反ゼロコロナ「白紙運動」の背後にDAO司令塔

反ゼロコロナ「白紙運動」の背後にDAO司令塔
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20221130-00326323

 ※ 今日は、こんな所で…。

『ゼロコロナに抗議するデモが中国各地で一斉に起き、同じように白紙を掲げた時点で、これは「自発的でない」と直感した。徹夜の追跡の結果、背後にいる組織を突き止めた。全米民主主義基金(NED)も絡んでいたのか。

◆自発的なら同時に白紙を掲げるなど奇異な共通点が多すぎる

 11月26日から28日に掛けて、中国各地でほぼ同時に反ゼロコロナ抗議デモが展開されたが、もしこれらが完全に自発的であるならば、どの都市においても同じように白い紙を掲げて抗議意思を表明することに関して違和感を覚えた。

 シュプレヒコールも、予め申し合わせていたように類似している。

 誰もが類似の閉塞感の中にあるので、類似の言葉を使うのは当たり前だという解釈もあり得るだろうが、長年にわたり中国で発生したデモを考察してきた者として、「何かある」という第六感が働いたのである。

◆ウルムチの犠牲者10人に対する哀悼に関する違和感

 20年間ほどにわたり中国の教育部(日本の昔の文部省に相当)と『中国大学総覧』などを編纂するために共に仕事をしてきた者として、少数民族に対する漢民族の「一種の蔑視」のようなものを感じてきた。なぜなら北京大学や清華大学などを受験する時にも、少数民族に対しては優遇策があり、漢民族の合格点よりも低い点数でも合格できるという制度があるからだ。たとえば、(少数民族の)Aさんは北京大学の卒業生だと礼賛したとしても「フン、何言ってるんだい。少数民族じゃないか」という反応があり、「低い点数で、本来なら合格できた漢民族を排除している」という「反感」のようなものがある。

 また、もしウルムチでの10人の犠牲者を哀悼するために複数の都市でデモを起こすなら、なぜウイグル族が100万人も強制収容されているということを何年にもわたって聞き及びながら、全く無関心なのだろう。

 新疆ウイグル自治区には江沢民政権時代から多くの漢民族を送り込んでウイグル族の血統を追い出し、今では漢民族の方が多くなっており、かつウイグル人女性を強制的に福建などに出稼ぎに行かせて、ウイグル人同士の純粋な血統が薄まるようにしてきたことは周知の事実だ。出稼ぎ地で漢民族とウイグル族の間の紛争が絶えず、それが「テロ」を招いたとして取り締まりを強化してきた経緯もある。また21年5月20日のコラム<ウイグル「ジェノサイド」は本当だった:データが示すウイグル族強制不妊手術数>に書いたように、ウイグル人同士の子供を懐妊した場合には、一人っ子政策を廃止したあとも堕胎手術が増えている事実もデータとしてある。これは中国国内のデータなので、ウイグル族に関心を持っている中国人なら知っているはずだ。

 このような漢民族とウイグル民族の間における敵対的な関係を考察してきた筆者としては、新疆ウイグル自治区であるウルムチの犠牲者に漢民族がこれだけ憤ることに、非常な違和感を覚えたのだ。

◆火事の日、ウルムチの封鎖は解除されていた

 ウルムチで火事が起きたのは11月24日夜7時頃で、消火されたのは同日の夜10時35分であった。

 問題なのは、たしかに今年8月からウルムチの吉祥苑団地は断続的にコロナによる封鎖をされていたが、11月4日には高リスク地域に指定されたものの11月12日には低リスク地域に戻し、11月20日(火事が起きる4日前)から団地内なら外出可能となっていたということだ。

 このビルが建っている場所は、コロナ流行の有無に関係なく、もともと道幅が細く、消防車が入るのが困難な場所で、日本で言うならば「建築法違反」であった。コロナなどなくても、火事が起きたら消防車が入るのが困難で、救助活動に支障をきたすような場所だった。

 しかし、何者かが「コロナによる封鎖のせいで消防活動ができなかった」という「偽情報」を流したのである。

 何の目的で?

 誰が?

◆背後で動いていたDAO(分散型自律組織)の正体は?

 これらの違和感や疑問に基づき、「何かある」と直感したため、背後に隠れているものを突き止めるべく、徹夜の追跡を続けた。

 その結果、遂に背後で動いていた組織を突き止めることに成功したのである。

その組織名は「全国解封戦時総指揮中心」(全国封鎖解除 戦時総指揮センター)である。以下にその画面を貼り付ける。

図表1:全国封鎖解除 戦時総指揮センター
出典:White Paper Citizen DAO

 この大元はWhite Paper Citizen DAOで、英語で書かれている。White Paperは文字通り「白紙」で、White Paper Citizenは「白紙公民」と中国語に訳されている。そのウェブサイトには「使命」や「基本原則」などがあり、そこには「白い紙を掲げること」などが要求されている。

 DAOというのは“Decentralized Autonomous Organization”の略で、日本語では「分散型自律組織」と訳されている。主としてブロックチェーン上で世界中の人々が協力して管理・運営される組織のことだ。

 このような「組織」があったからこそ、中国の主要都市で、一斉に同じ行動に出ることができたのであって、決して「自発的行動」ではなかったことが判明した。

◆DAO【全国封鎖解除 戦時総指揮センター】が指定した都市名

 この総指揮センターのTelegramのページを見ると、総指揮センターが指定した都市名には以下のようなものがある。

   满洲 :https://t.me/+0s5bX8W3rVViZjNh

   広東: https://t.me/+fCOsptLO4hNkZmE9

   広西: https://t.me/guangxifuckccp

   江蘇: https://t.me/freedomto8946

   武漢: https://t.me/runrunrun666

   湖北: https://t.me/runrunrun666

   四川: https://t.me/+wQeWFO1ltiIzMjZl

   杭州: https://t.me/+ePDpHZBAaBMxYTM1

   烏鲁木斉(ウルムチ): https://t.me/+qcdUIHgu0D1hM2U1

   山東: https://t.me/+oXbp_4AGvWQ0ODM1

   文宣宣伝活動: https://www.instagram.com/p/CleEb_wgrcG

 総指揮センターが指定した都市名と実際にデモがあった都市名をリストアップすると以下のようになる。但し、「アクセス不可」と書いたのは、今コラムを書いている時点では、すでにアクセス先が削除されてアクセスが不可能になっているという意味だ。

図表2:デモが起きた都市名と総指揮センターが指定した連絡グループ名
筆者作成

 戦時総指揮センターが指定した連絡グループ名と、実際にデモが起きた都市名はほぼ一致しているが、その後、深圳などが追加され細かな指示が出ているものの、実行された気配はない。

 この司令塔はいったい何者なのか。

 それをつぶさに調べてみると、最も「怪しい!」と思ったのは「満州」だ。

図表3:総指揮センターが指定した連絡グループ「満州」
出典:White Paper Citizen DAO

 ここにある「熱河省」は「満州国にかつて存在した省」で、現在の「河北省・遼寧省・内モンゴル自治区」の交差地域に存在し、日本敗戦と満州国滅亡とともに消滅した行政区分だ。

 なぜだ?

 ひょっとして「中華民国」(台湾)と関係しているのかと思い、各指定地区のリンク先を調べてみたところ、「ウルムチ」のリンク先に、以下の図表があるのを発見して驚愕した。

 「乱民党が台湾を武装統一する」と書いてあるではないか。

 しかも、この写真にあるのはアメリカのNED(全米民主主義基金)とも関係している筆者の友人だ。誰かが適当に貼り付けたのかもしれないが、トランプ政権で主席補佐官をしていたスチーブン・バノン氏とともに何度も会っている。ますます興味が湧き、親近感を持ってきた。

図表4:総指揮センターが指定した連絡グループ「ウルムチ」
出典:White Paper Citizen DAO

 しかし、ここにある画像がまたコロコロと入れ替わり、もう今この時点では多くの中国大陸のユーザーが登録してTelegramというアプリ内でさまざまな立場から論争をしているのも見受けられるようになったためか、この画像は見ることができなくなっている。筆者が見つけたくらいだから、当然、中国政府の公安も見つけて見張っているだろう。

◆香港が関係している?

総指揮センターの中の「宣伝部」を見ると、もっと不思議な現象にぶつかってしまった。ここではアメリカのコロンビア大学キャンパス内と中国領事館前における反ゼロコロナ「白紙運動」への、以下のような呼びかけが書いてある。

図表5:総指揮センター「宣伝部」にある情報
出典:White Paper Citizen DAO

 さらに、このページをよくよく見ると、呼びかけの具体名としてnyuhksagというのがある。そこにHong Kong Student Advocacy Group – NYUという言葉があるが、Hong Kong Student Advocacy Group(香港の学生を支援するグループ)は2019年に「ニューヨーク大学の学生が香港の学生たちを支援して、民主や人権など政治問題に関して香港に影響をもたらすために設立した組織」である。

 これこそは、香港の学生デモを支援する民主化運動の中心地で、実はニューヨーク大学で国際関係の業務を担っていたクリストファー・ウォーカー氏は今NED(全米民主主義基金)の副会長を務めている。

 そして言うまでもなく香港の雨傘運動などの神にも近いリーダーであった李柱銘(マーチン・リー)は古くからNEDと深く関わっており、雨傘運動があった2014年の4月2日にワシントンで開催されたNEDとのトークに出演している。トークのタイトルはWhy Democracy in Hong Kong Matters(なぜ香港の民主主義が重要なのか?)だった。

◆台湾の統一地方選挙とNEDのシンポジウム

 一方、NEDが中国に関して「民主と独立」を支援しているのは香港だけでなく、「台湾、ウイグル、チベット」を含めた4地区の「民主と独立」を支援してきた。

 今年10月25日、NEDや台湾民主基金会などが主催する「世界民主運動」の世界大会が台北で開催された。蔡英文総統が出席して、1ヵ月後の統一地方選挙に向けて、民意が民進党に向かうように力を入れたのだが、11月27日のコラム<台湾地方選で与党敗退 APECで習近平がTSMCに挨拶が影響か>で書いたように民進党が大敗した。

 反ゼロコロナ「白紙運動」デモはその直後から起き始めた。もし民進党が勝っていたら、このようなデモは起きなかったかもしれない。国民党に有利だという情報は11月10日の民意調査ですでに出されていた。

 NEDがいたのだとすれば、反ゼロコロナ「白紙運動」がウイグル族のウルムチの惨事をきっかけにしたのも、ようやくうなずける。

 加えて、この「白紙」を掲げる形式は、2019年に香港デモで先例があり、今般は戦時総司令センターが、香港の先例を学ぶように指示を出したものと思われる。何しろ、香港が「宣伝部」司令塔になっているので、香港形式を踏んだものと考えていいだろう。

 日本では今般の反ゼロコロナ白紙運動は「完全に自発的なものだ」と主張する研究者や、中には「サッカーの試合を観て観衆がノーマスクであるのを知ったからだ」などという、奇想天外な見解を発表する研究者もいるようだが、想像や期待ではなく、客観的ファクトから分析しなければならない。

 なお、中国は医療資源が乏しいため、もしゼロコロナ政策を解除したら、3ヵ月で160万人の死者が出るというシミュレーションが出されており、習近平としてはそう軽々にゼロコロナ政策を解除するわけにもいかないジレンマに追い込まれている。これに関しては、中国の人口減少という悩みも含めて拙著『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』の第五章で詳述した。

追記:司令塔があっても、ゼロコロナ政策による閉塞感が限界に達していなければ誰も動かないわけで、言論弾圧を含めて限界に達していること自体は事実である。あまりに文字数が多くなったので、そのことに関しては別途書くつもりだ。

記事に関する報告

遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』(2022年12月中旬発売。PHP新書)、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『「中国製造2025」の衝撃』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。』

イギリス海軍

イギリス海軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E6%B5%B7%E8%BB%8D

『王立海軍(おうりつかいぐん、英語: Royal Navy)は、イギリスの海軍。イギリス海軍、英国海軍などとも表記される。』

『名称

英語で特に国名を冠さず単に“Royal Navy”(ロイヤル・ネイビー)とする場合、通常イギリスの海軍を指す。Navy は本来艦隊を意味する言葉であり、イングランド国王が保有する艦隊であったが、やがてイングランドの海上戦力に係る組織全般を意味するようになった[1]。“Royal Navy”の呼称は1660年に与えられたものであるが、イギリスが連合王国となったのは1707年である。つまり、日本では1707年以前の“Royal Navy”或はそれ以前の“Navy”も“イギリス海軍”と表記しているが、これらは本来イングランド海軍と呼ぶべきものである(連合構成国である他の3国アイルランド、スコットランド、ウェールズは関係ない)[2]。

ロイヤル・ネイビーの呼称は、現役の水上艦隊 (Surface Fleet)・潜水艦隊 (Submarine Service)・艦隊航空隊 (Fleet Air Arm) の3隊の集合体を指す場合に使用される。また、それら現役の3隊に加え、補助艦隊 (Royal Fleet Auxiliary)・予備艦隊 (Royal Naval Reserve) を包括する概念を指す場合には、ネーバル・サービス(”Naval Service”, 海軍)の呼称が用いられる。ただし、英語圏においても公式の文書等きわめて厳格にその概念を区分する必要がある場合を除き、ネーバル・サービスを指してロイヤル・ネイビーと言うことが多い。また、いずれの場合にも名称に国名が含まれていないが、省略されているわけではなく、含まないものが正式名称である。

概要

航海中に掲揚される英国海軍軍艦旗

王国の軍隊となったのはイギリス軍の中で最も古く、19世紀の初めから20世紀中まで、世界でも屈指の規模を誇る海軍であった[3]。基本的に各国の軍では陸軍が序列の最上位になるのと異なり、イギリス海軍は「先任軍(Senior Service)」とされており、形式的であるとはいえイギリス空軍とイギリス陸軍よりも上位の存在とされている。

1815年から1930年代後期まで「イギリス帝国」の世界的な影響力をもつ組織として確立させる過程において最も重要な役割を果たした。第二次世界大戦では、海軍は約900隻の艦艇を保有した。冷戦の間、主に対潜戦艦隊に再編され、大部分はGIUKギャップで警戒任務に投入された一方で、スエズ動乱やフォークランド紛争で見せた、対外遠征能力を保持し続けている。しかし、21世紀に入って以降は、ソビエト連邦の崩壊により対潜戦の役割が相対的に低下している。

2020年現在、イギリス三軍中唯一核兵器を保有しており、航空母艦、ドック型揚陸艦、弾道ミサイル潜水艦、原子力潜水艦、ミサイル駆逐艦、フリゲート、対機雷艦艇、哨戒艦、補助艦艇などバランスのとれた艦隊を構成している。

歴史

イギリスは島国のため海軍の歴史は比較的古い。海軍は帆船を主として擁し、ガレー船の類は用いなかったようである。対外戦争で度々海戦を行っておりその多くにおいて勝利を収めた。19世紀から20世紀初めにかけては世界のあらゆる場所でイギリスの艦船が行き交い世界一の海軍として並ぶもののない存在であった。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけては、多数の戦艦を保有し、世界各地に拠点を保有していたが、20世紀後半には植民地の独立と経済不況に伴い、その規模を大きく減じた。

21世紀においては、軽空母を主力としており、戦略的な兵力投射能力を著しく減じていると指摘されている[4]。

サクソン海軍

最初の海軍は、9世紀にイングランドのアルフレッド大王によって設立され、プルックス・ガッターのワンツム海峡でヴァイキングを打ち負かしていたにもかかわらず衰退し始めたが、アゼルスタン王によって復旧された。そして、937年のブルナンブルフ海戦で勝利した時、イングランド海軍はおよそ400隻の船からなる戦力を手にした。

ノルマン侵入が迫っている時、ハロルド2世はウィリアム征服王を防ぐため、自国の艦隊が海峡を渡っていると信じたが、ハロルドの艦隊は嵐で損害を受けて港に入っていて、ノルマン人はヘイスティングズの戦いでハロルドを破った。
チューダー王朝前

1155年にノルマンディー公が五港同盟を結んで得た船で海軍を作った。百年戦争の開戦時、イングランド海軍はフランス海軍に戦力で劣っていたが、1340年のスロイスの海戦においてフランス艦隊を一掃した。しかし、1372年と1419年のラ・ロシェル沖におけるフランスとカスティーリャとの海戦で、イングランド海軍はかなりの損害を負った。そして、イングランド本土の港がジャン・ド・ヴィエンヌ (Jean de Vienne) とフェルナンド・サンチェス・デ・トバル (Fernando Sanchez de Tovar) の指揮する艦隊の襲撃による被害を受けた。幸いなことにフランスは海軍力の戦略的重要性を理解していなかったため、制海権は間もなくイングランドの手中に戻った。

欠地王は500帆からなる艦隊を持ち、14世紀中頃のエドワード3世時代の海軍は約712隻の船を保有していた。

チューダー王朝

イングランド艦隊に敗れる無敵艦隊。

16世紀にヘンリー8世による最初の革命で、王立の海軍 (Navy Royal) として拡張が行われた。キャラックのグレート・ハリーとメアリー・ローズが建造され、1545年にソレント海戦でフランス海軍と戦った。1547年にヘンリー8世が死去するまで、海軍は58隻まで増強された。

ヨーロッパの超大国であり、16世紀において一流の海軍をもつスペイン帝国は、イギリス海軍に対する優位とイングランドに侵攻するため、1588年にオランダから無敵艦隊と上陸部隊を出撃させた。スペインの目論みはオランダの妨害とアルマダの海戦でドレーク・ノリス遠征艦隊に撃破されたため潰えた。また、エリザベス1世の統治中、大西洋を渡るスペインの船とスペインの港湾を襲撃し、莫大な富を王室へもたらした。

ヘンリー8世

ヘンリー8世
エリザベス1世

エリザベス1世

コモンウェルスネイビー

イギリス海軍は誕生から存続し続けたわけではなかったが、イングランドでは17世紀中頃、チャールズ1世によって国家の資金で常備艦隊が維持されるようになった。

しかし、このことにより国家の財政が圧迫されたことが清教徒革命の原因ともなり、イングランド内戦でチャールズ1世が敗北したため、イングランドはオリバー・クロムウェルが統治する共和国となり、海軍も「共和国海軍」となった。海軍は議会の指揮・監督を受けるようになり、これは王政復古後も定着している。

ところが、内戦で分裂した海軍には人材が残っておらず、やむなく議会派の大佐クラスの陸軍軍人を「ゼネラル・アット・シー(英語版)」に任命し、艦隊の指揮をさせた。その一人ロバート・ブレイクによって海軍は再建されたが、この再建は無計画な借金によって賄われており、その負債は王政復古後も残ることになる。

ロイヤル・ネイビー

イングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。

チャールズ2世

1660年、王制復古の宣言がされると、ロバート・ブレイクの死後ジェネラル・アット・シーの筆頭格だったジョージ・マンク将軍(後の初代アルベマール公)が王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーであるエドワード・モンタギュー(後の初代サンドウィッチ伯爵)に対し、艦隊を率いて国王を亡命先のオランダへ迎えに行くよう指示した。モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、当時モンタギュー家の執事だったサミュエル・ピープスをロンドンに残し、彼を通じて議会の動向を把握しており、マンクの指示に従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダからチャールズ2世を連れ帰った。

このように、イングランド海軍は王政復古に際し、全艦隊を挙げて王党派に転じたことでチャールズ2世によってその忠誠を賞され全幅の信頼を得、ロイヤルの称号が与えられて「ロイヤル・ネイビー(国王の海軍)」となった。ピープスは王政復古後、ネイビー・ボード(英語版)長官やイギリス海軍本部書記官(英語版)といった公職を歴任し、議会によるコントロール下の海軍の制度を整備し、共和国時代の負債解消に務めた。そのため、彼は「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。

フランシス・ドレーク

フランシス・ドレーク
ジョージ・マンク

ジョージ・マンク
初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー

初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー
サミュエル・ピープス

サミュエル・ピープス

世界進出

第2次と第3次英蘭戦争においてイギリス海軍は敗北した。その後、緩やかに世界で最強の海軍へと発展していったが、18世紀前半になるとイギリス海軍は他国の海軍に比べて財政的問題が深刻化し、活動と管理に悪影響を及ぼした。しかし、イギリス政府は債券を通して海軍に融資する方法を編みだし、資金を得たイギリス海軍は他国の海軍に対処する封鎖の戦略を開拓し始め、常に高い士気、優れた戦術と戦略の段階的発展、多量の資源に支えられた。

1805年から1914年まで、「ブリタニアは大洋を制した」(Britannia rule the waves、派生してルール・ブリタニアの詩・愛国歌として知られる)という言葉通り、世界中の海で圧倒的な支配力をもった。1805年以前もイギリス海軍の戦略的な失敗は、アメリカ独立戦争中に行われた1781年のチェサピーク湾の海戦だけで、この時は有能なコント・ド・グラス(Comte de Grasse)の指揮するフランス艦隊に敗北した。

イギリス海軍の水兵が“ライミー”と呼ばれることがあるが、これはビタミンC不足による壊血病を防ぐ目的で、この時代に彼らにレモンやライムを支給するようになったことに由来する[5]。

ナポレオン戦争

トラファルガー海戦

ネルソン提督の戦死

ナポレオン戦争開戦時にはイギリス海軍の能率はピークに達し、全ての海軍に対して優位を占めるに至った。エジプト・シリア戦役では当初フランス軍に後れを取った対仏大同盟側がナポレオンの意図をくじくことに成功したのは、ナイルの海戦での勝利をはじめホレーショ・ネルソン提督率いるイギリス海軍の活躍あってのものであった。さらに1805年10月21日のトラファルガーの海戦では、フランス軍によるグレートブリテン島本土侵攻の危機を打ち払う偉大な業績をあげた。数も少なく船も小型であったが、ネルソン卿指揮下の熟達した艦隊は、彼自身の生命を引き換えに、フランス・スペイン連合艦隊を相手に決定的な勝利を手にした。

トラファルガーの勝利は、ヨーロッパ諸国の制海権に勝るイギリスをより有利な立場にし、イギリス海軍は制海権を握ることで、必要な時に必要なだけの兵力を世界中に展開する戦略を確立していった。これは七年戦争を含めて19世紀の間に行われたイギリス帝国の建設で効果が証明された。

ナポレオンはイギリスの制海権と経済力に対抗するため、イギリスと取引するヨーロッパの港を閉鎖した(大陸封鎖令)。また、多数の私掠船を認可し、フランス領の西インド諸島から西半球のイギリス商船に圧力をかけた。イギリスは私掠船のために貴重な戦力を割くこともできず、そもそも大型な船は快速で機動力のある私掠船を追跡して撃破するには効果的ではなかったため、小型軍艦を建造して対応することにした。イギリス海軍は伝統的なバーミューダ様式のスループ帆船を発注し、その他にも多数の小型軍艦を用意した。
ナポレオン戦争中の1812年に、アメリカ合衆国がイギリスに宣戦布告してカナダに侵攻し、米英戦争が勃発した。より巧みに設計されたアメリカのフリゲートは、イギリスの軍艦より重いにも関わらず、より快速であった。そのため、幾度かイギリスの軍艦が敗北を被ることがあり、海軍本部はフリゲートとの交戦を禁止するほどであった。また、アメリカの私掠船による被害も深刻であった。しかし、イギリス海軍は徐々にアメリカの海上封鎖を強化していき、実質的に全ての取引を阻止した。アメリカ海軍のフリゲートも港に留まるか、拿捕の危険を冒すことを強要させた。

第一次対仏大同盟の結成以来、1815年にナポレオン戦争が終結するまで、イギリス海軍は344隻の船の103,660名の船乗りを失った。この損害は、民間の船乗りの海軍への強制徴募や、犯罪者にペナルティとして海軍への入隊を命じることで補填された。

ホレーショ・ネルソン提督


ヴィクトリー号、旗旒信号は「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」

改革と近代化

チェロキー級ブリッグ、ビーグル (HMS Beagle)。

石炭船との速度比較に使用された世界で初めて重油を使用した戦闘艦スパイトフル(英語版)

19世紀の間、イギリス海軍は海賊行為を抑えるため、強制的な奴隷売買の禁止を行い、世界地図を作り続けた。現在もアドミラリティー・チャートが存続している。海図作成の過程で海域や海岸の調査の任務も行い、チャールズ・ダーウィンは測量帆船「ビーグル」に乗って世界中を回り、航海中に行った観察の過程で進化論を導き出した。極地探検もナポレオン戦争後の比較的平和な時代のイギリス海軍が熱心に取り組んだ事業であり、北極圏を通る北西航路の遠征(フランクリン遠征など)や、南極大陸への遠征(ジェイムズ・クラーク・ロスの遠征や、ロバート・スコットが南極点を目指したテラノバ遠征など)が海軍により組織されたが、多くの困難に直面し犠牲を出した。

イギリス海軍での生活は今日の水準と比較して厳しかったと言われている。規律が厳しく、戦時規約に服従させるためむち打ちが用いられた。法律では戦時に海軍の人員が不足した際は、徴兵が認められていた。この徴兵の方法は、徴募官と兵士が対象者のところに突然現れ、令状を突きつけると有無を言わさず基地に連行してしまうという逮捕まがいの強制徴募であり、評判が悪かった。しかし、大半のヨーロッパ諸国とは異なり、イギリスは常備軍が小さかったため徴兵を実施する必要性はむしろ低く、徴兵は18世紀と19世紀の前期こそ多かったが、ナポレオン戦争の終結と共に廃止された。

19世紀半ばまでイギリス海軍では「高貴なる義務感(noblesse oblige)」を備え、幼児期からリーダーとしての教育を受けた者が将校としての優れた素質を持つという考えが支配的だった。そのため、イギリス海軍では知的な能力や実績よりも勇敢さや名誉などが重視された。当時の海軍将校は12〜14歳で艦長或いは将官の縁故による任命で艦船に乗り込むことからそのキャリアを始め、館長の保護の元実地経験を積むのが一般的であった。イギリス海軍のネルソン提督(Horatio Nelson)は「海軍将校にとって必要な教育は、ダンスとフランス語だけでそれ以外は勘で仕事ができる」と豪語したと伝えられる。縁故により採用された少年たちはその後2年間程度の経験を経て、少尉候補生へと昇進し、その上で6年間の経験をえて19歳になっていれば少尉へと昇進し、大尉として正式に任官される資格を経ることになる。そしていったん大佐になるとその先は完全な年功による昇進となり、予備役制度の存在しない当時は死ぬまで海軍任官リストで上位に上がっていくという仕組みだった。19世紀のイギリス海軍では、トラファルガー海戦を戦った年代の人間が上位のポストを独占し、大きな問題を引き起こしていた。

事態の打開策として、1847年には200人ほどの大佐を少将に昇格させた上で任官者リストから外す決定がされた。続いて1851年には現役の大佐の人数を450人に限定した。これらの手法は中佐や少佐にまで拡大され、海軍省による高級将校の人数の制御が行われるようになった。これらの一連の改革の一環として、1806年にはそれまで王立海軍アカデミーと呼ばれた海軍学校が王立海軍カレッジに改名されるとともに、施設も拡張され、理論的な教育を主体とした海軍学校が生まれた。しかし、保守的な将校団の反発によりこのような改革は徹底されず、ナポレオン戦争時になっても王立海軍カレッジの出身者は海軍将校全体の3%以下だった。改革を行う学校機能は、ポーツマスに1830年に係留されたエクセレント(HMS Excellent)での砲術学校に移り、砲術の体系的な訓練や高度な数学の教育が行われた。エクセレントでの実績により、1854年以降はイラストリアス( illustrious )が、1859年以降はブリタニア( Britannia )が士官学校として利用されるようになり、海軍省通達288号により、以後すべての海軍将校がここでの教育を受けることを義務付け、イギリス海軍における初の体系的な教育機関が完成した。

イギリス海軍は、世界海軍力第2位フランス海軍と同第3位ロシア海軍の艦隊戦力を合計した数と同等以上の戦力を整備するという二国標準主義が採用されてきた。これに基づき、19世紀末までにイギリス海軍はロイヤル・サブリン級戦艦といった強力な蒸気機関を持つ新型戦艦を建造し、強大な海軍力を維持し続けた。しかし、膨張した戦力は順調な世代交代を困難にし、旧式化した戦艦、数十年ほど経過した帆船も数多く残していた。

第一海軍卿のジョン・アーバスノット・フィッシャーはそれらの旧式化した艦船の多くを退役させるか、廃棄させることで資金と人材を生み出し、新造艦の建造を可能にした。特にフィッシャーは全て大きい砲で統一するという海軍史に最も影響を与えた戦艦「ドレッドノート」の開発に尽力した。また、ビッカース社のジョン・フィリップ・ホランドが設計した潜水艦も購入し、潜水艦の導入と艦船の燃料を石炭から重油に切り替えることも奨励した。燃料の切り替えは、実験とパーソンズが開発した新式の蒸気タービンによって速度と航続距離の向上に繋がった。

エクセレント (HMS Excellent) の艦長パーシー・スコット (Percy Scott) は新しい砲撃訓練の計画と中央射撃管制所を導入した。これは命中精度の改善と効果的な戦闘ができるようになった。

第一次世界大戦と軍縮条約

戦艦ドレッドノート (HMS Dreadnought)

クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイト (HMS Warspite)

イギリス海軍は第一次世界大戦で、食料・武器・原材料をイギリス本国に供給し続けることと、ドイツの無制限潜水艦作戦を負かすのに不可欠な役割を演じた。

「ドレッドノート」の竣工に伴い、弩級戦艦の時代が始まった。ドイツ海軍との建艦競争により、イギリスはフランスとロシアに接近して植民地を巡る対立を解消した。第一次世界大戦でイギリス海軍のほとんどの戦力は、ドイツ海軍の大洋艦隊を相手に決定的勝利が得られる地点に引き込むべく、本国のグランドフリートに配備された。ドイツ海軍との決戦こそなかったが、ヘルゴラント・バイト海戦、コロネル沖海戦、フォークランド沖海戦、ドッガー・バンク海戦、ユトランド沖海戦など多くの海戦でドイツ海軍と戦った。特に最後のユトランド沖海戦は最も有名な海戦で、イギリス海軍は損害を代償に大洋艦隊を抑え込むという戦略目標を達成した。

1922年に個々の艦船の排水量と艦砲の口径を制限するワシントン海軍軍縮条約が5か国で締結された。第一次大戦終結直後であったことや世界恐慌の影響を受け、イギリスでは第一次大戦時の主力艦を廃棄し、口径が15インチ以下の艦船の建造計画を中止することが決定された。排水量4.8万トン、18インチ砲9門のN3型戦艦と同量の排水量と16インチ砲9門の装備を予定したG3型巡洋戦艦がキャンセルされた。また、大型軽巡洋艦の「グローリアス」、「カレイジャス」、「フューリアス」が航空母艦へと改装された。1920年代に新しく艦隊に加わる艦船はネルソン級戦艦2隻、カウンティ級重巡洋艦15隻、ヨーク級重巡洋艦2隻など最小限に抑えられた。

1930年のロンドン海軍軍縮会議では1937年まで主力艦の建造を延期し、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦に対する制限が見直された。国際間緊張の増加に伴い、1935年に第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催された。1938年までの制限を設けられたものの、実際はないがしろにされ、海軍拡張の急進を止めるには至らなかった。それにも関わらず、イギリス海軍は排水量35,000トンに14インチ砲を装備したキング・ジョージ5世級戦艦をはじめ、空母「アーク・ロイヤル」、イラストリアス級航空母艦、タウン級軽巡洋艦、クラウン・コロニー級軽巡洋艦、トライバル級駆逐艦など再軍備は制限に基いて行われていた。新造艦に加え、旧式戦艦、巡洋戦艦、重巡洋艦に対空火器を増強する改装も行われた。結果、第一次世界大戦時の老朽艦、条約制限に固執した設計と無制限化後に設計された戦間期の建造艦などからなる混成の艦隊のまま、第二次世界大戦に参戦した。しかし、旧式艦は第一次世界大戦時と比べて小型で旧式であったが、強力な存在であった。

第二次世界大戦

マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズとレパルス

イギリス海軍は第二次世界大戦でも、オーストラリアなどのイギリス連邦諸国や植民地、同盟国のアメリカなどから食料、武器、原材料をイギリスに供給し続けることと、大西洋の戦いにおいてドイツの無制限潜水艦作戦を負かすのに不可欠な役割を演じた。またビスマルク追撃戦やタラント空襲において空母が海戦において大きな影響力を持つ事を自ら証明し、その戦略は大きな転換点を迎えることになる。

第二次世界大戦の初戦から、イギリス海軍はダンケルクやクレタからの撤退時のように劣勢であれば庇護を提供した。巡洋戦艦「フッド」がドイツ海軍の戦艦「ビスマルク」に撃沈された時や、マレー沖海戦で戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が日本海軍の航空隊に撃沈された時は海軍の威信に対する打撃は大きかった。制海権を維持するためには北アフリカ上陸、シシリー島上陸、ノルマンディー上陸のように陸海空共同作戦が不可欠で、空母が主力艦となったのは明らかであった。

ヨーロッパ大陸へ連合軍の上陸後、海軍はスヘルデの戦いのような海岸近くの戦闘で火力支援する程度まで役目は減った。

冷戦

ホワールウィンド対潜ヘリコプター

大戦終結後、イギリス帝国の衰退とイギリスの経済難は、イギリス海軍に規模と能力の縮小を強要した。そして、より強力となったアメリカ海軍は世界的平和を維持するためイギリス海軍の役割を引き継いだ。しかし、ソビエト連邦の脅威と世界的なイギリスの責任により、海軍に対する新しい役割が生まれた。1960年代に最初の核兵器を導入し、その後しばらくして核抑止力の維持に責任を負うようになった。

この新たに始まった冷戦へ対応するため、国防政策は切り替えられ、各海域の艦隊が再編された。1967年にはスエズ以西を西方艦隊、スエズ以東を極東艦隊に改編し、冷戦後期には北大西洋でソ連の潜水艦を撃沈するため、イギリス海軍は対潜空母と小型の駆逐艦とフリゲートで編成された。しかし、大戦後にイギリス海軍が行った最も大規模な作戦は、ソ連やその同盟国との交戦ではなく、同じ西側諸国の1国であるアルゼンチンに対してであった。

艦隊航空隊のシーハリアー FA.2 (BAE Sea Harrier)

1982年に、南大西洋に位置する植民地であるフォークランド諸島の領有をめぐり、アルゼンチンとの間に勃発したフォークランド紛争では勝利に貢献し、イギリス本国から約13,000kmも離れていても戦闘できることを証明したものの、アルゼンチン空軍機の巧みな攻撃により、駆逐艦2隻やフリゲート2隻をはじめ、民間徴用船など多数の艦艇を失った。原子力潜水艦「コンカラー」はアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を撃沈し、史上初めて実戦において戦果を挙げた原子力潜水艦となった。この紛争は空母と潜水艦の重要性の強調だけでなく、20世紀後半においてもイギリス海軍が民間船の調達に依存しているという問題を露呈することとなり、また、駆逐艦2隻、フリゲート2隻、揚陸艦1隻、航空機輸送に使用されていたコンテナ船1隻の計6隻をも失い、他の艦艇も多くの損害を受けたことから、「マレー沖海戦で日本軍機の攻撃により戦艦2隻を失った悪夢の再現」とまで言われることとなった。

現在

23型フリゲート、ウェストミンスター (HMS Westminster)

イギリス海軍は冷戦の終結後、政策転換により紛争に対応するため航空母艦を世界各地に展開させることを要求された。また、駆逐艦やフリゲートは海賊行為に対処するためマラッカ海峡やホーン岬に配備する必要があった。これを受けて、イギリス海軍は北大西洋に基地を置く対潜警戒を主任務としていた艦隊を、遠征向けの艦隊にするいくつかの再編成計画を1990年代から実施した。2000年代にはフォークランド諸島を中心とした南大西洋の警備、北大西洋ではカリブ海からアフリカ西部への巡航パトロール、地中海へはNATOの一員として艦艇を派遣、アラビア海とインド洋ではイラク・アフガニスタン駐留部隊への支援とテロ警戒、極東にもフリゲートを派遣している。

2017年7月27日にイギリスは南シナ海に航空母艦の派遣を示唆している[6]。また、2018年8月31日にはアルビオン級揚陸艦一番艦、「アルビオン」が南シナ海を航行する海洋の自由(航行の自由作戦)を実行するなど、東南アジア諸国からの反発を招いている中華人民共和国の人工島建設に反対の動きを示しており[7]、同地域に積極的に干渉している。

緊縮財政に対応するため、2010年のStrategic Defence and Security Reviewでは大幅な軍縮がおこなわれることになった。海軍においては人員を5,000人削減し30,000人規模に、2014年に退役する予定であった「アーク・ロイヤル」は直ちに退役、全てのハリアー IIも直ちに退役、「イラストリアス」はヘリ空母に転換した後2014年に退役、「オーシャン」はこの時点では維持することになった。また、4隻の戦略弾道ミサイル潜水艦はイギリス唯一の核戦力として引き続き維持し続ける方針で、クイーン・エリザベス級航空母艦と7隻のアスチュート級原子力潜水艦は計画通り建造される。

2015年10月時点のイギリス海軍は11隻の原子力潜水艦(4隻の戦略原潜と7隻の攻撃原潜)、19隻の水上戦闘艦(6隻の駆逐艦と13隻のフリゲート)を含む艦艇および航空機と海兵隊から構成されている。緊縮財政の流れを受けて、以前より艦隊の規模がかなり縮小されたが、地球規模で展開出来る世界有数のブルーウォーター・ネイビーである立場には変わりはない。イギリスの法令は、すべてのイギリス籍船舶を海軍に徴用できる権限を政府に与えており、戦時の海上輸送システムは万全である。

ただし、長年の予算削減によってイギリス海軍は自国を哨戒できる程度の規模にまで削減されているとの指摘もある。1988年には対GDP比4.1%だった海軍予算は、2010年には2.6%にまで削られている。また、2000年の時点で3万9000人だった海軍将兵は、2015年には2万9000人にまで落ち込んでいる[8]。

イギリス連邦加盟国であるオーストラリア海軍、カナダ海軍、ニュージーランド海軍、インド海軍に対して、同型艦や旧式艦を売却・譲渡しており、かつて植民地であった国々と軍事的に結びつきが強い。

習慣と伝統

キングジョージ5世号でのラム酒の支給(1940年)

イギリス海軍には、海軍旗とシップス・バッジズの使用に関して、正式な習慣と伝統が存在する。航海中の時と港では、海軍艦艇はいくつかの海軍旗を掲揚させる。就役した艦艇と潜水艦は、日中の間、ホワイト・エンサインを艦尾に掲揚し、航海中の間はメインマストに掲揚する。国旗(国旗はユニオン・フラッグだが海軍ではユニオン・ジャック)は艦首に掲揚されるが、これは軍法会議が進行中であることを合図している場合か、ロード・ハイ・アドミラルを含み司令官が乗艦していることを示す場合のいずれかである[9]。

フリート・レビューは、君主の前に艦隊を整列させる観艦式で、不規則な伝統である。公式に行われた最初のものは、1400年であった。その他に続いている伝統は、オーストラリア海軍と行うクリケット試合のジ・アッシズがある。

第二次大戦終結までは飲酒に関して寛容であり、特に水兵らに支給されていたラム酒(後にはグロッグ)に関する逸話が多い。また軍艦の進水式には国内で蒸留されたウィスキーが使われることもある(クイーン・エリザベスなど)。その他の食文化については近世イギリス海軍の食生活を参照。

海軍カレーやウィスキーなど一部の文化は、大きな影響を与えた大日本帝国海軍を経由し海上自衛隊にも受け継がれている。

組織

機雷掃海のためペルシャ湾へ展開する艦隊

海軍の司令長官は1964年以降ロード・ハイ・アドミラルであり、イギリス軍全体でも上位の地位にある。

実務上の指揮はファースト・シー・ロード(海軍大将)を含む国防会議のメンバーによってなされる。国防会議は海軍の管理をアドミラルティ・ボードに委任しており、国防大臣が議長を務める。アドミラルティ・ボードは、艦艇を管理するネイビー・ボードを指揮下に置いており、こちらは海軍士官と国防省の公務員から成る。これらはロンドンのホワイトホールにある国防省舎 (MoD Main Building) に所在している。

指揮系統

2016年現在

ロード・ハイ・アドミラル:エディンバラ公(2011年〜)
アドミラルティ・ボード (海軍本部委員会)
    ファースト・シー・ロード (第一海軍卿):サー・フィリップ・ジョーンズ(英語版)大将
    セカンド・シー・ロード (第二海軍卿):ジョナサン・ウッドコック中将
    アシスタント・チーフ・オブ・ザ・ネーバル・スタッフ:ニコラス・ハイン(英語版)少将
    コントローラー・オブ・ザ・ネービー (第三海軍卿):ポール・ベネット(英語版)少将
    ネーバル・メンバー・フォー・ロジスティックス (第四海軍卿):サイモン・リスター(英語版)中将

人員

海軍はイギリス海軍とイギリス海兵隊から成り、2009年12月の時点で教育訓練を経た正規兵は、34,660名であった。このうち、27,710名はイギリス海軍に属し、6,940名はイギリス海兵隊に所属していた[10]。他にも教育課程を修了していない3,960名と380名の常勤予備役がある。

艦隊構成

国への必要性を反映し、1960年代から艦艇数は減少が図られた。しかし、その数は規模としての減少であり、艦艇の技術的発展による能力の向上まで加味しているものではない[11]。

1981年に国防相ジョン・ノットの主導で新たな海軍の削減が開始されたが、翌年にフォークランド戦争が勃発した[12]。当時の資源と構造から困難ではあったものの、遠征能力と沿岸活動能力の回復が必要であることが明らかになった。

冷戦の終結は、平和維持活動の一環として世界各地に展開できる航空母艦が必要であった。ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、シエラレオネ、ペルシア湾などがその代表的な事例であった。また、海賊への対策として駆逐艦とフリゲートの各地へ派遣が必要になった。海軍は1990年代から北大西洋における対潜水艦向け艦隊から遠征向け艦隊へと転換させる、いくつかの建艦計画を実施してきた。

トラファルガー級潜水艦、タイアレス (HMS Tireless)

潜水艦

イギリス海軍は、イギリス軍唯一の核戦力として4隻のヴァンガード級戦略原子力潜水艦を運用している。ヴァンガード級は次世代弾道ミサイル潜水艦により2028年頃から代替される予定である[注釈 1]。

また攻撃型原子力潜水艦として、トラファルガー級3隻とアスチュート級3隻を運用している。2020年代前半までにアスチュート級を4隻追加建造することによりトラファルガー級を代替する予定である。

クイーン・エリザベス級空母、クイーン・エリザベス (HMS Queen Elizabeth, R08)

航空母艦

現在クイーン・エリザベス級2隻が新世代の航空母艦として就役している。計画の遅延と国防予算の縮減により、1番艦の「クイーン・エリザベス」は、売却や2番艦就役後予備役とすることも一時期検討されていた。現在は2番艦の「プリンス・オブ・ウェールズ」とあわせてF-35B ライトニング IIが運用される予定である。

インヴィンシブル級を基に設計されたヘリ空母の「オーシャン」は航空母艦を補完していたが2018年に退役した。クイーン・エリザベス級が同艦の任務も後継する。

海軍補助艦隊に導入された4隻のベイ級ドック型補助揚陸艦と2006年と2007年に導入された2隻のアルビオン級ドック型揚陸プラットホームは海軍の水陸両用作戦能力を強化した。

23型フリゲート、モンマス (HMS Monmouth, F-235)

水上戦闘艦

護衛艦隊は、フリゲートと駆逐艦から構成されており、海軍の伝統的な万能艦として更新が続けられている。2009年に42型駆逐艦からより大型の45型駆逐艦との交代を開始した。45型駆逐艦は当初の契約で12隻が発注されることになっていたが、最終的に6隻の建造となった。主な任務は対空戦であり、高性能なSAMPSONレーダー、アスター 15とアスター 30ミサイルを用いた統合対空システムPAAMSを備えている。

2004年、変動する世界に安全保障を提供(Delivering Security in a Changing World)するべく、国防支出の見直しが行われ、国防相ジェフ・フーンは23型フリゲート16隻のうち3隻を連続経費削減の戦略一環として退役させることを発表し、実行に移され、2011年8月時点で13隻が現役である。次世代フリゲートとしてフューチャー・サーフェス・コンバタント (Future Surface Combatant) が計画されているが、このコンセプトは未だ承認されていない。

その他の艦

1990年代の初期、イギリス海軍は遠洋哨戒艦にアイランド級とキャッスル級の2種類の艦級を整備した。しかし、1997年にそれらの交代が決定された。2001年により大型のリバー級3隻が発注され、ヴォスパー・ソーニクロフトの管理下から2013年まで海軍に貸与という形で取得した。この関係は、技術的な支援と物資保管の支援を含む海軍の負担を縮小する後方支援業務 (Contractor Logistic Support) によって定義された。リバー級のクライドは改修を受け、2007年7月に就役し、フォークランド諸島の警戒艦として派遣された。

掃海艦艇にはサンダウン級機雷掃討艇とハント級掃海艇がある。対機雷艦艇のハント級は従来の掃海艇が行う掃海具を使った掃海と機雷を能動的に捜索、破壊する機雷掃討を統合した艦種であり、必要があれば遠洋哨戒の任務にも従事する。

海軍はイギリス南極観測(British Antarctic Survey)へ提供する専用の艦を委任しており、南極哨戒艦としてプロテクター(英語版)が建造された。4隻のヘクラ級は、海洋調査艦スコットと交代した。より大型のローバックはイギリス大陸棚や浅瀬を調査する。その他の調査艦には2002年と2003年に就役した2隻のエコー級多目的艦がある。

航空機

詳細は「艦隊航空隊」を参照

艦隊航空隊(Fleet Air Arm)は、イギリス海軍の航空機による作戦をつかさどる部門である。
イギリス軍では陸上基地で運用する対潜哨戒機は空軍の管轄になっている。

階級

「イギリス軍の階級」および「軍隊における階級呼称一覧」も参照

NATO階級符号 階級章 階級
英語 日本語
OR-1 該当階級なし
OR-2 British Royal Navy OR-2.svg Able Rating 水兵
OR-3 該当階級なし
OR-4 British Royal Navy OR-4.svg Leading Rating 上等水兵
OR-6/OR-5 British Royal Navy OR-6.svg Petty Officer 兵曹
OR-7 British Royal Navy OR-7.svg Chief Petty Officer 上等兵曹
OR-8 British Royal Navy OR-8.svg Warrant Officer class 2 二等兵曹長
OR-9 British Royal Navy OR-9.svg Warrant Officer class 1 一等兵曹長
OF(D) British Royal Navy OF-Student.svg Officer cadet 士官候補生
OF-1 British Royal Navy OF-1a.svgUK-Navy-OFD.svg Midshipman 見習士官
UK-Navy-OF-1b-collected.svg Sub-Lieutenant 下級海尉
OF-2 UK-Navy-OF-2-collected.svg Lieutenant 海尉
OF-3 UK-Navy-OF-3-collected.svg Lieutenant commander 少佐
OF-4 UK-Navy-OF-4-collected.svg Commander 中佐
OF-5 UK-Navy-OF-5-collected.svg Captain 大佐
OF-6 British Royal Navy OF-6-collected.svg Commodore 代将
OF-7 British Royal Navy OF-7-collected.svg Rear admiral 少将
OF-8 British Royal Navy OF-8-collected.svg Vice admiral 中将
OF-9 British Royal Navy OF-9-collected.svg Admiral 大将
OF-10 British Royal Navy OF-10-collected.svg Admiral of the Fleet 元帥

主要基地・施設

就役艦が配備される基地は現在イギリスにポーツマス、クライド、デヴォンポートの3つがあり、この中でもデヴォンポートは西ヨーロッパで最大の規模を誇る海軍基地である[13]。

各々の基地の司令は代将が務めるが、例えばクライド海軍基地の場合は大佐が司令を務め、作戦能力のある艦と小艦隊の潜水艦の供給に対して責任がある。イギリス海兵隊第3コマンドー旅団は代将によって指揮され、プリマスに拠点を置く。

歴史上、イギリス海軍は世界中に海軍造船所を建設してきた。艦艇にとって海軍造船所はオーバーホールや修理を行う港であった。現在ではデヴォンポート、ファスレーン(クライド海軍基地の一部)、ロサイス(英語版)(街)、ポーツマスの4つの造船所が使用されている。

イギリス海軍および予備艦隊所属の陸上施設にはHMNB(His or Her Majesty’s Naval Base 陛下の基地の意)の頭文字がつけられる。

将来の海軍士官のために最初の訓練を行うアカデミーはダートマスに所在するブリタニア海軍兵学校である。かなりの海軍兵が国防省やディフェンス・エキップメント・アンド・サポートへか、陸軍や空軍との連絡員になる。少数が国外の政府機関や合同海上部隊といった多国籍艦隊、例えばアメリカ海軍へ派遣される。

装備

艦艇

2018年11月現在。個艦の名前については「イギリス海軍艦艇一覧」を参照。

原子力弾道ミサイル潜水艦

ヴァンガード級×4

原子力攻撃型潜水艦

アスチュート級×5(2隻建造中)
トラファルガー級×3

航空母艦

クイーン・エリザベス級×2

ミサイル駆逐艦

45型×6

フリゲート

26型×0(2隻建造中 6隻計画中)
23型×13

哨戒艦

リバー級(バッチ1)×2
リバー級(バッチ1改)×1
リバー級(バッチ2)×2(3隻建造中)

哨戒艇

シミター級(英語版)×2
アーチャー級(英語版)×16

ドック型輸送揚陸艦

アルビオン級×2
ベイ級×3

汎用揚陸艇

LCU Mk.10型×10

エアクッション型揚陸艇

グリフォン2000TDX(M)型×4
グリフォン2400TD(M)型×0(4隻建造中)

車両兵員揚陸艇

LCVP Mk.5型×23

高速艇

18メートル型×4

機雷掃討艇

サンダウン級×7

掃海艇

ハント級×8

ランチ・艀

(H86 Gleaner) - 1983年
Nesbitt級×5

補給艦

タイド級×2(2隻計画中)
フォート・ヴィクトリア級×2
ウェーブ級×2

救難潜水艇

NATO SUBMARINE RESCUE SYSTEM×0(1隻建造中)

海洋観測艦

スコット

測量艦

エコー級(英語版)×2

砕氷艦

プロテクター

記念艦

ヴィクトリー(18世紀末の戦列艦、トラファルガーの海戦におけるネルソン提督の旗艦)

イギリス海軍および予備艦隊所属の戦闘艦艇にはHMS(His or Her Majesty’s Ship 陛下の船の意)の頭文字がつけられ、補助艦隊所属の補助艦艇にはRFA (Royal Fleet Auxiliary) の頭文字がつけられる。イギリス海軍の軍艦旗には、ホワイト・エンサイン (the white ensign) が定められており、補助艦隊はブルー・エンサインの一種を用いる。艦艇にはアメリカ海軍と異なり、分類シンボル (Hull classification symbol) ではなく、ペナント・ナンバーが付与される。

古くから利用されている陸上施設は慣習的に艦艇と見なされることもあり、正式な基地名は別にHMSの名を有することがある。デヴォンポート(HMNB Devonport)の一部区画は『ドレーク(HMS Drake)』とも呼ばれ、敷地内には帆が張れるマストが設置されている。

「艦船接頭辞」も参照

航空機

固定翼機

ホーク×14
グロプ G 115×6
ビーチクラフト キングエア350×4

回転翼機

ウェストランド シー・キングASAC Mk.7×8
アグスタ-ウェストランド マーリンHM Mk.2×25
アグスタ-ウェストランド マーリンHV Mk.3/3A×18
アグスタ-ウェストランド ワイルドキャットAH1/HMA1×31[14] 』

アルマダの海戦

アルマダの海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%80%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6

『アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、英語: Battle of Armada, Armada Wars)は、スペイン無敵艦隊(英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicísima Armada)のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。

広く知られる「無敵艦隊」の名称はスペイン語Armada Invencibleの訳で、スペイン海軍のC・F・ドゥロ大佐が1884年に著した論文[8]の題名が原典とされている[注釈 2]。イングランド側視点での歴史書では、“the Invincible Armada”の名称が揶揄的な表現として稀に用いられている[9]。本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」(Grande y Felicísima Armada)と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶ[注釈 3]。

なお、両国での暦が異なる(当時イングランドはまだグレゴリオ暦を採用していない)ため、記録上の日付も異なっている。日付はスペイン側のグレゴリオ暦とイングランド側の旧暦(ユリウス暦)を併記する。 』

『概要

当時、スペインとイングランドとの関係は宗教問題やイングランドのネーデルラントへの介入によって悪化しており、また、イングランド私掠船によるスペイン船や入植地に対する海賊行為もスペイン王フェリペ2世が侵攻を決意した要因のひとつにあげられる。
詳細は「英西戦争 (1585年)」を参照

1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦のあとのグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を被ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻だった。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となった[10]。ただし、この戦いのあとイングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした[11][12][13]。

背景

スペイン王フェリペ2世 1580年ごろ、ナショナル・ポートレート・ギャラリー、ロンドン。

スペイン王フェリペ2世は、妻のイングランド女王メアリー1世が1558年に死去するまでイングランドの共同王であった。敬虔なカトリックである彼は、プロテスタントである義妹エリザベス1世を異端者であり、違法なイングランド統治者であるとみなしていた。フェリペはエリザベスを打倒して、カトリックであり、かつイングランド王位継承権者である前スコットランド女王メアリー・スチュアートを王位につけようとする陰謀を支持していたが、メアリーを幽閉していたエリザベスが1587年に彼女を処刑したために阻止されてしまった[14]。

また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われたため、フェリペはエリザベスに海賊行為を取り締まるよう申し入れたが、エリザベスは聞き入れるどころか海賊行為に加担していたことも、英西関係を悪化させていた[15]。

加えて、プロテスタント信仰の拡大を策するエリザベスがスペインに敵対するオランダ人の反乱を支援して軍事介入し、1585年以降、両国は実質的な戦争状態になっていた。これらの報復のために、フェリペ2世はプロテスタント体制を打倒すべくイングランド侵攻を計画した。そしてこれによって、イングランドによるネーデルラント連邦共和国(低地諸国の一部でスペインの統治から離脱しようとしていた)への支援を終わらせ、新世界のスペイン交易路と入植地への攻撃[16]を断つことができる。フェリペ2世は教皇シクストゥス5世からの支持を受けており、教皇は侵攻を十字軍として扱い、スペイン軍が上陸した際の特別補助金を約束している[17]。

1583年、サンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサン(レパントの海戦の英雄)が艦隊計画を発案した[18]。史料が残っている1586年の計画では船舶796隻を動員し、予算総額は15億2,642万5,898マラベディーにおよび[19]、レパント海戦の予算の実に約7倍となった。あまりの高額であり、代案として艦隊規模を縮小し、上陸部隊はスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸軍を活用することになった[20]。

無敵艦隊総司令官メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン

1587年4月29日から30日(旧暦4月19日 – 20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37 – 24隻が破壊または捕獲された[21]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[22]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、このあとの遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[23][注釈 4]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain’s Beard) )

スペイン艦隊は波の穏やかな地中海での戦闘が主で、特にレパントの海戦ではガレー船により華々しい戦果を収めており、帆船への移行がなかなか進まなかった。ドレークのカディス港襲撃の際に新型帆船に対するガレー船の無力さが露呈したこともあり[24]、当初計画のガレー船40隻を4隻へと大幅に減らし[25]、また機動性と攻撃性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置した帆船とガレー船の混合型ガレアス船を導入するが、波の荒い英仏海峡ではかえって安定性を得ることができず、実戦では成功しなかった[26]。

さらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし[27]、数発で敵船の動きを止めて従来の接舷斬り込み戦法に持ち込むための、重量の大きい砲弾を放つ、威力は強いが短射程のカノン砲や全カルバリン砲が多用されていた[28][29]。また、接舷切り込み直前の接近戦で人員殺傷を狙うため、ペリエール砲以下の軽砲が搭載砲約2,500門の3分の2を占めていた[30]。この多数の軽砲を搭載するため、主力戦闘艦であるガレオン船には大規模な船首楼・船尾楼が設置されていたが、トップヘビーで船体を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった[31]。対して、イングランド軍の大砲の95パーセントが、軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲であった[29]。短射程軽砲を積まないのに合わせて大きな船首尾楼は廃止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船体となっていた[31]。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても軽量弾では船体に致命傷にはならないため、当初から接近戦を志向したスペイン艦隊の戦術理論の方が先進的との評価もある[30]。スペイン側もこのような両軍の装備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲戦を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻撃するよう艦隊出撃前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優れたこともあり、イングランド側が砲戦で終始主導権を握る展開へとつながった[30]。

当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃は延期になった。さらに2月9日、艦隊司令官だったサンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサンが急逝する。代わりにフェリペ2世はメディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマンを総司令官に任命した。メディナ=シドニア公は温厚な人物で優れた行政官でもあったが、海戦の経験は皆無だった[32][33][34]。当初、彼は就任を固辞して別人を推薦したが、総司令官には高位の名門出身者がふさわしいと考えたフェリペ2世はこれを認めなかった[35]。代わりにフェリペ2世は、有能な海軍軍人であるディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス(es)を補佐役として任命した[36]。

無敵艦隊の出撃

スペイン北西部フェロル港を出港する無敵艦隊

遠征が実行される前に、ローマ教皇シクストゥス5世はフェリペ2世に十字軍税の徴収を許し、彼の兵士たちに贖宥状を与えた。無敵艦隊の旗への祝福は、1571年のレパントの海戦での儀式と同様の方法で執り行われた。

1588年5月9日(旧暦4月29日)、無敵艦隊はリスボン港(ポルトガルはスペインに併合されていた)を出港して英仏海峡へ向かった[37][38]。艦隊は船130隻、水夫8,000人、兵士1万8,000人からなり、真鍮砲1,500門、鉄製砲(iron guns)1,000門を装備していた。全艦隊が出港するのに2日を要している。艦隊は正規の軍艦を28隻含んでいた(ガレオン船20隻、ガレー船4隻、ナポリ製ガレアス船4隻)。そのほかの大型船のほとんどは武装キャラック船とハルク船で、さらに小型船34隻が随伴していた。スペイン領ネーデルラントでは兵3万[39]が無敵艦隊の到着を待ち、ロンドン近くの地域に兵を上陸させる艀を軍艦が護衛する計画になっていた。この作戦には合計5万5,000人の兵士が動員されており、これは当時においては膨大な規模の軍隊だった。

迎え撃つイングランド艦隊は、王室所属船34隻(1,100トンのトライアンフ号が最大で[31]、19隻が100 – 300トンのガレオン船[40])と臨時にかき集めた163隻の武装商船(30隻が砲42門の200 – 400トンで、そのうちの12隻がチャールズ・ハワード・エフィンガム卿 (en) 、ジョン・ホーキンス、フランシス・ドレーク所有の私掠船[1] )で編成されていた。

無敵艦隊を目にしつつ会合を持つ総司令官ハワードと副司令官ドレーク。1880年ごろの作品

無敵艦隊が出帆した日、エリザベスの駐ネーデルラント大使バレンタイン・デール (en) がパルマ公の代理人たちと会見して和平交渉を行い、一方でドレークら軍人たちは無敵艦隊に対する先制攻撃を計画し、ビスケー湾まで南下したが、強い南風を受けて引き返している[41][42]。

7月26日(旧暦7月16日)に交渉は打ち切られ、エリザベスの艦隊はプリマスで迎撃準備に入り(補給は不足していたが)、スペイン軍の動向の知らせを待った。イングランド艦隊は200隻対130隻と数では勝っていたが[43]、スペイン軍はイングランド軍に砲数で勝り、その火力は50パーセント以上高かった[44]。ただ、スペイン艦の火砲の3分の2は人員殺傷用の短射程小型砲で、中型砲以上の火砲数では逆にイングランド側が2倍の優勢だった[30]。

無敵艦隊の航海は悪天候のために遅れ、ガレー船4隻とガレオン船1隻が艦隊から脱落しており、コーンウォールのセント・マイケル山から視認されたのは7月29日(旧暦7月19日)のことだった。この知らせは南部海岸沿いに構築された狼煙連絡網 (en) [45]によってロンドンへ伝えられた。その夕刻、プリマス港のイングランド艦隊は上げ潮に囚われていた。スペイン軍は作戦会議 (en) を開き、防御側の船は錨を降ろして無力化しており、潮に乗じて港を襲撃して、ここからイングランド本土を攻撃することが提案された。しかしメディナ=シドニア公は、そのような攻撃はフェリペ2世から明白に禁止されていると却下し[37]、東方へ進みワイト島へ行くことを選んだ。それからほどなく、チャールズ・ハワード・エフィンガム卿を司令官、ドレークを副司令官 (en) とする55隻のイングランド艦隊が、無敵艦隊と対するべくプリマス港を出港した。ハワードはドレークの戦闘経験を認めて権限の一部を譲っており、ジョン・ホーキンスが後衛司令官 (en) となった。

英仏海峡での諸海戦

無敵艦隊の進路

前哨戦

イングランド沿岸を航行する無敵艦隊

7月31日(旧暦7月21日)の夜、イングランド艦隊は攻撃を実行するために無敵艦隊の風上に針路を変えて、有利な位置を占めた。夜明けとともにイングランド艦隊が無敵艦隊の右翼後方から接近し、砲撃を加えた。その後、イングランド艦隊は左翼後方のビスケー湾船隊へ攻撃を加えた。船隊司令リカルデ提督(es)の乗艦サン・ファン号(San Juan)[注釈 5]とエル・グラングリン号(El Gran Grin)の2隻がイングランド艦隊の攻撃の矢面に立たされた[46]。2時間ほどの双方決定的な打撃を与えられない砲撃の応酬ののちに、メディナ=シドニア公の援軍が駆けつけたためハワードは後退を命じた[47]。(プリマス沖海戦)

戦闘後、スペインのガレオン船サン・サルバドル号(San Salvador)が爆発事故を起こして炎上し、続いてアンダルシア船隊司令ペドロ・デ・ヴァルデスの乗艦ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ号(Nuestra Senora del Rosario)が衝突事故を起こして行動不能に陥り、救出はかなわず、メディナ=シドニア公はやむなく両船を遺棄した[48]。サン・サルバドル号は主計総監と金庫を載せた会計艦であったため、その放棄はスペイン側の士気を甚だしく低下させた[49]。

その日の夜、イングランド艦隊は敵を追尾すべく出港した。ドレークがランタンを灯してイングランド艦隊を導いていたが、正体不明の船影を見た彼が、突然明かりを消して抜け出す事件が起こった。このため、取り残された艦隊は散り散りになり、夜明けまで混乱状態に陥ってしまった。イングランド艦隊が再集結するまでに丸1日を要している[50]。一方、艦隊を抜け出したドレークは漂流していたロサリオ号と遭遇し、ヴァルデス提督を降伏させ、船を拿捕している。ドレークをライバル視するマーティン・フロビッシャー (en) は、艦隊全体を危険に陥らせた明らかな軍紀違反行為を非難したが、多くの船乗りたちはドレークを賞賛した[51][52]。また、サン・サルバドル号もイングランドに拿捕されている。

それから、イングランド船は優勢な速度と機動性を生かし、丸1日かけてスペイン船に追いつくべく帆走した。8月2日(旧暦7月23日)、イングランド艦隊は逆風にもかかわらず果敢に攻撃を敢行した。ハワードの本隊と無敵艦隊が激しい砲撃を交わすなか、北方へ突出したフロビッシャーの船隊と聖ヨハネ騎士団の騎士ウーゴ・デ・モンカーダ率いるガレアス船隊(帆船とガレー船の折衷型の船種)とが交戦し、フロビッシャーは巧みな操船でガレアス船を翻弄して大損害を与え、ガレアス船は帆船に敵わないことを証明した[53]。ハワードは苦戦したが、午後になって風向きが有利に変わるのを待っていたドレークが参戦し、イングランド艦隊は逆襲に転じた。激しい砲撃が交わされたがスペイン船の砲撃は届かず、イングランド船の長射程だが軽量のカルバリン砲は有効な打撃を与えることができなかった[54][55]。(ポートランド沖海戦)

東に移動した無敵艦隊は、ソレント海峡の保護水域のワイト島において一時的な基地を構築する機会を得て、パルマ公の軍隊からの知らせを待った。8月5日(旧暦7月25日)、イングランド艦隊はフロビッシャー、ハワード、ホーキンスそしてドレークの4つの集団に分かれて、全面的な攻撃を仕掛けた。戦いはポートランド沖と類似した経緯をたどり[56]、まずフロビッシャー、ハワードが敵と砲撃を交わし、ホーキンスとドレークは風向きが有利になるのを待ってから側面攻撃を仕掛けている。メディナ=シドニア公は潮流に流されて砂州へ追いこまれるのを避けるべく、外洋に出るよう命じた[57]。この戦いでもポートランド沖海戦と同様、双方沈んだ船はなく、スペイン側の砲撃は届かず、イングランド側の打撃力が不足していることが明らかになった[57]。ワイト島から退避した無敵艦隊の近くに安全な港はなく、パルマ公の軍隊の準備に関わりなくカレーへ向かうことを強いられた。(ワイト島沖海戦)

カレー沖海戦

『スペイン無敵艦隊の終焉』中央に火船攻撃が描かれている。

8月7日(旧暦7月28日)、無敵艦隊は密集態勢の半月陣形でカレー沖に投錨し、そこから遠くはないダンケルクにはパルマ公の陸軍(疫病により1万6,000人に減っていた)がフランドル諸港から集められた艀の船団を用意して、艦隊に合流すべく待機しているはずだった。連絡は予想していたよりもはるかに困難であり、ここに至ってメディナ=シドニア公は陸軍は未だに準備がまったくできていないと知らされ、投錨して艦隊を待機させざるをえなかった[注釈 6]。

一方、ダンケルクはオランダ人反乱軍のユスティヌス・ファン・ナッサウ (en) 提督率いる30隻の快速船 (en) によって海上封鎖されていた。艦隊の備蓄は減っており、メディナ=シドニア公はパルマ公へ弾薬と食料の補給のために軽量の快速船(petaches)を送るよう要請したが、パルマ公はこの要請に応えることができなかった[58]。パルマ公はこの作戦において消極的な態度が目立っており、当初からイングランド上陸は不可能だと考え、作戦を中止させるために意図的にサボタージュを行っていたとする見方もある[59][60]。
ダンケルク近くは浅瀬が多いため先に進めず[61](これは遠征のおもな障害であるとすでに認識されていた)、夜が更けるとスペイン人たちは自らの脆弱さに気付かされる。メディナ=シドニア公は、スペイン艦隊が風下側に停泊していることから、火船攻撃を受ける危険があると考えた。そこで、小型船やボートを前列に並べて阻止線を築くとともに、各艦に錨を捨てての緊急出港に備えるよう命じた[62]。

8月7日(旧暦7月28日)深夜、イングランド艦隊は150 – 200トン級軍艦に樹脂や硫黄、火薬そしてタールを満載した火船8隻を風下に位置し、密接して投錨している無敵艦隊へ向けて送り込んだ。スペイン人はこれらの異常に大きな火船はアントウェルペン包囲 (en) の際にオランダ人が使用し、破壊的な効果をもたらした大量の火薬を満載した特殊な火船「鉛の機械」(マクィナス・デ・ミナス) (en) [63]であると信じて恐怖した[64]。2隻は途中で捕らえられて曳航されたが、残りは艦隊に突っ込んだ。メディナ=シドニア公の旗艦とおもな軍艦は位置を保ったが、残りの船は錨を切って混乱しつつ分散してしまった[65]。ナポリ船隊司令ウーゴ・デ・モンカーダの乗るガレアス船サンロレンソ(San Lorenzo)は混乱の中で事故を起こして行動不能に陥り、カレーに座礁してしまい、ハワードのアークロイヤル号 (en) がこれを攻撃して乗組員および漕ぎ手奴隷との死闘の後に捕獲され、その残骸は最終的にイングランドとフランスが入手した[66]。

炎上したスペイン船はなかったが、半月陣形は崩され、そこへイングランド艦隊が戦闘を仕掛けるべく迫っていた。メディナ=シドニア公は号砲を鳴らさせてスペイン艦隊にカレーへの再集結を命じたが、多くの艦は錨をすべて失っており停止することができず、海岸線に沿って北東へ流されていくばかりだった。メディナ=シドニア公は、やむなく旗艦サン・マルチーニョ号(São Martinho)を発進させて部下の艦を追い、もっと先で艦隊を再編成することにした[62]。

グラヴリンヌ沖海戦

フランシス・ドレーク、1591年。

当時のグラヴリンヌ (en) はスペイン領ネーデルラントに属するフランドルの一部であり、フランス国境に近く、イングランドにもっとも近いスペイン領であった。メディナ=シドニア公はここで艦隊の再編を図り、これまで不手際を繰り返してきた彼だが、勇敢にも旗艦サン・マルチーニョ号をもって敵に立ち塞がる[60][67]。メディナ・シドニア公は、旗艦サン・マルチーニョ号を艦隊最後尾に置いて部下を援護させ、その間にリカルデ提督のサンタ・アナ号を中心に艦隊を再編しようと試みた。

英仏海峡での小競り合いによって、イングランド人は無敵艦隊の戦力と弱点を学び、スペイン船のオーク材の船体を貫通するには近距離に近づく必要があると結論づけていた。一方、スペイン軍の大砲は狭い配置間隔と甲板に収容できる砲弾に限りがあるため容易に再装填ができず、このことをドレークは捕獲したスペイン船ロザリオを調査した際に知った[68]。無敵艦隊は水兵の倍の歩兵を乗船させており、移乗攻撃で勝敗を決しようとするスペインの戦法が彼らの弱点となった[40]。この戦法はレパントの海戦や1582年のポンタ・デルガダの海戦 (en) では有効だったが、イングランド人は敵の戦力を知り、距離を取って白兵戦を避ける戦法をとっていた。

サン・マルチーニョ号には、まずドレークの船隊が攻撃したが、理由は不明ながら短い砲戦を交わしただけで彼は針路を変えて去り、代わってフロービシャーの船隊が無敵艦隊の旗艦に襲いかかった[69]。サン・マルチーニョ号は集中砲火を浴びて大きく損傷するが、やがてほかのスペイン船も救援に駆けつけて無敵艦隊は陣形を再編しつつ戦闘に入る[70]。
グラヴリンヌ沖海戦。ニコラス・ヒリアード画

イングランド艦隊は優勢な機動性を用いて、無敵艦隊に射程距離外から発砲させて砲弾を消費させ、スペイン船の砲弾が尽きたところでイングランド艦隊は接近して繰り返し発砲して、敵船に損害を与えた[71][72]。また、これによって彼らは風上を維持することができ、傾いた無敵艦隊の船体は喫水線下を敵の攻撃にさらすことになった。午後4時ごろに無敵艦隊の陣形は崩れ始めてフランドル方面へ敗走したが、午後6時ごろに激しい土砂降りの嵐となり、イングランド艦隊は攻撃を取り止めざるを得なかった[73]。

スペインのガレオン船サン・マテオ号(San Mateo)とサン・フェリペ号(San Felipe)は沈みかけた状態で漂流し、浜に座礁してオランダ人に捕獲された[74]。ガレアス戦隊旗艦のサン・ロレンソ号も座礁して拿捕され、戦隊司令官のモンカーダ提督は戦死した[62]。さらにキャラック船1隻がブランケンベルヘ近郊に座礁している。その他のスペイン船の多くもひどく損害を受けており、特に戦闘のはじめにイングランド船の集団からの激しい攻撃の矢面に立ったサン・マルチーニョ号をはじめとするスペインとポルトガルのアトランティック級ガレオン船の損傷は激しかった。一連の海戦によるスペイン船の損失は史料によって異動があり確定的でないが、9 – 11隻程度が喪失したと考えられる[5][6]。砲戦でスペイン艦3隻が沈没、2隻が航行不能の大損害を受けたとする説もあり、事実であれば当時の低威力の艦砲によるものとしては大きな成果といえる。

パルマ公の陸軍と合流する計画は挫かれ、イングランド人は休息する余裕を得た。しかし、無敵艦隊の存在は依然としてイングランドにとっての大きな脅威であった。

ティルベリー演説

グラヴリンヌ沖海戦の翌日、風は南西方向へ向きを変え[75]、メディナ=シドニア公は艦隊をフランス沿岸部から動かすことができた。イングランド艦隊は弾薬がほとんど尽きていたにもかかわらず、艦隊が再びパルマ公の護衛任務に戻ることを阻止すべく追撃した。8月12日(旧暦8月2日)、ハワードはスコットランドのフォース湾で追撃中止を命じた。この時点で、スペイン兵は疲労と渇きに苦しめられており、メディナ=シドニア公にはスペイン本国へ帰還する針路をとる以外の選択肢はなくなっており、それは非常に危険な航路だった。

ティルベリーで兵士に向けて演説するエリザベス1世

イングランド人は依然としてネーデルラントからの侵略の脅威を軽視しておらず、レスター伯ロバート・ダドリーは敵がテムズ川河口 (en) から遡上してロンドンへ攻め込まぬようエセックス州ウェスト・ティルベリー (en) を兵4,000で守っていた。

8月18日(旧暦8月8日)、エリザベス1世は兵を鼓舞すべくティルベリーへ赴き、翌日、もっとも有名になる演説を行った。

我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて来た。謀反の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは気をつけよと。しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。私は我が忠実かつ愛すべき民を疑って生きたくはない。そんな恐れは暴君にさせておきましょう。私は常に神のもとで私の最大の力と安全を我が臣下の忠実な心と善意に委ねてきたのです。それ故に、いま貴方たちが目にしているように、私は貴方たちの中にやって来たのです。
遊びでも気晴らしでもなく、戦いの熱気の真っ只中に、貴方たちの中で生きそして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王国、我が民、我が名誉そして我が血のために。
私はか弱く脆い肉体の女だ。だが、私は国王の心臓と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。不名誉を蒙るよりも私は自ら剣を持って立ち上がります。
私自らが指揮官、審判官となり、貴方たち全員の戦場での勇気に報いましょう。私は既に報酬と栄誉に値する貴方たちの意気込みを知っています。私は王の言葉において約束します、貴方たちは正しく報われます。[76]

スペインへの帰還

1588年8月下旬から9月、無敵艦隊は大西洋のスコットランド、アイルランド周辺海域に入った。船は長い航海による損耗を見せ始めており、何隻かは太綱で船体を束ねていた。食料と水は不足しており、軍馬は海に投げ込まれた。艦隊はスコットランドとアイルランドの西側の比較的安全な外洋の航海を意図し、この判断自体は正しかったが[77]、多くの船が艦隊に追従できずに脱落してしまった。また、リカルデ提督をはじめとする一部の船が、水と食料の不足を理由にカトリックの多いアイルランドへ向かっている[78]。

一般的なイメージとは異なり、実際には帰路の航海中は嵐も少なくメディナ=シドニア公のサン・マルチーニョ号以下本隊は比較的順調に帰国できたが[79]、分離してアイルランドへ向かった集団や脱落した船には悲惨な運命が待っていた。無敵艦隊の航海士たちはアイルランド周辺の海岸線についてまったく無知であり[79]、多くの船がここで難破して沈没し、上陸した乗組員たちも土着民やイングランド兵によって虐殺された[80]。

溺死や餓死、そして虐殺された犠牲者は戦闘によるものよりもはるかに多く、スペイン無敵艦隊の半数だけがスペインに帰還できた[81]。無敵艦隊のアイルランド沖航海はスペイン水兵への残虐行為やサバイバルの記録に溢れている[82]。一部の生き残りはアイルランド人に匿われたが、わずかな数のスペイン人が生き残ってアイルランド反乱軍に身を投じ、本国に帰還できた者はさらに少なかった。

9月22日(旧暦9月12日)にサン・マルチーニョ号がスペイン北部サンタデル港に帰還し、ほかの船も数日のうちに到着した[83]。最終的に67隻と約1万人が生き残ったが、帰還船の半数は再使用不能な状態で、入港した途端に沈み始めた船まであった[83][84]。食料と水が尽きた船に閉じ込められていたため、乗組員の多くが病気によって瀕死の状態だった。帰還兵の多くがスペイン本土や港湾に停泊した病院船の中で病死している。遠征の結果を聞かされたフェリペ2世は「私は艦隊を人間に対して送ったのであり、神の風や波浪に対してではない」と語ったと伝えられる[85]。ひどく失望してはいたが彼はメディナ=シドニア公を許し、領地へ帰した[86]。高位指揮官ではペドロ・デ・ヴァルデスは捕虜になり、モンカーダは戦死し、副司令官リカルデとオケンドは帰国後ほどなく病死した。参謀本部長ディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデスは生還できたが罪に問われ投獄されている[87]。

戦後

アルマダの海戦時のエリザベス1世の肖像画

イングランドの損害は死者50から100、負傷者400に留まり、沈没した船はなかったが、イングランド艦隊はグラヴリンヌ沖海戦で無敵艦隊の再集結を阻止しえなかったので、なお艦隊に兵を配置し続ける必要があった。このため、艦隊に疫病が発生し、チフスや赤痢、飢餓によって数千人の水夫や兵士が死亡している[3]。政府の資金不足により、彼らは給与を支払われることなく解隊されており、ハワードが戦利品や私財を使って乗組員を救済したが到底足りず[88]、イングランドの守護者たちが無給のまま何か月も放置されたことで、士気を低下させる論争が引き起こされた。これはスペイン政府が艦隊の生き残りに援助を与えたこととは対照的であった[89]。

この海戦の結果は、それまでは衝角突撃や接舷斬り込み戦闘の補助でしかなかった砲手の地位の向上という、海上戦闘上の変革を明示している。グラヴリンヌ沖海戦は一部の軍事史家から、両国の海軍技術や兵装の差などといった海軍バランスのイングランドへの移行を反映していると考えられており[90]、これは次の世紀まで続いた。歴史学者ジェフリー・パーカーは、「1588年におけるエリザベス海軍の主力艦は、全世界でもっとも強力な艦隊を構成していた」と語っている[91]。しかし、アルマダの戦いでの敗北以降、スペイン海軍もまた大規模な組織改革に着手しており、次の世紀においても本国海域や外洋航路の支配を維持し続けた。

イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」(He blew with His winds, and they were scattered)という文言によく現れている。そのほかにもユリウス・カエサルの言葉「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)をもじった「彼は来た、彼は見た、彼は逃げた」(Venit, Vidit, Fugit)を刻印した、より陽気なメダルもある。

しかし、イングランドの優位は翌1589年に実行されたポルトガルおよびアゾレス諸島遠征の失敗によって失われてしまった。ノリス=ドレークの遠征またはイングランド無敵艦隊 (English Armada) と呼ばれる遠征は、ポルトガル人との連携に失敗して多大な損害を出して帰還している。

スペインは艦隊を再建し、1596年以降にイングランド攻撃を目指す4回の無敵艦隊を編成した。1596年10月に派遣された2回目の無敵艦隊は約100隻、1万2,000人の陣容でアイルランドを目指したが、悪天候によって75隻3,000人を喪失して失敗した[92]。1597年10月に派遣された112隻からなる第3回無敵艦隊は、敵に気付かれずにイングランド本土に迫ったが、またも嵐に巻き込まれて頓挫している[93]。1599年に編成された第4回無敵艦隊は、出港直前に作戦を変更してオランダ艦隊を迎撃すべくアゾレス諸島へ向かった[94]。最後の第5回無敵艦隊は、1601年春にアイルランドの反乱軍を支援すべく派遣され、アイルランドに兵3,000を上陸させることに成功したが、その後の陸戦に敗れて撤退している[95]。

外洋での海賊行為やネーデルラントやフランスでのフェリペ2世の敵への増援は続けられたが、イングランドにはごくわずかの実質的な見返りしかもたらさなかった[96]。英西戦争は膠着状態に陥り、フェリペ2世とエリザベス1世の没後の1604年にスペイン側に有利な内容のロンドン条約 (en) が締結されて終結した。

スペインはその後もしばらく欧州およびアメリカ大陸での覇権国家であり続けており、イギリスがこれに代わる強力な海軍を擁する海洋覇権国家になるにはなお長い歳月が必要であった[11][12][13]。

その後もスペイン海軍は、泊地に停泊しているところを襲撃されて大混乱のうちに大打撃を受けるというカレー沖海戦のパターンを何度も繰り返している。
参戦船舶一覧
イングランドの旗ネーデルラント連邦共和国の旗イングランドおよびネーデルラント連合共和国

イングランド艦隊
    総司令官:チャールズ・ハワード・エフィンガム卿 (en) 
        副司令官:フランシス・ドレーク卿
    艦船:197隻[97]
    乗組員:1万5,925人[97]
ネーデルラント連合共和国艦隊
    指揮官:ユスティヌス・ファン・ナッサ (en) 提督
    フランドル沿岸の海上封鎖にあたった船:快速船 (en) 30隻

総司令官チャールズ・ハワード提督

総司令官チャールズ・ハワード提督
副司令官フランシス・ドレーク

副司令官フランシス・ドレーク
分艦隊司令官ジョン・ホーキンス

分艦隊司令官ジョン・ホーキンス
分艦隊司令官マーティン・フロビッシャー (en) 

分艦隊司令官マーティン・フロビッシャー (en) 
ネーデルラント艦隊指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサ

ネーデルラント艦隊指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサ

総司令官チャールズ・ハワード提督乗艦。アークロイヤル号
副司令官フランシス・ドレーク乗艦リベンジ号
ガレオン船アンテロープ号
王室直属船 船名 船長 トン数 砲数 船種
アークロイヤル(Ark Royal) チャールズ・ハワード提督 (en) 800 50 ガレオン船
エリザベスボナベンチャー(Elizabeth Bonaventure) ジョージ・クリフォード 600 ? ガレオン船
レインボー(Rainbow) ヘンリー・シーモア卿 (en) 500 ? ガレオン船
ゴールデンライオン(Golden Lion) トマス・ハワード卿 500 28 ガレオン船
ホワイトベアー(White Bear) アレクサンダー・ギブソン 500 ? ガレオン船
ヴァンガード(Vanguard) ウィリアム・ウィンター 500 ? ガレオン船
リベンジ(Revenge) フランシス・ドレーク卿 500 32 ガレオン船
エリザベス(Elizabeth) ロバート・サウスウェル 900 41 ガレオン船
ビクトリー(Victory) ジョン・ホーキンス提督 600 32 ガレオン船
アンテロープ(Antelope) ヘンリー・パーマー 400 18 ガレオン船
トライアンフ(Triumph) マーティン・フロビッシャー (en) 1100 44 ガレオン船
ドレッドノート(Dreadnought) ジョージ・ビーストン 400 22 ガレオン船
メアリー・ローズ(Mary Rose) エドワード・フェントン (en) 600 28 ガレオン船
ノンパーエイル(Nonpareil) トマス・フェナー 500 29 ガレオン船
ホープ(Hope) ロバート・クロース 600 26 ガレオン船
ガレー・ボナボリア(Galley Bonavolia) ? ? ガレオン船
スウィフトシュア(Swiftsure) エドワード・フェナー 400 22 ガレオン船
スワロー(Swallow) リチャード・ホーキンス (en) 360 16 ガレオン船
ラーク(Larke) アーサー・チチェスター (en) ? ?
フォーサイト(Foresight) クリストファー・ベイカー 300 24 ガレオン船
エイド(Aid) ウィリアム・フェナー 250 12 小型ガレオン船
ブル(Bull) ジェレミー・ターナー 200 16 小型ガレオン船
タイガー(Tiger) ジョン・ボストック 200 18 小型ガレオン船
トラモンターナ(Tramontana) ルカ・ワード 150 ? 小型ガレオン船
スカウト(Scout) ヘンリー・アシュリー 120 10 小型ガレオン船
アチェイツ(Achates) グレゴリー・リッグス 100 6 小型ガレオン船
ジョージ(George) リチャード・ホッジス 100 ? 小型ガレオン船
チャールズ(Charles) ジョン・ロバーツ 70 ? 小型帆船
マーリン(Merlin) ウォルター・ガワー 20 ? 小型帆船
スパイ(Spy) アンブローズ・ワード 50 ? 小型帆船
サン(Sun) リチャード・バックリー 40 ? 小型帆船
シグニット(Cygnet) ジョン・シェリフ 30 ? 小型帆船
ブリガンディーン(Brigandine) トマス・スコット 90 ? 小型帆船

臨時召集船
    武装商船34隻
    平底荷船33隻
    沿岸航路船23隻

8月7 – 8日の火船攻撃に使用された船:

バーク・タルボット(Bark Talbot)
ホープ(Hope)
トマス(Thomas)
バーク・ボンド(Bark Bond)
ベアー・ヨンジ(Bear Yonge)
エリザベス(Elizabeth)
パステル(Pastel)
病院船(Cure's Ship.)

スペインの旗スペイン無敵艦隊
イングランド艦隊と交戦するスペイン艦隊旗艦サン・マルチーニョ号。ヘンドリック・コルネーリス・ヴルーム (en) 画
無敵艦隊のガレアス船
帆船とガレー船との折衷的な船でナポリ船隊の4隻が参加していた。

総司令官:メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン
    参謀本部長:ディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス(es)[98]
    副司令官:ファン・マルティネス・デ・リカルデ(es)[99]
艦船:130隻[5]
砲数:2,431門[5]
乗組員:2万9,295人(兵士、水夫、漕ぎ手)[5]

ポルトガル船隊
指揮官:メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン 船名 トン数 砲数 備考
サン・マルチーニョ(São Martinho) 1000 48 船隊旗艦
サン・ジュァン(São João) 1050 50 船隊副提督艦
サン・マルコス(São Marcos) 790 33 船長ロペス・デ・メンドーサ:
9月10日、アイルランド沖で座礁
サン・フェリーペ(São Filipe) 800 40 船長フランシスコ・デ・トレド (en) :
8月8日、ニーウポールトとオーステンデの間で放棄。8月9日、哨戒中のネーデルラント連合に捕獲される。
サン・ルイス(São Luís) 830 38 船長アグスティン・メキシア
サン・マテウス(São Mateus) 750 34 船長ディエゴ・ピメンテル:
ニーウポールトとオーストエンデの間で座礁。8月9日、哨戒中のネーデルラント連合に捕獲される。
サンティアーゴ(Santiago) 520 24
サン・フランシスコ(San Francesco) 961 52 船長ニッコロ・バルトリ:
フィレンツェ共和国のガレオン船でポルトガル船隊に編入された。
サン・クリストーヴォン(São Cristóvão) 352 20
サン・ベルナルド(São Bernardo) 352 21
アウグスタ(Augusta) 166 13
ジューリア(Júlia) 166 14
カスティーリア船隊
指揮官:ディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス 船名 トン数 砲数 備考
サン・クリストーバル(San Cristóbal) 700 36 船隊旗艦                
サン・フアン・バウティスタ(San Juan Bautista) 750 24 船隊副提督艦
サン・ペドロ(San Pedro) 650 24
サン・ファン(San Juan) 530 24
サンティアーゴ・エル・マヨール(Santiago el Mayor) 530 24
サン・フェリペ・イ・サンティアーゴ
(San Felipe y Santiago) 530 24
ラ・アスンション(La Asunción) 530 24
ヌエストラ・セニヨーラ・デ・パリオ
(Nuestra Señora del Barrio) 530 24
サン・リンダ・イ・セレドン(San Linda y Celedón) 530 24
サンタ・アナ(Santa Ana) 250 24
ヌエストラ・セニヨーラ・デ・ベゴーニヤ
(Nuestra Señora de Begoña) 530 24
ラ・トリニダ・ボヒタール(La Trinidad Bogitar) 872 24
サンタ・カタリーナ(Santa Catalina) 882 24
サン・フアン・バウティスタ(San Juan Bautista) 700 24
ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ
(Nuestra Señora del Rosario) 75 24
サン・アントーニオ・デ・パドゥア
(San Antonio de Padua) 75 12
ビスカヤ船隊
指揮官:ファン・マルティネス・デ・リカルデ及びアレハンドロ・ゴメス・デ・セグラ(es) 船名 トン数 砲数 備考
サンタ・アナ(Santa Ana) 768 30 船隊旗艦
エル・グラン・グリン(El Gran Grin) 1160 28 船隊副提督艦:
9月24日、アイルランドのクレア島 (en) に座礁
サンティアーゴ(Santiago) 666 25
ラ・コンセプション・デ・スベルス
(La Concepción de Zubelzu) 486 16
ラ・コンセプション・デ・フアン・デル・カーノ
(La Concepción de Juan del Cano) 418 18
ラ・マグダレーナ(La Magdalena) 530 18
サン・ファン(San Juan) 350 21
ラ・マリーア・ファン(La María Juan) 665 24 8月8日、グラヴリンヌ北方で沈没
ラ・マヌエーラ(La Manuela) 520 12
サンタ・マリーア・デ・モンテマヨール
(Santa María de Montemayor) 707 18
マリーア・デ・アギーレ(María de Aguirre) 70 6
イザベラ(Isabela) 71 10
パターチェ・デ・ミゲル・スソ
(Patache de Miguel de Suso) 36 6
サン・エステバン(San Esteban) 96 6
ギブスコア船隊
指揮官:ミゲル・デ・オケンド (en) 船名 トン数 砲数 備考
サンタ・アナ(Santa Ana) 1200 47 船隊旗艦
サン・サルバドール(San Salvador) 958 25 7月31日爆発、8月1日捕獲。
サンタ・マリーア・デ・ラ・ロサ
(Santa Maria de la Rosa) 945 26
サン・エステバン(San Esteban) 736 26
サンタ・クルス(Santa Cruz) 680 16
サンタ・マルタ(Santa Marta) 548 20
サンタ・バルバラ(Santa Barbara) 525 12
ドンセーリャ(Doncella) 500 16
サン・ブエナベントゥーラ(San Buenaventura) 379 21
ラ・マリーア・サン・フアン(La Maria San Juan) 291 12
パクタス・サン・ベルナーベ(Paxat San Bernabe) 69 9
パクタス・ラ・アスンション(Paxat la Asuncion) 60 9
ピナーサ・ヌエストラ・セニヨーラ・デ・グアダルーペ
(Pinaza Nuestra Senora de Guadalupe) ? ?
ピナーサ・マグダレーナ
(Pinaza Magdalena) ? ?
アンダルシア船隊
指揮官:ペドロ・デ・バルデス 船名 トン数 砲数 備考
ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ
(Nuestra Senora del Rosario) 1150 46 船隊旗艦
8月1日捕獲。
サン・バルトロメ(San Barolome) 976 27
サン・フランシスコ(San Francisco) 915 21
ドゥケーサ・サンタ・アナ(Duquesa Santa Ana) 900 23
ラ・コンセプション(La Concepcion) 862 20
サン・フアン・バウティスタ(San Juan Bautista) 810 31
サンタ・カタリーナ(Santa Catalina) 730 23
サンタ・マリーア・デ・フンカル
(Santa Maria de Juncal) 730 20
ラ・トリニダ(La Trinidad) 650 13
サン・ファン・デ・ガルガリン(San Juan de Gargarin) 569 16
エスピリトゥ・サント。(Espiritu Santo.) ? ?
レパントまたはイタリア船隊
指揮官:マルティン・ベルテンド(es) 船名 トン数 砲数 備考
ラ・レガツォーナ(La Regazona) 1249 30 船隊旗艦
ラ・トリニダ・バレンセーラ
(La Trinidad Valencera) 1100 42
ラ・トリニダ・デ・スカラ
(La Trinidad de Scala) 900 22
ラ・ジュリアーナ(La Juliana) 86 32
ラ・ラータ・サンタ・マリア・エンコロナーダ
(La Rata Santa Maria Encoronada) 834 26
サン・ニコラス・プロダネーリ(San Nicolas Prodaneli) 820 35
サン・ファン・デ・シチリア(San Juan de Sicila) 80 26
ラ・ラビア(La Lavia) 728 25
ラ・アヌンシアーダ(La Anunciada) 703 24
サンタ・マリーア・デ・ビソン(Santa Maria de Vison) 666 18
ナポリ・ガレアス船隊
指揮官:ウーゴ・デ・モンカーダ 船名 トン数 砲数 備考
サン・ロレンソ(San Lorenzo) ? 50 船隊旗艦
スニガ(Zúñiga) ? 50
ラ・ジローナ(La Girona) ? 50 アイルランド北部アントリムで座礁。
ナポリターナ(Napolitana) ? 50
ポルトガル・ガレー船隊
指揮官:ディエゴ・メドラノ 船名 トン数 砲数 備考
カピターナ(Capitana) ? 5
プリンセサ(Princesa) ? 5
ディアナ(Diana) ? 5
バザーナ(Bazana) ? 5

輸送船団

指揮官:ファン・ロペス・デ・メディナ:23隻

小型船船団

指揮官:アントーニオ・ウルタード・デ・メンドーサ (en) :小型帆船22隻

※スペイン船のトン数はスペイン式計算によるもので、イングランド式計算よりも25%以上小さい[100]。

備考

比喩としての「Armada」

「Armada」の本来の意味は上記のスペイン艦隊であるが、転じて大艦隊の威容をあらわす比喩的な名称となった。比較的近年のものとしては、ハレー彗星の1986年地球接近を観測した多数の探査機「ハレー艦隊」は横文字圏では「Halley Armada」と呼ばれている。他にも、フィクション中の艦隊(例えばSFや架空戦記の艦隊など)にも用いられることがある[注釈 7]。また、長い間無敗を続けていた1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選をはじめとするサッカースペイン代表の通称として日本のサッカー雑誌や関連本が用いている[注釈 8]。

テニスの俗語では「スペイン無敵艦隊」はラファエル・ナダル、フェルナンド・ベルダスコ、フェリシアーノ・ロペス、ダビド・フェレール、トミー・ロブレド、ニコラス・アルマグロ、フェリックス・マンティーリャ、アルベルト・ポルタス (en) 、フアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤなど高ランクのスペイン人選手の集団を言い表す際に用いられる。これはまたデビスカップチームのニックネームとしても使われる。しかしながら、アルマダ海戦の顛末から、多分に揶揄の意味を含んで使われたり、また縁起の悪い呼び名として嫌がられる例もある。
その他

スペイン最大の文学者の一人ロペ・デ・ベガは兵士としてこの海戦に参加している。
ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテスもスペインの無敵艦隊で食料調達係をしていた。

後に日本に渡ったウィリアム・アダムス(三浦按針)は、英国軍の補給船の船長として前線と港を往復していた。』

幾多の危機から国を守ったイングランドの〝凄腕〟宰相

幾多の危機から国を守ったイングランドの〝凄腕〟宰相
インテリジェンス・マインド
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28600?page=2

『16世紀のエリザベス1世の時代は、イングランドが内憂外患に直面した時代であった。女王はこれら苦難を克服し、後にイングランドの黄金期と呼ばれる時代を築き上げたのである。そして陰で女王を支え続けたのが、宰相フランシス・ウォルシンガムであった。

 ウォルシンガムは駐仏大使を務めた外交官であり、1573年には国王秘書長官(現在の国務大臣)に任命され、情報活動の責任者となる。彼は「情報にはいくら金をかけても高すぎるということはない」という有名な言葉を残しており、情報収集の体制づくりに心血を注いだ。

 ウォルシンガムは国内外に情報提供者を多数雇い込み、さらにトマス・フェリペスという暗号解読官を中心とした組織を設置して、国内の郵便物に目を光らせたのである。この活動のため、ウォルシンガムは女王から機密費を受け取っていたが、それでも足りない分は私費で補っていたという。

女王の暗殺阻止へ
暗躍したスパイ

 当時ウォルシンガムが最も警戒したのがカトリック勢力の浸透であり、その大本がスコットランド女王メアリーであった。メアリーはイングランド女王エリザベスの遠縁にあたり、その背後にはスペイン王フェリペ2世が控えていた。メアリー女王自身もエリザベス1世に代わって、イングランドを治めるべきは自分であると考えていたが、プロテスタントのウォルシンガムにとってそれはカトリックとフェリペ2世に国を乗っ取られるのに等しいことであったため、何としても阻止しようとしたのである。

 ウォルシンガムのスパイ網は83年3月、エリザベス女王に対するクーデター計画の情報を入手する。それは女王を暗殺して、ローマ教皇軍とスペイン軍がイングランドに侵攻し、メアリーをイングランド女王に据えるというものであった。

 ウォルシンガムは早速、首謀者のフランシス・スロックモートンを逮捕し、自白を引き出すことに成功した。計画の裏にはスペインの駐英大使、ベルナルディノ・デ・メンドーサがいることが明らかになり、大使は国外追放処分となった。

 しかしその後も女王に対するクーデター計画は続く。

 今度はメアリー女王自らが計画の首謀者となっていた。メアリーはウォルシンガムの厳格な監視下に置かれていたため、屋敷に週に1度運ばれてくるビールの樽に暗号で書かれた手紙を忍ばせ、協力を申し出た駐英フランス大使に送られていたのである。

 だが、抜け目ないウォルシンガムの部下はこの手紙を密かに抜き取り、暗号解読によって内容を掴んでいた。計画はやはりエリザベス女王を暗殺し、スペイン軍がイングランドに侵攻するというものであった。そして暗殺役にはアンソニー・バビントンというカトリック教徒の若者が抜擢された。

 バビントンは6人の実行犯を組織し、メアリー女王と直接暗号文で具体的な計画をやり取りしていた。86年7月6日にバビントンは「われわれによって(女王の)悲劇的処刑が行われることになりましょう」と書き送り、メアリーも「外国軍の侵攻準備が整えば計画実行の時です」とクーデターを煽っているが、このようなやり取りはウォルシンガムに筒抜けとなっていた。

 同年8月14日、バビントンとその一味は一斉に逮捕され、翌月には反逆者として処刑された。そしてメアリー女王も反逆罪で裁判にかけられることになる。裁判で女王はバビントンなる人物は知らないと言い張ったが、ウォルシンガムが解読した女王の手紙を読み上げると、観念したという。

 その結果、死刑が宣告され、87年2月8日にメアリーは処刑された。』

『無敵のスペイン艦隊が大敗を喫した理由とは

 メアリー女王によるクーデター計画と並行して、スペイン国王フェリペ2世は、イングランドへの侵攻を独自に計画していた。86年3月にフェリペ2世は、150隻の軍艦と8万人もの大軍によるイングランドへの侵攻計画を裁可しており、この計画をスペインの支援者であるローマ教皇シクストゥス5世に手紙で伝えている。

 これに対してウォルシンガムは既にローマにもスパイ網を築いており、教皇の側近を買収して、フェリペ2世の手紙を入手することに成功していた。そして87年に入ると侵攻が確実視されるようになったため、ウォルシンガムは先手を打つべく、海賊出身のフランシス・ドレーク提督を使ってカディス港のスペイン艦隊を奇襲している。

 ドレークの攻撃は成功し、計100隻以上ものスペイン艦船が破壊・拿捕され、さらに保管されていた1年分の樽材と鉄のたがが葬り去られた。樽は遠洋航海の際に貴重な飲料水の貯蔵庫となるため、これによってスペイン艦隊の長期航海は難しくなった。

 大損害を受けたスペイン側は、侵攻計画を練り直す状況に陥り、一方のイングランドとしては無敵艦隊を迎え撃つ時間を稼いだことになる。ウォルシンガムは自ら軍艦購入のための資金を調達し、他方で外国の金融機関がスペインに融資することを妨害し続けた。そして大陸における監視網を強化し、スペイン艦隊の来襲に備えたのである。

 88年7月31日、ついに130隻もの艦艇からなるスペイン無敵艦隊が英仏海峡に到達すると、イングランド海軍も準備した200隻でこれを迎え撃った。ここではドレーク提督の作戦指導が功を奏し、イングランドの艦艇は機動戦術を駆使してスペイン艦艇を一方的に撃沈させていった。

ドレーク提督が率いたイングランドの艦艇は、無敵を誇ったスペイン艦隊を一方的に撃沈させていった(1588年、アルマダの海戦) (AFLO)

 戦闘はブリテン島を一周する形で、2週間にわたって行われたが、スペイン側はイングランド海軍による攻撃に加え、食料・水不足に悩まされ、士気の低下が甚だしかった。その結果、無敵を誇ったスペイン艦隊は大敗北を喫し、スペインに無事帰還できたのはわずか60隻であったという。

 このようにウォルシンガムは、情報の力によって国内外の危機からイングランドを守り抜いた。ただし彼は私財を投じて活動していたため、その死後、2.7万ポンド(現在の貨幣価値で約6.4億円)もの借金が残されたという。彼の墓碑は次のようなものであった。「この国を目にも明らかな多事多難から救い出し、この社会を守り、この王国の平和を確保した」(ロバート・ハッチンソン著『エリザベス一世のスパイマスター』〈近代文藝社〉)。』

https://note.com/wedge_op

両軍が激しく争うバフムートの戦い、弾薬や物資を無限に消耗するブラックホール

両軍が激しく争うバフムートの戦い、弾薬や物資を無限に消耗するブラックホール
https://grandfleet.info/european-region/battle-of-bahummut-where-both-armies-fight-fiercely-black-hole-that-consumes-ammunition-and-supplies-infinitely/

『2022.11.29
ニューヨーク・タイムズ紙は27日、ウクライナ軍とロシア軍が激しく交戦するバフムートの戦いについて「弾薬や物資を無限に消耗するブラックホールになり、予定している反撃など優先度の高い作戦から戦力を奪う可能性がある」と指摘した。

参考:Ukraine Situation Report: The Bloody Battle For Bakhmut
参考:In Ukraine, Bakhmut Becomes a Bloody Vortex for 2 Militaries

無限に西側諸国から弾薬が供給されるとウクライナ人が勘違いし、持続不可能なペースで砲弾を消耗している

バフムート周辺のウクライナ軍は高台に位置する幹線道路「T0513」沿いでロシア軍の前進を食い止めていたのだが、この防衛ラインを完全に突破してオザリアニフカを確保、クルデュミフカもロシア軍が抑えたという情報があり、さらにクリシェイフカ方面にもロシア軍が前進を見せているためバフムートやアルテーモヴェの包囲を狙っている可能性が高い。

出典:GoogleMap ドネツク州バフムート周辺の戦況/管理人加工(クリックで拡大可能)

特に興味深いのは「ロシア軍だけでなくウクライナ軍もバフムート周辺の戦いで大きな人的被害を被っている」という報道だ。

ロシア軍は「ほぼ全ての前線」で龍の歯や塹壕を建設して越冬準備を進めているが、クレムリンが要求する「政治的な勝利」の必要性に応えるためバフムート周辺だけは戦いが激化しており、この地域で働く軍医や衛生兵は「ロシア軍がより激しく前進しようとしているため負傷者(ある日の負傷者数は240人に達したらしいが戦死者については不明)が急増している」とニューヨーク・タイムズ紙に証言、ここを守る第93機械化旅団や第58自動車化歩兵旅団などは相当消耗している。

出典:Сухопутні війська ЗС України

関係者(兵士・現地住民・米国防当局者)曰く「ウクライナ軍はここ数日、特殊部隊やあまり訓練されていない領土防衛隊の兵士を増援として大量にバフムートへ送り込んだ」と述べているため、ロシア軍だけでなくウクライナ軍も大きな人的被害を被っている可能性が高いのだが、圧倒的な火力差で酷い目にあったセベロドネツクやリシチャンシクの戦いとは異なり「ここまで我々の砲兵部隊が働いているのを見たことがない」と現地兵士が証言するほどウクライナ軍の砲撃は活発だ。

しかし砲撃が活発なことに米政府関係者は「バフムートのような場所で無限に西側諸国から弾薬が供給されるとウクライナ人が勘違いし、持続不可能なペースで砲弾を消耗していることを国防総省は懸念している」と指摘、両軍が砲兵戦力を投入するバフムートの戦いは弾薬や物資を無限に消耗するブラックホールになり「ウクライナ軍が予定している反撃など優先度の高い作戦から戦力を奪う可能性がある」とNYT紙は指摘している。

出典:Генеральний штаб ЗСУ

勿論、ウクライナ軍だけでなくロシア軍も同じように兵士や砲弾を消耗しているが、西側諸国がウクライナに供給できる155mm砲弾は限界(備蓄が0になったという意味ではなく自国の安全保障に最低限必要な数量に近づいてきた=余剰分がほぼ尽きたという意味)に近づいており、米国が155mm砲弾の生産量(月産1.5万発/これまでに提供したギャップを埋めるだけで66ヶ月=5.5年もかかる)を増やすためには1年~2年のリードタイムが発生すると見積もられている。

経済性を損なわないことと自国の安全保障がリスクを負わない範囲でウクライナを支援する西側諸国の物量と、特別軍事作戦が真に必要とする装備や物資の生産に集中(T-14やSu-57といった近代化計画を中断)してきたロシアの物量(+イラン・北朝鮮からの支援)、果たしてどちらが物量が相手を上回るのだろうか?

関連記事:プーチン大統領がロシア軍の近代化中止を指示、リソースを消耗戦に集中投入
関連記事:ウクライナ軍とロシア軍の戦い、攻勢を止めても敵が戦力を回復するだけ
関連記事:戦場は泥の海、それでもウクライナ軍とロシア軍の戦いは止まらない
関連記事:NATO、大半の加盟国がウクライナ支援で武器・弾薬の備蓄を使い果たした

 ※アイキャッチ画像の出典:Сухопутні війська ЗС України』

防衛省、2027年度までを目処に最大500発のトマホーク購入を検討中

防衛省、2027年度までを目処に最大500発のトマホーク購入を検討中
https://grandfleet.info/japan-related/defense-ministry-considers-purchasing-up-to-500-tomahawks-by-2027/

『防衛省、2027年度までを目処に最大500発のトマホーク購入を検討中

噂されている日本のトマホークの導入について読売新聞は30日「防衛省は2027年度までを目処に最大500発の購入を検討しているが、製造能力の問題もあるため購入規模は変動する可能性がある」と報じている。

参考:トマホーク最大500発購入へ、反撃能力の準備加速…8年前に購入の英は65発190億円

2027年度までに500発という日本の需要にレイセオンが応えるためには年間生産数を2倍程度に引き上げる必要がある

日本は反撃能力を確保するため国産巡航ミサイル(12式地対艦誘導弾・能力向上型)の開発を進めているが、実用化は早くても2026年度以降になると予想されているため、早期に反撃能力を確保する一貫として米国からのトマホーク導入が噂されていたが、読売新聞は30日「防衛省は2027年度までを目処に最大500発の購入を検討している」と報じている。

出典:令和4年度版防衛白書 12式地対艦誘導弾・能力向上型

さらに日本メディアはトマホーク導入について艦艇運用だけでなく陸上運用や潜水艦運用の可能性も指摘しているが、トマホークの現状は以下の通りだ。

トマホークの最新バージョンは2021年に米海軍が調達を開始したトマホークV(移動する水上目標を攻撃可能なBlockVaと地上目標の破壊により適した弾頭を備えるBlockVbが存在する)で、新規調達と平行して既存のトマホークIVをトマホークVにアップグレードしており、現時点でトマホークを新規調達しているのは米海軍と米陸軍(MK.41を流用したロングレンジウェポンの実用化に向けて米海軍が調達しているのを融通してもらっている)しかなく、レイセオンの年間製造能力は154発(2022会計年度発注数)に過ぎない。

出典:U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Jason C. Swink/Released

さらに水中発射に対応したトマホークもVLSバージョンと魚雷発射管バージョンは完全に別物で、米海軍は魚雷を保管する弾庫容量(ロサンゼルス級/弾庫容量26発でバージニア級/弾庫容量38発)の関係からシーウルフ級を除く攻撃型原潜にVLSを搭載しているため魚雷発射管バージョンのトマホークを現在調達しておらず、このバージョンをもっとも最近取得した英海軍も調達を終えているため魚雷発射管バージョンの生産ラインは閉鎖済みだ。

アップグレード予定のコリンズ級潜水艦にトマホーク統合を検討中のオーストラリアでも「魚雷発射管バージョンの再生産にレイセオンが応じてくれるのかがネックだ」と指摘されており、もし日本とオーストラリアが魚雷発射管バージョンのトマホークを共同調達するなら数量が確保できるためレイセオンが再生産に応じてくれるかもしれないが、日本の潜水艦は米国製の戦闘管理システムや魚雷発射管を採用していないため統合に手間がかかるかもしれない。

出典:Royal Australian Navy

読売新聞も米国の製造能力の問題もあるため購入規模は変動する可能性があると指摘しているように、2027年度までに500発という日本の需要にレイセオンが応えるためには年間生産数を2倍程度に引き上げる必要があり、サプライチェーンが供給する部品やコンポーネントの生産量引き上げ、手作業に近い組み立て作業に必要な作業者も増やさなければならず、短期的な需要=2027年度以降も日本がトマホークを継続購入する意思がないのならF-15J改修の時と同じように「高額な対策費」を請求される可能性がある。

2%に増額される予算を背景に「生産量引き上げに必要な設備投資も日本がカバーする」というアプローチで行くなら「2027年度までに500発購入」も実現可能かもしれないが、ウクライナ侵攻で発生した莫大な需要をカバーするため欧米諸国が産業界に働きかけても遅々として増産が進まないのは防衛産業企業も株主が存在する民間企業=過剰な設備投資や余剰生産力を抱えるの嫌うためで、仮に生産量の引き上げに応じてもリードタイムは必ず年単位で発生するだろう。

出典:U. S. Navy photo by Petty Officer 1st Class Stephen J. Zeller, fire controlman/Released

勿論、調達のプロである防衛省(もしくは防衛装備庁)はそのあたりの事情を踏まえた上で「2027年度までに500発購入」という数字をはじき出しているので何らかの算段や確証があると思われるが、これがどのような目論見があるのかは今のところ見当もつかない。
管理人が思いつくのは退役→非武装化が予定されている旧型のトマホークIII(何発あるのかは不明)を米海軍から買い取り、寿命延長プログラムを施して導入するという方法ぐらいだ。

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 ※アイキャッチ画像の出典:U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 3rd Class Jonathan Sunderman/Released』

欧州委員会のフォンデアライエン委員長、ウクライナ軍の戦死者数を漏らす?

欧州委員会のフォンデアライエン委員長、ウクライナ軍の戦死者数を漏らす?
https://grandfleet.info/european-region/european-commission-president-von-der-leyen-to-reveal-ukrainian-military-death-toll/

『欧州委員会のフォンデアライエン委員長、ウクライナ軍の戦死者数を漏らす?

欧州委員会のフォンデアライエン委員長は30日、ロシアの戦争犯罪に関する裁判所設立構想を披露する中で「2万人以上の民間人と10万人のウクライナ兵士が死亡したと推定される」と明かし注目を集めている。

参考:Из обращения главы Еврокомиссии убрали упоминание о 100 тысячах погибших украинских военных
参考:Генштаб о потерях ВСУ в войне с РФ: Цифры закрытые, но агрессор должен понести наказание
参考:В Еврокомиссии объяснили свою ошибку о якобы 100 тысячах погибших в ВСУ

自軍にとって不利になるような情報の公開を意図的に制限するのはよくある話だが、、、

ウクライナ軍はロシア軍兵士の戦死者を毎日発表しているが、自軍の戦死者数についてはゼレンスキー大統領が3月12日に約1,300人、4月15日に2,500人~3,000人、ザルジュニー総司令官が8月22日に約9,000人戦死したと明かしただけで、欧米諸国もウクライナ軍の被害については口を閉ざしている。

出典:Visegrád 24

ただウクライナ軍の発表するロシア軍兵士の戦死者は9万人に迫ろうとしており、戦闘の激しさを加味するとウクライナ軍も相当数の兵士を失っているという指摘が多く、ウクライナ兵士が埋葬された膨大な数の墓を映した映像も複数確認されていたが、欧州委員会のフォンデアライエン委員長はロシアの戦争犯罪に関する裁判所設立構想を披露する中で「2万人以上の民間人と10万人のウクライナ兵士が死亡したと推定される」と明かした。

委員長が言及した戦死者数についてコメントを求められたウクライナ軍参謀本部は「この数字を確認することは出来ない、我が軍の損失は軍事機密であり情報公開の制限に該当する」と回答、さらに欧州委員会のウェブサイトで公開されていた発言に関するテキストと動画も削除され、戦死者数に言及した部分のみ削除したものを再掲載して「委員長が言及した推定数値は外部ソースを引用したものでロシア軍の残虐性を強調する意図だった」と釈明している。

出典:Генеральний штаб ЗСУ

自軍にとって不利になるような情報の公開を意図的に制限するのはよくある話だが、ウクライナ軍もロシア軍も「敵は自分たちより多くの損害を被っている」と主張しているので両軍の戦死数には注目が集まりやすく、特に情報が出てこないウクライナ軍の戦死者数なら尚更だ。

フォンデアライエン委員長は公にしてはいけない数字を口にしてしまったのか、それとも不正確な数字を言及してしまっただけなのか、、、とても気になる。

関連記事:ウクライナ軍総司令官、179日間で約9,000人の英雄が戦死したと発表
関連記事:ゼレンスキー大統領、17日間の戦闘でウクライナ軍兵士が約1,300人戦死

 ※アイキャッチ画像の出典:Kmu.gov.ua/CC BY 4.0 』

欧州委員会の委員長がウクライナの将兵10万人以上が戦死したと発言、すぐに削除

欧州委員会の委員長がウクライナの将兵10万人以上が戦死したと発言、すぐに削除 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212010000/

『欧州委員会のウルスラ・フォン・デア・ライエン委員長は11月30日、演説の中でウクライナの将兵10万人以上が戦死したと語った。9月後半にロシアのセルゲイ・ショイグ国防大臣はウクライナ兵の戦死者数はロシア兵の10倍にあたる6万1000人以上だと語っている。すでにウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー政権は45歳以上の男性を戦場へ投入しているともいう。

 ライエンの推計は間違っていないだろうが、彼女の発言はすぐに削除された。アメリカのジョー・バイデン政権の逆鱗に触れたと少なからぬ人は考えている。

 そのアメリカでは統合参謀本部のマーク・ミリー議長は11月9日、ウクライナ軍がロシア軍に勝利することはないかもしれないとニューヨークの経済クラブで発言、冬が本格化する前にロシアとの交渉を始めるべきだと主張している。その際、10万人のロシア兵が「死傷」したとも語っていた。ミリー議長の発言は対ロシア戦争を推進してきた好戦派、例えばジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官を怒らせたようだが、ライエンに対してはより強く叱責した可能性がある。

 アメリカは自分たちが行った、あるいは行っている悪行を敵が行っていると宣伝するのが常套手段だが、「10万」という数字もウクライナの軍人の戦死者数から持ってきたのかもしれない。

 しかし、サリバンなどネオコンが怒っても事態は変わらない。現在、ロシア軍はウクライナの東部から南部にかけて広がるステップ(大草原)が凍結するのを待っている。戦闘車両の走行が容易になるからで、そこから新たな軍事作戦が始まると見られている。その前に話し合いを始める方が良いとミリー議長は主張しているのだ。

 今年5月に​ヘンリー・キッシンジャーはスイスのダボスで開かれたWEF(世界経済フォーラム)の年次総会でロシアとウクライナとの特別な関係を指摘、平和を実現するためにドンバスやクリミアを割譲して戦争を終結させるべきだと語っている​が、これもウクライナ軍がロシア軍に太刀打ちできないことを理解しているからだろう。それでも戦闘を続けようとすればアメリカ/NATO軍が前面に出てくるしかないが、そうなると全面核戦争になる可能性がある。

 新たな軍事作戦の前にロシア軍はミサイルでウクライナの配電施設など戦闘に必要なインフラを破壊している。すでにエネルギーの供給能力が半分に低下し、暖房だけでなく上下水道も機能しなくなった。キエフでは水道の80%が止まっていると言われている。

 ステップが凍結した後に始める軍事作戦でロシア軍はロシア領を攻撃できなくなる場所までウクライナ軍を押していくと言われている。南部ではドニエプル川を渡って100キロメートル以上は進み、北部ではドニエプル川までを制圧すると見られている。その上でドンバスとキエフ体制が支配する地域との間に非武装地帯を設置するというわけだ。キエフ体制が攻撃兵器を持つことやネオ・ナチの存在を許さないだろうと言われている。

 ネオコンは「新たな真珠湾攻撃」を目論むかもしれないが、西側の動きを見ていると、キッシンジャーやそのパトロンたちの力が強まっているように感じられる。』

江沢民氏死去 台湾が声明「民主制度や外交脅かした」

江沢民氏死去 台湾が声明「民主制度や外交脅かした」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM30CF30Q2A131C2000000/

『【台北=龍元秀明】台湾で対中国政策を所管する大陸委員会は30日、中国の江沢民(ジアン・ズォーミン)元国家主席の死去を受け、「遺族に哀悼の意を表する」との声明を発表した。

中国が弾道ミサイルを発射して台湾を威嚇した、1995~96年の第3次台湾海峡危機にも言及し「江氏の任期中に(中国は)武力行使を続け、台湾の民主制度の発展や外交を脅かした」と評した。そのうえで「中国共産党が過去から学び、軍事的威嚇や武力行使の考えを捨て、台湾の人々を尊重するよう求める」とした。

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江沢民氏死去、経済大国・中国の基礎築く 党の裾野拡大

江沢民氏死去、経済大国・中国の基礎築く 党の裾野拡大
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM30A1T0Q2A131C2000000/

『【北京=羽田野主】1989年、天安門事件直後の混乱のさなかに江沢民(ジアン・ズォーミン)氏は共産党総書記に抜てきされた。最高指導者だった鄧小平の下で、市場化にカジを切る「社会主義市場経済」路線を導入し、首相だった朱鎔基氏と共に経済大国の基礎を築いた。

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江氏の総書記としてのスタートは恵まれたものではなかった。天安門事件直後の党内では政治闘争が吹き荒れていた。鄧小平が打ち出した改革開放政策も停滞し、政治も経済も内向きになっていた。

1992年に「社会主義市場経済」路線を打ち出し、外国企業の誘致を積極的に進めた。天安門事件後、中国経済は欧米日による経済制裁で低迷したが、市場メカニズムを取り入れ、徐々に活気を取り戻した。78年に始まった改革開放を江氏のもとで再加速したことで、2000年代の高速成長の基礎を築いた。

01年には世界貿易機関(WTO)への加盟を実現した。江氏は03年に国家主席を退くまで鄧小平路線を堅持し、経済成長重視の政策を貫いた。任期中には、1997年の香港返還や99年のマカオ返還など、国家的事業を相次いで成功させた。

共産党組織の基盤も強化した。共産党を「先進的な生産力、先進的な文化、最も広範な人民の根本的利益を代表する」と定義した「三つの代表」思想を提唱。私営企業家の共産党入党を解禁し、労働者と農民が多かった共産党員の裾野を広げた。足元で党員は1億人に迫る。

共産党と企業の結びつきが強くなる中で汚職や腐敗が横行した。中央・地方政府で利権ポストは膨らみ、権力を持つ者ほど豊かになる構造を生み出した。権力と富が集中する共産党自体が腐敗の温床と化した。

引退からしばらくの間は、権力維持に固執する姿が目立った。国家主席を退いた後も軍トップである中央軍事委主席を2年間続け、後任の胡錦濤(フー・ジンタオ)氏がなかなか指導力を発揮できない一因となった。

習氏が旗を振った反腐敗運動の標的の多くは江氏が率いた「上海閥」だった。習氏が権力基盤を固めるにつれて、存在感は徐々に低下した。晩年は地元、上海市郊外の自宅にこもる時間が長かったという。

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川島真
東京大学大学院総合文化研究科 教授
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分析・考察

日本では愛国主義教育などナショナリズムを煽った政治家と見做されることが多いが、江沢民はやや強引に経済発展を推し進めた政治家であり、一面で「三つの代表」など多様化する社会に対応して共産党の基礎を多元化させ、他面でその政策がさまざまな格差や課題を生み出し、結果的に習近平政権の基礎となる共産党保守派の台頭を招いたと理解できる。

対外政策では、陸上国境問題の大半を解決して、周辺外交、一帯一路の基礎を築くとともに、韜光養晦政策を採用して対米、対先進国協調外交を進めようとした。一部の報道では、江沢民の死亡によって習近平に一層権力が集まるという見方もなされるが、昨今は病床にあって実質的影響力はなかった。

2022年12月1日 8:21』

https://nkis.nikkei.com/pub_click/174/By1EvNR_GeyiPaqdmD4wyIIVMMsM8_9hVMIQaHr3yHXDbvp-EZUoohKO1npeVAEnWL17iwhICt0h3W8SN28F1U9Mw9CPi_8t9Ir9330D6CDSNzEGElq98cFaQt-R8j8hGtbYDx19nr5QONAuCzxQaNSXrDO4gf4W5XHzd7N8JFHjDB6C21fM95NsXWibWAV6TA2hZ_hkkgH2vfIZkMN26DemcFBCV5zP2P6I3QLvKGxSAwEqbPxzF19WqScp35HMDq8tdBy_q5rq0734WdlMK1fG8iAlg3DF4WN209tOVgNPjO9u1w3vMkGfdiqJPiANmQh2AcKvHuDxm4d0P9VkViui0b2ENuVFDk9-hZnJTlPbANMF7HGvnEdELt6e_t8e7H6oUooMR4CM518DnOASkxaVVLMHxo8vW2JxzqAmrbXbPHGTTJxH7Si6nJ0r7I31j19x-B7U1MN4wsceRzxmsL7Y4wzEGRXCJrFOAsw4oH6oYexO7F7JJUzEqAY//114747/153248/https://adweb.nikkei.co.jp/nikkei_voice/

米国務長官、中国デモ抑圧「弱さの表れ」

米国務長官、中国デモ抑圧「弱さの表れ」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN0103M0R01C22A2000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】ブリンケン米国務長官は30日、中国各地での新型コロナウイルス対策への抗議活動を巡り「政府が大規模な弾圧をするのは強さでなく弱さの表れだ」と述べた。大量の警察官を動員して抗議の抑えこみを狙う中国政府にクギを刺した。米NBCテレビのインタビューで語った。

中国では新型コロナを抑えこむ「ゼロコロナ」政策を巡り、白紙を掲げるなどの抗議活動が続く。ブリンケン氏は「どんな問題であっても平和的に抗議し、自分の不満を伝えようとする姿を目にするのはどの国も同じだ」と話した。

北大西洋条約機構(NATO)は30日、ルーマニアの首都ブカレストで開いた外相理事会で、中国がもたらす安全保障上の課題を討議。中国の軍事・技術開発や欧州周辺への進出について懸念を共有した。

ブリンケン氏は理事会後の記者会見で「中国の威圧的な政策やロシアとの協力を含む急速で不透明な軍備増強に懸念を抱いている」と述べた。NATO加盟国と中国の経済貿易関係については「(技術輸出で)中国の軍事力を高める可能性がある場合は慎重に対応し、輸出規制をするときは可能な限り協調する」と語った。

NATOの対中政策について「共同で何ができるか検討している。これはNATOをアジアに持ち込むとか、NATO域外で行動するということではない」と言及した。「中国との対立は避けたい。新冷戦を望んだり経済のデカップリング(分断)を求めたりしているわけでもない」とも指摘した。

ブリンケン氏は2023年初めにも中国を訪問する。30日の米CNNテレビで訪中について「何よりもまず、意見が対立しても意思疎通を確保することが目的だ」と説明した。』

中国 「ゼロコロナ」抗議活動広がり 感染対策大幅緩和の動きも

中国 「ゼロコロナ」抗議活動広がり 感染対策大幅緩和の動きも
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221201/k10013909261000.html

『中国で「ゼロコロナ」政策に対する大規模な抗議活動が体制への批判にも発展する中、地方政府の中には厳しい感染対策を大幅に緩和する動きも出ていて、中国政府として国民の不満がこれ以上広がらないよう対応に乗り出した形です。

「ゼロコロナ」政策に対する大規模な抗議活動は首都・北京や上海、それに南部の広東省・広州など各地に広がり、ところによっては共産党や習近平国家主席への批判にも発展しました。

また、感染対策で封鎖された地区の中には封鎖の解除を求める住民と警察との衝突に発展したところも出るなど、国民の不満が高まっていました。

こうした中、衝突が断続的に起きていた広州では、感染者が確認された周辺の広い地域を対象としていた封鎖の範囲について、感染者が確認された建物に限るなどとした感染対策の大幅な緩和を、30日に地元政府が発表しました。

これを受けて、封鎖が1か月以上続いていた地区では食料の買い出しに向かう住民や出身地に帰る出稼ぎ労働者の姿が見られました。

中には「ここから一刻も早く離れたい」とか「自由に食事もできず、本当に苦しかった」といった声も聞かれました。

中国政府は国内の一部の地域で過剰な感染対策が行われていることを認めていて、国民の不満がこれ以上広がらないよう対応に乗り出した形です。

東京でも「ゼロコロナ」に抗議活動

中国各地で「ゼロコロナ」政策に対する大規模な抗議活動が起きる中、30日夜、東京・新宿でも日本に住む中国人などが当局の対応を批判する抗議活動を行いました。

抗議活動はJR新宿駅周辺で行われ、参加者らは「習近平は退陣せよ。共産党は退陣せよ」などと中国語や日本語で抗議の声をあげていました。

また参加者の中には「封鎖はいらない。必要なのは自由だ」などと書かれた紙や「ゼロコロナ」政策に抗議の意思を示す白い紙を掲げる人もみられました。

2時間ほど行われた抗議活動には数百人以上が集まったとみられ、身元を特定されないよう帽子やマスクなどで顔を隠している参加者もみられました。

抗議活動を呼びかけた20代の男性は「今後もこうした活動を続け、『ゼロコロナ』政策の問題点を広く訴えていきたい」と話していました。

抗議活動はアメリカなど世界各地でも

中国の「ゼロコロナ」政策に対する抗議活動はアメリカ・ニューヨークにある中国総領事館前でも29日、行われました。

抗議活動にはおよそ400人が集まり「中国に自由を」とか「『ゼロコロナ』政策を終わらせろ」と書かれた看板を掲げ、「人権を守れ」などと声を上げていました。

参加した男性は「中国政府のコロナ政策や、それに抗議する人たちへの対応など、今の政府への不満を示すことが大切だと思って来ました。『ゼロコロナ』政策は政治的な意図によるもので適切だとは思いません」と話していました。

抗議活動はカナダのトロントでも29日に行われたほか、これまでにオーストラリアのシドニーやイギリスのロンドンなど世界各地で行われています。』

中国・広州、コロナ封鎖地域でまた暴動か SNSに動画

中国・広州、コロナ封鎖地域でまた暴動か SNSに動画
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM308CR0Q2A131C2000000/

『【広州=川上尚志】中国南部の広東省広州市の海珠区で29日に起きたとされる暴動の動画が30日、SNS(交流サイト)で拡散した。現場は新型コロナウイルス対策でロックダウン(都市封鎖)中とされる。

動画は複数投稿された。盾を持って隊列を組んで歩く警官に住民が物を投げたり、警官が催涙弾で鎮圧したりする様子が映されている。海珠区は新型コロナの感染者が多く、11月5日から大半の地域で封鎖が続き、14日には住民がバリケードを壊して外に出るなどの暴動が起きた。

広州市政府は30日、市内の複数地域で封鎖を解除した。海珠区の一部も含む。政府幹部は同日の記者会見で「条件に合致すれば速やかに封鎖を解除する。市民の不便を最小化するため最善を尽くす」と説明した。

広州市内の1日当たりの感染者数は7000人前後で推移し、中国本土の都市の中で目立って多い。感染者数が高止まりしたままであれば、当局は再び封鎖などの措置を強める恐れがある。』

欧州で「移民危機」再燃 ウクライナ発の混乱波及

欧州で「移民危機」再燃 ウクライナ発の混乱波及
編集委員 下田敏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD157EC0V11C22A1000000/

『世界的な食料危機や物価高で困窮した中東やアフリカの人々が相次いで国境を越え、欧州が再び移民の大量流入に直面している。新型コロナウイルスの影響緩和もあって、欧州連合(EU)の不法越境者は前年の約1.8倍に膨らんだ。一時保護とはいえ、欧州はすでに500万人のウクライナ難民を抱え込んでおり、受け入れ負担は重い。ガス不足やインフレに加えての移民流入に欧州の冬は厳しさを増している。

イタリアが受け入れ拒絶

11月中旬、地中海を漂流する234人を保護した民間救助船がフランス南部のトゥーロン港に到着した。イタリアのメローニ政権が受け入れを拒み、3週間近い海上待機を余儀なくされたうえでの目的地変更だった。メローニ首相や政権与党は9月の総選挙で非正規移民の流入阻止を公約に掲げていた。

現地報道によると、フランスはイタリアの対応が「一方的な決定で信義に反する」(ローランス・ブーヌ欧州担当副大臣)と強く非難した。イタリアに上陸した非正規移民の多くは職を求めて北上するが、フランスは仏伊の国境検問を強化し、イタリアからの移民の移動を阻む報復措置に出ている。

地中海をボートで渡ろうとし、NGOに救助される非正規移民(10月25日、地中海)=ロイター

イタリアにギリシャ・キプロス・マルタを加えた地中海4カ国は共同声明を発表し、「最前線にある国々が常に(移民流入の)負担と圧力にさらされている」と不満をあらわにした。EUのダブリン規則は移民が最初に到着した国が責任を負うと定めており、流入ルートにある国の負担は確かに重い。

仏伊やドイツを含めたEUの主要18カ国は6月に移民受け入れを分担する「連帯メカニズム」で合意したばかり。だが急増する移民流入を前に各国が対立し、合意はわずか数カ月で崩壊しつつある。

今年はすでに28万人超

EUの国境警備を担う欧州対外国境管理協力機関(フロンテックス)によると、今年1~10月の不法越境者はすでに28万人を超え、前年同期比で77%増えた。シリア難民らの大量流入による2015~16年の移民危機以来の水準となる。

流入を阻む国境警備隊と渡航を手配する密航業者の駆け引きが続くなか、今年は中央地中海ルートからの移民流入が目立つ。移民を乗せたボートの転覆など海難事故がたびたび起こる危険なルートだが、今年の不法越境者は8万5000人を超え、前年比で59%増えた。

もう1つはブルガリアやセルビアを横断してハンガリーなどを目指す西バルカンルート。今年はすでに約12万8400人と前年の2.7倍になった。EU非加盟の西バルカン諸国は入国規制が緩く、ここから陸路を歩いて移動し、EUの国境を目指す人が急増している。

線路を歩いてEU国境に向かう非正規移民(10月20日、セルビア。ハンガリーとの国境付近)=AP

なぜ、これだけ多くの人々が欧州への移動を始めたのか。15~16年の移民危機で社会や政治が混乱したのをふまえ、EUは国境警備の強化に動き、欧州への移民流入はいったんは落ち着いていた。

食料危機が移動再開を招いた?

国際移住機関(IOM)の集計(今年11月中旬まで)では、欧州に流入する移民の出身国で最も多かったのはエジプトの約1万8000人で昨年の2倍以上となった。昨年最多のチュニジアは7%増と引き続き高水準にあり、シリアは約2.6倍、アフガニスタンは約1.3倍に増えた。

ウクライナ紛争に伴う食料不足のモデル分析で、ドイツのキール世界経済研究所は「ウクライナとロシア産の穀物輸入への依存度が特に高いエジプトとチュニジアで影響が最も大きくなる」と指摘する。エジプトでは小麦の輸入量が13%、チュニジアでは12%それぞれ減少すると推計した。

内戦が続くシリアでは物価高や異常気象で「国民は3年前に購入できた食料の15%しか買えない」(国連報告書)。国連世界食糧計画(WFP)によると、イスラム主義組織タリバンが制圧したアフガニスタンでは全世帯の9割が十分な食料を得られていないという。今年に入ってからの世界的な食料不足や物価高などの経済混乱が欧州への移民流入の原因となっている可能性がある。

軍事衝突のリスクに

ポーランドやリトアニア、ラトビアではベラルーシから数千人規模の移民が国境を越えようとし、警備隊に入国を阻まれて、極寒の森の中で立ち往生している。その多くは中東やアジアからの移民だが、ベラルーシによる組織的な関与が指摘されている。ロシアのウクライナ侵攻に協力するベラルーシは西側の経済制裁を受けており、その報復とみられる。
「ベラルーシによる政治目的のための移民の利用は許容できない」。フォンデアライエン欧州委員長はベラルーシを強く非難し、追加制裁を検討すると警告した。北大西洋条約機構(NATO)はポーランドなど同盟国の安全保障の観点から、移民流入が軍事衝突を引き起こしかねないとして監視を強めている。

20年にEUから離脱した英国も例外ではない。英仏海峡を小型船やゴムボートで渡って入国しようとした移民だけで今年(11月中旬までの累計)は約4万2000人に上る。調査開始の18年から昨年までの4年間をすでに上回る規模となった。

東欧などからEU域内に入り、さらに「稼げる国」である英国を目指す流れは止まらない。英国は11月に対岸のフランスと新たな協定を結び、年間6300万ポンド(約105億円)を支払う代わりに海岸での警備やドローンによる監視を強化してもらうことで移民流入を防ぐ。

IOMによると、危険なルートを通る長距離の移動によって昨年は欧州を目指す移民の約3200人が、今年もすでに約2400人が移動中に事故などで死亡したり行方不明になったりしている。

自由で豊かな生活を求め、危険を顧みずに欧州に渡ろうとする人は絶えない。だが最近はEUの政策スタンスにも変化がうかがえると国際教養大学の堀井里子准教授は指摘する。「EUは以前は移民流入に寛容だったが、アップデートするたびに政策が厳格になっている。スキルが高い移民の合法的な受け入れと非正規移民の送還が前面に出始めている」

EUは「本国送還」にシフト

EU加盟国は11月25日に臨時の司法・内相理事会を開き、エジプトやチュニジア、リビアなどの協力を得たうえで「出国を防ぎ、密航業者のネットワークと戦い、移民の本国送還を大幅に強化する」ことで合意した。人口減少をカバーする労働力としての移民には門戸を開きつつも、欧州社会に統合しきれないほどの大量流入をどう抑えるかとの危機感がにじむ。

欧州はもともと米国やオーストラリアほどには移民への許容度は高くない。米ピュー・リサーチ・センターの18年の調査によると、移民が「自国の重荷になる」との回答割合はドイツでは米国並みの35%だったが、フランスは39%、イタリアは54%、ギリシャでは74%に上った。

異なる文化や宗教、人種が交わるときに軋轢(あつれき)は避けられない。人道的な観点で紛争や困窮から逃れてきた人々の受け入れは許容するが、雇用悪化や犯罪につながりかねない非正規移民の流入は避けたいのが欧州の本音だろう。そのためか、女性や子供に限って移民を保護する事例が増えている。

英仏海峡を渡る移民の出身国で最多のアルバニア人の場合、英国は女性と子供については90%の亡命申請を受け入れているが、成人男性は14%しか認めていない。欧州がウクライナ難民に比較的寛容なのも、18~60歳の男性は防衛のために出国が原則禁じられており、ほとんどが女性と子供であるためだろう。

そのウクライナ難民の今後も見通せない。紛争が長期化するなか、一時的な避難という当初の前提が崩れ始めているためだ。

欧州に向かうウクライナ難民が増える可能性がある(4月10日、ポーランドの駅に到着したウクライナ難民)=ロイター

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の集計によると、ロシアとベラルーシに避難した約287万人を除く欧州のウクライナ難民は499万8000人(トルコなどを含む)に上る。隣国のポーランドは151万人、ドイツは102万人もの難民を受け入れており、宿泊施設や食料、教育などを提供する必要に迫られている。

気がかりなのはウクライナの発電所や電力網を標的にするロシアの攻撃だ。ウクライナ国内では600万人超が避難生活を送っているが、エネルギーを節約するための停電で暖房設備が十分に使えず、毛布や防寒着なども不足していると伝えられる。厳冬期を控え、ウクライナから欧州に向かう難民がさらに増加する可能性はある。

第2次世界大戦後、最大の移民危機に直面する欧州。多様性の尊重という理想が非正規移民の大量流入やウクライナ難民の長期滞在という現実につぶされそうにも見える。

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北朝鮮、ICBM実戦段階へ おとり・地下隠しで奇襲も

北朝鮮、ICBM実戦段階へ おとり・地下隠しで奇襲も
情報戦駆使、日米韓かく乱
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM11BBH0R11C22A1000000/

『北朝鮮が11月18日に発射した新型大陸間弾道ミサイル(ICBM)を内外に宣伝している。国営メディアの記事や写真からは北朝鮮が一貫して「奇襲能力」の確立を目指していることがわかる。軍事技術の進展に加え、それをさらに大げさにみせる情報戦も駆使して日米韓をかく乱しようとしている。

新型ICBM「火星17」型の発射台、第321号に「英雄」の称号を授与――。北朝鮮の朝鮮中央通信は27日、こんな記事を流した。韓国メディアは「人物以外に称号を与えるのは例がない」(聯合ニュース)と注目した。

北朝鮮はなぜ「発射台」をたたえたのか。北朝鮮がこの1週間前に公開したミサイル発射の写真にヒントがある。

北朝鮮メディアが公開した、新型大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星17」の発射実験とされる写真(18日、平壌)=朝鮮通信

北朝鮮が18日に撃ったICBMは高度6000キロメートルまで上昇し、日本の排他的経済水域(EEZ)にあたる日本海に落下した。翌日公開された写真のなかに、広大な敷地からミサイルが上昇する様子をとらえた1枚がある。

米政府系メディア、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)はこの写真の場所を衛星写真との比較から、首都平壌・順安空港の民間滑走路と軍用滑走路の中間地点と分析した。ミサイル関連施設から6キロメートルほど離れているという。

世界最大級のICBM「火星17」は液体燃料を入れると重量が100トンに達し、移動は容易ではないとの見方があった。VOAの分析では3月にICBMを撃った際はミサイル施設から800メートル程度しか動かしていなかった。今回はわざわざ遠くまで運び、撃ったことになる。
米韓は衛星や偵察機で北朝鮮のミサイル発射拠点を監視する。攻撃兆候を捉えて発射台を打撃できるようにするためだ。発射台に動かれると打撃の難度は上がる。

権容守(クォン・ヨンス)前国防大教授は「空港内に陣地をつくり、動きながら発射する作戦運用を試した」とみる。「陣地のなかでミサイルと同じ形のものを一緒に動かせば相手をかく乱できる」と指摘し、おとりを使い米韓の先制打撃を阻止する戦術を採る可能性に触れる。

移動式発射台を「TEL」という。北朝鮮はこれまでもTELの移動能力を活用し、実戦にみたてた奇襲作戦を試してきた。今回の発射のやり方はICBMが試験から実戦段階に移行しつつあることを裏付ける。

27日の朝鮮中央通信はミサイル技術者らが金正恩(キム・ジョンウン)総書記に宛てた手紙の内容も伝えた。金正恩氏に「発射台の自走」や「地下発射場の準備」を教示され、完成をめざしたと記されている。地下に隠したICBMの発射も研究しているようだ。

奇襲戦を意識した発表はこれまでもある。9月には貯水池から短距離弾道ミサイルを飛ばす写真を公表した。これも発射地点を読みにくくさせる新たな戦術だ。

一方で発表が常に正しいかは分からない。11月2日に大量のミサイルを発射した際、北朝鮮は弾道ミサイルなどに加え、日韓に近い海域に「2発の戦略巡航ミサイル」を撃ち込んだと発表した。落下地点の緯度と経度まで掲載した。

韓国側は巡航ミサイルを探知したとは公表していなかった。もし低高度を複雑な軌道で飛ぶ巡航ミサイルが韓国側の探知網をくぐり抜けたのなら、奇襲能力の高さを示したことになる。

韓国国防省は「韓米の監視・偵察の結果、北朝鮮の主張は事実と異なる。探知はしていない」と認めなかった。北韓大学院大の金東葉(キム・ドンヨプ)教授は「事実というより、今後はこういうこともあり得るという強いメッセージだろう」と分析する。

虚偽の情報で相手を不安にさせることを「欺瞞(ぎまん)作戦」などと呼ぶ。偽情報も使い敵対勢力を混乱させるのもひとつの戦術だ。

こういった相手との戦争を抑止するには探知、迎撃、反撃に多くの軍事資源が要る。日本が反撃能力を持てば米韓と協力できる場面は増える。有事も想定しながら情報連携を緊密にする必要がある。

(安全保障エディター 甲原潤之介)

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バイデン氏がナンタケット島での休暇を離れた後、シークレット サービスのレンタカーが炎上…。

バイデン氏がナンタケット島での休暇を離れた後、シークレット サービスのレンタカーが炎上した
https://www.foxnews.com/politics/bidens-secret-service-rental-vehicles-burst-flames-left-nantucket-vacation?intcmp=tw_fnc&s=09

 ※ 下記のコメントにもあるように、「私的な家族旅行」だったようだ…。

 ※ ざっと検索したが、メディアは沈黙している…。

 ※ 報じているのは、このフォックスニュースだけのようだ…。

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

シークレットサービスは、感謝祭の休暇中にバイデンと彼の家族を保護するために車両をレンタルしました

ジョー・バイデン大統領がナンタケット島での休暇を終えたわずか 1 日後、月曜、レンタルしたシークレット サービスの車両が駐車場で炎上しました。

バイデン氏は先週、感謝祭をマサチューセッツ州の豪華な島で家族と過ごしました。Nantucket Current が最初に入手した映像によると、シークレット サービスは Hertz から 5 台の車を借りて大統領とその家族を運びましたが、その 5 台すべてが駐車場で発火しました。

映像には、消防士が 1 台の車両のエンジン ブロックのくすぶっている残骸に噴霧している様子が示されています。5 台の車両には、シボレー サバーバン、フォード エクスプローラー、インフィニティ QX80、フォード エクスペディション、ジープ グラディエーターが含まれていました。

車両はナンタケット空港に駐車されており、炎は施設のジェット燃料タンクからわずか 40 フィート離れたところまで広がったと伝えられています。火災の原因は現在のところ不明です。フォックス・ニュースはホワイトハウスに情報を求めたが、すぐには返答しなかった.

NEWSOMは2024年にバイデンに挑戦しない、彼は大統領の再選に「オールイン」していると言います

2022 年 11 月 28 日月曜日、ナンタケットでバイデン大統領を保護するためにシークレット サービスがレンタルした数台の車両が炎上しました。
2022 年 11 月 28 日月曜日、ナンタケットでバイデン大統領を保護するためにシークレット サービスがレンタルした数台の車両が炎上しました 。 (Nantucket Current. @ACKCurrent)

「午前 5 時 22 分頃、空港のシフト スタッフは、空港のクローズド サーキット テレビ システムを通じて、レンタカーのオーバーフロー エリアで活発な火災が発生していることを確認しました」と、空港は Current への声明で述べています。「スタッフは警報システムを起動し、空港-3で火災に対応しました。そこで彼らは、ナンタケット消防署とナンタケット警察の対応部隊に遭遇しました。」

2022 年 11 月 28 日月曜日、ナンタケットでバイデン大統領を保護するためにシークレット サービスがレンタルした数台の車両が炎上しました 。 (Nantucket Current. @ACKCurrent)

ビル・ベネットは、バイデン政権はフェンタニル危機に「目をつぶった」と言う

「複合消防隊が対応し、火災を鎮圧しました。いくつかの車両が損傷しました。空港は現在、現場の安全を確保するためにレンタカー代理店および代理店のパートナーと調整しています。現時点では、活発な火災はありません。空港は開いており、航空運用には影響ありません」と声明を続けた。

バイデンはナンタケット島の週末を家族と一緒に休日を祝い、2024年の大統領選挙の可能性については何も話し合っていないと記者団に語った.

2022 年 11 月 28 日月曜日、ナンタケットでバイデン大統領を保護するためにシークレット サービスがレンタルした数台の車両が炎上しました 。 (Nantucket Current. @ACKCurrent)

バイデン夫妻は、ナンタケット港沿いの海辺の敷地に滞在しました。旅行の家族には、アシュリーとハンター・バイデンが含まれていました。家族には、島で感謝祭を過ごすという 40 年以上の伝統があります。

この逃走は、8月に大統領、ファーストレディ、ハンター・バイデンがエアフォースワンでサウスカロライナ州のキアワー島に飛んだときに、別の人里離れた東海岸の島に行って以来、バイデン一家にとって初めての休暇でした。

2022 年 11 月 25 日、マサチューセッツ州ナンタケットで、右からジル・バイデン夫人、息子のハンター・バイデン、孫のボー、義理の娘のメリッサ・コーエンと共にクリスマス ツリー点灯式を見守るジョー・バイデン大統領。 (ゲッティイメージズによるマンデル・ガン/ AFP)

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主要な祝日前後や夏の終わりに外出することは、米国大統領にとって珍しいことではありません。ジョージ・W・ブッシュ大統領、バラク・オバマ大統領、ドナルド・トランプ大統領は、在職中に同様の休暇を取りました。ブッシュはテキサスの牧場で過ごすことが多く、オバマとトランプはどちらもニューイングランドのゴルフリゾートを好みました。

Anders Hagstrom は、Fox News Digital のレポーターであり、国政や主要なニュース速報イベントをカバーしています。ヒントを Anders.Hagstrom@Fox.com または Twitter (@Hagstrom_Anders) に送信してください。』