アメリカに従い、中国やロシアとの戦争に突き進む日本

アメリカに従い、中国やロシアとの戦争に突き進む日本 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
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『 ​日本は射程3000キロメートル程度のミサイルを開発し、2030年代の半ばまでに北海道へ配備する計画​だと伝えられている。それが実現するとカムチャツカ半島も射程圏内だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、南西諸島へミサイルを配備する準備を進めている。これは「島嶼防衛」が目的ではなく、ロシアや中国との戦争を想定したアメリカの戦略に基づくものだ。「防衛」や「反撃」が目的ではない。先制攻撃を想定している。

 その計画を先取りする形で自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設し、19年には奄美大島と宮古島に作った。2023年には石垣島でも完成させる予定だという。

 アメリカ国防総省系シンクタンクの​「RANDコーポレーション」が今年出したレポート​によると、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようと計画したのだが、インド太平洋地域でそうしたミサイルの配備を容認する国は日本以外になかった。日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約がある。

 そこで、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力するという形にすることになり、そのASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたわけだ。

 ​日本政府は射程距離が1000キロメートル程度のミサイルを開発、艦艇、戦闘機、そして地上から発射できるようにし、地上発射の改良型は2024年度にも配備する方針​だとされていたが、アメリカの想定通りに事態が進んでいないためなのか、​日本政府はアメリカから亜音速の巡航ミサイル「トマホーク」を購入する意向​だという。

 トマホークは核弾頭を搭載でき、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートルとされている。記事では「反撃能力」が強調されているが、このミサイルには言うまでもなく先制攻撃能力がある。RANDのレポートが作成された時点より事態が切迫しているのかもしれない。

 しかし、トマホークには問題がある。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に就任して間もない2017年4月、地中海に配備されていたアメリカ海軍に所属する2隻の駆逐艦、ポーターとロスからトマホーク59機をシリアのシャイラット空軍基地に向けて発射したものの、約6割が無力化されているのだ。ロシアの防空システムS-300やS-400だけでなく、ECM(電子対抗手段)で落とされたとも言われている。

 翌年の4月にもトランプ政権は巡航ミサイルでシリアを攻撃する。この時はイギリスやフランスを巻き込み、100機以上のミサイルを発射したが、今度は7割が無力化されてしまった。前年には配備されていなかった短距離用防空システムのパーンツィリ-S1が効果的だったようである。

 今年11月14日に山上信吾オーストラリア駐在大使はキャンベラのナショナル・プレス・クラブで日本がオーストラリアの原子力潜水艦を受け入れる可能性があると表明したが、これもミサイルの配備と無関係ではないだろう。

 アメリカやイギリスと同じアングロ・サクソン系の国であるオーストラリアは昨年9月、イギリスやアメリカと軍事同盟「AUKUS」を創設したと発表。それと同時にアメリカとイギリスはオーストラリアに原潜の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられた。

 オーストラリアの潜水艦を受け入れるだけでなく、軍事的な連携を強めるとも山上大使は語っている。日本はアメリカや韓国と軍事的につながっているわけで、太平洋ではアメリカとイギリスを中心にオーストラリアや韓国が軍事的な同盟を結んだということになる。ここに台湾が入るかもしれない。

 オーストラリアをアメリカは対中国戦争の拠点にするようだ。日本列島は先制攻撃の拠点としては意味があるものの、報復攻撃で破壊されてしまうだろう。そこでアメリカはグアムの基地より遠い​マリアナ諸島のテニアン島にアメリカは新しい空港を建設​しているが、規模は限定される。そこでオーストラリアが対中国戦争の拠点になるはずだ。そこへアメリカ軍はB-52爆撃機を配備する。

 イギリスは19世紀に世界制覇戦略を作成した。ユーラシア大陸の周辺を海軍力で制圧、内陸部を締め上げていくというものだ。1869年に完成し、75年にイギリスが支配するようになったスエズ運河はこの戦略にとって重要。その後、中東で石油が発見され、この地域はさらに重要な意味を持つようになった。

 1916年にイギリスはフランスと「サイクス・ピコ協定」を結ぶ。トルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンをフランスが、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスがそれぞれ支配するというものだ。

 協定が結ばれた翌月からイギリスはオスマン帝国を分解するためにアラブ人の反乱を画策する。工作の中心的な役割を果たしたのはイギリス外務省のアラブ局で、そこにサイクスやトーマス・ローレンスもいた。「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。

 ローレンスが接触していたフセイン・イブン・アリにイギリスのエジプト駐在弁務官だったヘンリー・マクマホンは書簡を出し、その中でイギリスはアラブ人居住地の独立を支持すると約束している。フセイン・マクマホン協定だ。このイブン・アリを追い出したイブン・サウドを中心として1932年に作られた国がサウジアラビアだ。

 その一方、イギリスのアーサー・バルフォア外相はロスチャイルド卿に宛てに出した書簡の中で、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。1917年11月のことだ。なお、この書簡を実際に書いたのはアルフレッド・ミルナーだと言われている。

 イギリスは1919年、石油利権を手に入れるためにペルシャを保護国にし、その2年後に陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領。そして1925年にカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗るようになった。

 イギリスの戦略には中国の略奪も含まれている。製造業で中国(清)に勝てないイギリスはアヘンを売りつけるために戦争を仕掛ける。1840年から42年にかけての「アヘン戦争」、そして56年から60年にかけての「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」だ。この戦争でイギリスが手に入れた香港は侵略と犯罪の拠点になる。

 イギリスやアメリカは中国へアヘンを売ることで大儲けしたが、儲けたカネを扱うため、1865年に創設されたのが香港上海銀行。この銀行は1866年に横浜へ進出し、大阪、神戸、長崎にも支店を開設。明治政府とも深く結びついた。

 アヘン戦争で大儲けした会社のひとつ、ジャーディン・マセソンは18599年にふたりのエージェントを日本へ送り込む。ひとりは長崎へ渡ったトーマス・グラバーであり、もうひとりは横浜のウィリアム・ケズウィック。ケズウィックの母方の祖母はジャーディン・マセソンを創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉だ。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスの駐日総領事だったラザフォード・オールコックは長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。1863年にロンドンへ向かった。この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンで、すでに独立していたグラバーも渡航の手助けをしている。

 イギリスの支援を受けた長州と薩摩は徳川体制の打倒に動き、徳川慶喜は1867年に「大政奉還」を申し出、69年に函館の五稜郭で榎本武揚の指揮していた徳川軍が降伏して「王政復古」が各国の公使に通告された。

 こうして誕生した明治体制はアメリカやイギリスの影響を強く受け、大陸への軍事侵略を始める。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合い、デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦した。ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻している。

 1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。

 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万人の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。

 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のテディ・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印されて日本の大陸における基盤ができた。

 講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対、覚書は破棄されている。中国への侵略を本格化させるつもりだったアメリカの私的権力はつまずいた。

 それに対し、アメリカ側の意向に従って動いていたのが金子堅太郎。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、1890年に金子とルーズベルトは親しくなる。何者かの紹介でふたりはルーズベルトの自宅で会ったのだ。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 日本のアジア侵略をイギリスやアメリカ、より正確に言うならば、巨大金融資本は支援したのだが、彼らの長期戦略は今も生きている。それが大きく動き始めたのが1991年12月。ソ連が消滅し、アメリカの支配層は自国が「唯一の超大国」なったと考え、世界制覇プランを作成したのだ。それが「ウォルフォウィッツ・ドクトン」だ。

 ソ連消滅後、アメリカにとってヨーロッパや日本は侵略の手先であると同時に潜在的なライバルにもなった。アメリカの手先であると同時に従属する仕組みを築き始める。

 しかし、日本の細川護熙は国連中心主義を捨てない。そこで1994年4月に潰される。日本をアメリカの侵略プランに従わせるため、ネオコンのマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得して国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触した。ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告」を発表。日本をアメリカの戦争マシーンに組み込む道筋を示した報告書だが、日本側の動きが鈍い。

 そうした中、日本では衝撃的な出来事が引き起こされた。1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ、ナイ・レポートが発表された翌月の95年の3月には地下鉄サリン事件、その直後に警察庁長官だった國松孝次が狙撃されている。8月にはアメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙に日本航空123便に関する記事が掲載され、その中で自衛隊の責任が示唆されている。

 1995年11月にSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置することが決められ、96年4月に橋本龍太郎首相とウォルター・モンデール駐日米大使が普天間基地の返還合意を発表。辺野古に基地を作る計画は1960年代からあり、それがSACOの合意という形で浮上したのだ。

 1997年11月に日本政府は名護市(キャンプ・シュワブ)沖へ海上へリポートを建設する計画の基本案を地元に提示、2006年5月に日米両政府は「再編実施のための日米のロードマップ」を発表、辺野古岬、大浦湾、辺野古湾を結ぶ形で1800メートルの滑走路を設置すると発表している。2009年9月に成立した鳩山由紀夫内閣は「最低でも県外」を宣言するが、10年になると前言を翻し、再び辺野古へ移設するとされた。

 しかし、その後、状況は大きく変化。自衛隊は中距離ミサイルや長距離ミサイルで中国やロシアを攻撃する準備を進めている。昔から知られている統一教会と政界とのつながりで騒いでいる間に事態は急速に悪化している。言うまでもなく、その背後にはアメリカが存在しているはずだ。』