幾多の危機から国を守ったイングランドの〝凄腕〟宰相

幾多の危機から国を守ったイングランドの〝凄腕〟宰相
インテリジェンス・マインド
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28600?page=2

『16世紀のエリザベス1世の時代は、イングランドが内憂外患に直面した時代であった。女王はこれら苦難を克服し、後にイングランドの黄金期と呼ばれる時代を築き上げたのである。そして陰で女王を支え続けたのが、宰相フランシス・ウォルシンガムであった。

 ウォルシンガムは駐仏大使を務めた外交官であり、1573年には国王秘書長官(現在の国務大臣)に任命され、情報活動の責任者となる。彼は「情報にはいくら金をかけても高すぎるということはない」という有名な言葉を残しており、情報収集の体制づくりに心血を注いだ。

 ウォルシンガムは国内外に情報提供者を多数雇い込み、さらにトマス・フェリペスという暗号解読官を中心とした組織を設置して、国内の郵便物に目を光らせたのである。この活動のため、ウォルシンガムは女王から機密費を受け取っていたが、それでも足りない分は私費で補っていたという。

女王の暗殺阻止へ
暗躍したスパイ

 当時ウォルシンガムが最も警戒したのがカトリック勢力の浸透であり、その大本がスコットランド女王メアリーであった。メアリーはイングランド女王エリザベスの遠縁にあたり、その背後にはスペイン王フェリペ2世が控えていた。メアリー女王自身もエリザベス1世に代わって、イングランドを治めるべきは自分であると考えていたが、プロテスタントのウォルシンガムにとってそれはカトリックとフェリペ2世に国を乗っ取られるのに等しいことであったため、何としても阻止しようとしたのである。

 ウォルシンガムのスパイ網は83年3月、エリザベス女王に対するクーデター計画の情報を入手する。それは女王を暗殺して、ローマ教皇軍とスペイン軍がイングランドに侵攻し、メアリーをイングランド女王に据えるというものであった。

 ウォルシンガムは早速、首謀者のフランシス・スロックモートンを逮捕し、自白を引き出すことに成功した。計画の裏にはスペインの駐英大使、ベルナルディノ・デ・メンドーサがいることが明らかになり、大使は国外追放処分となった。

 しかしその後も女王に対するクーデター計画は続く。

 今度はメアリー女王自らが計画の首謀者となっていた。メアリーはウォルシンガムの厳格な監視下に置かれていたため、屋敷に週に1度運ばれてくるビールの樽に暗号で書かれた手紙を忍ばせ、協力を申し出た駐英フランス大使に送られていたのである。

 だが、抜け目ないウォルシンガムの部下はこの手紙を密かに抜き取り、暗号解読によって内容を掴んでいた。計画はやはりエリザベス女王を暗殺し、スペイン軍がイングランドに侵攻するというものであった。そして暗殺役にはアンソニー・バビントンというカトリック教徒の若者が抜擢された。

 バビントンは6人の実行犯を組織し、メアリー女王と直接暗号文で具体的な計画をやり取りしていた。86年7月6日にバビントンは「われわれによって(女王の)悲劇的処刑が行われることになりましょう」と書き送り、メアリーも「外国軍の侵攻準備が整えば計画実行の時です」とクーデターを煽っているが、このようなやり取りはウォルシンガムに筒抜けとなっていた。

 同年8月14日、バビントンとその一味は一斉に逮捕され、翌月には反逆者として処刑された。そしてメアリー女王も反逆罪で裁判にかけられることになる。裁判で女王はバビントンなる人物は知らないと言い張ったが、ウォルシンガムが解読した女王の手紙を読み上げると、観念したという。

 その結果、死刑が宣告され、87年2月8日にメアリーは処刑された。』

『無敵のスペイン艦隊が大敗を喫した理由とは

 メアリー女王によるクーデター計画と並行して、スペイン国王フェリペ2世は、イングランドへの侵攻を独自に計画していた。86年3月にフェリペ2世は、150隻の軍艦と8万人もの大軍によるイングランドへの侵攻計画を裁可しており、この計画をスペインの支援者であるローマ教皇シクストゥス5世に手紙で伝えている。

 これに対してウォルシンガムは既にローマにもスパイ網を築いており、教皇の側近を買収して、フェリペ2世の手紙を入手することに成功していた。そして87年に入ると侵攻が確実視されるようになったため、ウォルシンガムは先手を打つべく、海賊出身のフランシス・ドレーク提督を使ってカディス港のスペイン艦隊を奇襲している。

 ドレークの攻撃は成功し、計100隻以上ものスペイン艦船が破壊・拿捕され、さらに保管されていた1年分の樽材と鉄のたがが葬り去られた。樽は遠洋航海の際に貴重な飲料水の貯蔵庫となるため、これによってスペイン艦隊の長期航海は難しくなった。

 大損害を受けたスペイン側は、侵攻計画を練り直す状況に陥り、一方のイングランドとしては無敵艦隊を迎え撃つ時間を稼いだことになる。ウォルシンガムは自ら軍艦購入のための資金を調達し、他方で外国の金融機関がスペインに融資することを妨害し続けた。そして大陸における監視網を強化し、スペイン艦隊の来襲に備えたのである。

 88年7月31日、ついに130隻もの艦艇からなるスペイン無敵艦隊が英仏海峡に到達すると、イングランド海軍も準備した200隻でこれを迎え撃った。ここではドレーク提督の作戦指導が功を奏し、イングランドの艦艇は機動戦術を駆使してスペイン艦艇を一方的に撃沈させていった。

ドレーク提督が率いたイングランドの艦艇は、無敵を誇ったスペイン艦隊を一方的に撃沈させていった(1588年、アルマダの海戦) (AFLO)

 戦闘はブリテン島を一周する形で、2週間にわたって行われたが、スペイン側はイングランド海軍による攻撃に加え、食料・水不足に悩まされ、士気の低下が甚だしかった。その結果、無敵を誇ったスペイン艦隊は大敗北を喫し、スペインに無事帰還できたのはわずか60隻であったという。

 このようにウォルシンガムは、情報の力によって国内外の危機からイングランドを守り抜いた。ただし彼は私財を投じて活動していたため、その死後、2.7万ポンド(現在の貨幣価値で約6.4億円)もの借金が残されたという。彼の墓碑は次のようなものであった。「この国を目にも明らかな多事多難から救い出し、この社会を守り、この王国の平和を確保した」(ロバート・ハッチンソン著『エリザベス一世のスパイマスター』〈近代文藝社〉)。』

https://note.com/wedge_op