落日のインド名門野党、二大政党制は守られるか

落日のインド名門野党、二大政党制は守られるか
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH0520Z0V01C22A1000000/

『人口14億人を抱える世界最大の民主主義国家で、現存するアジア最古の政党が、新しいリーダーに党勢回復を託した。

インド最大野党の国民会議派は10月中旬の党首選で、かつて鉄道相などを歴任したベテラン議員のマリカルジュン・カルゲ氏を新総裁に選出した。過去に首相3人を輩出した「ネール・ガンジー家」の長らく指定席だった総裁職を、選挙で選ぶのは実に22年ぶり。一族以外の就任は24年ぶりである。

「我々は民主主義と憲法への脅威と戦わなければならない」。新総裁の第一声は、ヒンズー至上主義を掲げて時に強権ぶりが目立つ与党・インド人民党(BJP)とモディ政権への対決宣言だった。

2014年の総選挙(下院選)の議席数はBJPの282に対して会議派は44、19年は303対52と、立て続けに惨敗した。1947年に英植民地から独立して以降、75年間の歴史の3分の2以上で与党の座にあった会議派が、いまほど長く政権から遠ざかったことはない。

下野した直接の原因は、2004~14年のシン政権期に露呈した腐敗や経済失政の数々だ。

08年の携帯電話事業の周波数割り当てを巡り、当時の担当閣僚が収賄容疑で逮捕された。10年の国際スポーツ大会を舞台にした汚職事件では、国際オリンピック委員会から加盟資格を一時停止され、14年のソチ冬季五輪は選手が個人資格で参加する憂き目に遭った。

経済でも規制緩和の遅れで投資が細り、政権後半は成長率の減速や急激なインフレが国民の不満を誘った。12年に起きた大規模停電では、人口の半分近い6億人の生活に影響が出て、インフラ整備の無策ぶりがあらわになった。

ただし会議派への信任はシン政権下で急に失墜したわけではない。退潮はそれ以前から長い時間をかけて進行してきた。

会議派の足跡はインド現代政治史そのものだ。創設は1885年。当初は知識人の漸進的な政治参加の受け皿として、反英勢力のガス抜きに使われた。第1次世界大戦後にマハトマ・ガンジー、チャンドラ・ボース、ジャワハルラール・ネールらが加わり、地方組織を強化して本格的な政党に脱皮する。独立に主導的な役割を果たし、初代首相に就いたネールのカリスマ的指導力のもとで、いまに続く民主政治の礎を築いた。

ネール亡き後、1966年に娘のインディラ・ガンジーが首相に担ぎ出されたのが、落日の始まりだった。ちなみに「ガンジー」は下院議員だった夫の姓で、聖人マハトマとは無関係である。

インディラは71年にパキスタンからのバングラデシュ独立へ武力介入し、第3次印パ戦争に勝利する。一方、75年には全土に非常事態を宣言して反対勢力を弾圧するなど、良くも悪くも強権を振るった。だが2年近い非常事態の解除後の77年総選挙で敗れ、初めて野党に転落する。3年後に首相へ返り咲いたが、84年にシーク教徒の護衛に射殺された。分離主義者を掃討するため、国軍にシーク教の聖地・黄金寺院を襲撃させた4カ月後のことだった。

インド初代首相のネールは独立とその後の民主主義の定着に多大な功績を残した=AP

首相と総裁の座は40歳の長男ラジブ・ガンジーが引き継いだが、汚職問題で89年に再び政権を失う。ラジブは91年、スリランカ内戦介入への報復として、同国の少数派タミル人の武装勢力の自爆テロで殺害されてしまう。会議派はその後も91~96年に経済自由化を推進したラオ政権、2004年のシン政権を輩出したものの、最近30年間のうち半分は野党に甘んじてきた。特に14年以降は、BJPに独走を許している。

長期衰退の背景は何か。「会議派はインド国内の様々な勢力を糾合する『接着剤』のような存在だった。その接着力が弱まってしまった」と岐阜女子大南アジア研究センターの笠井亮平・特別客員准教授は言う。

原因のひとつは会議派内の人材不足にある。インディラ、ラジブ母子はネール直系のカリスマ性で党を束ねた半面、権力が過度に集中し、私党化が進んだ。

ソニア氏㊧と息子のラフル氏は党勢が衰える会議派を引っ張ってきたが…(19年5月)=ロイター

ラジブの死後、妻でイタリア出身のソニア氏が1998年に党総裁に就いたが、首相就任は固辞した。2017年に総裁を継いだ長男のラフル氏は有力な首相候補と目されたが、外遊三昧で国内にほとんどいないと皮肉られる始末。19年総選挙の大敗の責任をとって2年で辞任した。暫定総裁に復帰したソニア氏からバトンを受け継ぐカルゲ氏も、ソニア氏やラフル氏の強い影響下にあるとされ、一族支配は変わらないとの見方が強い。

首相3人という華麗な血脈と、うち2人が暗殺された悲劇性から、ネール・ガンジー家は「インドのケネディ家」に擬せられる。本当の悲劇は、リーダーとしての適性に疑問符をつけられながら、一族に代わる求心力が会議派に見当たらないことだろう。

もうひとつの原因はインド社会の構造変化だ。1960年代までの会議派は、独立闘争における功績、「政教分離」の看板、地方に広がる組織力を武器に、地域や所得階層、カースト、宗教を問わず広範な支持を集めた。

しかし一党優位の「貯金」はいつまでも続かない。70年代以降、会議派自身の分裂や地域政党群の勃興により、民意の受け皿は多様化した。経済成長で政治意識の高い中間層が増え、インターネットの普及は政府に不都合な情報も広く拡散させる。会議派は有権者の置かれた状況や意識の変化についていけず、汚職対策も進まなかった。

そこに台頭してきたのがBJPだ。80年結成の比較的新しい党だが、ヒンズー至上主義によって世俗主義の会議派との差別化に成功した。人口の8割を占める多数派のナショナリズムを受け止め、全国政党として力を蓄えた。96年の総選挙で初めて第1党となり、98~2004年にバジパイ首相が初の本格政権を担った。

モディ氏の強力なリーダーシップと清新なイメージがBJP1強時代をもたらしている=ロイター

いったんは下野したが、14年の総選挙は西部のグジャラート州首相として経済振興や汚職追放で名を挙げたモディ氏を早くから首相候補に据えた。ラフル氏ら首相候補を曖昧にしたまま選挙戦に臨んだ会議派との差は歴然だった。名門家の御曹司のラフル氏とは対照的な「貧しい紅茶売りの息子」というモディ氏の生い立ちも、人気の一端を担った。19年の総選挙結果をみても、両党の差は開くばかりだ。

会議派の課題について、米カーネギー国際平和財団のミラン・バイシュナブ上級フェローは「イデオロギー、組織、リーダーシップの3つの欠陥に同時に悩まされている」と手厳しい。3つとは①ヒンズー至上主義の陰で世俗主義は支持を失いつつある②国民と切り離されたトップダウン型の限界③ガンジー王朝の後継者であるラフル氏がその任に適しているか証明されていない――を指す。そして党勢回復のためには「モディ氏やBJPに対抗する前に、まず自分たちが何を目指すのかを明確にするのが先決」と指摘する。

会議派は24年の次期総選挙での政権奪還を目標に掲げる。すでに80歳と高齢で、ネール・ガンジー家の傀儡(かいらい)と目されるカルゲ氏を「選挙の顔」に立てて戦っては、モディ氏とBJPの1強体制を崩すのは容易ではないだろう。しかしBJPに対抗し得る全国政党は、いまのところ国民会議派以外には存在しない。

世界銀行の「政治の民主化度ランキング」によれば、インドはモディ政権が発足した14年の82位から、直近の21年は101位までじりじりと順位を下げている。最大の民主主義国家は、最良からはむしろ遠ざかっているのが実情だ。

ネールは会議派の一党優位を確立した後も、野党を排除することはなかった。時計の針は回り、攻守は入れ替わった。創設137年の老舗政党は、制度疲労ともいえる古い体質を刷新し、政権交代が可能な二大政党制を死守できるか。与党への返り咲きよりまずは「名誉ある野党」に踏みとどまることが、現実的かつ最大の使命といえよう。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』