「友情・努力・勝利」から「絶望・裏切り・敗北」へ

「友情・努力・勝利」から「絶望・裏切り・敗北」へ : 机上空間
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『「友情・努力・勝利」と言えば、日本一の発行部数を誇った少年漫画誌のジャンプのスローガンであり、掲載される作品は、このうちの一つをテーマとして内在していないといけない不文律がありました。実際のところ、スポコンから始まって、日常系・恋愛系・バトル系・冒険系と、描く分野は違っても、基本的に主人公は、上記の試練を経て成長するのが物語の定番でした。

しかし、つい先日、アニメ放映の始まった人気作品である「チェンソーマン」のテーマは、言ってみれば、「絶望・裏切り・敗北」です。主人公の少年のデンジは、借金苦で自殺した親の借金3000万円越えを背負う少年です。返済の為に、体の売れる部所、目玉・腎臓・睾丸を切り売りし、金が貰えるとなれば、プライドを捨てて、犬の真似をします。既に夢など無く、朝食にほうばる食パンにバターなり、ジャムを塗って味付けをしてから食べるのが希望というド貧乏。住んでるのは、資材置場のような掘っ立て小屋です。何しろ、この主人公の最初の願望が、「死にてぇ~」から始まります。そして、せめてもの希望が、「死ぬ前におっぱいを揉んでみたい」とか「女に抱きしめられたい」とか、殆ど獣レベルの原始的な欲望で、後先の事など何も考えずに行動します。

言っておきますが、この作品は少年ジャンプに掲載されて、とても高い評価と人気を得ている作品です。青年誌向けの捻った作品ではありません。つまり、今の若者のリアルという事です。主人公のデンジは、瀕死の状態で出会ったチェンソーの悪魔であるポチタを助けた事で、相棒として行動を共にします。そして、この特異な関係を築いた事で、この世界で突然変異のように誕生する悪魔を狩る力を手に入れて、ハンターとして賞金稼ぎのように日銭を稼ぎます。しかし、悪魔退治の依頼をくれるギャングは、借金先でもあり、報酬から経費を差し引く為、手元に残るのは請負金額の3割程度。生活は、かつかつで、来月餓死していないか保証も無い状態です。仕事を回してくれるギャングの親玉のデンジに対する評価は、「奴は文句を言わず、言われた通りに何でもする。便利だから使う」という事です。

この漫画の世界感としては、トマトの悪魔、ゾンビの悪魔、銃の悪魔など、日本の八百万の神のごとく、万物に悪魔が憑いて暴れるという現象が起きています。当然ながら、公安として悪魔退治を職務とする組織もあり、後にデンジも雇われる事になります。

ハンターを続けていたデンジは、脳をゾンビの悪魔に支配されたギャング団達にハメられて、全身をポチタ共々、バラバラにされて、ゴミ箱に捨てられるのですが、この事で悪魔の心臓を得て、合体する事に成功し、チェンソーマンとして、悪魔を粉砕する力を得る事になります。

ここまでの展開で、永井豪先生の「デビルマン」との類似点を感じる人がいるかと思うのですが、デビルマンは、悪魔に憑依される主人公の不動明、親友の飛鳥了も恵まれた上層階級の人間であり、憑依する悪魔もアモンという上級デーモンです。そして、デビルマン誕生のバックストーリーには、それまでの戦後の高度成長時代に鉄腕アトムに象徴される、科学万能主義・理想主義へのアンチテーゼがあります。実際、悪魔が本格的な侵攻を始めた際の原作の集団と化した群衆の醜悪さ・暴走する暴力は、永井豪先生の真骨頂で、天才的な仕事をしています。いわば、エリート階級での戦いと、秩序を失った大衆の醜さと暴力を描いた作品です。

それに対して、チェンソーマンは、主人公は最下層で、死んでも誰も気にかけない使い捨ての人間で、合体する悪魔も、傷ついて瀕死になっていたのを、自分の血を飲ませる事で手懐けた野良です。つまり、描く視点が、まったく違う作品と言う事ができます。そして、描いているのは、受動的な「絶望・裏切り・敗北」であり、自らが何かを目指して切り開くような展開は、まったくありません。デンジの動機は、食欲や性欲といった本能みたいな欲求で、しかも「生きているうちに、それくらいのいい事があってもいいんじゃないか」と、自ら奪いにいくというより、棚ぼたで与えられるのを待つ姿勢です。そして、基本的には「明日、死んでもいい」と思っています。

彼がチェンソーマンとして戦う時のスタイルは、胸元にあるチェンソーのエンジンをかける時に引っ張るロープを引っ張って、激情に発破をかける事です。つまり、暴走スィッチを自ら入れるわけです。すると、殺戮本能の望むままに、両手と頭がチェンソーと化した四肢を使って、相手を切り刻みます。そこに理性の入り込む余地はなく、まさに衝動の塊です。ここが、少なくても戦う理由のあったデビルマンとは違うところです。敢えて言うなら、明日の朝食に、まともな食事をして、いつか褒美に、女に抱擁してもらったり、オッパイを揉ましてもらったりする為に、目の前の悪魔を切り刻みます。こう書くと、ギャグ漫画と思われるかも知れませんが、デンジは極めて真面目に渇望しています。「生きてて良かった」と思える理由を探しているからです。それくらい普段の社会が、死への誘惑に満ちているのです。

そして、チェンソーマンの悲劇は、デンジが死にたがりな人間なのに、相棒のポチタと心臓を分け合って合体してしまった為、何をされても死ねない体になってしまった点です。彼自身は、いつか何かで、この世の中に別れを告げるのを望んでいるのですが、ポチタと共にあるので死ぬ事ができない。それを、決して肯定的ではなく、ある種の喜劇・悲劇として描いているのが、少年誌の今なのです。

デンジが合体した相手が、チェンソーの悪魔である事も興味深いです。まさに、暴走する殺戮衝動・破滅願望の象徴として、チェンソーがあります。戦う理由や運命に導かれるわけではなく、自分でスイッチを入れる事で、暴走して相手を切り刻む。それが、漫画のビジュアル的な見どころになっている時点で、過去の作品とは、明らかに違うステージにあります。

私が、このように作品紹介をすると、それを肯定しているかのように解釈する方がいらっしゃいますが、それは違います。私は、文芸作品にしろ、漫画にしろ、アニメにしろ、ドラマにしろ、その時代の空気を映す鏡と考えています。どんなに自分の思う所と違っていても、作品として登場して、それが喝采を受けているという事は、それが時代を代表しているのです。それを、観察し解釈し考察する事は、真実の現代を理解するのに不可欠と考えています。なので、私は作品を観続けるのです。』