人びとの意識が統一教会へ導かれている間に日米支配層は中露との戦争を準備する

人びとの意識が統一教会へ導かれている間に日米支配層は中露との戦争を準備する | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212090000/

『岸田文雄政権は統一教会(世界基督教統一神霊協会、1997年から世界平和統一家庭連合)の問題で追及されているが、自由民主党と統一教会との関係は昔から知られ、問題視する人もいたのだが、無視されてきただけだ。この問題へ人びとの目が誘導されている間に日本はアメリカの戦争マシーンの一部として戦争の準備を進めている。

 第2次世界大戦後、アメリカは買収、恫喝、暗殺、クーデター、軍事侵攻などあらゆる手段を講じて世界征服に向かってきた。途中、ライバルとの平和共存を訴える大統領も現れたが、第1期目の途中で暗殺されている。

 そうしたアメリカによる侵略が始まる背景にはイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルが存在していた。1945年4月に反ファシストのフランクリン・ルーズベルトが急死、その翌月にドイツが降伏するが、その直後にチャーチル英首相はソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるようJPS(合同作戦本部)に命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルは1945年7月に退陣するが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。そのチャーチルはFBIの文書によると、1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War – uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)

 チャーチル自身はイギリスの貴族を父に、またアメリカの富豪を母に持つ人物。父親のランドルフはジョン・スペンサー-チャーチル公爵の3男で、素行の評判は良くない。カネ使いが荒く、親しくしていたネイサン・ロスチャイルド男爵から多額のカネを借りていたという。ランドルフは1895年に死亡しているが、死因は梅毒。ネイサンは19世紀のイギリスを支配していたグループの中心的な存在で、セシル・ローズのスポンサーだ。

 第2次世界大戦中、アメリカとイギリスは核兵器を開発していたが、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われて成功、7月24日にハリー・トルーマン米大統領は原子爆弾の投下を許可した。そして7月26日にポツダム宣言が発表される。

 アメリカ軍は1945年8月6日にウラン型原爆「リトル・ボーイ」を広島へ投下、9日に長崎へプルトニウム型「ファット・マン」が落とされた。これ以降、アメリカは核戦争が軍事戦略の中心に据えられる。

 大戦後、1949年4月にアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクによってNATO(北大西洋条約機構)が創設された。

 この軍事同盟を組織した目的はソ連の侵略に備えるためだとされているが、当時のソ連には西ヨーロッパへ攻め込む能力はなかった。ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。結局、この痛手から立ち直ることはできなかった。NATOはヨーロッパを支配する仕組みとして組織されたと言うべきだろう。

 大戦中、レジスタンスに加わっていたシャルル・ド・ゴールも米英の支配層は敵視していた。フランスでは1961年にOAS(秘密軍事機構)が組織された。その背後にはフランスの情報機関SDECE(防諜外国資料局)や第11ショック・パラシュート大隊がいて、その後ろにはイギリスやアメリカの情報機関が存在していた。

 OASはその年の4月12日にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデター計画について討議している。会議にはCIAの人間も参加していた。

 アルジェリアの主要都市の支配を宣言した後でパリを制圧するという計画で、その中心には直前まで中央欧州連合軍司令官(CINCENT)を務めていたモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍がいて、1961年4月22日にクーデターは実行に移される。

 それに対し、アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じている。クーデターを進めるとCIAとアメリカ軍が衝突する可能性が高まる。結局、クーデターは4日間で崩壊してしまう。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 フランスのクーデターを失敗させたとも言えるケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その葬儀にド・ゴール自身も出席している。帰国したフランス大統領は情報大臣だったアラン・ペールフィットに対し、ケネディに起こったことは自分に起こりかけたことだと語ったという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 ケネディ大統領が暗殺されてから3年後にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。その司令部はベルギーのモンス近郊へ移動した。それほどNATOがフランスにとって危険な存在だとド・ゴールは認識していた。

 しかし、ド・ゴールは1968年5月の「五月革命」で追い詰められ、翌年に辞任。後任大統領のジョルジュ・ポンピドゥーはアメリカとの関係強化を推進、SDECEの局長に親米派のアレクサンドル・ド・マレンシェを据えた。この新局長はポンピドゥに従い、アメリカとの関係強化に邪魔だと見なされるメンバー815名を解雇した。

 その一方、アメリカ軍の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を計画している。1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという記載がある。1952年11月にアメリカは初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約60000万人を殺すという計画を立てる。

 1957年に作成された「ドロップショット作戦」は実戦を想定していたようだが、それでは300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊することになっていた。沖縄の軍事基地化はこの作戦と無縁でないだろう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
 アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないタイミングで先制核攻撃をすると考えた好戦派の中には統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイが含まれる。​彼らは1963年後半に先制攻撃する計画を立てた​が、邪魔者がいた。大統領だったジョン・F・ケネディだ。ケネディは1963年11月22日に暗殺される。

 ケネディを暗殺したのはソ連やキューバだという作り話が流れたが、その「偽旗作戦」をFBIがつかんでいたことから先制核攻撃は実現しなかった。そのプランが再び浮上してくるのは21世紀に入り、ロシアが再独立してからだ。

 ​フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載されたキアー・リーバーとダリル・プレスの論文​では、アメリカは近いうちにロシアと中国の長距離核兵器を先制第1撃で破壊する能力を持てるとされている。この雑誌は外交問題評議会(CFR)が発行している定期刊行物で、記事には支配層内部の雰囲気が影響する。

 その後、ロシア経済が速いスピードで回復、軍事力も復活する。アメリカの統合参謀本部はそれを認識しているようだが、ネオコンはロシアの経済力や軍事力を大したことないと信じている。その結果、彼らは苦境に陥り、核戦争の可能性が高まった。

 そうした中、自衛隊は中距離ミサイルや長距離ミサイルで中国やロシアを攻撃する準備、つまり戦争の準備を進めている。本ブログでは繰り返し書いているが、準備が始まるのは1995年。昔から知られている統一教会と政界とのつながりで騒いでいる間に事態は急速に悪化しているのだ。』