5月に早々と逃亡したロシア兵、フィラテェフ君の手記の抜粋。

5月に早々と逃亡したロシア兵、フィラテェフ君の手記の抜粋。
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『Sergio Miller 記者による2022-10-26記事「‘ZOV’: Confessions of a Russian paratrooper (Part 1)」。

   5月に早々と逃亡したロシア兵、フィラテェフ君の手記の抜粋。彼はコントラクトニキ、すなわち志願兵だった。第56親衛空挺連隊に所属。この連隊の上級部隊は第7親衛山岳空挺師団。

 この兵隊、空挺強襲中隊の中の迫撃砲の担当であった。

 連隊となる前は旅団で、所在地はヴォルガグラードの北郊だった。それが2021に連隊に昇格して、クリミアのフェトセシアの新築兵舎に移駐した。その兵舎も竣工してないうちに、2-24を迎えた。

 彼の軍歴は長い。最初はチェチェンで志願兵となり、馬の調教を10年やって除隊した。
 そのあと経済的に苦しくなったので、30歳代で再志願したのだ。

 2022-3月後半、彼はヘルソン州で砲撃を受け、片目が酷い感染症に。
 この治療をロクに受けることができなかったことから彼は先行きを考えて脱走を決心した。

 ※俺も武山でいきなり風疹に罹って40度も熱発しているのに週末で医官が不在で何の薬すら貰えぬという体験をさせられた晩に「ここは一生居る場所じゃねえな」と達観したことを想い出す。

 第56空挺旅団は、3000人からなる。3個襲撃大隊、1個降下大隊、1個偵察大隊、1個戦車大隊、プラス、砲兵と高射。

 これが連隊に改組された。開戦前夜に。
 降下大隊がクリミアへ移されて、そこで1個襲撃大隊と編合されて、連隊にされた。
 その中味は、1個空挺大隊+1個空挺襲撃大隊+1個偵察中隊(実質は小隊規模)。

 フィラティエフは「夜戦実験空挺襲撃大隊」とやらに配属された。これは婉曲語法で、中身は、非装甲のUAZトラックに、いっさいがっさいを満載して前線へ送り出される自動車化歩兵大隊であった。

 その大隊は3個中隊からなっていた。1個が45人、他の2個は60人ずつ。総勢165名の大隊だ。

 クリミアの新駐屯地は未完成だった。後から来た兵隊にはベッドがなかった。到着してから10日ほどのあいだ、糧食も満足に配られず。これが開戦前のありさまなのだ。

 彼が迫撃砲小隊を選んだのは、そこならば寝台があったので。

 糧食は悲惨だった。スープの中のポテトは生煮え。パンには黴が生えていた。
 水道のキャパが足りず、洗濯ができない。トイレはしょっちゅう、使用禁止に。
 到着して10日後に、やっと被服の支給を受けた。夏用の戦闘服のみ。彼の頭のサイズに合うベレー帽は無かった。しょうがないから自分用のベレーを私弁調達した。

 中隊長は肥っており、どう見ても不適任者だった。

 訓練は無く、代わりに、がらくたの掃除のような雑用を命じられた。

 小銃射場で実弾射撃することになり、その日は未明5時に起こされた。しかしトラックが来るまで3時間待機する必要があって、射場へは12時に到着した。しかるに、こんどは書類が不備とわかり、けっきょく射撃はせずに帰隊した。

 「ラトニク」とよばれる、湾岸戦争後の露軍の正規の軍装というものが規定されているはずなのだが、ウェビング(縛着帯)付きのボディアーマーは員数が足らず、将校と特権的グループが先にガメてしまっていた。残りのおおぜいの兵隊は防弾チョッキも弾嚢も無し。

 わが中隊の仲間の半数は、ウクライナ軍の軍服を調達して着ていた。そっちの方が露軍の戦闘服よりも上質で、新品であり、いろいろ具合が良いのである。

 開戦初日、フィラティエフは「ラトニク」無しの軽装で国境を越えるしかなかった。寝袋も無かった。

 2021-10月なかばから、冬用戦闘服の支給が始まったが、いずれも古着で、サイズも合わない。けっきょく、上衣は私費で買った。

 フィラティエフは、落下傘降下の訓練をしっかり受けたかった。それには増加俸給がついてくるからである。
 中隊の半分の者は、じぶんではパラシュートを畳めなかった。

 氷点下での降下訓練がなされた。防寒具がなかったこともあり、フィラティエフは両肺の肺炎に罹ってしまって、入院した。

 この結果、彼はボーナスがもらえないことになった。国防省に文句の手紙を書いたものの、相手にされず。

 開戦の2週間前、三度目の部隊検閲がショイグから命じられた。これは尋常ではないと誰もがわかった。

 2月15日には「政治将校」が部隊に配属された。

 徴兵は兵舎に残し、志願兵ばかり40人が「訓練地」に移動させられた。1張のテントに40人が雑魚寝である。しかも一部の者には寝袋がない。水がないので洗濯もできない。メシはさらに悪い。

 この時点でもフィラティエフにはヘルメットも防弾着も支給されていなかった。

 フィラティエフは、再入隊してから4ヵ月、個人用の武器を持たされなかった。ようやく持たされた自動小銃はメンテナンスが悪い状態だった。負い革は切れていて、本体は錆びだらけ。

 2月20日、部隊に強行軍が命じられた。
 兵隊の携帯電話は残置。
 小火器には実弾が装填された。

 17時、わが連隊(実質、大隊)は集合した。フィラティエフは82ミリ迫撃砲担当なのでUAZトラックに乗る。降下大隊はBMD2に乗せられた。分属の砲兵は、120ミリ迫撃砲とD30榴弾砲からなっていた。総勢で500~600人というところ。

 82ミリ迫撃砲中隊は、砲が5門、ウラル・トラック×3台、カマズ・トラック×3台、指揮所トラック(KAMAZ)×1。1門の迫撃砲は、5人で扱う。

 宵の20時から、幹線道路を走り出した。どこへ行くのかはまったく不明。
 そして翌日未明の3時に、クラズヌイ・ペレコプの近くのどこかに到着した。※クリミアとウクライナの境界線から25km。

 参ったのは、UAZトラックの荷台のヒーターが機能してくれないこと。
 連隊の指揮所の将校だけは、何が起きるか分かっていたはずだ。

 2月22日の夜、ふたたびまた国境近くへ移動。23日、ウクライナ軍が国境を越えて攻めてきたという説明があった。

 23日に師団長がやってきて、明日から兵隊たちの日給が69ドルに上がるから喜べと言った。それはボーナスで、基本給とは別だと。しかし開戦だとは言わなかった。けっきょくフィラティエフはこのボーナスとやらを貰っていない。

 2月23日夜の時点で兵隊の中に、「3日間でキエフへ行く」と言っている者がいた。ルーモアは拡がっていたのだ。

 ※雑報によると、ワグネルの囚人兵のうち、手首に赤リストバンドをしているのはHIV感染者、白リストバンドをしているのはC型肝炎のキャリアだそうだ。』