【寄稿】 プーチン氏、70歳に その人生を形作った7つの主な出来事

【寄稿】 プーチン氏、70歳に その人生を形作った7つの主な出来事
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-63155184

『2022年10月7日

マーク・ガレオッティ、イギリス王立防衛安全保障研究所(RUSI)研究員(ロシア・防衛研究)、ユニヴァーシティ・コレッジ・ロンドン名誉教授(東欧研究)

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は10月7日、70歳になった。

レニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれた少年が、どのようにしてウクライナに侵攻し、ロシアに惨憺(さんたん)たる結果をもたらし、西側諸国に背を向け、独裁者として孤立するに至ったのか。

70年間の人生で、その世界観や考え方を形作った7つの大きな出来事を振り返る。

1964年 柔道を始める

第2次世界大戦で872日間続いた包囲戦の傷跡がまだ残るレニングラードに、ウラジーミル少年は生まれた。学校では不愛想で、競争心が強かった。一番仲良かった友達によると、「怖いもの知らず」だったので「誰とでもけんかできた」のだという。

それでも、小柄ながら向こうっ気の強い子供が、ギャングだらけの町で生き延びるには、何か武器になるものが必要だった。そのため12歳になると、まずはロシアの格闘技サンボを始め、続いて柔道を習い始めた。熱心でまじめな少年だったため、18歳になるころにはすでに黒帯を取得して、国内のジュニア大会で3位になったこともあった。

もちろんプーチン氏はこれまでじっくり丁寧に、自分がいかにマッチョな人間かというイメージを作り上げてきたし、子供のころから柔道で自分を鍛えてきたのだという経歴は、そのイメージづくりに使われてきた。

それでも、柔道を子供のころから続けたのはイメージづくりだけの話ではない。危険な世界では自信のよりどころが必要だ。それに、いざ戦わなくてはならない時には、本人の言葉を借りるなら「まず一発目はこちらから攻撃を仕かけなくてはならない。しかも敵が二度と立ち上がれないよう、強力な一発を浴びせる必要がある」のだという若いころの考えの、裏付けにもなった。

1968年 KGBに志願する

ほとんどの人は、リチェイニ通り4番地にあるソ連国家保安委員会(KGB)のレニングラード本部には近寄ろうとしなかった。スターリン時代にその取調室からどこかの強制収容所に送られた人はあまりに大勢で、「ボリショイ・ドム(大きな家)」と呼ばれるこの建物はレニングラードで一番背が高いのだと言われていた。その地下室からはシベリアが見えるほどだという、ブラックジョークがその「ココロ」だ。

それでもプーチン氏は16歳の時、赤いじゅうたんの敷かれたKGBの受付に入り、苦笑気味の士官に、どうやったら自分も入れるのか質問した。兵役を終えるか学位をとるのが条件だと言われると、ではどの学位が最適かと、重ねて尋ねた。

法律の学位だと教えられたプーチン氏は、もちろん法学部を卒業し、順当にKGBに採用された。世渡り上手でけんかに強いプーチン氏にとって、KGBは街で最強のギャングだった。共産党に特に縁故のない人間に、身の安全と出世の機会を与えてくれる場所だった。

そればかりか、KGBにいれば世の中を動かす側でいられる。10代のころに見ていたスパイ映画について、プーチン氏はかつてこう言った。「1人のスパイが、何千人もの運命を決められる」と。KGBにいれば、自分もそうなれるかもしれなかった。

Vladimir Putin (bottom) wrestles with a classmate in St Petersburg in 1971

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柔道のけいこで(1971年、レニングラード)

1989年 群衆に取り囲まれる

しかし、本人の期待とは裏腹に、プーチン氏のKGB人生は特にぱっとしなかった。まじめに働いたが、特に目立って出世するタイプではなかった。それでもドイツ語を熱心に勉強したため、1985年には当時の東独・ドレスデンにあるKGBの連絡事務所に赴任することになった。

そこで彼は海外駐在員として楽な暮らしをしばらく送ったものの、1989年11月には、東ドイツ政権がとてつもない勢いで崩壊し始めた。

12月5日には、群衆がドレスデンのKGBビルを取り囲んだ。プーチン氏は必死に、一番近いソ連軍の駐屯地に保護を要請したが、返ってきたのは、なすすべがないという答えだった。「モスクワからの命令なしで何もできないし、モスクワは何も言ってこない」と言われたのだ。

プーチン氏は、中央に集められた権力が一気に崩壊するのを恐れるようになった。そして、ソ連の指導者だったミハイル・ゴルバチョフ氏の間違い(だと彼は思っていた)を、自分は決して繰り返さないと決心した。つまり、敵が立ちはだかっているのに素早く決然と反応しないなど、自分はそんなまねは決してしないと。

1992年 石油食料交換プログラムのブローカーに

やがてソヴィエト連邦の崩壊に伴い、プーチン氏はKGBをやめることになる。しかしそれから間もなくして、サンクトペテルブルクと改称した街の改革派市長のもとで、フィクサーとして働くようになる。

ロシア経済は急降下中で、プーチン氏は市民がその日その日を生き延びられるよう、何とかしろと言われていた。1億ドル相当の石油と金属類を、食料と交換する事業を取りまとめるのが、与えられた役目だった。

実際には誰も食料など何ひとつ目にしなかったのだが、後の調査によると(その調査はすぐさま封印された)、プーチン氏とその仲間と、サンクトペテルブルクのギャングが、大金を手に入れた。

「激動の90年代」と呼ばれるこの時代に、政治的な影響力は金銭化できる商品なのだと、プーチン氏は速やかに学んだ。さらに、ギャングを味方につけるのは役に立つことだと。自分の周りにいる誰もが、そうやって地位を利用して私腹を肥やしているのだ。自分もそうして何が悪い?

2008年 ジョージア侵攻

2000年にロシア大統領になったプーチン氏は、西側と前向きな関係を築きたいと期待していた。自分の望む形で。旧ソ連の領土全域を、ロシアの勢力圏としながら。

おかげでプーチン氏はやがて落胆し、続いて立腹した。西側が積極的にロシアを孤立させ、屈辱を与えようとしていると思ったのだ。

ジョージアのミヘイル・サーカシヴィリ大統領が北大西洋条約機構(NATO)加盟を決意した時点で、プーチン氏は激怒した。そして、ロシアが支援する南オセチアでジョージアが実効支配を再確立しようとしたのを機に、プーチン氏はこれを理由に懲罰的な軍事行動に乗り出す。

Woman grieving in Georgia

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息子の戦死を嘆く南オセチアの女性

わずか5日間でロシア軍はジョージア軍を瓦解させ、サーカシヴィリ大統領に屈辱的な和平を強いることになった。

西側諸国はこの事態に激怒するものの、アメリカのバラク・オバマ大統領は1年もしないうちに、ロシアとの関係「リセット」を持ちかけた。2018年サッカー・ワールドカップの開催権さえ、ロシアに与えられることになった。

プーチン氏にとって、力こそが正義だというのは明白だった。そして、弱くてぐらぐらしがちな西側は、ああだこうだと息巻いては見せるものの、最終的にはこちらが鉄の意志を見せれば、後ずさりするに決まっているのだと。

2011~13年 モスクワでデモが続く

2011年の議会選挙は仕組まれていた不正選挙だという批判が、幅広く信じられたが(そしておそらく本当だった)、これに対する不満がついに抗議デモにつながったのは、大統領からいったん首相になっていたプーチン氏が、2012年大統領選に再出馬すると表明したからだった。

モスクワのボロトナヤ広場が中心地となったことから、「ボロトナヤ抗議」と呼ばれるようになったこのデモは、プーチン政権下で起きた最大規模の反政府行動だった。これを上回る規模の反政府行動はその後、起きていない。

Protests in Moscow in 2013 in support of opposition

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一連の抗議集会はアメリカ政府が計画し、扇動し、画策したものだと、プーチン氏は信じていた。そして、ヒラリー・クリントン国務長官のせいだと決めつけ、批判した。

プーチン氏にしてみれば、これは西側との全面対決が始まった証拠だった。西側はもはや直接、自分を滅ぼそうとしている。つまり自分は事実上、西側と戦争状態にあるのだと。
2020~21年 新型コロナウイルス回避のため隔離

新型コロナウイルスが世界中に蔓延(まんえん)すると、プーチン氏は個人独裁体制の独裁者としても珍しいほどの、徹底した隔離状態に入った。

プーチン氏に会おうとする人間は誰だろうと、まずは警備付きの2週間隔離が強いられた。その後いざ会いに行くとなると、滅菌用の紫外線で照らされ、殺菌剤の充満した廊下を通らなくてはならなかった。

この時期、プーチン氏と面と向かって会うことが許される支持者や顧問の数は激減。会えるのはほんの一握りのイエスマンや、本人と同じようなタカ派に限られた。

多様な意見に触れる機会が減り、それどころか自分の国を目にすることもほとんどなくなったプーチン氏は、自分の思い込みはすべて正しく、自分の偏見はすべて正当だと、「学習」したようだ。

かくして、ウクライナ侵攻の「種」はまかれたのだった。

(マーク・ガレオッティ教授は、研究者で著述家。著作に、「We Need To Talk About Putin(プーチンの話をする必要がある)」のほか、近く出版の「Putin’s Wars(プーチンの戦争)」など)

(英語記事 Vladimir Putin at 70: Seven pivotal moments that made him)』