対露戦争に20世紀初頭から関係しているオックスフォード大学のブリングドンC

対露戦争に20世紀初頭から関係しているオックスフォード大学のブリングドンC | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
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『ロシアからドイツへバルト海経由で天然ガスを運んでいた天然ガスのパイプライン、「ノード・ストリーム」と「ノード・ストリーム2」が9月26日に爆破された。ガスが流出して圧力が低下、その事実をロシアのガスプロムは異常アラームで知るのだが、詳しい状況は理解できなかった。

ところがアラームが鳴った1分後にイギリスのリズ・トラス首相(当時)はiPoneでアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官へ「やった」というテキストのメッセージを送っている。そしてポーランドのラデク・シコルスキー元外務大臣は「ありがとう、アメリカ」とツイッターに書き込んだ。今では削除されているようだが、その事実は消せない。

 このシコルスキーは1980年代の前半にオックスフォード大学へ留学し、その際に学生の結社「ブリングドン・クラブ」へ入ったことは本ブログでも書いた通り。メンバーの多くはイートン校の出身だが、大酒を飲み、素行の悪いことで知られている。

 大金持ちの家に生まれた不良が集まっているように見えるが、その歴史は古く、創設されたのは1780年。シコルスキーと同じ1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そして金融界に君臨しているナット・ロスチャイルドも含まれている。

 シコルスキーは反ロシアで有名な人物だが、そのロシアからもオックスフォード大学へ留学してくる若者はいる。そうしたひとりが帝政ロシアで有力な貴族ユスポフ家のフェリックス。この人物は1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にブリングドン・クラブに入っている。留学時代、フェリックスはクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子どもとして1876年2月に生まれたスティーブン・アリーも後のMI6のオフィサーだ。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月である。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。地主の主張を代弁していたのがグレゴリー・ラスプーチンで、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシアを参戦させたいイギリス政府はロシアの資本家と手を組んでいたが、社会主義革命の前に資本主義革命を行わなければならないと信じる勢力もつながっていた。この「革命勢力」にボルシェビキは含まれていない。ウラジミル・レーニンなどボルシェビキの幹部は刑務所に入れられているか亡命していた。

 そうした中、ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めたが、退院後もラスプーチンは戦争に反対する。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。

 その年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 1916年12月にラスプーチンは暗殺されたが、殺害に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 そして1917年3月の「二月革命」でロマノフ朝は倒され、成立したのが臨時革命政府。この政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなければならない。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたレーニンのボルシェビキ。ドイツ外務省はボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキが実権を握ったのは11月の「十月革命」であり、1917年にあったふたつの革命を一緒くたにし、単純に「ボルシェビキ革命」と表現することは正しくない。何者かがミスリードしようとしているのかもしれない。

 ボルシェビキ政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、その後、ドイツで米英金融資本から資金的な支援を受けていたナチスが台頭するまでドイツとソ連の関係は良かった。
 ボルシェビキ政権が停戦を決めたことでドイツは西へ集中できるようになったのだが、1917年4月から参戦したアメリカが兵員を送り込み、イギリスやフランスに物資を供給して支援したことでドイツは劣勢になって敗北した。そして1918年8月にイギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはボルシェビキ体制を倒すために軍隊を派遣して干渉戦争を始めている。』