デンジャー・ゾーン(仮) 迫る中国との戦争

デンジャー・ゾーン(仮) 迫る中国との戦争
ハル・ブランズ 、 マイケル・ベックリー 、 奥山真司
https://tower.jp/item/5575592/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3(%E4%BB%AE)-%E8%BF%AB%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

 ※ オレのサイトで、この「ハル・ブランズ」で検索してた人がいた…。

 ※ ググったら、この本にヒットした…。

 ※ 参考になりそうなんで(奥山真司さん完訳の、「地政学 ー地理と戦略ー」というkindle本を、買って読んだ。けっこう、参考になった)、発売日の前のようだが、紹介しておく。

『フォーマット

書籍

構成数

1

国内/輸入

国内

パッケージ仕様

発売日

2022年12月26日

規格品番

レーベル

飛鳥新社

ISBN

9784864109291

版型

46

ページ数

288』

『「2025年台湾戦争」を警告した2022年8月刊の話題書、第一人者による邦訳決定!

・ピークを迎えた大国が陥る罠!

中国の国力は今が絶頂で、台湾を武力で併合するチャンスはしだいに失われていく。
「ドアが閉じる前に」行動しないと間に合わない、という焦りと誘惑。
習近平中国は第一次大戦のドイツ、真珠湾攻撃の日本と同じ道を歩む?

・ピークを越えた(今後の衰退を悟った)大国が最も攻撃的になる

・米中対立と紛争の可能性はこれからの直近5年間がもっとも危ない。
「トゥキディデスの罠」「100年マラソン」をくつがえす警鐘作
ベストセラー『米中もし戦わば』(ナヴァロ)『China2049』(ピルズベリー)『米中開戦前夜』(アリソン)を越える衝撃作!

・英エコノミスト誌、日経新聞、日経ビジネス、現代ビジネス、サウスチャイナモーニングポスト紙など続々紹介!』…、というものらしい…。

イタリアがロシア石油輸入を続けている

 ※ 今日は、こんなところで…。

イタリアがロシア石油輸入を続けている

『宮崎正弘の国際情勢解題」令和四年(2022)11月2日(水曜日)弐 通巻第7510号

ロシア石油を輸入禁止としたはずでは?
  中国、インドについでイタリアがロシア石油輸入を続けている
****************************************

 ロシアへの経済制裁に参加しない中国とインドはロシアからダンピングで石油とガスを急増させた。とくにインドはロシア石油を精製し、インド産として世界各地に輸出し、おおいに外貨を稼いだ。

 イタリアはEUメンバー、NATO加盟であり、ロシア制裁に加わっている。
 シチリアといえば、イタリアマフィアで知られるが、南側沿岸に巨大な石油精製基地がある。
 ロシアア制裁で西側はロシアからの石油を徐々に減らしていく方向にあると思いきや、どっこいシチリアで石油精製を行っているのが、ロシアのルクオイルである。シチリアの精製工場を所有し、イタリアのISAB社が管理している。従業員は3500名

 しかも皮肉なことにガソリンに精製されたうち93%が「イタリア製」となって米国へ輸出されている(ウォールストリートジャーナル、10月1日)
 ルクオイルのシチリア精製基地では日量40万バーレル。

 ルクオイルはロシア大手第二位だが、CEOのラビル・マカノフが入院先病院から転落死した(9月1日)。その前にも幹部が自宅地下室で死体となって発見されるという不可解な事故があいついでいる。

 ルクオイルの株価はウクライナ侵攻前の7000から10月1日現在4700となっている。

 シチリアは観光値としても有名でパレルモ音楽祭には日本からも歌手が参加する。筆者も三日ほど滞在したことがあるが、中華レストランの数と中国人のおびただしさには驚かされた。

 さて、こうしたタイミングに、欧米メジャーの第三四半期決算が出そろった。ウクライナ戦争による燃料価格冒頭を背景に大幅増益となった。庶民は物価高が家計を直撃され、生活の不安を訴えているというのに「メジャーの儲け過ぎは、いったい何だ」と不満の声が充満している。

とくに世界一の米エクソン・モービルの純利益は前年同期比2.9倍の197億ドル(約2兆9000億円)と過去最高を更新した。ちなみにアップルは207億ドルである。

      □☆◎☆み□☆☆□や☆□☆□ざ☆□☆□き☆□☆□    』  

ジャガイモ飢饉

ジャガイモ飢饉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E9%A3%A2%E9%A5%89

 ※ こういう問題もあった…。

 ※ 今でも、米国のアイリッシュ系移民は、ちょっと「偏見」の眼で見られがちなんじゃないか…。

 ※ 確か、JFKが、その「出世頭」じゃなかったか…。

 ※ 現ジョー・バイデン氏も、アイリッシュ系だったハズだ…。

 ※ 『なんとバイデン家は北西部のメイヨー県のバリナの出身だという。

1845~46年のジャガイモ飢饉でアメリカに移民したもので、バリナには多くの親戚もいて、テレビではバイデン氏の従兄弟だという人物も登場していた。

当然、そういうことであるなら、カトリックということになり、アメリカの大統領としては(46代となる)、ジョン・F・ケネディに次ぐ2人目のアイリッシュ系カトリック教徒の大統領ということになる。』( http://mtsuchiya.blog.fc2.com/blog-entry-1549.html )

 ※ ちょっと疲れてきた…。

 ※ 週の前半なのに、パワー使い過ぎた…。

 ※ 「資料」として、貼っておく…。

『ジャガイモ飢饉(ジャガイモききん、英語: Potato Famine、アイルランド語: An Gorta Mór あるいは An Drochshaol[1])は、19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉のことである。

アイルランドにおいては歴史を飢餓前と飢餓後に分けるほど決定的な影響を与えたため、「Great Famine(大飢饉)」と呼ばれている。特に1847年の状況は最も酷かったため、ブラック47(Black ’47)とも呼ばれる[2]。』

ジャガイモ飢饉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャガイモ飢饉
Great Famine
An Gorta Mór / Drochshaol
Skibbereen by James Mahony, 1847.JPG
飢えに苦しむ人々
国 グレートブリテン及びアイルランド連合王国(当時)
地域 アイルランド島
期間 1845年 – 1849年
総死者数 100万人
起因 政策の失敗、ジャガイモ疫病菌
救援物資 下記参照
住民への影響 死亡と移住で人口が20%から25%減少
結果 国の人口動態、政治、文化的景観の恒久的な変化
前回 アイルランド飢饉(1740年 – 1741年)
次回 アイルランド飢饉(1879年)

ジャガイモ飢饉(ジャガイモききん、英語: Potato Famine、アイルランド語: An Gorta Mór あるいは An Drochshaol[1])は、19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉のことである。アイルランドにおいては歴史を飢餓前と飢餓後に分けるほど決定的な影響を与えたため、「Great Famine(大飢饉)」と呼ばれている。特に1847年の状況は最も酷かったため、ブラック47(Black ’47)とも呼ばれる[2]。


概要

1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。1801年からグレートブリテン及びアイルランド連合王国の一部となったアイルランド島において、この不作を飢饉に変えた要因は、その後の政策にあると言われている。ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったのに対して、アイルランドの領主であるアイルランド貴族や地主はほとんどがグレートブリテン島に在住しているイングランド人やスコットランド人であり、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。連合王国政府も、緊急に救済食料を他から調達して飢え苦しんでいる人々に直接食料を配給することを、予算の関係などから躊躇しただけでなく、調達した食料を安値で売るなどの間接的救済策に重点を置いた。さらに、政府からの直接の救済措置の対象を土地を持たない者に制限したため、小作農が救済措置を受けるためにわずかな農地と家を二束三文で売り払う結果となり、これが食糧生産基盤に決定的な打撃を与え、飢餓を長引かせることになった。

この飢饉で、アイルランドの人口が少なくとも20%から25%減少し、10%から20%が島外へ移住した[3]。約100万人が餓死および病死し、主にアメリカ合衆国やカナダへの移住を余儀なくされた[4][5]。また結婚や出産が激減し、最終的にはアイルランド島の総人口が、最盛期の半分にまで落ち込んだ。さらにアイルランド語話者の激減を始め、民族文化も壊滅的な打撃を受けた。飢饉の主な原因は、1840年代にヨーロッパ全土で大規模に発生した卵菌のジャガイモ疫病菌によるものだった[6]。ヨーロッパ全体が影響を受けたとはいえ、アイルランドの全人口の3分の1が食料をジャガイモだけに頼っていたため、政治的、社会的、経済的な状況と関連したいくつかの要因によって問題が悪化し、現在でも学界で議論の対象となっている[7][8]。近年は経済成長などもあり増加傾向にあるのにもかかわらず、21世紀に入った2007年時点ですらアイルランド共和国と北アイルランドを合わせた全島の人口はいまだに約600万人と、大飢饉以前の数字には及んでいない。

飢餓はアイルランドの歴史の中で社会的衝撃を与え、アイルランドの人口統計、政治、文化を永遠に変えた[9]。大衆の記憶に残り、以来、アイルランドの民族主義運動でも言及される[10]。大飢饉は、三十年戦争から第一次世界大戦までの間にヨーロッパを襲った最大の人口大災害としても記憶されている[4]。
原因および背景

1801年のグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の成立以降、アイルランド島は全土がロンドンの連合王国政府および連合王国議会による直接的な統治下に置かれていた。行政は、政府が任命したアイルランド総督とアイルランド担当次官の2人の手に握られていた。アイルランドは連合王国庶民院に105名の議員を、連合王国貴族院に貴族代表議員として28名の終身議員を送り込んだ。1832年から1859年までの期間、アイルランドの代表者の70%は地主か地主の子どもだった[11]。

連合の成立以来の歴代政府は、後の首相ベンジャミン・ディズレーリが1844年に述べたところでは、「飢えた人口、不在の貴族、異質な教会、地球上で最も弱い執行政府」という国の統治問題を解決しようとした[12]。ある歴史家は、1801年から1845年の間に、114の委員会と61の特別委員会がアイルランドを訪問し、「災害を予言していたアイルランドは、大量飢餓の危機に瀕し、人口が急速に増加し、労働者の4分の3が失業し、劣悪な住宅事情と信じられないほど低い生活水準に陥っていた」とされており[13]、ヴィクトリア朝時代や産業化時代の近代的な繁栄を享受し始めたイギリス本国とは対照的であった。さらにアイルランドの農民は兄弟全員が土地を分割相続できたため、農地の細分化が進んだ[14]。政府が農業に重税をかけ始めたことで、この地域は食料のほとんどをイギリス本国に輸出せざるを得なくなり、地域住民の塊茎への依存度が高まり、病害虫に弱い地域となっていた。また政府は飢饉の間、あらゆる方法により人道支援を挫折させようとした。
土地と不動産の所有者

1829年にアイルランドにおけるカトリック解放が実現した。カトリック教徒はアイルランドの人口の約8割を占め、大多数は貧困と不安の中で生活していた。社会ピラミッドの頂点にいたのは、プロテスタントの上層階級であるイングランド人とアングロ・アイリッシュの一族で、土地の大部分を所有し、無制限の権力を持っていた。これらの土地のいくつかは広大であった。例えば、ルーカン伯爵は24,000ヘクタールの土地を所有していた。地主の多くはグレートブリテン島に住んでいたため「不在貴族」と呼ばれていた。代理人が物件を管理し、利益はグレートブリテン島に送られていた[15]。中にはアイルランドに行かなかった者もおり、輸出する植木や牛を育てるために最低賃金を支払っていた[16]。

1843年、政府は土地問題を主な原因と考え、デヴォン伯爵を中心とした王立委員会を設置し、アイルランドの土地占拠法を調査した。ダニエル・オコンネルは、委員会は地権者だけで構成され、完全に偏っていると評した[17]。1845年2月にデヴォンは「アイルランド人労働者とその家族が耐えた苦難を十分に説明することは不可能である…多くの地区で彼らの唯一の食料はジャガイモであり、唯一の飲み物は水である…彼らの小屋はかろうじて雨風をしのげるもので…ベッドや毛布は希少な贅沢品であり…彼らの豚と排泄物の山が彼らの唯一の財産のほぼ全てである」と報告した。委員会は、「ヨーロッパのどの国のどの国民も耐えなければならないより大きな苦しみに耐えるために労働者階級が示した莫大な忍耐を忘れることはできない、と私たちは信じている」と結論づけた[18]。

委員会は、土地所有者と代理人とのひどい関係が主な原因だと結論づけた。イギリスのように遺伝的な王族、封建的な絆、父権主義はなかった。アイルランドは、初代クレア伯爵(英語版)の土地所有者に関する演説(1800年)が示唆するように、「土地を没収することが権利」であるように、征服された国であった[19]。アイルランドの飢饉についての権威であるセシル・ウッドハム=スミス(英語版)によると、地主の土地はできるだけ多くの金を引き出すための富の源泉にすぎないと感じており、アイルランド人は「静かな憤りの中で不満を表現していた」という。クレア伯爵によるとアイルランドに住むには敵対的な場所であり、その結果、貴族の不在が一般的になり一部は人生に一度か二度しか訪れることができなかった。土地の使用料はすべてイギリスで使われ、1842年だけでも600万ポンドがアイルランドから送られてきたと推定されている。収集は地主の代理人の手の中にあり、人々から恐喝することに成功した金額に応じて才能が評価されていた[20]。

18世紀には、地主と交渉するための「仲人」制度が誕生した。これにより地主は継続的な収入を保証され、責任を奪われたが、借主は仲介者によって屈辱を受けることになった。委員会では「国を滅ぼすのを手伝った最も抑圧的な暴君」と表現され、「土地詐欺者」や「吸血鬼」と表現されていた[21]。

仲人は地主から大量の土地を一律料金で借りており、土地を小さな区画に分け、家賃を増やすために「発芽」と呼ばれる制度を導入した。賃借人は、高額な家賃の不払いなどの理由で、または穀物を植えるのではなく羊を育てるために家主の決定によって、追放される可能性があった。賃借人は、地主のために働くことで家賃を支払っていた[22]。

また、賃借人により行われた資産への改善は、契約期間が満了すると自動的に地主の所有物となり、改善の阻害要因となっていた。賃借人は土地に関して何の担保も持っておらず、いつでも追放することができた。この仕組みの唯一の例外はアルスター地方であり、そこでは「賃借人の権利」として知られている慣行の下、賃借人が自分自身で不動産を改善した場合に補償された。ウッドハム=スミスによると、委員会は「アイルランドの他の地域に比べてアルスターの繁栄と静けさが優れていたのは、賃借人の権利によるものだった」と述べた[21]。

アイルランドの地主は反省することなく権力を行使し、人々は恐れた。そのような状況の中で、ウッドハム=スミスは、「産業とビジネスは絶滅し、それゆえに作られた農民は、ヨーロッパで最も貧しかった」と述べている[18]。
賃借人・細分化・倒産

1845年には、アイルランドの賃借人の農場の24%が0.4から2ヘクタール、40%が2から6ヘクタールだった。他の農地では一家を養うのに十分な収穫量が得られなかったため、ジャガイモの植え付けにしか適していなかった。イギリス政府は、大飢饉の直前に貧困があまりにも蔓延していたことを知っており、小規模農家の3分の1は、イングランドとスコットランドで行われた季節労働からの収入を除いて、家賃を支払った後に一家を養うことさえできなかった[23]。飢饉の後、一定規模の土地の分割を禁止する改革が行われた[24]。

1841年の国勢調査によると、人口はわずか800万人で、そのうち3分の2は農業に頼って生き延びていたが、給料をもらって働くことはほとんどなかった。自分の土地と引き換えに地主のために働かなければならず、一家のために十分な食料を植えることができた。この制度は、アイルランド人にモノカルチャーの実践を強制し、ジャガイモだけが一家全員を十分に支えるものとなった。土地の権利は、19世紀初頭のアイルランドでの生死の差となっていた[16]。
ジャガイモ依存
ジャガイモ疫病菌によるジャガイモの不作は、アイルランドの大飢饉の主な原因のひとつだった

ジャガイモはアイルランドに観賞植物として導入された。17世紀末までには、パンや牛乳、穀物を基にしたものが主食となっていたが、補助食となった。18世紀の最初の20年間、ジャガイモは貧しい人々の主食となった[25]。1760年から1815年の間に経済が拡大したことで、小さな農場で一年中ジャガイモの農業が占めていた[26]。
ジャガイモ飢饉
1849年、飢饉のただ中にいる母親と2人の子供

ジャガイモ疫病菌の発生前には、2度の植物病害しかなかった[27]。1つは乾腐病として知られ、もう1つはウイルスで、カールとして知られていた[27][28]。

1851年の国勢調査では、1728年以降、24件のジャガイモの不作が指摘されており、その深刻度は様々であった。1739年には耕地は完全に破壊され、1740年には再び破壊された。1770年には再び不作となった。1800年にはまたもや大規模な不作があり、1807年には作物の半分が失われた。1821年と1822年には、マンスター地方とコノート地方ではジャガイモ栽培が失敗に終わり、1830年と1831年はメイヨー県、ドニゴール県、ゴールウェイ県で失敗の年となった。1832年から1834年と1836年には多くの地区が深刻な損失を被り、1835年にはアルスター地方での農業は失敗に終わった。1836年と1837年にはアイルランド全土で大規模な不作が起き、1839年には再び不作が全国的に広がった。1841年も1844年も農業の失敗が蔓延していた。ウッドハム=スミスによると、「ジャガイモ栽培に対する自信のなさは、アイルランドではすでに認識されていた事実だった」という[29]。

P・M・A・バークによると、ジャガイモ疫病菌がいつ、どのようにしてヨーロッパを襲ったかは明らかではないが、1842年以前には確かに存在せず、おそらく1844年には発生したとされている。少なくともひとつは、アンデス山脈、特にペルーが最初の発生地であることを示唆している。ヨーロッパでは肥料として使われていたグアノ貨物船でジャガイモ疫病菌がヨーロッパまで運ばれたとされている[30]。

1844年には、アイルランドの新聞がアメリカ大陸で2年前からジャガイモ栽培を襲っていた疫病について報じている[28]。ジェームズ・ドネリーによると、1843年と1844年に菌でジャガイモ栽培を荒廃させたアメリカ東部では、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークからの船がヨーロッパの港に伝染した可能性があるという[29]。W・C・パドックは、移民船の乗客を養うために使われたジャガイモで運ばれたことを示唆している[31]。

疫病が入り込むと、すぐさま広まった。1845年の晩夏と初秋には、すでに中央ヨーロッパにまで到達していた。8月中旬までにベルギー、オランダ、フランス北部、イングランド南部が襲われた[32]。

8月16日、『Gardeners’ Chronicle and Horticultural Gazette』は、ワイト島での異常な疫病についての記事を掲載した。一週間後の8月23日には、「ジャガイモの作物に恐ろしい病気が出た…ベルギーでは畑が荒れ果てている…コヴェント・ガーデンの市場には健康なサンプルがひとつもない…この砂漠の治療法は存在しない…」と報じられた[33]。これらの記事はアイルランドの新聞に広く掲載されている[34]。9月13日、『Gardeners’ Chronicle』は「アイルランドでこの病気が無条件に宣告されたことを報告するため、非常に残念に思って報道を止めた。英国政府は、このような状況にもかかわらず、今後の数週間について楽観的である」と発表した[35][33]。

1845年の農作物の損失は50%から3分の1と推定されている[35][36]。1845年11月19日、アイルランド全土からの何百通もの手紙が届いたダブリンのマンションハウスは、ジャガイモの全生産量の3分の1以上が破壊されたと宣言した[32]。

1846年には、作物の4分の3が失われた[37]。12月には3分の1の100万人が公務員を解雇された[38]。コーマック・オ・グラーダによると、1846年の秋、アイルランドの農村部で最初の疫病が発生し、飢餓による最初の死者が記録されたという[39]。1847年には植え付け用のジャガイモが不足し、発芽するものも少なく、飢饉が続いた。1848年には生産性は通常の3分の2しかなかった。300万人以上のアイルランド人が食料としてジャガイモに依存していたため、飢えと死は避けられなかった[37]。
発端
ジャガイモ疫病

このジャガイモ飢饉の発端とされるジャガイモ疫病は、植物の伝染病の一種である。このような伝染病が蔓延するためには、感染源、宿主、環境の3つの要素が揃うことが必要である。

ジャガイモがヨーロッパに持ち込まれた当初は、この中の感染源となる病原菌そのものがメキシコの特定の地域に限定されていて、ヨーロッパにはいまだ伝来していなかったものと推定されている。

その後、何らかの理由によりジャガイモ疫病の菌が北アメリカからヨーロッパに持ち込まれて急速に蔓延し、ジャガイモ作物に壊滅的な被害を与えることになった。当時はまだ、このような微生物が病気を引き起こすという考え方そのものが一般的に受け入れられていない時代であり、Phytophthora infestansがその原因菌であると明らかにされたのは、さらに時代が下って1867年のアントン・ド・バリーの功績による。当時のヨーロッパでは、ジャガイモの疫病の存在自体が知られておらず、これがヨーロッパにおける最初の蔓延であった。

ジャガイモは通常、前年の塊茎を植えるという無性生殖による栽培法を用いる。これを利用して、当時のヨーロッパでは収量の多い品種に偏った栽培が行われてゆき、遺伝的多様性がほとんど無かった。そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、ヨーロッパでは菌の感染がそれまでにないほど広がった。これに対して、ジャガイモが主食作物であった原産地のアンデス地方では、1つの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌の蔓延による飢饉を防いでいた。また現代の大規模農業でも収量の多い品種に偏って栽培される傾向は強いが、種芋の段階で防疫対策が取られている他に、品種改良によって耐病性を獲得させている。
アイルランドでの反応

ダブリン・コーポレーション(現在のダブリン市長)は、ヴィクトリア女王に「事前に議会を招集するように祈る」(当時、議会は休会中)と、アイルランドの公共事業、特に鉄道のための資金調達を勧告するための文書を送った。ベルファスト評議会が会合を開き、同様の提案をしたが、ミッチェルによると、「 アイルランドは実質的に王国の一部であるため、2つの島の統一会計は慈善事業ではなく、公共事業の仕事を提供するために使うべきだと要求した」とされ、どちらの協会も慈善事業を依頼していないという。「もしイングランドのヨークシャーやランカシャーが同じような災難に見舞われていたら、間違いなくこのような措置が迅速かつ自由に取られていただろう」というのが意見であった[40]。

オーガスタス・フィッツジェラルド、ヴァレンタイン・ローレス、ダニエル・オコンネルらダブリン市民の協議会がアイルランド総督に宛てて、輸入穀物の一時的な開港、穀物蒸留の停止、公共事業の促進などの提案をした。何百万人もの人々がすぐに食料を失うことになるため、非常に緊急性が高かった。ハイトスベリー卿は、「時期尚早」であることを伝え、イギリスから学者(プレイフェアとリンドリー)が派遣され、これらの事実を確認していること、また検査官が絶えず地区についての報告書を送っていること、市場に差し迫った圧力はないことなどを伝え、心配しないように求めた[40]。ヘイトスベリー卿からの報告のうち、ピールはジェームズ・グラハム卿への手紙の中で、この報告は憂慮すべきものであると述べているが、ウッドハム=スミスによれば、「アイルランドでは常に情報が誇張される傾向がある」と述べていたことを思い出した[41]。

1845年12月8日、ダニエル・オコンネルは、差し迫った災害に対して次のような救済策を提案した。土地の所有者に寛大な家賃を与えるが、改善のために土地に費やしたすべてのお金のために地主に補償を与える、アルスター地方で実践されているような「地主の権利」の導入だった[42]。

その後、オコンネルは同時期にベルギーの立法を提案、すなわち輸出に対して港を閉じるが、輸入のために開けるというものだった。アイルランドに自国の議会があれば港を開放し、アイルランドに植えられた豊富な作物はアイルランド人に任せることができると提案した。オコンネルは、アイルランド議会だけが人々に食料と仕事の両方を提供することができると主張し、1800年の合同法の破棄を求めた[42]。
ジョン・ミッチェル

アイルランドを代表する政治作家の一人であるジョン・ミッチェルは、1844年半ば、アイルランドの新聞『The Nation』でアイルランドの「ジャガイモ飢饉」の問題を取り上げ、ある革命では飢餓がいかに強力なものであったかを指摘している[43]。1846年2月14日、「飢餓が形成されつつある開放的な方法」についての光景を明らかにし、間もなく「アイルランドでは何百万人もの人間が何も食べるものがない」という考えを政府はなぜ持っていなかったのかと問いかけた[44]。

2月28日、貴族院での採決で援助計画について書いたミッチェルは、この種の計画は妨害されないだろうと指摘した。しかし、アイルランドの人口をどのように養うべきかについては、政府の見解が異なるだろうとしている[45]。

ミッチェルは1846年3月7日の記事『English rule(イギリスの支配)』で、アイルランドの人々は「日々飢えを予想していた」と発表し、その原因は「天の政府」ではなく「イギリスの強欲で残酷な政治」にあるとしている。また、人々は「飢餓が続いている間に何もしないことは、イギリスの暴虐以外の何物でもないと信じていた。飢えのために子供たちは座れなかったが、彼らは自分たちの皿の上にイギリスの貪欲を見た」と続けた。ミッチェルによると、人々は「自分たちの食べ物が地表で腐っていくのを見た」とし、「自分たちの手で植えて収穫したトウモロコシでいっぱいの重たい船が、イギリスに向けて帆を上げていくのを見た」という[45]。

ミッチェルはその後、飢饉に関する最初の一般的な記述のひとつである1861年の『The Last Conquest of Ireland (Perhaps)(アイルランド最後の征服 ❲おそらく❳ )』を書き、イギリスによる飢饉の扱いはアイルランド人の故意の殺人であるというアイルランドの一般的な見解を確立した[46]。これにより、ミッチェルは反乱で訴えられたが、陪審員によって無罪になった。その後、再び反逆罪で起訴され、バミューダに14年間の亡命を言い渡された[47]。

アイルランドの新聞『The Nation』は、チャールズ・ギャヴァン・ダフィーによると、ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったのに対して[48]、アイルランドの領主であるアイルランド貴族や地主はほとんどがグレートブリテン島に在住しているイングランド人やスコットランド人であり、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。

1801年の合同法によると、アイルランドは大英帝国の一部であり、「地球上で最も豊かな帝国」であり、「帝国の中で最も肥沃な部分」とされていた[49]。にもかかわらず、アイルランドの選挙で選ばれた代表者は、議会で国を代表して行動する力がないように見えた。これについて、ジョン・ミッチェルは「この島は地球上で最も豊かな帝国に属していると言われていた…5年後には人口の250万人(4分の1以上)を飢饉や飢餓による病気、飢えから逃れるための移住で失う可能性がある…」と述べた[49]。

アイルランドでは、1845年から1851年までのジャガイモ飢饉の時代は、政治的な対立に満ちていた[11]。ダニエル・オコンネルによって設立され、合同法の廃止を求めていた大衆政治運動の「廃止組合」は、合同法の目的が失敗したと宣言した。最も急進的な青年アイルランドは廃止組合から分離し、1848年に武装反乱を試みたが、失敗に終わった。
政府の対応
ロバート・ピール政権の反応
ロバート・ピール

フランシス・ライオンズは、危機の深刻度が低い部分での英国政府の初期対応を「迅速かつ比較的成功した」と評価している[50]。1845年秋の農作物の大暴落に直面し、政府の長であるロバート・ピールは、アメリカ合衆国から10万ポンドのトウモロコシとコーンミールを密かに購入した。政府は、これが民間の助けを求める試みを阻止するのに役立つことを望んでいた。悪天候のため、最初の船がアイルランドに到着したのは1846年2月初旬だった[51]。

トウモロコシはその後、1ペニーで転売された[52]。しかし、処理されておらず、長く複雑な作業で、現地では栽培できそうになかった。また、食べる前には再度調理しなければならなかった[51]。1846年、ピールは人為的に価格を高く保つための関税である小麦法を廃止した[51]。飢饉は1846年に悪化し、小麦法の廃止は、効用的ではなかった。これが保守党をさらに分裂させ、ピールの没落につながった[52]。3月にピールは公共事業計画を立ち上げたが、6月29日に辞任に追い込まれた[53]。7月5日にジョン・ラッセル卿が引き継いだ[54]。
ジョン・ラッセル政権の反応
ジョン・ラッセル

ピールの後継者ジョン・ラッセル卿の対応はやや不十分であったことが判明し、危機は悪化した。ラッセルはいくつかの公共事業を導入し、1846年12月までは50万人のアイルランド人を雇用していたが、その管理が不可能であることが判明し、飢饉の犠牲者に対する政府の援助を担当していたチャールズ・トレベリアン卿は、「神の裁きがアイルランド人に教訓を与えるためにこの災難を送った」と信じ、援助を制限した[55]。この政策のために、アイルランドの曲『フィールズ・オブ・アゼンリー』で「光栄」とされていた。公共事業は生産性がない、つまり自費を賄うための資金を捻出しないように厳しく命じられていた。ジョン・ミッチェルによると、何十万人もの病人や飢えた男が、穴を掘ったり、道路を壊したり、すべての無駄な活動を続けていたという[56]。

ラッセル政権時代のホイッグ新政権は、市場が必要な食料を供給してくれるという自由放任主義的な考えに影響されながらも、同時にイギリスへの食料輸出を看過し、政府の対策を止め、人々に仕事も金も食料もないままにした[57][58]。1月には、無料のスープと一緒に、イギリスの救貧法で管理されている一部の直接援助計画を開始した。救貧法の費用は主に地元の土地所有者にかかっており、土地から賃借人を立ち退かせることで問題を軽減しようとした[55]。ジェイムズ・ドネリーによると、飢餓はアイルランドの富裕層によって賄われるべきだというイギリス人の考えがあったからこそ、このように制度が組織化されたのだという[59]。そもそも飢饉を起こしたのは、イギリスに住んでいたアイルランド人の所有者である[59]。

救貧法のグレゴリー条項は、少なくとも4分の1エーカーの土地を持っている者が援助を受けることを禁じていた[55]。実際には、ある農民が、家賃や手数料を支払うために自分の生産物をすべて売ってしまった場合、同じ状況にある何千人もの農民と同様に、助けを求めることはできても、自分の土地をすべて持ち主に引き渡すまでは何も受け取れないということを意味していた[56]。これらの要因が重なり、1849年には9万、1850年には10万4千という数百の区画が人々によって放棄されることになった[55]。
イギリス本国への食品輸出
ダブリンに建立された飢饉追悼碑

記録によれば、1840年代に起きた飢饉の最も酷い時期ですら、食料はアイルランドから輸出されていた。これに対し、アイルランドで1782年から1783年にかけて飢饉が起きた際は、港は閉鎖され、アイルランド人のためにアイルランド産の食料は確保された。結果、すぐに食料価格は下落し、商人は輸出禁止に対して反対運動を行ったが、1780年代の政府はその反対を覆した。ところが、1840年代には食料の輸出禁止は行われなかった[60]。

アイルランドの飢饉についての権威であるセシル・ウッドハム=スミスの著書『The Great Hunger; Ireland 1845-1849(大飢餓、1845年 – 1849年のアイルランド )』で次のように言及した[61]。

(前略)飢餓でアイルランドの人々が死んでいっている時に、大量の食物がアイルランドからイングランドに輸出されていたという疑いようのないこの事実ほど、激しい怒りをかき立て、この2つの国(イングランドとアイルランド)の間に憎悪の関係を生んだものはない。

実際、アイルランドはジャガイモ飢饉の続いた5年間のほとんどを通して、食料の純輸出国であった。リヴァプール大学のフェローであり、飢饉に関する2つの文献、『Irish Famine: This Great Calamity(アイルランドの飢饉という大災害)』および『A Death-Dealing Famine(死に物狂いの大飢饉)』の著者であるクリスティーン・キニアリーによれば、子牛、家畜類(豚を除く)、ベーコン、ハムのアイルランドの輸出量は飢饉の間に増加していた。飢饉が起きた地域のアイルランドの港からは、護衛に守られながら食料が船で輸出されていた。貧困層は食料を買う金もなく、政府は食料輸出禁止も行わなかった[62]。

ただ、アイルランドの気象学者のオースティン・バークは著書『The use of the potato crop in pre-famine Ireland(飢饉前のアイルランドでのジャガイモの使用について)』の中で、ウッドハム=スミスのいくつかの計算に異議を唱え、1846年12月の輸入量はほぼ2倍になっていると書いている。

簡単なその場しのぎの穀物のアイルランドからの輸出禁止では、1846年のジャガイモの収穫を失ったことによる不足分に対応することは出来なかったのは明らかである。

慈善活動
ダブリンのセント・スティーブンス・グリーンにあるエドワード・デラニー作の飢饉記念碑(1967年)

ウィリアム・スミス・オブライエンは、1845年2月に上記で明記した廃止組合の慈善事業について話し、この問題に関する普遍的な感覚はイギリスの慈善事業は受け入れられないだろうという事実に賛同した。オブライエンは、アイルランドの資源は人口を十分に維持するには十分すぎるほどあり、その資源が枯渇するまでは、イギリスに助けを求めることでアイルランドを「劣化」させないことを願っているとの見解を示した[63]。

ミッチェルは『The Last Conquest of Ireland (Perhaps)(アイルランド最後の征服 ❲おそらく❳ )』でこのことを発表し、この間アイルランドから慈善を求めた者は一人もおらず、アイルランドに代わって慈善を求めていたのはイギリスであり、管理する責任も負っていたと述べている[63]。多額の義援金が寄付され、コルカタは14,000ポンドを最初に寄付した。イギリス東インド会社に従軍していたアイルランド人兵士たちも集まった。教皇ピウス9世が資金を送り、ヴィクトリア女王も2,000ポンドを寄付した[64]。

クエーカーのアルフレッド・ウェッブは、当時アイルランドで多くのボランティアをしていた一人である[65]。

宗教団体だけでなく、非宗教団体も被害者を支援するためにやってきた。英国援助協会もそのひとつだった。1847年に設立され、イギリス、アメリカ合衆国、オーストラリアのために資金を調達した。資金は、アイルランドの絶望を緩和するために金を求めるヴィクトリア女王からの手紙から恩恵を受けている[66]。最初の手紙で、協会は171,533ポンドを達成し、合計では200,000ポンドを集めた。

友の会(クエーカーズ)の中央援助委員会のような民間機関は、官僚機構のによる食料配給の早さが落ちているにもかかわらず、政府援助の終了によって生じた空白を復活するまで埋めようとしてきた[58]。
オスマン帝国の援助

1845年、オスマン帝国のスルターン、アブデュルメジト1世はアイルランド支援のために1万ポンドを送ると宣言したが、ヴィクトリア女王は2,000ポンドしか送っていなかったため、スルタンは1,000ポンドしか送らないよう要求した。スルタンは1,000ポンドを送り、密かに3隻の船を満杯にして送った。イギリスは船を封鎖しようとしたが、食料はドロヘダ湾に到達し、オスマン帝国の船員たちによってそこに残された[67][68]。
アメリカインディアン

1847年に1845年から1849年にかけてのアイルランドの飢饉に触れ、アメリカのチョクトー族が170ドルを集め、飢えた男性、女性、子どもを援助するために送った。150周年を記念して、8人のアイルランド人が「涙の軌跡」を辿り、アイルランド大統領メアリー・ロビンソンが寄付を祝った[69]。
立ち退き

地主は、年4ポンド以下の賃料で各賃借人の料金を支払う責任を負っていた。貧乏な賃借人の土地を持っていた所有者は、すぐに手数料を取られ、巨額の借金を背負うことになった。その後、貧しい入居者を小さな物件から引き離し、年に4ポンドを超える家賃の大きな物件にまとめるようになり、借金は減っていった。1846年にはいくつかの立ち退きがあったが、1847年には大規模な立ち退きがあった[70]。ジェームズ・S・ドネリーJr.によると、飢餓時代に何人の人が追い出されたかは分からないという。警察が土地の立ち退きを数え始めたのは1849年のことで、1849年から1854年までの間に25万人近くが公式に立ち退きを登録していた[71]。

ドナリーはこれを実数以下と考えており、全期間(1846年 – 1854年)に「自主的に」土地を離れるように圧力をかけられた人の数を含めると、500万人を超えるとされている[72]。ヘレン・リットンは、「自発的な」土地の引き渡しは何千件もあったと言うが、ボランティアはほとんどいなかったとも指摘している。「避難所が受け入れてくれると信じ、騙されて」少額の金で立ち退くように説得されたケースもあった[70]。

クレア県では、地主が何千もの一家を追い出し、人口密度の高い居住地を取り壊したときに、最悪の立ち退きが発生した。ケネディ大尉は1848年4月、11月の時点で1000軒近くの家が取り壊され、それぞれに平均6人が住んでいたと推定している[73]。

クレア県の次に立ち退きの影響を最も受けた地域はメイヨー県で、1849年から1854年の間に立ち退き全体の10%を占めていた。24,000ヘクタール以上の土地を所有していたルーカン伯爵は、「聖職者に金を払うために貧乏人を作らない」と言っていたとされている。バリンローブの2,000人以上の賃借者を退去させ、畜産用の土地を利用していた[74]。1848年、スライゴ侯爵はウェストポート・ユニオンに1,650ポンドを借りていた。侯爵は、明らかに浮浪者で不誠実な人だけを追い出すという選択的な進め方をしたと言っていたが、その他も追い出していた。総資産の約4分の1の物件から人を追い出した[75]。

リットンによると、立ち退きは飢饉の前に起きたのかもしれないが、秘密結社を恐れてのことだという。しかし、飢饉で弱体化していた。復讐は時折行われ、1847年の秋から冬にかけて7人の地主が襲われ、そのうち6人が致命的な被害を受けた。他にも賃借者のいない10人の地主が殺害された[76]。

クラレンドン公は、これが反乱になるかもしれないと心配し、特別な力を要求したが、ジョン・ラッセル卿はその訴えに共感しなかった。クラレンドン卿は、そもそもの悲劇の原因は地主にあると考えており、「イングランドの地主たちが、ウサギやオウムのように撃たれたくないのは幾分事実だが…イングランドの地主たちは、貧しい人々を永遠に追放し、頭上に家を焼いて将来のための備えを残さないことを捨てた者はいなかった」と述べている。1847年には、アイルランドへの追加兵力の公約として、犯罪・暴挙法が承認された[77]。

ウィリアム・グレゴリーにちなんで名付けられ、ドナリーによって「アイルランドの救貧法の悪質な改正」と表現された「グレゴリー条項」を経て[72]、一般的には「4分の1エーカー条項」として知られているこの節では、4分の1エーカー以上の土地を持つ賃借人は、避難所の内外で公的援助を受ける資格がないと述べられている。委員や検査官は当初、この条項を飢餓に対する援助をより効率的に行うための貴重な手段と考えていたが、すぐにその欠陥が明らかになった。ドナリーによると、4分の1エーカー条項が「間接的に不吉な道具」であることはすぐに明らかになった[78]。
移民
詳細は「Irish diaspora」を参照
移民として旅立つ者を見送る人々
アイルランドの人口変動地図(1841年 – 1851年)
1750年以降のヨーロッパとアイルランドの人口増加の違いを示す縮尺グラフ

アイルランドからの移民が大幅に増えた原因は飢餓で、年や県にもよるが、45%から85%も増加した。アイルランドからの大量移民が始まった時代でもない。移民の歴史は18世紀半ばまで遡ることができるが、その時には25万人の人々が50年の間にアイルランドから新世界へと旅立った。ナポレオンの敗北から飢饉が始まるまでの30年間、「少なくとも1,000,000人、おそらく1,500,000人が移住した」とされている。しかし、飢饉の最悪の時期には、移民はわずか1年で約25万人に達し、ほとんどの移民が西アイルランドを離れた。

一家全員が移住したのではなく、若い者だけが移住した。それほどまでに、移住は一種の通過儀礼となっており、歴史上の同様の移住とは異なり、女性は男性と同じ数だけ移住したというデータが証明している。移民により、アイルランドに残った一家に送金しており、「1851年には140万4,000ポンドに達した」とされている。

1845年から1850年までの飢饉期の移住先は、主に連合王国内のグレートブリテン島への移住、ゴールドラッシュが発生していたアメリカ合衆国、連合王国の植民地であったカナダ、オーストラリアだった[4]。

アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカへの移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。

1847年にカナダに航海した10万人のアイルランド人のうち、5分の1が飢餓と栄養失調で死亡し、そのうち5,000人がグロス・イルで死亡したと推定されている。一部の船での死亡率が30%に到達するのが一般的だった[79]。

1854年には、150万人から200万人のアイルランド人が立ち退きや飢餓、悪い生活状況のために国を離れた。アメリカ合衆国では、ほとんどのアイルランド人は歩くようになり、わずかな金で船が停泊している都市に滞在しなければならなかった。1850年には、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアの人口の4分の1をアイルランド人が占めていた。多くのアイルランド人は、アメリカ大陸のいくつかの鉱山コミュニティで多数派になった[80]。

1851年のカナダの国勢調査によると、トロントの住民の半数以上がアイルランド人で、1847年だけでも3万8000人の飢えたアイルランド人が2万人強の市民の街に流入したという。大英帝国の一部であるカナダは他の都市でも、アメリカのようにアイルランド船に港を閉めることができず、切符は低価格で購入することができたため、大量のアイルランド人移民を受け入れた(立ち退きの場合は、所有者によっては無料で購入することもできた)。しかし、イギリス政府は民族主義者の蜂起を恐れて、1847年以降のカナダへのアイルランド人移民に障壁を設け、結果としてアメリカへの移民が増加した[81]。

19世紀のアイルランドでは、飢餓が急激な人口減少の始まりとなった。19世紀の最初の30年間で人口は13%から14%増加していた。1831年から1841年の間に人口は5%増加した。資源が直線的に増加している間、人口が幾何級数的に拡大しているというトーマス・マルサスの考えの応用は、1817年と1822年の飢饉の時期に人気があった。しかし、大飢饉の10年前の1830年代には、これらの理論はあまりにも単純すぎると見られていた[82]。
1848年の反乱
ウィリアム・スミス・オブライエン

1847年、青年アイルランド党の指導者であったウィリアム・スミス・オブライエンは、アイルランド連邦の創設者の一人となり、1800年の合同法の破棄を求める運動を行い、食料輸出の廃止や港湾の閉鎖を訴えた。翌年、オブライエンはティペラリー県で地主とその代理人に対抗して地主のいない労働者の抵抗を組織した。

1848年7月23日から29日の間に、オブライエン、ミーガー、ディロンはウェックスフォード県、キルケニー県、ティペラリー県の間を移動しながら反乱を呼びかけた。青年アイルランドの指導者らの最後の主要な会議は7月28日に行われた。翌日、オブライエンは現場におり、「コモンズ」と呼ばれるバリケードがあり、逮捕を免れようとしていた。家に避難し、数人の人質を取って、オブライエンは窓から警察に話をさせられ、「我々はみんなアイルランド人である。武器を置いてきたから、自由になれる」と述べた[83]。しかし、何かが起き、銃撃戦に発展し、数名が負傷した。何人かの反乱軍の指導者が告発され、死刑判決を受けた。刑期はその後、ヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニア州)に亡命して減刑されたが、そこには数々の流刑地があった[84]。ミーガーとジョン・ミッチェルは、1850年代にアメリカに逃れて移住することができた。
結果
犠牲者

この飢饉の間にどのくらいの死者が出たかは不明であるが、飢餓そのものよりも病気で死んだ人の方が多かったのは確かである[85]。ただ、ヨーロッパを広範囲に襲ったコレラやチフスよりも多くの死者が出たとも言われている。当時は国勢調査がまだ始められておらず、各地のカトリック教会に残された記録も不完全である[86]。アイルランド聖公会の記録の多くは(アイルランド聖公会へのカトリック地方教会の十分の一税徴収の記録を含む)、1922年のアイルランド内戦の際にフォー・コーツ放火により焼失した。

見積もりの方法の一つとして、1850年代の最終的な人口との比較をする方法がある。もし飢饉が発生しなければ、1851年にはアイルランドの人口は800万から900万人になっていたはずだと考えられている。1841年に行われた調査では、人口は800万人をわずかに超えていたからである[87]。しかし飢饉の発生した直後、1851年に行われた調査では、アイルランドの人口は6,552,385人であった。10年でほぼ150万人が死亡、あるいは国外脱出したと考えられる[88]。現代の歴史家と統計学者は、病気と飢餓の影響で80万人から100万人が亡くなったと考えている。加えて、計200万人以上がアイルランド島外に移住・移民したと考えられている[89][90]。
1841年から1851年の人口の減少(%)[91] レンスター マンスター アルスター コノート アイルランド島全体
15.3 22.5 15.7 28.8 20
1849年3月30日に建てられたメイヨー県のある大飢饉の犠牲者のための慰霊碑

おそらく、死亡者の推定値として最もよく知られているのは、ジョエル・モキイアの統計である[92]。モキイアの数は、1846年から1851年の間にアイルランドで餓死者が110万から150万人にも及ぶ。上下の推定値を含む2つのデータセットを作成したが、地域的なパターンの違いはあまり見られなかった。これらの異常性から、コーマック・オ・グラーダは、S・H・コーセンのレビューを行った。コーセンの死亡率の推定は、1851年の国勢調査に含まれる遡及情報に大きく依存していた。1851年の国勢調査に含まれる死亡者数の表は、死亡率の実態を過小評価していると激しく批判された。コーセンの80万という数字は、現在では非常に低い数字とされている[92]。その理由は、生存者から情報を収集し、過去10年間の記憶を持たなければならないため、病気や死亡の実態を過小評価していることにある。死と移住によって一家全員が排除され、国勢調査の質問に答える生存者はほとんどいなくなった。

もうひとつの不確実性の領域は、身内の死因として市民から与えられた病気の記述にある[92]。ワイルドは、本来の死亡率を過小評価していると批判されているが、大飢饉の病歴データを提供している[93]。人口に影響を与えた病気は、飢餓に起因する病気と栄養失調の病気の2つに分類される。栄養不足の中でも、最も多かったのは空腹感とよどみ、そして、滴下症と呼ばれる状態だった。滴下(浮腫)は、空腹を伴うクワシオルコルなど、様々な病気の症状に付けられた俗称であった[94]。しかし、最大の死因は栄養失調ではなく、飢餓による病気であった[93]。栄養失調者は感染症に非常に弱く、その中でも重症化した。麻疹、下痢、結核、百日咳、蠕虫、コレラはいずれも栄養状態と関連していた。天然痘やインフルエンザのような潜在的に致死性のある病気は、その蔓延が栄養とは無関係であったため、非常に病原性が高かった。

飢餓における病気の伝染の大きな原因は、社会的変位であった。その最たる例が、死者数が最も多かった発熱である。俗説では、医学的な意見の他に、発熱と空腹が関係していた。この見解は間違っていたわけではないが、スープ、食料品店、避難所を配布するために台所に飢えた人々を集めることが、感染症が広がる理想的な条件だった[95][96]。下痢に関する病気については、衛生状態の悪さと食生活の変化によるものだった。飢餓で無力化した人口の死因はコレラだった。アイルランドでは1830年代にコレラが短期間に流行していたが、その後の10年間でアジア、ヨーロッパ、イギリスで抑えきれずに広がり、1849年にはついにアイルランドに到達した[96]。

1851年の国勢調査について、コーマック・オ・グラーダとジョエル・モキイアは、これを欠陥のある出典として記述している。制度的な推定値と人々の組み合わせが、飢餓による死亡者数の偏った不完全な説明になっていると主張している[97]。オ・グラーダは、W・A・マッカーサーの調査ついて言及し、専門家は常に国勢調査の死亡率表は精度の面で多くのことが望まれていないと述べている[98]。
結果および評価

ジャガイモは飢饉の後もアイルランドの主要な農業生産物であり続けた。19世紀末、アイルランド島の一人当たりのジャガイモの消費量は1日4ポンドで、世界で最も多かった。後の飢饉の影響ははるかに小さく、一般的には歴史家以外には最小限に抑えられたり、忘れ去られたりしている。1911年の国勢調査では、アイルランド島の人口は約440万人で、1800年や2000年とほぼ同じで、史上最多人口の約半分となっている。また、犠牲者の多くが被支配層のアイルランド人で、彼らは主にアイルランド語話者であった。しかし飢饉によって人口が減ったことに加え、生き残ったアイルランド人もその後の政策や生活上の便宜から英語を話すようになったため、アイルランド語話者の比率が回復不可能なほど激減し、英語の優位が確立する結果となった。

この出来事の現代的な見方は、ジョン・ラッセルの政府対応や危機管理を厳しく批判していた。当初から、災害の大きさを予測できなかったという政府への非難があった。ロバート・ピール前政権で内務大臣を務めたジェームズ・グラハム卿は、「アイルランドの困難の実態は政府によって過小評価されており、経済科学の狭い枠組みの中での対策では解決できない」との見解を手紙で伝えている[99]。今日見ても、アイルランド史の中で物議を醸している。ジャガイモの収穫失敗とそれに伴う大規模な飢饉における英国政府の役割と、これが省略による大量虐殺と見なすことができるかどうかについての議論や議論は、歴史的・政治的な観点から、依然として論争の的となっている[4]。

この悲劇は、アイルランド全土の多くの記念碑、特に最大の犠牲者を出した地域や、アイルランド人の重要なコミュニティが移住してきた世界中の都市で記憶されている。これらの記念碑には、ダブリンのカスタム・ハウス波止場に、アーティストのローワン・ギレスピーによる、ダブリン波止場の船に向かっているかのような人物の彫刻がある。また、メイヨー県のクロー・パトリックの麓にあるマリスク・ミレニアム平和公園にも大きな記念碑がある[100]。アメリカ合衆国にある記念碑の中には、多くのアイルランド人が飢餓から逃れるためにたどり着いたニューヨークにある「アイリッシュ・ハンガー・メモリアル」がある[101]。

大飢饉から1世紀半以上経った今でも、アイルランド文化と結びついているのは、有名であろうとなかろうと、多くのアイルランド人が国際的に飢餓対策に取り組んできたからである。1985年、ライヴエイドの創始者ボブ・ゲルドフは、アイルランドの人々が一人当たりの価値がどの国よりも高く貢献したことを明らかにした。アイルランドのいくつかの非政府組織は、アフリカの飢餓との戦いで中心的な役割を果たしている。2000年、U2のシンガーであるボノは、「ジュビリー2000」構想の立ち上げの際に、アフリカ諸国の債務の帳消しを求めるキャンペーンを行った[102]。

連合王国政府の行動が意図的な飢餓輸出かそうではなかったかについては、いまだに歴史的評価が定まっていないが、1997年にイギリスのトニー・ブレア首相は、アイルランドで開催されていた追悼集会において、1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め、謝罪の手紙を読み上げた。これはイギリス政府の要人からの初めての謝罪であった[103]。

北アイルランド問題

北アイルランド問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%95%8F%E9%A1%8C

 ※ そもそも、こういう問題を抱えているところに、「ブレグジット」したものだから、ますます問題は、「複雑化」してしまった…。

 ※ 「みんな読む」のは、ちょっと大変だ…。

 ※ また、「時間があるときに」読むとしよう…。

 ※ とりあえずは、「資料」として貼っておく…。

『北アイルランド問題(きたアイルランドもんだい、英語: Northern Ireland Conflict)は、北アイルランドの領有を巡るイギリスとアイルランドの領土問題、地域紛争の総称である。1960年代後半に始まり[注釈 1]、解釈によっては1997年から2007年の間に終了したと考えられている[注釈 2]。英愛では、婉曲的に厄介事(英語: The Troubles、アイルランド語: Na Trioblóidí、スコットランド語: The Truibils[注釈 3])と呼称される。ほとんどの武力組織は武器を捨てたが、その日以降も時折、小規模ながら暴力は続いている。』

『概要

1960年代後半、カトリックの少数派が被った教派分離に反対する公民権運動から紛争が始まった。北アイルランドの帰属をめぐって、主にカトリックで構成される共和派と民族派、主にプロテスタントで構成される王党派(ロイヤリスト)と統一派(ユニオニスト)が対立したことで、30年に及んで暴力が蔓延した。

主に共和派ではIRA暫定派など、王党派ではアルスター義勇軍などの武装集団の間で激しい衝突が見られるが、少なからず民衆暴動や英国の国家治安部隊(軍隊や警察)によっても暴力行為は行われてきた。歴代政府によって否定されてきた英国の治安部隊と統一派の準軍事組織との協力は、今では受け入れられている[1]。

北アイルランド問題は、紛争[2][3]、戦争[4][5]、民族紛争[6]、ゲリラ戦[7]、内戦[8] など、いくつかの主体によって様々に定義されている。

共和主義の武装集団(主にIRA暫定派)の行動は、イギリスの治安部隊からはテロリズムとみなされているが、支持者による占領とイギリス帝国主義に対する革命、反乱、またはレジスタンス運動とも見なされている[9]。

歴史家の間では、呼称について意見が分かれており[10][11]、一部では「テロ」という言葉の使用を否定している[12][13]。

北アイルランド問題は殆どの北アイルランド人の日常生活に影響を与え、またイギリス人と南アイルランド人の間にも影響を与えている。

1969年から1998年の間に本格的な内戦は勃発しなかったが、例えば1972年のロンドンデリーの血の日曜日事件や1981年の囚人のハンガー・ストライキの際には、双方で敵対的な動員が行われた。

1998年に聖金曜日協定(ベルファスト合意)に基づいて和平合意が行われ、紛争は終結した。英国政府が初めて「アイリッシュ・ディメンション」(アイルランド島民全体が、外部からの介入なしに、南北間の問題を相互の合意によって解決することができるという原則)を認めたことで、王党派と共和派の双方の合意を得ることが可能になった[14]。また、北アイルランドでは、統一派と民族派で構成される主権協調主義な政府が設立された。
歴史的背景

イギリス植民地化

イギリスの植民地化以前のアイルランドは、7世紀と9世紀にヴァイキングによる小さな侵略を除いては、侵略を経験したことがなかった。

1155年、ハドリアヌス4世(イギリス出身の唯一の教皇)の教皇勅書により、アイルランドの教会とローマとの間にある弱ったつながりを再び確立するために、イングランドのヘンリー2世にアイルランドを与えた。

それにもかかわらず、イングランド王はダーマット・マクモローを支援するために1167年まで島に介入しなかった。1175年、アイルランドに対するイギリスの権限が正式に認められた[15][16]。

イギリスの支配は、最初はペイルに限定されている[17]。

イギリス人入植者がアイルランドの習慣に同化したことは、国王によって品位を落とすものとみなされ、1366年には「キルケニー法」が可決され、入植者と原住民との間の隔離が確立された[18]。

真の植民地化はテューダー朝から始まった。1556年には早くも植民地化するために土地が没収され、一方で島の権力はイギリスに移転した[17]。

16世紀後半には、1560年にイングランド国教会が公的な宗教として確立されたことに対する反発もあり、いくつかの反乱が起こった。

ローマの支援を受けているにもかかわらず、様々な反乱は失敗に終わる。酋長の土地は没収され、こうして植樹政策が復活した。

新しい入植者は、特に北東部のアルスター地方に定住した。

クロムウェルのアイルランド侵略と、プロテスタントのイングランド王位継承者ウィリアム3世がボイン川の戦いでカトリックのライバルであるジェームズ2世に勝利したことで、イギリスの和解が確認された[19]。

1695年から1727年の間に、カトリック教徒に対する経済的、社会的、政治的差別に関する「刑法」が公布された。

宗教的迫害は、中程度ではあるが、カトリック教徒や英国の非国教徒に影響を与えている。しかし、カトリックの聖職者は密かに奉仕活動を行っている[20]。

アイルランド民族主義・プロテスタント・カトリック

17世紀末、イギリス政府は島の経済・商業発展の可能性を制限した[20]。

プロテスタントの植民地時代のエリートの中で、政治的・宗教的な権力から徐々に排除され、最初のアイルランド民族主義(ナショナリズム)が誕生した[21]。

1759年、ヘンリー・フラッドはアイルランド愛国党を結成した。

18世紀末には、アイルランド人、特にカトリック教徒の経済状況が改善され、1783年にはアイルランド議会に自治権が与えられるようになった。

フランス革命は、1791年にユナイテッド・アイリッシュメン協会を設立したウルフ・トーンのような一部の民族主義者に影響を与えた。

1795年に設立されたオレンジ騎士団は、イングランド王室に忠誠を誓うプロテスタントを集めた団体である。

アルスター地方では、カトリックとプロテスタントの農民が秘密結社「ディフェンダーズ」と「ピープ・オデイ・ボーイズ」で衝突していたが、1798年5月、ユナイテッド・アイリッシュメンが主導して反乱が勃発した。

カトリックとプロテスタントの民族主義者の間に真の同盟がないために失敗する。

その1年前に却下されたアイルランドの相対的な自治を終わらせる合同法は、1800年6月7日に採択された[22]。

アイルランドがイギリスの一部となったとき、土地の90%以上が入植者の所有となった[23]。

カトリックの弁護士ダニエル・オコンネルは、1829年4月にカトリック教徒に対する差別の終わりを得た[24]。

平和主義者であり、それにもかかわらず、11年後に忠誠全国廃止組合を設立して立場を固めた[25]。

オコンネルに対するカトリック大衆の支持は、以前はプロテスタントが優勢だったアイルランドのナショナリズムの風景を一変させつつある。

一方、聖公会と長老派は、より皇室に近い。

青年アイルランド党のような共和主義の組織は、独立の思想をもとに、2つのコミュニティをより緊密に結びつけようとしている[26]。しかし、武力闘争に誘惑された者もいる[27]。

1845年から1849年にかけての大飢饉に続く農耕問題、分離主義者や共和主義者の思想の広がりは、19世紀後半のアイルランドをかき乱し、1858年に設立されたアイルランド共和主義者同盟のような秘密組織は、攻撃や暗殺計画に乗り出した[28][29]。

1870年以降、プロテスタントのチャールズ・パーネルなどの政治的解決策の支持者は、アイルランドの完全な自治を認めるために、内政自治の適用を求めて運動を展開した[30]。
1885年のアイルランドのイギリスの議会では、アイルランド議会党(内政党としても知られている)が勝利を収めたが、連合主義者(ユニオニスト)はいかなる形態の自治にも反対して組織されていた[31]。

19世紀末の土地改革により、アイルランド人に土地の所有権が回復した(1914年には3分の2を所有していた)が、民族主義運動は形を変えた[30]。

1893年に設立されたゲール語連盟のような組織は、現在では経済的というよりも文化的民族主義を広めており[32]、ジェームズ・コノリーは1896年に社会主義と民族主義を組み合わせたアイルランド共和主義社会党を設立した[33]。

革命的ではないが、アーサー・グリフィスは1905年にシン・フェイン党を結成した[34]。
アイルランドの分割

1916年の反乱軍によるアイルランド共和国宣言。

詳細は「アイルランド独立戦争」および「アイルランド内戦」を参照

20世紀初頭、アイルランドは民族主義者と共和主義者の運動に揺さぶられ、すぐに連合主義者にも揺さぶられたが、イギリスは1914年に内政自治(アイルランド政府法)を制定することに最終的に合意し、イギリス国内での相対的な自治権を与えた[35]。

双方とも暴力の台頭に備え、民兵に組織化し、軍事訓練や武器の備蓄を増やした。

1912年にはエドワード・カーソン・ユニオニストのアルスター志願兵、翌年にはアイルランド共和主義者同盟のアイルランド志願兵、アイルランド運輸・一般労働者組合のアイルランド市民軍が結成された。

共和主義者は、第一次世界大戦中に採用する態度をめぐって意見が分かれているが、一方ではこれを反乱の機会と捉えている[36]。

1916年4月24日、アイルランド志願兵とアイルランド市民軍の約750人がダブリンでアイルランド全島が単一の独立共和国と宣言された。

これがジェームズ・コノリーが指導するイースター蜂起の始まりだった。

国民は当初、反乱軍を支持していなかったが、反乱軍の指導者のほとんどが武装した血なまぐさい弾圧の後、反乱軍の考えに共感した。

武力行使に反対する小政党のシン・フェイン党は、イギリス人から暴動の発端になったと非難されている。その中に共和主義者が台頭してきたことで、重要な民族主義政党となった[37]。

1918年12月の投票では、シン・フェイン党が選挙で大勝した。

ウェストミンスター宮殿に座ることを拒み、105名の党員のうち26名が[注釈 4]ダブリンのドイル・エアラン(アイルランド国民議会の下院)に集まり、1919年1月21日にアイルランド共和国の独立を宣言した。

同日、最初の衝突が起こった。

アイルランド義勇軍の再編成であるアイルランド共和軍は、イギリス軍との武力闘争を組織しており、一部の町では「レーテ」や「ソビエト」に相当する評議会が組織されている[38]。

1921年には二国間停戦が合意され、12月6日にはマイケル・コリンズとアーサー・グリフィスが北アイルランドとアイルランド自由国の間で島を分割する英愛条約に調印した。

下院では受け入れられたものの(6月16日の選挙では条約賛成派が勝利した)、アイルランド共和軍の義勇の大多数によって条約は否決された。

一方は公軍に参加し、他方は条約に反対して戦いを続けた。1922年6月28日、旧戦友の間で内戦が勃発した[39]。1923年4月27日、敗北を確信したアイルランド共和軍は、エイモン・デ・ヴァレラの声で停戦を決定した[40]。

1922年12月6日に正式に宣言されたアイルランド自由国内では[40]、エイモン・デ・ヴァレラの共和党とウィリアム・コスグレイヴの統一アイルランド党が衝突し、シン・フェイン党は支持を失った。

一時はシン・フェイン党から分離されたアイルランド共和軍は、より社会主義化した党派と単一の軍事活動を行う党派に分かれ、「自由アイルランド(Saor Éire)」を設立し、政治的に生き残ろうとした[41][42]。

1932年に権力を握ったエイモン・デ・ヴァレラと共和党は、ファシスト運動であるブルーシャツに対抗するためにアイルランド共和軍を頼りにし、イギリスに対して経済戦争を組織した[43]。

しかし、同政府はその後、アイルランド共和軍を禁止した[44]。

1937年に制定されたアイルランド憲法は、国名を自由国からエールに変え、北アイルランドへの主張とカトリック教会の中心性を肯定している[45]。

1949年4月18日、クラン・ナ・プロバフタ(Clann na Poblachta)、統一アイルランド党、アイルランド労働党による連立政権の勝利を受け、アイルランドはイギリス連邦から離脱した[46]

島の北東部にある6つの県からなる新国家の旗。

独立戦争中のアイルランド北東部では、アルスター特殊警察隊、王立アイルランド警察特別予備隊(ブラック・アンド・タンズ)、旧アルスター義勇兵が、実際に反カトリックのポグロムを組織していた[47]。

アルスター地方を他から切り離す計画は、1916年にデビッド・ロイド・ジョージによってすでに提案されていた。

1920年に行われ、プロテスタントが多数を占めるアントリム、アーマー、デリー/ロンドンデリー、ダウンの各県と、カトリックが多数を占めるファーマナ県、ティロン県は[48]、1920年のアイルランド政府法によって北アイルランド議会の管理下に置かれた[49]。

新国家は、オレンジ教団との密接な関係を肯定しながら、カトリックの少数派に対する政治的、経済的、社会的差別を組織している[50][51]。

1963年にテレンス・オニールが選出されるまで、北アイルランドは政治的に停滞していた[52][53]。

孤立したアイルランド共和軍は、武装活動の再開を何度か試みていた。

1939年1月12日、イギリスへの宣戦布告に続いて、イギリスでも攻撃が行われた。

そのメンバーの中には大ドイツ国の支持を得ようとした者もおり[54]、後には他の反英武装グループ(キプロス闘争民族組織、エツェル、レヒ)にも接触した[55]。

1956年12月12日、国境キャンペーンが開始され、1962年には17名の死者(アイルランド共和軍11名、北アイルランドの警察組織である王立アルスター警察隊6名)を出して幕を閉じた。その後、アイルランド共和軍は武器を埋め[56]、1968年に自由ウェールズ軍に売却した[57]。

紛争

1966年 – 1969年

1966年のイースター蜂起を記念して、アイルランドの2つの政府間の和解は、ロイヤリストを準軍事行動に向けて押し上げた。1966年、ベルファストのバーで、反カトリック武装集団「アルスター義勇軍(UVF)」を結成した。

5月27日、同組織はカトリックの民間人を射殺して紛争の最初の暴力行為とされることがあるものに署名する[注釈 5]。UVFは宗派的な攻撃を増殖させ、時には致命的なものとなった。1960年代後半の手に入らなかった爆弾のいくつかは、当時のアイルランド共和軍に起因している[58]。

経済的、社会的、政治的な差別を受けたカトリックを擁護するために、1966年から1968年にかけて、アメリカ合衆国の黒人の運動に触発され、北アイルランド公民権協会(NICRA)を中心とした公民権運動が組織された。

要求は、基本的には選挙法の改革に基づいている。

平和的なデモ活動は、王立アルスター警察隊(RUC)からのロイヤリストとの衝突や告発によって中断される。

運動は、人民民主主義のようなグループの出現と公然と社会主義的な転換を取った[59]。
1968年10月5日、デリー/ロンドンデリーで禁断の行進の弾圧により77人が負傷した。

北アイルランドのテレンス・オニール首相は、自由主義な見解と、公民権運動を「共産主義とアイルランド共和軍」の仕業とみなすロイヤリストの有権者との間で引き裂かれている[60]。

1969年1月4日の夜、ロイヤリストによるデモ襲撃事件の後、カトリックのゲットーであるボグサイド地区(デリー/ロンドンデリー)がRUCによって侵攻された。民衆は立ち上がり、近所のいたるところにバリケードを建て、「自由デリー」を設立した[61]。

1969年5月1日に北アイルランドの首相に選出されたジェームス・チチスター・クラークは、選挙法の改革を約束した[58]。

しかし、RUCの摘発は暴力が増えていた。8月12日、デリー/ロンドンデリーの見習い少年団、オレンジ騎士団の若者は、ゲットーの人口に逆らってボグサイド付近を行進し、すぐにRUCに占領された。

近隣住民は再び蜂起し、ボグサイドの戦いの引き金となり、石や火炎瓶、バトン、放水砲、ブローニング.30機関銃と催涙ガスで武装した装甲戦闘車両で報復した。

暴動がRUC、アルスター特殊警察隊、ロイヤリストの複合力によって攻撃され、アイルランドの他の都市で暴動が勃発している間、バリケードをかけられ、人口は自衛を組織している[62]。

8月14日に到着したイギリス陸軍は介入しようとする。2日後には9人が死亡(すべて民間人でほとんどが共和主義者)、500軒の家が焼失し、1,820世帯が家から逃げ出したことが判明した[63]。

北部のカトリック教徒からの呼びかけにもかかわらず、アイルランドはダブリンでの支援デモにもかかわらず、国境を越えずに人道支援のみを提供し、介入を躊躇した。

エイモン・デ・ヴァレラの支援を受けたジャック・リンチ政権の数人は、密かに暴徒に武器を渡そうとし、政治的危機を引き起こした。

パトリック・ヒラリー外務大臣(当時)は、国際連合にイギリスを相手に文句を言うが、東側諸国の予想外の支持に押されて撤回に追い込まれる[64]。

この危機の間、IRAは1962年に武器を埋めてしまったため、ゲットーを守ることはできなかった[注釈 6][65]。

1969年12月のIRA総会で、運動の指導者は、極左との連合を支持して運動を特徴づける棄権主義を放棄し、専ら政治的な路線を提示した。それを支持する投票の直後、再軍備推進派と軍国主義的な路線が分裂してIRA暫定派(PIRA)が結成された。より政治的な転向の支持者は、公式IRA(OIRA)に改名している[66]。

1970年 – 1971年

IRA暫定派(PIRA)は分裂後500名しかいなかったが、その数は急速に増加し、1970年には2000人に達した[67]。

最初の行動は、カトリックのゲットーの自己防衛に焦点を当てた[68]。

1970年6月27日、ベルファストのショート・ストランド地区にある聖マシュー教会を守るために住民が呼びかけた聖マシューの戦いに初めて介入した。

聖マシュー教会は、ロイヤリストの暴徒が焼き討ちを望んでいた教会だった。IRA暫定派のひとりが殺害され、プロテスタント2人とともに紛争で初めての犠牲者となる[69]。

7月3日、ベルファストの地区であるローワー・フォールズでは、2人のIRAがイギリス陸軍と初めて戦い、捜索後に発生した暴動に介入する[70]。

1971年初頭、イギリス陸軍は共和国地域の秩序を維持するために2つのIRAと協議していた。

IRAは2月まで様々なゲットーを支配している。この増援に直面した陸軍は、四角形作戦を再開した[71]。

2月6日、アイルランドでは1921年以来、兵役中に死亡した初のイギリス人兵士をIRA暫定派が射殺した[72]。

1971年、IRA暫定派の行動は都市部と農村部の両方で本格的なゲリラ戦へと変貌を遂げた。

官軍がもっぱら軍事的・政治的目標を目指しているのに対し[73]、暫定軍は経済的目標のみを攻撃して占領のコストを増やそうとしている[74]。

1971年5月15日、アルスター防衛同盟 は、様々なプロテスタントの自衛グループの法的連合として設立され、後に最大のロイヤリスト準軍事グループとなった[75]。

1971年8月、ベルファスト西部のバリーマーフィーで起きた虐殺で10人の民間人が死亡した。1971年12月、イギリスの準軍人がカトリックのバーで爆弾を爆発させ、15人を殺害した。紛争の中でも最も致命的な攻撃のひとつである[76]。

ロンドンの支持を得て、穏健派(民族主義者、共和主義者、公民権運動の一員)は1971年8月に社会民主労働党を結成した[77]。

1971年3月20日、急進的なユニオニストに近いブライアン・フォークナーが北アイルランドの首相に就任した[78]。

1922年の特別権力法を適用して、イギリス陸軍は1971年8月9日のデミトリウス作戦で、共和主義支持者と疑われた300人以上の男を逮捕した。この作戦は失敗に終わったが、北アイルランドでの裁判なしの抑留の始まりとなった[79]。

クラムリンロード刑務所、マギリガン刑務所、メイズ刑務所、メイドストーン囚人船などでの取り調べでは、拘禁者は拷問や虐待を受けている[80][81]。

自由アイルランド(Saor Éire)の襲撃を受け、ジャック・リンチ政府は、南部に介入しようとした[82]。

1971年8月9日から1975年12月5日までの間に、1,981人が抑留され、そのうち1,874人がカトリックまたは共和主義者であった[83]。

イギリス陸軍は、IRAと自衛委員会との協議中で保護するように見えたが[84]、デミトリウス作戦は軍に対してカトリック教徒を陥れるもので、その時には準軍人に頼って守っていた[85]。

すべての反ユニオニスト政党によって、家賃・料金のゼネラル・ストライキが開始され、抑留者とその家族のための支援委員会が設置された[86]。

1971年7月、社会民主労働党は、抑留に抗議して北アイルランド議会を離脱した。

北アイルランド公民権協会(NICRA)はアイルランド共産党と公式IRAに溺れて影響力を失った。これは、シン・フェイン暫定派と人民民主主義が設立したグループである北部抵抗運動が立ち上げた市民の不服従運動を、主導権を握ることなく支援しているに過ぎない[87]。

1972年

1972年は紛争の中で最も死者が多かった年で、500人近くの死者が出た。

1月30日、第1パラシュート大隊は、デモに参加していた公式IRA(OIRA)とIRA暫定派(PIRA)の一員が非武装で来ていたのに対し、IRAの銃撃戦の報復だと主張し、ボグサイド近くの2万人の平和的な行進に発砲した。

血の日曜日事件であり、死者数は14人だった[88][89]。

イギリス陸軍の行動はすぐさま国際的な非難を受け[注釈 7]、北アイルランドのカトリック教徒はストライキやデモを行った[90]。

3月10日、PIRAは3日間の停戦を宣言し、イギリス政府との交渉を求めたが、成功しなかった。

3月24日、北アイルランドは英国王室の直接支配下に入った[91]。ロイヤリストは春から夏にかけて、カトリックのゲットーのように近所にバリケードを張り巡らせている[92]。
ロイヤル・アイリシュ連隊の兵士の殺害は、公式IRAによって、その時点ではカトリック系のものであったが、カトリック系のコミュニティからの強い抗議を引き起こし、一方的な停戦につながり、5月29日に組織の武装軍事行動を終了させた[93]。

一方でIRA暫定派が外国の武装勢力に接近した。中には、パレスチナ解放人民戦線、占領下アラブ湾岸解放人民戦線、ファタハ、バスク祖国と自由、ブルターニュ解放戦線などがある。また、アメリカ合衆国を中心とした世界中のアイルランド人コミュニティから財政的な支援を受けている[94]。

5月、政治犯としての地位を得ようと、クラムリンロード刑務所で共和主義者によるハンガーストライキが始まる。

これは、6月26日の暫定派とイギリス政府との間の二国間停戦の後に与えられたものである。

しかし、会談は決裂し、7月には攻撃や爆撃が再開された。7月21日には血の金曜日事件が起きた。

これにより、IRA暫定派の爆弾22個がベルファストで爆発し、9人が死亡した[注釈 8]。

10日後、装甲戦車に支えられた2万1000人のイギリス陸軍兵士がカトリックのゲットーに侵攻し、モーターマン作戦で住民が建てたバリケードを破壊した[95]。

いくつかのプロテスタント地区を取り囲むバリケードも取り壊された[96]。

アイルランドの欧州経済共同体加盟をめぐる5月の国民投票を批判し、共和主義者は南方政府からの弾圧に苦しんだ。

カーラ強制収容所は、マウントジョイ刑務所で共和主義者の暴動が起きた翌日の5月19日に開設され、特別刑事裁判所は陪審員なしで行われた[97]。

ミュンヘン五輪の人質事件を受けて、イギリス政府とアイルランド政府は、共和主義者に対抗するために、北アイルランドの穏健な政治勢力(社会民主労働党、北アイルランド同盟党など)を支援することにした。

1972年11月1日、「北アイルランドの未来」と題したイギリスの政治的解決策のグリーン・ペーパー(欧州委員会からの公式報告書で、政策立案を視野に入れた議論のための一連の提案を含む)が発表された。

イギリスは、アイルランドを統一して連邦化するという考えを受け入れている。

抑圧が南のIRA暫定派を襲い、相次いで、ショーン・マック・スティオファイン、ジョゼフ・カーヒル、ショーン・オ・ブラデー、ルアイリ・オ・ブラデー が逮捕された。

イギリスの諜報機関に関連してアルスター防衛同盟の一員によるダブリンでの襲撃事件を受け、南部政府は無罪推定の原則に違反して、IRAの一員である容疑者に無実を証明することを義務付ける法律を可決しようとしていた[98]。

1973年 – 1974年

直接統治の導入に伴い、イギリス政府は北アイルランドでの新体制を模索している。

1973年3月8日、島の南北の国境を廃止することを提案する国民投票が行われた。

しかし、共和主義者とナショナリストにボイコットされ、41%の棄権、99%が英国の権威の維持に賛成票を入れた。

その12日後、白書「北アイルランド憲法案」が発表され、穏健派(国粋主義者と組合主義者)の間での権力分担の観点から比例代表制への回帰を提案し、アイルランドとイギリスの共同機関であるアイルランド評議会の創設を提案した[99]。

6月には、新しい北アイルランド議会の選挙が行われ、白書に反対する組合員が78議席中27議席を獲得し、白書計画を支持する組合員が22議席を獲得した[100]。サニングデール協定は、1973年12月9日にイギリス政府とアイルランド政府、社会民主労働党、北アイルランド同盟党、アルスター統一党の代表者によって署名された[101]。

1972年の終わりに、ロイヤリスト準軍人は、暗殺と民間人への宗派的な攻撃を再開した[96]。

イギリスとロイヤリストの関係は悪化し、後者はイギリスの撤退を恐れた。

1973年2月3日、そのうちの1人目が抑留された。

アルスター防衛同盟と労働者ロイヤリスト協会は、カトリック側で7人の死者を出したゼネラル・ストライキの呼びかけに反応した[102]。

アルスター自由戦士団とアルスター義勇軍による処刑と抜き打ち爆撃は、1973年と1974年に増加した。

1974年4月22日、アルスター労働者評議会(UWC)が設立され、アルスター陸軍評議会(様々なロイヤリスト準軍事組織)の支援を受けた。

1974年5月14日、サニングデール協定の提案は北アイルランド議会で受け入れられた。

直ちに、UWCはゼネストを開始し、アルスター防衛同盟はベルファストにバリケードを設置し、労働を止めていない工場や作業場を強制的に解体した。

IRA暫定派がストライキ中のすべての暴力をやめると、ロイヤリストの攻撃と殺害が激化した[103]。

ダブリン・モナハン爆弾事件は、1993年にアルスター義勇軍が責任を主張し、イギリスのシークレットサービスと共謀して行われた疑いがあり、28人の死者と258人の負傷者を出した[104]。

軍の介入を拒否したことで、政府はストライキ隊に屈し、サニングデール合意の権力共有機関を停止せざるを得なくなっている。5月28日、ブライアン・フォークナーは辞任し、その結果、直接統治が再び導入された[105]。

IRA暫定派と北部の共和主義運動は、1972年以降イギリス陸軍による抑留と略式処刑に苦しんだ[106]。

しかし、暫定派は武器を強化しており、特にリビアから武器を輸入し、RPGや遠隔起爆装置を手に入れ、民間人の犠牲者を最小限に抑えることができるようになった[107][108]。
抑圧のリスクに直面し、組織は分かれた[109]。

1973年8月、イギリスでの火炎放射爆撃の引き金となった[110]。致命的なIRA攻撃の取り締まりは、いくつかの司法の誤審を引き起こした。

1973年7月、公序を乱したとして投獄された人民民主主義の指導者2人が、政治犯の地位を得るためにハンガーストライキを行った際の民衆運動が再現された。

政治的人質解放委員会は、デモを組織して暴動を起こした。囚人が釈放されたにもかかわらず、運動は拡大を続けている[109]。

1973年初頭、ダーヒー・オ・コネルとシェイマス・トゥーミーの影響下にあったIRA暫定派は、左翼と社会主義に転向し始めた[107]。

1974年、状況を落ち着かせようと、北アイルランドではシン・フェイン暫定派(アルスター義勇軍とともに)が認可され[111]、6月には初めて地方自治体の選挙に参加した[112]。

1974年12月にプロテスタント聖職者の仲介を経て、イギリス政府との協議が行われ、12月22日にIRA暫定派がクリスマス休戦を発表した[113]。

1975年 – 1979年

休戦は1975年1月2日に終了した。イギリス政府は、外交官ジェームズ・アランとMI6諜報員のマイケル・オートリーを介して、暫定IRAと秘密交渉を開始した[114][115]。

軍事的撤退のための抑留者と協議を解放することを約束し、イギリスは2月8日に発表された暫定IRAから無制限の停戦を取得した[116]。

シン・フェイン党が管理する「休戦インシデント・センター」は休戦を確認する必要があった[117]。

暴力は1975年の夏に徐々に再開された。IRA暫定派の自治会などが参加していた[118]。IRA暫定派と英国政府との間で密かに協議が続いていたが、11月12日に休戦インシデント・センターは閉鎖され、休戦インシデント・センターという名だけの休戦は終了した[119]。

1974年12月、アイルランド共和国社会党は公式シン・フェイン党(アイルランド労働者党)から分裂した[120]。

これを受けて、公式IRAは1975年初頭に、時にはアルスター義勇軍とのつながりがあり、新組織の一員に対する暗殺を開始した[121]。

1975年秋、暫定派と役人の間で対立が勃発し、数名の死者を出した[122]。アイルランド共和社会党の武装組織であるアイルランド国民解放軍は、軍事的にIRA暫定派に接近している[123]。

1977年、IRA暫定派はジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスの指導の下、再編成された。シン・フェイン党の役割も明記され、北も南も大衆組織にしてしまえばいいということになった。

イギリスの利益に反して海外で活動する部隊が作られた[124]。1979年には、暫定派は駐オランダ英国大使リチャード・サイクスとエリザベス2世女王の叔父ルイス・マウントバッテンを殺害し、アイルランド国民解放軍はマーガレット・サッチャーの親戚であるエアリー・ニーヴを射殺した。この時、共和主義者の準軍事組織は著名な人物を標的にしていた[125]。

ロイヤリストは休戦に反対しており、カトリック教徒を攻撃することで休戦を打ち破るつもりでいるため、IRA暫定派は再び武装してゲットーを守ることになった。

異なる準軍事グループを調整する新しい組織、アルスター・ロイヤリスト中央調整委員会が設立された[126]。

1975年5月の選挙での勝利によって強化されたロイヤリストは[127]、1965年のローデシア共和国の独立と同様に、アイルランドとイギリスの両方から独立した北アイルランドへの英国の撤退と軍事的買収を準備していた[128]。

1977年5月2日、アルスター労働者評議会と準軍事グループで構成されるユナイテッド・ユニオニスト行動評議会は、1974年のゼネラル・ストライキをモデルにした新たなゼネストを求めた。

しかし、ストライキは失敗に終わり、11日後に終了した[129]。

宗派的な攻撃の増加はロイヤリストの不利に働き[130]、1975年11月には再びアルスター義勇軍が禁止された[131]。1970年代後半になると、ロイヤリストの暴力に関する裁判が始まった。ギャングのシャンキル・ブッチャーズの一員11人に終身刑が言い渡された[132]。

暫定的な政治的解決策とされた1975年5月の選挙は失敗に終わり、ロイヤリストが大多数を獲得し、共和主義者がボイコットを呼びかけた(棄権率40%)[133]。

それにもかかわらず、危機を終わらせようとする意欲は、国民、政府、準軍事組織の間でも顕著に見られる。

1976年12月、雇用差別に終止符を打とうと、公正雇用法が成立した[134]。

1976年8月、3人の子どもの死をきっかけに自然発生的に平和運動が始まり[注釈 9]、すぐにマイレッド・コリガン・マグワイアとベティ・ウィリアムズの「ピース・ピープル」へと変貌を遂げた[132]。

双方の親衛隊は、1976年後半、英国政府抜きの和平交渉を、ロイヤリストのデスモンド・ボール弁護士と共和党のショーン・マクブライド弁護士を通じて開始したが、この計画は翌年早々に失敗に終わった[135]。

1977年のジミー・カーター米大統領や1979年のヨハネ・パウロ2世教皇など、一部の国際的な著名人が紛争の解決を求めた[134]。

1979年5月、イギリスの選挙で保守党が勝利し、マーガレット・サッチャーを政権に押し上げた。

3月に親戚の一人であるエアリー・ニーヴがアイルランド国民解放軍によって殺害されたことは、アイルランド共和主義者と民族主義者に対する反抗的な態度の一端を説明している[136][137]。

1975年以降、北アイルランドにおけるイギリスの政策は、犯罪化[注釈 10] と「アルスター化」[注釈 11] の2つの方針に沿って整理されていた[138][139]。その目的は、イギリス政府が現地採用の部隊にもっと頼ることで、イギリス兵の損失を抑え、政治指導者が紛争を終わらせるための圧力を減らすことにあった[1]。

1975年の休戦により、裁判なしでの抑留に終止符が打たれたが、陪審員なしの裁判と裁判官一人だけの裁判は続いた[139]。

1975年11月4日、1976年3月1日から適用される特別カテゴリー(Special Category Status)の終了が発表された。

軍事組織犯罪は北アイルランドではコモンローとして裁かれるようになり、南部では新たな治安対策が確立されている[119][138]。

早ければ1976年には、メイズ刑務所の共和主義の囚人は、コモンローの囚人の制服を着ることを拒否していた。

これがブランケット闘争となり[注釈 12]、その後成長し、1977年の半ばには約150人[140]、1978年には約300人の参加者がいた[141]。

1978年3月にこの運動は「不潔闘争」で新たな局面を迎え、共和主義の囚人は看守の暴力に抗議するために自分の体を洗うために独房から出ることを拒否していた。その後、刑務所の廊下に尿を放り込み、自分の排泄物を独房の壁に並べる[142]。しかし、イギリス政府は反応しなかった[143]。

1980年 – 1990年

ブランケット闘争からハンガーストライキまでの共和主義者の囚人の奮闘を記念したフレスコ画

ベルファストの家屋。1981年にハンガーストライキの末に衰弱死したIRA暫定派のボビー・サンズを称える絵。

1980年代初頭には、Hブロック紛争(刑務所の建物の愛称で、「H」の形をしたもの)が激化し、北アイルランドの問題が国際的に注目されるようになった。1980年1月、共和主義の囚人は要求事項「五つの要求」を発表した[注釈 13][144]。10月10日、シン・フェイン党は27日のハンガーストライキを発表、続いてIRA暫定派の6名とアイルランド国民解放軍の1名がロングケシュ(メイズ刑務所の愛称)で拘束され、12月1日にはIRA暫定派の囚人3名、10日には23名が参加した[145]。IRA暫定派と英国政府の合意により、これに終止符が打たれた[146]。1981年3月1日、特別カテゴリー(Special Category Status)終了の記念日に、IRA暫定派役員のボビー・サンズは食事を拒否し、第2次ハンガーストライキを開始した[147]。IRA暫定派とアイルランド国民解放軍の他の囚人もストライキに参加した[148]。共和主義者は、北アイルランドと南アイルランドの選挙でストライキ参加者の何人かを走らせている[149]。4月10日、ボビー・サンズは下院議員に当選し、政治とメディアを騒がせたが、5月5日に死去した。6月11日、キエラン・ドハーティはアイルランドの国会議員に選出されるが、8月2日に死去。赤十字社、欧州人権裁判所、バチカン、当時のアイルランド政府が介入しようとしたにもかかわらず、11人の囚人がストライキ中に死亡した[150][151]。世界中でストライキ隊を支援するための委員会が結成され、イラン、ソビエト連邦、旧イギリス植民地を含む国がイギリスの行動を批判している[150]。
1984年にIRA暫定派はブライトンのグランドホテルで爆弾を爆発させてマーガレット・サッチャー英首相を暗殺しようとした

マーガレット・サッチャーは、MI6、IRA暫定派と特定の囚人の間の接触にもかかわらず、「私たちはテロリストと話をしない」と述べ、妥協することを拒否している[146][151]。ストライキ隊の死を受け、IRA暫定派は首相を死刑にすることを求めている[152]。1984年10月12日午前2時45分、保守党の年次総会会場となったブライトンのグランドホテルでIRA暫定派の爆弾が爆発した。5人が死亡したが、マーガレット・サッチャーは辛うじて逃げ切った[153]。任期中、マーガレット・サッチャーは、IRA暫定派であれ、アフリカ民族会議であれ、武装グループとのいかなる話し合いも拒否した[154]。この柔軟性のなさは、第二次ハンガーストライキ中のイギリスのシークレットサービスによるプロパガンダの増加に反映されている[150]。1980年代初頭には、ロイヤリストの準軍事組織やシークレットサービスによる暗殺が行われ、時には首相の同意を得た上で行動することもあった[146]。E4Aや特殊空挺部隊のような軍や警察の部隊は、想定される「射殺政策」に関与している[155][156]。これらの殺人は共和主義の政治家、特に囚人の闘争を支持している人を標的にしている[150]。10年の終わりには、ジョン・ストーカーのような記者や警察官の調査や、ピーター・ライトのような元シークレット・サービス官の自白によって、「厄介事」が始まって以来のイギリスの活動についていくつかの暴露がなされることになる。これらには、誤爆、1974年の労働党政権の不安定化、死の会などが含まれる[157]。

共和主義陣営は10年の間に大きく変化した。IRA暫定派総会は1986年9月20日にミーズ県で、11月2日にはダブリンでシン・フェイン党の党大会(Ard Fheis)が開催された。選挙主義の支持者(ジェリー・アダムズ 、マーティン・マクギネス、パトリック・ドハーティなど)と、棄権主義の伝統主義者(ルアイリ・オ・ブラデー、ショーン・マック・スティオファインなど)という対立する2つの流れがある。10月の総会では、武力闘争の継続を誓う一方で、選挙政治への幅広い参加への道を切り開いた。党大会では、共和主義の伝統である棄権主義に終止符を打つことが提案されている。動議は429票対161票で可決された。伝統主義者はその後、シン・フェイン党を離れ、共和主義シン・フェイン党を設立した[158]。ダニー・モリソンの言葉を借りれば、共和主義者の戦略は「アーマライトと投票箱」になっている[159]。

1981年のハンガーストライキでは、アイルランド国民解放軍はIRA暫定派とは異なり、攻撃の回数を増やした。リーダーのドミニク・マクグリンチィが逮捕された翌年、組織は崩壊した。異なるグループ間の血みどろの和解は、1987年にジェリー・アダムズがアイルランド国民解放軍の自己解散を要求することを余儀なくされた。その後、その一員はほとんどが武装闘争を放棄し、時には犯罪行為に走ることもあった[160]。1980年代初頭、イギリスとアイルランドは、1982年のプラン・プライヤー、1985年11月のニュー・アイルランド・フォーラム、英愛協定など、両国間の対話を通じて紛争を解決しようとした[161]。ユニオニストの怒りを買ったこの協定は、アイルランドに北アイルランドの政策に関する発言権を与えた[162]。1988年1月11日、社会民主労働党は、民族主義との選挙連立、政治的解決への道筋、ひいては暫定IRAの武装解除を視野に入れて、シン・フェイン党との協議を開始した[163]。1989年は、その後の10年間の平和構築の実質的な出発点であった。北アイルランドのピーター・ブルック国務長官は、IRA暫定派に対する軍事的勝利の可能性を疑っていることを認め、行動を縮小する場合は、IRAとの協議を検討するとしている[164][165]。1990年3月、シン・フェイン党の声を通じて、協議の前提として停戦を拒否した。11月にマーガレット・サッチャーに代わって保守党のジョン・メージャーが首相に就任した。IRA暫定派は1975年以来となる3日間のクリスマス休戦を発表した[166]。
1991年 – 1998年

早くも1991年2月7日、IRA暫定派は新英首相の自邸であるダウニング街10番地の迫撃砲を攻撃して、北アイルランド問題の根絶を警告した[167]。しかし、平和につながる議論は、シークレットサービス、政党、聖職者などによって行われていた[168]。1992年には、社会民主労働党がユニオニストとの合意に達しようとし、1993年には(ジョン・ヒューム、マーティン・マクギネス、ジェリー・アダムズを通じて)シン・フェイン党との合意に達しようとした[169]。しかし、共和主義者への最大の支持は、1992年アメリカ合衆国大統領選挙中に民主党のビル・クリントン候補が北アイルランドでのイギリスの政策を批判したことで、大西洋の向こう側からのものだった[170]。
1990年代前半、IRA暫定派はスナイパーを大々的に利用していた

これらの進歩にもかかわらず、暴力は双方の側で続いている。宗派的な殺害運動を再開しているのはロイヤリストのみならず、シン・フェイン党も再開していた[171][172]。IRA暫定派がイギリスで爆弾攻撃作戦を開始した(ワリントン爆撃、シティ爆撃など)[173]。また、麻薬の密売を攻撃したり、実際の襲撃を行ったり[174]、マーティン・ケーヒルなどの密売人を撃ち落としたりして警察の役割を担っている[173]。1993年12月15日、イギリスとアイルランドのジョン・メージャー首相とアルバート・レイノルズ首相は、ダウニング街宣言で、北アイルランドの自決権を肯定した[175]。和平プロセスの進展を知っていたIRA暫定派は、1994年8月31日に停戦を決定し、続いて9月9日にはアルスター義勇軍とアルスター自由戦士団が参加した[176]。

1994年1月、ビル・クリントンはジェリー・アダムズにアメリカ合衆国の限定ビザを与えた[177]。共和主義者、民族主義者、ロイヤリストをイギリスの電波に乗せないようにしていた検閲が解除された[176]。様々な準軍事組織が和平後の政治領域での展開を検討しているが、軍縮問題については、1997年に英国政府とアイルランド政府によって承認された国際委員会である独立国際武装解除委員会が管理しているため、協議は行き詰まっている[178]。1年半の休戦の後、1996年2月9日、和平プロセスの進展のなさに失望したIRA暫定派は、イギリスでの攻撃活動を再開して休戦を破り、共和主義者の準軍事キャンプでは反体制派が出現し始めた。アイルランド国民解放軍の活動に加えて、共和主義シン・フェイン党の武装支部であるIRA継続派 も活動している[179]。
北アイルランド紛争の中で最も致命的なもののひとつであるオマー爆弾テロ事件の記念碑

1997年5月1日、労働党のトニー・ブレアがジョン・メージャーに代わって首相に就任し、すぐにシン・フェイン党との会談を開始した[180]。7月20日、IRA暫定派は新たな休戦を宣言し、9月9日にシン・フェイン党は非暴力の呼びかけを発表した[181]。しかし、アイルランド国民解放軍、IRA継続派、ロイヤリスト義勇軍(アルスター義勇軍の分派)、真のIRA(IRA暫定派の新たな分派)が攻撃を続ける一方で、「カトリック反乱軍(Catholic Reaction Force)」や「麻薬に対する直接行動(Direct Action Against Drugs)」など、刹那的な存在感を持つ新たなグループが台頭してきている[181][182]。1998年4月10日、ベルファスト合意はトニー・ブレア英首相とバーティ・アハーン愛首相によって署名され、アルスター統一党のデヴィッド・トリンブル、社会民主労働党のジョン・ヒューム、シン・フェイン党のジェリー・アダムズの支援を受けた[183]。これにより、アイルランド憲法に明記されている北アイルランドの領有権主張に終止符を打ち、将来の連合政府の基礎を築き、軍縮と囚人の解放処置を開始した[184][185]。5月22日、2つの国民投票(北部と南部)で合意が承認された。賛成票は、北部では77.1%、南部では94.5%であった[186]。プロテスタント人口の半分、カトリック教徒の1割が反対票を投じていた[187]。1998年6月25日、新しい北アイルランド議会の最初の選挙が行われた[188]。しかし、和平合意が完全な和解につながるわけではない[189]。8月15日、真のIRAはオマーで自動車爆弾を爆発させ(オマー爆弾テロ事件)、28人を殺害した。この攻撃は、和平合意のすべての署名者と住民によって非難された。その2日後、アイルランド国民解放軍は和平案を承認し、停戦を宣言した[190]。デヴィッド・トリンブルとジョン・ヒュームはノーベル平和賞を受賞した[191]。
1999年 – 2010年
北アイルランドにおける1997年から2015年までの選挙結果の地理的変遷
北アイルランドのアーマー県クロスマグレンのイギリスの監視塔(2001年)

1999年12月2日にベルファスト合意に基づく新政権が発足し、デヴィッド・トリンブルが首相に就任した[192][193]。直接統治は、主に和平合意が進展していないことを理由に、北アイルランド国務長官によって10年の間に何度か復活させられた[192]。和平合意後、王立アルスター警察隊は、ユニオニストの反対にもかかわらず、2001年11月4日に北アイルランド警察に改編された[194][195]。穏健派政党は選挙で敗北を喫し、2007年5月8日に民主統一党のイアン・ペイズリーが北アイルランドの首相に、元IRA暫定派の参謀長でシン・フェイン党の党員でもあるマーティン・マクギネスが副首相に就任した[196]。翌年に辞任したイアン・ペイズリーの後任は、民主統一党のピーター・ロビンスンだった[197]。

ベルファスト合意にもかかわらず暴力は続いているが、その程度ははるかに低い[191]。和平合意に参加している団体の反対派組織は、赤手防衛軍、オレンジ騎士団、IRA継続派など、攻撃や暗殺を続けている[198]。2001年10月12日、アルスター防衛同盟、アルスター自由戦士団、ロイヤリスト義勇軍の停戦は英国政府によって無効と宣言された[199]。10年間の準軍事的暴力の大部分は、真のIRAやIRA継続派のような反体制派の共和主義グループによるイギリスに対する新たな活動にもかかわらず、麻薬密売人の銃撃や殺害の形であったが[200]、ロンドンも襲った[201]。2005年7月28日、IRA暫定派は武力行使の決定的な終了を発表し[202]、続いて2009年10月11日にはアイルランド国民解放軍による武力行使の終了を発表した[203]。

2000年代を通じて準軍事組織の武装解除が進んだ。ロイヤリスト義勇軍は 1998年12月に一部の武器を降伏させたが[204]、IRA暫定派の武器の初期備蓄品が降伏したのは2000年6月になってからであった[205]。独立国際廃炉委員会は、2005年9月26日にIRA暫定派、2010年に公式IRA、アイルランド国民解放軍の完全武装解除を保証した。アルスター義勇軍と赤手奇襲隊は、2009年6月18日から武器の返却を開始し、アルスター防衛同盟がそれに続いた[202]。2007年8月1日、北アイルランドでのイギリス軍の作戦は38年ぶりに正式に終了した。

しかし、宗教間の暴力が完全に鎮火したわけではない。空間的・社会的な分離が進むにつれ、衝突の危険性を制限するために「平和の壁」が定期的に建設され[206]、特にポートダウンのオレンジ・パレードや[207]、プロテスタント地区にあるカトリック学校の周辺では定期的に暴動が発生している[208]。
武力紛争

北アイルランド警察によると、1969年から2003年までの間に、36,923件の銃撃事件、16,209件の爆弾テロや爆破未遂、2,225件の放火や放火未遂が発生している[209]。1972年から2003年の間に、19,605人がテロ容疑で起訴された[210]。

マルコム・サットンによると、1969年から2001年の間の紛争で3,526人が死亡している[211]。

2,058人が共和主義の準軍事組織によって殺害
1,018人がロイヤリスト準軍事組織によって殺害
363人がイギリスの治安部隊によって殺害
1,842人が民間人
1,114人がイギリスの治安部隊
393が共和主義の準軍人
167人がロイヤリスト準軍人

北アイルランド年間統計概要は、1969年8月と2002年8月の間を対象とし、22,539件の武装強盗で43,074,000ポンドの被害総額となった[212]。

北アイルランド警察によると、1969年から2003年の間に治安部隊が押収した銃器は12,025丁、爆発物は112,969kgである[213]。
公式治安部隊

紛争は北アイルランド以外にも及ぶことがあり、連邦捜査局やデンマーク警察のような世界中の異なる治安部隊(軍隊、警察、諜報機関)が関与している。しかし、主な法執行機関は、北アイルランドの機関と、アイルランドの機関(アイルランド国防軍とアイルランド警察)と、それ以外のイギリスの機関である。

王立アルスター警察隊(英語版)(RUC)は、1922年に設立された北アイルランドの主要な警察組織である。プロテスタントの採用は多くの批判を集め、2001年に北アイルランド警察(英語版)に取って代わった[214]。E4Aや特別部など、いくつかの支部がある。1920年に創設されたアルスター特殊警察隊(英語版)は警察の代用部隊であるが、基本的にはプロテスタントの採用と1969年夏の暴力への参加により、軍事部隊であるアルスター防衛連隊(英語版)へと変貌を遂げた[215]。

イギリス軍は早ければ1969年にも紛争に介入し、紛争中に316人の死者を出した。政府はアルスター国防連隊を支持し、現地採用に向けて徐々にその存在を減らしている[216]。1970年に設立されたこの連隊は、大部分がプロテスタントで構成されていたが、ロイヤリスト準軍事組織と結託し、1992年にロイヤル・アイリッシュ連隊(英語版)へと解体された[215]。

MI5、MI6、国防情報参謀部、特殊軍事部隊などのイギリスの諜報機関や特殊部隊が紛争の中で活動しているが、北アイルランドで直接活動しているわけではなかった。イギリス陸軍の精鋭部隊である特殊空挺部隊は、1970年から北アイルランドで活躍している(正式には1976年まで派遣されていない)。不安定化・酩酊作戦(偽旗作戦、偽装集団など)を行い[217]、「射殺政策」に関与しているとされる[218]。

1973年から1998年の間に、治安部隊は12万5000発のプラスチック製の弾丸を使用し、数人の死者を出した[219]。
ロイヤリスト準軍事組織
異なるロイヤリスト準軍事集団の親族関係を想起させるフレスコ画

いくつかのロイヤリスト準軍事組織が紛争に関与している。アルスター防衛同盟(1971年設立)が最大規模の組織で、最盛期には3万人のメンバーを擁する一方、アルスター義勇軍(1966年設立)は最も暴力的な組織で、紛争中に426人の死者を出している[215][220]。いくつかのグループは、合法的な期間(1992年までのアルスター防衛同盟と1974年と1975年の間のアルスター義勇軍)を経て、アルスター防衛同盟のために1973年からのアルスター自由戦士団などの行動を主張するために使用されている[215]。厄介事の間に数々の派閥が徐々に出現し、時には反体制派や他のグループの指名者ではないかと疑われることもあった。これらには、赤手奇襲隊(1972年設立)、オレンジ義勇兵(1970年代設立)、アルスター奉仕団(1976年設立)などが含まれる。幾度となくロイヤリスト民兵が連邦化しようとしてきた。例として、アルスター陸軍評議会、アルスター・ロイヤリスト中央調整委員会、ユニオニスト行動協議会、ロイヤリスト軍事司令部などが挙げられる。

1973年、イギリスの公式文書によると、アルスター防衛同盟(UDR)のメンバーのうち、最大15%が「準軍事組織とのつながりがあり、両組織の同時加入が一般的である」とされている。さらに、UDRの兵士が頻繁にユニオニスト準軍事組織に武器を提供しているという[1]。
アルスター・レジスタンスの地元の旗

和平合意の過程で、特にベルファスト合意の後、新たな組織が出現したが、その中には反体制派や合意を支持したグループ(アルスター防衛同盟、アルスター義勇軍、アルスター自由戦士団)の推薦者ではないかと疑われているものもある[215]。中には、赤手防衛軍 (1998年設立)、オレンジ義勇軍(1998年再登場)、ロイヤリスト義勇軍(1996年設立)、アルスター・レジスタンス(1986年設立)などがある。2009から2010年の間、アルスター防衛同盟、アルスター自由戦士団、アルスター義勇軍、赤手奇襲隊が武装解除を開始した[202]。

上記の組織の武器庫は、UZI短機関銃、AK-47アサルトライフル、各種拳銃、自作武器、時にはRPG-7、爆薬(主にパワージェル、時には自作)で構成されている[221]。

ユニオニスト準軍事組織に殺害された者の80%は民間人だった。紛争の間、暴力の形態は様々であった。1972年から1976年の間に、ユニオニストは567人を殺害した。これに続いて、相対的に活動していない期間が続き、暴力が強度を増す前に再開された。1986年から1987年の間に50人、1988年から1994年の間に224人が暗殺されている。犠牲者のほとんどは無作為に選ばれたカトリック民間人である[1]。
共和主義準軍事組織

紛争中の共和主義準軍事組織のほとんどすべては、1922年の第一次アイルランド共和軍(IRA)の分裂と多かれ少なかれ直接的な関係を持っている。1969年のボグサイドの戦いの後、IRAは軍国主義的な傾向が強いIRA暫定派と政治的な傾向が強い公式IRA2つの組織に分裂した。1972年に公式IRAが停戦を宣言し[222]、IRA暫定派は瞬く間に主要な準軍事組織となり、最盛期には推定1,500人から6,000人のメンバーを擁し[67][223]、紛争中に1,824人の死者を出した[220]。その後、いくつかのグループが出現し、しばしばIRAやシン・フェイン党のように政党の軍事的な翼を代表しているのではないかと疑われるようになった。中には、アイルランド国民解放軍(1975年設立、アイルランド共和主義社会党の軍事翼と疑われる)[223]、IRA継続派(1996年設立、共和主義シン・フェイン党の武装翼の可能性あり)[224]、真のIRA(1997年設立、32県主権運動の軍事翼と疑われる)などがある[214]。そのほとんどが、公式IRAやIRA暫定派の反体制派のようである。1967年から1975年までアイルランドを中心に活動していた自由アイルランド(Saor Éire)でさえ、IRAの分裂から生まれた[124]。和平合意におけるIRA暫定派の関与は、単なる指名手配の疑いがある反体制派やグループを明らかにしている(IRA継続派、真のIRA、アイルランド国防軍、麻薬に対する直接行動)。2005年にはIRA暫定派、2010年には公式IRA、そしてアイルランド国民解放軍と、主要な組織が少しずつ武装を解除している[202]。

共和主義グループの武器庫は、ライフル、アサルトライフル(AK-47、AR-15、AKM)、機関銃(FN MAG、DShK38重機関銃)、RPG-7、9K32地対空ミサイル、LPO-50火炎放射器、拳銃、数トンのセムテックス爆薬で構成されている。IRA暫定派も多くの武器や自作の爆薬を使用している[221][225]。

ジェームズ・グローバー将軍の1979年の推定によると、IRA暫定派は年間95万ポンドを紛争に費やしている。「収入」は主に保留(55万ポンド)、恐喝(25万ポンド)、対外援助(12万ポンド)である[67]。
反破壊的な戦争

北アイルランドの紛争は、反ゲリラ弾圧の「試金石」と表現されることもある。危機へのイギリスの政治的・軍事的・社会的・安全保障上の対応は、対破壊的な戦争の戦略から実地している。計画者の一人は、ベルファストの軍司令官であるフランク・キットソンである[128]。
秩序の維持

立法工廠は、北アイルランド(1973年特別権力法、北アイルランド(緊急事態条項)法)に特有の治安部隊の行動を支持するか、またはイギリス全体に適用される(テロリズム防止法)。アイルランドには同等のものが存在する(国家法違反)。これらの法律は、罪状なしの投獄、令状なしの捜索、検閲、集会の禁止、陪審員なしの法廷、警察の長期拘留など、警察と司法に広範な権限を与えている。最も象徴的な措置は、北アイルランドの特別権力法とアイルランドの1939年の国家に対する犯罪法に基づく裁判なしの抑留である。

この戦略の最も目に見える軸は、法執行活動の軍国主義化である。新しい技術や戦術が導入される一方で、軍隊には取り締まりの役割が与えられている。これには、CSガス、CNガス、人口移動、ゴム弾・プラスチック弾、ゲットーの飽和、枯葉剤、人口登録、戦車などがある[226]。

何度か、特殊空挺部隊・MI5・MI6は緊張戦略の観点から、偽の組織を作り、共和主義運動とロイヤリズム運動の反発を利用したり、これら2つの傾向の間の和解を妨げたりして、双方の武装グループを不安定化させようとしてきた[217]。

イギリス当局は、共和主義者との戦いにおいて、違法な行動をとっている。政府はしばしば「射殺」政策を実施したと非難されている[155]。民間人だけでなく、政党や準軍事組織のメンバーの殺害も1970年代初頭から増加した。1973年にケネス・リトルジョンが逮捕されたことで明らかになったように、シークレットサービスや特殊空挺部隊の仕業であるか、あるいはロイヤリストやギャングの仕業であった[217]。
拷問と病気扱い

紛争中に何度か、イギリスの治安部隊は囚人や容疑者に対して拷問を使用したと非難された。1971年、抑留の始まりとなったデメトリウス作戦で逮捕された者は、組織的な拷問の使用を糾弾したが、当局によって争われた。カトリックの神父フォールとマレーは、心理的な拷問から電気ショックと物理的な暴行の使用に至るまで、逮捕された人に対して使用される25の拷問方法をリストアップした[227]。1971年にアムネスティ・インターナショナルは治安部隊による拷問の使用を糾弾する報告書を発表した[228]。非政府組織は1978年にもうひとつを発表した[229]。1971年11月、エドモンド・コンプトン率いるイギリスの調査委員会は、「拷問」という言葉を否定したが、「病気扱い」を認めた[230]。アイルランドからの苦情を受け、欧州人権裁判所は、北アイルランドでの拷問の使用に関する調査を開始した。1978年の判決は、5つの尋問方法を特定し、法執行官による法違反を指摘しながら、それらを拷問とは認めず「非人道的または品位を傷つけるような扱い」としている[231]。しかし、この判決に先立つ委員会は、王立アルスター警察隊の特別支部が1971年4月に拷問に関する講座を受講したことを指摘している。ロジャー・ファリゴのような歴史家の中には、紛争中に拷問が何度も使用されたと考える人もいる[227]。
穏健派の支持と犯罪化

イギリスは、政府、軍、シークレットサービスで、合法的または違法な共和主義運動の代替勢力が出現するようにしている。社会民主労働党の創設を支持しているだけでなく[232]、女性の平和運動などの様々な平和運動や[233]、若者のための北アイルランド運動場協会のような社会的プログラムも支持している。目的は、共和主義の支持率を奪うことだった[234]。

共和主義者とロイヤリストの囚人、支持者は拘留条件を改善するために、紛争中にいくつかの闘争を戦った。主な要求は、1976年3月1日に削除された政治犯[233]、あるいは捕虜の地位を得ることである[235]。イギリス政府は「犯罪化」という反体制的な戦術をとっていた。さらに、常習犯としての地位は、政治運動の弾圧への参加を拒否する国際刑事警察機構などを利用することを可能にしている[233]。1981年5月5日、ボビー・サンズがハンガーストライキで死亡した日、当時イギリス首相だったマーガレット・サッチャーはウェストミンスター宮殿で「サンズ氏は有罪判決を受けた重罪人だった」と宣言した[94]。
情報戦

情報の制御は、紛争におけるイギリスの努力の重要な部分である。1973年から、陸軍の命令で、イギリスのメディアは厄介事の報道を制限していた[106]。MI5とMI6の諜報員が多くの編集部に配置されていた。北アイルランドのベルファストでは毎日、役員が国際記者会見を行っていた[236]。外務省のプロパガンダを担当する海外情報部とMI6は、ボビー・サンズの死後に、イギリス視点の事実を海外のマスコミュニケーションや欧州議会に広め、アーサー・マッケイグのドキュメンタリー映画『パトリオット・ゲーム』の映画祭の成功を制限した責任があった[237]。政治戦執行部は、MI6・情報政策・イギリス陸軍のシークレットサービス・外務省の情報調査部に所属し、北アイルランド・イギリスのみならず世界中でプロパガンダと毒殺を行なっていた[236]。
治安部隊とロイヤリスト準軍事組織との共謀
治安部隊とロイヤリスト準軍事組織との癒着を糾弾する壁画

ロイヤリストのグループと治安部隊との共謀は、1970年代初頭以降、共和主義者によって糾弾された。王立アルスター警察隊はロイヤリストの暴徒を武装させていた[63]。準軍事組織の一員は、イギリスの違法な諜報活動や特殊空挺部隊の活動(IRAと民間人の殺害を含む)に関与している[217][238]。また、アルスター防衛連隊の兵士は、ロイヤリスト武装集団(アルスター防衛連隊から武器を盗んで武装する集団[239])の一員でもある[240][241][242]。

数々の警察の調査(ジョン・スティーブンスの調査など[243])と多かれ少なかれ独立した組織(コーリー共謀照会[244]、人権弁護士会[245]、北アイルランド警察オンブズマン[246] など)が、共謀の実態を明らかにしてきたが、軍は1972年からこの事実について知っていた[246]。
紛争の政治的側面

社会的要求から始まるが、北アイルランドの紛争は、ユニオニズム、ロイヤリズム、アイルランド共和主義、アイルランド民族主義などの異なるイデオロギーの衝突が大部分を占め、一部の政党はこれらの伝統的な分裂を克服しようとしている。
イギリスの政党

この対立の間、イギリス最大の政党である保守党と労働党の2つの政党だけが、イギリスの座を譲り合っていた。伝統的に、この2つの党の間の非公式なルールは、北アイルランドでの政府の行動を批判することを野党に禁止している(しかし抑留が導入された1971年に労働党がこれを覆した)[247]。1970年から1974年、1979年から1997年まで政権を握っていた保守党は、1974年までユニオニストに近い立場にあったが、1990年代初頭に準軍事組織を巻き込んだ和平合意を開始し、1998年のベルファスト合意の際に、アイルランド統一の考えに固執していた労働党によって完成された[224][248]。
ユニオン・ロイヤリスト団体

アルスター統一党は、ベルファスト合意まで北アイルランドの主要なユニオニスト政党であった。その後、合意に反対し、2007年から政権を握っている民主統一党 (1971年にイアン・ペイズリーとデズモンド・ボアルによって設立された)を支持して衰退した。テレンス・オニールの政策とアルスター統一党の和平合意への関与は、紛争中にいくつかの分裂を引き起こした[215][249]。いくつかの小さな政党は、時には準軍事組織に近い形で、ユニオニストとロイヤリストの異なる傾向を代表している。これらには、進歩統一党、アルスター民主党などがある。

オレンジ騎士団(1795年設立)は、アルスター統一党に近い10万人近くの会員を擁する重要な組合主義組織である。オレンジ・パレードはしばしば緊張と暴動の対象となる[250]。様々な圧力グループや他の組合、ロイヤリストは厄介事の間に登場したが、限られた聴衆を維持した。これらには、ロイヤリスト労働者組合やアルスター労働者評議会などがある。

アルスター独立運動のようなロイヤリストやユニオニストの環境から来た数少ない政党は、グレートブリテンとアイルランドの両方からの北アイルランドの独立を提唱している[215]。
共和主義・民族主義団体

ほとんどの共和主義政治団体は、そのルーツがシン・フェイン党にある。1969年のアイルランド共和軍(IRA)の分裂を受け、シン・フェイン暫定派(IRA暫定派と連動)と公式シン・フェイン(公式IRAと連動)の2つの流れに分裂した[注釈 14]。後者はマルクス主義者であったが、後にアイルランド労働者党へと変貌を遂げ、わずかな選挙民の支持を得ただけであった。シン・フェイン暫定派は、1980年代に棄権主義を放棄して勢いを増した(1986年に分裂した共和主義シン・フェイン党の元凶であり、IRA継続派に近い)[214][218][251]。1974年の休戦に反対した2つのIRAの反対派は、アイルランド共和主義社会党(アイルランド国民解放軍と連動)を結成した[223]。北アイルランドでは、アメリカ合衆国のアイルランド北部支援委員会(NORAID)のように、共和主義の大義を支援する様々な組織が世界中で活動している[223]。

北アイルランド公民権協会(NICRA)が主導した公民権運動に端を発し、社会民主労働党は主要なナショナリスト党となったが、参加したベルファスト合意後、シン・フェイン暫定派に選挙権を奪われた[218]。

紛争中には、アイルランド独立党、共和主義労働党など、いくつかの小規模な政党や組織が活動していた。
異教徒間政党

北アイルランド同盟党(1970年設立)は、イギリスの自由民主党に近い。合同政府を受け入れ、ベルファスト合意を支持しているが、紛争中は限られたわずかな聴衆しかいなかった[252]。1968年に設立された人民民主主義は、公民権運動から発展したもので、2つのコミュニティをひとつにするために活動している主要な極左組織である[253][254]。伝統的な思想外にある他の小さな政党は、政治的に対立を解決しようとしているが、聴衆を得ることはなかった。例として、ニューアルスター運動、北アイルランド女性同盟、北アイルランド労働党などが挙げられる。
社会学的原因と影響
分断社会
1991年の北アイルランドの宗教地理
2011年のベルファストの地区:大多数がカトリック(緑)、大多数がプロテスタント(橙)、混合(灰)

「Cost of the Troubles Study」の研究者は、紛争に関与したり影響を受けたりしている個人を研究する上で、3つの要因(性別、宗教、場所)が決定要因になっていることを観察している。国民の大部分は、暴力の結果として自分たちの生活が変わったと考えている[255]。

プロテスタントは圧倒的に北アイルランドをイギリス国内に留めることを望んでいるが、カトリック教徒の意見は様々で、過半数が北アイルランドの統一を支持しているにもかかわらずである[256]。プロテスタントは、カトリック教徒がアイルランド人や民族主義者と表現するのに対し、イギリス人やユニオニストと表現することが多い[257]。

カトリック教徒はローマ・カトリック教会のみに属し、紛争中は人口の34%から40%を占めているが、プロテスタント教徒は主にアイルランド聖公会と長老派(それぞれ人口の約16%と20%)を中心とした様々な潮流に属している[258][259]。異なる宗教の礼拝所への出席率は、北アイルランドではグレートブリテンよりも著しく高くなっている[260]。また北アイルランドでは、グレートブリテンよりも同じ宗教共同体の人々の間で結婚することが多い[261]。

紛争の原点である、カトリックの少数派に影響を与える社会的、経済的、政治的差別は、公正雇用法や和平合意などの様々な法律によって、一部の格差は依然として存在しているものの、徐々に対処されてきている[262]。
被害者
紛争による死者数[263]
紛争による死亡者の地理的分布

紛争の犠牲者の正確な数は、情報源によって異なる[264]。

北アイルランド警察によると、北アイルランドでは1969年8月から2002年までの間に3,349人が死亡し[265]、1968年から2003年までの間に47,541人が紛争によって負傷した[266]。

王立アルスター警察隊によると、1969年8月から1995年12月までの間に、北アイルランドだけで3,181人の死者が出ている[267]。

マリー=テレーズ・フェイ、マイク・モリッシー、マリー・スミスによると、1969年から1998年までの間に3,601人の死亡者が出ている[268]。

リチャード・イングリッシュによると、1966年から2001年までの死亡者数は3,665人[269]。

マルコム・サットンによると、1969年から2001年までの間に3,526人の死者が出ている[270]:

1,842人が民間人
1,114人がイギリスの治安部隊
393人が共和主義準軍人
167人がロイヤリスト準軍人
3,204人が男性
1,522人が北アイルランドのカトリック教徒
1,286人が北アイルランドのプロテスタント[211]

紛争時には約4万人(北アイルランドの人口の3%)が負傷した[271]。
障害の社会病理学的影響

北アイルランドでは、イギリスの他の地域よりも警察の存在感が高く、1994年には140人の住民ごとに1人の警察官がいたが、軍は数えられていない[272]。

様々な政府や独立した研究によると、この障害は、自殺者数の増加、うつ病、アルコール、薬物、医薬品(抗うつ薬、睡眠薬、鎮静薬)の消費、様々な健康問題だけでなく、不安感、神経質、悪夢などの感情にも大きな影響を与えている。例えば、「Cost of the Troubles Study」の回答者の30%が心的外傷後ストレス障害を患っていると報告されており、カトリック教徒がプロテスタント教徒よりも多い(2014年のベルファストでのプロテスタント教徒の自殺者24人に対し、カトリック教徒は41人[273])。同じ調査では、11%から30%の回答者が紛争を生き抜いたことに罪悪感を感じていた[255]。

また、NISRA(北アイルランド統計調査庁)は、1997年の138人の自殺者から2014年には268人と、和平合意以降、自殺率が文字通り倍増していることを示している。また、過去1年間に報告された最後の自殺者の4分の3近くが男性であった。これまでの結果では、和平合意前の男女差は関係ないことがわかった[274]。これらの統計は、過去10年間に北アイルランドで宗派的な要求が10倍に増加し、新たなギャングが出現したことと比較することができる。一般的にカトリックの起源であり、厄介事を経験していない25歳未満の少年(一般的にフードとして知られている)だけで構成されており、今日、特定の義務の担い手であると感じている[275]。

2016年1月、アイリッシュ・ニュースは、「1998年のベルファスト合意以降、厄介事時に殺害された人よりも、自ら命を絶った人の方が多い」ことを明らかにした。統計は指数関数的に増加し続けており、国家統計局(ONS)は2014年以降、北アイルランドの自殺率がイギリスで最悪になったと報告している。この数字は、厄介事の継承と新世代への影響、つまり自滅、志向性の喪失、絶対的剥奪という因果関係がないわけではない[276]。
紛争の表現
厄介事と芸術

多くの芸術作品は紛争の影響を受けている。共和主義者、ロイヤリスト、民族主義者、ユニオニスト、平和主義者、公民権運動の一員など、各陣営はそれぞれの歌や詩などのレパートリーを持ち[277]、北アイルランドや世界中のアーティストが厄介事の視点を表している。フィクション(映画、文学など)の作品は、厄介事を扱っており、時には背景として扱っていることもある[278]。

20世紀初頭から、町家の切妻壁に描かれた壁画(フレスコ画)が発展した。当初はユニオニストのみだったが、その後、政治的な色に応じて地区を区切るために使用され、政治的なメッセージ(準軍事組織、平和主義者、公民権運動の支持者)を伝えるために使用されるようになった。これらの絵画は1990年代初頭に観光名所となった[279]。

紛争の異なる支持者は、映画の中ではステレオタイプ化されていることが多い。『パトリオット・ゲーム』(1992年)では共和主義者、特にIRA暫定派が批判的に描かれているが、逆に『デビル』(1997年)ではイギリス人がネガティブに描かれており、ブラッド・ピット演じる志願兵フランキー・マグワイアは「スポットライトを浴びたヒーロー」として登場する[280]。イギリスのプロテスト映画も北アイルランド問題を取り上げ、特にロンドン政府の人権侵害を非難している。これは、イギリス人のケン・ローチの『ブラック・アジェンダ/隠された真相』や、アイルランド人のジム・シェリダンの『父の祈りを』で見ることができる。多くの紛争がそうであるように、1971年の若いイギリス兵の視線を描いたヤン・ドマンジュの映画『ベルファスト71』(2014年)が示唆しているように、当事者の行動は必ずしも全てが黒か白かというわけではない。血の日曜日事件(2002年の『ブラッディ・サンデー』)、オマー爆弾テロ事件(2004年の『オマー』)、Hブロック紛争(2008年の『HUNGER/ハンガー』)など、紛争のマイルストーンが扱われ、2009年に公開された『レクイエム』では、2つのコミュニティ間の困難な和解を扱っている。

公民権運動がアメリカ合衆国の曲(『勝利を我等に』)を取り上げている間、ユニオニスト[281] と民族主義者[282] はそれぞれ独自の党派的な曲を持っている他、暴力全般(U2の『ブラディ・サンデー』)、イギリスの治安部隊の行動(ジョン・レノンとオノ・ヨーコの『ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ』)、共和主義準軍事組織の行動(クランベリーズの『ゾンビ』)などを批判している曲も存在する。
紛争の歴史学
紛争に関する研究は、長い間、軍事的暴力と準軍事的暴力に焦点を当ててきた。共和主義派(特にIRA暫定派とアイルランド国民解放軍)の機能は主に研究されているが、ロイヤリストの分析は純粋に犯罪活動に焦点を当てている。イギリス陸軍と北アイルランド警察は、構造的・戦略的な観点から研究されており、それらが生み出す多くの論争が行われている。紛争の相対的な終結に伴い、軍事的・準軍事的暴力の分析が減少し、和平合意後の北アイルランドの進化に関する研究が好まれるようになった。暴力、2つのコミュニティ間の関係、「紛争後」の状況を説明するために社会科学が動員され、さまざまなアプローチ(社会経済的、地理的、アイデンティティに基づく)が行われている。北アイルランド社会のアイデンティティの隔離は、紛争と国の分析の大きな軸の一つである[206]。』

[FT]英領北アイルランド、自治政府発足へ厳しい選択

[FT]英領北アイルランド、自治政府発足へ厳しい選択
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB020NX0S2A101C2000000/

『英領北アイルランドの政局がまたもや膠着状態に陥っている。10月28日の法的期限までに自治政権を樹立できなかったため、英政府は新たな議会選を実施すると表明した。

ベルファストにある北アイルランド議会の議事堂=AP

しかしながら、英政府は投票日の決定を先延ばしにしている。(北アイルランドの)各政党も新たに選挙を実施しても自治政権を樹立できないかもしれないと警告する。北アイルランド小売りロビー団体「リテール NI」のグリン・ロバーツ代表は、同地の政治情勢について「極度の政情不安に陥っている」と言い表す。

北アイルランドの帰属を約30年にわたり争った「ザ・トラブルズ」(あのやっかいごと)と呼ばれる紛争の終結後、1998年の「ベルファスト合意(聖金曜日合意)」で親アイルランド派と親英派が共同で統治する基本的な枠組みが築かれた。以降、四半世紀にわたり、分権化された自治政府は機能するのと同じぐらいの頻度で機能停止に陥ってきた。

自治政府を今すぐ発足させるためにはどのような選択肢があるだろうか?

「議定書」の修正

今回の政治危機は2022年2月に親英派の最大政党、民主統一党(D U P)が、英国の欧州連合(E U)離脱協定に盛り込まれた通商ルール「北アイルランド議定書」への抗議からD U P所属の北アイルランド首相を辞職させたことをきっかけに起こった。D U Pは5月の北アイルランド議会選後さらに態度を硬化、新自治政府の発足や北アイルランド議会招集への協力を拒んでいる。

過去の紛争の再発を防ぐため、(21年1月の)英国のE U完全離脱以降も、陸続きのE U加盟国アイルランドと北アイルランドとの国境は開放されたままになっている。北アイルランドは英国市場の一部でありながら、物品の取引に関してはE U単一市場に残留、(英本土と北アイルランドの間の)アイリッシュ海に関税の境界線が設けられ、同じ国でありながら通関手続きが行われる状況となっている。

D U Pは議定書によって北アイルランドの医薬品の供給に悪影響が出ているほか、輸送コストが30%上昇し、英本土からの鉄鋼に25%の関税がかけられるためインフラ投資も打撃を受けていると抗議している。D U Pは議定書が破棄されるべきだとの立場を固持している。

E Uと英国は何カ月にもわたる冷ややかな関係の後、議定書に関する協議を再開したが、重要項目では合意からまだ程遠い状況にある。E U側は議定書の再交渉を認めない姿勢を堅持しているが、施行についてはより柔軟に対応する用意があるとしている。

一方、スナク英新首相は議定書に記されている通商ルールの一部を一方的に修正する権限を英閣僚に与える法案(上院で審議中)を依然、支持している。E U側はこれに反発、貿易戦争にも発展しかねないと警告している。もっとも専門家の間では、英国内の財政危機の対処に追われるスナク首相は、E Uと紛争を起こして損害を被りたいとは思わないと予想する声が多い。

専門家は議定書がD U Pが望むように修正されたとしても、英政府はたったひとつのコミュニティーを懐柔しているとの印象を与えるようなまねはできないと指摘する。

英ケンブリッジ大学で英国とアイルランド史を専門とするニーブ・ガラガー准教授は「北アイルランドでの得票数が5分の1にも満たない1つの地方政党の意向で、国策を決めることはできない」と言い切る。

英政府による直接統治の再開

政治的まひ状態を打開するため、北アイルランドが英国による直接統治に戻るという代替案もある。(自治権が委譲されている北アイルランドの自治政府と議会に代わって)英政府が北アイルランドのすべての政策を決め、法案も英議会が審議して決定する。しかし今のところこの案を実現させようとする声は、北アイルランドだけではなく英国の政界でもほとんど聞かれない。

北アイルランドが英政府に直接統治されたのは直近では02年から07年までだ。親アイルランド派の最大政党シン・フェイン党がD U Pの再生可能エネルギーに関した失策に抗議して共同自治への参加を拒否し、自治政権が発足できなかった17年から20年の時にも、英政府は全面的な直接統治を避けた。

北アイルランドでは(アイルランドとの統一を望む)「ナショナリスト」派の主要政党と(英国の統治強化を望む)「ユニオニスト」派の主要政党が連立政権で権限を分担し、それぞれが拒否権を持つ。最近では北アイルランド議会で合意に至らなかった法案が英政府の介入によって成立した例もある。人工妊娠中絶を巡る法案やアイルランド語を公用語とする法案などがこの中に含まれる。

法的期限までに自治政権を樹立できなかったため、10月28日からは官僚が北アイルランドの政権運営を担っている。またこの間、英議会が北アイルランドの予算案を代わりに成立させる。

ベルファスト合意の改革

ベルファスト合意で導入された北アイルランドの自治政権システムは、北アイルランドの英国との連合維持を求める「ユニオニスト」派と多くがアイルランドとの統一を望む「ナショナリスト」派という主要な2つのコミュニティーを念頭に導入された。

しかしながら、北アイルランドは現在3つの政党がしのぎを削っている。5月の議会選ではシン・フェイン党が第1党となり、長期間にわたって政治を支配してきたD U Pは第2党に降格、英国下の統治かアイルランド下かという(憲法の)問題について中立的な立場をとる同盟党が第3党に躍進した。

北アイルランドの政治家も支持する「改革」では、二大政党のどちらかが自治政府の機能をまひさせることはできなくなる。しかし、北アイルランドの様々なコミュニティーがこれに同意するかどうかは不透明だ。

英国政府は「(ベルファスト)合意を修正する計画はない」との立場を維持する。

英政府報道官は「我々の明確な優先事項は、北アイルランド住民に対して地元で選出され安定して説明責任を持つ住民の期待にふさわしい自治政府を保証することだ」と説明する。

アルスター大学で社会政策を専門とするディアドリー・ヒーナン教授は、調査結果などから地元住民が自治政府を支持していることは明らかだが、北アイルランド政府はそれに応えていないと批判し、次のように語った。

「良い統治の実現には、我々の自治権の構造を抜本的に改革する必要がある」

しかし現状と異なる連立政権の形態で合意できたとしても(実現には)時間がかかる。もっとも23年4月のベルファスト合意(25周年)記念は、合意内容を見直す機会になるかもしれない。
南北アイルランド統一

膠着状態打破への最も抜本的な方策は、南北アイルランドの統一だ。シン・フェイン党はこれを「10年以内に」実現することを目指している。

しかし世論調査では、南北アイルランド統一は北アイルランド住民の過半数の支持を得られていない。アイルランドの国民の大半はこの考えに賛同しつつも、税率を引き上げ、国旗を変えてまで実現することには抵抗がある。

南北アイルランド統一がどのように実現するかも不透明だ。アイルランドの副首相で12月15に首相に再び就任するレオ・バラッカー氏は、英国内ではなく南北統一アイルランド内で北アイルランド自治政府を存続させることを提言している。

By Jude Webber

(2022年10月31日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

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ベトナム、中国のTPP加盟申請支持 首脳会談で共同声明

ベトナム、中国のTPP加盟申請支持 首脳会談で共同声明
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB01DBK0R01C22A1000000/

『北京=共同】新華社電によると、中国とベトナムは1日、10月31日の首脳会談を受けて共同声明を発表した。ベトナムは環太平洋経済連携協定(TPP)を巡り中国の加盟申請を支持すると表明した。中国は加盟国に支持を働きかけており、アジア太平洋経済圏で主導権を握り、米国に対抗する狙いだ。

中国は昨年9月に加盟を申請。加盟交渉の参加には全加盟国の賛成が必要となる。

ベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長は中国共産党の習近平総書記(国家主席)に早期訪問も要請し、習氏は受け入れた。』

米国、対中半導体規制に追随求める 日本など同盟国に

米国、対中半導体規制に追随求める 日本など同盟国に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN280H80Y2A021C2000000/

『【ワシントン=飛田臨太郎】バイデン米政権は先端半導体の対中輸出規制について、日本など同盟国にも同様の規制の導入を求める。関係国政府と協議して早期の合意をめざす。米国では半導体の技術者が中国から引き揚げるなど対応を迫られている。日本の半導体産業でも米中対立の影響がさらに強まる見通しだ。

日本政府関係者によると、米国からの打診を受けて政府内で調整に入った。米国による対中規制のうち、どのような内容なら追随できるか議論している。欧州連合(EU)や韓国の動向も見極める。

米商務省は10月7日、スーパーコンピューターなどの先端技術を巡り、中国との取引を幅広く制限する措置を発表した。輸出管理の法律に基づく規制を改めた。半導体そのものだけでなく、製造装置や設計ソフト、人材も対象に含めて許可制とした。

商務省は企業の許可申請を原則拒否する方針で、規制対象の中国事業が事実上できなくなる。違反すれば行政処分のほか、企業や経営陣が刑事罰に問われる可能性もある。

米国は回路線幅が微細の高性能半導体の関連部品などで、輸出規制を課すよう同盟国にも促す。半導体製造装置や生産・開発に関わる技術者の就業、取引も含め、幅広く足並みをそろえるよう求める可能性もある。

輸出管理を担当するエステベズ商務次官は、10月27日の講演で「我々が同様に取り組むよう望んでいることを同盟国は分かっている」と述べた。

半導体の世界シェアは米国が12%。台湾と韓国がそれぞれ約2割で、日本が15%を占める。米産業界からは「米国企業だけが中国での売り上げを失うのは不公平だ」と他国にも同様の規制を求める声が相次ぐ。

米政府も、軍事的脅威を増す中国に対し同盟国が連携すれば中国が先端半導体を入手したり生産したりするのが難しくなり、規制の有効性が増すとみている。

オバマ米政権時代に輸出管理を担ったケビン・ウルフ元商務次官補は「日米両国が半導体をめぐる中国への懸念に共に取り組めば、協力関係がさらに深化し、先端技術の共同開発・生産が進みやすくなる」と強調する。

米国の対中規制は、米国人が中国の半導体関連企業で勤務、取引することも制限する。ウルフ氏によると、中国の先端半導体工場で働いていた米国人技術者が帰国し始めている。オランダの半導体製造装置大手ASMLホールディングは、米国人の従業員に中国の顧客へのサービスを停止するよう求めた。

西村康稔経済産業相は1日の記者会見で、対中規制の影響について「米国とコミュニケーションを取っており、それを踏まえて国内企業にヒアリングしている」と語った。

日本など同盟国にも米国と同様の規制がかかる可能性がある。日本の半導体企業は警戒を強めている。「中国で先端半導体の生産が停滞すれば、日本が強みとする付加価値の高い最新の製造装置へのニーズが弱まる」(大手半導体製造装置メーカー)と懸念する。

業界団体の予測では、中国の半導体装置の市場規模は2022年に220億ドル(約3.3兆円)。台湾、韓国に次いで世界の22%を占める。現時点では規制がどのような内容になるのか不透明なため、日本の関連企業の多くが「ビジネスへの影響を精査している」(ニコン)段階だ。

米国では製造装置大手のアプライドマテリアルズが新規制の影響で業績見通しを下方修正した。22年8~10月期の売上高が4~8%に相当する2億5000万~5億5000万ドル押し下げられる。半導体の市況が急速に悪化している局面だけに、一大市場である中国での事業機会を制限されれば、各社の業績への影響が膨らむ。

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半導体が分かる 3 「ムーアの法則」の先へカギ握る製造装置

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竹内舞子
経済産業研究所(RIETI) コンサルティングフェロー
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分析・考察

国が輸出規制を外交ツールとして使うためには、その国を含む限られた国でしか調達できない物資を持つことと、規制対象国がその物資の調達を海外に頼っていることが必要だ。先端半導体技術は米国が強みを持つ一方中国は今のところ後れを取っているのでその条件に合った物資である。
しかし、技術的優位性を維持するためには技術流出を防ぐ必要がある。また、米国が輸出を制限しても他国から調達できては規制の意味がないので、効果を上げるためには他国にも輸出や技術移転をしないよう要請する必要がある。日本には難しい選択であるがこの問題は産業政策だけでなく外交・安保戦略の問題でもあることを踏まえて対応を決定する必要があるだろう。
2022年11月2日 2:58

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蛯原健
リブライトパートナーズ 代表パートナー
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別の視点

既にトランプ政権時代からアメリカの禁輸法適用によって日本ら同盟国以外も含むすべての第三者国に対してもかなり強い取引制限が掛かっている。例えば半導体関連で米国由来の製品につきいわゆるエンティティリストに入っている中国企業に対する禁輸だが、米国由来とはひとつでも米国の部材等が入っていると対象であり、それが理由で日本の半導体製造装置などは実質的に主要な中国テック企業に対して禁輸となっている。

今回はそのアメリカの禁輸法そのものを日本や韓国にも追随を求めるとの事のようだが、その米国の狙いは、既に現段階で中国には相当な打撃でありそれを増す事ではなく、むしろ今後の中国半導体産業の発展を阻害する事だろう。

2022年11月2日 8:11

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前嶋和弘
上智大学総合グローバル学部 教授
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ひとこと解説

先端半導体は米中デカップリングの最大ともいえる対象。先端半導体から中国を外す動きは、日本を含むアメリカの同盟国にとって今後も長年に続く努力目標になっていきます。
2022年11月2日 2:31』

量子コンピューターに革新 ノーベル賞技術の先駆者挑む

量子コンピューターに革新 ノーベル賞技術の先駆者挑む
編集委員 吉川和輝
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD316GJ0R31C22A0000000/

『今年のノーベル物理学賞は欧米の量子情報科学の研究者3人に授与される。その1人、アントン・ツァイリンガー博士(オーストリア)の業績は、光の粒(光子)の状態を離れた場所に移す「量子テレポーテーション」の実験に成功したことだ。この分野で世界的な成果をあげてきたのが古沢明東京大学教授。今、量子テレポーテーションを駆使した独自方式の光量子コンピューターの開発にまい進し、他の量子マシンの斜め上を行く「スーパー量子コンピューター」を目指す。

量子テレポーテーションの研究でノーベル物理学賞を受賞するアントン・ツァイリンガー氏(10月、ウィーン)=ロイター

「テレポーテーション」というとSFに登場する「瞬間移動」を連想する。電子や光子といったミクロなものを扱う量子力学の世界では「量子もつれ」という状態にある2つの粒子は、観測するまで状態が定まっていないが、一方を観測すると同時にもう一方の状態が確定する。離れた場所にある光子が量子もつれを起こしていることを示し、量子力学の正しさを実証したのが1997年のツァイリンガー氏の実験だった。

完全な量子テレポーテーションに成功

ツァイリンガー氏の実験が、転送後の測定操作が必要な「条件付き」の量子テレポーテーションだったのに対し、古沢氏は米国留学中の98年に「条件なし」の量子テレポーテーションに世界で初めて成功。2013年には量子コンピューターで扱う情報の基本単位である「量子ビット」を完全な形でテレポーテーションした。

古沢氏が量子ビットの完全な量子テレポーテーションを達成した2013年当時の東京大学の実験装置。こうした複雑な装置を大幅にコンパクト化する技術にメドをつけている=東京大学提供

ツァイリンガー氏の成果が今の量子暗号技術などにつながっているのに対し、古沢氏による完全な形での量子テレポーテーションは量子コンピューターの基本技術になっているとされる。ツァイリンガー氏の受賞で、古沢氏はノーベル賞を惜しくも逃したという見方も出たが、古沢氏は10月末開いた記者会見でこれを否定してみせた。
ノーベル賞で関心高く

今回の授賞は「条件付きの量子テレポーテーションに限定されたものだった」(古沢氏)というのが理由だ。授賞理由も古沢氏らの研究には言及しておらず、ノーベル委員会は古沢氏の研究を「別個の業績」とみなしている可能性がある。古沢氏は「これまでノーベル賞を意識したことはなかったが、むしろ(次の)受賞が近づいてきたようだ」と述べた。
ノーベル物理学賞を(スクリーン左から)アラン・アスペ、ジョン・クラウザー、アントン・ツァイリンガーの3氏に授与すると発表した記者会見=10月4日、ストックホルム=スウェーデン通信提供・AP

古沢氏は自らが切り開いた量子テレポーテーションを駆使して新方式の光量子コンピューターをつくろうとしている。2021年からは理化学研究所・量子コンピュータ研究センターの副センター長を兼任。中村泰信センター長が取り組む超電導型・量子コンピューターなどと並んで研究開発を進める。実機完成の目標は2030年だ。

量子コンピューターの開発は、量子ビット実装の違いによって米IBMなども採用する「超電導」、欧米のスタートアップが主導する「イオントラップ」、大森賢治・分子科学研究所教授らが手掛ける「冷却原子」など複数の技術候補がひしめいている。

古沢氏の光量子コンピューターがこれらと異なるのは、超電導回路などを用いる「静止した」量子ビットではなく、飛んでくる光パルスを測定し、その結果に基づいて量子もつれ状態にある次の光パルスに操作を加える「測定誘起型」と呼ばれる技術を使っていることだ。

ゲームチェンジ狙う

この方式だと量子ビットを常温で、しかも桁違いの規模で扱える。10月の記者会見で古沢氏は「量子ビットを100億近くの規模で使える技術を手にした」と説明した。今回NTTと共同で「量子光」と呼ばれる微細で特殊な光の波形を自在に作り出せる光源技術を開発。これを使うことで扱える量子ビットの数を増やせるという。

他方式での量子ビットの数は、超電導型で100を超えた程度。この規模では計算の誤り(エラー)が避けられないため、各方式とも今後より多くの量子ビットを実装することで誤り訂正ができるようにしようとしている。
理化学研究所(埼玉県和光市)に新設された研究室で実験装置を説明する古沢明氏

そのため超電導型の実用機で100万量子ビット程度必要とされる。急には実現できないため当面は「NISQ(ノイズのある中規模の量子コンピューター)」と呼ばれる誤り耐性のない量子コンピューターを、通常のコンピューターとハイブリッドで使う時代が続くとされる。これに対して古沢氏は「誤り耐性を持つマシンを最初から目指す」とし、この世界でのゲームチェンジを構想する。

古沢氏は記者会見で、光量子コンピューターでもあらゆるタイプの演算を実行できるメドがたっていることも明らかにし、実機開発への道具立てが整いつつあることを印象付けた。

古沢氏らの光量子コンピューターは、コンピューターの開発史上ユニークな位置を占める可能性がある。今のコンピューターや他の量子コンピューターと異なり、コンピューターチップや量子ビットの集積化を進める必要がないためだ。

「光コンピューター」実現へ膨らむ期待

情報処理を電気信号ではなく光によって行う「光コンピューター」が実現するとの期待も膨らむ。光コンピューターはチップの動作周波数を上げられるなどの期待から1980年代に盛んに研究されたがいまだに実用化していない。古沢氏によると「光を使うアナログコンピューターでは、実用的な誤り訂正の方法がなかったため開発が行き詰まった」という。それが量子技術を使って実現するシナリオが見えてきた。

古沢氏が描く万能型の超高速コンピューターの構想は「良いことずくめ」に聞こえなくもない。当面の課題である誤り訂正の実証など開発実績を積み上げていくことで、「ノーベル賞が近付いた」という自身の言葉は現実味を帯びてくる。

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「習近平崇拝だけは許すな」 長老が守り切った最後の砦

「習近平崇拝だけは許すな」 長老が守り切った最後の砦
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD277QK0X21C22A0000000/

『誰もが、3期目入りした共産党総書記、習近平(シー・ジンピン、69)の完全な勝利で閉幕したと思っていた共産党大会。それは片面にすぎなかった。完勝と言い切れるのは人事だけだったのだ。

【関連記事】「胡錦濤と目を合わすな」 病が招いた軍団完敗の悲劇

「退職した老人は黙ってろ」。5カ月前、現役ワンマン社長から怒鳴られて鬱屈していた創業に尽力した老人らは、裏でひそかに動き出していた。驚きの成果が突然、明らかになったのは、閉会から4日が過ぎた10月26日のことだった。

習がこだわり続けた改正後の共産党規約全文に、彼への忠誠を示す「二つの確立」というスローガンが全く見当たらない。多くの指導者が口にし、北京の街角には横断幕も掲げられた。党大会決議でも言及されたのに、肝心の本文では完全に無視された。

短縮された「習近平思想」「人民の領袖」という文言もない。あの騒々しい前宣伝は何だったのか。この異変にはもちろん裏がある。カギは「老人パワー」だった。

第20回中国共産党大会の開幕式で言葉を交わす105歳の最長老、宋平氏㊧と曽慶紅・元国家副主席(10月16日、北京の人民大会堂)=共同

習が狙った表現は、簡単にいえば鄧小平を超えて、毛沢東と並び立つ地位を得るための政治的な道具だった。だが、党大会のひな壇に並ぶ長老は全員、鄧小平時代の申し子だ。人生の矜持(きょうじ)にかかわるだけに、簡単に通すはずがない。

闘いの火蓋を先に切ったのは、意外にも習サイドだ。5月15日に表に出た「老人は黙れ」という命令である。伝達者は今回、序列6位で最高指導部入りした実力秘書、丁薛祥(ディン・シュエシアン、60)だ。

「党中央の大きな政治方針をみだりに論じるな」という異例の中央弁公庁通達の主眼は、習が面談で勝手に決める仕組みが出来上がった指導部人事ではなかった。中国憲法より権威ある共産党規約の抜本改正を有利に導く言論統制だったのだ。

北京・中南海での改正に向けた「小組」全体会議初会合(5月30日) を前にした「口封じ」。それは完全に裏目に出た。長老、一般の退職幹部からも「ふざけるな」という散々な反応だったのだ。

江沢民、曽慶紅両氏まで「ゆるゆる連携」

党規約には、毛沢東のような独裁者を永遠に生まぬよう「いかなる形式の個人崇拝もこれを禁止する」という金言がある。文化大革命(文革、1966~76年)時の失脚から復活した鄧小平による82年9月の党規約抜本改正の根幹だ。

「『習近平崇拝』だけは許すな」。これが5月以降、長老、退職幹部らの緩やかな連帯の合言葉になっていった。会談で示し合わせたわけでもないあうんの呼吸。「ゆるゆるの連携」にすぎないが、それぞれ声を発するなら、習への大きな圧力になる。

党大会閉幕式で、習近平総書記㊧の書類に手を伸ばす胡錦濤前総書記㊨(10月22日、北京の人民大会堂)=共同

もちろん奇怪な「宮廷政治劇」の主人公、胡錦濤(フー・ジンタオ、79)も、40年続く信念を胸に抱きながら退場したに違いない。挙手採決の直前だった紅(あか)いファイル内の改正最終案が、彼にとって心から賛同できるものだったかは不明のままである。自分が苦労の末、作り上げた公正な幹部任用規定は既にズタズタだからだ。

高齢の元総書記の江沢民(ジアン・ズォーミン、96)は、党大会に出ていない。だが、やはり鄧小平の遺志を継ぐ後継者だ。習が党規約改正を道具に使って、自分ばかりか、師匠までないがしろにするのは許せない。

胡錦濤は、江沢民、元国家副主席の曽慶紅(83)ら「上海閥」といがみ合ってきた。とはいえ「習近平崇拝は許すな」の1点だけなら思いは同じだ。タッグは組めなくても、それぞれ異論をぶつければ圧力は増す。盟友の前首相、温家宝(80)、「胡・温」コンビを見いだした名伯楽で105歳の最長老、宋平は当然、同志である。

香港紙がインターネット上に出回ったと報じた中国の江沢民・元国家主席㊨の近影とみられる写真=共同

長老はもはや人事には口を挟みにくい。だが今や9600万人を超す共産党員がこの40年、大事にしてきた根本の崩壊だけは阻止する。中国の発展を止めないために、という「大義」は賛同を集めやすい。こうして今回も鄧小平の金言は維持された。

「個人崇拝禁止と『二つの確立』は相いれず、矛盾する。両立が無理なのだから、どちらかが落ちる。今回は『二つの確立』が負けた。当然の結果だ。『老人』は最後の力を出した」。老共産党員の説明は理路整然としている。

客観的な証拠がある。国営通信の新華社は、改正党規約誕生のドキュメント記事で「現行党規約は、82年9月の第12回党大会の改正で制定された。40年来、党規約の基本内容を安定的に保持する前提の下・・」という大前提をわざわざ紹介している。5年前、10年前のドキュメントにはない特別な表現だ。

党大会閉幕式を途中退席する胡錦濤氏㊥。手前左から2番目は温家宝氏(10月22日、北京の人民大会堂)=比奈田悠佑撮影

後段では「党内で合意が形成された内容だけを修正する」とした。こちらは毎回の決まり文句だが、前段と合わせれば意味は明らかだ。「鄧小平以来の基本を守り、合意重視で改正した」という説明になる。長老らの抵抗で習は事実上、挫折した。その蹉跌(さてつ)に直接、触れない苦心の作文である。共産党政治の表と裏は全く違う。

「二つの確立」とは、習の核心として地位の確立、そして「習近平新時代中国特色社会主義思想」(中国語で16文字)の指導的地位の確立を指す。重要なのは後者だ。個人名を冠した思想の指導的地位が確立されれば、長い表現も「習近平思想」と短縮される。2つはセットだ。

それは「習近平思想」が、党の公式ルール上も「鄧小平理論」を超えて「毛沢東思想」に並び立つ革命的な変化を意味する。理論より権威ある思想は、毛沢東と習近平だけになる。

習に毛沢東に倣う「領袖」の呼称を使うことが公認され、最後は共産党中央主席(党主席)ポストの復活で、トップ「終身制」に道を開く。個人崇拝禁止も事実上、消える。これが習が狙った段取りだ。

一矢報いた胡錦濤氏、「鄧小平超え」却下

終身制だけは阻みたい長老らは、代償として一つだけ妥協した。それが「二つの維持」の容認だ。これは核心の地位を守り、集中統一指導を守るにすぎない。核心は、毛沢東、鄧小平、江沢民も同じで、個人崇拝、終身制に直結しない。

街中に記された「二つの確立」の文言(10月13日、北京市)=比奈田悠佑撮影

「この規約ならトップが彼(習)でなくなった時代にも何とか通用する」。82年改正の経緯から知る老識者の指摘にはハッとさせられた。

仮に2027年に権力を委譲してもすぐには問題が出ないのだ。最終的に習は「二つの確立」を党員に要請するだけの党大会決議採択で面目を保つしかなかった。苦渋の妥協だ。

胡錦濤は人事では弟分、子分を守れなかった。それでも最後のとりでの党規約だけはギリギリ守り切った。一矢報いたのだ。習と一心同体ではない共産党という大組織が党の憲法上、習の「鄧小平超え」という野望の実現をひとまず却下したのである。これが「胡錦濤劇場」の幕切れ後にわかった極めて重大な内幕と歴史的な意義だ。

これを踏まえ党大会評価の角度を少し変えるべきかもしれない。習は人事で完勝し、党規約抜本改正=「鄧小平超え」で挫折したのではなく、「鄧小平超え」を体現する党規約改正で勝てないのが明白だから、人事だけは完璧な勝利を必要とした。そんな見方も成り立つ。改正難航は8月の「北戴河会議」後にはわかったはずだ。

首相の李克強(リー・クォーチャン、67)は北戴河会議明けの8月16日から広東省深圳に入り、鄧小平像に献花。港湾視察で改革開放に触れ、「黄河、長江が逆流することはない」と言い切った。鄧小平に由来する党規約の根幹維持を意味していた。

鄧小平像に献花する李克強首相(8月17日の中央テレビニュースの画面から)

一方、これが人事を指すという解釈は誤解だった。人事は究極的には習の独断で決まる。「面談重視」は、習に圧倒的に有利なのだ。

5年後に再挑戦する戦略転換を強いられた習は、極端な最高指導部人事に走る。李強(リー・チャン、63)、蔡奇(ツァイ・チー、66)、丁薛祥、李希(リー・シー、66)の側近4人を引き入れ、政治局からも胡錦濤派を一掃した。リベンジに向けた体制立て直しである。

「新四人組」連れて毛沢東詣で

「これは『新四人組』を使った新たな整風運動だ」。中国政治をよく知る人物の分析は少しオーバーに感じたが、その例えは的外れではないことがすぐ証明された。習は党大会が終わると真っ先に、「新四人組」と評された面々を含む6人を連れて陝西省・延安に入った。

内陸部の黄土高原にある延安は、1940年代に毛沢東が反対派を迫害した「延安整風運動」の地だ。毛沢東はその20年後、本当の「四人組」を使った文革の悲劇を引き起こす。習は延安の毛沢東旧居でリベンジを誓っただろう。

毛沢東の革命根拠地だった陝西省延安の記念館に並ぶ習氏㊥ら新最高指導部メンバー=新華社・共同

長老の政治力は年々、衰える。中央委員まで自派で固めれば、5年後に熟柿(じゅくし)が落ちるように望みがかなう。ただし、「新四人組」のうち半数以上は5年後にお払い箱になり、「新新四人組」に入れ替わるかもしれない。習の腹ひとつである。

人事完勝と対照的に思い通りにならなかった「鄧小平超え」を体現する党ルールの抜本改正。習はなお「闘争」を口にしている。少なくても今後5年、再び激しい政治的な闘いが続くのは間違いない。

「胡錦濤劇場」は宮廷政治劇である以上、観衆の共産党の現役幹部からアンコールを求める拍手が起きることはあり得ない。主役の胡錦濤が舞台あいさつのため再び登場するのは難しいだろう。

それでも、表では決して上演されない第2幕、第3幕が必ず内部で用意されているはずだ。今回の長老と退職幹部のうごめきのように。それを竹のカーテンの隙間からのぞいてみたいという衝動に駆られる。永遠の謎として封印される前に。(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)

1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。』

鬱陵島

鬱陵島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B1%E9%99%B5%E5%B3%B6

 ※ wiki調べたら、いろいろ「面白いこと」が分かったので、紹介する。

(※ 一部、省略。抜粋のみ)

『鬱陵島(うつりょうとう、ウルルンド[1]、ハングル表記:울릉도)は、日本海に浮かび、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する火山島である。』

『概要

朝鮮半島の竹辺(蔚珍郡)から東に140 km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984 m。人口は9128人(2020)[2]。面積は73.150 km2[3]で耕地面積は畑が12.40 km2、水田が0.5 km2、林野55.5 km2。

島全体が火山帯のため海岸の多くが絶壁(西南と東南の海岸は90 mの崖)であり港湾開発は難しいが、2018年末に全長44.2 kmの一周道路が開通(路面は一部工事中)した。島内のほとんどの道路は制限時速40 kmでネスジョントンネル区間のみ時速60 kmとなっている。

平地が少なく傾斜が激しい山道で積雪も多いため、ほとんどのタクシーがSUVである。また、駐車場が不足しており、いつでも動かせるように停車中でも車内にキーを置く習慣(車を持ち出せず盗難の恐れがないため)がある。2019年の車両数は5840台で内243台が電気自動車となっている。鬱陵郡は電気自動車の購入に補助金1900万ウォン(うち国費900万)を支給しており、毎年100台分の予算を確保しつつ2029年までに自動車の20%を電気自動車とする計画である[4]。

韓国で最も嵐日数が多く、豪雪地帯である。代表的な植生は香木・白樺。ハマナス・島野菊など[5]。主島の他、観音島、竹嶼と複数の岩島からなる。 』

『歴史

三国史記によると、鬱陵島は于山国として独立していたが、512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。

その後、女真が滅びると朝鮮(高麗)の支配下となったが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者も本土より多数移住した。朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。

うるまの島

平安時代の『権記』、『本朝麗藻』などに、寛弘元年(1004年)「しらぎのうるまの島の人」の因幡漂着と送還が記述されている。

この島は本朝麗藻で「迂陵島」とされ、現在の鬱陵島であることは文献史学、古典文学などの研究者には定説である。日本語の通じない異邦人の到来は当時の京都でも話題となり、歌人藤原公任が題材として歌を詠み千載和歌集に載せられたことで後の世にも知られた。

[詞書]うるまのしまの人のここにはなたれきて、ここの人のものいふをききしらてなんあるといふころ、返ことせぬ女につかはしける

(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)

おほつかなうるまの島の人なれやわかことのはをしらぬかほなる
(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)

—千載和歌集 巻第十一 六五七

これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、室町時代には、当時の琉球国が室町幕府に遣使し、本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄島を指すようになった。

あくまでも日本本土の文人たちによるもので、当の琉球人の知名度はなかった呼び名であるが、明治時代以降の沖縄県では県民にも沖縄の雅称として認められる名となった。

現代の沖縄県で「うるま」の語源は沖縄方言の「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、明治以降に後付けされた民間語源に過ぎない[13][14]。

倭寇対策としての「空島」政策

13世紀から16世紀にかけて「倭寇」(朝鮮本土や中国沿岸部を劫掠した海賊)は鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装い(仮倭という[15])、半島本土を襲うことがあった。

李氏朝鮮(1392年〜1897年)は成立前後より、これを脅威とみなし、1417年、太宗は対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた(いわゆる「空島政策」)。

この後、1881年まで460年以上に渡って同島は公式には無人島となった(しかし朝鮮から密航する者は後をたたなかった)。

米子商人の鬱陵島拝領

江戸幕府から米子商人にあたえられた鬱陵島渡海許可証(1618年)

鳥取藩作成の『竹嶋之図』(1724年)  左が「竹島」(現、鬱陵島)、中央が「松島」(現、竹島)、右下が隠岐諸島 江戸時代の1618年 – 1697年、米子の商人が江戸幕府の許可の下、隠岐、現在の竹島(松島)を経由し、鬱陵島を開発していた。

1618年(元和4年)5月16日、江戸幕府は鳥取藩主池田光政(松平新太郎)にあてて伯耆国米子(現、鳥取県 米子市)の商人、大谷・村川の両氏に対し、鬱陵島(当時、竹島)への渡海免許をあたえ、将軍家の家紋を打ち出した船印を立てることを許可した[16]。

幕府はまた鬱陵島で林業や漁猟を行う許可も与えていた[17]。

これは、両商人が鬱陵島の独占的経営を幕府公認でおこなっていたことを意味する[16]。
竹島一件

詳細は「竹島一件」を参照

上述のように、隠岐の漁師などが空島であった鬱陵島へおもむいて海産物や竹などを採取し、これを独占的に米子商人が取引することは幕府によって認められていた。

このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行し、幕府が李氏朝鮮に対し抗議した。これに対し朝鮮は歴史的に自国領であるとして反発した。

この後、日朝間で長期間論争が続いたが、1697年(元禄10年)1月、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉は、日本人の鬱陵島への出漁を禁じる措置をとり、その旨を李氏朝鮮に伝えた。こうして、日本の漁師たちが幕府の許可を得て鬱陵島に渡航することはなくなった。

春官志の記録

1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。

ヨーロッパ人による「発見」
「竹島外一島」も参照

1787年、フランスの探検家ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローが鬱陵島に到着して、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と名付けた[18]。

1789年にはイギリスの探検家ジェイムズ・コルネット(英語版)も対馬海峡から日本海に入り、その後、北上して鬱陵島を「発見」したが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と命名した[18]。

しかし、コルネットが測定した鬱陵島の経緯度には測量ミスにより実際の位置とのズレがあったため、その後、ヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島の北西に別の島があるかのように記載されることとなった[18][注釈 1]。

そのため、1840年頃から、西洋や日本では島名の混乱により鬱陵島を「ダジュレー島/松島」と呼んでいた。

Stieler’s Hand Atlas(ドイツ)による1872年発行の地図の「松島」「リアンクール岩礁」部分の切り抜き

近代

李氏朝鮮は長期間鬱陵島に対し無人政策をとっていたが渡島するものが後をたたなかった。

日本人も同様で1882年から1898年には既に居住して伐木に従事する日本人が多くあった。[19]

空島政策の終了と日本人の帰国

1879年頃、京都の寺院建築のために、東京の大倉組(大倉喜八郎)が槻(ケヤキ)を伐採。
1881年、鬱陵島捜討により、日本人7名による伐木が確認される。[20]
    同年、朝鮮政府は日本政府に対し「鬱陵島渡海禁止」を要求[21]。
1882年6月、国王高宗は鬱陵島検察使・李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止した。[20]
1883年、日本政府はこの要求を受け入れて日本人に強制帰国を命じた。[21][注釈 2]。
    同年10月14日、越後丸にて日本人255人(復命書の県別人数に一致せず)が帰国。このとき、在住朝鮮人は60名で帰国を惜しみ見送る者もいた。[22]

定住へ

朝鮮人は主に農業を営み、日本人は製材業や漁業を営んだ。定期的に入港する和船で米などが輸入され島で収穫した大豆との物々交換を通じて[23]両者は交易した。

1881年、江原道から朝鮮人 4 名(裴季周(はいきしゅう)、金大木、卜敬云、田士日)が渡島し農耕を営む。[24]
1883年4月、朝鮮人の入居を開始する[20]。第一陣は30余名であった[24]。

日本の朝鮮本土進出に伴い、日本人の渡島が再開される。

1892年、隠岐から日本人の脇田庄太郎が渡航し、製材のため仮小屋を構え定住する。[23]
1895年、裴季周が鬱陵島の島監に任命される。

ロシアへの伐木特許

1896年8月28日、帝政ロシアは朝鮮政府とのあいだに「露人ブリーネル茂山及鬱陵島山林伐採並植付に関する約定書」を結び、鬱陵島の森林伐採と植栽に関する特許をユーリ・イワノヴィチ・ブリーネル(ロシア語版)が設立した「朝鮮木商会社」に与えた[25]。
1898年10月中に、その特許がロシア枢密顧問官アポロジェフに譲渡されていた(1899年8月に在韓公使が確認し外務省に報告)。

1899年6月、ロシアは学者と兵士を鬱陵島に派遣し日本人が伐木に従事しているのを発見し、8/7日本政府に抗議した[26]。

    同年8月11日、在韓公使は鉄道枕木用としてロシアが得た伐木特許について、鬱陵島の白檀など全ての良材に対しても適用されるのは承知できないとして朝鮮政府に問いただした。[27]

    同年8月27日、日本外務省は伐木の禁止・退去を命じる為、軍艦摩耶を鬱陵島に派遣するが悪天候により断念、勧告含め海軍省に全て委任することを検討[27]。

    同年8月30日、外務省より島根県、鳥取県両知事に対して欝陵島での伐木を禁止し取締るよう通達。また退去勧告は軍でなく外務官吏を特派することを通達。

    同年9月25日、軍艦摩耶により欝陵島視察。同地組長と称する島根県人天野源蔵と1名に聴取。艦長による報告書によれば、朝鮮人戸数は500人で人口約2,000人、日本人は約100名で5〜6月までは150名といい季節により変動があったことがわかる。その他村落の位置や名前、戸数が記録されている[27]。

朝鮮人は農業を主として漁業を営むものは少数であった。島の監督は朝鮮半島から巡視役として派遣されており、前任者は島民の恨みをかい殴殺されたという。

船の往来は朝鮮船が竹辺付近より時折くるのみで定期船はなく、一方で日本人は和船を使って多い時で年に三回往復(大抵は三月、五月、九月に出航)していた。

日本人の主な職業は木材の輸出で松と槻(けやき)のみで、朝鮮人が焼畑のため伐木を焼却していたのを説得して伐木に着手したのが始まり。監督に税をおさめており、また多少の雑貨や米の取引により朝鮮人に喜ばれていた。

    同年10月4日、日本政府の11月30日を期限とする欝陵島からの退去命令に関して、通行不便なため退去もその確認も難しいことを在韓領事は吐露している。

    実際に1905年頃までに朝鮮人の戸数は400 - 500を数えるまでに増えており、以前として日本人も300戸程度居住していたことから、強制退去の実効性は不確実なものだった。[28]

    また同年11月8日、今回の強制退去は伐木を禁止させるのが目的であり、これを前例として韓国政府が在韓邦人のみに対して強制退去を命じることがあれば公平ではなく相互の条約に基づく義務を要求するよう在韓領事は外務大臣に上申している[27]。

日本人在留者による共同体の結成

1897年4月、日商組合会を組織する。[29]
1901年7月、人口増加により不安定になった治安維持のために「日商組合規則」を制定し取締り。[29]
1901年1月、日商組合会内の内部対立事件が発生し、日本政府は同年4月に釜山居留地警察署から警部以下巡査 3 名を派遣し、警察官駐在所を設置した。[29]
1902年5月末、79戸548人(うち男422人)の日本人が在留。[30]
1902年6月、外務省の釜山理事庁の認可のもと日本人による自治の共同体結成。「日商組合規則」のもと鬱陵島島司をリーダーに島内にて集団生活。[31]
1907年末、日商組合会は廃止して日本人会(会員450名)が結成された。[32]

日露戦争を経て日本領へ

1904年2月、日露戦争が勃発し、同月、日韓間で日韓議定書が結ばれた。同年5月、韓国政府は韓露条約を破棄し、同時に豆満江・鴨緑江とともに鬱陵島の森林伐採権の破棄を声明した[33]。

1905年、日本海海戦が近海で行われて日露戦争で日本が勝利。
1910年 の日韓併合により日本領となる。

現在

1952年に発効したサンフランシスコ平和条約により、日本は済州島、巨文島とともに鬱陵島の領有を放棄した(なお、竹島の領有権についてはこの条約に直接明記されていない)。同条約で日本政府は朝鮮の独立を認めたため、以降、日本政府は鬱陵島は朝鮮に帰属するものとして扱った。

当初は鬱陵島民の生業は農業が主体であったが、現在は漁業の島になっている。また注目されていなかったことが却って自然保護に繋がりエコツーリズムも盛んとなっている。

2021年、(スキューバダイビングなどのレジャー活動を装い)非漁業者による密猟が深刻化しており、第1四半期だけで32件38人(前年度は計75件)が摘発された。主にタコ、ホヤ、ナマコ、アワビが採取され、更には養殖場の水産物も窃盗されており取締りを強化している[34]。 』

(※ 以下、省略。)

北朝鮮、弾道ミサイル発射 韓国・鬱陵島に空襲警報

北朝鮮、弾道ミサイル発射 韓国・鬱陵島に空襲警報―南北境界南側に着弾
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022110200302&g=int

『【ソウル時事】韓国軍によると、北朝鮮は2日午前8時51分ごろ(日本時間同)、東部江原道元山から日本海に短距離弾道ミサイル3発を発射した。いずれも公海上に落下したとみられ、うち1発は南北境界線に当たる北方限界線(NLL)の南側に、1発は鬱陵島北西の海上に落ちた。午前8時55分ごろ、鬱陵島地域に空襲警報が発令され、一時住民に避難命令が出た。韓国軍関係者によれば、北朝鮮はこの日、10発以上の多様な種類のミサイルを東西に向け発射した。

岸田首相「容認できず」 北朝鮮情勢に警戒感―ミサイル発射

 韓国軍合同参謀本部は、南北分断後に北朝鮮のミサイルがNLL南側の韓国領海近くに落ちたのは初めてとして「決して容認できない」と糾弾した。

 韓国軍によると、3発はそれぞれNLLの南26キロ、鬱陵島の西北167キロ、韓国東部・束草の東57キロに落ちた。北朝鮮が鬱陵島方向に弾道ミサイルを発射したのは初めてとされる。

 韓国の尹錫悦大統領は発射を受け、緊急の国家安全保障会議(NSC)を招集。北朝鮮がはっきりと代価を払うよう厳重な対応を取るよう指示した。聯合ニュースによれば、韓国軍は警戒態勢を引き上げた。

 米韓両軍は4日までの予定で、軍用機約240機を投入した大規模空中訓練「ビジラント・ストーム」を実施しており、北朝鮮はこれに反発を示したとみられる。』

「バイデン」「トランプ」「文化戦争」 米中間選挙の3大争点に 国際政治学者イアン・ブレマー氏

「バイデン」「トランプ」「文化戦争」 米中間選挙の3大争点に 国際政治学者イアン・ブレマー氏
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c50114692a4745b55dc973793e9a930bc604ec8

『米中間選挙(8日投開票)はバイデン大統領(79)への審判になるとともに、政権奪還を狙うトランプ前大統領(76)に対する「国民投票」と言われる。

 歴史的インフレや人工妊娠中絶の是非をめぐる争いなども有権者の動向に影響を与えている。米政治の現状をどう読み解くか。国際政治学者イアン・ブレマー氏に聞いた。

 ―今回の中間選挙で信が問われるのは。

 実際には三つの争点に対する「国民投票」となる。一つはバイデン氏のインフレ対策が焦点で、民主党の弱点。もう一つはトランプ氏が支持しているポピュリスト(大衆迎合主義者)の候補者が接戦州で勝てるかどうか。最後は「文化戦争」で、人工妊娠中絶への反対が多い共和党に逆風が吹いている。

 ―バイデン氏はトランプ氏と支持者を「民主主義への脅威」と言った。

 バイデン氏は約2年前の就任演説で、彼らに手を差し伸べるべきだと訴えた。トランプ氏や支持者はその時から変わってないのに、今は彼らを「脅威」と呼ぶ。バイデン氏の好みとは思えないが、これが(選挙に勝つ)正しい戦略だと確信しているようだ。

 ―社会の「分断」が拡大生産されている。

 2016年大統領選でトランプ氏が勝つと、民主党の多くは「彼はロシアと組み、選挙を盗んだ」と主張した。トランプ氏はバイデン氏に負けて、暴力で結果を覆そうとした。民主、共和の双方が民主主義にとって危険なことをしてきたが、トランプ氏のやったことは民主とは比較にならないことを明確にしたい。

 ―中間選挙は共和党が下院を奪取する勢いだ。

 共和党が下院で十分な多数派となれば、バイデン政権へのあらゆる調査が行われるのは間違いない。ことによると大統領の弾劾訴追までするだろう。米国の政治的機能不全と分裂の方向性が変わることはない。

 ―中間選挙の結果は24年の大統領選にどんな影響を与えるのか。

 (トランプ氏が敗北した)20年大統領選を受け入れない「否定論者」がどれだけ知事や州務長官になるかを慎重に注視すべきだ。大統領は州単位で選挙人の数が決まり、それぞれルールも異なる。24年大統領選で州の責任者らが正当な結果を拒否すれば、憲政上の危機が訪れる可能性がある。それが今、最も危険なことだ。

 ―バイデン、トランプ両氏は24年に再出馬するか。

 トランプ氏は出馬すると思う。バイデン氏が81歳で2期目の挑戦をするのは非常に難しいのではないか。ただ、まだ決断はしていないだろう。』

国民年金は誰が負担? 半分は税金、保険料未納なら損

国民年金は誰が負担? 半分は税金、保険料未納なら損
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO13628890T00C17A3PPD001/

 ※ 上記を見れば、明らかだが、「国民年金」は、基本、納付された「年金積み立て金(保険料)」で賄われている。

 ※ その不足分(必要額の2分の1くらい)を、「国庫負担金(税金)」で、補っている。

 ※ だから、GPIF(集めた年金の原資を、運用しているお役所みたいなところ)が、「運用に失敗して」「巨額の損失」でも出さない限り、「破綻する」ということは、まず、「考えられない」…。

 ※ 世界共通の仕組みだから、日本国の運用機関が「破綻」するような「経済変動」ならば、各国の「年金の運用機関」が、みんな「巻き込まれて」、大変な騒ぎとなるような事態だ…。

 ※ リーマン・ショックの時は、年金運用機関じゃなかったが、米国の「住宅金融公庫」みたいなものが、「破綻」しかけた…。

 ※ それで、巨額の「公的資金」を投入して、「火消し」した…。

 ※ そういうことの「後遺症」が、10年近くも続いた…。

 ※ 日本では、「バブル崩壊」の後遺症を引きずって、未だ回復できないところへ、世界経済が全体に低迷して、その余波を受けて、ずっと低迷し、今現在に至っている(「失われた20年(30年)」)…。

 ※ 「コロナ・ショック」にも、襲われたしな…。

 ※ それでも、国民年金制度が、「破綻」するとは、誰も思っていない…。

 ※ 騒いでいるのは、一部のマスコミと、何かと理由をつけて「保険料」を支払いたく無いヤカラだけだ…。

『20歳になると年金制度の対象になりますが、国民年金保険料の納付率は6割強にとどまります。厚生労働省の「国民年金被保険者実態調査」によると、滞納理由で多いのは「保険料が高く、経済的に支払うのが困難」という回答です。保険料は年間で20万円に迫ります。収入が少なければ負担は大きいでしょう。

次いで「年金制度の将来が不安・信用できない」「納める保険料に比べて十分な年金額が受け取れない」の順です。若い世代で高く、50代を上回ります。お茶の水女子大の学生が大学生などに実施した調査でも年金制度に不満を感じる人は多く、理由として約9割が「そう思う」と答えたのが「将来もらえるか不安」でした。「受給額が見合わない」も6割が肯定しています。若い世代は保険料が払い損になるかもしれないと考える人が多いようです。

現役世代の保険料を高齢者の年金に充てる賦課方式が日本の年金の基本です。しかし年金額すべてを保険料で賄うわけではありません。現在の年金制度の体系は1986年に始まり、当初から税金を投入しています(国庫負担)。

最初は基礎年金の3分の1で、04年に2分の1に引き上げられることになりました。12年には消費増税による税収を2分の1の維持に充てることになり、国庫負担2分の1は恒久化が決まりました。

14年度の公的年金の財政収支でみると、国庫負担は約11.8兆円です。これには国民年金発足前の給付にかかる費用の一部などが含まれるので国民年金と厚生年金の拠出金合計の2分の1を上回りますが、約10.9兆円が基礎年金の給付に使われているとみられます。

つまり保険料を払っている払っていないにかかわらず、買い物の際に払う消費税などの一部は年金の支払いに使われていて、これは今後も続きます。払い損を理由に保険料を払わず、払っておけばもらえたはずの年金を受け取れないとしたら、税金が払い損になりかねません。

年金財政には年金積立金という存在もあります。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用し百数十兆円にも上ります。この一部も年金給付に使っています。金額が積み上がったのは「団塊世代が保険料を多めに払ったためで、これがないと現役世代の保険料はもっと上がっていた」との見方があります。

厚生労働省は14年の財政検証に基づき、年金の世代間の給付と負担の差を試算しています。様々な経済状況下で各年齢の人が平均余命まで生きたと仮定し、満額払った保険料に対して受け取る年金の総額を出しました。「国民年金はすべての世代で保険料の払い損はないという結果でした。半分が税金で支払われているからです」とみずほ総合研究所の堀江奈保子上席主任研究員は指摘しています。

社会保険で損得が議論になりやすい代表例は年金でしょう。払う金額ともらう金額がある程度分かり、多くの人が受け取るからです。年金は終身でもらえるので長生きするほど得なことは確かです。もちろん、それにはきちんと保険料を支払うという前提があります。
[日本経済新聞朝刊2017年3月4日付]』

年金と消費税に見る不公平

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:年金と消費税に見る不公平
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5384208.html

 ※ 確かに、こういうグラフを見ると、「ギョッとする」…。

 ※ しかし、そういう時こそ、立ち止まって、よくよく冷静に考えよう…。

『右の表を見て、良く言われるのは、「老人に金使いすぎ、医療負担が重荷、、」等などだが、日本の人口の年齢構成からみて当然のことである。

実際筆者は年金受給者で、途中から自営になった経歴から、決して十分な受給ではないが、貯める必要はないからすべてを消費に回している。

多くの受給者がそうだろうと思えば、この一群は、日本の巨大な消費経済の中でも顕著な巨大消費組織であり、膨大な医療従事者、福祉従事者をけん引し、其の産業は薬品、関連機器、維持費、人件費を消費し、さらに関連する企業、産業は無数にある。年金として吐き出される財政は巨大なマーケット(市場)を構築しているのだ。これも国内経済の重要なファクター(要因)なのだ。

これを賄う一つが消費税だが、筆者が問題とするのは、なんでもかんでも一律で掛けることへの不公平さだ。

一例をあげれば、キジの冬の餌を最近買ったが、15キロ詰の価格が税込2千数百円ほどだったのが量販店で税込3千円ほどに値上がりしていて、会計で「間違いでは?」と言ったほどだ。

運賃や原材料の高騰が原因だとは分かるが、ペットでもない、野鳥の餌への消費税には疑問を感じるが、売る方も識別できないだろうから無理な注文かもしれないのだが、一方で動植物保護の重要性も言われる社会である。

また、バスも無い地域での車にも高額な税金がかかり、過疎な地域はより過疎になり、人口減少の地方自治体の財政不足が加速し、病院も維持が困難になり、過疎に拍車をかける。こんな矛盾を上げれば切りがないだろうが、政治とは、こういう事への配慮や対策を指すのではないのか?

政治家はあてにできない。関係する企業がもっと声を上げるべきだろう。』

日本外務省内には「謎の宗教集団」が存在する。とりあえず《トマホーク教》と呼ぶべし。

日本外務省内には「謎の宗教集団」が存在する。とりあえず《トマホーク教》と呼ぶべし。
https://st2019.site/?p=20542

 ※ この記事貼るの、忘れてた…。

 ※ 貴重な指摘だと思うので、改めて貼っておく…。

『合理的な説明を幾度してやっても一切耳をかさず、一心に、景仰する対象に向かい奉らんとする、狂信者の姿……。

その対象がよりによってなぜ「米国製のトマホーク」なのかは、もとよりわれら俗界人の想像を絶しているも、入信のタイミングが「湾岸戦争」だったことは想像がつきやすい。
米海軍の艦艇が「核トマホーク」を抱えて日本の港に黙って入ってきていたレーガン政権時代末期~父ブッシュ政権時代に、米当局との調整に当たった世代がまず「先達」というところなのだろう。

 およそ狂信徒集団は、見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞かない。

 たとえば次のような事実は、彼らの脳内には決してインプットされない。脳関門の入り口でブロックされてしまう。

 湾岸戦争中、巡航ミサイルによって破壊できたTEL/MELは、ただのひとつもない。

 湾岸戦争以降の無数の戦争・紛争においても、トマホーク巡航ミサイルおよびその同格性能巡航ミサイルによって破壊されたTEL/MELは、皆無である。

 アフリカのアルカイダキャンプにビンラディンがいるというので米政府はトマホークで爆殺しようと狙ったことがあった。複数のトマホークが放たれ、おそらく奇襲となったが、ビンラディン爆殺には失敗した。

 サダム・フセインは、トマホークによっては、負傷すらもすることはなかった。

 プーチンは「カリブル」巡航ミサイルを何十発も放ち続けている。しかし、開戦から7か月経っても、まったくゼレンスキーを爆殺できそうな気配は無い。

 巡航ミサイルは、陸上のビル建造物の地上階部分にはよく当たる。しかしターゲットが地下2階になると、もう手が届かない。

 トマホーク巡航ミサイルは、民航ジェット旅客機とほぼ近似した飛翔速度であるので、それを発射してから標的の頭上に到達するまでのあいだ、敵に1時間以上もの「自由時間」を与えざるをえないケースが多い。

 トマホーク巡航ミサイルは、飛翔途中の海上や地上の対空監視者から目視で発見されることがあり、その通報があれば、ターゲットはいちはやく退避や早期発射などの有効な対策を講じてしまいやすい。

 トマホーク巡航ミサイルは、敵戦闘機から追いかけられると、自律的にその攻撃をかわす方法はなく、簡単に撃墜されてしまう。

 弾道ミサイルを機関砲で撃墜することはできないが、トマホーク巡航ミサイルは、地上または海上に所在する敵の機関砲によって迎撃されてしまう可能性がある。

 トマホーク・ミサイルはステルス外形ではないので、敵国がAWACSを所有し運用できる、技術先進国であった場合、遠くからはやばやと、その接近が探知されてしまう。

 敵国が、早期警戒衛星を保有し運用できる国であった場合も、同様である。

 敵国の戦闘機が、前方赤外線探知センサーの高性能なものを搭載している場合も、同様である。

 トマホーク巡航ミサイルは、大気圏内を飛翔するので、もし第三国の領空を無断で通過すれば、国際法に抵触する。

 それに比して、もしも艦載の「弾道ミサイル」ならば、飛翔経路は宇宙空間となるので、たとえば北鮮や中共の陸地を攻撃するにさいして韓国の領土上を通過させる必要があるとしても、国際法上、無問題。

 この「韓国領空=邪魔」問題は、小さくない。

たとえばこれがもし「艦載弾道ミサイル」だったならば、わが軍艦は呉軍港内に居ながらにして、いきなり北鮮基地や中共都市を直撃できるゆえ、365/24の睨みを利かせることは随意となるわけなのだが、それが「巡航ミサイル」だと、韓国領空や北鮮領空がどうにも邪魔になる。

それら第三者領空を侵すことなく狙って発射ができそうな海面となると、いちじるしく限定されざるを得ない。

そうした海面にすぐに占位可能なわが軍艦と占位不可能なわが軍艦とは、敵の諜報網には簡単に察しがついてしまう。したがって、やすやすと、こちらの能力や企図は読まれてしまい、まるで抑止になどならぬ。

 狂信徒集団は、毎日の熱烈な祈りによって天国の門は開くと疑わぬが、「神様」としてはそういう手合がいちばんあしらい辛く、迷惑だ。

この連中はかつて、米政府が軍艦から核トマホークをおろして陸地保管すると決めたときに、そうしないでくれというあつかましい外交運動を展開した。

核トマホークの弾頭部分からは常に微量の放射線が出ている。殊に狭隘な攻撃型潜水艦の発射室内では、起居する水兵の健康を確実に損ねるものなのだ。

そういう現場に無配慮なところからみて、狂信徒の正体は長袖の外交官であり、海軍軍人ではないと、私は判断している。

 戦略射程のトマホークミサイルはげんざい、英国にしか供与はされていない(スペインには話だけ)。

英国はそのトマホークに、自国産の核弾頭を装置することができる(ただし完全国産の戦略射程の核巡航ミサイルが既にあるので、わざわざそうする必要がない)。

米国は、NATOの戦闘爆撃機に関してはB61水爆の「ニュークリアシェアリング」をさせてやれるも、潜水艦発射ミサイルに関しては、相手が誰だろうと「ニュークリアシェアリング」などできない。

あたりまえだろう。

ある日、東シナ海の海中から謎の巡航ミサイルが発射され、天津方向に向って飛翔中だと中共軍が知ったとする。それが米軍が発射した核弾頭付きの巡航ミサイルなのか、米国ではない国の発射した核弾頭付き巡航ミサイルなのか、はたまた非核の巡航ミサイルなのか、北京としては即断のしようがない。

それは「偶発核戦争」の端緒になり得る。

だから米政府は日本にはそもそもぜったいに戦略射程のトマホークミサイルは供給しない。

それどころか米軍に関しても、核弾頭付きの巡航ミサイルを潜水艦から発射しないのだという自主慣行を明朗に定着させたい。

米国指導者層は、海上からの核抑止は、低イールドから高イールドまで選択幅の広いSLBMに絞って担任させるのが、安全で確実だと計算しているのである。

 日本が自主的に長射程の巡航ミサイルや弾道ミサイルを開発するのならば、米国としては邪魔する理由はまったくない。すでに韓国は大量に持っているが、邪魔されていない。それらが発射されても、ISR上、米国製とは区別がつけられるから、偶発核戦争にはならないのだ。

 トマホークがダメなら何があるか?

 https://inaina0402.booth.pm/items/3555955 の『くだらぬ議論は止めよ! 敵地攻撃力はこうすればいい!』(¥200-)を 参考にするとよい。

 こっちの方がずっとマシなのである。なにより、敵国指導部の心胆を寒からしめることができる。』

対露戦争に20世紀初頭から関係しているオックスフォード大学のブリングドンC

対露戦争に20世紀初頭から関係しているオックスフォード大学のブリングドンC | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211020000/

『ロシアからドイツへバルト海経由で天然ガスを運んでいた天然ガスのパイプライン、「ノード・ストリーム」と「ノード・ストリーム2」が9月26日に爆破された。ガスが流出して圧力が低下、その事実をロシアのガスプロムは異常アラームで知るのだが、詳しい状況は理解できなかった。

ところがアラームが鳴った1分後にイギリスのリズ・トラス首相(当時)はiPoneでアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官へ「やった」というテキストのメッセージを送っている。そしてポーランドのラデク・シコルスキー元外務大臣は「ありがとう、アメリカ」とツイッターに書き込んだ。今では削除されているようだが、その事実は消せない。

 このシコルスキーは1980年代の前半にオックスフォード大学へ留学し、その際に学生の結社「ブリングドン・クラブ」へ入ったことは本ブログでも書いた通り。メンバーの多くはイートン校の出身だが、大酒を飲み、素行の悪いことで知られている。

 大金持ちの家に生まれた不良が集まっているように見えるが、その歴史は古く、創設されたのは1780年。シコルスキーと同じ1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そして金融界に君臨しているナット・ロスチャイルドも含まれている。

 シコルスキーは反ロシアで有名な人物だが、そのロシアからもオックスフォード大学へ留学してくる若者はいる。そうしたひとりが帝政ロシアで有力な貴族ユスポフ家のフェリックス。この人物は1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にブリングドン・クラブに入っている。留学時代、フェリックスはクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。

 ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子どもとして1876年2月に生まれたスティーブン・アリーも後のMI6のオフィサーだ。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月である。

 フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立した。地主の主張を代弁していたのがグレゴリー・ラスプーチンで、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。

 ロシアを参戦させたいイギリス政府はロシアの資本家と手を組んでいたが、社会主義革命の前に資本主義革命を行わなければならないと信じる勢力もつながっていた。この「革命勢力」にボルシェビキは含まれていない。ウラジミル・レーニンなどボルシェビキの幹部は刑務所に入れられているか亡命していた。

 そうした中、ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めたが、退院後もラスプーチンは戦争に反対する。1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。

 その年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 1916年12月にラスプーチンは暗殺されたが、殺害に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 そして1917年3月の「二月革命」でロマノフ朝は倒され、成立したのが臨時革命政府。この政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなければならない。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたレーニンのボルシェビキ。ドイツ外務省はボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月だ。ボルシェビキが実権を握ったのは11月の「十月革命」であり、1917年にあったふたつの革命を一緒くたにし、単純に「ボルシェビキ革命」と表現することは正しくない。何者かがミスリードしようとしているのかもしれない。

 ボルシェビキ政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、その後、ドイツで米英金融資本から資金的な支援を受けていたナチスが台頭するまでドイツとソ連の関係は良かった。
 ボルシェビキ政権が停戦を決めたことでドイツは西へ集中できるようになったのだが、1917年4月から参戦したアメリカが兵員を送り込み、イギリスやフランスに物資を供給して支援したことでドイツは劣勢になって敗北した。そして1918年8月にイギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはボルシェビキ体制を倒すために軍隊を派遣して干渉戦争を始めている。』

【萬物相】よその文化を間違った形で受け入れた韓国のハロウィーン

【萬物相】よその文化を間違った形で受け入れた韓国のハロウィーン
https://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2022103180078

 ※ 元気に溢れ、血気盛んな「ワカモノ」を、大人数集めてはならん…、と言うことだ…。

 ※ ましてや、いつの間にか、「子どもがお菓子をねだる儀式」が変質して、「ワカモノ」が「仮装して」集結し、「騒ぎ立てる」という「祭り」になってしまっている…。

 ※ 「元気モノ」が大人数集合すれば、「群集心理」で、「抑制」のタガがはずれ、「日頃のうっ憤を、発散する」事態にすぐになる…。

 ※ 周りでそれを、「煽るヤツ」も必ず出現するしな…。

 ※ 「酒」でも入っていれば、なおさらだ…。

 ※ 渋谷でも、「車両をひっくり返したり」の「乱暴狼藉」に、及んだだろう?

 ※ まず、「集合させない」ことが、肝要だ…。

『ハロウィーン・デーはもともと宗教の祭だ。「諸聖人の日」というキリスト教の祝日がアイルランドの伝統的な祭と混ざり、1000年前からヨーロッパで根を下ろし始めた。しかし、アイルランドと英国、そして英国の植民地だった米国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド程度に限られる。同じキリスト教圏でもヨーロッパ大陸のカトリックや東ヨーロッパの正教会の国々では今もほとんど見られないという。そういう点で韓国と日本は非常に特異だ。宗教的意味合いはなくなり、若者たちの熱気があふれる祭に変わった。
 ハロウィーン・パーティーが韓国で幼稚園生や小学生たちの誕生日パーティーと同じくらい重要になってから10年近くたつ。子どもの英語教室で教育にハロウィーン祭を取り入れたことで流行したという。大人たちにとっては若いネイティブスピーカーの英語教師たちのパーティーが影響している。外国人が多く住むソウル市内の繁華街・梨泰院(イテウォン)がハロウィーンの聖地になったのもこのためだ。日本も同じ理由で外国人のクラブが多い東京・渋谷がハロウィーンの聖地となった。その過程で、テーマパークや食品メーカーの商売術も介入した。

 こうした事情のため、環境的な危険性もほぼ同じだ。4年前、渋谷で「クレイジー・ハロウィーン事件」と呼ばれる事件が発生した。群集が突然、暴徒化して物をたたいたり壊したりしたほか、グループ同士でケンカするだけでは収まらず、女性に対してセクハラ(性的嫌がらせ)をする騒動を起こした。日本人は集会・応援・祭の時に比較的秩序を守る方だ。だが、ハロウィーンでは不祥事ばかりが無限に起こる。10月の最終週になると、日本の警察はテロ対策に準じる警備を渋谷で行う。

 若者たちが集まると、熱気が度を越えることがある。酒が入ればもっとひどくなる。「覆面心理」も大きな影響を及ぼす。ハロウィーン祭の時、多くの人々が奇怪な仮面や服装で扮装(ふんそう)する。韓日のハロウィーンではアニメキャラクターに変身する「コスプレ」もある。英米圏のように最小限の宗教的敬虔(けいけん)さがあるはずもない。緊張感が緩むばかりだ。常に安全が崩壊する恐れがあり、危険が潜んでいる。

 梨泰院で多くの若者たちが無念なことに命を失った。安全対策上、惜しまれる点が一つや二つではないが、原点にも立ち返るべきだ。外来の文化をこのように受け入れたことは果たして正常なことだったのだろうか。他人の文化を間違った形で受け入れたのが事故の原因ではないだろうか。英米圏でもハロウィーンの事故がないわけではない。しかし、子どもたちが近所を歩き回ってキャンディーを受け取るのを見ても分かるように、彼らにとってハロウィーンはコミュニティーの絆(きずな)を確認する文化だという。すべての祭の本来の意味も事実、こういうものだ。これまで韓国が経験してきたハロウィーンの中には、祭という仮面をかぶった「危険」が潜んでいた。実に無念だ。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 』

韓国雑踏事故、米下院議員のめい死亡

韓国雑踏事故、米下院議員のめい死亡 ソウルに留学中
https://news.yahoo.co.jp/articles/54f3e9d435b04113f75483218a6762a6aadeee9c

『(CNN) 米共和党のブラッド・ウェンストラップ下院議員(オハイオ州選出)は31日、めいのアン・マリー・ギースキーさんが先週末に韓国首都ソウルで起きた雑踏事故で亡くなったことを明らかにした。

【映像】ソウル転倒事故、現地の様子は

ウェンストラップ氏は声明で「私たち家族全員がアン・マリー・ギースキーの死を悲しんでいる。彼女は神からの贈り物だった。私たちは彼女のことをとても愛していた」と述べた。

ウェンストラップさんはまた、ギースキーさんの両親に代わって声明を発表。両親は声明で「アン・マリーの死に打ちのめされており、心が張り裂けそうな気持ちだ。彼女は誰からも愛される明るい光だった」と述べ、祈りとプライバシーの尊重を求めた。

ギースキーさんは米ケンタッキー大学で学ぶ看護学生で、同大学長の声明によると、今学期はソウルに留学していたという。

ケンタッキー大の学長は声明で「アンの家族とは連絡を取っている。彼らが筆舌に尽くしがたい喪失に対処する間、我々は現在もこれからも可能な限りの支援をする」と表明。韓国からケンタッキー大に来ている留学生80人近くにも支援が必要だとの認識を示した。

ソウルで起きた事故では少なくとも155人が死亡した。

米国人2人を含め外国人少なくとも26人が亡くなっており、これまでに十数カ国の大使館が自国民の犠牲者が出たことを確認した。

韓国は1週間の服喪期間に入った。当局者は事故が起きた経緯について調査を進めている。』

韓国・梨泰院のハロウィン圧死事故、韓国人の「お国柄」が原因の一つか

韓国・梨泰院のハロウィン圧死事故、韓国人の「お国柄」が原因の一つか
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f59adeed7243833c76133b3c9557dc312c032a7?page=1

『羽田 真代のプロフィール

羽田 真代(はだ・まよ)

ビジネスライター。同志社大学卒業後、日本企業にて4年間勤務。2014年に、単身韓国・ソウルに渡り、日本と韓国の情勢について研究。韓国企業で勤務する傍ら、ビジネスライターとしても執筆活動を行っている。』この人かな…。( https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E7%BE%BD%E7%94%B0+%E7%9C%9F%E4%BB%A3 )

 ※ 『1956年 1月:新潟県弥彦村の神社で行われた餅まきで124人死亡

1983年 6月:阪神甲子園球場で開かれたアイドル野球大会で1人死亡

1990年 1月:大阪市北区のライブハウスで1人死亡、約30人が倒れる

1995年11月:北九州市のエスカレーターで、後ろ向きに転倒して将棋倒しになり、1人死亡、5人が軽傷

2001年 7月:兵庫県明石市の花火大会で11人死亡、183人重軽傷』

 ※ 新潟県弥彦村の餅まき、阪神甲子園球場のアイドル野球大会、大阪市北区のライブハウス、北九州市のエスカレーター、兵庫県明石市の花火大会…。なるほど…。

『10月29日深夜、ハロウィーンの人出でにぎわう韓国・ソウルの梨泰院(イテウォン)地区で、人並みに押しつぶされて154人が亡くなるという事故が起きた。転ぶ人、意識を失う人、負傷者が出る中でも人々は前進を続けたという。韓国では、今回の事故は「人災」だと、尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権を責める声も出始めている。コロナ前にハロウィーン見物のため現場を訪れたことがある筆者は、事故への対応や事故の起き方そのものにも韓国の国民性を感じたという。もし日本だったら、この事故は違う展開になっていたのではないか。(ビジネスライター 羽田真代)

● 梨泰院で群衆の雪崩事故、 154人が犠牲に

 韓国でまた痛ましい事故が起こった。ソウル・梨泰院で群衆雪崩が起き、20代・30代を中心に多くの若者が命を落としたのだ。事故が発生したのは10月29日。筆者がこのことを知ったのは、30日に日付が変わってすぐのことだった。そのとき見たニュース記事には「将棋倒しで50人心肺停止か」と書かれていた。

 将棋倒しで50人も心肺停止だなんて、にわかに信じ難い。事実を確かめるためにSNSで現場の様子を検索してみた。すると、ぐったりと倒れている人の姿や、狭い通りのあちらこちらで心肺蘇生が施されている様子が次から次へと出てくるではないか。映像を見てようやくニュースが本当なのだと確信した。

 30日の朝、起床して最新のニュースを見てみると、死者数は149人に増えていた。同日の夜には死者が154人(女性が98人、男性が56人)、負傷者が149人(うち33人が重傷)、死亡した中には日本人女性2人も含まれていることが分かった。身分証を携帯していない被害者も多く、身元確認に時間を要したようだ。

 韓国で多くの若者の命を失った事故は、2014年のセウォル号の沈没事故以来だ。このときは韓国の学生らを中心に304人が死亡し、142人が負傷した。その他、韓国で過去に大勢の人が死亡した事故は次の通りである。

1993年10月:西海フェリー号沈没事故 <292人死亡>
1994年10月:聖水(ソンス)大橋崩壊事故 <32人死亡、17人負傷>
1995年 6月:三豊(サンプン)百貨店崩壊事故 <502人死亡、937人負傷>
2003年 2月:大邱(テグ)地下鉄放火事件 <192人死亡、151人負傷> 』

『● コロナ禍始まって以来、初のノーマスクイベント

 今回のハロウィーンイベントは、新型コロナウイルスが拡散してから初のソーシャルディスタンス規制なし、ノーマスクであったことから、開催前からメディアも浮き足立った報道をしていた。規制、規制で行動に制限をかけられていた若者たちにとっては、ようやく政府公認、堂々と騒ぐことができるとあって、楽しみで仕方なかっただろう。

 筆者もコロナ禍前に、梨泰院のハロウィーン見たさに現場を訪れたことがある。事故当時は10万人程度集まっていたようだ。事前に警察は「金曜日から日曜日にかけて10万人近い人が梨泰院に集まると予想しており、そのために警察官を200人(主に麻薬取り締まり担当)以上配置する」と発表していたから、ある程度予想通りの人出であり、警備の準備もしていたことになる。

● 日本でも韓国でも 群衆雪崩事故は起きているが……

 この梨泰院の事故を受けて、日本では韓国の危機管理能力の低さや知識不足を否定する声を聞く。「日本ではこんな事故は起きない」「今回の事故もセウォル号も人災だ」と言い切る意見まであるほどだ。

 だが、過去にさかのぼれば日本でも同じような群衆雪崩が起き、多くの犠牲者を出してきた。

1956年 1月:新潟県弥彦村の神社で行われた餅まきで124人死亡
1983年 6月:阪神甲子園球場で開かれたアイドル野球大会で1人死亡
1990年 1月:大阪市北区のライブハウスで1人死亡、約30人が倒れる
1995年11月:北九州市のエスカレーターで、後ろ向きに転倒して将棋倒しになり、1人死亡、5人が軽傷
2001年 7月:兵庫県明石市の花火大会で11人死亡、183人重軽傷

 現代の日本が韓国ほど群衆雪崩を起こしていないのは、過去の教訓を生かして警備体制をしっかりと敷いているからだ。だが、過去に事故や事件を幾度となく経験した日本であっても、同じような惨事を招くことだってある。結局は人間の行うことだ。完璧などあり得ない。』

『● 日本人と韓国人、 有事の時に国民性の違いが出る?

 ただ筆者も、日本人と韓国人とを比較すると、危機管理能力も知識の豊富さも韓国人より日本人の方が勝っていると思う。それは、日本が韓国よりも先に発展したことにより、韓国よりも多くの経験値とデータを有しているからだろう。

 事故発生直後、韓国の警察は「今すぐに帰宅してください」と人々に向かってアナウンスしたそうだ。だが、このようにアナウンスしては混乱を招くだけである。日本の警察であれば、人が殺到しないよう順々に帰宅を促したのではないかと思えてならない。このような細かい点が、日本と韓国では明らかに異なるのだ。

 それに日本は災害大国だ。ありとあらゆる事態に備えてマニュアル化されている。一方、韓国はそうではない。韓国では事故・事件が起こった際、悲しみを糧に教訓を得るのは被害者遺族のみで、国は都度目立った対策を取ってこなかった。梨泰院で起こった事故よりも小さな規模の事故は日々韓国の至る所で起こっている。梨泰院事故の要因のひとつとして、道の傾斜が挙げられているが、韓国の道路というものは元々傾斜や高低差がひどく、体のバランスが保ちづらい場所が少なくないのだ。これまで政府は道路の改善に取り組んでこなかったし、梨泰院の事故を経験したからといって直ちに対策を取ることもないだろう。

 また、日本は良くも悪くも慎重な国民性だ。「とりあえずやってみよう。やってみて駄目なら方法を変えればよいだけだ」と考える韓国とは違う。このような国民性も、事故・事件の程度の差を生むのだと思う。

● 韓国では 「人を押して前に進む」が日常的

 加えて、日頃から韓国には人を押して先に進もうとする習性がある。梨泰院の事故を見て筆者が思い出したのは、韓国の通勤・退勤ラッシュだった。筆者は何年もこれに巻き込まれている。

 韓国では、車両の出入り口付近にいる人が乗り降りする人に対して配慮するということは基本的に「ない」。日本であれば下車する人のために、出入り口にいる人もいったん車両から降りるが、韓国では人を押して降りるのが普通だ。このとき、出入り口付近にいる人が外に押し出されることはある。

 人が密集したところに行けば、必ず後ろから押される。だから、それに負けじと押し返す。梨泰院で事故が起こったときも、同じような力が現場に居合わせた人それぞれに作用していたはずだ。そこに「下り坂」という要因が加わり、道路の狭さが加わり、逆行する人の力まで加われば、群衆雪崩が起こってもまったく不思議はない。

 実際、5人の男性が後ろからわざと押していたという目撃談もあるから、必要以上の力が加わっていたのは確かだろう。』

『● 心肺蘇生ができる人が多いのは 兵役の副産物

 筆者が梨泰院の事故の映像を見てひとつ感心したのは、意識がない人に対して心肺蘇生法を試みる一般人が多かったことだ。韓国には徴兵があり、そこで蘇生法について学ぶから、いざというときに役に立つ。

 仮に日本で同様の事故が起こったとき、日本人のうちどれだけの人が蘇生に加われるだろう?北朝鮮によるミサイル問題など、日本だってどんな有事が起こるか分からない。我々もいざというときに実践で使えるよう、蘇生方法を学んでおいてもいいのかもしれない。

 一方で、梨泰院では蘇生を施す人の傍らで酒を飲んだり踊ったりする人がいたことが物議を醸している。また、道路は不法駐車の車が多く、救急車の立ち入りに苦労したという話も出ている。韓国人のマナーを大きく見直す時が来たのかもしれない。

● セウォル号事件後の朴元大統領のように 尹大統領に危機が迫る可能性も

 今回のハロウィーンイベントには10万人もの人が集まった。2017年のイベントはこの2倍、20万人がいたという。このとき警察は4600人配置され、警察による一方通行の誘導や、道路車両統制、地下鉄駅の無停車通過など、さまざまな対策が取られていた。だから、今回の事故は「人災」だと、保守・尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権を責める声が高まっている。

 同じ保守政権下で起きたセウォル号の沈没事故では、朴槿恵(パク・クネ)元大統領が退陣へと追いやられた。現政権を否定する声が鳴りやまなければ、尹大統領も先人と同じ道をたどることになるかもしれない。』

ロシア人実業家、国籍放棄を決断 ウクライナ侵攻理由に

ロシア人実業家、国籍放棄を決断 ウクライナ侵攻理由に
https://www.afpbb.com/articles/-/3431774

『【11月1日 AFP】ロシアのオンライン銀行大手、ティンコフ銀行(Tinkoff Bank)の創業者であるオレグ・ティンコフ(Oleg Tinkov)氏は10月31日、ロシアによるウクライナ侵攻を理由に、国籍を放棄したことを明らかにした。同氏はかねて侵攻を非難していた。
 ティンコフ氏はインスタグラム(Instagram)に、「ロシア国籍を放棄することを決断した。平和な隣人(ウクライナ)と戦争を始め、毎日無実の人々を殺害しているファシスト国家と関係を持つことはできないし、これからも持たないだろう」と投稿。「多くの著名なロシア人実業家が私に続いてくれることを願う。そうすれば(ウラジーミル・)プーチン(Vladimir Putin)政権とロシア経済は弱体化し、いずれは彼を倒すことになるだろう」と述べた。

 ロシア国籍からの「離脱」を示す証明書の写真も公開した。

 ティンコフ銀行は大手民間銀行の一角を占め、顧客は約2000万人。ティンコフ氏は2020年に最高経営責任者(CEO)を退任。同行は侵攻を非難する同氏の主張からは距離を置いている。(c)AFP 』