「普通の国」と戦後民主主義

「普通の国」と戦後民主主義
風見鶏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA17AW00X11C22A0000000/

『「ウクライナはこんなひどい目に遭っているのに、なぜ日本は武器を支援しないんだ。普通の国(normal country)とはいえない。価値(value)の判断もできない国なのか」。欧州のある国の外交官は今春、日本の外務省幹部をこう非難した。

日本は防衛装備移転三原則や国内法の規定があり、殺傷能力がある武器は出せない。ヘルメットや防弾チョッキを送ったものの、海外からは「銃弾の雨を受け止めろ」と突き放したようにも映る。

外務省幹部は「価値判断という表現は『善悪すらわからない国』という意味に感じた」と振り返る。

苦い記憶がよみがえる。1990~91年にイラクがクウェートに侵攻した際、日本は総額130億ドルを拠出した。「カネで済ませる国」との評を受けた。すると93年、小沢一郎氏の著「日本改造計画」は普通の国への変革を訴えた。

「国際社会において当然とされていることを、当然のこととして自らの責任において行う」と訴えた。日本はそれから自衛隊の海外派遣や集団的自衛権の行使容認などを実現し、普通に近づいたはずだった。

冒頭の外交官は「ドイツですらやった」とも言及した。批判の根っこにはドイツとの比較があった。

90年の統一後、ドイツは北大西洋条約機構(NATO)内で軍事負担を期待され、海外派兵も始めた。普通の国も論点になった。一方で第2次大戦の敗戦国で周辺は軍備拡張を警戒する。日本と同様、平和主義で軽武装・経済重視の印象がある国だった。

今回、ドイツは多連装ロケットシステムや地対空ミサイル、りゅう弾砲の供与を決めた。ウクライナ侵攻直後には国防費の大幅増を表明し、世界を驚かせた。日米欧は「自由や民主主義、法の正義が大事」と国際舞台で唱えてきた。言行一致は当然、という感覚だ。
日本の岸田文雄首相らG7の首脳はウクライナのゼレンスキー大統領へ支援を表明してきた。(10月11日、オンラインでの協議。画面右はドイツのショルツ首相)=AP

遅ればせながら、日本はもうすぐ普通の国へかつてない一歩を踏み出す。年末の国家安全保障戦略などの改定だ。国内総生産(GDP)比でほぼ1%以内の防衛費は大幅に増やす。敵基地に反撃する能力を示し、防衛装備品の供与や輸出の基準も緩和を探る。

戦後日本の3つの自縄自縛を解く話だ。国民総生産(GNP)1%枠、専守防衛、武器輸出三原則といった昭和の用語は従来以上に「過去の遺物」になる。

世論も準備はできている。内閣府が3月に公表した世論調査では「国民全体と個人の利益のどちらが大切か」の質問に「国民全体」と回答した人は61%にのぼる。「国や社会か個人生活か」に「国や社会」と答えた人は58%だった。

調査は40~50年ほど前からしている。単純比較はできないものの、どちらも今回は過去最高値だった。かつて「戦後民主主義は個人主義」ともいわれたが地殻変動が起きている。

「国家は与えられるものではなく、われわれが作るもの」「主権者なら自分が国家の立場ならどうするかを絶えず考えなければ」。半世紀前、哲学者の田中美知太郎は説いた。

当時の「国や国家は論じることも悪だ」という戦後民主主義の空気に警鐘を鳴らす言葉だった。半世紀で空気は変わった。

報道各社の最近の世論調査では防衛費増額への賛成も多い。ウクライナ侵攻や中国・北朝鮮の脅威を踏まえ、主権者としての責任をもって考える人が増えているのかもしれない。

国家や防衛のあるべき姿、普通の国とは何か――。戦後史の節目になる議論は単なる賛成・反対では不十分だ。建設的な国家論を主権者は期待している。政治家は分かっているだろうか。(佐藤理)

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鈴木一人
東京大学 公共政策大学院 教授
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分析・考察

戦後民主主義は大戦中の反省から生まれたものではあるが、その時に前提とした問題、すなわち「権力やその権力の動力ベルトとなる国家は放っておけば悪となる」ということと、ゆえに「憲法による権力の制限と、その憲法を守ることを規範として定着させる」というプロジェクトが、ついに現実の世界の変化に直面し、変更を迫られるようになっている。国家や権力は悪なのか、それとも何らかの価値を実現するためのツールなのか。その価値とは何を指すのか。これまで考えずに済んできたことが改めて問われるようになっている。
2022年10月23日 23:13』