官房副長官室の靴音 首相官邸の転機支えた古川貞二郎氏

官房副長官室の靴音 首相官邸の転機支えた古川貞二郎氏
編集委員 清水 真人
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD141ZV0U2A011C2000000/

『もうすぐ古川貞二郎元官房副長官(享年87)の四十九日を迎える。厚生事務次官を経て、首相官邸の実務の要で官僚機構のトップに立つ官房副長官(事務担当)を歴代2番目に長い8年7カ月務めた。5人の首相に仕え、21世紀初頭の中央省庁再編と官邸主導への転換期を黒子として支えた「官僚の中の官僚」。何を語り残したのか。

「真っすぐ立っているか」自問自答

ダダン、ダダン、ダダン――。官邸の官房副長官室で訪問者が途切れて1人になると、古川氏はしばしば立ち上がり、両足で床をこう踏み鳴らした。時の首相を支えつつ霞が関を統率する自分が「果たして大地に真っすぐ立っているだろうか」と「公平と中立」を自問自答する年月だった。1995年2月から2003年9月まで村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の各首相に仕えた。

橋本内閣が1996年から取り組み、経済財政諮問会議の創設などで官邸機能を強化した省庁再編。古川氏は構想から制度設計を経て2001年の実施まで見届けた。現官邸の建設計画にも深く関わり、小泉内閣で02年に使用を始めた際には自ら「入居」を果たした。今や当たり前となった官邸主導への過渡期に汗をかいた副長官だった。

「政権には終わりがあるが、内閣には終わりがない。君らはこれから時の首相にお仕えするが、そのような内閣の一員だと言うことを心して仕事をしてほしい」
古川氏(写真中央)の就任早々、地下鉄サリン事件など社会を揺るがす出来事が相次いだ(1995年4月、「サリン問題対策関係省庁連絡会議」の初会合でのあいさつ、総理府)

元厚労官僚の香取照幸上智大教授は01年5月、小泉内閣で官邸に常駐する内閣参事官として辞令を交付された際、古川氏からこう訓示を受けた。首相が代わっても、内閣の行政に休みはなく、終わりもない。古川氏は別の場で「私は5人の首相に仕えることを通じ、国家や国民に仕える意識が強かった。いわば国家国民党だ」とも語った。

香取氏は旧厚生省でも仕えた古川氏を「ニコニコして優しい好々爺(こうこうや)と見られがちだったが、内に秘めた感情の起伏は激しいものがあった。芯が強く、筋を通す人。今どきの官僚とは違う古武士のようなたたずまいだった」と振り返る。

元民主党参院議員の松井孝治慶応大教授。1990年代半ば、官邸で内閣副参事官として首相の演説の起草を担当した。古川氏に原案を報告すると「超多忙なのに『ここはどういう意味か』『私はこう考える』と青年のように熱く、真剣に議論していただいた」と懐かしむ。古川氏が説いたこんな「官邸官僚としての吏道」も胸に刻む。

「官邸スタッフに呼ぶ官僚は、口が堅いことと我慢強いことが絶対条件だ。我々は黒子なのだから、オレがオレがと功名心にはやる人間は絶対に採ってはいけない」

「政と官」の不安定さ危ぶむ

官房副長官は、官邸で首相、官房長官に次ぐ要職だ。定員3人のうち2人は首相に近い衆参両院議員が登用され、国会対策などの政務を受け持つ。残る1人が事務担当だ。霞が関の重要人事や政策調整ににらみをきかせ、皇室や最高裁との窓口も担う。厚生、自治、警察など旧内務省系の事務次官経験者が就くのが長年の慣行となってきた。「霞が関のドン」や「次官の中の次官」と呼ばれるが、2つの顔をあわせ持つ。

一つは首相が任命する政治任用職として官邸の意向を霞が関に浸透させ、官僚のサボタージュや面従腹背に目を光らせる「政の使用人」。もう一つは行政の中立・公平性を逸脱しかねない首相の軽率な政治判断や、官僚人事への行きすぎた介入をやんわりいさめる「官の防波堤」だ。政と官のつなぎ役として難しいバランスを問われる。

第2次安倍内閣から菅義偉内閣までを支え、事務担当の官房副長官として史上最長の在任期間となった杉田和博氏(2021年、首相官邸)

第2次安倍晋三内閣から史上最長の8年9カ月、官房副長官に在任したのが警察庁警備局長や内閣危機管理監などを歴任した杉田和博氏だ。2017年8月以降は内閣人事局長も兼務し、各府省の幹部人事を差配した。「安倍一強」を強力に支え、政治任用色が濃くなった。岸田文雄内閣では元警察庁長官の栗生俊一氏が副長官を務める。

「平成の30年、政治主導や官邸主導が強化されたのは事実だ。それは政治改革や橋本行革があったからというより、時代の変化と大いに関係がある。日本経済が右肩上がりではなくなり、新たな成長が生まれない中でも国民の新たなニーズに対応する制度改正、法改正を進めねばならなかった。政治でなければできない力仕事だった」

古川氏は21年5月、御厨貴東大名誉教授(日本政治史)との対談でこう振り返った。一般財団法人「創発プラットフォーム」のウェブサイトで動画を見られる。「高度成長期の果実の配分に向いていた」縦割り行政と官僚制が、官邸主導への転換で変容を迫られたのは時代の必然だとしたうえで、政官関係の不安定さもこう危ぶんだ。

「官僚は専門家集団として政治主導をサポートする役割がはっきりしてきた。社会が複雑で多様化し、グローバル化も進んでいくのでスピードが要求され、縦割り行政では対応しきれない。官邸がリーダーシップをとらないとまとまらず、強くなるのは当たり前だ。ただ、各省もそこに参加させなければいけない。官邸一強は問題だ」

「安定的な皇位継承の確保」訴え

「政と官は対立するものではなく、車の両輪なので、役割分担が大事だ」と説いた古川氏。平成の統治構造改革の行きすぎを3点挙げ、政官関係の再検討を求めた。

第1は国会の政府委員制度廃止だ。かつては局長級の官僚を政府委員に任命し、閣僚の求めで幅広く答弁に当たらせていた。これが低調な審議を招き、政策決定が官主導になる一因だとして2001年に廃止された。行政の細目を答弁する官僚は「政府参考人」として残したものの、古川氏は「官僚は誇りと緊張感を失った。近年は細部まで閣僚が答えがちで、事務方はその資料などの準備に忙殺される一方だ」と警告した。

第2は事務次官等会議の廃止だ。閣議案件を前日のこの会議で事前承認する慣行だったが、09年に民主党政権が官主導の象徴として廃止した。古川氏は「政府部内の調整の完了を確認していたにすぎず、官主導とは誤解だ。一堂に会した各次官に官邸の方針を伝え、情報を共有する場だった」と嘆いた。その後は改めて次官連絡会議が設けられているが「以前と同じ機能は発揮できていない」と納得していなかった。

第3は内閣人事局による各府省幹部人事の一元管理だ。古川氏は「人事でも縦割り是正は良いが、選考基準などが何も示されていない」と官僚側の萎縮や官邸への忖度(そんたく)を憂えていた。見直し策として、人事局に対するご意見番となる「監視委員会」や「賢人会議」の設置を要請。人事局長も政治色が強まる官房副長官の兼務をやめ、より中立・公平な立場の人材を任期5年程度で長期在任させるよう唱えた。

古川氏は官房副長官(事務担当)を当時最長の8年7カ月務めた(㊨が古川氏、㊥は政務担当の官房副長官だった安倍晋三氏。2003年9月25日、そろって退任時の様子)

晩年の古川氏が「心残りがある」と危機感を示したのが、象徴天皇制の将来だ。皇族数の減少が続く中、安定的な皇位継承を確保するための具体策の検討を急ぐよう訴え続けた。副長官退任後、小泉内閣で「皇室典範に関する有識者会議」に参画し、長子優先で女性・女系天皇も認める05年の報告書をまとめるのに尽力した一人だった。

男系男子による皇位継承を重視した安倍元首相とは距離が遠かった。古川氏は「長期安定政権なら、自分はこうするという案を示して国民の前で議論し、国民の理解を得て決めてほしい。何もしないことが最も無責任だ」と漏らしていた。だが、安倍氏は退陣して非業の死を遂げ、古川氏も逝った。国会での議論は進んでいない。』