バングラデシュ独立戦争

バングラデシュ独立戦争
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『バングラデシュ独立戦争(バングラデシュどくりつせんそう、ベンガル語: বাংলাদেশের স্বাধীনতা যুদ্ধ)は、東パキスタンの独立をめぐって1971年3月26日に勃発した戦争である。』

『概要

東パキスタン地域のベンガル人独立派に対し、西パキスタン側のパキスタン中央政府は軍を空輸して武力鎮圧を試みた。

殺戮から逃れるため大量の東パキスタン住民が難民となって隣国インドに亡命したことから、かねてよりパキスタンと対立していたインド政府が1971年12月3日に介入した(第三次印パ戦争)。国力ではインドに対して不利なパキスタン軍が劣勢となり、1971年12月16日に撤退。東パキスタンは「バングラデシュ」として独立を果たした。

この独立戦争には前史がある。

1952年、政府(西パキスタン)の支配に対し、人口ではパキスタン全土の過半数を占める東パキスタンが、自国言語バングラ(ベンガル語)を守るため(ベンガル語国語化運動)、また、西パキスタンの搾取から解放されるために立ち上がった。

政府に対するベンガル人の反発は激しさを増し、第二次印パ戦争の講和(タシケント宣言(英語版))でインドに譲歩したことや、急激なインフレへの不満が重なり、1962年から東パキスタン各地で暴動が起こり、自治権の拡大を求めた1966年の6点運動 (東パキスタン)(英語版)を経て、1969年の東パキスタン大量蜂起(英語版)へと発展、パキスタンの第2代大統領として軍事政権による独裁政治を行っていたアユーブ・ハーンを失脚に追い込んだ。

また、この大量放蜂によって、アガルタラ陰謀事件の撤回と、シェイク・ムジブル・ラーマンとその同僚の無罪を勝ち取った。

1970年、パキスタンの国民議会選挙があり、パキスタン・アワミ連盟が過半数を獲得した。しかし、同党は西パキスタンで1議席も獲得できなかったため、これまでの指導者たちは憲法に反し、党に権力を譲ることを拒んだ。

これに対し、1971年3月7日、ベンガル人のリーダームジブル・ラフマンが、パキスタン政府への非協力政策を10万人の立ち会うもとで宣言した。

3月26日午前1時、パキスタン軍はダッカにおいてサーチライト作戦(英語版)を開始し、独立運動を率いていたアワミ連盟のムジブル・ラフマンが当日中にパキスタン軍によって逮捕されたが、その数分前に「バングラデシュ」の分離独立を宣言したとされる[1]。

宣言はチッタゴンのアワミ連盟指導者M・A・ハンナン(英語版)によってラジオで放送され、翌27日には当時ベンガル議員に在職していたジアウル・ラフマンによる声明が放送局を介して、同じくラジオで放送された[2]。

3月26日はバングラデシュの独立記念日となっている。

4月17日には、バングラデシュ西部のメヘルプール地区Baidyanathtala(現在のムジブナガル)にてバングラデシュ暫定政府が樹立された[3]。

4月17日には、バングラデシュ西部のメヘルプール地区Baidyanathtala(現在のムジブナガル)にてバングラデシュ暫定政府が樹立された[3]。

M・A・G・オスマニ(英語版)を司令官とするバングラデシュ軍は「ムクティ・バヒニ(英語版)」(「自由の戦士」「解放軍」の意)と呼ばれ、当初は貧弱であったが、人員の合流やインドからの援助も受けて態勢を立て直していき[3]、オスマニ将軍の指揮の下チッタゴンと熱帯雨林地域の東パキスタン軍司令官に任命され、ゲリラ部隊を率いて、パキスタン軍に複数回の攻撃を敢行した。

以降、インド軍が介入し、戦争は12月16日にパキスタン軍の降伏により終結した。

そして1972年3月17日、インドの支援の下、シェイク・ムジブル・ラフマンを大統領にした臨時政府と国会が設立され、ジアウル・ラフマンは、バングラデシュで二番目に高い軍事勲章を授与された。

戦後

2013年、戦争時の虐殺等の罪でイスラム協会の幹部・アブドゥル・カデル・モッラ(ベンガル語版)(Abdul Quader Molla)の死刑が確定。大統領は恩赦を出したがモッラは拒否し、同年12月12日、死刑が執行された。

2019年、インドのアッサム州では、不法移民排除を目的とする国民登録簿が作成された。名簿から除外された約190万人の多くはイスラム教徒であり、バングラデシュ独立戦争時にインド側へ流出した住民や子孫であった[4]。』