人類の到達した頂点・民主主義も原理は雨乞いと変わらない。

人類の到達した頂点・民主主義も原理は雨乞いと変わらない。
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/30158520.html

 ※ この文脈で行くと、「不正があった!」と主張して、「降りることを、ゴネている」某元大統領とかは、どう位置付けられるんだろう…。

『先日、娘がテロに見舞われて爆死した、ロシア極右愛国主義の思想家のドゥーギン氏が、ロシア軍のヘルソンからの無抵抗撤退について、プーチン氏を激しく非難しています。ヘルソン付近には、ほぼ軍事訓練を受けていない動員兵が、弾除けとして前線に配置され、短期間に死体の山を築いていたのですが、その間に正規軍はドニエプル川を渡って、東岸に到達し、大部分の撤退に成功した模様です。

やむを得ない戦略的な撤退なのですが、国粋主義者というのは、結果で物事を判断して批判しますので、殆ど無抵抗でウクライナにヘルソンを明け渡した事自体が気に食わないらしく、かなり厳しい言葉で非難しています。その非難の中で、面白い表現が使われていたので、抜き出したいと思います。

「専制とは何か? 為政者に全ての権力を与える事である。為政者は危機的な状況において、人々を救ってくれること。その為には、不愉快な事も我慢してきた。しかし、もしも救ってくれないとしたら、『雨を
降らせなかった王のように犠牲になる運命だ』専制には、2つの面がある。成功に際しての、あらゆる権利。失敗に際してのあらゆる責任。そして、撤退の責任は、軍ではなくプーチン大統領にある。プロパガンダで覆い隠す事はできない。ヘルソンの無抵抗撤退は、ソ連邦崩壊以来の敗北である。欧米との全面戦争と認識し、イデオロギー的にも国家への統制を強化して、総動員体制へ移行すべきである」

以上は、ドゥーギン氏が自身のブログに掲載した檄文です。ここで、注目して欲しいのは、二重括弧にしてある一文です。つまり、独裁国家においては、結果に対する全ての栄光と責任が、独裁者個人に属するので、成功すれば英雄として称賛され、失敗すれば全ての責任を取らされるという事です。そして、雨乞いで雨を降らすのに失敗した王という例えは、昔の原始的な集落で、呪術師が干魃に際して、雨乞いの儀式をして、雨が振らなかった場合に、村人から処刑されていた事を暗喩しています。

ここに独裁国家の制度的な欠陥を見る事ができます。頂いた独裁者の采配次第で、国民全体が利益も損出も被り、それは、時には自分の命を国家に差し出す犠牲を要求するという事です。以前の投稿でも述べたように、独裁者の健康・気力が、国家の衰退とリンクするのが独裁国家です。その為、プーチン氏は、上半身裸で馬に跨って乗馬する姿や、黒いレザージャケットを着て大型バイクに跨る姿や、柔道で巨漢を投げ飛ばす姿を国民に見せなくてはならないのです。あれは、ナルシズムで、やっているわけではありません。国民が安心する為に、その姿を見る事を望み、国の治安を安定させる為に、「強い指導者」であり続けなければ、ロシアという国が綻びるので、やっているのです。

これを例えるならば、村にたった一人しか存在しない「カリスマ呪術師」に、命運を託して雨乞いの儀式をする部落と言えます。そして、雨を降らす事ができなければ、呪術師は処刑され、代わりに儀式を続ける者がいないので、天候の気まぐれで、その部落は飢餓で全滅する事になります。

では、人類が到達した最高点の政治制度と言われる民主主義とは、独裁専制と較べて、どれだけマシなのでしょうか。実は、余計なフィルターを外して見ると、独裁国家で失敗すると呪術師が殺されるのに対して、呪術師が地位から降ろされて、別の人間に交代するのが保証されている点が違うだけです。干魃が起きた時に、雨を降らせる能力があると信じられている呪術師が、雨乞いの儀式を行いますが、失敗しても、彼は殺されません。必ず次点の要員が用意されていて、交代し、今度は控えの呪術師が儀式を続行します。それが、制度として保証されているのが民主主義です。

投票で問題に対処するリーダーを決めたとしても、その人物が必ず有効に対処できるとは、限りません。うまくいかないと判断されたら、そのリーダーを降ろして、別のリーダーを頂きます。部落の将来は、特定の人物ではなく、部落で選んだ、「問題が解決できそうな」人物に、次々と交代し、そのうちの誰かが問題を解決すればよしで、できなければ、やはり全滅するのは独裁国家と同じなのです。その解決の方法は、何も祈祷を続けるだけでなく、「この地を捨てて、他所の土地へ移り住もう」でも、「用水路を築いて川から水を引いてこよう」でも、よいのです。部落が干魃で絶滅しそうという状況に対して、問題解決の方法を提示できた人物が、次のリーダーになります。

未来が誰にも確実に予想できず、どんな問題が発生するか判らない以上、特定の誰かの能力に全面依存するではなく、スペアーとも言うべき人材をストックしておいて、問題が解決するまで、トライ・アンド・エラーを繰り返す。民主主義と言っても、客観的に評価すれば、確率で生き残る精度を高めただけのシステムです。干魃が何年も続けば、どんな制度を持つ部落でも、餓死して全滅しますし、何かしらの解決策を絞り出して、犠牲者は出しても部落の一部は生き延びるかも知れません。それは、制度の優劣で決まるというよりは、制度によって、生存確率を可能な限り上げたのが、民主主義です。

その制度の特色上、選挙などに手間と費用がかかりますし、議会で論議をするので、意思決定が遅く、それは、しばしば民主政治の問題として話題になります。しかし、それでも、「オール・オア・ナッシング」の個人の資質に国家の命運を全てベットする独裁政治より、マシであると一般的に考えられています。独裁政治の最大の害悪は、呪術者が屈強なボディーガードで身辺を固めた場合、村人が打ち殺そうとしても、それが不可能になる場合がある事です。つまり、まったく問題の解決にならない祈祷を、その人物個人が諦めるまで、部落民の全てを巻き込んで続ける事が可能です。

そして、ドゥーギン氏がプーチン大統領を批判する例えとして出してきたのが、まさに『雨を
降らせなかった王のように犠牲になる運命だ』という言葉です。つまり、雨乞いに失敗した呪術師は、部落民によって誅殺されるべきだと言っているのです。雨を降らせる云々の言葉が、突然出てくるので、何事かと思いますが、ロシア正教的発想だと、国の指導者の立場は、神に選ばれた人物に下賜された権利であると考えるので、神の恩寵を失った呪術師に用は無いのです。

一見、高度に発達したかのように見える現代の政治制度ですが、原理から言うと、部落の生命を脅かす問題に対して、どう向き合うかという事に対して、確率で生存率を高めたものでしかありません。しかも、比較する対象は、原始時代の集落です。そして、恐らくは、これ以上、政治の原理的なシステムが進化する事はありません。ここで、打ち止めです。それゆえに、予測が不可能な問題に対して、特定の価値観に基づく「思想や宗教」で、政治を行ってはいけないのです。問題の解決は、是々非々の議論を経て、最も良いと思われる対処を選択するしか、やりようがありません。ここに、「神様がこう言っているから、こうするのが正しい」とか「思想的に、これが正しいから、こうするべきだ」という、根拠の無い方向性を持った硬直した考え方が、意思決定に入ってくると、部落が全滅する確率が上がります。』