ファーウェイ完全排除を決定 中国5社の認証禁止―米通信当局

ファーウェイ完全排除を決定 中国5社の認証禁止―米通信当局
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022112600266&g=int

 ※ 今日は、こんな所で…。

『【ワシントン時事】米連邦通信委員会(FCC)は25日、国家安全保障を脅かすと見なした通信機器とサービスに対し、米国での販売や輸入に必要な認証を新たに付与することを禁止する規則を全会一致で採択したと発表した。華為技術(ファーウェイ)など中国IT大手5社が対象に含まれる。国内通信網から事実上排除する狙いで、ハイテク分野における米中の分断も辞さない構えだ。

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3期目に入った習近平指導部の台湾侵攻シナリオとは 防衛研究所の門間理良・地域研究部長に聞く

3期目に入った習近平指導部の台湾侵攻シナリオとは 防衛研究所の門間理良・地域研究部長に聞く
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00858/

『 3期目に入った習近平指導部の台湾侵攻シナリオとは 防衛研究所の門間理良・地域研究部長に聞く

政治・外交 国際・海外 安保・防衛 2022.11.26

谷田 邦一 【Profile】

中国共産党は10月の党大会で、最高規則にあたる党規約に「台湾独立に断固反対し抑え込む」との強い決意を盛り込んだ。3期目に入った習近平指導部は、どのような台湾有事の侵攻シナリオを描くのか。また軍事的圧力を強める中国に対し、隣国日本はどう向き合えばいいのか。台湾研究が専門の門間理良・防衛研究所地域研究部長に聞いた。

門間 理良 MOMMA Rira

防衛省防衛研究所地域研究部長。筑波大学博士課程単位取得満期退学。南開大学、北京大学に留学。台北と北京での専門調査員、文科省教科書調査官を経て2012年防衛研究所入所。2020年より現職。学術月刊誌『東亜』で「台湾の動向」を連載中。

「実戦派」を起用

─中国の新指導部の顔ぶれが決まりました。今回の布陣のもとで、台湾をめぐる中国の安全保障政策はどのように変わるとお考えですか。

人事で注目すべきは、共産党の中央政治局常務委員会と軍の中央軍事委員会の2つです。私は栗戦書と韓正が引退し、後継候補を常務委員会に入れない5人体制を予想しましたがはずれてしまいました。常務委員は習氏の地方勤務時代の部下などが起用され、すがすがしいまでのお友達人事でした。習氏は台湾問題については、自分こそが最も理解しているとの思いのまま突っ走るところがあって、やりたいようにやっていくと見ています。

一方、軍事委員会の制服トップの副主席にも、父親同士が戦友でもあった張又俠上将と、台湾正面を担当とする東部戦区司令員を務めた何衛東上将を起用しました。共通するのは「実戦派」だということ。張氏は1979年の中越戦争の時に連隊長を務めましたし、何氏も西部戦区の副司令員兼陸軍司令員として中印紛争を経験したとされています。つまり2人とも「リアル・ウォー(現実の戦争)」を知る立場にあるということです。もっとも、中越戦争の経験は現代の戦争に役には立たないでしょうが。

私自身は台湾侵攻が数年以内に起きるとは考えていません。しかし、この布陣を考えると頻繁に演習を繰り返すなど、台湾に対して強い軍事的圧力をかけ続けるようになると読むことができそうです。

─党規約には「一国二制度による平和統一」という表記は残ったものの、「台湾独立に断固として反対して抑え込む」との文言が入りました。どんな変化が起きるのでしょうか。

歴史的な経緯で言うと、中国共産党にとって台湾はいまだ解放されていない地域です。そこは絶対に奪回するという強い決意の表れでしょう。中国では領土を奪われる皇帝は無能というレッテルを貼られました。習氏個人としては、奪回することで毛沢東と並ぶ存在になれるということ。共産党としても、およそ9000万人いる党員の中で統治の正統性を主張するために、台湾統一は避けて通れない道なのです。また、党大会政治活動報告で5年前にはなかった「武力使用の放棄を約束しない」という文言を今回入れたことで、大きな変化が読み取れます。5年前はまだ一緒にやっていけるというニュアンスがありましたから。

台湾問題を語るとき、注目すべきは中国が今年8月に発表した「台湾白書」です。22年前に出した白書との違いが3つあります。1つは米国との対決姿勢が色濃く出ていること。もう1つは、統一後の台湾の政治的地位が今の香港並みに制限されていることです。最後は、統一する過程で、民進党を必ず排除しなければならないとしていることです。台湾に対しては非常に厳しい内容になっています。

台湾有事のシナリオを考える

─中国軍による8月の大規模演習を分析して、最も興味をもったのはどこですか。

人民解放軍が設定した海空域の場所です。台湾本島を取り囲むように設定された箇所は、主なものが6つありました。実際に侵攻する際、こうした海空域を使うのではと予想させるものです。例えば、台湾東部の海域は、人民解放軍の艦艇を集結させたい場所と見られますが、そこにミサイルを撃ち込んだのは米空母機動部隊をけん制する目的でしょう。また本島北部の2カ所と南部の高雄沖の1カ所は、中国軍の上陸最適地ととみなされている場所です。さらに言えば、バシー海峡にも設定されていたのは、米海空軍を寄せ付けさせないためと考えられます。

─日本の排他的経済水域を含む海域にまで演習域を拡大したのはなぜなのでしょうか。

台湾有事になって米軍が介入した場合、日本は後方支援をする可能性があります。日本が深入りすれば、すぐそばの海空域までが戦域に入ることになる、という警告の意味合いでしょう。今回の演習を見て、改めて日本はしっかりと準備しなければならないと思いました。このたびの緊張を、私自身は「第4次台湾海峡危機」と呼んでいます。中国側は今後も同じように大規模演習を通じて軍事的なプレッシャーをかけ続け、第5次、第6次危機といった具合に危険が高まるのでしょう。引き続き第7次、第8次と演習が続くと思わせておいて、突然、実際の軍事侵攻に切り替えるといったことが起きそうです。

─現時点で、中国共産党の侵攻シナリオをどう読んでいますか。いつごろ、どんな形で、どこまで踏み込むとみられるのでしょうか。

私は台湾本島に対する本格的な侵攻は、現在のところ起きえないと考えています。しかし東沙諸島など遠方の離島部は別で、2、3日で落とせると見ています。台湾軍も増援を送ったとしても損害が増えるだけなので、奪還を諦めるでしょう。台湾が自分で取り返さない島を米軍が取り返してくれるはずもありません。しかし、本島を狙う作戦は失敗のリスクが大きい。それは習近平政権の失脚のみならず、共産党支配の屋台骨を揺さぶりかねません。取る、取ると言い続けて軍事的・経済的なプレッシャーをかけ続ける方が、中国にとっては得策であるのは明らかです。

侵攻能力においても疑問が付きまといます。ロシア・ウクライナ戦争でも分かったように、ロシアのウクライナ侵攻が停滞した要因の一つは、ウクライナの防空システムを完全に破壊しきれなかったためです。中台関係でいえば、台湾側は中国のミサイルやサイバーによる攻撃を予期して以前から周到な準備をしています。航空優勢をとるのは困難でしょう。台湾側には優れた地対艦・空対艦ミサイルがありますから、海上優勢も難しい。何よりも上陸部隊を運ぶ艦船が少ない。民間船を徴発したとしても、初回の輸送で送りこめる兵力は10~15万人程度と思われます。台湾側の兵員は実員が20万弱ですが、予備役の一部を動員するだけで数十万の大兵力になります。これだけ戦力差があると上陸作戦は困難を極めるでしょう。また、上陸のために台湾本島に向かった中国の船は何割かが撃沈されますから、第2陣、第3陣の輸送力は着実に減少します。兵員の輸送のみならず先に上陸した部隊への武器・弾薬・燃料・食糧・医薬品の補給や、負傷者や戦死者の遺体の後送も絶えず行わなければならないため、着上陸作戦を実行するにも、中国側は相当な覚悟が必要です。

ウクライナ侵攻で中国の台湾戦略も変化

─ウクライナ戦争から中国は何を学んだと思いますか。台湾統一の動きに与える影響はありますか。

人民解放軍は今、戦況の推移を詳細に観察し、教訓事項を分析している最中だと思います。恐らく後方支援の重要性を改めて認識しているでしょう。当初、ロシア軍は強いと思われていたのに、燃料や弾薬がきちんと前線に届かず惨憺(さんたん)たるありさまです。陸上で国境を接しているウクライナでさえそうなのに、中国と台湾の間は100数十キロの海で隔てられています。果たして台湾本島に、数十万の兵力を送り込めるのか。送り込んでも、1カ月、2カ月と活動できるのか。仮に勝ったとしたところで、台湾を安定的に統治する必要があります。そんなことを考えると、容易には台湾侵攻はできない。逆に言えば、そういった問題を解決できるという確信を得た時には、中国は侵攻に踏み切る可能性があるのだと思います。

─台湾侵攻に失敗すると共産党政権の崩壊につながるとよく言われますが、どんな事態になると考えられますか。

中国の民衆の突き上げでしょうね。そういうものが必ず出てくると思います。人民警察や武装警察、そしてサイバーポリスがいたとしても、戦争継続中に中国国内から反対の声が湧き上がってくればとても抑え込めません。香港や新彊ウイグルと漢民族とでは人口の桁が違います。中国の歴史を見ても、民衆の反乱が政権を転覆させた例はたくさんあります。

─中国共産党大会の結果を、台湾側はどう受け止めていますか。蔡英文政権の対応に今後、どのような変化があるのでしょうか。

台湾側も党大会や台湾白書に対しては、一つひとつ反論はしています。でも短期で見るとあまり大きな変化がないように映るのですが、ここ1年とか長いスパンで見ると中国に対する反発は着実に大きくなっています。中国の軍事的脅威の大きさを理解しているので、国防費も来年は13%増額される見通しです。

─日本としては、台湾有事にどう対応すべきでしょうか。日中間の軍事的衝突を回避するにはどうすればいいとお考えですか。

やはり隙を見せないことが日本にとってとても重要です。自衛隊の能力向上や日米同盟の強化が大切です。要は、抑止力を高め、中国に「こいつと戦うと痛い目に遭うぞ」と思わせることです。中国からすれば、米軍が出てくるかどうかが一番のポイントです。日米が協力し合って台湾を見ているし、日本が攻撃されたら戦う覚悟があるという姿勢を見せなければなりません。

核の脅しというカードを切ってくるかもしれません。でも核を使って脅すことと、実際に使うことの間にはかなりの違いあります。軽々に「ひるんじゃいけない」とは言いづらいですが、脅せばすぐに腰砕けになると見透かされるようではいけません。そこまで持っていかせないようにすることが最も重要です。

バナー写真:2022年10月16日、中国・北京の人民大会堂で開幕した中国共産党大会で政治報告を読み上げる習近平総書記(手前、国家主席)

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中国 台湾 習近平 中国共産党 台湾有事 台湾海峡

谷田 邦一TANIDA Kuniichi経歴・執筆一覧を見る

ジャーナリスト、シンクタンク研究員。元朝日新聞編集委員。1959年生まれ。90年に朝日新聞社入社。東京社会部、論説委員、編集委員、長崎総局長などを経て、2021年5月に退社。現在は、ジャーナリスト、未来工学研究所(東京)のシニア研究員(非常勤)。主要国の防衛政策から基地問題、軍用技術まで幅広く外交・防衛問題全般が専門。防衛大学校や防衛研究所で習得した知見を生かし、新しい時代にふさわしい安全保障問題のアプローチ方法を切り開きたいと考えている。共著に『自衛隊 知られざる変容』『海を渡った自衛隊』(朝日新聞社)など。』

英、中国製監視カメラを規制 政府機関の使用停止

英、中国製監視カメラを規制 政府機関の使用停止
https://news.yahoo.co.jp/articles/6fdbe58576aecdc843222f4efcacb60fdc2664bc

『【ロンドンAFP時事】英政府は24日、政府機関に対し、「敏感な場所」で中国製の監視カメラの使用を停止するよう命じた。

【図解】中国の貿易総額と世界シェア

 中国の監視カメラ製造会社は強く反発している。

 非営利団体「ビッグ・ブラザー・ウオッチ」によると、英国では公共団体の大半が、中国監視カメラ大手の杭州海康威視数字技術(ハイクビジョン)と浙江大華技術(ダーファ・テクノロジー)のいずれかの監視カメラを使っているという。英議会では7月、政府に2社製品の販売や使用の禁止を訴える声が上がっていた。

 英政府は2社製品の全面禁止には踏み込まなかったが、中国の法律で中国当局への情報共有が求められている企業が製造した「視覚監視システム」を使用しないよう要請。また、こうした監視カメラを政府機関の「中核ネットワーク」に接続せず、定期的な更新を待たずに交換するよう求めた。

 ハイクビジョンの広報担当者は声明で、「ハイクビジョンを国家の安全保障に対する脅威と見なすのは全くの誤りだ」と反発した。 』

欧州、習近平への朝貢外交が始まった

欧州、習近平への朝貢外交が始まった
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20221125-00325537

『11月4日のドイツ・ショルツ首相の訪中を筆者は「欧州対中戦略の分岐点」と位置付けたが、事実、12月1日にはミシェルEU大統領が訪中し、年明けにはフランス・マクロン大統領の訪中も予定されている。

◆ドイツのショルツ首相の訪中は欧州の分岐点

 11月4日、G20(11月15、16日。インドネシア・バリ島)を前にして、ドイツのショルツ首相はフォルクスワーゲン(VW)やシーメンスなど大企業12社のトップを率いて習近平に会いにいった。

 「欧州の分岐点」にも等しい大きな出来事だった。ショルツは人民大会堂で習近平や李克強とも会談し、「中独間のディカップリングをしないこと」や「ロシアの核兵器使用を認めないこと」などで合意している。

 メルケル政権時代からロシアとの経済連携を深め、ノルド・ストリーム2を通したロシアからの天然ガス輸入に国運を懸けてきたドイツは、アメリカに急かされて強行せざるを得なかった対露経済制裁に悲鳴を上げている。ドイツ国内には訪中反対派もいたが、それでももう中国に頼らざるを得ないほどドイツ経済は衰退へと向かっている。

 喜んだのは習近平だ。

 中国航空機材集団公司とエアバスが、「132機のA320シリーズ機、8機のA350型機を含む140機のエアバス航空機の一括調達契約を北京で締結し、総額約170億ドル相当の航空機を発注した」とい大判振る舞いをしただけでなく、ドイツ企業代表団はショルツ帰国後も中国に残って大型の商談をつぎつぎと進めた。

 ショルツにすれば「やれやれ、これでようやくドイツ経済も息を吹き返せそうだ」といったところだろうか。

 習近平はショルツとの会談で、何度も「中欧関係」の重要性を解き、ドイツを介して念願の「中欧投資協定」を締結しようと、まだ諦めていない。

 浙江省義烏市を出発点としてドイツのデュースブルクを終点とする経済貿易のための中欧列車「義新欧」(「新」は新疆ウイグル自治区の「新」)の貿易額は年平均64.7%増の勢いで成長し続けていことも、中独貿易を象徴するものとして高く評価されている。
 欧州、ひいては世界の動向にとって分岐点となるのは、ショルツ訪中の陰にノルド・ストリーム2の海底爆発がちらついていることだ。バイデンは欧州諸国にロシアの天然ガスではなくアメリカの天然ガスを購入させるためにウクライナ戦争を煽ったという目的があった。だから、ノルド・ストリームを諦めきれないドイツには業を煮やしていた。そこで海底のパイプラインを爆破したのだろうか。

 爆破した犯人に関しては「アメリカだ」という見方が世界的に多いが、一部には「イギリス」という指摘もあり、イギリスに大きなメリットがあるとは思えないので、やはり「アメリカだろう」という指摘が大勢を占めている(現在調査中)。

 いずれにせよ、ノルド・ストリーム2のパイプライン爆破が、ドイツを中国に近づけることに作用したとなれば、結局のところ、やはり「ウクライナ戦争によって笑うのは習近平」になってしまう。

 というのも、ドイツが中国に舵を切ったということは、習近平念願の「中欧投資協定」が復活するかもしれない可能性を高めるからだ。

 周辺事情は12月中旬に出版する『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』に書いたが、ショルツ首相は11月14日にシンガポールを公式訪問し、リ・シェンロン首相と会談したあとの共同記者会見で「中国とのディカップリングはやめるべきだ」という趣旨のことを述べている。

 案の定、欧州の習近平に対する朝貢外交が始まった。

◆12月1日にはEUのミシェル大統領が訪中

 11月24日のフィナンシャル・タイムズは、12月1日にEUのミシェル大統領が訪中し、習近平と対談すると報道している。EU大統領が中国で習近平と会ったのは2018年以来のことだ。

 EUも同様のことを発表しているのでミシェルの訪中は確実なことなんだろうと思われる。

 一方、11月25日付のVOAの報道によると、どうやらミシェルは何か月も前から習近平との会談を求めており、11月15、16日のバリ島におけるG20開催中に中国政府側と交渉して日程を決めたとのこと。会う目的の一つは、ウクライナ戦争を終わらせるに当たって習近平の助けが必要であることと、欧州と中国の貿易を再調整しないと欧州経済が非常に厳しいところに追いやられているといった裏事情があると、関係者は語っているようだ。

 ロシアへの制裁は、結局のところ欧州経済への圧迫につながっており、どの国も本音としては悲鳴を上げている状況を反映しているのではないだろうか。

 ◆フランスのマクロン大統領も訪中

 11月17日付のSouth China Morning Postは、<フランス大統領はウクライナに対するロシアの戦争を仲介するよう中国の助けを求めるために北京訪問を計画している>というタイトルでマクロン大統領の訪中を伝えている。訪問は2023年の早い時期に行われるようで、ウクライナ戦争において、来年2月初旬からロシアによる激しい攻撃が再開されるだろうことを避けるためだと説明している。

 そもそもマクロンは、インドネシアのバリ島で習近平に会ったあとの記者会見で、「中国が今後数ヵ月で私たちを協力して、より重要な調停の役割を果たすことができると確信している」と述べている。バリ島での中仏首脳会談において、すでに習近平との間で訪中の調整をしている。

 ちなみにイタリアのメローニ首相も、それに続いて訪中を予定しているようだ。

こうして、ショルツの訪中が切っ掛けとなって、欧州の「北京詣で」が始まり、「あの国が行くならわが国も」というドミノ現象となって「朝貢外交」へとつながっているのである。

 習近平を取り巻く国際情勢は『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』の第七章で詳述したが、習近平三期目政権誕生に伴う、世界の動向に注目したい。

記事に関する報告

遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』(2022年12月中旬発売。PHP新書)、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『「中国製造2025」の衝撃』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。』

アフガニスタン誤爆、米国が見舞金を支払う意向

アフガニスタン誤爆、米国が見舞金を支払う意向 子どもら10人死亡
https://www.asahi.com/articles/ASPBJ46D4PBJUHBI013.html

『2021年10月16日 14時21分

 米国防総省は14日、アフガニスタンの首都カブールで8月に米軍の誤爆により民間人10人が死亡した事件をめぐり、遺族側に見舞金を支払う意向を伝えた。同省報道官が15日、明らかにした。

 誤爆があったのは、米軍がアフガン撤退を完了する直前の8月29日。空港を狙った爆破テロ犯の車だと誤認し、米軍は無人機(ドローン)により慈善団体職員ゼマリ・アフマディさんの車を空爆した。子供7人を含む計10人が死亡した。

 カービー報道官によると、14日に国防総省のカール次官がアフマディさんが勤務していた慈善団体のスティーブン・クウォン代表とオンラインで面会した。「空爆は悲劇的な過ちだった。アフマディさんらは何の責任もない無実の犠牲者だった」と伝えたという。

 カール氏は見舞金の支払いを申し出るとともに、アフマディさんの家族が米国に移住する希望があれば支援する意向も表明した。見舞金の金額は明らかにしていない。これに対し、クウォン氏は「アフマディさんは長年にわたり慈善団体で働き、アフガニスタンで高い死亡率に直面する人々の命を救う仕事をしてきた」などと振り返ったという。(ワシントン=高野遼)』

サッカーW杯の裏で進む外交 カタールが存在感高める

サッカーW杯の裏で進む外交 カタールが存在感高める
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28650

『佐々木伸 (星槎大学大学院教授)

中東で初の開催となったサッカーワールドカップ(W杯)カタール大会は日本が強豪のドイツを破るなど盛り上がりを見せているが、サッカーファンの熱狂の水面下で、タミム同国首長が天然ガス生産からあがる莫大な資金を使って紛争調停者としての存在感を誇示している。その背景には「中東最大の米友好国」の座を獲得した自信がある。

(新華社/アフロ)

小国の意外な裏の顔

 W杯の開会式が行われた11月20日のドーハの競技場。その式典の脇でタミム首長が2人の大国の指導者が握手を交わすのをにこやかに見守っていた。長年不和が続いてきたトルコのエルドアン大統領とエジプトのシシ大統領の和解を演出したのだ。

 エジプトでは2013年、当時国防相だったシシ将軍がイスラム原理主義組織ムスリム同胞団出身のモルシ政権を軍事クーデターで打倒した。これに同胞団を支援してきたトルコのエルドアン大統領が反発、シシ氏を「殺人者」「独裁者」と激しく非難し、両国関係が断絶状態にまで悪化した。

 しかも両国はリビアの内戦でも対立。トルコがトリポリの暫定中央政府を支持したのに対し、エジプトは東部の武装勢力を援助、不和に拍車が掛かった。ちなみにカタールはトルコとともに、暫定中央政府を支援していた。中東専門誌などによると、タミム首長はW杯をスポーツ外交の好機ととらえ、夏以降、和解を渋るエルドアン氏を説得し、両国間の修復にこぎ着けた。

 首長は国境紛争などで断交中の北アフリカのモロッコとアルジェリアの調停も進めたが、モロッコ国王がW杯の出席を取りやめたため、この和解は実現しなかった。人口300万人にも満たない、しかもその9割が外国人労働者という小国のカタールがなぜ紛争調停者として動くのか。「そこには小国故の知恵がある」(ベイルート筋)のだという。』

『ペルシャ湾に親指のように突き出たカタールの原動力は豊富な天然ガス資源だ。生産量は世界第5位(21年)、埋蔵量は同第3位を誇る。タミム首長はこの天然ガスの輸出からあがる莫大な資金を武器に09年、W杯の招致に成功した。隣国の大国サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)といったライバルたちを蹴り落としての勝利だった。当時「ジョークだろ」と言われたほどの劇的な結果で、「FIFA(国際サッカー連盟)などの関係者に巨額の賄賂をばらまいた」(ベイルート筋)と批判された。

 その後、カタールはW杯の成功に向け、しゃにむに突き進む。冷暖房付きのサッカースタジアムを7つも建設、他に1つを改築した。国内に高速道路を張り巡らし、鉄道網も建設した。世界中から訪れる観戦客のためホテルを次々に建てた。12年間で2000億ドル(約24兆円)という巨費を投じたのである。
周辺国からの〝いじめ〟に堪え抜く

 カタールはサウジが主導する湾岸協力会議(GCC)のメンバーだが、小国のW杯招致はサウジやUAEの妬みを買った。その上、タミム首長のムスリム同胞団支援やイランと友好関係を維持していること、サウジなどを批判するメディア「アルジャジーラ」を抱えていることなどを理由にカタール〝いじめ〟が始まった。

 サウジ、UAE、バーレーン、エジプトの4カ国が17年、ムスリム同胞団への支援停止、イランとの関係断絶、アルジャジーラの閉鎖などを要求してカタールと断交、同国への陸路と空路を封鎖した。4カ国にとってムスリム同胞団は体制の脅威であり、カタールがテロ組織を支援していると非難した。

 食料・日用品を外国に全面依存するカタールはサウジなどから陸路と空路を閉ざされて、たちまち困窮した。そこに手を差し延べたのがイランとトルコだった。

 両国はカタールに物資を送り、トルコは国土防衛のためとして、軍隊まで派遣した。カタールとイランの関係は逆に強化される結果になった。

 カタールはこうした〝いじめ〟に堪え抜いた。21年1月、米国の仲介もあり、サウジなど4カ国が断交を撤回し、カタールとの関係を修復した。カタールは公式的には4カ国の要求に一切応じなかったが、ムスリム同胞団などへの支援は自粛せざるを得なかった。苦い勝利だったのである。

 この時の経験がカタールの「小国の知恵」として残った。「国際舞台で貢献し、再び上げ足を取られないようにする」(ベイルート筋)という教訓だった。それが紛争や対立の和平の調停者として水面下で立ち回り、政治的な存在感を固める、というタミム首長の野望につながった。』

『米国とのパイプを作った2つの要因

 首長のこうした戦略の背景には、米バイデン政権と太いパイプで結ばれているという自信がある。W杯の開催をめぐっては、カタールの人権軽視や同性愛者に対する偏見があらためてクローズアップされ、一部から批判を浴びている。人権など理念を重視するバイデン政権が厳しく対応してもおかしくないが、カタール批判は慎重に避けている。

 それどころか、バイデン大統領はW杯開会式にブリンケン国務長官を派遣し、米国とウエールズ戦を観戦させた。こうした米国の姿勢はカタール重視を示すものであり、タミム首長に恩義すら感じているように映る。

 その理由の第1は混乱を極めた昨年のアフガニスタンからの米軍撤退の際、カタールから多大な協力を得たことだ。

 アフガン撤退は数万人に上る米軍協力者の脱出や撤退時の誤爆などをめぐりバイデン大統領が強く批判されたが、カタールは米国の要請に応じて避難のための拠点を提供した。同国にある米軍の中東最大の空軍基地「アルウベイド」がその中心的な役割を果たし、アフガンの新しい支配者になったイスラム組織タリバンと米国との交渉場所を設定した。

 第2は、ウクライナ戦争で米国のロシア包囲網に同調しているからだ。同じ米国の友好国であるイスラエルやサウジがロシア非難を控え、あいまいな姿勢に終始しているのとは大きく異なっている。

 ロシア制裁で欧州が依存していた天然ガスが不足した苦境に対し、カタールは増産で助けている。サウジがバイデン氏の要求を蹴って石油の減産を決定したのとは対照的だ。

 だが、今後カタールが調停者としてうまくやっていけるかには危うさも伴う。バイデン政権とべったりということは2年後の米大統領選挙で政権交代ともなれば、対米関係に変化が生まれかねないからだ。

 サウジやUAEとの関係もこのまま平穏に推移すると見る向きは少ない。W杯後、新設したスタジアムなどが廃墟化するという恐れもある。カタールの前途は多難だ。』

https://wedge.ismedia.jp/ud/wedge/release/20221120

英、ハイクビジョンなど中国メーカーの監視カメラ使用規制 政府機関で

英、ハイクビジョンなど中国メーカーの監視カメラ使用規制 政府機関で
https://www.epochtimes.jp/2022/11/125937.html

『英政府は24日、監視カメラ大手の杭州海康威視数字技術(ハイクビジョン)などの中国製監視カメラの設置を機密性の高い場所では中止するよう、各政府部門に命じた。国家安全保障上の脅威を理由としている。

英超党派議員は7月、人権侵害や国家安全保障上の脅威を理由に、ハイクビジョンと大華技術機器(ダーファ)の販売・使用を禁止するよう政府に要請していた。』

(※ 無料は、ここまで。)

〔太陽光発電、直流・交流、変換設備〕

 ※ どうやって、直流電流(DC)を、交流電流(AC)に「変換」しているのか、具体的には知らんかったんで、ちょっと調べた…。

 ※ 画像のみ、貼っておく…。

パワーコンディショナーと太陽光発電システム
https://dengen-navi.com/wp/article/%e3%83%91%e3%83%af%e3%83%bc%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%8a%e3%83%bc%e3%81%a8%e5%a4%aa%e9%99%bd%e5%85%89%e7%99%ba%e9%9b%bb/

産業用太陽光発電システムの仕組み
https://www.xsol.co.jp/xpress/elementary/mechanism_pv_industrial

太陽光の発電量が全体の8.3%まで伸びてきている,自己調整能力が必須に

【日刊 アジアのエネルギー最前線】 太陽光の発電量が全体の8.3%まで伸びてきている,自己調整能力が必須に
http://blog.livedoor.jp/adachihayao/

『【日刊 アジアのエネルギー最前線】 太陽光の発電量が全体の8.3%まで伸びてきている,自己調整能力が必須に
http://www.adachihayao.net

2022年11月26日 土曜日 雨かな

昨年,2021年度の電力の発電実績が経産省から発表されている,電源構成と書いてあるが,設備の大きさではなくて発電量の割合と思われる数字が,新聞発表されている,量的な数字は膨大な資料を開けてみなければならないが,新聞発表では,再エネの中で太陽光の影響力が大きく伸びている,

再生可能エネルギーの中に既設水力も含まれているが全体の16.7%,太陽光が8.3%で水力の7.5%を越えてきた,そこで太陽光の日間及び年間,更には他年間の発電推移が問題となってくる,手元にある太陽光発電推移の図では,日間は勿論,年間,更には他年間の推移でも大きな変化がある

水力の場合はダム式の場合は日間,年間,更には他年間でも一定の自己調整能力を持つが,太陽光は今のところ発電垂れ流しで系統の中に入ってくる,政府は再エネを2030年38%と言う,太陽光は自己蓄電発電所を併設せざるを得なくなる,原田稔君は,水力と同じ貯水容量最適化手法が有力と 』

ウクライナの戦況と予測

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:ウクライナの戦況と予測
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5390584.html

『ウクライナを舞台にした9ヶ月間の戦いは州都ヘルソンをロシア軍が放棄するという展開を迎え、戦いの主導権を握っているウクライナ軍は報道官を通じて「次の動きを計画している」と明かしたが、ヘルソン州のドニエプル川右岸(西岸)から左岸(東岸)に前進して敵に追加の後退を強いるには「ロシア軍を撤退に追い込んだドニエプル川に掛かる橋の修復」が必要になり、左岸のロシア軍は15km~20kmほど川沿いから離れた地域に布陣して右岸の都市やインフラを砲撃してウクライナ軍の前進を阻止しようとしている。、、

両軍が申し合わせたように川を挟んだ砲撃戦の準備を進めている格好だが、戦争研究所は「ウクライナ軍がキンバーン砂州Kinburn Spit(図の黄色い円の中の白矢印)の敵陣地に攻撃を仕掛けており、ここを確保できればドニエプル川を渡河するより安全にロシア軍が支配する左岸地域に入れる」と指摘しているが、ある程度前進してドニエプル川沿い確保しないかぎり補給がシンプル過ぎてリスクが高く、逆にロシア軍にとっての理想なキルエリアになるかもしれない。

Ukraine1122

逆にロシア軍の主な冬の任務について英Economist誌の調査部は「ウクライナ軍の前進をドニエプル川で食い止めこれ以上の撤退を防ぎ、クリミア上空の防空シールドを強化することだ」と指摘、元豪陸軍少将のミック・ライアン氏も「冬場に2023年の攻勢計画を立案して弾薬を集積を進め、ウクライナのインフラに対する攻撃を継続するだろう」と予測、つまりロシア軍は冬場に大規模な前進を企画しておらずドネツク州での攻勢も「敵戦力を拘束」が目的で春を待つという意味だ。

因みにロシア軍はHIMARSの射程外にある兵站ルート=ジャンコイDzhankoi~メリトポリMelitopol間(赤い矢印)の鉄道や道路の拡張・補強に乗り出しているという報告があり、今のところウクライナ軍は、保有する武器(最も警戒が厳しいこのルートにパルチザンが接近できるのかは不明)では手が出せない。参照記事  参照記事

、、、ウクライナ側には各国からの武器弾薬を含む支援物資、新兵器が到着しており、筆者は、ロシア軍の陣地構築を見据えたうえで、ウクライナ軍が年内にも大がかりな砲爆などを行うのではと見ている。

なぜなら、露軍にとって、冬期間には破壊された陣地の修理や再構築が難しいからだ。過去ブログ:2022年11月ウクライナの無人水上艇がロシア領へ攻撃? 11月露軍、メリトポリを巨大な軍事基地化 ウクライナは滅びず (ウクライナ国歌) 【カナルビ付き】”Ще не вмерла України – Державний Гімн України”』

T-50 (航空機)(※ FA-50は、これの派生)

T-50 (航空機)(※ FA-50は、これの派生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/T-50_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

『T-50は、韓国の韓国航空宇宙産業(KAI)がロッキード・マーティンから技術的支援を受けて開発・製造した練習機。愛称は「ゴールデンイーグル(골든이글)」(イヌワシ)。

基本となる練習機型の他、高度なアビオニクスを備え軽攻撃機としての運用が可能なLIFT機型、さらに兵装面を強化した軽戦闘攻撃機型も存在する。 』

『概要

アメリカ合衆国のロッキード・マーティンからKF-16のオフセット取引として技術支援を受け[2]、韓国の航空機メーカー、韓国航空宇宙産業(KAI)が製造した[3]。

韓国にとってKT-1に次ぐ国産航空機として、当初はKTX-2の名称で1992年から開発が開始された[2]。財政面の健全性やリスクシェアリングパートナーの不足により凍結していた時期もあったが、韓国政府から承認が下り、韓国政府70%、三星/KAI 17%、ロッキード・マーティン13%の共同出資で開発することとなる[2]。F-CK-1(経国)の開発後に退職した漢翔航空工業出身の多くの職員が支援した[4]。

2000年に韓国空軍創設50周年ということでKTX-2からT-50に改名[2]。T-50は4機の試作機が製作されたが、うち2機は当初A-50と呼ばれていた軽攻撃およびLIFT機(兵器システムの訓練が可能な高等練習機)を目的とした型であり[3]、試作機4号機(LIFT型)の機体にはA-50の表記が見られる。後にA-50は目的ごとにTA-50とFA-50の2種類の派生型に分けられた。試作機1号機の初飛行は2002年8月20日である。

ロッキード・マーティンとの技術提携の影響を受け、胴体末尾にエンジンノズルを有するブレンデッドウィングボディの機体形状など、F-16に似ている部分が各所に見られる[3]。垂直尾翼と水平尾翼・エアブレーキがノズルにかかるように配置されている点も同様である。しかし、F-16が胴体下部に特徴的なエアインテークを設けている(そして首脚をインテーク部コックピット後方に持つ)のに対し、機体規模の小さい本機は控えめに胴体の左右に振り分け(そして首脚をコックピット前席下部に持つ)られている。これは本機のF404-GE-402 ターボファンエンジンの同系統製品を単発で搭載した超音速機であるグリペンやテジャスと同様である。練習機であるため胴体前部は縦列複座配置のコックピットに容積をとられており、搭載可能なレーダーも小型軽量のものに限られる。

GEとサムスン・テックウィンがエンジンの共同生産契約を結び、GEがエンジンキットをサムスン・テックウィンに提供し、サムスン・テックウィンが指定部品の生産と最終的なエンジンの組立・試験を行っている[5]。

米国側の総作業量は、生産中に削減されることになっているが当初は55%であった[2]。

調達価格は2000年時点で1機あたり1,800万から2,000万ドル[2]、2020年2月時点で2,000万から2,500万ドル[6]。単発とはいえ超音速飛行を実現するためにF/A-18 ホーネット向けのアフターバーナー付き高出力エンジンを搭載しているため、練習機としては極めて高価格である。

2003年12月19日に、韓国空軍より25機の発注を受け[3]、量産が開始された。韓国空軍向けのT-50は練習用途の50機が2010年5月まで生産され、ほかに10機が韓国空軍の曲技飛行隊・ブラックイーグルス用に生産された。

派生型

T-50A

米空軍の高等パイロット訓練(APT)に使用するT-38タロン後継機案として2016年2月に次世代練習機計画(T-X program)に提案されたT-50の派生型である。

原型機のT-50と比較して、ドーサルスパインによる追加の電子機材の搭載や空中給油用のプローブの追加[7]、F-35へのよりシームレスな転換のための一体型ディスプレイの採用[8]などの改良が行われたF-22やF-35と言った第5世代戦闘機パイロット養成により特化したモデルである[9]。

試作機が開発され、100回の試験飛行を行って開発を進めていた[10]ものの、2018年9月27日にBoeing/SAAB共同開発のT-7A レッドホークが選定された事により落選した[11][12][13]。
T-50B

KAIのウェブサイトでは、ブラックイーグルス用の10機のT-50に対し、T-50Bの形式名が与えられている[14]。同機はスモークオイルタンクやカメラなどのアクロバット用の装備を持つ。
TA-50
TA-50

LIFT機仕様はTA-50と呼ばれ、当初は米国製のAN/APG-67 レーダーの搭載も検討されたが、最終的にはイスラエル製のEL/M-2032 レーダー[15]を搭載している。

同機はM197機関砲を胴体内に205発[16][17][18]、AIM-9 サイドワインダー空対空ミサイル、AGM-65 マーベリック空対地ミサイル、各種爆弾、ロケット弾ポッドなどを運用可能とされる[6]。

まず22機が生産された[19]。

2020年6月30日、韓国空軍向けにTA-50 Block2の量産契約20機の締結を発表[20]。2024年に納入予定で、TA-50と支援システム等を含め6,883億ウォンで契約[20][21]。

FA-50

離陸中のFA-50

軽攻撃仕様のFA-50は、軽戦闘爆撃機としてEL/M-2032 レーダーやより強化された兵装等を搭載している[22]。EL/M-2032 レーダーにはイスラエルのエルタ・システムズの支援を受け、LIG Nex1による独自改良が加えられた[23]。

計画では4機のFA-50試作機を2012年までに製作し[24]、2011年に初飛行した。同機は韓国空軍のA-37、F-5E/Fを代替することが期待されている[25]。2013年-2016年までに60機が生産された[26][27]。

2019年10月1日、2014年に戦力化してから5年間で7回機銃の故障が発生。射撃訓練を3回禁止にしており、5年間のうち331日は機銃なしで出動していたことになる[28][29]。

FA-50 Block10

FA-50に対し、スナイパーポッドを統合、レーザー誘導兵器を運用可能とするよう改良したモデル[30]。 AN/AAQ-33の適合確認を終え、2020年末までに完全認証を完了予定[31]。2022年、ポーランド空軍に採用された。

FA-50 Block20

2021年 ソウル国際航空宇宙・防衛産業展示会(ADEX 2021)で発表されたFA-50のアップグレードモデルであり、容量300ガロンのCFT、マルチモードの新型火器管制レーダー、大型コックピット用ディスプレイ、電子戦システム、目標指示に対応したヘッドマウント・ディスプレイ、新型の戦術データリンク、三重の冗長性をもたせたフライトコントロールシステム、スナイパーポッドを装備するとともに、中距離空対地ミサイル、可視範囲外空対空ミサイル(BVRAAM)を統合し、2022年よりアップグレードを開始する予定であった[32]が、2022年9月23日、米国レイセオン社製Phantom Strike AESAレーダー及びAIM-120C7 AMRAAMの統合を米国政府が承認、2025年にBlock20が完成予定[33]とし、2025年に供給開始のFA-50PLの原型機としてポーランド空軍に採用された[34]。

統合される中距離空対地ミサイルにはコングスベルグ製JSM対地対艦ミサイル、ロケットサン(トルコ)製SOM、タウルス製KEPD 350K-2及びKEPD350をベースに韓国ADD社が共同開発している天竜ALCM[35][36]が、可視範囲外空対空ミサイル(BVRAAM)についてはAMRAAMが予定されている[37]。

レイセオン・インテリジェンス&スペース子会社、Global Spectrum Dominanceの社長であるエリック・ディトマーズ[38]はポーランドメディアの取材に対し、FA-50 Block20が搭載するPhantom Strike AESAレーダーの性能は、F-16Vが搭載するAPG-83 AESAレーダー(ノースロップ・グラマン製)に匹敵すると発表した。APG-83がGaAs技術である一方、Phantom StrikeがGaN技術で開発されているため、重量とコストを半分以下とし、より小型で同等の性能を達成したとの事であり、またPhantomStrikeの設計はFA-50への搭載を前提に実施されたとも明かされた[39]。

FA-50PH

FA-50PL

FA-50 Block20に準じるポーランド軍採用モデルであり、調達予定数は36機(+FA-50 Blcok10からの近代化改修機12機の計48機)。Link16、NATO用IFFシステム、AESAレーダー、空中給油機能、スナイパーポッド及びCFTが装備される他、ポーランドの要望するAMRAAM等の各種空対空、空対地誘導兵器が統合される[40][41][42][43]

T-50IQ

イラク空軍向け、24機製造。レーダーにイスラエル製のEL/M-2032 レーダーではなく、米国製のAN/APG-67 レーダーを搭載している[44]。

KFX-E

計画が停滞している「韓国次世代戦闘機KFX」に変わる新コンセプトとして、KAIが提案したT-50をベースとする戦闘機。小型の単発機で、限定的なステルスを備え、F-16とF-35の中間的な性能を目指していた。

ベースとなるT-50が小型であることから、既存のKFXプランに対してステルス面で有利で、KF-16のほか、旧式化・老朽化が進むF-4D/EやF-5E/Fを置き換えて、北朝鮮の主力とするMiGシリーズを相手にするには十分な性能を発揮できるとされていた。また、T-50の開発経験を活かすことができ、一部部品を共有することでコスト削減にも繋がることから、メーカー側は有力視していた。

しかし、小型ゆえに航続距離や武装、発展性への懸念があり、日本や中国のような大国を相手にするには、不適当ではないかという防衛事業庁や国民からの批判があった。また、KFX共同開発に参加しているインドネシアから、KFXが何の成果も出していないのに別機体の開発へと切り替えることに対して批判が出たこともあり[45]、最終的には元のKFXにおいて双発機プランを採用することが決定して、T-50の派生型としてのKFX-E案は立ち消えとなった。

事故

墜落事故

2012年11月15日にブラックイーグルス所属のT-50B 1機が江原道原州市北東約9kmの山間部に墜落し、パイロットの少佐が死亡した。11月27日には事故機の整備班のK准尉が首を吊って自殺し、これを受けて同整備班のK中士(三曹相当)が事故原因を告白した。同月30日の発表によると「K中士が、操縦系統遮断線を点検した後に必ず抜かなければならない遮断線を抜かず、操縦系統が誤作動して事故に繋がった」とのこと[46]。

2013年8月28日に光州の空軍基地で離陸中のT-50が墜落し、空軍第1戦闘飛行団所属の少領(少佐)と大尉の2人が死亡した[47]。

2015年12月20日、インドネシア空軍のジョグジャカルタ空軍飛行学校創立70周年を祝う航空ショーで、インドネシア空軍の曲技飛行隊が運用するT-50練習機が墜落し、パイロット2人が死亡した[48]。

2018年2月6日、シンガポール・チャンギ国際空港で行われていたシンガポール・エアショー2018にて、韓国空軍ブラックイーグルスのT-50一機が離陸中に出火。滑走路からそれて横転し、操縦者1人が負傷[49]。

2022年7月19日、インドネシア空軍のT-50Iが夜間の迎撃訓練中に墜落し、パイロット1人が死亡した[50][51]。

その他の事故

2017年7月12日、フィリピン空軍がミンダナオ島マラウィでの作戦中、FA-50が投下した爆弾が目標を大きく外れて治安部隊の居た建物を直撃。兵士2名が死亡、11名が負傷した[52]。フィリピン空軍はこの誤爆の原因が判明するまでFA-50の飛行中止を命じた。

2017年8月3日、フィリピン軍は、FA-50の再投入を決定した。フィリピン軍のエドガルド・アレバロ報道官は、調査の結果、機体、パイロット、武器システムに何も問題がなかったと発表した。また、同様の事件を防ぐために、技術、戦術、空爆の実行に関する手続きを新たに調整したと述べた[53]。

輸出

練習機としては高額であるが、KAIは2030年までにこのクラスの練習機に3,300機の潜在的需要があるとしている。そして国内向け、各派生型も含め途上国を中心として最大600機の生産を見込めると分析している。また、T-50の海外輸出が見込める一つの要因としては、T-50とシステムの互換性が高いF-16を採用している国が多くあることが挙げられる。国際マーケッティング活動は、KAIとロッキード・マーティンが協同して行っている。

2014年、T-50を使用するブラックイーグルスは、同年11月に中国で開催される航空ショーに参加する予定であったが、直前になりアメリカ側から「使用するT-50の技術が中国に流出する恐れがある」として参加中止の申し入れを受けている。このことから、アメリカとの間に友好関係にない、将来的に軍事的に対立する可能性のある国には、輸出はおろか移動すら困難になる可能性を示している[54]。

エンジンや電子装備など、中心技術は殆どがアメリカ製であるため、輸出にはアメリカの法律の影響を受ける。輸出するためには、アメリカの承認が必要である[55]。

採用国

インドネシアの旗 インドネシア

インドネシア空軍機

2011年、初めての海外輸出として、インドネシア空軍への輸出が決まった。ジェット練習機BAe ホーク Mk.53を置き換える予定である。T-50を12機とTA-50を4機、計16機を約4億ドルで2013年までに引き渡す予定であった[56]が、実際の導入時には区別されずT-50Iとして16機が導入されている[57]。
2010年2月16日には、国家情報院がインドネシア特使団が調査のため宿泊しているホテルに侵入するという不祥事が発覚した[58]。他、契約後の報道ではインドネシア国産輸送機CASA CN-235とのバーター契約が結ばれたという疑惑が報道された[58]。

イラクの旗 イラク

2012年10月にチェコ、イラク両国が次期練習機をL-159に決定したと発表した[59]が、契約にはいたっておらず[60]、その後2013年12月にT-50のイラクへの輸出を契約したと発表された[61]。軽攻撃機FA-50 24機を機体価格と操縦士の訓練、軍需支援などを合わせ21億ドル(約2,156億円)以上と、韓国の航空輸出としては過去最高額となる[62]。イラク空軍への納入は2016年4月に始まり、1年間で全機を納入する予定。
2017年12月、韓国検察の捜査を理由に止められていた機体代金の一部1億3000万ドルがイラク政府から支払われる。この未払いのために完成機体の引き渡しが6機までしか進んでいなかったが、2019年11月29日に24機の受領が発表された[63]。

フィリピンの旗 フィリピン

2014年には、フィリピン空軍に12機のKAI FA-50PHが4.2億ドルで輸出されることが決定した。2015年11月28日フィリピンのクラーク空軍基地に初号機と2号機が到着し、11月29日にフィリピン空軍に引き渡された[64][65]。2017年7月に全12機のフィリピン空軍への引き渡しが完了した[66]。フィリピン空軍は1991年にF-8戦闘機を廃棄して以来、長らく超音速機不在の状態が続いていたが、本機の採用により、ようやく超音速機の配備が復活した。

タイ王国の旗 タイ

タイ政府は老朽化したL-39アルバトロスの置き換えとしてT-50を選定、2015年9月に契約した。契約数は4機、契約額はおよそ1億1千万ドル。T-50THの納入は30ヶ月以内に行われる予定[67][68]。2017年7月にはさらに8機の調達を閣議承認した[69]。2019年5月24日、KAIはタイ空軍から12機の能力向上について5240万ドルで契約した。レーダー、レーダー警報受信機、チャフ・フレア・ディスペンサーが搭載される[70]。2020年4月11日、タイ政府によるT-50TH、2機の追加購入の取消が報道された[71]。

ポーランドの旗 ポーランド

2022年7月、ポーランド国防省は48機のFA-50の導入を決め、包括的な基本合意書(LOA)を締結したことを明らかにした。うち12機は2023年中に引き渡される[72]。
2022年9月16日、ポーランド政府は、細部仕様や納期などを確定し、FA-50 Block10×12機導入に関する7億ドルの契約と、ポーランド仕様のFA-50PL×36機導入に関する23億ドルの合計30億ドルの細部実効契約に署名した。2023年中に従来型のFA-50 Block10×12機、2025年から2028年にかけてFA-50PL×36機を納入完了する計画となる。契約には訓練パッケージ(シミュレータ供給、パイロット、地上要員の訓練)及びロジスティクスパッケージ(スペアパーツ、消耗品)が含まれ、加えて2026年からポーランド国内にFA-50のサービスセンター(国際整備拠点MRO&U)が設立され、同センターにおいて初期納入のFA-50 Block10×12機のPL仕様への近代化改修が実施される他、保守部品の製造や重整備もサービスセンターで実施される。[73][74][75]

過去に検討された国家

アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦
新型練習機導入計画においてイタリアのアエルマッキ社のM-346と採用を争っていたが敗北した。

シンガポールの旗 シンガポール
李明博大統領(当時)が訪問する等売り込みに力を入れたが、アラブ首長国連邦と同様、M-346に敗れ選定外となった[76]。

イスラエルの旗 イスラエル
TA-4の後継機として選定候補[3]であったが、M-346が採用された。

ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
韓国が売り込みを行っていたが、米国の輸出許可が下りず、2015年に白紙となった[77]。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

2015年に次期練習機の選定プログラム"T-X program"が開始された。当初ロッキード・マーティンはT-50が要求に合わない場合、新型機の提案も考慮するとしていたが[78]、結局T-50を改良したT-50A[79]を韓国のKAIと共同提案した[80]。
詳細は「#T-50A」を参照
T-50Aの他には、ボーイングとスウェーデンのSAABの共同提案するT-X(現・T-7 レッドホーク)[81][82]およびイタリアのレオナルドの提案するT-100[83][84]も候補となっていた。2018年9月27日にT-Xの採用が発表され[85]、T-50Aは不採用となった[86]。

アルゼンチンの旗 アルゼンチン

アルゼンチン空軍は、F-4Rの後継機として2019年7月にFA-50を選定した[87]が、2020年にアルゼンチン政府は、新型コロナウイルス感染症の流行による経済情勢の不確実性のため、FA-50購入を中断したとの報じられた[71]。
また、英国製部品を使用しているため英国が対アルゼンチン輸出許可を出さなかった[88]。

ギリシャの旗 ギリシャ

ギリシャ空軍ではT-2が老朽化しておりヘレニック・エアロスペース(HAI)と協力して売込みを図るとしていたが、同国は2021年イスラエルのエルビット・システムズ社に訓練学校運営を委託する形で10機のM-346を取得する契約を結んだ[89]。

スペック
T-50の模型

乗員:2名
全長:12.98m
全高:4.78m
全幅:9.17m
主翼面積:
重量:6,441kg
最大離陸重量:11,985kg
エンジン:GE F404-GE-102 ターボファンエンジンx1基
推力:53.07kN(クリーン)/79.1kN(アフターバーナー)
実用上昇限度:14,630m
最大速度:M1.5
航続距離:1,851km
最大制限荷重:+8G/-3G 』

マレーシア空軍はテジャスではなくFA-50を選択か、但し揉める可能性も

マレーシア空軍はテジャスではなくFA-50を選択か、但し揉める可能性も
https://grandfleet.info/indo-pacific-related/malaysian-air-force-chooses-fa-50-instead-of-tejas-but-could-argue/

『マレーシアメディアは21日「空軍が進めている軽戦闘機入札の勝者はFA-50だ」と報じているが、入札に敗れた他の候補(恐らくテジャスMK.1A)が「空軍の評価プロセスが不公平だ」と訴えており、正式発表までに一悶着あるかもしれない。

参考:Alleged impropriety in RMAF’s RM4 bil aircraft contract said to have triggered MACC probe

個人的には「PhantomStrikeの統合決定」や「ポーランド導入」が両者の評価を逆転させたのではないかと思っている

マレーシア空軍が進めている軽戦闘機入札(FLIT/LCAプログラム)は英ホーク108/208や伊MB-339CMの更新と退役したMiG-29の穴を埋めるという2つの目的があり、調達する軽戦闘機に視界外戦闘能力、空中給油能力、超音速飛行、国産化比率30%などを要求、インドのテジャスMK.1A、ロシアのMiG-35、韓国のFA-50、イタリアのM-346FA、中国のJF-17、トルコのヒュルジェットの6社が名乗りを挙げていたが、最終選考に残ったのはJF-17、FA-50、テジャスMK.1Aだと報じられている。

出典:Public domain パキスタン空軍のJF-17

テジャスMK.1Aを提案したヒンドスタン航空機は「テジャスMK.1Aが有力候補に浮上して調達に向けた交渉が進められている。JF-17やFA-50よりもMK.1Aは優れた戦闘機でマレーシアが望む全てをカバーした上で予算要件をクリアした唯一の存在だ。しかも提案にはSu-30MKMのMRO施設の提供も含めている。ロシア以外で同機のサポートを行えるのは我々だけだ。政治的な変化がない限り導入交渉はまとまるだろう」と7月に明かしていたが、複数の現地メディアは入札の勝者がFA-50だと主張してきた。

マレーシアのThe Edge Markets誌は「韓国航空宇宙産業の現地パートナーに問い合わせFA-50Block20の入札成功がポジティブであると確認した。彼らは『物理的な評価が終わり正式な発表を待っているところだ』と明かした。他の候補の現地パートナーはマレーシア国防省から書面で『入札不成立』の通知を受け取ったところもある」と報じており、ヒシャムディン国防相も10月末に「LCA調達に関する入札企業との価格交渉が完了した。締結する契約内容を承認する財務省の決定を待っているところだ」と明かしている。

出典:Venkat Mangudi / CC BY-SA 2.0 テジャス

更にマレーシア空軍は最終候補に上げられた3機種の中からFA-50の製造工場しか訪問しておらず、韓国メディアも「マレーシア空軍がFA-50を選択した可能性が高い」と予想していたが、Edge誌は「FA-50に入札で敗れた候補の1つが『評価プロセスが不公平だ』と訴えて汚職防止委員会の捜査が始まった」と報じており、不満を訴えた入札者は「軽戦闘機の要求要件を満たしていないのにある提案が優遇された」と述べているので訴えたのは自信満々だったヒンドスタン航空機の可能性が高い。

この問題に詳しい関係者も「各入札者に対する評価プロセスが不透明で、このようなやり方を好むなら公開入札ではなく任意の相手と直接交渉を行えば良い。公開入札を行う理由は公平さを保証することで入札者に競争を促して最高のコストパフォーマンスを手に入れるためだ」と指摘しており、マレーシア空軍とって初の国際的な公開入札は不完全なもので「見せかけの入札は今後の入札に悪影響を及ぼす=公平な評価と結果に基づく採用が保証されないのなら今後の入札に参加してくる企業はいなくなるという意味」と警告している。

出典:한국항공우주산업

本当に評価プロセスが不公平だったのか、公平ならテジャスMK.1Aが勝利したのかは謎だが、ヒンドスタン航空機が明かしたテジャスMK.1Aの輸出価格=機体単価は4,150万ドル(関連費用なし)で、ポーランドと締結した契約からFA-50Block20の調達コストは6,380万ドル(関連費用込み)なので導入にかかる費用にほぼ差はなく、個人的には「PhantomStrikeの統合決定」や「ポーランド導入」が両者の評価を逆転させたのではないかと思っている。

まだマレーシア空軍がFA-50導入を正式発表した訳ではないが、今回の報道を受けて海外のディフェンスメディアは「マレーシア空軍が進めていた軽戦闘機導入の勝者はFA-50だ」と報じ始めており、これが事実なら韓国にとって今年2件目の新規受注となる。

出典:public domain インド空軍のラファール

因みに賄賂がマレーシア空軍の決定を左右した可能性(これを言い始めるとキリがない)もあるが、インドも自国の装備調達でフランス側から相当賄賂を受け取っているので、国際的な装備調達に多少のダークマネーが絡むことぐらい当然承知しているはずだ。

関連記事:インドがマレーシア空軍にテジャスMK.1Aを4,150万ドルで提案か
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 ※アイキャッチ画像の出典:KAI』

ウクライナ軍とロシア軍の戦い、攻勢を止めても敵が戦力を回復するだけ

ウクライナ軍とロシア軍の戦い、攻勢を止めても敵が戦力を回復するだけ
https://grandfleet.info/european-region/battle-between-ukrainian-and-russian-forces-even-if-the-offensive-is-stopped-the-enemy-only-recovers-strength/

『ウクライナ軍やロシア軍も生産拠点を直接攻撃できないため「攻勢を止めた分だけ敵戦力が回復する」というジレンマに直面、両軍とも次の動きにを企画していることだけは確かだが、まだその狙いが何なのかについては謎が多い。

参考:After Russian retreat, Ukrainian military plans next move
ウクライナ軍もロシア軍も互いに生産拠点を直接攻撃できないため「攻勢を止めた分だけ敵戦力が回復する」というジレンマに直面

ウクライナを舞台にした9ヶ月間の戦いは州都ヘルソンをロシア軍が放棄するという展開を迎え、戦いの主導権を握っているウクライナ軍は報道官を通じて「次の動きを計画している」と明かしたが、ヘルソン州のドニエプル川右岸から左岸に前進して敵に追加の後退を強いるには「ロシア軍を撤退に追い込んだドニエプル川に掛かる橋の修復」が必要になり、左岸のロシア軍は15km~20kmほど川沿いから離れた地域に布陣して右岸の都市やインフラを砲撃してウクライナ軍の前進を阻止しようとしている。

出典:Google Map ヘルソン州の戦況/管理人加工(クリックで拡大可能)

ウクライナも安全が確保されたとは言い難いドニエプル川右岸地域からの住民避難を開始、両軍が申し合わせたように川を挟んだ砲撃戦の準備を進めている格好だが、戦争研究所は「ウクライナ軍がキンバーン砂州の敵陣地に攻撃を仕掛けており、ここを確保できればドニエプル川を渡河するより安全にロシア軍が支配する左岸地域に入れる」と指摘しているが、ある程度前進してドニエプル川沿い確保しないかぎり補給がシンプル過ぎてリスクが高く、逆にロシア軍にとっての理想なキルエリアになるかもしれない。

そもそもウクライナ軍にとっての「次の動き」はドネツク州、ルハンシク州、ザポリージャ州を選択することも出来るため、必ずしもドニエプル川の渡河が必要になる右岸から左岸への反撃に拘る必要はなく、もう暫く様子を見てみないと次の動きを推測するのは難しいだろう。

出典:Google Map ドネツク州の戦況/管理人加工(クリックで拡大可能)

逆にロシア軍の主な冬の任務について英Economist誌の調査部は「ウクライナ軍の前進をドニエプル川で食い止めこれ以上の撤退を防ぎ、クリミア上空の防空シールドを強化することだ」と指摘、元豪陸軍少将のミック・ライアン氏も「冬場に2023年の攻勢計画を立案して弾薬を集積を進め、ウクライナのインフラに対する攻撃を継続するだろう」と予測、つまりロシア軍は冬場に大規模な前進を企画しておらずドネツク州での攻勢も「敵戦力を拘束」が目的で春を待つという意味だ。

ただ米シンクタンクのアトランティック・カウンシルは「ヘルソン市放棄をプーチン大統領に売り込むためスロビキン総司令官は『ドネツク州制圧』を確約した可能性が高い」と見ており、最近のクレムリンが発表(ヘルソン市放棄、和平交渉の要求、キーウ政権交換の否定)した方針についてもワグナーに所属するロシア人ブロガーが「明確な目標がないままロシアは漠然と戦争をしている」と批判しているため、春まで積極攻勢を控えるという消極的なプランが採用されるか非常に怪しい。

出典:管理人作成(クリックで拡大可能)

結局ところ西側諸国から支援を受けるウクライナ軍も、戦時体制に移行して米国の制裁を恐れない国から支援を受けるロシア軍も互いに生産拠点を直接攻撃できないため「攻勢を止めた分だけ敵戦力が回復する」というジレンマに直面しており、個人的には「両軍とも攻勢を止める理由は何処にもない」と思っているが「何処で攻勢に出るか」は悩ましいところだ。

因みにロシア軍はHIMARSの射程外にある兵站ルート=ジャンコイ~メリトポリ間の鉄道や道路の拡張・補強に乗り出しているという報告があり、今のところウクライナ軍が保有する武器(最も警戒が厳しいこのルートにパルチザンが接近できるのかは不明)では手が出せない。

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アメリカに従い、中国やロシアとの戦争に突き進む日本

アメリカに従い、中国やロシアとの戦争に突き進む日本 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211260000/

『 ​日本は射程3000キロメートル程度のミサイルを開発し、2030年代の半ばまでに北海道へ配備する計画​だと伝えられている。それが実現するとカムチャツカ半島も射程圏内だ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたように、南西諸島へミサイルを配備する準備を進めている。これは「島嶼防衛」が目的ではなく、ロシアや中国との戦争を想定したアメリカの戦略に基づくものだ。「防衛」や「反撃」が目的ではない。先制攻撃を想定している。

 その計画を先取りする形で自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設し、19年には奄美大島と宮古島に作った。2023年には石垣島でも完成させる予定だという。

 アメリカ国防総省系シンクタンクの​「RANDコーポレーション」が今年出したレポート​によると、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようと計画したのだが、インド太平洋地域でそうしたミサイルの配備を容認する国は日本以外になかった。日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約がある。

 そこで、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力するという形にすることになり、そのASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたわけだ。

 ​日本政府は射程距離が1000キロメートル程度のミサイルを開発、艦艇、戦闘機、そして地上から発射できるようにし、地上発射の改良型は2024年度にも配備する方針​だとされていたが、アメリカの想定通りに事態が進んでいないためなのか、​日本政府はアメリカから亜音速の巡航ミサイル「トマホーク」を購入する意向​だという。

 トマホークは核弾頭を搭載でき、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートルとされている。記事では「反撃能力」が強調されているが、このミサイルには言うまでもなく先制攻撃能力がある。RANDのレポートが作成された時点より事態が切迫しているのかもしれない。

 しかし、トマホークには問題がある。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に就任して間もない2017年4月、地中海に配備されていたアメリカ海軍に所属する2隻の駆逐艦、ポーターとロスからトマホーク59機をシリアのシャイラット空軍基地に向けて発射したものの、約6割が無力化されているのだ。ロシアの防空システムS-300やS-400だけでなく、ECM(電子対抗手段)で落とされたとも言われている。

 翌年の4月にもトランプ政権は巡航ミサイルでシリアを攻撃する。この時はイギリスやフランスを巻き込み、100機以上のミサイルを発射したが、今度は7割が無力化されてしまった。前年には配備されていなかった短距離用防空システムのパーンツィリ-S1が効果的だったようである。

 今年11月14日に山上信吾オーストラリア駐在大使はキャンベラのナショナル・プレス・クラブで日本がオーストラリアの原子力潜水艦を受け入れる可能性があると表明したが、これもミサイルの配備と無関係ではないだろう。

 アメリカやイギリスと同じアングロ・サクソン系の国であるオーストラリアは昨年9月、イギリスやアメリカと軍事同盟「AUKUS」を創設したと発表。それと同時にアメリカとイギリスはオーストラリアに原潜の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられた。

 オーストラリアの潜水艦を受け入れるだけでなく、軍事的な連携を強めるとも山上大使は語っている。日本はアメリカや韓国と軍事的につながっているわけで、太平洋ではアメリカとイギリスを中心にオーストラリアや韓国が軍事的な同盟を結んだということになる。ここに台湾が入るかもしれない。

 オーストラリアをアメリカは対中国戦争の拠点にするようだ。日本列島は先制攻撃の拠点としては意味があるものの、報復攻撃で破壊されてしまうだろう。そこでアメリカはグアムの基地より遠い​マリアナ諸島のテニアン島にアメリカは新しい空港を建設​しているが、規模は限定される。そこでオーストラリアが対中国戦争の拠点になるはずだ。そこへアメリカ軍はB-52爆撃機を配備する。

 イギリスは19世紀に世界制覇戦略を作成した。ユーラシア大陸の周辺を海軍力で制圧、内陸部を締め上げていくというものだ。1869年に完成し、75年にイギリスが支配するようになったスエズ運河はこの戦略にとって重要。その後、中東で石油が発見され、この地域はさらに重要な意味を持つようになった。

 1916年にイギリスはフランスと「サイクス・ピコ協定」を結ぶ。トルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンをフランスが、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスがそれぞれ支配するというものだ。

 協定が結ばれた翌月からイギリスはオスマン帝国を分解するためにアラブ人の反乱を画策する。工作の中心的な役割を果たしたのはイギリス外務省のアラブ局で、そこにサイクスやトーマス・ローレンスもいた。「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。

 ローレンスが接触していたフセイン・イブン・アリにイギリスのエジプト駐在弁務官だったヘンリー・マクマホンは書簡を出し、その中でイギリスはアラブ人居住地の独立を支持すると約束している。フセイン・マクマホン協定だ。このイブン・アリを追い出したイブン・サウドを中心として1932年に作られた国がサウジアラビアだ。

 その一方、イギリスのアーサー・バルフォア外相はロスチャイルド卿に宛てに出した書簡の中で、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。1917年11月のことだ。なお、この書簡を実際に書いたのはアルフレッド・ミルナーだと言われている。

 イギリスは1919年、石油利権を手に入れるためにペルシャを保護国にし、その2年後に陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領。そして1925年にカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗るようになった。

 イギリスの戦略には中国の略奪も含まれている。製造業で中国(清)に勝てないイギリスはアヘンを売りつけるために戦争を仕掛ける。1840年から42年にかけての「アヘン戦争」、そして56年から60年にかけての「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」だ。この戦争でイギリスが手に入れた香港は侵略と犯罪の拠点になる。

 イギリスやアメリカは中国へアヘンを売ることで大儲けしたが、儲けたカネを扱うため、1865年に創設されたのが香港上海銀行。この銀行は1866年に横浜へ進出し、大阪、神戸、長崎にも支店を開設。明治政府とも深く結びついた。

 アヘン戦争で大儲けした会社のひとつ、ジャーディン・マセソンは18599年にふたりのエージェントを日本へ送り込む。ひとりは長崎へ渡ったトーマス・グラバーであり、もうひとりは横浜のウィリアム・ケズウィック。ケズウィックの母方の祖母はジャーディン・マセソンを創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉だ。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスの駐日総領事だったラザフォード・オールコックは長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。1863年にロンドンへ向かった。この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンで、すでに独立していたグラバーも渡航の手助けをしている。

 イギリスの支援を受けた長州と薩摩は徳川体制の打倒に動き、徳川慶喜は1867年に「大政奉還」を申し出、69年に函館の五稜郭で榎本武揚の指揮していた徳川軍が降伏して「王政復古」が各国の公使に通告された。

 こうして誕生した明治体制はアメリカやイギリスの影響を強く受け、大陸への軍事侵略を始める。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合い、デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦した。ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻している。

 1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。

 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万人の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。

 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のテディ・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印されて日本の大陸における基盤ができた。

 講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対、覚書は破棄されている。中国への侵略を本格化させるつもりだったアメリカの私的権力はつまずいた。

 それに対し、アメリカ側の意向に従って動いていたのが金子堅太郎。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、1890年に金子とルーズベルトは親しくなる。何者かの紹介でふたりはルーズベルトの自宅で会ったのだ。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 日本のアジア侵略をイギリスやアメリカ、より正確に言うならば、巨大金融資本は支援したのだが、彼らの長期戦略は今も生きている。それが大きく動き始めたのが1991年12月。ソ連が消滅し、アメリカの支配層は自国が「唯一の超大国」なったと考え、世界制覇プランを作成したのだ。それが「ウォルフォウィッツ・ドクトン」だ。

 ソ連消滅後、アメリカにとってヨーロッパや日本は侵略の手先であると同時に潜在的なライバルにもなった。アメリカの手先であると同時に従属する仕組みを築き始める。

 しかし、日本の細川護熙は国連中心主義を捨てない。そこで1994年4月に潰される。日本をアメリカの侵略プランに従わせるため、ネオコンのマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得して国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触した。ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告」を発表。日本をアメリカの戦争マシーンに組み込む道筋を示した報告書だが、日本側の動きが鈍い。

 そうした中、日本では衝撃的な出来事が引き起こされた。1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ、ナイ・レポートが発表された翌月の95年の3月には地下鉄サリン事件、その直後に警察庁長官だった國松孝次が狙撃されている。8月にはアメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙に日本航空123便に関する記事が掲載され、その中で自衛隊の責任が示唆されている。

 1995年11月にSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置することが決められ、96年4月に橋本龍太郎首相とウォルター・モンデール駐日米大使が普天間基地の返還合意を発表。辺野古に基地を作る計画は1960年代からあり、それがSACOの合意という形で浮上したのだ。

 1997年11月に日本政府は名護市(キャンプ・シュワブ)沖へ海上へリポートを建設する計画の基本案を地元に提示、2006年5月に日米両政府は「再編実施のための日米のロードマップ」を発表、辺野古岬、大浦湾、辺野古湾を結ぶ形で1800メートルの滑走路を設置すると発表している。2009年9月に成立した鳩山由紀夫内閣は「最低でも県外」を宣言するが、10年になると前言を翻し、再び辺野古へ移設するとされた。

 しかし、その後、状況は大きく変化。自衛隊は中距離ミサイルや長距離ミサイルで中国やロシアを攻撃する準備を進めている。昔から知られている統一教会と政界とのつながりで騒いでいる間に事態は急速に悪化している。言うまでもなく、その背後にはアメリカが存在しているはずだ。』

ホロドモール

ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB

『ホロドモール(ウクライナ語: Голодомо́р;ロシア語: Голод на Украине;英語: Holodomor)は、ウクライナ語で飢え・飢饉を意味するホロド (holodo)[注釈 1] と、殺害[注釈 2]、絶滅、抹殺、または疫病[2]を意味するモル (mor) との合成語[3]・造語 [1]で、飢餓による殺害 (death by hunger) を意味する[4][5][注釈 3]。

具体的には、1932年から1933年(または1934年[注釈 4])にかけてウクライナ・北カフカース・クバーニなどウクライナ人が住んでいた地域をはじめ、カザフスタンなど、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉を指す[6][7]。

この飢饉は、当時のソ連のスターリン政権による計画的な飢餓、または不作為による人災、人工的・人為的な大飢饉であったことが明らかになっている[8][9][7][10][11][4]。

ソ連政府の五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化や、クラーク(富農)撲滅運動において反ソ連分子を強制収容所(グラグ)に収容したり[12]、さらに穀物の強制徴発、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを原因として発生した[7][2][13][11]。

「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、330万人[14]から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した[7][15]。

特にウクライナでの被害が甚大で、かつウクライナを標的としたソビエトの政策が飢饉の原因であったことから、ホロドモールはソビエトの政策に抵抗したウクライナの農民に対するソビエト国家による攻撃の集大成であるともされる[5]。

ホロドモールがジェノサイドに該当するかについては議論がある[16]。ウクライナ飢饉[2]、飢餓テロや飢餓ジェノサイド、スターリン飢饉などとも呼ばれる[17]。 』

『概要

ハルキウ州で行われた「プロレタリア革命の波」と呼ばれるコルホーズからのパンの強制収集。

飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気にすることなく通り過ぎるようになった人々。(1933年)

ロシア革命後、ウクライナでは自治運動が展開したが、ソビエト・ウクライナ戦争(1917-21年)やロシア内戦でのボリシェビキ勝利により、1919年のウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を構成した。

ボリシェビキは、食糧独占令(1918年)により穀物徴発を開始するとともに、「クラーク(富農)」を「人民の敵」であるとして逮捕し、強制収容所に連行するクラーク撲滅運動も開始した。

ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出)[17]。

富農撲滅運動(ラスクウーラチヴァニェ)の名の下での反革命分子の粛清・殺戮、コルホーズによる強制農業集団化によって多数の犠牲が生じた[17]。さらにウクライナ語の禁止なども行われた。ウクライナ飢饉はスターリンによる強力な意図を持った強制封鎖によるものであったとされる[17]。

地域

ホロドモールの主な地域は以下の通り

ソビエト連邦のウクライナ社会主義ソビエト共和国
カザフ・ソビエト社会主義共和国
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクバーニ、ヴォルガ川沿岸地域、南ウラル、北シベリアなど。

「ソビエト大飢饉 (1932年-1933年)」も参照

背景

レーニン政府とウクライナ
ソビエト・ウクライナ戦争
詳細は「ソビエト・ウクライナ戦争」、「クラーク撲滅運動」、および「ソビエト連邦における農業集団化」を参照

1917年2月にロシアで二月革命が起きると、ウクライナでは3月に自治組織ウクライナ中央ラーダが組織され、5月にはロシア臨時政府に自治を認めるよう要求したが、臨時政府は拒否した[18]。6月、ウクライナ中央ラーダは「ウクライナ人民は自分の土地で自分の生活を自分で決める権利を持つ」とする第1次宣言を出した[18]。キエフ出身のチェレシチェンコ外相、ケレンスキー、ツェレチェリらソビエト指導部とラーダはキエフで6月30日に会談し、中央ラーダをウクライナ統治の最高機関として承認した[18]。しかし、立憲民主党(カデット)の三人の大臣が強く自治に反対し、抗議辞任した[18]。

ボリシェヴィキによる十月革命が起きると、中央ラーダは10月29日に臨時政府系のキエフ軍管区司令部に対してウクライナ共産党の釈放とキエフからの退去を要求した[18]。しかし、中央ラーダは全ての社会主義者による政権を望んでおり、1917年11月7日、中央ラーダはウクライナ人民共和国の成立を宣言した[18]。ボリシェヴィキは11月15日にスターリン署名で「ロシア諸民族の自治権」布告を出していたが中央ラーダとレーニン政府の対立は深刻なものとなった[18]。11月にロシア系の労兵ソヴィエトがドンのカレージン軍と敵対すると、これに対して中央ラーダ政府がソヴィエトの武装解除を開始した[19]。12月3日、人民委員会議がウクライナによるソヴィエト派の武装解除の中止を求めたが、ウクライナ側は自治権の侵害だと拒否した[19]。ウクライナに対抗してボリシェヴィキはハリコフで傀儡政権ウクライナソビエト共和国樹立を宣言し、12月にはソビエト軍(遠征軍)がウクライナ侵攻を開始した[20][19][注釈 5]。1918年1月、キエフ総攻撃が始まるとウクライナのラーダ政府はキエフを脱出し、西へ向かい、ドイツ・オーストリアの中央同盟国との交渉に入った[20]。1月26日、ソビエト軍はキエフを占領したが[19]、2月末にドイツ・オーストリアが奪還し、3月にはドイツ・オーストリアとロシアとの講和条約ブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアはウクライナから退却した[20]。ロシア・ソビエトによるウクライナ侵攻によって、ウクライナ農民はソビエトに不信の念を強めた[19]。

クラーク撲滅と穀物徴発の始まり

ロシア革命によって、地主階級は完全に消滅し、また、共同体(ミール)復活[21]により自作農も消滅した[22]。土地の急激な国有化によって農業生産は重大な打撃を受け、さらにロシア内戦(1917-22年)でロシア社会は疲弊した[22]。

レーニンは、農村共同体ミールが実質的に村の指導部となったことは社会主義化を妨げるとみなし、「プチブル的地主は、土地貴族と資本家を倒すために、我々プロレタリアートと手を組むが、その後、我々とは袂を分かつ。その後、我々は断固として、容赦無く、彼らとの戦いに没頭しなければならない」と宣言した[23]。レーニンは、反ボリシェヴィキ、反白軍の緑軍が1918年に蜂起すると、赤軍に緑軍の変装をしたうえで「10ないし20露里進むごとにクラークと司祭と地主を吊るし首にせよ。賞金は一人吊るすごとに100,000ルーヴリ」と命じた[24]。

スヴェルドローフは1918年5月に「我々は農村を階級によって分割し、対立するふたつの勢力にわけ、富農に対する貧農階級をつくるという問題にもっと真剣に取り組まねばならばい」と演説で語り、ボリシェヴィキは農村にこれまでになかった「階級闘争」を作ることとした[23]。

1918年5月9日に公布された食糧独占令(食料独裁令(ロシア語版)[22])では、自由取引を禁止して農産物を国家専売とし[22]、さらに割り当てを超えた余剰穀物の徴発権限を食糧委員会に与え、余剰穀物を保有するクラークに対する闘争のために貧農は団結しなければならないとされた[25]。労働者からなる「食糧徴発隊」が結成され、自由に「クラーク」を逮捕し、証拠もないまま鞭打ちし、徴発した穀物でウオッカを作った[25]。食糧徴発隊は1918年7月に1万人強だったが、1920年には45000人に増大した[25]。

1918年6月11日には、農村に富農撲滅のためのコンベード(貧農委員会)が設置された[26]。コンベードは共産党員や都市の労働者、および「貧農」や「農村プロレタリアート」と認定された人々によって指導され、「富農」として認定された農民の土地、食糧、家畜、武器を没収した[26]。1918年11月には総計12万2000の貧農委員会が設置された[26]。都市の党員で組織された活動分子(アクテヴィスト)が12万5000人以上、農村に派遣された[25]。貧農委員会はロシアでは一時解散されたが、1920年5月9日にはウクライナで再設置された[27]。これはやがてコムネザーム(非富裕農民委員会)として組織され、ウクライナの農村で権力を握るクラークによる盗賊的行為を根絶することを任務とした[28][27]。コムネザームの指導者は多くがロシア系であり、ウクライナ語を話すものは22.7%しかいなかった[27]。そこで都市部の党員数千人が地方に派遣された[27]。

1918年7月には労働者を優位とし、農民の格下げを開始し、具体的には、労働者の代表者を選ぶのに25000票で足りたのに対して、農民の代表者を選ぶのに12万5000票が必要とされた(比率5対1)[23]。

1918年8月、レーニンは富裕層から25人-30人の「人質」をとることを命令し、情報提供者には穀物を報償として与えるとした。[25]。これらの政策は「戦時共産主義」のなかでの政策とされるが、内戦はこのときまだ本格化しておらず、レーニンはこうした農村政策によってロシアを完全に社会主義化することを意図した[25]。

ウクライナへの再侵攻とポーランドの介入

「ポーランド・ソビエト戦争」を参照

1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ軍、オーストリア軍が敗北すると、12月にウクライナの編入を目指すレーニン政権は再び、ウクライナ侵攻を開始し、1919年1月6日には、ハルキウでソビエトの傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国樹立が宣言された。2月5日にソビエト軍がキエフを占領すると、2月11日にウクライナに対して、一人当たり消費量を130kgとし、それを超える「余剰穀物」の徴発を命じ、3月19日には82万トンの穀物の徴発を命じた[29]。計画では1919年中に231万7000トンの穀物を徴発する予定であったが、実際に徴発されたのは42万3000トンにとどまった[29]。また、農民には、すべての労働者への食料供給に応じられるだけの、十分な農産物の生産が義務化され、薪(たきぎ)の調達や除雪作業などの労働義務も課された[22]。1919年1月の穀物徴発令で穀物の徴発が強化された[25]。

こうしたボリシェヴィキの強硬策に対してウクライナでは反発が強まり、ウクライナでは1919年4月に93回、5月に29回、6月に63回の暴動が発生。4月から7月までに合計300回の暴動が発生した[29]。

1919年8月、デニーキンの白軍の侵攻により、赤軍はウクライナ東部から撤退[29]。その間、ドニエプル川西部にウクライナ人民共和国が再建された[29]。1919年10月2日、モスクワはウクライナソビエト政府を解散。ボリシェビキは、ウクライナ支配の失敗の原因を、ウクライナの民族主義にみた[29]。

1920年3月、ソビエトがウクライナを制圧したが、ウクライナの民族主義者ペトリューラと結んだポーランドは1920年4月25日に攻撃を開始し、5月7日にキエフを占領した。6月にソビエト軍が反攻し、ポーランド軍を敗走させ、さらにポーランド領ビャウィストクにポーランド臨時政府を発足させた。これに対してイギリス、フランスの援護を受けたポーランド軍が反撃し、ソビエト軍を撃退した。10月に休戦協定を結び、1921年3月にリガ講和条約を締結し、白ロシアとウクライナの西部がポーランド領となった[30]。

農民反乱

1919年、ヴォルガ川流域で大きな反乱が起き、1919年5月にはウクライナでG.グリゴーリエフの反乱に2万人が参加した[24]。同年夏にはウズベキスタンのフェルガナで農民がイスラムと手を組み赤軍と戦った[24]。

1920年には凶作となり、国の指定する面積への穀物の種付けが農民に強制された[22]。重い負担に不満をもった農民は1920年、ロシアのタンボフ県や西シベリアで反乱を起こした[31]。タムボフ県では凶作と過酷な穀物徴発で飢饉が発生し、8月19日に徴発に反対する社会革命党のアレクサンドル・アントーノフが反乱を起こし、1921年初頭には5万人以上の農民が参加、1000人以上の党員が殺害され、60か所の国営農場が破壊された[24]。農民軍に参加した25-80%は、貧農と中農で、労働者と平等の投票権と農業用の土地所有を求めた[24]。1921年5月にトゥハチェフスキーが指導する赤軍が鎮圧した[24]。

1920年には南ウクライナでもネストル・マフノが反ソビエト農民運動を組織して蜂起、農民4万人が参加した[24]。反ソビエトゲリラは1921年末まで続き[27]、1921年には赤軍正規軍が投入され、毒ガス弾も使用した熾烈なゲリラ掃討戦が実行された[32]。ソビエトは、ウクライナの民族感情の強さを踏まえ、ウクライナの「独立」を認める形で支配することとなった[27]。

1921年1月には、西シベリアで5万5000-6万の農民が反乱し、2月13日にはアルメニア人が蜂起し、首都エレヴァンを占拠した[24]。

1921-22年の飢饉

詳細は「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」を参照

1921年1月には、燃料危機、運輸危機、食糧難が連鎖的に発生し、3月にはクロンシュタットの反乱も起きた[31]。3月8日、クロンシュタットの反乱に際してレーニンは、穀物徴発をやめて自由取引に戻してしまうと白軍が勝利し、旧体制が復活してしまうと懸念を表明した[33]。なお、白軍のデニーキンも「唯一の、不可分のロシア」を信奉し、ウクライナの独立は認めなかった[33]。

1921年夏[34]には旱魃で飢饉が発生し、犠牲が500万人となった[35]。ウクライナだけでも100万人が餓死した[34]。なお、1918-1920年の期間にも900万が死亡しており(第一次世界大戦の戦死者200万は除外される)、1918-1923年にはチフス、赤痢、コレラなどで300万人弱が死亡したとされるが、その多くは飢饉の際の飢餓の影響である[35]。コンクエストは、内戦での犠牲は100万として計算すると高すぎるが[注釈 6]、それで計算したとしても、600万が飢饉と農民戦争で死んだとする[注釈 7]。

なお、ボリシェヴィキでは飢饉を革命に利用する思想があった。レーニンは、1891-92年のヴォルガ川流域飢饉に際し、知識人が飢饉への救済活動をはじめると「甘ったるい感傷行為」と否定し、飢饉は大衆を急進的にすると主張した[36][37]。

1922年は豊作だった[34]。

同時期には、党内でも民主化を求める声があがったため、党指導部は党員が過剰であるとの理由で党員をふるいにかける「党の総粛清」を開始、党歴の長さに応じてヒエラルキーがつくられ、古参党員による寡頭支配が成立し、1922年4月にスターリンが書記長に就任した[31]。共産党にとっては工場労働者が支持母体であり、農民は潜在的には「敵」(反革命分子)とみなされていた[31]。1923年、スターリンらはソ連体制の正当性を工場労働者からの支持に見出し、労働者の入党キャンペーンを展開したが、さらに党内対立を招いた[38]。

スターリンによる農村・ウクライナ統制の激化

ネップは市場経済を乱暴に拡大し、物価上昇を引き起こし、農村では物資が不足し、農村は都市への食料供給を停止するという経済危機となった[39]。プロレタリアート階級の大半はネップに反対し、政権運営は危機に陥った[39]。政府は1923-24年、大衆の怒りを鎮めるために「ネップマン」(私的商人[40])への攻撃を開始した[39]。

「反革命分子」の摘発

1923年に反革命分子として処刑されたものの67%は農民だった[41]。1924年2月にウクライナで通達された秘密回状では、「反革命分子」とは、以下の者が該当するとされた[41]。
「革命前のブルジョワ政党員、穀物連合会員、ボーイスカウトなど青年団体会員、旧内務省・警察・憲兵隊・司法省などの帝政ロシアの官僚および軍人、白軍、ウクライナ中央ラーダに雇用された者、正教会・カトリック・ユダヤ教の司祭など宗教組織のメンバー、商人・商店主・企業家・土地所有者・富農、職人、外国人および外国に親戚や知人を持つもの、帝政ロシアの学校の教員・学者、かつてスパイや密輸で有罪となったもの、およびその容疑者、そして自分の政治的立場を明らかにしていないもの」などであり、これらに該当する者はウクライナ人の大部分を占めた[41]。

スターリンは1924年に「われわれ共産党員は特別な人間なのだ」「ボリシェヴィキ軍団の一員になるということは、何ものにも代えがたい名誉なのだ」と語り、当時影響力を持った書籍『共産党員の倫理』[42]では、ボリシェヴィキは現代の支配階級であるプロレタリアートの代表であり、ボリシェヴィキとプロレタリアート以外の女性との結婚は、前世紀の伯爵と女中の結婚のように非難されるべきであると主張した[43][44]。

1925年5月、スターリンは「ロシアのような後進国でも完全な社会主義を実現できる」とする一国社会主義論を唱え、金属工業を重視した[38]。

しかし、1925年に「商品飢饉」が起きると、スターリン政権は、穀物や木材の輸出による利益(差益)での解決を決定し、農民から穀物を安く買い上げた[38]。

1928年の穀物危機と「ネップマン」「クラーク」「ブルジョワ専門家」への弾圧

1927年から1928年にかけて、ふたたび穀物と消費財が不足した[39]。これは、国が定める穀物価格があまりに低く、農民が穀物を売っても消費財を購入できなかったために、穀物を国家に引き渡すのをやめたことが原因であった[39][注釈 8]。

穀物の調達難は都市の食糧難を引き起こし、ソ連政府を崩壊させかねない危機となった[45]。

ブハーリンは穀物調達価格の引き上げを提案したが、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフら合同反対派は、農民への譲歩は社会主義的工業化を遅らせるだけなので、強制収用に訴えても徴発すべきだと主張した[39]。

スターリンは当初ブハーリンを支持していたが、1927年12月の15回党大会以後、穀物危機はクラークのストライキが原因だと非難し、内戦時代のような農民からの強制収用を主張した[39]。

当時、プロレタリアート(労働者)階級の間では、革命で滅亡したはずのブルジョワは、「ネップマン」「クラーク」「ブルジョワ専門家」に姿をかえて復活しつつあるという懸念が広がっており、とくに1900年代と1910年代に生まれ、革命に遅れた若者世代は、革命期と内戦期の階級闘争を再現しようとするスターリンの主張を支持した[39]。

スターリンは若者の革命のロマンチシズムを求める風潮につけ込み、ソ連を外国の資本主義だけでなく、国内に潜む外国の手先と戦う国家として規定して、イギリスがスパイを送り込んでソ連を侵略しようとしているといった陰謀論などを新聞に満載し、恐怖心を煽り、潜在的な「敵」の摘発を奨励した[46]。

背景として1927年には、イギリスがゼネストへのソ連の関与を問題にして国交断絶を通告し、中国でも蒋介石の国民党政権がソ連に断交を宣言したことがあった[8]。

スターリンが戦争の恐怖を煽ったことで、ソ連国内ではパニックが起こり、買いだめに走った[8]。

スターリン政権は穀物危機を解決するために、1918年の食料独裁令のような穀物供出を非常措置として命じ、不履行の場合は威嚇も用いて厳格化した[45]。

しかし、1928年初頭の穀物調達危機は、工業製品が流通しなかったことで農産物を売却する意欲が農民において薄れたこと、行政の計画による失敗であった[47]。1928年1月での穀物不足は216万トンで、「危機」というほどのものでもなく、家畜含めてほかの農産物は増えつつあり、1928年の農業総生産は2.4%増加していた[47]。

しかしスターリンは非常措置を実施、3万人の活動分子が農村に派遣され、地区の党内では粛清が進み、穀物市場は閉鎖され、農民は村の評議会への投票権を剥奪され、そのかわり、家族のない労働者がその権利を得た[47]。集団農場コルホーズを設営し、農民をそこへ編入させていった[45]。

1928年7月には、1926年に制定された条項107が農民に対して適用された[47]。ルイコフは、適用されたケースの25%が貧農で、64%が中農、富農は5%でしかないと報告した[47]。党内からの批判をうけて、1928年7月の大会で非常措置は撤回された[47]。スターリンは演説で、「ネップでは農民には工業化を支えるための追加税がかけられているが、ソ連はこの追加税なしにはやっていけないのだ。しかし、農民はこの重負担に耐えることができるし、この負担は年々軽くなっていく。だいたい、社会主義国家において農民の搾取などできるはずがない」と演説し、農村における資本主義的分子を根絶しようと訴えた[47]。

1928年初夏のシャーフトゥイ事件(シャフトゥイ事件)では、ドンバスの炭鉱地帯で技師53人が国際資本の手先として反革命的陰謀をもって反ソ連的破壊活動を行なったとして、スターリン、ルイコフ、オルジョニキッゼらが裁判を行い、5人が銃刑、40人が禁固刑になった[48]。この事件は、スターリンが工業化を邪魔する者とみなしていた「ブルジョワ専門家」を排斥していくキャンペーンの端緒となった[49]。

ネップ時代に私腹を肥やしたとされた「ネップマン」への攻撃も激化した[50]。1926年に40万件あった事業主は1928年末までに懲罰的な重税によって消滅し、または警察によって閉鎖をよぎなくされた[50]。「ネップマン」とレッテルを貼られた人々は逮捕され、公民権を喪失し、1928年に導入された配給カードも発行されず、公共住宅から締め出され、その家族の子供も学校から排除された[50]。

ウラル・シベリア方式

1928年1月[8]、スターリンは非常措置としての穀物の強制徴発をシベリアで直接実施し、穀物の調達難の原因を「クラーク(富農)」による売り惜しみ、怠慢、サボタージュにあるとし、弾圧を強め、危機の原因は富農にあると断言した[47]。シベリア現地の農民が徴発量が多すぎると苦言をいうと、スターリンは富農が5万ー6万プードの大量を備蓄しているせいだと答えたが、この数字はなんの裏付けもない当てずっぽうな数字だった[47]。

1928年末の穀物危機では、国家計画委員会も季節的現象が要因であったと報告したため、強硬手段を取れなかった政治局は、クラークが穀物を隠しているので徴発量を増やすが、これは「農民の意見の一致」によるという「ウラル・シベリア方式」を採用した[51]。これにより、農村の党組織は、徴発命令を簡単には出せずに、集会で農民を説得しなければならなかった[51]。しかし、穀物供出への反対意見や批判や苦情を述べた農民たちはクラークだと認定され、逮捕され財産没収され、協同組合から排除され、村の製粉機の使用も禁止され、その子供の通学も拒否され、また強制収容所への移住を強制された[51][8]。共産党の強権的な徴発に対して、ウクライナの農村の貧農も中農もなんの魅力も感じないと回答していたが、やがて村の共産党官僚は、都市から派遣された労働者党員のような過酷な徴発(穀物の没収)を中農に対しても開始することとなった[51]。

五カ年計画

「2 + 2 = 5」というフレーズで五カ年計画の早期達成を扇動するソ連のポスター
「五カ年計画」を参照

ソ連政府は、経済停滞と資本主義を克服するために計画経済を目指した。1928年から1932年にかけてのスターリンの五カ年計画(1928-32年)では、共産主義を実現するために、工業化と、ソ連最大の社会集団である農民層を支配して農業の集団化が目指された[52]。
五カ年計画では、国民経済への投資総額を645億リーブリとそれまでの五年間の2.4倍の規模となった[53]。銑鉄や石炭の生産目標も高く設定された。しかし非現実的な計画によって工業生産成長率は低下した[53]。スターリンは、この低下の原因を「ブルジョワ専門家」の妨害に求め[53]、こうしたなか、クラークの抹殺が主張されていった。

この5年間の間に、数万人が処刑され、数十万人が衰弱死し、数百万人が餓死することとなった[52]。

スターリンの五カ年計画では戦争の脅威を利用し、ブハーリンを共産党を武装解除させ、ソビエトを内部から崩壊させようとしていると非難した[46]。こうして、スターリンは、「搾取階級を根こそぎ一掃する」と宣言し、党内の支持をとりつけるとともに、のちの大テロルで繰り返される国家権力による抑圧政策を合理化していった[46]。

農民たちの反抗と徴発強化

一方で、村人、農民たちの反抗も起きた。1928年6月、三人の「クラーク」によってロシアのイヴァノヴォの党書記が殺害される事件が起きた[54]。10月にはコストロマーでコルホーズ議長や活動分子が射殺され、12月にはペンザで村ソビエト議長が殺害された[54]。1927年から1929年にかけて、およそ300人の徴発員が殺害された[54]。

ウクライナでは1929年に1262件の「クラークによるテロ」が発生した[54]。ロシアではテロ事件が1002件発生し、384人が殺害された。3281人が有罪となったが、そのうち富農は1924人 (31.2%) で、1896人が中農、296人が貧農、67人が役人だった[54]。富農も中農も貧農も農民たちは、穀物を荒れた土地や干し草のなかに隠したり、谷や森に埋めた[54]。
1929年6月28日の法令で、農民は徴発義務を果たさなければ、罰金や財産没収が課せられるようになり、多くの農民が都市へ流出した[55]。

シベリアでは1929年春までに、前年700万トンであったのが1900万トンと2.7倍の穀物が徴発された[51]。

農民たちの反乱も続いた。1930年1月、ウクライナポルタヴァ州ビルキイ村で地元GPU主任が襲撃され、放火された[56]。ウクライナではほかにオデッサ州、ヘルソン州、チェルニーヒフ州でも暴動が発生し、チェルニーヒフ州では地方の軍隊が反乱を支援したため赤軍正規軍が出動した[56]。ウクライナでは4万人の反乱があったとされる[56]。北カフカースのサリスク地区、シベリア、クリミア半島、アルメニア、アゼルバイジャンでも暴動が発生した[56]。あるOGPU高官は、自分は革命と内戦で戦ったが、いまでは農民に対して発砲していると涙ぐんで語ったとアイザック・ドイッチャーは記録している[56]。

クラーク撲滅措置

共産党は、1929年12月29日に「一つの階級としてのクラークの撲滅」を発表し、富農の根絶を宣言した[57][58]。

1930年1月4日の党中央委員会では、ヴォルガ下流・中流、北カフカースなどの穀倉地帯での集団化を1931年春まで(1930年秋までとも[45])、それ以外の地帯では1932年春まで(1931年秋までとも[45])に集団化を完了することが求められた[58]。スターリンはクラーク撲滅は集団農場を作る上で不可欠だ、もちろん富農をコルホーズに入れてはならない、と指示した[58]。

1930年1月30日の「大規模集団化地区におけるクラーク世帯の撲滅措置について」と題する決議が可決され、2月4日に発効した[59]。

しかし、このときにはすでに「富農」とされる多くの農民は没落しており、わずかな農民が3,4頭の雌牛と2,3頭の馬を持ち、賃金労働者を雇っている農場は1%しかいなかった[59]。

ある農民は、1929年に6人の家族と35エーカーの土地、2頭の馬、1頭の牛、1頭の豚、5頭の羊、40羽の鶏を持っていた[60]。1928年に課された税金は2500ルーブリと穀物7500ブッシェルだったが、彼は納税できず、2000ルーブリの価値があった家を没収された[60]。活動分子はこの家を250ルーブリで買い取り、農具はコルホーズに没収された[60]。

農民は財産没収後に逮捕され、納税拒否・労働者搾取および反政府運動への関与容疑で「富農」として告訴され、10年の強制労働が言い渡され、強制収容所へ連行された[61][60]。また別の「富農」は財産を没収されたが、その子供たちが物乞いをして手に入れた食べ物は、もともと活動分子が子供の父親から奪ったものだった[60]。この「富農」も強制移住となり、移住先で妻、子供たち、老母ら家族全員が死亡した[60]。

1929年の冬から翌年にかけて続々と第一カテゴリーのクラークが逮捕され、キエフ刑務所では一夜に70人から140人が処刑された[60]。翌1930年、ポルタヴァ刑務所では、7人用の監房に36人が詰め込まれ、20人用の監房に83人が詰め込まれ、2千人の囚人のうち毎日30人が死んだ[60]。

1930年1月から2月にかけてクルィヴィ・リー州で4080の農場がクラークとして解体されたが、この農夫は病気の妻と五人の子供がいて、家にはパンの切れ端もなく、子供たちはボロギレを着て幽霊のようだったと活動分子が報告しているほど困窮していた[59]。平均的な富農の収入は、富農を迫害した平均的な官僚の収入より低かった[59]。

ある共産党官僚は、有罪を言い渡されたクラークと司祭の娘に対して、自分はソビエトの権力者だから判決を変更することもできると性行為を要求し、娘は自殺未遂に追い込まれた[48]。

クラーク撲滅を指揮したのはOGPU議長のメンジンスキーであり、1930年には6万人のクラークを抹殺し、15万世帯のクラークを強制移住させ、さらに一般農民150万世帯を強制収容所に送り、200万人以上の農民の財産を没収した[48]。歴史家ダニーロフは、500万人から550万人の農民が追放されたといい、さらに1000万人が追放されたとする研究もある[8]。

クラークの子供への弾圧もすすめられた。1929年、穀物徴発隊は、徴発に応じようとしないクラーク(富農)家族に圧力をかけるため、富農の子供へのいじめを教育新聞で奨励した[62][63]。地区委員が富農の子供にも穀物の種子を配布すべきだと発言すると、「富農の飢えた子供のことなど考えるな。階級闘争においては博愛主義は悪だ」と非難された[64][63]。

「富農」とレッテルを貼られた親が死亡したあと生き残った子供たちは、教育を受けることも就職もできなかったが、こうした対応は、マルクスの「経済要因が意識を決定する」という唯物史観にもとづいていた[63]。

レーニン未亡人クルゥプスカヤは、富農として両親が逮捕されたあと残された子供は泣いて町を彷徨うが、厄介ごとになるのを恐れて誰も引き取ることはしないと書いたが、党の方針が変わることはなかった[65][63]。

ウクライナ民族主義への弾圧

スターリンのウクライナ嫌いは非理性的でかつ徹底的であった[66]。1929年4月、OGPUはウクライナ民族主義グループの摘発をはじめ、7月にはウクライナ解放同盟が逮捕された[66]。1930年春のハリコフの公開裁判ではウクライナ社会主義連邦党首セリー・エフレーモフらに自白が強要され、有罪となった[66]。

1930年1月22日、スターリンは「民族問題の本質は、農民の問題である」と宣言し、ウクライナにおける集団化の目的は、「ウクライナ民族主義の社会的基礎、つまり個人の土地財産をつぶすことだ」と表明した[67][66]。

ウクライナ共産党書記長コシオールはウクライナの収穫高の壊滅的減少について知っていたがスターリンの集団化政策を推進し[68][69]、飢饉の原因はウクライナの民族主義にあると断言した[66]。

共産党は、富農はウクライナ民族主義者の支援者であり、ウクライナ民族主義者は富農の支援者であるとみなした[66]。スターリンは、集団化が失敗したウクライナと北カフカースは粉砕しなくてはならないと結論した[66]。しかし、実際にはウクライナ農民の70%がコルホーズ員になっており、ロシアでの59.3%よりも集団化が進んでいた[66]。

ウクライナにおける富農撲滅と農業集団化

富農撲滅運動(ラスクウラーチヴァニェ)
「クラーク撲滅運動」および「グラグ」を参照

ウクライナにはすでに1918年には「富農」はいなくなっていたにもかかわらず、富農撲滅運動(ラスクウラーチヴァニェ)での「クラーク(富農)」の基準は下げられ、牛を2〜3頭所持しているだけでも「富農」として粛清の対象となった[17]。

1927年のウクライナの農村人口は2410万人、そのうちウクライナ共産党員は3万6360人だった[7]。1927年のウクライナでの「富農」、つまり「他人を労働力として雇って農業を営むクラーク」は、ウクライナ全体で全農家の4%、中農が65.6%、雇われた貧農は30.4%だった[7]。

1929年初め、クラーク撲滅は開始された。キエフ県のシャムパイフカ村では15人の農民が財産を没収され、3月に北部に追放された[70]。

1929年冬に農業集団化が開始され、12月に農業の集団化に対する農民の反抗を予期したスターリンは、「クラークをひとつの階級として抹殺する」と宣言した[52]。各地域に三人組の「トロイカ」が設置され、村人のうち富農に該当する者を逮捕していった。トロイカによって処刑されたものは約3万人にのぼった[52]。

クラーク撲滅運動に非協力的であったり抵抗した貧農や中農に対しては、家の外を不良がうろつき、脅迫したり誹謗し、郵便配達人には配達しないように指示し、そうした家の子供は学校から排斥され、共産党少年団(ピオネール)や青年団(コムソモール)から辱めを受けた[71]。病院では集団農場に入ったものしか診察を受けることができなかった[71]。

すでに1920年代に白海のソロフキ島(ソロヴェツキー諸島)に反ソ連分子・反革命分子を収容する強制収容所が設置されていたが、スターリンは1929年にこれをソ連全域に適用し、シベリア、ヨーロッパロシア北部、ウラル山脈、カザフスタンなどに「特別居留区」を設置した[52]。ウクライナでは、1930年の最初の4か月で、11万3637人が「富農」とみなされ、貨物列車に乗せられて、「特別居留区」へ強制移住させられ、強制労働に従事させられた[52]。1930年末までに「富農」と認定された農民は約20万人にのぼり、かれらは全財産を没収されて強制収容所に入れられた[7]。20万人とは、全農家の8%にあたり、実際の「富農」の数の倍にあたる[7]。「クラーク」とみなされ強制移住させられたものは170万人にのぼり、そのうち30万人がウクライナ人だった[52]。

1931年には「特別居留区」と強制収容所を、グラーグとして統合し、これはやがて476箇所建設され、最終的に1800万人が送り込まれた[52]。収容中に死亡したのは150万〜300万人とされる。ウクライナ農民はベロモル運河で強制労働に従事した[52]。ソ連当局は強制収容者の5%が死ぬと予測していたが、実際は10-15%が死んだ[52]。ベロモル運河での強制労働従事者は十分な食事ではなかったが、1933年のウクライナ農民の2倍〜6倍であった[52]。

二万五千組

1930年、富農撲滅のために二万五千組(二万五千人隊[7])が組織され、都市で2万5000人以上の党員が動員され、農村に派遣された[72]。この部隊に動員された武装した党員や労働者らは、「富農」撲滅運動を仮借なく展開した[7]。派遣された党員が、穀物の種子まで徴発したら種まきもできないではないかと指摘すると、共産党から除名された。[72]

ウクライナ共産党政治局員のM.M.ハタエーヴィチ(ロシア語版、英語版)[注釈 9]は、演説で「諸君はブルジョワ的人道主義を投げ捨て、同士スターリンに恥じないボリシェビキとして行動せよ。富農の手先が現れたら、ところかまわず打ちのめせ。戦争なのだ。彼らが勝つか、我々が勝つか。なんとしてでも、資本家の農場の最後の残りかすを一掃せよ!」「諸君の仕事は、どんな犠牲をはらっても、その穀物をとりあげることだ。彼らがどこに隠そうと、かまどのなか、ベッドのした、地下室、裏庭の穴、どこであろうと、それを見つけ出せ。党の特殊部隊である諸君をとおして、村はボリシェビキの厳しさを学ばねばならない」「これは諸君のやる気の最後の最後までの、そして諸君のチェキスト精神の最後のかけらへの挑戦なのだ」「これは生死の闘いだ」と鼓舞した[73][72]。

農業集団化の強制

農業集団化では村ぐるみで集団農場のコルホーズへの加入が強制された[8]。1930年に、農業集団化が開始すると、ウクライナ共産党幹部は、集団化に従わなければ強制移住になるとウクライナの農民たちを脅した[74]。当初、農民らは集団化に協力していたが、やがてOGPUは、ウクライナ民族主義者、ウクライナ人の知識人、集団化政策への反対者、そして反政府的であると見なした者を容赦なく処罰した。農業集団化に反対するものや穀物を供出しない者はクラークとみなされて全財産を没収され、強制収容所へ送られた[8]。豊かな土壌に恵まれたウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料徴発に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者の溜まり場として目をつけられていた[要出典]。

1930年、農民は蜂起し、ウクライナで100万の抵抗運動が起こった。何千人の農民がポーランドに逃げた[74]。

集団化政策の強行は減産を招いた。各集団に割り当てられた食糧を供出すると、農民たち自身の分は残らなかった。さらに、数々の条例が制定された。農産物は全て人民に属するものとされ、パンの取引や調達不達成が罪になった。落ち穂を拾ったり、穂を刈るだけでも「人民の財産を収奪した」という罪状で10年の刑を課せられた。

他方で、コルホーズの模範的労働者は「突撃作業員」「スターリン突撃作業員」とよばれ、スタハノフ運動者とともに、コルホーズ制度の強化を助けた[75]。「突撃運動」は、コルホーズ生産における前衛的役割とみなされた[75] 。
穀物徴発

1929年末、南ウクライナのザポリージア当局は、割当量の70-75%が中農と貧農から徴発されたもので、地元住民には1kgも残らないと報告したが、ザポリージャ州の書記は解任された[76]。

ソ連の計画では、土地から最大限の収穫高の獲得を目的としていたが、フルシチョフは機械的な割り当てを批判した。しかし、党幹部は、農民が徴発に応じないのは意図してやっていることであると反論した[76]。

ウクライナ共産党書記長コシオールは1930年夏、農民たちは取り入れを拒み、意図して飢饉をもたらし、ソビエト政府の首を絞めようとしている「農民たちは働いていない。彼らは、前年に収穫した穀物を穴蔵にかくし、それに頼っている。我々は、その穴蔵をどうしても開かせなければならない」と語った[76][77]。そうした「穴蔵」は1920年代初めにはあったが、とうの昔になくなっていた[76]。

1931年、飢饉の始まり

ウクライナと北クバーニ(北コーカサス)は欧州でもっとも豊かな穀倉地帯であり、両地域の収穫量はソ連全体の半数にのぼった[注釈 10]。

1930年の豊作と穀物調達の強化

1930年にも、ウクライナ、北コーカサス、シベリア、ヴォルガ流域では、1929年の穀物調達キャンペーンの結果、穀物危機と食糧難が発生していた[13]。しかし、1930年の天候は例外的に良好で、ソ連全体で7720万トン[注釈 11]という記録的な収穫を収めた[13]。ウクライナでも1930年の収穫高は良好で2165万トンの豊作だった[7]。

1930年の穀物の国家調達量は、1928年の2倍で、総収穫量の35-40%[注釈 12]となり、ソ連のそれまでの調達量よりもはるかに大きい2214万トンが搬出された[13]。1929年の徴発量は穀物3億プードであったが、1930年には4億6400万プードにのぼり、豊作は集団化の成功だと宣伝された[78]。スターリンは、この1930年の収穫高を基準として翌年の徴発計画を立てた[79]。

しかし、1931年の気候は良好ではなく、ソ連全体の収穫は6948万トン(前年は7720万トン)に落ち込んだ[13]。ウクライナでも1931年の収穫は1400万トン(前年比の65%)、4億3400万プード[78]に落ち込んだ[7]。収穫は落ち込んだにも関わらず、1931年の穀物調達量は引き上げられた。ヴォルガ下流域では1930年の穀物調達量は1億80万プードであったのが1億4500万プードへと引き上げられ、ヴォルガ中流域でも1930年に8860万プードであったのが1億2500万プードへと引き上げられた[13]。

目標が引き上げられたために、食料までも徴発されるようになり、地方権力はコルホーズと農民からすべての穀物を掻き出していった[13]。穀物が盗まれないように山に積まずに直ちに脱穀し、倉庫に保管せずに直接調達地点に運ぶというコンヴェーヤー方式で徴発が行われた[13]。しかし、保管がうまくいかず、大量の損失が生じた[13]。また、課せられた計画を超える追加義務を生産者(コルホーズ)が自発的に自ら引き受けたとみなされた「呼応計画」も実施された[13]。

1931年の不作に対して、ソ連当局は、目標を達成していない集団農場に、作付け用の種子の差し出しさえも命じた[79][注釈 13]。こうして農民は生産制度から強制的に排除されていった[3]。そもそも、集団化政策では、農民は農産物の源泉としてみなされ、農民の利益は考慮されなかった[13]。それどころか、農民は自ら穀物を生産しているにも関わらず、自分達の食糧分を確保することも許されなくなくなった[3]。

北カフカーズでも播種用の穀物や飼料、食料用の穀物まで国家に供出することが命じられ、1931年春には深刻な食料難が発生した[13]。

畜産の崩壊

穀物調達によって飼料が不足し、家畜も減少した[80]。660万頭の馬が斃死し、馬と雄牛の総数は1928年に2740万頭であったのが1932年には1790万頭に減少した[80]。これにより馬一頭あたりの労働負荷があがり、耕作の質が低下した[80][注釈 14]。

さらに、1931年7月30日、党中央委員会・ソ連人民委員会議は「社会主義的畜産の展開について」を決定し、集団化の名目で農民から家畜を没収していった[80]。反発した多くの農民はコルホーズから脱退し、家畜を殺害した[80]。これにより、食料の安全の基礎まで掘り崩していくことになった。[80]。家畜の減少によって、畜産物も減少するだけでなく、家畜による索引力が低下し、農耕の質も低下していき、1932年春までに農村での畜産は崩壊した[80]。

1931年の富農の「特別定住地」への追放

ウラル山脈西側のペルミにあったGULag(グラーグ、強制労働収容所)の一つPerm-36。クラークが強制移住させられた「特別定住地」はグラーグの一種であり、同様の施設にはクラーク、農民だけでなく、少数民族、反ソ連分子とされた共産党員、戦争捕虜など様々な人間が収容された。第二次世界大戦の終戦後には日本人も約57万5000人がシベリア抑留で同様の強制収容所に収容され、うち約5万5000人が死亡した[81]。

「ソビエト連邦における強制移送」および「グラーグ」を参照

ソ連政府の政策に不満を持った農民は「クラーク」とみなされ追放された[13]。1931年3月18日、2000人の富農がロストィを出発した[82]。同年5月26日、富農の家族3500人がウクライナのザポリージア州のヤンツェノヴォを出発し、6月3日にシベリアに到着したが、輸送中に15-20%、特に子供が死亡した[82]。

1931年5月、西シベリア地区委員会は、3月に強制移住させられてきたクラークはほとんど財産を持っていないと報告しており、この年には共産党も「富農」には該当しない人々が間違えて「富農」とされていることや、「富農」の発見が難しいことを党機関紙プラウダは認めざるをえなかったが、その原因を活動分子が中農が急に富裕になることを見抜けなかったためであると説明した[59]。

ウクライナの追放された人々は、途中のアルハンゲリスクやヴォーログダでおろされることもあった[82]。接収された教会が収容所となったが、助けを求めて街をさまよっても、住民は助けることを禁止されており、誰も助ける者はいなかった[82]。駅の近くの公園などで毎朝死人が出た[82]。

シベリアに到着しても、雪のなかに放置され、力のある者は眠らずに小屋を立てた[82]。シベリア中部のクラスノヤルスク近郊の収容所には、建物がなく、有刺鉄線がはられ、見張りがいただけだったが、4000人が収容され、半数が二ヶ月で死んだ[82]。1931年9月にシベリアの収容所に送られた4800人は、そのうち2500人が翌1932年春までに死亡した[82]。シベリア北部のナルィムには1932年はじめ、富農19万6000人が追放されてきたと党員の記録にある[82]。

こうした「特別定住地」は、ロシア北部のアルハンゲリスク、ヴォーログダ、コートラス周辺にあり、とくにグラゾヴェツとアルハンゲリスクとの中間地帯には巨大な収容所があり、200万人のウクライナ人が収容され、そのうち半分は子供だった[82]。公式記録でも、30年2月時点でロシア北部に追放されたのは7万戸に達し、およそ40万人にのぼった[82]。そのあとも増え続け、1926-1939年までにカレリア – ムルマンスクの人口は32万5000人、北東部で47万8000人、ヴャートカ(キーロフ)では53万6000人増えた[82]。

北部以外では、ウラル山脈南東部のマグニトゴルスクでは5万の労働者のうち18000人が追放された富農だった[82]。

1931年後期

1931年の穀物調達によって穀物がなくなり、前年の食料難を生き延びた農民たちは、働く意欲をなくし、また家畜減少による農耕能力の低下によって農耕もできなかった[80]。1931年秋から32年春にかけて、サボタージュ(ヴォルインカ)が国中のコルホーズで発生した[80]。

スターリンは、富農の怠惰と闘い、富農と農民を無知と偏見から解放し、社会的良識のある労働者に変える闘いを開始し、「穀物のための闘争は社会主義のための闘争である」と宣言した[78]。スターリンは農民が穀物を隠しているとみていたが、ウクライナの農民は本当に何も持っておらず、1931年末にはすでに多くの農民が飢え始めた[79]。年が明けても、種子がないので作付けできなかった。

コルホーズを脱退した農村の若者は都市へ移住し、工業地帯への無許可の出稼ぎは、ソ連全体で1931年10月から1932年4月までに69万8342人に達した[80]。

1932年

政府は、輪作を導入せず、堆肥や肥料も入れず、種播面積を拡大させるばかりであったために、穀物の多くが病気になった[80]。1932年のウクライナ、北カフカーズでは、除草労働も悪化し、雑草が重圧となった[80]。家畜減少による索引力の低下によって、北カフカーズでは通常は春蒔きは一週間程度なのに、1932年には30日-45日に長引いた[80]。

1932年2月13日、ソビエト労働防衛委員会(ロシア語版、英語版) (STO) の下に徴発委員会が設立された。 2月21日、「新収穫の種を契約する」という指令が出された[78]。

1932年の飢饉では、収穫の取り入れでの損失もひどく、1931年の取り入れでの損失が1500万プードであったのに対して(総生産量の20%)、1932年の損失は、ウクライナでは1億-2億プード、ヴォルガ流域では7200万プード(総生産量の35.6%)に達し、収穫の半分以上が耕地に取り残された[80]。

コルホーズからの大規模な脱退のピークは1932年の前半で、ロシアで137万800人、ウクライナで4万1200人のコルホーズ員が減少した[80]。1932年春夏にウクライナ農民がコルホーズから大規模に逃亡したことは、スターリン政権の政策が厳格化した原因ともなっていった[83]。

飢饉の報告とソ連政府の対応

ラーザリ・カガノーヴィチウクライナ共産党第一書記(1925-28年)、ソビエト連邦共産党中央委員会書記(1928-39年)
ヴャチェスラフ・モロトフ人民委員会議議長(首相)(在任1930-1941年)

1932年春にはすでに飢饉が発生しており、ウクライナ農民には一人当たり約113kgの穀物しか残っていなかった[76]。ウクライナ共産党員も餓死の報告と飢饉の危険を訴え、ソ連当局にも飢饉の報告はあがっており、6月にはハルキウのすべての地区での餓死が報告された[79]。

飢饉が報告されると、党中央と地方指導部との間での責任転嫁も起こった。スターリンは1932年はじめには、ウクライナでの食糧危機の原因の責任は地方指導部にあり、地方指導部が工業ギガントに熱中するあまり穀物調達計画を地区とコルホーズに均等に割り当てたためだと考えていたが、ゲ・イ・ペトロフスキーらウクライナの指導者らは、飢饉の責任は党中央にあるとした[83]。

5月にはソ連人民委員会議、党中央委員会は、穀物と食肉の国家調達目標を削減し、調達を完遂した場合は穀物の自由な商業や、納入を完遂した場合は食肉の自由な商業を許可した[80]。しかし、コルホーズには販売する穀物が残されていなかった。[80]

6月に、ウクライナのコルホーズ員が逃亡し、「泣き言と愚痴で」他のコルホーズを崩壊させているとの通報を受けたスターリンは、農民の抵抗を砕こうとする志向を強め、「農民の狡猾さの予防を図る」ためにと農民政策を厳しくした。[83]。同時期に日本が満州に進出し(満洲事変)、ドイツではヒトラーがソ連で飢えているドイツ人の援助を訴えたことは、スターリンの不動の断固たる態度を強めた[83]。

6月18日のソチ発カガノーヴィチ、モロトフ宛指令では、穀物調達目標を低めることを禁じた[83]。6月21日に、スターリンとモロトフ人民委員会議議長(首相)は、ウクライナ共産党に宛てて「穀物提出の計画からのいかなる逸脱も許さない」と通達した[3]。共産党新聞プラウダは、ウクライナへの不満をしきりに報じ、7月にはスターリンがふたたび770万トンの供出を命じた[76]。

同7月のウクライナ共産党の第3回大会でミコラ・スクリプニク(英語版)、チュバーリ、コシオールらは苛酷な徴発がウクライナ農業を破壊しているため、穀物徴発計画の見直しを党中央本部に上申したが、無視されたり、またそのような党に逆らう意見は「ブルジョワ的偏向」だとして断罪された[7][76]。モロトフは未来に対する計画を非難することは「反ボルシェビキ的」で、「党と政府が決めた仕事を完遂することになんの譲歩も、なんの躊躇もあってはならない」と反論した[84][76]。ウクライナ共産党のR.テレコフが1932年にハリコフの惨状を訴えると、スターリンは「飢饉の作り話をするなら作家になれ」と回答した[7][85]。

スターリンは非公式に飢饉を認めたともされるが、計画通りに穀物の徴発を続けるよう命じた[79][注釈 15]。

スターリン、モロトフ、カガノーヴィチらは、飢饉の原因について以前はクラークが穀物を隠していたためと説明してきたが、ウクライナでの飢饉の原因はウクライナ人にあると主張した[86]。スターリンは飢饉の原因は農業集団化政策でなく、ウクライナの農民が「めそめそ泣いて」ソビエト国民を混乱させていると不満を述べた[79]うえで、カガノーヴィチ、モロトフなどの忠実な盟友に「ウクライナの不穏分子を叩き潰せ」と命じた[79]。1932年7月ハルキウでのウクライナ共産党中央委員会総会における現地の飢饉の報告に対して、カガノーヴィチとモロトフらモスクワ特使たちは報告者を黙らせた[79]。他方、8月11日にスターリンは、カガノヴィッチに「われわれはウクライナを失うかもしれない」とも吐露した[3]。

スターリンは、飢饉をウクライナの民族主義者によるものとみなし、1932年前半にウクライナOGPUは179人を摘発し、562人の参加者のいる35のグループを一掃した[83]。

1932年夏にはカザフスタンでも100万人が餓死し[79]、耕地からの穀物の窃盗が頻発し、農民の都市への移住、大規模な離村が広がり、コルホーズも解散されていった[80]。こうした現象をOGPUはコルホーズ財産の持ち去りとして報告した[80]。農民は共同給食が保証されなければ農作業しないと拒否し、1932年前半には1525件の大規模な騒擾も発生した[80][注釈 16]。

社会主義財産保護法

1932年8月7日にはスターリンが法案を執筆した「国営企業、コルホーズ、協同組合の財産保護、および社会的(社会主義的)所有権の強化について」が布告された[87]。この社会主義的財産保護法(コルホーズ財産保全法)によって、コルホーズの農産物はすべて国家の財産(社会主義的財産)であるため、許可を得ずにこれを窃盗した場合は、「人民の敵」とされ[87]、全財産没収をともなう死刑、または10年以上の自由剥奪となり[88][7][6]、子供でさえ射殺または投獄される可能性があるとされた[89]。収穫された穀物は「社会主義の財産」とみなされ[88]、食料の備蓄なども「窃盗」とみなされた[7][6]。この法は「5本の穂の法」(英語:Five Stalks of Grain)とも呼ばれた[90][89]。スターリンは1933年1月にはこの法をもって「革命の法的基礎」にすると述べた[87]。1933年初めには、この法によって、約54,645人が裁判で刑を宣告され、うち2,000人が処刑された[89]。

地方権力は社会主義的財産保護法によって銃殺された農民のリストを公表し、見せしめとした[80]。ウクライナ、クバン、沿ヴォルガでは、成績の悪い農民を公表する「黒板」が設置され、成績優秀者は「赤板」に掲示された[91]。「黒板」では、農場や村だけでなく、地区全体が指定されることもあり、商店や製粉所の閉鎖や、付属地の没収などの措置が適用された。穀物供出の義務を果たせなかった集団農場は、工業製品の購買が禁止された[91]

ウクライナの共産党新聞では「組織的に穀物を掠め取った富農たち」の処刑記事を次々に掲載し、ハリコフ州では50件が、オデッサ州では3つの事件が報道されたが、そのほとんどが小麦窃盗事件だった[87]。コパニ村では富農と準富農の集団が倉庫に穴をあけて、小麦を盗んだために二人が銃殺となり、ジトーミル州では10歳の少女が畑で10kgの小麦を持っていたために、その父が銃殺された[87]。ジャガイモの盗みで10年の刑が下された[87]。

1932年中頃、ウクライナ農民300万人が都市への移動をはじめ、外国の共産党員は「彼らはパンとじゃがいもが欲しいだけ。」「人々はいたるところで盗んでいる。」と非難した[92]。農民は都市へ出たあと装飾品や絨毯などと食糧を交換した[92]。

1932年8月、スーミ州のミハイリフカ村では、コルホーズ議長が農民の同意なしに穀物を供出できないと述べたために逮捕された[87]。翌日、暴動が起きて議長の釈放や割り当て減額などが要求されたが、67人が逮捕されて有罪となり、議長ら数人が銃殺された[87]。村の役人が飢えた農民に食糧を与えると、「食糧の浪費だった」と党は報告した[76]。

1932年10月12日、OGPU長官代理のA.アクゥーロフ(ロシア語版、英語版)とM・M・ハタエーヴィチ(ロシア語版、英語版)が二度目の徴発を行った[76]。

ポルタヴァ州のカルシン村では妊娠中の女性が小麦を引き抜いたために板で打たれ、死亡した[93][94]。ビリスケ村では、夜中コルホーズのじゃがいもを掘っていた母親が射殺され、残された三人の子供は餓死した[95][94]。別の村では、とうもろこしを拾った者が鞭で打たれて死んだ[96] [94]。また、ある活動分子は農民の家宅捜索で樹皮や木の葉を小麦にまぜた袋を見つけると、池に投げ捨てた[96][94]。墓地には、遺体だけでなく、瀕死のものも放置され、数日生存していたこともあった[96][94]。スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた[要出典]。

他方で、共産党員や活動分子などは食糧の割り当てもよく、ポグレビーシチャでは共産党官僚のための食堂ではパン、肉、フルーツ、菓子、珍味などが供され、飢えた農民が侵入しないように警察が護衛した[94]。また、農婦たちは、共産党員の官吏相手に売春をして食糧を得た[94]。

共産党青年団・少年団による徴発と弾圧
「コムソモール」および「ピオネール」を参照

農民からの徴発には、15歳から35歳の若者で組織されたコムソモール(共産主義青年団)や、10歳から15歳までの児童で組織されたピオネール(共産党少年団)が動員された。

都市から農村へ派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれた。告発が奨励され、子供が肉親を告発して、食物や衣類やメダルが与えられた[97]。コルホーズ財産保全法が発効すると、ウクライナ各地の畑には監視塔が設置され、オデッサでは700の監視塔が設置された[6]。

当時、コムソモールは共産党への奉仕組織であり、汚職を告発するスパイと密告者の養成機関でもあった[98]。コムソモールはかたっぱしから農家を捜索し、穀粒にいたるまで持っていき、調理中の夕食まで持っていった[6]。青年団の徴発部隊は、農民同士にボクシングや犬のまねをさせたり、盗みを働いたとされた女性を裸にして村中を引き回した[6]。徴発部隊は、ひとり暮らしの女性の住居に「穀物徴発」の名目で夜間に侵入し、強姦した[6]。こうした農民への虐待は、革命的かつ進歩的な「人民の敵」との戦争(階級闘争)であるとして正当化された。コムソモールでは、家族への愛情よりも、革命への忠誠心が優先され、親や教師のなかに紛れ込む「階級の敵」の摘発が義務とされ、大学や学校では「反革命派」を裁いた[98]。当時農家を「告発」していった若者たちは、1905年-1915年生まれの世代で、「革命」の英雄時代に対して極度にロマンチックなイメージを抱いており、ブルジョワ的な富と娯楽と私有財産を徹底的に拒否し、個人の幸福にこだわることは恥とみなし、コムソモールメンバーであることは輝かしい社会貢献とみなされた[98]。この世代のチェーカーの一人は、父親の金物店を捜索し、その財産を押収した[98]。

また、ピオネール(共産党少年団)の子供50万人も「共産党の目と耳」になることを命じられ、畑を監視し、穀物を盗むクラークと戦っているとされた[14][注釈 17]。ピオネールは、二、三個のとうもろこしを拾った女性を逮捕して極北の強制収容所に収容し、クゥバーニ川のウスト・ラビンスクのコルホーズでは、盗みの疑いのあるクラーク住民のリストを報告するなど、各地でクラークを逮捕し、そのたびに表彰された[97]。少年パブリク・モローゾフは、ゲラシーモフカ村の村ソヴィエト議長の父をクラークとして告発し、父親は労働収容所に送られた。パブリクは叔父たちに殺害されたが、死後英雄として表彰された[99]。1934年には、穀物を隠し持っている親を通報した児童が続々と表彰された[97]。

しかし、こうした徴発を強化しても、収穫高があがることはなかった。1932年10月には、スターリンに忠実なモロトフでさえ、割り当てを減らすよう進言した[6]。

スターリン夫人自殺事件以後の徴発強化

1932年11月9日にスターリン夫人アリルーエワが自殺すると、スターリンはいっそう悪意を強め、サボタージュが疑われた集団農場の職員1623人が逮捕され、年末までにウクライナ人3万400人が流刑地に送られた[6]。スターリンは集団化による飢饉は「作り話」で「悪意ある噂」であるとみなし、飢え死にしかけている農民は、ソ連の信用失墜をもくろむ資本主義国の手先であるとした。[6]

11月18日、ウクライナ農民に、余剰穀物の「返還」が求められ、共産党の徴発部隊と警察が熱心に捜索した[6]。11月20日には、割当量を納められなかった農民は肉(家畜)で支払うことを義務づけられた[6]。

11月27日、スターリンはこの一年の穀物調達の困難の原因は、反ソ分子がコルホーズやソフホーズに侵入し、村の共産主義者が非マルクス主義的な対応をしたためだと非難し[100]、徴発に抵抗しつづける農民に鉄槌を打つことを命じた[3]。同日、ソ連国内で未収となっている穀物の3分の1が、ウクライナに割り当てられた[6]。翌11月28日、ソ連はブラックリストを導入し、割当量を納められなかった集団農場は15倍の分量の即時納入を義務づけられた[6]。

共産党新聞プラウダは12月4日と8日にクラークとの断固とした戦いを要求した[100]。12月5日に、フセヴォロド・バリツキー(英語版)内務人民委員部ウクライナ支局長の進言で、ウクライナ飢饉は民族主義者による陰謀であるとされ、徴発で責任を果たさなかったものは国家に対する裏切り者とされた[6]。翌1933年1月までにバリツキーは、違法組織を1000以上発見したと報告した。農民をかばった者は敵とみなされ、有罪判決を受けた。

12月6日、ウクライナソビエト政府は、ドニエプロペトロフスク州、ハリコフ州、オデッサ州で穀物徴発にサボタージュした村に対して、物資供給の停止、国家との取引停止、コルホーズの取引の完全禁止、外国人と敵対分子の調査と追放、そして反革命分子の粛清などの制裁を課した[92]。12月14日には、ウクライナ共産党に潜む民族主義者を強制収容所に送ることが許可され[6]、翌12月15日、ドニエプロペトロフスク州、ドニエツ州、チェルニーギフ州、ハリコフ州、オデッサ州の88地区の住民はソ連北部に強制移住に処された[92]。

12月下旬、ウクライナの死亡者数は数十万人に達した[6]。しかし、スターリンは動じることなく、12月21日に徴発量の年間割り当て量を決定し、翌1933年1月までに徴発するよう命じた[6]。カガノーヴィチがウクライナに到着すると、翌朝までの会議で徴発目標の達成決議が出された[6][注釈 18]。

12月27日、中央執行委員会は都市住民にパスポートを義務化した[78]。これは、農民の都市への流出を抑制させて都市の負担を軽減すること、そしてクラークによる犯罪の撲滅を目的とした[78]。この国内パスポート制度は、比類なき国家全体主義をもたらし、新しい農奴制の基盤を提供し、農民達は農奴さながらに村や集団農場に縛りつけられたた[78]。 無許可で農村を去った農民は「富農」であるとされた[78]。

1932年末、クバンのコサック村では、調達をサボタージュしたかどでまるごと追放された[80]。

1933年

国内パスポート制度と国境封鎖

スターリンは、飢饉から逃れようと都市部に流入する農民を監視するために、革命で廃止された帝政ロシア時代の監視制度である国内身分証明書(パスポート)制度を復元させた[101][注釈 19]。

1932年末から1933年初めにかけて国内パスポートが義務づけられたが、コルホーズ農民やかつての資本家や元貴族など[注釈 20]には国内パスポートが交付されなかった[88][6][103]。1933年1月14日以降は、都市部住民に国内パスポートの携行が義務付けられ[6]、これにより、農民は移動を禁止され[103]、仕事をもとめて都市に行くこともできなくなった[88][注釈 21]。同時に、スターリンは、ウクライナの国境を封鎖して、農民の汽車旅は禁止され[3]、農民が外へ逃げられないようにした[6]。合同国家政治保安部の武装分遣隊が旅行者を検査し、旅行許可書を持たないものは拘束され、キエフに返送された[104]。ソ連がウクライナとロシアとの国境に軍隊を駐屯させてウクライナを封鎖した目的は、ウクライナに穀物が流入することを阻止するためだったともされる[104]。

また、1933年1月にはコルホーズに機械技術を提供するMTS(エム・テー・エス、機械・トラクター・ステーション)と政治部がソフホーズに設置され、政治部は、コルホーズの役員や党員を多数逮捕したり、更迭し、監視を強めた[88]。

1月22日に農民の国外脱出が報告されると、スターリンは逃亡農民を「資本主義国家の陰謀の手先」であるとし[6]、同日付けでスターリンとモロトフは、コルホーズからの逃亡を禁ずる指令を、ウクライナと北カフカーズに出した[11]。同年2月だけでOGPUの国境警備部隊は、村を逃げ出そうとした22万人のウクライナ農民を逮捕し、そのうち19万人は村に送り返されて死刑となるか、残りはグラーグへ強制移住させられた[3][注釈 22]。同年3月はじめまでにコルホーズから逃亡したとして21万9460人が逮捕され、うち18万6588人が強制送還され、残りは裁判にかけられ、有罪となった[11]。

1933年3月17日付けでソ連中央執行委員会・人民委員会決定は、コルホーズ員が出稼ぎをする際には、出先との契約を事前に管理部に登録することを義務づけた[11]。しかし、こうした事前の契約はほとんど交わされることはできなかった[11]。無届けのまま出稼ぎに出た場合は、本人およびその家族はコルホーズから除名され、食料前渡しを受け取る権利も剥奪され、コルホーズで働いた賃金や、家畜、農具などの資産を受け取る権利も剥奪された[11]。

都市へ逃げることができた場合でも、多くが助かることもなく、次々と死んでいった。キエフで死にかけていた女性農民にはウジが湧いていたが、農民を助けることは法律で禁止されていたため誰も助ける者はいなかった[105][106]。スターリン政府は、乞食を厳しく取り締まり、乞食した場合は、地方の境界外へ追放された[11]。さらに、都市の労働者、軍人、隣接する地方住民は、自分達の配給を飢えたコルホーズ員に差し出すことを禁じられた[11]。1933年のポルタヴァやキエフなどの都市では逃げてきた農民が毎日150人も死亡し、遺体が毎朝片付けられ、中にはまだ息がある人もいたが、連れて行かれた[106]。飢饉の影響によって、キエフでも物資は不足したが、国家官吏、共産党委員会長、OGPU係官、軍将校、工場長らは「閉めた店」で買うことができた[106]。

飢饉の本格化

1933年1月から3月にかけて、さらに種子の徴発がすすめられ、集団農場はなにも栽培することができなくなった[6]。そのため、ウクライナでは、耕作されない畑が増え、雑草だらけの畑も増えてきた。

1933年1月の党中央委員会総会、2月の第一回全連邦突撃コルホーズ員大会において、スターリン政権は、飢饉の責任は、地方権力とクラーク(富農)、「怠け者のコルホーズ員」に帰せられると発表した[11]。2月にカガノーヴィチは「雑草が生えているのは、農民が耕さないからだ」と農民を非難し[107]、全ソ農業人民委員会のA.ヤーコヴレフは、ウクライナの農民は過去の怠慢の責任をとるべきだと演説で語った[100]。スターリンは、2月19日に「働かない怠け者は飢え死にが当然である」と主張し[3]、2月の第一回全ソ連コルホーズ突撃作業員(ウダールニク)大会では、飢饉に一言も触れず、「すべてのコルホーズ員を裕福に」とスローガンを掲げた[85]。

1933年3月に飢饉は本格化した。体をむくませ、排尿も自制できなくなった人々が増えていった[108]。人々は、ネズミ、スズメ、マーモット、アリ、ミミズ、動物の骨のほか、靴底に使われている皮を切って麺のようにして食べ、タンポポ、ごぼう、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ、ボダイジュ、アカシア、ギシギシ、カタツムリの汁を食べた[108]。アワとソバの籾殻でケーキを作ったり、牛の骨を溶かして食べ、雑草で作ったビスケット、馬の飼料さえも人が食べた[37]。鶏と家畜を食べたあとは犬と猫を食べ、どんぐりにぬか、じゃがいもの皮をまぜてパンを作った[37]。村では、とうもろこしの茎や葉、樹皮、植物の根などのみを扱うバザールが開かれた[108]。川で魚をとることは禁止されており、目撃されると逮捕され、有罪となった[109][108]。メルニキでは蒸留酒製造所から出た家畜も食べないような生ゴミを食べる農民もいた[110][108]。この頃、エンバクや、フダンソウといった飼料を「悪用」すると「10年は強制収容所へ送られる」と言われた。1933年春にはウクライナで1日1万人の割合で人が死んでいった[12]。

1933年当時、レンガタイル工場などの工業分野では農民の雇用は禁止されていたが、鉄道工事、砂糖工場、国営農場での臨時雇用が時々あった[106]。これに多数の農民が応募したが、働く力がなく、その多くが報酬である最初の食事をすませたあとで死亡した[106][注釈 23]。

1933年4月、パンの配給がはじまったが、農民は法的に買うことができなかった[106]。

集団化政策とクラーク清算によって、農村の伝統的なシステムが破壊され、従来、飢饉の際には人々を救援していた富農も存在しなくなっており、農民たちは私的な援助を受けることもできなかった[11]。また、集団化によって家畜が共同化されたため、農民は家畜を売って食料を買うこともできず、家畜の多くは飼料がないために斃死していった[11]。さらに、スターリン政府は、家庭菜園や庭畑さえも統制し、住宅付属地で栽培された農産物は、国の義務を果たしていないとして、没収された[11]。

強制収容所(グラグ)への収容

1933年2月から4月までに農民15000人が強制収容所グラグに送られた[12]。ロシア共和国内クバン地方のウクライナ人も6万人が強制追放され、1933年内にはさらに14万2000人のウクライナ系ソビエト国民がグラグに送られた[12]。グラグでは、1933年に少なくとも6万7297人が栄養失調や病気で死亡した[12]。特別居留区では24万1355人(その多数はウクライナ人)が死亡した[12]。ウクライナからカザフスタンや極北に送られる途中でも多くが死に、遺体は列車からおろされ、その場に埋められた[12]。

1932-33年にアルハンゲリスクに強制移住させられた家族の子供は学校の給食や衣服の配給を受けることができなかった[63]。

孤児・浮浪児

飢饉で親が死ぬと、子供は孤児となり、浮浪児(ストリートチルドレン)となった。

1933年3月、ポルタヴァ駅の貨車に群がっていた浮浪児たちは貨車に詰め込まれたあと、代用コーヒーとわずかなパンを与えられるとバタバタ死亡したので埋葬された。こうしたことは当時、普通のことであったと駅の労働者は語っている[111]。

ある男は、妻が子供に食事を与えるのを咎め、隣人が子供にミルクを与えるのをみると、隣家は食料を隠しているようだと共産党に告げ口をするなどしたが、やがてこの男もその子供も死んだ[112][113]。

ウクライナ中部のポルタヴァ州チョルヌーヒでは、元赤軍兵士から頼まれて子供4人を預かった地区長は、子供たちを孤児院に預けたが、うち2人はすぐに死に、父親も数日後自殺した[114][113]。ポルタヴァ市では、子供の肉を解体する処理場をGPUが発見した[115][113]

浮浪児は鳥、魚、猫などを捕らえて食べ、不良少年グループをつくり、泥棒となり、犯罪集団ウールカに加わった[113]。1921-22年の飢饉のときには、ヴォルガ川流域だけでも500万の子供が救済をうけ、1923年には100万が救済された[113]。

1934年春、6人の子供がいた家庭では、残りの利口な子供3人のために3人が殺された[113]。両親が死亡した子供たちもどうすることもできず、ある家の14歳の少女と2歳の弟は、鮭にように床を這い、体はもはや人間とは思えないほど痩せていた[113]。1934年6月、クリジフカとブジシチャの草むらで10歳と7歳の子供が発見されたが、引き取り手は誰もおらず、野良猫のように死んでいった[116][113]。

共産党は、浮浪児が増えているのはクラークの策略であり、クラークは子供たちを都市に送り込むために都市の児童施設が満杯になっているとし、農村の労働者たちは、クラークと戦うどころか、それに共感さえ覚えていると批判した[117][111]。当時、都市のホームレスの子供の75%が農村出身だった[111]。また、教育人民委員会のM.S.エプシュタインはホームレスの急増は資本主義国の特徴で、アメリカでは20万人のホームレスがおり、小年感化院、収容所などで子供は虐待されており、それに比較すればソ連は立派に対応していると報告した[111]。

ウリャニフカでは「子供の収容所」が設置され、骨のようになった2歳から12歳までの児童が収容されていた。「誰が子供の世話をするのか」と教育人民委員が質問すると、共産党の役人は「党と政府です」と回答したが、毎朝、子供の死体が移送された[111]。死体を運ぶトラックから、まだ生存していた少女が発見されたこともあり、チュルヌーヒの「子供の家」で預かった[111]。

1935年5月31日、浮浪児対策法が出され、NKVD管理下で隔離所が設置された[111]。

北カフカースのマイコプ近くのヴェロヴェシチェンスク子供受刑者収容所では、児童が16歳になると、チェキストとして訓練を受けるために内務人民委員部の特別学校に送られた。[111]。

餓えの果ての人肉食

白海・バルト海運河で強制労働中の収容者(1932年)

食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死している。赤ん坊を食べた事例さえもあった。通りには死体が転がり、ところどころ山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業のため都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。子供を持つ親は誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなくなった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村やソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった[要出典]。
ウクライナでは家族同士で殺害してその人肉をたべることが頻発した[14]。これはOGPUでも記録されており、親が子供を殺してその肉を食べたあと、その後やはり餓死したり、別のケースでは母親が息子を殺して、娘と二人でその肉を食べ、別の家では、息子の嫁を殺して、その肉を食べたりし、さらには人肉を取引する闇市場も登場したとも伝わる[14]。当時の飢饉を体験した生存者が2007年にBBCのインタビューに答えたところによれば、一家全滅したため葬式もなかった家族がいたり、近所の家族が次々となくなっていくなか、樹皮や木の根なども食べて飢えをしのいで生活していたが、ある日、母親から「(子供たちが使っていた)近道にある家の老人が孫を殺して食べた後、その老人が息子に殺された。それから、司祭の家の隣人も子供たちを殺して食べた」と聞かされたという[118]。

ウクライナでは1932年から1933年にかけて2505人が、人肉食(カニバリズム)により有罪となった[14]。人肉食を犯した者は銃殺もされたが、強制収容所へ収容されることもあり、325人の人肉食い犯(男75人、女250人)が白海・バルト海運河収容所で強制労働に従事した[119]。

情報統制

1921年飢饉の時には、国内ですべての新聞が報道し、ARAによる国際支援[3]も実施されたが、1932-33年の飢饉では報道は禁止され、国際支援も実施されなかった[85]。それどころか、ソ連政府は大飢饉は発生しておらず、外国からのウクライナ救援食料は不要として拒絶し[3]、大飢饉という事実そのものが公式に否定された[85][3]。

ソ連内で飢餓について報道は禁止され、飢餓に言及した場合は、反ソ連的プロパガンダ罪で逮捕され、強制収容所に5年以上入れられた[119]。チェルニーギフ州ニージンの中学で生徒が「空腹」を口にすると「ヒトラーのプロパガンダ」だと叱られた[119]。老いたリベラリストが死んで「飢え」という言葉が使われると、「反革命だ」と活動分子から批判された[119]。農学者が村での飢饉を口にすると、「ソ連には飢饉など存在しない。噂を信じているのだ」と役人から反論された[119]。

ただし、この時期に旅行者や記者が通りにころがるいくつもの遺体を目撃しており、ある兵士は、列車に飢えた人々が群がり、追い払われても、また押し寄せたので、兵士が食事のときに食べ物を分けてやることもあったと記録している[108]。

ロシア人の移住

各地の労働力不足は、都市から学生や軍の兵士も動員され、外から補給された[120]。空になった農村にはロシア人が移住した[121][120]。移住したロシア人には一ヶ月に小麦50ポンドの配給をもらっていた[120]。

ハリコフ州のムラファ村では、ウクライナ人の孤児たちが死んだ親と生活していた家に、移住してきたロシア人が住んだ[120]。孤児たちがロシア人の子供に「泥棒、人殺し」と罵ったことに理解を示した村の教員は、その責任を問われ12年の強制労働の刑となった[120]。

1933年5月27日にはハリコフで警察が、給食に並んでいた数千人の農民を貨車に載せてリソヴェ駅近くの窪地に連行して、餓死するまで放置した[106]。

6月にはカリーニンは、穀物不足は農民が怠けるからだと報告し[107]、1933年6月17日、スターリンはウクライナに対して、去年の過ちを繰り返せばもっと極端な対策をとらざるをえなくなると通達した[120]。オデッサ州の委員会が地元住民にも小麦を渡すべきだと進言すると、ボリシェヴィキは、国家への供出を後回しにすることはできない、富農への同情は「プロレタリア国家の敵の利益に奉仕すること」だと批判した[120]。共産党新聞は、農民のためにパンを作ったコルホーズ議長を告発し、この議長は裁判に訴えられた[120]。

穀物の備蓄と廃棄

1932年のソ連の穀物総生産は1931年より悪くなく、また、1926-30年の平均値よりわずか12%しか低くなく、飢饉といえるほどの収穫減ではなかった[120]。1932-33年の飢饉の原因は、穀物の収穫高の減少ではなく、徴発が44%も増えたことが原因であり、責任がスターリン政権にあったことは明白であるとコンクエストは指摘する[120]。徴発された穀物には、農民の食用分の少なくとも200万トンが含まれていた[120]。

コンドラーシンによれば、集団化政策では、穀物は国のための資金獲得の源泉としてのみ見なされ、飢饉への備えは問題にされることはなく、1933年までのコルホーズでは、穀物の備蓄はなかった[11]。1933年2-7月の飢饉のピークの時期に、政治局と人民委員会議は食料用に32万トンの穀物を交付する布告を採択した[11]。しかし、支援はコルホーズ員のみに限定されており、さらにノルマを達成しない限り、食料は交付されなかった、または著しく減らされた[11]。こうして、食料援助は、農作業を目標どおり遂行させるために利用され、コルホーズ員にとってもはや援助ではなかった[11]。結局、スターリンは国家の備蓄分199万9700トンのうち1グラムさえも食料援助に回さなかった[11]。コンドラーシンは、もし1933年前半に飢える人々に一人あたり100キログラム与えられていれば、少なくとも2000万人が餓死しなくてすんだという[11]。

また、コンクエストによれば、穀物倉庫には「国家備蓄」としてストックがあったが、保管された穀物が農民に配給されることもなく、さらに腐ったために大量に廃棄されたこともあった[120]。ポルタヴァ州の倉庫は満杯だったが、備蓄分は農民に渡されなかった[92]。同州のレシェチリフカ駅では備蓄された穀物が腐り出したが、OGPUによって警備され、1933年4月−5月には、飢えた村民が倉庫を襲撃したために銃殺された[92]。ルボチノ地域では、数千トンの備蓄分のじゃがいもが腐りはじめたため、アルコール合同企業に移管されたがもはや原料としても使えなかった[92]。キエフのペトロフカ駅では小麦の巨大な山が腐り、トラクトルスキでは貨車20両分の穀物が水浸しになった[120]。クラスノグラードやバフマチでも大量の小麦が腐ったために廃棄された[120]。1933年秋には穀物を積んだ貨車がチェリビンスク近くで故障し、一ヶ月間放置され、その間、盗みにくるものがいたが殺害された。再び移動しようとしたときには、穀物は、雨水などで浸ったために腐っていた[120]。こうした廃棄処分について党幹部も認知しており、ポーストィシェフは1933年11月に「相当量の穀物が、取扱の不注意によって失われた」と述べている[120]。また、公的報告書では「サボタージュを受けたため」と報告されたこともあった[92]。

穀物の多くは備蓄されず、また配給されず、国外へ輸出されていた。帝政ロシア時代にも「食わずに輸出しよう」という方針で穀物が輸出されていたが、スターリンはこれを踏襲し、1932年に160万トンを輸出し、飢饉の最中の1933年前半にも35万4000トンが輸出され、結局、1933年に海外に輸出された穀物は180万トンにのぼった[11]。ロシアの研究者イヴニツキーとオスコールコフは、この180万トンの穀物があれば飢饉から人々を救うことは十分可能であったと指摘する[11]。

スターリンが飢饉の事実を認めなかったのは、自分達の政策の破産を認めるに等しかったため、決して認められなかったと指摘されている[11]。

大粛清下のウクライナ
「大粛清」を参照

ウクライナ民族主義への弾圧も強化され、1930年に「民族主義的富農主義」と批判されたマトヴォー・ヤヴォールスキー(ロシア語版)は、1933年3月に逮捕され、強制収容所に連行され、1937年に銃殺された[122]。

共産党党員でも弾圧は免れなかった。ウクライナ共産党でも1932年に粛清が実施され、多くの党員が姿を消しており、1933年1月にスターリンは自分の直属部下をモスクワから派遣してきた[12]。1月7日には、穀物調達の遅れはウクライナの「階級の敵」を地元の党員が容認したためとされ、1月24日に全ソ中央委員会は、調達の失敗は階級的警戒を怠ったウクライナ共産党の責任だと断言し、ポーストィシェフをウクライナ共産党第二書記・ハリコフ州第一書記に任命した[100]。ポーストィシェフは地区委員会の書記237人と議長249人を更迭した[100]。1933年2月のウクライナ中央委員会大会でコシオールは、コルホーズでは「階級の敵」が虚偽報告しているとし、村の党幹部たちはサボタージュを大目にみていると非難した[100]。

ウクライナ共産党では党の方針に抵抗すれば粛清されるので、「沈黙の壁」が作られた[12]。ウクライナ共産党のシュームスキーやスクルィープニクの書記なども「ポーランドの地主やドイツのファシスト」から献金されていたと告発され、1933年3月1日にはスクルィープニク(スクリプニク)がウクライナ教育人民委員を解任された[122]。

1933年4月27日には、ウクライナ科学アカデミーのウクライナ語研究所がブルジョワ民族主義の温床として攻撃され、やがて7人の言語学者が逮捕された[122]。1933年5月から数ヶ月間、多数の編集者、文学者、知識人の逮捕と自殺が相次いだ[122]。

1933年6月10日、ポーストィシェフは、これらの反革命的知識人はソビエト政府打倒をめざし、穀物の調達困難にも責任があり、スクルィープニクは彼らを公然と擁護してきたと非難した[122]。スクリプニクは「ウクライナ化政策」を推進したことで「自己批判」を強要されたが、それを拒否して1933年7月7日に自殺した[7]。スクリプニク没後の11月、共産党は、生前のスクリプニクは、ウクライナ語の正字法に新しい記号を入れようとしていたが、これはポーランドによるウクライナ併合計画を支援するものだったと攻撃され、「反革命的な堕落した民族主義者」との烙印が押された[122]。

1933年6月、スターリン派のウクライナ共産党政治局員D.マヌゥイーリスキーはウクライナのアカデミーや研究所は「階級の敵」のアジトになっていると告発した[122]。農業アカデミー所長らは粛清され、強制収容所に連行された[122]。シェフチェンコ文学研究所の所長ら5人は銃殺された。他にも多くの研究所で粛清が実施され、ウクライナ哲学研究所のヌィルチュク教授は「トロツキスト民族主義者テロリストセンター」という存在しない架空の組織の所長にされた[122]。

NKVD長官エジェフは、1933年7月30日に00477号命令「クラーク、犯罪者その他の反ソ分子の抑圧について」を布告し、各地域でNKVD、検事、共産党代表の3者によるトロイカ審判で、処刑か収容所おくりかを即決できるようにした[123]。最初の命令で26万8950人が逮捕、うち7万5950人が銃殺され、19万3000人が収容所へ送られた[124]。最終的には、合計で76万7397人がトロイカで裁かれ、38万6798人が銃殺されたが、処刑理由は「潜在敵」であるからというだけであった[124]。

1933年10月、演劇界でもベレジル劇場のレス・クルバスが民族主義者として解任されて逮捕、強制収容所で死亡した。ハリコフのチェルヴォノ・ザヴォドスク劇場では画家3人が民族主義者として銃殺された[122]。

1933年10月15日までにウクライナの共産党員12万人が審査(粛清)され、2万7500人が「階級の敵」として除名された[120]。ポーストィシェフは「教育人民委員会から2000人の民族主義分子と300人の科学者や作家を排除できた。8つのソビエト中央機関から200人以上の民族主義分子を粛清。協同組合と穀物備蓄関係者からは2000人以上が粛清できた」と11月19日に報告した[125][122]。

1934年1月、OGPU長官バリーツキーはまだ他の陰謀が暴かれていないと述べ、2月にはポーストィシェフは、「われわれは過去一年で民族主義的反革命を根絶してきた」と自慢したが、粛清はまだ続いた[122]。1934年12月のキーロフ暗殺後、大粛清が開始するが、キエフでも「白軍テロリスト」として、ドミトロー・ファルキフスキー、グリゴーリー・コシンカら28人の文学者、詩人オレークサ・ヴリズコが殺害され、1935年にも劇作家ミコーラ・クゥリシュが、1936年1月には文学者ミコーラ・ゼーロフのグループが粛清された[122]。大粛清によってウクライナの著述家246人のうち204人が、言語学者84人のうち62人が、消された[122]。このほか、ウクライナ気象庁職員が虚偽の天気予報を出したとして逮捕され、1933年3月には、サボタージュ罪で35人が処刑、40人が収監された[100]。さらに、OGPUは家畜が死んだのは獣医の責任であるとし、1933年から1937年に獣医100人が銃殺された[100]。

大粛清はウクライナのみならず、ソ連全土に及び、政敵だけでなく、政敵となる可能性のある者として、スターリンの忠実な側近や親族にさえもおよんだ。ペレストロイカ後に公開された確認できる情報に限れば、68万余が処刑され、16万余が獄死し、合計84万人余が殺害され[126]、またNKVD資料では74万5220人が処刑された[127]。しかし、これ以外の犠牲者も含めると、その犠牲の総数は800万~1000万人とも推計される[128]。
北カフカース・クバーニ・ヴォルガ・中央アジア

1932-33年の飢饉、集団化政策や穀物調達政策から飢饉にいたる過程は、ウクライナだけでなく、沿ヴォルガ、中央黒土州、ドン、クバンでもほぼ同様の過程が進行した[80]。

北カフカース・クバーニ
コーカサス山脈は西の黒海から東のカスピ海に走る。コーカサス山脈より北が北コーカサスである。山脈の南は南コーカサス(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)
コーカサス地域図

クバーニ地方(現在のロシアのクラスノダール地方、スタヴロポリ地方、ロストフ州、アディゲ共和国、カラチャイ・チェルケス共和国)におけるウクライナ人の割合(1926年国勢調査)
  90-75%
  75-50%
  50-25%

  25-10%
  10-5%
  5-2%

北コーカサスのクバーニ地方(現在のロシアのクラスノダール地方、スタヴロポリ地方、ロストフ州[注釈 24])のコサックは、元はウクライナ出身で、1918年にクバーニ人民共和国として独立したが、1920年にボリシェビキに滅ぼされた。1922-23年にはコサック反乱が起きた[129]。

1926年、クゥバーニ川流域のウクライナ人は141万2276人、北カフカース全域のウクライナ人は310万7000人だった[130]。

1929年11月、モスクワ・ライフル銃第14師団がドン川に駐屯した[129]。

1932年と33年、北カフカーズでも穀物調達計画の不履行で農民から食料が没収された[80]。クバーニの第一書記B・P・シェボルダーエフ(ロシア語版)は、富農がコルホーズを拠点にしてソ連に挑戦してきたと報告した[129]。1932年11月4日にM・F・シュキリャートフ(ロシア語版)が北カフカース、クバーニ粛清委員会議長に就任すると[注釈 25]、35000エーカーの土地をもつ国営農場「クゥバーニ」では労働者と職員の3分の1が粛清され、150人党員のうち100人が粛清された[129]。

1932年11月、シェボルダーエフはポルタフスカヤ村の住民2万7000人に強制移住を命じた[130]。ポルタフスカヤ地区では1925年までパルチザンが活動し、1929-30年には5600世帯のうち300世帯が強制移住を命じられ、40人が銃殺された地区だった[130]。1932年12月、ポルタフスカヤ村で反乱が起き、内務人民委員部 (NKVD) 官吏や活動分子が殺害された。NKVD指揮官クゥバーエフは、ポルタフスカヤ村は富農に支配されていたとして、残りの村民全員の強制移住を命じ、従わない住民は銃殺すると布告した[130]。住民が退去したあと、ロシア人移住者が移り住み、クラスノアルメーイスカヤ(赤い軍隊)と村名を変えた[130]。

同様の作戦は、ウマンスカヤ、ウルプスカヤ、メドヴェージツカヤ、ミシャチフスカヤなどの村でも実施され、ラビンスカヤ村では全員退去ではなかったが、多数が銃殺された[130]。16の村が極東に強制移住され、総数20万人が被害にあった[131][130]。こうしてコサック村は潰滅していった。

さらにクゥバーニ川流域では、ウクライナ文化撲滅運動が行われた。1920年代にはスクルィープニク行政下に多くのウクライナ人学校が建設されていた。しかし、1929年12月、ウクライナ文化撲滅運動が開始され、1933年にはクゥバーニ地方の研究所の教授のほとんどが逮捕され、1937年までに746校においてウクライナ語に変わってロシア語が強制された[130]。

1933年には、北カフカースのカフカース駅から毎朝、農民の死体を乗せた5-10両の貨車が2台、厳重に監視されながら発車され続けた[132]。ラビンスカヤ村では強制移住を命じられた以外の住民24000人が残っていたが、そのうち14000人が餓死した。スタロコルンスカ村では、GPU騎兵隊が大量逮捕を繰り返し、14000人いた住民は飢饉のあとには1000人に減った。ヴォロニズカ村、ジンスカ村でも同様だった。ウクライナ系の村クラスノダール地区のパシュキフスケでは人口が半減した[132]。スタヴロポーリ市では人口14万人のうち5万人が、クラスノダール市では14万人の人口うち4万人が死んだ[132]。イギリス大使館はコサックはほとんど壊滅したと1933年に報告している[132]

1933年4月16日、ドン地方出身の作家ショーロホフがスターリンにドン地方での残虐な徴発を告発すると、スターリンは「君は一面しか見ていない」とし、農民はソヴィエトとの「飢餓戦争」を行っており、農民は無害ではなく、労働者や赤軍がパン不足で苦しむのを喜んでおり[133][94]、「連中はソビエト国家を潰そうと意図的にやっている。これは決死の戦いだ。」と回答した[86]。
ヴォルガ
「ヴォルガ・ドイツ人」および「ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国」を参照

現在のロシア沿ヴォルガ連邦管区に1924年に成立したヴォルガ・ドイツ自治共和国でも飢饉が広がった。沿ヴォルガでは、ロシア人も、タタール人も、モルドヴァ人も民族問わず、等しく飢えた[80]。

1931年ヴォルガ下流域のコルホーズでは、ノルマを達成できなかった農民の鞭打ちが行われた[80]。

1931年10月の党中央委員会総会で、ヴォルガ流域が凶作なので調達の減免措置を求めた地方書記に対して、スターリンは激しい調子で要請を却下した[13]。また、供給人民委員部のミコヤン委員も、食料に必要な穀物量は問題ではない、「重要なことは『まず第一に国家の計画を遂行しろ、そのあとで自分の計画を満たせ』とコルホーズに言うことである」と指示した[13]。コンドラーシンはこのことをもって、スターリン政権の指導部の農村政策に対する個人的な責任は一目瞭然であるという[13]。

1933年2月にはなにもかもがソビエト政府への供出を命じられ、半年間パンもなく、国営農場では1日150gのパンだけが配給された[132]。犬も猫も食べられ消滅し、あまりにも大量の人が死ぬので、墓を掘ることもできないとドイツ福音派の教会への手紙で報告された[132]。餓死したドイツ人は14万人で、6万人以上のドイツ人が強制収容所に入れられた[132]。

中央アジア

中央アジアのウズベキスタンでは1930-1933年の期間に、4万世帯が富農として解体された[134]。

トルクメニスタンでは1930-31年で2211世帯が富農として強制移住させられた[134]。

カザフスタンでは4万世帯が富農として解体され、さらに15000世帯が逃亡した[134]。カザフでは、1926年の人口が396万3300人だったのが、1939年には310万900人と、約86万人が減少した[134]。

1929-31年には中央アジアのムスリムがソ連政府と集団化政策に反発して、バスマーチ運動を起こした[134]。ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスでも暴動が発生した[134]。

国際社会の反応

報道・情報戦

ウクライナの報道も制限されていたので、ごく少数の目撃者をのぞいて世界に知られることもなかった。ジャーナリストのガレス・ジョーンズ(英語版)は1933年3月、ウクライナへの旅行禁止処置をやぶって汽車でハルキウに入り、人々が飢えで腹がぱんぱんにふくらんでいるのを目撃した[12]。マリア・ウォヴィンスカは、何体もの死体をみた[12]。こうした少数の報道や、ウクライナから逃亡した農民たちの証言などから、ウクライナでの惨状について各国もある程度承知していたが、スターリンは、五カ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたため、飢饉を絶対に認めるわけにはいかなかった。国際政治の場でのソ連の名誉失墜は避けねばならなかった。

ソ連は、あらゆる手段を用いて、飢饉を作り話だと否定していった[135]。オーストリアの新聞が飢饉を報道すると、ソビエト連邦共産党機関紙『プラウダ』は「無礼な中傷だ。汚い作り話だ」と否定した[135]。ワシントンのソ連大使は、ウクライナの人口は年率2%で増えており、ソ連でもウクライナの死亡率は一番低いと述べた[135]。また、ソ連の人口学者は、ウクライナの人口増加率が低いのは、凶作や自然減、そして「それまでウクライナ人と考えていた人が、自分をロシア人とみなすようになった」ことも要因であると説明した[15]。

ソ連は、ソ連に同情的な世界中の知識人を利用して飢饉の隠蔽工作を行っていたことが現在では判明している[135]。アメリカの「委員会」は、木材産業での強制労働が認められないと報告したが、この「委員会」は、ソ連との友好関係を保つ機関から報酬をもらって雇われていた[135]。

当時バーナード・ショウやH・G・ウェルズ、エドゥアール・エリオらはソ連に招かれた。しかしこれは、「模範的な運営が成されている農村」を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。

フランスの急進党エドゥアール・エリオは1933年8月と9月にソ連に滞在し、ウクライナにも5日間滞在し、見学や宴会で歓迎されると、『プラウダ』はエリオが、ウクライナに飢饉はなく、ソ連での飢饉があるという報道は虚偽報道だと述べたと報じた[135]。きれいに飾られた集団農場の保育所でエリオが子供に昼食に何を食べたかと質問すると、子供はカツレツと鶏のスープと答えたが、ヴァシリー・グロスマンはこの農場の子供はミミズを食べていたと述べている[135]。また、エリオに党の方針に反することを説明したウクライナ言語教育単科大学教授セーベルクは、カレリア強制収容所に5年収容された[135]。

バーナード・ショーは1932年に「ロシアでは栄養失調のものは一人もいなかった」と証言した[136][135]。1933年にはイギリスではソ連に関する嘘のキャンペーンが繰り広げられているが、実際のソ連には経済的奴隷制や失業もないと公言した[137][135]。

1932-33年にソ連を視察したシドニー・ウェッブとビアトリス夫妻は1937年の著書『ソビエト共産主義』で、ソ連の集団農業強制は、1917年からの農民暴動の「最終段階」であるとして、富農撲滅運動を肯定し、また飢饉も深刻なものではなかったと報告した[135]。ウェッブ夫妻は、飢饉の報道については「ほとんど行ったことのない人々」が勝手に書いていることで、食料が不足しているのは、農民が種まきと収穫を怠ったりしたためで、なかには共有財産である種を持ち帰り、私的に蓄える農民もいると非難した[138][135]。また夫妻は、スターリンが1933年1月にウクライナから穀物を搾り取ろうと訴えた演説については「大胆で、活力がある」と称賛した[135]。

ニューヨーク・タイムズ特派員記者のウォルター・デュランティ(英語版)は、ガレス・ジョーンズが実際にウクライナで目撃したことを報道すると、「いたずらに恐怖心をあおろうとしたでっちあげ」で「誇張された有害で悪意に満ちた(反共主義の)プロパガンダ」だとジョーンズを批判し、ソ連では「現実に飢饉などない」と断言した[139][140][135][14]。ウェッブ夫妻は、デュランティを高く評価していた[135]。

ジョージ・オーウェルは、イギリスの親ロシア派の知識人たちがウクライナ飢饉のような巨大な出来事に注意を向けなかったことを批判したが[135]、権威ある知識人たちがソ連政府に同調して飢饉の事実を否定することを繰り返していくうちに、飢饉のことは忘れられていった。飢饉について知られるようになったのは、第二次世界大戦後のスターリン批判以降に、冷戦時代にソ連から亡命した者や、ソ連に共鳴していたが、ソ連の不正に気がついた西側諸国の知識人による研究や知見が蓄積するようになってからである。

ソ連による支援拒否

一方、英国、カナダ、スイス、オランダ等各国および国際連盟は国際赤十字を通じて、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請をおこなったが、ソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、「存在しない飢饉への救済は不要」という答えを繰り返すだけであった[要出典]。

ウクライナ

ドイツ系、ポーランド系のウクライナ人は、ドイツ、ポーランドの領事館に相談したため、ドイツ、ポーランドでは情報が母国へ伝わっていた[14]。スターリンは演説でポーランドがウクライナに侵攻して併合しようとしているとのべていたため、1932年にウクライナの農民はポーランドのウクライナ侵攻を期待していた[14]。しかし、1932年7月にソ連・ポーランド不可侵条約が調印されたため、この希望は潰えた[14]。

ウクライナでは反ソ・反共感情が高まったため、のちに独ソ戦によりヒトラーのドイツ軍が侵攻した時は「解放軍」として喜んで歓迎し、大勢のウクライナ人が兵士に志願し共産党員を引き渡すなどドイツの支配に積極的に加担したほどであった。しかし、ドイツ人の生存圏の拡大と、ウクライナ人を含むスラヴ系諸民族の排除を目指すナチス・ドイツもまた、ウクライナ人に過酷な政策を実施した[141]。中でも、ナチスの食糧大臣ヘルベルト・バッケは東部総合計画の基、ソ連で起きた飢饉を参考にそれらを上回る規模の大飢饉を起こし、ドイツ人の入植の邪魔となるウクライナ人を始めとした現地人を絶滅させる計画を立てていた(詳細は飢餓計画(英語版)を参照)。ウクライナでは反ソ・反共感情はそのままに反独感情も高まり、1942年10月には赤軍とドイツ軍の双方に対抗するレジスタンス組織「ウクライナ蜂起軍」が結成された。

その後

ウクライナの村には、五カ年計画の完遂を祝って凱旋門が建てられた[14]。そのまわりには餓死した遺体が放置されていた[14]。「富農」を追放した共産党員の役人は裕福になり、特別の店で好きなものを買うことができた[14]。その後のウクライナ人の出生数が大幅に抑制される等の多大な悪影響を及ぼした。

ウクライナ・パルチザン
「ウクライナ蜂起軍」も参照

他方で、パルチザン・レジスタンス運動も行われた。第二次世界大戦時にはウクライナ・パルチザン軍は1942年秋にドイツ軍の穀物徴発に抵抗し、ドイツ軍が敗退した1944年春以降には反ソ連ゲリラとして活動した[142]。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後の1946年秋から1947年夏にかけても、ウクライナ、モルダヴィア、中央黒土地帯、ヴォルガ川下流域で旱魃による飢饉が発生し、100万人の犠牲者が出た[143]。

ホロドモールを目撃したウクライナの作家オレクサ・ウォロペイ (Olexa Woropay) は1933年のホロドモールについての著書を1950年代から80年代にかけてイギリスで執筆した[144]。

ソ連における認識

1991年のソビエト連邦の崩壊にともなうウクライナの独立まで、飢饉について多くのウクライナ人は知らないままであったと、当時の飢饉を体験した生存者は語っている[118]。

1932-33年の冬に飢えて死んでいく人々の群れを目撃した当時特派員だったレフ・コペレフは、「心を萎えさせるような同情に負けてはならなかった」「革命の義務をはたしつつあった」「共産主義の目的のためにはすべてが許される」と自分に言い聞かせたと回想している[145] [37]。コペレフによれば、ソ連では1930年代の飢饉については、1980年でもタブーとされた[78]。

1978年のソ連の著書では、穀物徴発が失敗した原因であるサボタージュはクラークが組織し、クラークは穀物を大量に隠し持ち、国家に販売するのを拒んだと説明されていた[146][47]。

犠牲者数

大粛清による犠牲については「大粛清#死亡者数」を参照
農業集団化による犠牲については「ソビエト連邦における農業集団化#集団化による犠牲者」を参照

ホロドモールの犠牲者数については諸説ある。記録がないため、飢饉の正確な犠牲者数は不明である[14]。ソ連では国勢調査が実施されていたが、共産党幹部の意向で変更された。たとえば、1937年の国勢調査では見込みより800万人少なかったため、スターリンは調査した人口学者を処刑している[14]。1933年4月のキエフ州だけで49万3644人が飢えで苦しんでいると報告されているが、この報告では死者数は報告されなかった[14]。

当時の報道など

当時の報道で、飢饉による被害は世界でもある程度知られており、スクリプニクは自殺直前、アメリカに移住したロシア人に対して、ウクライナと北カフカスでの餓死者は800万人だったと述べている[147][15][7]。国家政治保安部 (GPU) のV.A.バリーツキーも800万から900万人が犠牲になったと1930年代に述べていることがAdam J. Tawdulによって報じられている[147][15]。また、ソ連支持派ジャーナリストのウォルター・デュランティも、1932年に北カフカースとヴォルガ川下流域の人口はおよそ300万人、ウクライナでは400-500万人が減少したと1933年9月に報告している[15]。 ハリコフで働いていたアメリカ人の共産党員は、飢えによる死者は450万人、栄養失調や病死で数百万人が死んだと述べた[15]。1933年のソ連の官僚の私的な会話では死者数は550万人と話されていた[14]。

なお、ウクライナのドネツィクで育ったニキータ・フルシチョフ第一書記は「私が正確な数字を提示できないのは、だれも計算しつづけていなかったからだ。われわれが知っていたのは、無数の人々が死につつあるということだけであった」とのちに回想している[15]。
歴史学者による推計

1986年にイギリスの歴史学者ロバート・コンクエストは、1932~33年のウクライナにおける飢饉の死者数は500万人と推計した[15]。これはウクライナ人口の18.8%、農村人口の約四分の一にあたる[15]。コンクエストの推計の詳細は、以下のとおりである。1930年から37年にかけての農民の総死者数は1100万人で、1930年から37年にかけて逮捕され強制収容所での死者数は350万人で、合計1450万人であった[15]。このうち、富農撲滅運動による死者数は650万人、農業集団化によるカザフ人の死者数は100万人で、1932-33年の飢餓による死者数は合計で700万人だったとする[15]。このうち、ウクライナ飢饉の死者数は500万人で、北カフカース飢饉での死者数は100万人、その他の地域の飢饉での死者数は100万人であるとする[15]。強制収容所で死んだ350万人の多くは、ウクライナとクゥバーニ川地方の農村出身者だった[15]。ただし、これは飢饉によるのでなく、強制移住による犠牲である[15]。またコンクエストは、子供の餓死者は300万で、富農撲滅運動の犠牲になった子供は100万とみる[97]。

表1.1930-37年の犠牲者数[15] 農民の死亡者 1100万人
強制収容所での死亡者 350万人
合計 1450万人
表2.表1の内訳[15] 富農撲滅運動による死者数 650万人
農業集団化によるカザフ人の死者数 100万人
1932-33年の飢餓の死亡者数 ウクライナ:500万人, 北カフカース:100万人, その他の地域:100万人
合計 1450万人

コンクエストはウクライナの農村人口は当時2000万-2500万で、そのうち500万が犠牲になったとし、当時の記録史料から以下のような詳細な数値を提示している[148]。ウクライナのキエフ州、ヴィーンニツァ州では墓を掘る力を持つ者もおらず、グルスク村では人口44%が死亡し、ジョルノクロヴィ村では430人が餓死した[148]。ロマンコヴォ村では1933年の五ヶ月の間で、人口4000-5000人のうち588人が死亡した[148]。 ヴィーンニツァ州のマトキフツィ村は312世帯と1293人の人口だったが、5人が自分の畑でとうもろこしを収穫したために銃殺され、24家族がシベリアに送られ、1933年には残りの多数が死に、村は空になった[148]。オルリフカ、スモランカ、グラビフカ村では人口3000-4000人だったが、45-80人しか生存者がいなかった[148]。ポルタヴァ州のマチュヒ村には2000世帯がいたが、半分が死亡し、同地区の部落は全滅した[148]。映画のロケで使われることも多かったヤレスキ村は人口1500人が700人となった。ジトーミル州の人口1532人の村では813人が飢饉で死亡した[148]。

中井和夫らは、少なくとも、当時のウクライナの人口の一割以上、400万人から600万人が飢饉によって犠牲となったとする[7]。

黒宮広昭はソ連で700-800万人、ウクライナで少なくとも400万人が死亡したとする[149]。

ロシアの研究者コンドラーシンは、1932-1933年のウクライナとロシア飢饉の犠牲者は500万〜700万人(直接的損失と間接的損失)と2006年に述べている[11]。

ウィートクロフトは、1932-1933年の飢饉の犠牲者は600万〜700万人、うちウクライナでの犠牲は350-400万とする[11]。

D.マープルズの2007年の著書では500万人とされる[150]。

マイケル・エルマンはウクライナで320万人が死亡したとする[151]。

ウクライナの歴史学者スタニスラフ・クルチツキーは、ウクライナで300万人から350万人が餓死あるいは病死し、大飢饉による出生率低下を含む人口喪失では450万人から480万人が消失したとする[152]。

ソ連史研究者の栗生沢猛夫は1932-34年の飢饉で、ウクライナ、北カフカース、ヴォルガ流域、カザフスタンなどで400万から600万人の犠牲者が出たとする[8]。

アメリカイェール大学の歴史学者ティモシー・スナイダーは2010年の著書でウクライナでの餓死者や栄養失調による死者数の総数は330万人が妥当とする[14][153]。これらのうち300万人がウクライナ人で、残りの30万人がロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人と推計した[14]。また、スナイダーは、カザフスタンの飢饉では130万人が死亡し、そのうちウクライナ人は10万人だったとする[14]。

歴史学者ノーマン・ネイマークは、1932-33年飢饉で、ソ連全土で600-800万が犠牲となり、このうち300万-500万がウクライナとウクライナ人が多く住んだ北クバンで犠牲になったとする[3]。1930年代のスターリン政策で数万のクラークが処刑され、200万人がグラグに送られ、現地で数十万人が死亡したとする[124]。1932-33年だけで25万の農民が流刑地で死亡した[124]。また、ネイマークはウクライナ飢饉の分析が難しいのは、他の地域でも飢饉があったからだという[154]。カザフスタンの死者数は145万人で、カザフスタンの全人口の38%にあたり、逃亡したカザフ人の多くは射殺された[154]。なお、ジェノサイド研究者のクルト・ヨナスゾーンは、カザフスタンの飢饉をジェノサイドとみなしている[155][154]。

オメリアン・ラドニツカイエ、O.ヴォロヴィナ、S.プロヒーらの研究グループの2016年の研究によれば、1932-34年のウクライナ飢饉によって引き起こされた直接的損失または超過死亡者数は390万人で、飢饉の影響による出産喪失で60万人が消失し、計450万人が死亡した[156]。

ウクライナの歴史学者スタニスラフ・クルチツキー、および人口統計学者O.ヴォロヴィナ、ハーバード大学歴史学教授のS.プロヒーらの研究グループの2017年の研究によれば、 ホロドモールによる犠牲者(超過死亡)は合計394万2000人で、地域別ではキエフ州、ハルキウ州がそれぞれ100万人を超える犠牲を出した(表3)[157]。

表3.ホロドモールによる犠牲(超過死亡)(2017年の研究[157]) 州 (オーブラスチ) 総数(人) 人口1,000人あたり
北部地域
ヴィーンヌィツャ州 54万5000 126
キエフ州 111万1000 200
チェルニーヒウ州 25万4000 91
ハルキウ州 103万8000 191
南部地域
 ドニプロペトロウシク州 36万8000 102
オデッサ州 32万7000 108
ドネツィク州 23万1000 54
モルダヴィアASSR[注釈 26] 6万8000 120
合計 394万2000人
国連、政治家など

2003年に25ヶ国が署名した国連の共同声明では、700万から1000万人が死亡したと宣言した[158]。

2005年にはユシチェンコ大統領がアメリカ議会の演説で「ホロドモールにより、2000万のウクライナ人の命が奪われた」と述べ [159]、カナダのスティーヴン・ハーパー元首相は死者数を約1000万人とする公式声明を発表している[160]。

しかし、ユシチェンコ大統領らが2000万人などの極端な数字を使うことに対し、アメリカの歴史学者ティモシー・スナイダーは死者数の誇張であると批判し、「1932年から1933年のウクライナの飢饉は、意図的な政治決定の結果であり、約300万人が亡くなったことは事実だ」と述べた[161]。

また、メルボルン大学の歴史人口学者スティーブン・ウィートクロフト(英語版)は「ハーパーや西側の有力政治家が、ウクライナの飢饉による死亡率について、このように誇張した数字を使い続けていることは問題だ。」「1932から33年の飢饉により死亡したウクライナ人が1000万という数字を受け入れる根拠は全く無い。」とポストメディア・ニュースに宛てた電子メールに綴っている[162]。

司法判断

2010年のキエフ控訴裁判所の判決によると、飢饉による人口損失は全体で1000万人に達し、そのうち390万人が直接的な餓死、残り610万人が出生不足に陥ったとされている[163]。

心理学者

ウクライナ ジトーミル州立大学の心理学者Gorbunova, Viktoriiaとウクライナ国立教育科学学院社会政治心理学研究所の心理学者Vitalii Klymchukらは2020年に犠牲者は400万人から700万人と設定して飢饉体験者およびその家族の心理調査をしている[164]。
人災として

ソ連史研究者の塩川伸明は、飢饉の原因はソ連政府による過酷な穀物調達の強行にあったことは明らかで、この飢饉は人災であったとする[9]。ただし、ウクライナ人を抹殺する意図があったかについては(1997年時点で)証明されていないと指摘する[9]。

ソ連史研究者の栗生沢猛夫もこれはあきらかに集団化にともなう人災であったという[8]。

ウクライナ・ソ連史を専門とする歴史学者中井和夫も、ソ連政府が苛酷な穀物徴発と強制措置を実施したのみならず、飢饉を否定し、食料援助などの対策を取らなかったことが大きな犠牲を招いた原因であるのは疑いようがないとする[7]。

ロシアの研究者ヴィクトル・コンドラーシンも、1932-1933年の飢饉はウクライナだけでなく、ソ連の穀物地帯を襲ったが、飢饉の根底には、スターリン体制の暴力的な集団化と強制的な穀物調達があったとする[13]。また、R.デイヴィス、S.ウィートクロフト、M.レヴィン、S.メルル、L.ヴァイオラ、D.ペナー、奥田央、S.フィッツパトリックらもこの結論を支持している[13]。コンドラーシンによれば、1931年と32年の気候は良好ではなかったが、当時の農業技術の水準が維持されていれば大規模な凶作を引き起こすようなものではなかった[165]。飢饉の原因としては、集団化と穀物調達、クラーク清算、さらにコルホーズ体制確立のための飢饉に手を借りた農民への処罰、および農民の抵抗に対する苛烈な弾圧、伝統的な農村システムが破壊されていたために救済も不可能であったことなどがあり[13]、したがって、1932-33年の飢饉はスターリン政府による「組織された人為的な飢饉」であり、ウクライナ・ロシアを含むソヴェト農民全体の悲劇であったとする[11]。
飢饉はウクライナだけでなく、ロシアやほかの地域でも発生していたのであり、飢饉を意図していたかは疑わしいとする見解に対して、歴史学者ティモシー・スナイダーは、ウクライナ飢饉は「計画的な見殺し」だったとし、何百万人が餓えで死亡したのは、食料不足からではなく、食料の分配が適切に行われなかったためで、誰が食料を獲得できる資格があるのかを決めたのはスターリンだったとする[6]。1932年にはロシアでも飢饉が発生したが、ウクライナへの対応は特殊でかつ徹底的だった[6]。すでに大量の餓死者が報告されていたにもかかわらず、1932年11月からの徴発強化でスターリンは、ウクライナ農民から「余剰穀物」「肉(家畜)」の徴発を強化し、徴発に応じなかったものを「国家に対する裏切り者」として強制収容所に送り、さらに翌1933年初頭には、ウクライナの国境を封鎖し、逃亡農民を逮捕していった[6]。

ウクライナの歴史学者スタニスラフ・クルチツキーはウクライナ飢饉を引き起こした原因はスターリンによる穀物の強制徴発をはじめとする農村政策にあったとする[166]。

ジェノサイドとしての認定と議論

現代ウクライナにおける議論

ウクライナ大統領ヤヌコーヴィチと共に慰霊碑を訪れた、ロシア大統領メドヴェージェフ(2010年)

飢餓による餓死者の総数やこの飢饉がジェノサイドを目的に起こされたものであるかどうかで現在も議論が続いている。詳細な犠牲者数についてはホロドモール#犠牲者数を参照。

この飢餓の主たる原因は、広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために、国内の農産物を飢餓輸出したことにあった。その意味で大飢饉が人為的に引き起こされたものであることは否定できない。

2007年、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ大統領は、飢饉をウクライナ人に対するジェノサイド(大量虐殺)であったと主張し、国際的な同意を募った[118]。一方、ロシアは、飢饉の被害はウクライナ人のみならずロシア人やカザフ人にも広く及んだと指摘して、これがウクライナ人に対する民族的なジェノサイドであることを否定した[118]。ウクライナ共産党のペトロ・シモネンコは飢饉は意図的なものではなかったとして、ユシチェンコ大統領は根拠もなく憎悪をかきたて、ロシアとウクライナの間に民族対立を作ろうとしていると批判した[118]。ユシチェンコ大統領は、ホロコースト否認規制法のようなホロドモール否認規制法案を出す予定であると報じられ[118]、2015年の脱共産主義法で制定された。

2008年、ホロドモール発生75年を記念して、キエフにウクライナ飢饉犠牲者追悼記念館が開設。2010年には国立化され、「ホロドモール犠牲者追悼国立博物館(ウクライナ語: Національний музей «Меморіал жертв Голодомору»)」と改称された。一方クリミア半島の特別市セヴァストポリでは2009年にセヴァストポリ・ホロドモール博物館が開館したが、間もなく展示写真数点が1920〜30年代に起こったヴォルガ地方飢饉や世界恐慌時にウクライナ国外で撮影されたものの流用であることが明かされ問題となった[167]、[要出典]。なおセヴァストポリは2014年クリミア危機以降ロシアの実効支配下にある。

2010年4月27日、ユシチェンコの後任で親露派であるヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は、「ホロドモールは、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンの4カ国でおきた。それはスターリンの全体主義体制の結果である。しかし、ホロドモールを一つの民族に対するジェノサイドと見なすことは間違っているし、不公平だ。」「これはソ連に含まれていた諸民族全てに共通する悲劇だったのです。」と述べ、スターリン政権の失策であることは認めつつも、ジェノサイドであるかは否定した[168]。

2015年、脱共産主義法(ウクライナの共産主義者と国家社会主義者による全体主義体制に関する象徴の宣伝禁止法)が公布され、1917年から1991年までのウクライナにおけるソビエトによる犯罪を否認することが禁止され、ホロドモールがなかったとか、当時のソ連政府の責任を否認したりすることが規制対象となった[169][170]。脱共産主義法はロシアによる2014年のクリミア危機をふまえて設定されたものともいわれ、欧州評議会ヴェネツィア委員会は同法の自由制限範囲が広範囲であることを批判したり、アムネスティなども言論の自由への侵害につながると批判した。ただし、同法はあくまで宣伝(プロパガンダ)に利用した場合に限定されているなどの指摘もある[170]。

国家犯罪(ジェノサイド、人道に対する罪)認定に関する議論

「ジェノサイド」という言葉を考案した法律家ラファエル・レムキンは、ウクライナ飢饉を「ソ連によるジェノサイド」の典型例であるとした[14]。しかし、1948年に採択されたジェノサイド条約では「国民的、人種的、民族的又は宗教的集団」への破壊行為と定義されるが、「社会・政治集団」は除外された。しかし、初期草案には「社会・政治集団」の字句は盛り込まれていた[171]。しかし、ソ連などは国内の反乱を鎮圧すればジェノサイドとして弾劾されかねないことをおそれ、削除させた[171]。

歴史学者ティモシー・スナイダーは、ホロドモールは大量虐殺ではあったが、「民族の絶滅」を意図したという意味での「ジェノサイド」であったかについては、スターリンの「意図」は違ったとか、ウクライナ人だけでなく「クラーク(富農)」が標的であったなどといった「定義の政治的修正」といった問題があり、議論があると指摘する[172]。

歴史学者ノーマン・ネイマークは、スターリンによる大規模な大量殺人 (mass killing) は、ポグロム、虐殺 (massacre)、爆弾テロのような大量殺人とは峻別されるべきで、ジェノサイドの定義に「社会・政治集団」の計画的大量殺戮も含めるべきであり、スターリンのロシア、毛沢東の中国、ポル・ポトのカンボジアなど共産主義社会における大量殺戮は、少数民族に対するジェノサイドと並べて考えるべきだとする[16]。ネイマークは、カンボジア大虐殺のように階級ジェノサイドにみえるものであっても、民族的要素があるという[注釈 27]。ポーランド人、ドイツ人、ウクライナ人、北カフカス諸民族、朝鮮人に対するソビエトのクラーク撲滅運動において、政治社会集団は「でっちあげられた民族」として機能しており、したがって、ホロドモールにおける攻撃対象が農民だったのか、それともウクライナ人だったのかという方向で議論してしまうと、「階級」や「民族」のカテゴリーがたやすく互いに混じり合うことを見失うことになってしまうと指摘する[173]。

さらにネイマークは、クラーク撲滅運動はクラーク階級の抹殺を意図しており[注釈 28]、ジェノサイド的性格を帯びていたとする[175]。クラークは個人でなく、家族、親族単位で認定され、時には一家全滅となり、クラークというレッテルをはられると強制移住となった[175]。スターリン政府にとってクラークは『人民の敵』であり、『豚』『犬』『ゴキブリ』『屑』『害虫』『汚物』『ごみ』であり、それゆえ浄化され、叩きつぶされ、抹殺されるべきものであり、作家ゴーリキーもクラークを『半獣・動物』として描き、ソ連の新聞は猿として描写した[175]。このようにクラークは「人間ではないもの」として非人間化され、生まれつき劣等な存在として種族化された[175]。

そのうえで、スターリン、モロトフ、カガノーヴィチらの対ウクライナ政策は、穀物不足と収穫不良をもたらしただけでなく、ウクライナの飢餓状況を政府は無視し、見殺しにした[86]。多くの資料から、当時備蓄された穀物300万トンの在庫があったことがわかっているが、これは農民全員を救える量だったにもかかわらず、配給されることはなかった[86]。なお、ソ連は工業への投資のために、1933年に180万トンの穀物を輸出していた[86]。スターリンの攻撃はソビエト国民、党員にも向けられており(大粛清など)、より大きな犯罪行為の一部としてウクライナ飢饉をみなすこともできるが、スターリン政権は、ウクライナの農民が食料を探し、逃亡するのを許さず、カザフ以上に被害を悪化させた[154]。スターリンはウクライナ人の絶滅を目指したわけではなかったが、敵性民族とみなしてウクライナの社会を破壊し、強制的にソビエト国民に変えようとし、ウクライナ農民を死に値する「人民の敵」だとみなした[154]。こうしたことから、ネイマークはウクライナの飢饉は「前例のない速度で近代化しようとするボルシェビキの願望と、その過程でソ連全土の独立農民の背骨を叩き折ろうとする決意から引き起こされた」のであり[3]、ホロドモールはジェノサイドとみなすべきであると主張する[86]。

ウクライナの歴史学者スタニスラフ・クルチツキーは、農民から食料を奪うことは残忍な殺害でありテロリズムであり、ホロドモールは飢饉によるテロであり、ウクライナ人と農民に向けられた特別なジェノサイドであったと主張する[166]。

ジェノサイドとして承認した国・団体

ホロドモールをジェノサイドとして承認している諸国(青)。
アメリカ合衆国オハイオ州パーマ市のウクライナ正教会聖ヴォロディミル大聖堂の敷地に立つホロドモール慰霊碑

2006年、ウクライナ議会は「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した[176]。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしている[177]。

また、エストニア、ラトヴィア、リトアニアはソ連崩壊後、独自にジェノサイド国内法を採択し、1940-41年のソ連占領期におけるNKVDによる市民殺害と強制移住、1944-45年のレジスタンス「森の兄弟」弾圧[178]、1948-49年のクラーク撲滅、1949年のヒーウマー島の住民251人のシベリアへの強制移住[注釈 29]、「人民の敵」と「民族主義者」への弾圧などスターリン時代の弾圧をジェノサイドとして提訴し、何人かの共産党員(当時)を有罪にした[173]。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国:1988年4月19日(政府委員会)、2003年10月21日(上院)、2006年10月13日(下院)、2008年9月23日(上院)
エストニアの旗 エストニア:1993年10月20日(国会)
オーストラリアの旗 オーストラリア:1993年10月28日、2003年10月31日(元老院)、2008年2月22日(衆議院)
カナダの旗 カナダ:2003年6月20日(元老院)、2008年5月28日(衆議院)
ハンガリーの旗 ハンガリー:2003年11月26日(国会)
バチカンの旗 バチカン市国:2004年4月2日
リトアニアの旗 リトアニア:2005年11月24日(国会)
ジョージア (国)の旗 ジョージア:2005年12月20日(国会)
ポーランドの旗 ポーランド:2006年3月16日(元老院)、2006年12月4日(国会)
ウクライナの旗 ウクライナ:2006年11月28日[176]
ペルーの旗 ペルー:2007年6月19日(国会)
パラグアイの旗 パラグアイ:2007年10月25日(国会)
エクアドルの旗 エクアドル:2007年10月30日(国会)
コロンビアの旗 コロンビア:2007年12月21日(国会)
メキシコの旗 メキシコ:2008年2月19日(国会)
ラトビアの旗 ラトビア:2008年3月13日(国会)

団体

バルト協会:2007年11月24日
Flag of the Greek Orthodox Church.svg コンスタンディヌーポリ総主教庁:2008年11月20日

人道に対する罪として承認した国・団体

アルゼンチンの旗 アルゼンチン:2003年9月23日(元老院)、2007年11月7日(元老院)、2007年12月26日(衆議院)
スペインの旗 スペイン:2007年5月30日(国会)※「ジェノサイド」としての承認はスペイン社会労働党の反対によって退けられた。
チリの旗 チリ:2007年11月13日(国会)
チェコの旗 チェコ:2007年11月30日(国会)
スロバキアの旗 スロバキア:2007年12月12日(国会)
ロシアの旗 ロシア:2008年4月2日(国会)「ジェノサイド」ではないことを強調。

国際組織

以下のいずれにおいても、ロシア側の反発や他国内の諸問題が足枷となり「ジェノサイド」としての承認は却下された。

国際連合の旗 国際連合:2003年11月7日(65ヶ国)
ユネスコの旗 ユネスコ:2007年11月1日(193ヶ国)
欧州連合の旗 欧州議会:2008年10月23日(議会)

2022年ロシアのウクライナ侵攻との関連
詳細は「2022年ロシアのウクライナ侵攻」を参照

2022年にロシアがウクライナ侵攻を開始すると、ロシア軍がウクライナ南部ヘルソン州で穀物を収奪し、クリミア半島に運び出した[179]。ウクライナ外務省はロシアによる収奪を非難し、ウクライナ・ベラルーシのメディア「ゼルカロ」は、1930年代のウクライナ大飢饉の惨劇を思わせると論評した[179]。

関連作品
小説・文学

Ulas Samchuk, Maria (1934)
Vasyl Barka, Yellow Prince (1963)
ヴァシリー・グロスマン『万物は流転する…』中田甫訳、勁草書房、1972年(『万物は流転する』齋藤紘一訳、みすず書房、2013年)
トム・ロブ・スミス『チャイルド44』(新潮文庫、小説)
清水杜氏彦『少女モモのながい逃亡』(双葉社、2020)

漫画・グラフィックノベル

Adrian Lysenko, Illustrated by Ivanka Theodosia Galadza, Five Stalks of Grain,グラフィックノベル, University of Calgary Press(カルガリー大学出版局), 2022.
平沢ゆうな『白百合は朱に染まらない』(講談社コミック)

    女性戦闘機パイロットである主人公、および敵国に寝返った幼馴染の出自を描いた前日譚として作中に織り込まれている。

那須信弘『泥の季節の嘘つき少年兵』(秋田書店チャンピオンRED 2022年3月号読切)

    舞台は独ソ戦だが、主人公の一人の経歴・体験として作中で解説付きで描かれている。

映像作品

Famine-33, ドラマ映画、Oles Yanchuk監督、1991.
The Guide, ドラマ映画, Oles Sanin監督、2014
映画『チャイルド44 森に消えた子供たち』、ダニエル・エスピノーサ監督、2015(原作は上記『チャイルド44』)
Bitter Harvest、2017、George Mendeluk監督
映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』、アニエスカ・ホランド監督、2019 』

ウクライナ 90年前の大飢きんの犠牲者追悼日で徹底抗戦の世論

ウクライナ 90年前の大飢きんの犠牲者追悼日で徹底抗戦の世論
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221126/k10013903951000.html

『ロシアが軍事侵攻を続けるウクライナでは26日、90年前に当時のソビエトが引き起こしたとされる大飢きんの犠牲者を追悼する日を迎え、ロシアに対する徹底抗戦の世論が一層高まっています。

ウクライナでは、1932年から翌年にかけて「ホロドモール」と呼ばれる大飢きんで数百万人が犠牲になり、26日、犠牲者を追悼する日を迎えます。

大飢きんは当時のソビエトのスターリン政権が引き起こしたとされ、ウクライナの民間団体が今月、1000人を対象に行った世論調査では、93%が「ホロドモールはウクライナ人に対する集団虐殺だと思う」と回答したということです。

ウクライナでは、この「ホロドモール」を今も続くロシアによる軍事侵攻と重ね合わせる人も多く、ロシアに対する徹底抗戦の世論が一層高まっています。

一方、国連人権高等弁務官事務所は25日に発表した声明で、ロシア軍によるミサイル攻撃などによって、南部ザポリージャ州の病院で生後間もない赤ちゃんが死亡するなどウクライナ国内では先月10日以降だけで、少なくとも市民77人が死亡、272人がけがをしたとしています。

「ホロドモール」とは、1932年から1933年にかけて、ウクライナを襲った大飢きんで、数百万人が亡くなったとされています。

ウクライナ語で「飢えによる虐殺」を意味し、ウクライナでは、当時のソビエトのスターリン政権によって、人為的に発生させられた飢きんだったとされています。

背景には、スターリン政権が当時、農家を強制的に集団農場に編入させる中で、統治していたウクライナの農村地帯から徹底的に食料を没収していたことがあると指摘されています。

ソビエト崩壊後、実態が少しずつ明らかになり、ウクライナ政府はソビエトによるウクライナ人に対する集団虐殺「ジェノサイド」だったと位置づけています。
「ホロドモール」の記録を伝える首都キーウにある国立の博物館によりますと、「ホロドモール」をめぐっては、これまでに欧米などの18か国がジェノサイドと認めているということです。

一方、ロシア政府は、飢きんはソビエト全土で起きていたなどと反論し、ジェノサイドという認識を否定してきました。

日本政府は「評価する立場にない」とする一方、こうした悲劇が2度と繰り返されてはならない、という考えを示しています。

「ホロドモール」を生き抜いた女性は…

当時を生き抜いた102歳の女性は、「当時のような、恐怖に満ちた生活はもうしたくない」と話したうえで、現在続いているロシアによる軍事侵攻が一刻も早く終結するよう訴えていました。

ウクライナ北西部ジトーミル州に住むリュボーフ・ヤロシさんは102歳。

12歳のときに大飢きんに見舞われました。

ヤロシさんは6人兄弟でしたが、妹は餓死し、兄は近くの村で野菜を採ろうとしたところ監視員に見つかり、殴られて死亡したということです。

ヤロシさんは当時の状況について、「私たちは木の葉を食べて、しのごうとしていた。栄養失調で体が膨れあがり、横たわっているだけだった」と話しています。

ある日、小麦の穂をかき集めて家に持ち帰りましたが、監視員に見つかりすべて没収されたとして、「監視員に『なんてことをするの?食べるものは何もないのに』と泣き叫ぶしかなかった」と話し、ソビエトによる厳しい監視下にあったと証言しています。

ウクライナでは、90年前の「ホロドモール」と、ことし2月からのロシアによる軍事侵攻を重ね合わせる国民も多く、ロシアへの徹底抗戦にもつながっているとも指摘されています。

侵攻開始後、ヤロシさんの3人の孫は、ウクライナ軍に従軍し、ロシア軍と戦っているということです。

ヤロシさん自身も、ボランティアで、ウクライナ軍の兵士が戦場で体を覆い隠すことができる服を作る作業に参加しました。

ヤロシさんは、「旧ソビエト時代のような恐怖に満ちた生活はもうしたくない」と話していました。

そのうえで、「戦争が終わるというラジオでの知らせを待っている。その時まで生きていたい」とうつむきながら話し、軍事侵攻が一刻も早く終結するよう訴えていました。

「ホロドモール」追悼で特別展

ウクライナでは、毎年11月の第4土曜日が「ホロドモール」の犠牲者を追悼する日になっていて、この歴史を忘れないようにするため、さまざまな催しが行われています。

首都キーウにある国立の博物館では、ことしがホロドモールから90年の節目になるのにあわせて、当時の様子を記録した写真の特別展が開かれています。

この中では、当時、東部ハルキウなどに住んでいたオーストリア人の男性が、当局の監視の目を逃れて撮影した49枚の写真とともに、撮影に使われたカメラなどが展示されています。
このうち、手書きで「飢え」と説明が書かれた写真には、道ばたに倒れた人のそばを住民が通り過ぎていく様子が写されていて、飢えで多くの人が亡くなることが日常になっていたことを表しています。

また、死亡した人たちが埋葬された集団墓地を撮影した写真なども展示されています。

ウクライナでは、ソビエト時代に起きたホロドモールと、ロシアによる今回の軍事侵攻を重ね合わせる国民も多くいます。

展示会場を訪れたトカチェンコ文化情報相は、NHKのインタビューに対し「残念ながら今回もホロドモールと同じようにウクライナの国家とアイデンティティーに対する攻撃が繰り返されてしまった。今回の戦争だけでなくホロドモールも知ることが世界に対する大きな警鐘となるだろう」と話していました。』