、FTXも教訓となりそうだ。ベンチャーキャピタルにとって損失を出すのは業務上の災難だが、年金基金は暗号通貨のような不安定なセクターに投資すべきではない。

取締役会のないスタートアップ

そもそも取締役会もないスタートアップに基本的な調査すら実施しなかったことが完全に間違いのように思えるし、それが会計ソフト「クイックブックス」を利用していたような事業が評価額320億ドルとされたのが通用した原因だ。

破綻したヘッジファンドのスリー・アローズ・キャピタルの共同創業者スー・チューは、FTXに出資している投資家の顔ぶれを見てFTXを利用しようと決めたと語った。「誰かがデューデリジェンス(資産査定)を実施したと思っていた」と言う。しかし、実施していなかったとしても珍しくはない。イーロン・マスクすら440億ドルでのツイッター買収に合意する前にデューデリジェンスを怠る時代だ。そしてツイッター買収で世界一の富豪という座から転落した以外、さしたる成果も上げてはいない。

FTXを質問攻めにしなかったという点では、FTXから数千万ドルの献金を受けた米民主党議員も同じだ。バンクマン・フリードは暗号資産の規制を回避するよりむしろ支持する立場を示して、暗号資産の友好的な顔を演じたがった。それも競合他社を排除するためだということが後になってわかっている。

FTXの暗号資産バブルと著名投資家の陰に隠れて目立たないが、検察当局は昔ながらの主張を展開している。事業再生のプロでFTXの新最高経営責任者(CEO)に就任したジョン・レイは「古いタイプ」の横領だと呼ぶ。バンクマン・フリードは有罪が立証されるまでは無罪とみなさなくてはならない。だが、スタートアップや夢想的な創業者に対してはとにかく、もっとまともなアプローチが必要だ。基本的な質問をし、検証済みの格言を胸に刻む。特に「誇大宣伝は信じるな」だ。(敬称略)

By the editorial board

(2022年12月14日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

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薩英戦争

薩英戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

『薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年7月2日 ? 4日〈新暦: 1863年8月15日 ? 17日〉)は、薩摩藩と大英帝国[注釈 3] (イギリス)の間で起こった戦闘。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。

薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。

鹿児島では城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため、まえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる[9]。 』

『生麦事件

詳細は「生麦事件」を参照

文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主の父・島津久光の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。

この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められている。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる[10]。

交渉
イギリス公使代理ジョン・ニール

交渉までの経緯については、備考を参照のこと。

文久3年5月9日(1863年6月24日)、イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取った。

6月22日(8月6日)、ニールは薩摩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦「ユーライアラス」(艦長・司令J・ジョスリング一等海佐 (Captain)[注釈 5])、コルベット「パール」(艦長J・ボーレイス一等海佐 (Captain)[注釈 5])、同「パーシュース」(艦長A・キングストン海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「ハボック」(艦長G・プール海尉 (Lieutenant)[注釈 6])、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスタス・レオポルド・キューパー海軍少将)と共に横浜を出港。6月27日(8月11日)にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩は総動員体制に入り、寺田屋騒動関係者の謹慎も解かれた。

6月28日(8月12日)、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求した。島津家は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。

6月29日(8月13日)、イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める。

島津家は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否した。イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動した。

一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦が薪水・食料を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義、黒田清隆、大山巌らが国書に対する答使と果物・スイカ売りに変装し艦隊に接近した(西瓜売り決死隊)。使者を装った一部は乗艦に成功したが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去した。

7月1日(8月14日)、ニール代理公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。島津家は開戦を覚悟し、当主・島津茂久と後見役・島津久光は、鹿児島城が英艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、新たに本営と定めた鹿児島近在西田村(現・鹿児島市常盤)の千眼寺に移った。
戦闘について

イギリス艦隊の旗艦には、幕府から得た賠償金が積まれていたが、イギリス側は島津家との賠償金の交渉を有利にするために薩摩汽船3隻を掠奪した[11]。これに激発した薩摩方の砲台との間で戦闘が開始された。

戦闘詳報

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

7月2日(8月15日) – 夜明け前、「パール」、「アーガス」、「レースホース」、「コケット」、「ハボック」の艦隊5隻は、薩摩の蒸気船の天佑丸 (England)、白鳳丸 (Contest)、青鷹丸 (Sir George Grey) を重富の脇元浦(現在の姶良市脇元付近)において、これら3隻の舷側に接舷するとイギリス艦から50, 60人の兵が乱入した[12]。薩摩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷するなどして3隻の乗組員を強制的に陸上へ排除して船を奪取した[13]。このとき、天佑丸の船奉行添役五代才助(五代友厚)や青鷹丸の船長松木弘庵(寺島宗則)も捕虜として拘禁された[14]。

午前10時、捕獲された3隻は[15]、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結わえられて牽引され、桜島の小池沖まで曳航された[16][3]。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩方は7箇所の砲台(台場)に追討の令を出す[3]。
当時の新聞による戦況図

正午、湾内各所に設置した砲台の中で薩摩本営に最も近い天保山砲台 (Battery Point) へ追討令の急使として大久保一藏が差し向けられ、到着する間もなく旗艦「ユーライアラス」に向けて砲撃が開始された。一方、対岸の桜島側の袴腰砲台(桜島横山)は城下側での発砲を知ると、眼下のイギリス艦「パーシュース」に対して砲撃を開始した。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は、砲台からの命中弾に慌てふためき錨の切断を下令すると艦はその場から逃走した[17][3]。

不意を突かれたキューパー提督は艦隊の戦列を整えるために、桜島小池沖の艦隊5隻へ「ハボック」一艦のみを残し、薩摩船3隻の焼却命令を信号により発令した[17]。イギリス側の乗組員は天佑丸、白鳳丸、青鷹丸から貴重品を略奪すると、砲撃を行った上でこれらの蒸気船3隻に放火し「ハボック」が焼却・沈没を見届けた。

薩英戦争の図(冨山房「大日本読史地図」)

その後イギリス艦隊は戦列を整え、「ユーライアラス」を先頭に単縦陣で、第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)に向けて両舷側の自在砲(110ポンドアームストロング砲)を用いて発砲(戦況図参照)。艦隊の107門の砲は21門が最新式の40ポンド・110ポンドアームストロング砲であり、これを用いて陸上砲台(沿岸防備砲・台場)に接近しての砲撃を行った。これに対して薩摩の砲台・台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び、接近する艦隊に小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った[3]。

イギリス艦隊の第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)への攻撃では、精確な射撃により薩摩側の大砲8門を破壊した。薩摩側は、暴雨風の影響による砲台への浸水や、イギリス艦隊の砲に比べると備砲の射程距離が短いなど性能が劣っているという不利な点もあったが、薩摩砲台に接近する艦隊は午前からの荒天や機関故障により操艦を誤り、薩摩側への有利な戦闘展開となった。薩摩側も、敵艦への突撃・追撃用に上荷船の船首に18斤単銅砲や24斤単銅砲を1門備えた11人乗り小型艇数艘(総数12艘)の水軍隊が辨天波戸から出動し砲撃を試みたが、荒天のため船内への浸水などで退却した。

午後3時前、辨天波戸砲台の29拇臼砲(ボンベン砲)の弾丸1発が「ユーライアラス」の甲板に落下[18]、軍議室(艦橋)で破裂・爆発、居合わせた艦長・司令 (Captain Josling) や副長 (Commander Wilmot) などの士官が戦死[3][5]。キューパー提督(司令官)は艦長や指揮官などと居合わせたが、その場から撃ち倒されて共に転落するも左腕に傷を負ったのみで助かった[19]。

午後3時10分、祇園之洲砲台に接近して砲撃中の「レースホース」は、折からの強い波浪や機関故障により吹き流され、砲台手前の200ヤードで座礁・擱坐すると大きく傾き、大砲の発砲が出来なくなり小銃で砲台への攻撃を行った[20][21]。しかし、既に祇園之洲砲台の大砲のほとんどが破壊されており、この砲台からの大砲による応戦は行われなかった。また、薩摩側はイギリス艦の座礁とは想定せず、艦から端艇が下ろされたことにより、陸戦は必定と上陸に備えて台場の陰で敵の襲来を待ち構えた。

午後4時頃、イギリス艦隊の3隻(コケット、アーガス、ハボック)は僚艦「レースホース」の救出・援護のために祇園之洲砲台に砲撃を加えながら僚艦の離礁を試みた。これに対して新波戸砲台がイギリス艦隊に盛んに砲撃を加え、「アーガス」に3発の命中弾を浴びせたが、「レースホース」は他の僚艦により曳航され、5時半頃には救出され離礁した[22]。

午後7時頃、砲撃戦に不参戦の「ハボック」は単独で砲台のない磯に移動し、停泊中の琉球船3隻と日向国那珂郡の赤江船2隻を襲い焼却する。その後、僚艦「パーシュース」も加わり、大砲やロケット弾(火箭)を用いて、近代工場群を備えた藩営集成館の一帯を攻撃し、ことごとく破壊した。攻撃後、2艦は艦隊の停泊する桜島横山村・小池村沖に戻った。なお、この時「ハボック」が砲撃した琉球船には、たまたま薩摩へ琉球使節として赴いていた琉球国の王子・与那城朝紀が乗船していた。「ハボック」の砲撃によって被災した際、薩摩の伝馬船に乗って王子は命からがら逃げ出している。

午後8時頃、上町方面の城下では先の「パーシュース」のロケット弾などによる艦砲射撃で火災が迫り、民家(350余戸)、侍屋敷(160余戸)、寺社(浄光明寺、不断光院、興国寺、般若院)などの多くが焼失した[23]。

7月3日(8月16日)、前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や副長などの11名を錦江湾で水葬にする[24]。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた(島津屋敷は誤認であり、実際には寺院[25])。また、砲撃により第11台場(赤水台場)および突出台場(天保山砲台)の火薬庫が爆発して、天保山砲台(砂揚場)より反撃があったが、その後台場からの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行う。 この時、薩摩方により沖小島と桜島(燃崎)の間付近に、集成館で島津斉彬の時代に製造した電気点火装置の水中爆弾3基(地上から遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、沖小島台場の砲撃によりイギリス艦隊は進路を変更したため近寄らず失敗した。

7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料が消耗し多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦(レースホース[8])は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、小根占の洋上に停泊して修理を行っていたが、7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航されて行った[3]。

7月11日(8月24日)、全艦隊が横浜に帰着。

戦闘の結果

薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡[26])に及んだ。

一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[3]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[27]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[28]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。

朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた[29]。

本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

イギリス艦艇一覧

1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック (Havock) は砲撃戦に参加せず、琉球船 (Loochoo I. Junks) 3隻と赤江船2隻を襲う。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗員

[30] 出力 備砲 損害
[5][8]

ユーライアス
Euryalus フリゲート
蒸気スクリュー 1853年
(改造) 積載量2371トン(bmトン)
排水量3125英トン 600
[30]
540 400NHP 110ポンドアームストロング砲x5
40ポンドアームストロング砲x8
その他22門
鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加 戦死10名
負傷21名
パール
Pearl コルベット
蒸気スクリュー 1855年 積載量1469トン(bmトン)
排水量2187英トン 245
[30]
400 400NHP 68ポンド砲x1
10インチ砲x20 負傷7名
コケット
Coquette 砲艦
蒸気スクリュー 1855年 積載量677トン(bmトン) 78
[30]
90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2 戦死2名
負傷4名
アーガス
Argus スループ
蒸気外輪 1852年 積載量981トン(bmトン)
排水量1630英トン 170
[30]
175 300NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4 負傷6名
パーシュース
Perseus スループ
蒸気スクリュー 1861年 積載量955トン(bmトン)
排水量1365英トン 172
[30]
175 200NHP 40ポンドアームストロング砲x5
32ポンド砲x12 戦死1名
負傷9名
内死亡4人
レースホース
Racehorse 砲艦
蒸気スクリュー 1860年 積載量695トン(bmトン)
排水量877英トン 103
[30]
90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2 艦体大破
負傷3名
ハボック
Havock ガンボート
蒸気スクリュー 1856年 積載量232トン(bmトン) 50
[30]
37 60NHP 68ポンド砲x2 なし
戦争の処理
交渉にあたった薩摩側の藩士たち
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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?:?”薩英戦争”???ニュース?・ 書籍?・ スカラー?・ CiNii?・ J-STAGE?・ NDL?・ dlib.jp?・ ジャパンサーチ?・ TWL(2021年6月)

9月28日(11月11日) – 第1回和睦の談判、横浜の英国公使館の応接室にて島津家の重野厚之丞(安繹)が主導、補佐として同岩下左次右衛門、佐土原島津家の家老の樺山久舒(舎人)、能勢二郎左衛門(直陳)などが同席。代理公使ニール大佐との談判では、薩摩側はイギリス艦が薩摩汽船を掠奪した件を追及し、イギリス側は生麦事件を挙げて紛糾・決裂したが、幕府側の仲裁で次回談判を取り決めた。重野らと同行した高崎猪太郎は一橋卿の内命にて京都に居たため同席しなかった。

10月4日(11月14日) – 第2回和睦の談判、島津家の岩下、重野は前回と同じくイギリス側の非を責めるが、ニール公使も同様に全く自説を変える様子もなく談判は紛糾・決裂し、次回談判となった。

10月5日(11月15日) – 第3回和睦の談判、本家を憂慮する和睦派の佐土原島津家の樺山、能勢らは幕府側の説得を受け入れて薩摩側への和睦を促し、重野らはイギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すべしと議を決した。イギリス側は軍艦購入の斡旋を承諾した。

島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されなかった。

イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。

備考

交渉までの経緯
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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?:?”薩英戦争”???ニュース?・ 書籍?・ スカラー?・ CiNii?・ J-STAGE?・ NDL?・ dlib.jp?・ ジャパンサーチ?・ TWL(2021年9月)

生麦事件発生以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して対抗措置を指示していた。

実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。

当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸家にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。

実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年2月4日(3月22日)、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。

江戸幕府は、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールにイギリスとの仲介を依頼し、文久3年5月9日(6月24日)にニールと幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である島津家との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。

なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画をも検討していたが、仮に占領可能であったとしても天皇や将軍が山岳部に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込まれた場合は不利であると結論しており、事実上断念している。また、当時の英国に十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。実際ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。

その他、諸説など
アームストロング砲

当時の最新鋭兵器として期待されていたアームストロング砲は、この戦闘で暴発や不発(不発弾)が多い事が実戦で判明したため、イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされた。さらに輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる[31]。

なお、当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では[5]、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、その戦死者の負傷状況などからも破裂弾の着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり[5]、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる[注釈 16]。

アームストロング砲暴発の拡大解釈を招く事象として、薩摩側の10インチ砲弾によりユーライアラスの甲板に備えた第3番砲が直撃弾を受けており、その砲員らが一度に死傷している[32][33]。

異説
薩摩藩は処罰の対象を藩主だと認識していたため交渉は決裂したが、英国側の資料によれば、処罰を求めていたのは事件の現場にいた責任者である。(翻訳を担当した福澤諭吉が急いで原文を直訳した結果、事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)[34] 』

下関戦争

下関戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89

『この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年11月)』

『下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。

敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。

歴史的には、元治元年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、文久3年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い[2]。馬関は下関市の古い呼び名。今では文久3年のことを下関事件、元治元年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している[3]。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、文久3年のことを「下関事件」、元治元年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある[4]。 』

『概要

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが[5]、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。

前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。

後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。

戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。

背景

ペリー一行の上陸

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)、幕府は日米和親条約を締結した(ペリー来航)。安政5年(1858年)、アメリカの強い要求により、幕府は日米修好通商条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。孝明天皇は和親条約はともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった。また、幕府に不満を持つ攘夷派は尊皇思想から朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くようになっていた。

これらの動きに対して、幕府大老井伊直弼は弾圧政策(安政の大獄)で応じたが、万延元年(1860年)水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺された(桜田門外の変)。この事件により幕府の威信は大きく揺らぎ始めた。加えて、開港により、特に生糸が大量に輸出され、品不足・価格高騰が生じ、さらに金銀交換比率の内外差のため大量の金が流出し、経済は混乱した(五品江戸廻送令、幕末の通貨問題)。これに伴って政情も不安となり、幕府の開港政策を批判する攘夷の機運は、全国的に高まっていった。

後に倒幕の中心勢力となる長州藩は、文久元年(1861年)の段階では直目付長井雅楽の「航海遠略策」による公武合体策を藩論としつつあり、長井自身が幕府にも具申して大いに信頼を勝ち得ていた。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあり、吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかったため、尊王攘夷派の恨みを買っていた。文久2年(1862年)、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、同年6月には長井は藩主から罷免され、翌文久3年(1863年)には死罪を得て自裁した。自然、尊王攘夷が藩論となっていった。長州藩士や長州系の志士たちは朝廷の攘夷派公卿と積極的に結びつき京都朝廷の主導権を間接的に握るようになっていった。

文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が上洛。朝廷は従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申しつけ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達した。だが幕府は他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件の損害賠償交渉にも追われており、攘夷決行は諸外国と勝ち目のない戦争をすることになり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩に伝えていた。幕府は賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日にイギリスに支払うと共に、各国公使に対して文書にて開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告し、攘夷実行の体裁をとった。しかし、同時に口頭で閉鎖実行の意志がないことも伝え、9日後には文書にて閉鎖撤回を通達した。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
長州藩の攘夷決行

攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡=関門海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。

攘夷期日の文久3年5月10日(1863年6月25日)、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払った[6] ことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。

フランスの通報艦キャンシャン号の被害

5月23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(英語版)(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ペンブローク号は長崎に戻らず上海に向かったため、同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。

26日、オランダ外交代表ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックを乗せたオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行大久保忠恕の許可証も受領しており、幕府の水先案内人も乗艦していたため攻撃はされまいと油断していたところ、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが17発を被弾し死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した[7]。

長州藩のアメリカ、フランス艦船への砲撃は当時の国際法に違反するものである[8]。

アメリカ・フランス軍艦による報復

アメリカ艦ワイオミング号の下関攻撃

長州奇兵隊の隊士
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)と三谷国松(左)

ペンブローク号は長崎ではなく上海に向かったため、事件の知らせが横浜に届いたのは文久3年5月25日(1863年7月16日)であった。アメリカ公使ロバート・H・プリュインは、横浜停泊中のワイオミング号のデヴィッド・マクドゥガル艦長を列席させて幕府に抗議した。この時期のアメリカは南北戦争の最中でほとんどの軍艦は本国にあったが、南軍の通商破壊艦アラバマ号(英語版)を追跡していたワイオミング号が、居留民保護のために一時横浜に入港していたものであった。幕府は自身が処理するとしたが、マクドゥガルは報復攻撃を促した。前任者のタウンゼント・ハリス同様に親幕府姿勢を取っていたプリュインも最終的に同意し、ワイオミング号は横浜を出港した。

文久3年6月1日(1863年7月20日)、ワイオミング号は下関海峡に入った。不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。壬戌丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。この戦闘でのアメリカ側の死者は6人、負傷者4人、長州藩は死者8人・負傷者7人であった。もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、陸上の砲台も艦砲射撃で甚大な被害を受けた。

フランス艦隊による報復攻撃

文久3年6月5日(1863年7月24日)、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号(英語版)が報復攻撃のため海峡に入った。セミラミス号は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。

アメリカ・フランス艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。長州藩領内では一揆が発生し[9]、一部の領民は自発的に外国軍隊に協力していた[10]。長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。長州藩は砲台を増強し、なおも強硬な姿勢を崩さなかった。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗組員 機関出力 備砲

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワイオミング
Wyoming 蒸気スクリュースループ 1859年 排水量1457英トン  198 不明 11インチダールグレン砲x2
60ポンドパロット砲x1
32ポンド砲x3
フランスの旗 フランス帝国
セミラミス
Semiramis 蒸気スクリューフリゲート 1863年改造 排水量3830トン 521 1664IHP 35
タンクレード
Tancrede 蒸気スクリュースループ(通報艦) 1861年 排水量500トン程度 不明 不明 4

京都の政変と長州藩の孤立化

禁門の変

幕府は、文久3年7月8日(1863年8月21日)、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。7月16日には旗本の中根市之丞らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕。さらに、8月19日-20日には中根市之丞らを暗殺した(朝陽丸事件)[11]。

8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、8月18日に薩摩藩と藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩が結託して孝明天皇の了承のもとクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。

長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図った。長州軍は強引に入京を試み、待ち構えた会津、桑名を主力とする幕府側と交戦して御所にまで侵入したが、御所の守りについていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより撃退され、惨敗を招く結果となった。(禁門の変)

このほか、文久3年12月24日(1864年2月1日)には、関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、薩摩藩士24人が死亡した。当日は視界不良で薩摩藩の船と認識しての砲撃であったかは不明であるが[12]、長州藩の謝罪で一応は解決した。しかしながら、翌年にも長州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗員を殺害する事件が起きている[13]。

外交

ラザフォード・オールコック

長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。

だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていた。

日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送る。この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。

イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。

伊藤と井上は三カ月かかって元治元年6月10日(1864年7月13日)に横浜に到着。オールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて、外交官アーネスト・サトウを伴わせて豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。

元治元年6月19日(1864年7月22日)、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。

なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団(横浜鎖港談判使節団)が帰国したが、使節がフランスと取り交わしたパリ約定には関門海峡を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていた。オールコックは、幕府がこの約定を批准することにより、四国連合からフランスが脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不満として批准は行わなかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった。

四国連合艦隊の攻撃
下関攻撃作戦地図.
四国連合艦隊による下関砲撃
イギリス陸戦隊の上陸戦闘

元治元年7月27日-28日(1864年8月17-18日)にオーガスタス・レオポルド・キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した。艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力[14] であった。また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。

戦闘開始の前日である元治元年8月4日(1864年9月4日)、長州藩庁はようやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。

下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤禰武人)など2000人弱・砲100門強[14] であり、主力部隊を京都へ派遣していた(半月前に禁門の変が発生)こともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製のダミーの砲まで用意していた。

元治元年8月5日(1864年9月5日)午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦し、前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦するが[14] 火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は砲撃支援の下で前田浜に陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。

元治元年8月6日(1864年9月6日)、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣狂介は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。

元治元年8月7日(1864年9月7日)、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ大砲を鹵獲した。8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。連合軍が一連の戦闘で鹵獲した各種大砲は62門に及んだ。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人だった。[要出典]

なお、イギリス軍にはカメラマンのフェリーチェ・ベアトが従軍し、戦闘の様子を撮影している。ベアトにとっては、クリミア戦争、インド大反乱、アロー戦争に続く4度目の従軍撮影であった。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗組員 機関出力 備砲

イギリスの旗 イギリス
ユーライアラス
Euryalus 蒸気スクリューフリゲート 1853年改造 積載量2371トン(bmトン)
排水量3125英トン 540 400NHP 110ポンドアームストロング砲x5
40ポンドアームストロング砲x8
その他22門
カロネード砲x16
コンカラー
Conqueror 蒸気スクリュー戦列艦 1859年改造 積載量2845トン(bmトン) 830 500NHP
2048IHP 68ポンド砲x1
8インチ砲x32
32ポンド砲x56
下関戦争時は合計48門
レオパード
Leopard 蒸気外輪フリゲート 1851年 積載量1406トン(bmトン) 310 560NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4
バロッサ
Barrosa 蒸気スクリューコルベット 1862年 積載量1700トン(bmトン) 240 400NHP 110ポンドアームストロング砲x1
8インチ砲x20
ターター
Tartar 蒸気スクリューコルベット 1854年 積載量1296トン(bmトン) 250 250NHP 110ポンドアームストロング砲x1
40ポンドアームストロング砲x4
8インチ砲x14
アーガス
Argus 蒸気外輪スループ 1852年 積載量981トン(bmトン) 175 300NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4
パーシュース
Perseus 蒸気スクリュースループ 1861年 積載量955トン(bmトン) 175 200NHP 40ポンドアームストロング砲x5
68ポンド砲x1
32ポンド砲x8
コケット
Coquette 蒸気スクリュー砲艦 1855年 積載量677トン(bmトン) 90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2
バウンサー
Bouncer 蒸気スクリューガンボート 1856年 積載量233トン(bmトン) 40 60NHP 68ポンド砲x2
フランスの旗 フランス帝国
セミラミス
Semiramis 蒸気スクリューフリゲート 1863年改造 排水量3830トン 521 1664IHP 35
デュプレクス
Dupleix 蒸気スクリューコルベット 1863年 排水量1795トン 203 1215IHP 6.4インチ砲x10
タンクレード
Tancrede 蒸気スクリュースループ 1861年 排水量500トン程度 不明 不明 4
オランダの旗 オランダ
メターレン・クルイス
Metallen Kruiz 蒸気スクリューコルベット 1862年 排水量2100トン 240 830IHP 6.3インチ砲x8
30ポンド砲x8
ジャンビ
D’Jambi 蒸気スクリューコルベット 1860年 排水量2100トン 240 830IHP 6.3インチ砲x8
30ポンド砲x8
メデューサ
Medusa 蒸気スクリューコルベット 1855年頃 排水量1700トン 不明 不明 16
アムステルダム
Amsterdam 蒸気外輪軍艦 不明 不明 不明 不明 8
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
タキアン
Ta-kiang 蒸気スクリュー改造砲艦 1864年 積載量609トン(bmトン) 40 120NHP 30ポンドパロット砲x1

講和

元治元年8月8日(1864年9月8日)、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑馬を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を「魔王」のごとく「傲然」としていたと述べている。

18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの5条件で講和が成立した。

賠償金については、巨額すぎて長州一藩では支払い不可能なことに加え、一連の外国船への砲撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した攘夷実行の命に従ったまでと高杉が粘り強く主張したこともあって、後日改めて連合国側が幕府に請求することで双方了解した(幕府も結局これを承諾し、長州藩は負債を免れた)。

なお通訳を務めた伊藤博文の回想によれば、この談判の際、連合国側より彦島の租借が提議されたが、高杉、伊藤の強硬な反対によって立ち消えになったという[15]。

戦後

戦後

禁門の変の勝利を受けて幕府は長州藩への攻撃の準備に取りかかった(第一次長州征伐)。京都と下関との二度の敗戦で戦う余力のない長州藩では保守派(俗論党)が主導権を握り、11月に禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順した。

12月、この俗論党政権に対して高杉晋作が奇兵隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。翌慶応元年(1865年)に高杉らは内戦に勝利し、倒幕派が長州藩の主導権を握るようになる。

下関戦争の敗戦を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。

なお、オールコックの手元には届かなかったが、イギリス政府は日本における軍事行動を禁止する訓令をすでに出していた。下関戦争は結果としてこの訓令に背いたことになり、その責任を問われてオールコックは駐日公使を解任され、本国に召喚された(1864年12月25日離日)。

下関賠償金

長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料にフランス・オランダと共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。

明治16年(1883年)2月23日、アメリカのチェスター・A・アーサー大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、アメリカは合計で78万5000ドルを得ていた。

実際のアメリカの損失は、

アメリカ船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル
長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
水夫への危険手当2000ドル

だった。

なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、アメリカの損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金はアメリカ政府の公認を得たものでなく、日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。その実情を明治5年(1872年)、ハミルトン・フィッシュ国務長官が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。

兵器・戦術など
フランス海軍によって押収された長州藩の大砲の一部は、ナポレオンが眠るパリの廃兵院の中庭に展示されている

長州藩が砲台などに配備した大砲は、長州藩が嘉永年間に三浦半島の警備を命じられた際に佐久間象山の指導のもとに江戸で製造したものや萩の郡司鋳造所で製造したものなどであった。陸戦隊と一緒に上陸したアーネスト・サトウは、他に24ポンド砲、32ポンド砲、青銅製の11インチ砲があったと記録している。これらの長州藩側の大砲は、連合軍艦隊の搭載砲(上記の参加艦船一覧表を参照)よりもはるかに小型で性能が劣っていた。口径差があるのに加えて、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する製造方法であったのに対し、連合国の大砲は、砲身を鋳造した後にドリルで削って正確に砲腔を作成する方式であることからも性能差があった。日本では、切削加工による砲腔の作成は、幕府の関口製造所や薩摩藩の集成館で開始されたばかりであった。

1864年の戦闘では長州藩の大砲62門が連合軍に鹵獲され、そのうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られた。戦利品となった大砲の一部は現存しており、現在パリの廃兵院(アンヴァリッド)に展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門である。これは長州藩が三浦半島警備用に嘉永7年(1854年)に江戸で製造し、後に下関へ移したものであった。山口県下関市長府の功山寺境内にある長府博物館にも、パリ廃兵院から貸与された戦利品の大砲1門(1844年に萩で鋳造された和製大砲)が展示されている。ほかにイギリス、オランダ、アメリカの博物館に数門の存在が確認されている。

馬関海峡は海峡の両側とも険しい山になっているが、長州藩の砲台はこの地の利を活かすことなく、15箇所[16] の砲台は、何れも海岸に近い低地に構築されていた[17]。加えて崖の下の砲台も多く、砲弾が崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注いでしまうという大きな欠陥があった[14]。また、砲台は正面の敵にのみ対応できるようになっており、複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできなかった。他方、連合国艦隊のキューパー提督は、薩英戦争の教訓を取り入れており、複数の艦からの共同攻撃により、各砲台を個別撃破していった[18]。』

一夫多妻制の国、インドネシアの恋愛と結婚、離婚事情

一夫多妻制の国、インドネシアの恋愛と結婚、離婚事情
https://kaigai-info.net/country/indonesia/bali-love-and-marriage/

『インドネシアは一夫多妻国です。とは言えここ最近ではそれも減ってきているようです。経済発展して女性の社会的進出や地位が上がってきたこともあるでしょうし、なにより経済成長したがためにその分生活費もかかるようになってきて、妻とその子供達が増えれば増えるほど男性の経済力が必要になってくる、というのが一番の理由かも知れませんね。

インドネシアは多民族国家なのでその恋愛模様や結婚、離婚感といったものはそれぞれの地域や民族によって異なります。

という理由で全体像がよく私にも把握仕切れていませんので、私が住んでいるバリ島についての恋愛事情と結婚、離婚はどうなっているのかお話していきたいと思います。

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目次

インドネシアの恋愛ってどうなってる?
インドネシアの結婚観と結婚事情
インドネシアの離婚事情
宗教による制約が多い結婚事情
    執筆者:harudai(ペンネーム)

インドネシアの恋愛ってどうなってる?

インドネシア、バリ島の恋愛事情

日本の若者と同じように自由恋愛盛んですねー。(笑)その上、バリ島は国際性に富んでいる島なので国際恋愛というのも他の島々に比べて多く見られます。

ただ、バリヒンドゥ教はカースト(身分)制度があるために、恋愛は誰とでもできるんだけど、結婚となるとなかなか難しいようです。男性より女性の方がカーストが上だと家族の反対もあるために結婚まで行き着くことはなかなかないんですよね。そのためか、カーストが上の女性は恋愛にも慎重になっている人が多いようですね。(このあたりの女心は日本の女性と一緒かな?)(笑)

お家柄が違う、ふさわしくないっていう理由は今の日本ではもうあまり聞かれなくなったので、現代社会でもまだこういう国が実際にあるという事実に驚く人もいるんじゃないかな?

女性が気をつけなきゃいけないのが既婚男性が独身だと思わせといて近づいてくる時があるんですよね。

後述の一夫多妻制にも関連してくるんですけど、インドネシアの男性の中には日本人女性も第二夫人として結婚できるという間違った認識がある人もいるので、いくら恋愛だといってもその後のことも考えると十分気をつけてもらいたいと思います。残念なんだけど、こういうトラブルに巻き込まれてしまった人は日本人女性のみならずバリ人同士でもあるんです。

だから、インドネシアの男性と仲良くなった際には必ず彼の家族を知ること、実家へ必ず行ってみる事、彼の友達のからリサーチしてみることが重要かもしれません。

私も主人と恋愛している時には、しつこく何度も何度も「結婚してないよね!?」と本人はおろか主人の家族親戚友人みんなに聞きまくった記憶があります。(笑)

インドネシアの結婚観と結婚事情

インドネシア、バリ島の結婚式

冒頭でも述べましたが、インドネシアは一夫多妻が認められている国です。バリ島でもほんの少しですが今も尚二人奥さんがいる、という男性を見かけますね。

ただ、それには条件があって、男性が好きな時に好きな数だけ奥さんをもらえるというハーレム状態(笑)の結婚はできず、二人目の奥さんをもらう場合には必ず一番目の奥さんの承諾書をもらうように法律で定められています。同じように3人目の奥さんをもらう場合には第一夫人と第二夫人のサインをもらわなければいけません。結構面倒くさいですよね。そう簡単にサインがもらえることはないでしょうし。(笑)

ちなみに私の場合、一夫多妻制の国の人と結婚するということもあってか、結婚する時には日本の役所に提出する書類の中に男性が独身であるという証明書も添付するようになっていました。

また、結婚は基本的にはフリーと言えどもまだまだ制約的なことも残っています。

バリ島では各家庭にサンガという家のお寺が必ずあって、それを守るために男の子が必ず必要になります。そのために、例えば男の子を生んだ兄嫁がいて、兄がその後亡くなってしまった場合には弟がその兄嫁と結婚して兄の息子を跡取りにする、といった結婚もまだ時々見受けられます。

バリヒンドゥ教では何よりも家の寺院を守り続けていくことが大切なので、個人の感情が犠牲になる場合も多々あります。

他にも先の「恋愛事情」で述べたようにカーストが絡んできて、想い人と結婚をあきらめざるを得ない人もいますしね。

あ、あとこれも付け加えておかなきゃです!

インドネシアは宗教国家でもあるので、宗教が異なるインドネシア人同士での結婚の際にも夫婦どちらかの宗教に改宗しなきゃならないんですよね。結婚儀式の時に改宗の証明書に本人や家族、そして身元保証人のサインが必要です。

インドネシアの離婚事情

インドネシア、バリ島の恋愛、結婚、離婚について

統計が少し古いものなんですけど、2005年~2010年の間に離婚率が70%にまで膨れ上がったという政府のデーターがあります。理由としては女性が自立していけるようになったことや社会的地位が向上して、第二夫人をもらおうとする主人に対して認めたり反対するより離婚を求める女性が増えたということもあるんでしょうね。

離婚は日本のように協議離婚というものはなくて、必ず宗教裁判所が介入するようになっています。

しかし、離婚できたとしてもまたその後が大変なんです。慰謝料や教育費の負担というのは男性側には全くないので、離婚後の女性は大変かも。
そして、男の子がいる場合はこれまた少しややこしくなっちゃうんです。

バリ島の場合は宗教と関連してくるんですが、夫婦間に男の子がいればその子は必ず父親の家に残るようになります。中には母親と暮らす男の子もいますが、家で行われる宗教儀式やお祭りの際には子供達は必ず父親の家に参拝しにいくんです。

また、母親が再婚する場合には一緒にその再婚相手の家に住むことはできません。これもまた宗教的理由で、男の子はあくまでも自分の生まれた父方の家のお寺に属することになるので、母親の再婚相手の家のお寺と関わったりその家で暮らすことはできないんですよね。

裏を返せば、それだけバリでは男の子が重要だということなんです。

宗教による制約が多い結婚事情

宗教による制約が多い、インドネシアの恋愛と結婚

インドネシアは日本と同じように自由恋愛、自由結婚、自由離婚できますが、やっぱり宗教国家であるがためのいろいろな制約が多いのも確か。特にバリではその色が濃いですねー。

みんな一度の人生だから思うがままに生きよう!というのはこの島ではわがままなのかも知れません。それだけ、祖先や家、血、それらの根底にある宗教を大事にしているからなんでしょうね。

執筆者:harudai(ペンネーム)

プロフィール:国際結婚で2000年からインドネシアバリ島に住んでいる主婦兼二児の母。「郷に入っては郷に従え」精神でご近所の方々に助けてもらいながらの日々の生活。今だ近所のおばちゃんたちから学ぶこと多し。

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【コラム】インドネシアの宗教事情

【コラム】インドネシアの宗教事情
https://www.indonesiasoken.com/news/colume-syukyojijyo/

『インドネシアは世界最大のイスラム人口を抱える国ですが、様々な宗教の信仰が認められている多宗教国家でもあります。

今回のコラムでは、インドネシアを訪れるにあたって知っておきたい宗教事情についてお話しします。

?宗教と割合

インドネシア共和国憲法で認められている宗教はイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー、仏教、儒教の6つです。

国家原則「パンチャシラ」では唯一神への信仰が定められているため、「無宗教」であることは認められていません。そのため、ほとんどすべての人がなんらかの宗教を信仰しています。

2010年のインドネシア人口統計によると、9割近くがイスラム教信者であり、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教の信者があとに続きます。

【信仰する宗教の割合】

宗教 人数 割合

イスラム教 207,176,162 87.18%
キリスト教(プロテスタント) 16,528,513 6.96%
キリスト教(カトリック) 6,907,873 2.91%
ヒンドゥー教 4,012,116 1.69%
仏教 1,703,254 0.72%
儒教 117,091 0.05%
その他 299,617 0.12%
回答なし・回答協力せず 896,700 0.37%
合計 237,641,326 100%

出典:Badan Pusat Statistik, Sensus Penduduk 2010
https://sp2010.bps.go.id/index.php/site/tabel?tid=320&wid=0

?

宗教にまつわる国民の祝日

インドネシアが様々な宗教の信仰を認め、多様性を尊重していることは、制定されている国民の祝日からも分かります。

?【2018年の宗教関連の祝日】
イスラム教 ムハンマド昇天祭(4/14)、イドゥル・フィトリ(6/15, 6/16)、
イドゥル・アドハ(8/22)、イスラーム歴1440年新年(9/11)、
ムハンマド生誕祭(11/20)
キリスト教
(プロテスタント) キリスト受難日(3/30)、キリスト昇天祭(5/10)、
クリスマス(12/25)
キリスト教
(カトリック) クリスマス(12/25)
ヒンドゥー教 ニュピ(3/17)
仏教 ワイサック(5/29)
儒教 ?イムレック(2/16)

宗教伝来の歴史と各宗教の習慣

インドネシア地域は古来より、地理的に好立地であったため様々な人々が行き交っていました。オーストロネシア人の渡来に始まり、交易の時代には香辛料を求めて中東、ヨーロッパ地域からはるばる商人がやってきました。

ここではそのような人の移動と共に、どのようにして宗教が伝来したか時系列順に見ていきましょう。

?アニミズム

海外からヒンドゥー教や仏教が伝来する前より、インドネシア地域の広範囲でアニミズム(精霊信仰)があったことが分かっています。

独立以降、原則として唯一神への信仰が前提となっているインドネシアではアニミズム信仰は正式には認められていませんでしたが、2007年よりインドネシア政府が非公式の宗教信仰者同士の結婚が認められる旨を発表しました。

?ヒンドゥー教

ヒンドゥー教はインドより徐々にインドネシア地域へと伝わり、やがてジャワ文化と融合していきました。

ジャワ地域の有名な影絵芝居「Wayang Kulit」もヒンドゥー文化の影響を受けているものです。

他の宗教が流入した影響により、植民地時代以降、ヒンドゥー教の信者はイスラム教の影響が少ないバリ島に集中するようになりました。

現在でもバリ島全域でヒンドゥー教が信仰されており、他の島とは異なる建築物や文化を見ることができます。

また、ジョグジャカルタにある世界遺産「プランバナン寺院」もヒンドゥー教の建築物です。

?仏教

ヒンドゥー教と同様に、仏教もインド文化の影響を受けてインドネシア地域に伝わりました。

シャイレーンドラ王朝、シュリ―ウィジャヤ王朝などの支配を受け、仏教はインドネシアの広範囲に浸透します。

ジャワ島中部の世界遺産「ボロブドゥール寺院」は世界最大級の仏教寺院です。

なお、現在インドネシアで仏教を信仰しているのは、主に中華系の民族であると言われています。

?儒教

By Okkisafire ? Own work, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29215955

儒教は中国商人によりインドネシアに伝わりました。

ヒンドゥー教や仏教、イスラム教のように王朝の元で大規模な信仰が行われていたわけではありませんが、今日まで信仰が受け継がれています。

スハルト時代には儒教は国の宗教として認められておらず、政治的影響を受けた宗教の一つでしたが、民主化以降、国から認められる宗教の一つとなった、という歴史を持っています。

?イスラム教

インドネシア北西部からムスリム商人がインドネシア地域へ渡来し、彼らが現地の支配階級との婚姻関係を結んでいったことでエリートクラスから庶民までイスラム教への改宗者が増えていきました。

現在ではインドネシア全域で信仰されていますが、様々な宗派があり、地域によってもイスラム教へのアプローチ方法が異なります。

ここ数年はマジョリティーを占めるムスリムの支持を得るため、イスラム教の政治利用も目立っています。

?キリスト教(カトリック・プロテスタント)

キリスト教は宣教師の渡来と共にインドネシア地域へ伝来しましたが、オランダ植民地政府の関心はキリスト教を布教することよりも、本国経済を支えることにありました。

既にイスラム教の影響を深く受けている地域ではキリスト教はあまり浸透しませんでしたが、バリ島の東のエリアから東ティモール地域はカトリック、パプア地域はプロテスタントが広がっていきました。

なお、カトリックはポルトガルの支配、プロテスタントはオランダの支配による影響を受けています。

?このように、複数の宗教が時代を経てインドネシアに根付き、「重層文化」が形成されました。

近年、インドネシア国内で小規模なテロや、選挙時の宗教同士の衝突について報道されていますが、何世紀にも渡りあらゆる文化や宗教を受け入れてきたインドネシアは、異なる思想や価値観を共存していける国といえるでしょう。

?ビジネス上の留意点

宗教により習慣やホリデーシーズンが異なります。現地にて調査や視察をご検討される方は、インドネシアの祝日も事前に把握しておきましょう。

また、インドネシアは広大な国家であるため、地域ごとにマジョリティーとなる宗教も異なります。

インドネシアでビジネスをする際は、宗教に関わる側面や地域による特性などを事前に把握しておくことが非常に重要です。

?弊社ではデスクリサーチや規制調査などの実績も多数ございますので、ご興味のある方は是非お問い合わせ下さい。

?株式会社インドネシア総合研究所
お問い合わせフォーム
Tel: 03-5302-1260 』

経済成長続けるインドネシア 日本のGDPを抜く可能性も

経済成長続けるインドネシア 日本のGDPを抜く可能性も
岡崎研究所
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28776

『11月17日付Economist誌は「なぜインドネシアは重要なのか」との社説を掲げ、G20で存在感を示したインドネシアの将来性の高さを、その理由とリスクと共に論じている。要旨は以下の通り。

 G20が行われたインドネシアはスハルト政権崩壊から四半世紀後に再び注目された。同国は、米中の戦略的競争に巻き込まれているが、新世界秩序に適応しつつあり、次の四半世紀で影響力が大きく伸びる可能性がある。

 その理由の第一は経済である。GDPは新興国中第6位。1兆ドル超GDP国では、中印以外で過去10年最速で成長。その源泉はデジタルサービスである。電気自動車(EV)サプライチェーンに必須なバッテリー用ニッケルの世界埋蔵量1/5を占めるという特有の事情もある。

 第二の理由は民主化と経済改革両立の成功だ。完璧ではないが妥協と社会調和を強調する多元的政治システムを創設。ジョコ大統領は政敵を含む大連立を形成しているが、財政は健全。国営企業改革、労働法規等で漸進的改善を実施。汚職は問題だが経済は10年前よりオープンだ。

 第三の理由は地政学である。インドネシアは超大国競争の重要な舞台だ。非同盟の歴史を反映し中立を希望する同国は、米中デジタル企業と投資家が直接競争する舞台となっている。

 もしインドネシアが今後10年今の道を歩めば、世界トップ10の経済になり得る。

 他方、主なリスクは次の3つである。

 一つは権力承継である。ジョコの任期は2024年だが明確な後継者は不在だ。支持者の中には(3選を禁じる)憲法改正で留任を求める向きもある。権力承継は有権者へのイスラム的政策アピール競争になる可能性がある。ジョコ連合の一部のビジネスと政治閥が権力を得て寡頭政治に回帰する可能性もある。

 二つ目は保護主義だ。ダウンストリーム化(精製部門など天然資源の下流産業の振興)は市場支配力を持つニッケルでは成功しても、他の産業では逆効果かもしれない。

 最大のリスクは地政学で躓くことである。同国が中国の影響圏に入る可能性もある。2020年以降中国企業投資は米国企業の4倍だ。台湾危機の際は、依存するシーレーンが閉鎖され、西側制裁は同国が頼る中国企業に打撃を与え得る。

 インドネシアは資源と保護主義、大連立政治、中立主義に依拠して、自国民を満足させ、かつ、成長する道を見つけようとしている。成功すれば、自国民の生活を改善し、成長を望む世界を励ますことになる。これは世界の力のバランスを変えさえするかもしれない。

*   *   *

 G20で首脳宣言をまとめたインドネシアが注目を集めている。Economistのようなメディアがこのような記事を載せる影響力は大きい。上記社説の大きな論旨には賛成だが、細かい点で若干の異論がある。

 まず、「今後10年今の道を歩めば世界トップ10の経済になり得る」ことに異存はないが、既に世界の第17位である同国がトップ10に「なり得る」との記述は、インドネシアのインパクトを十分捉えていない。コロナ禍の下、中進国の中で最も早く年5%台の成長に回復した国の一つであるインドネシアは、2040年代に世界第5位のGDPになる勢いを持っており、更に、インドと共に日本のGDPを抜く可能性のある数少ない国の一つなのだ。』

『次に、権力承継がリスクだとの主張は、過度に深刻視する必要は無いだろう。3選を禁じる憲法の改正でジョコ大統領が続投するという可能性は、とうの昔になくなっている。伸び盛りの国に相応しく、後継者の能力があると評価される人物は相当多い。一方、立候補には国会の20%以上の議席を持つ政党の支持が必要なので、現実的な候補は既に片手以内に絞られている。

 更に重要なのは、大統領候補の出身母体の多様化だ。軍が唯一のエリート養成機関であったのは、遠い過去の話である。今や、州知事を含む地方の首長(いくつかの州は数千万の人口で、中小国より大きい)が登竜門の一つになっている。ジョコ自身もジャカルタ特別州知事出身だし、今の候補者中、軍出身は70歳代の一人に限られる。これは、「ビジネスと政治閥が権力を得て寡頭政治に回帰する可能性」は最早それほど高くないことを意味している。

歴史も絡む中国との難しい関係

 第三に「中国の影響下に入る可能性」だが、これも高くない。そもそも中国の対インドネシア投資は入れるのも早いが出すのも早く、過去10年間のストックは未だ日本の1/5以下であり、ジャカルタ・バンドン高速鉄道に象徴されるように失敗例も多い。ここ数年間連続でナツナ諸島に現れる海警に守られた中国漁船の存在は、安全保障面でもインドネシアの対中姿勢を硬化させている。

 更に留意すべきは、対中関係は国内問題という歴史的事情だ。オランダ統治時代に中間管理職として厳しく当たりオランダ撤退後にその富を寡占した中華系インドネシア人は、いまだにデモ・騒乱の際の主な攻撃対象だ。これらを考えると、平時には日、米、中、欧ほかと全方位で付き合うインドネシアだが、危機に当たり中国を頼る可能性はあまり高くないと考えるべきだと思う。

 最後は、台湾危機のインドネシアへの影響である。上記社説は重要な論点を挙げているが、実際の危機に際しては、インドネシアはマラッカ海峡の唯一の代替航路を提供する立場にあることも忘れてはならない。日米は引き続きインドネシア沿岸警備隊の能力強化に努めていく必要がある。』

NYダウ大幅続落、764ドル安 景気後退の懸念強まる

NYダウ大幅続落、764ドル安 景気後退の懸念強まる
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN15E9A0V11C22A2000000/

『【ニューヨーク=竹内弘文】15日の米株式市場でダウ工業株30種平均が大幅続落し、前日比764ドル(2%)安の3万3202ドルで引けた。午後には下げ幅が一時900ドルを超える場面もあった。朝方発表の経済指標が市場予想を下回り、景気後退入りに対する警戒感が強まった。米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長が前日の会見でタカ派姿勢を強調したことも投資家心理を冷え込ませている。

マネーは、リスク資産の株式から逃避して安全資産に向かった。長期金利は前日比0.05%低い(債券価格は高い)3.45%に低下した。ドルの総合的な強さを示すドル指数も上昇。円相場は1ドル=137円台後半と、前日から2円以上円安・ドル高が進んだ。

取引開始前に米商務省が発表した11月の米小売売上高は前月比0.6%減となり、市場予想(0.3%減)を下回った。インフレ下の年末商戦における消費者の節約志向を映し、個人消費の減速を示した。

金融政策の見通しも相場の重荷となった。前日まで開いた米連邦公開市場委員会(FOMC)でFRBは2023年末の政策金利見通し(参加者予測の中央値)を5.1%と前回の予想より0.5%引き上げた。積極的な金融引き締めが続けば今後の景気後退の度合いが深まるとみて、リスク資産の株式を手放す動きが加速した。

【関連記事】

・不況に備え、身縮める株式投資家(NY特急便)
・米小売売上高、11月0.6%減 インフレで裁量支出減
・米のインフレ圧力根強く FRB、賃金上昇に警戒感
・欧州株が急落 ECB利上げ継続示唆、景気後退を懸念

ニューズレター https://regist.nikkei.com/ds/setup/briefing.do?n_cid=DSREA_newslettertop

多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

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伊藤さゆり
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
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ひとこと解説

昨日の市場にはECB政策理事会の結果も少なからず影響したと思われる。
ECBは利上げ幅を50bpに縮小したが、声明文には「物価目標の回帰に必要な十分に引き締め的な水準まで安定したペースでの大幅な利上げが必要」との一文が盛り込まれた。
ラガルド総裁の記者会見での発言も50bpペースでの複数回の利上げを示唆、「到達点は近い」との市場の楽観論を牽制した。
昨日改定されたECBのユーロ圏の経済見通しでは「浅く短いリセッション」に陥るが、雇用の底堅さなどからその後は回復と見ているが、果たしてそれで止まるのか。
今年、想定外の急ピッチの利上げに動いた欧米の景気後退が想定以上に深まるリスクが意識されます。
2022年12月16日 8:08

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滝田洋一
日本経済新聞社 特任編集委員
コメントメニュー

ひとこと解説

①リテール・セールス・ショック。0.6%減と11月の米小売売上高の大幅な落ち込みには、さすがにビックリの雰囲気です。
②これまで景気指標の鈍化は金融引き締めの手綱を緩ませるとの期待から、株式市場には好材料とされてきました。が、米経済の牽引役である消費がここまで落ち込むと、市場参加者もそんなことは言っていられない。
③そうなるとFRBが引き締めの手綱を緩めないことが気になるのが人情です。前門の金融引き締め、後門の景気後退懸念に、株式市場の進退は窮まりました。
④資金が逃げ込む先は米国債。資金の流れを受けてドルが買われました。一方、欧州は株、債券、通貨のトリプル安に。円が売られたのもその流れです。
2022年12月16日 5:34 (2022年12月16日 6:08更新) 』