東証大引け 続伸、ハイテク株などが指数押し上げ

東証大引け 続伸、ハイテク株などが指数押し上げ
https://www.nikkei.com/article/DGXZASS0ISS16_Z00C22A9000000/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 『東証プライムの売買代金は概算で3兆1436億円。売買代金が3兆円台に乗せたのは8月31日以来となる。売買高は12億2470万株だった。東証プライム市場の値上がり銘柄数は1205と、全体の約6割を占めた。値下がりは535、変わらずは97だった。』…。

 ※ メジャーSQだったから、激しく「思わく」が交錯したんだろう…。

 ※ 『東証プライムの売買代金は概算で3兆1436億円。』…。

 ※ 「大商い」だったな…。

 ※ 通常、「2兆円」を超えれば、「大商い」と判断される…。

 ※ FRBの利上げによって、「世界的な不況になりかねない。ここら辺が潮時だ。」と判断する組と、「まだまだ、いけるぜ。ここが、一山当てる剣ヶ峰!」と判断する組が、激しく交錯したんだろう…。

 ※ ただ、値動きは『前日比149円47銭(0.53%)高』だから、ほぼ横ばいだ…。

『9日の東京株式市場で日経平均株価は続伸し、前日比149円47銭(0.53%)高の2万8214円75銭で終えた。前日の米株高を背景に値がさのハイテク株などが買われ指数を押し上げた。これまでの円安基調に加え、9日のアジア株式市場が総じて上昇したことも日本株の買い安心感につながった。利益確定売りが出て、伸び悩む場面もあった。

日経平均の上げ幅は一時200円を超えた。8日の米株式市場でナスダック総合株価指数が0.6%高となったことで東京市場でも電気機器株などが買われた。

日経平均は午前、前日の大幅高を受けて利益確定売りから上げ幅を縮小したが、心理的節目の2万8000円は維持した。正午すぎには日銀の黒田東彦総裁が岸田文雄首相と会談し、「為替の急激な変動は好ましくない」と述べたと伝わった。1ドル=142円台半ばまで円高・ドル安が進んだが、株式市場での反応は限られた。

大和証券の壁谷洋和チーフグローバルストラテジストは「多くの輸出企業は為替前提を1ドル=120円台に置いており、140円台なら投資家による輸出企業の期待感に変化ない」とみていた。

東証株価指数(TOPIX)は続伸し、7.91ポイント(0.40%)高の1965.53で終えた。

東証プライムの売買代金は概算で3兆1436億円。売買代金が3兆円台に乗せたのは8月31日以来となる。売買高は12億2470万株だった。東証プライム市場の値上がり銘柄数は1205と、全体の約6割を占めた。値下がりは535、変わらずは97だった。

東エレクやアドテストなど半導体関連株が買われた。エムスリー、京セラ、ファストリ、KDDIも高い。中外薬、塩野義、バンナムHD、リクルートも上昇した。半面、ダイキンやソニーG、JR東海は売られた。

〔日経QUICKニュース(NQN)〕

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https://www.nikkei.com/r123/?ak=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXZASS0ISS16_Z00C22A9000000&n_cid=DSPRM1AR08 』

特捜部 森喜朗元首相を参考人聴取 東京五輪汚職事件

特捜部 森喜朗元首相を参考人聴取 東京五輪汚職事件
https://www.nippon.com/ja/news/fnn20220909414861/

 ※ おーや、おや…。

 ※ 森元にまで、汚染範囲が広がる気配だな…。

 ※ 「不透明な金の流れ」とかの調査・捜査は、済んでいるのか…。

 ※ 銀行口座使っている限り、金の流れ自体は、隠しようが無いからな…。

 ※ それこそ、ケースに詰めて、現金を運びでもしない限りは…。

 ※ そして、「巨額の現金」の発見は、それ自体が「後ろ暗いカネ」であることの「動かぬ証拠」となる…。

 ※ しかし、「現金運ぶ・保管する」とかはまた、リスクが大きすぎる話しだしな…。
 ※ 「癒着の構図」というわけか…。

『東京オリンピックをめぐる贈収賄事件で、東京地検特捜部が、大会組織委員会の会長だった森喜朗元首相を、参考人として聴取していたことがわかった。

関係者によると、特捜部は、組織委の会長だった森喜朗元首相から、参考人として、東京都内で複数回事情を聴いたという。

森元首相は、9日は石川県の県議会を訪れている。

大会組織委・元理事の高橋治之容疑者(78)は、大会のスポンサー選定などで便宜を図る見返りに、AOKIホールディングス側とKADOKAWA側から賄賂を受け取った疑いが持たれていて、聴取で、森元首相は、高橋容疑者にスポンサー選定の権限を持たせていたかなどの説明を求められたものとみられる。

森元首相の代理人は、「捜査に支障を来すといけないので回答は控えます」としている。

(FNNプライムオンライン9月9日掲載。元記事はこちら)

https://www.fnn.jp/

[© Fuji News Network, Inc. All rights reserved.]』

アメリカ、中国での「先端技術」施設の建設を禁止 連邦資金受ける米企業が対象

アメリカ、中国での「先端技術」施設の建設を禁止 連邦資金受ける米企業が対象
https://news.yahoo.co.jp/articles/7b30ff838a7a0a3cec9e602c29b087cb34bee507

 ※ 「嫌がらせ」モード、全開になって来たな…。

 ※ アメリカと「対立する」ということは、そういうことだ…。

『アメリカは6日、連邦政府から資金提供を受けている国内のテクノロジー企業に対し、今後10年間、中国での「先端技術」施設の建設を禁止すると発表した。

米商務省のジーナ・レイモンド長官は、米国内の半導体製造を支援する「Chips and Science Act」(通称CHIPS法)について、「我々はCHIPSの資金を受け取る企業が国家安全保障を損なうことがないよう、ガードレールを設けるつもりだ。(中略)企業がこの資金を中国での投資に使うことは認められない。今後10年間は、中国で最先端技術を開発することはできない」と述べた。

この指針は、米国内の半導体産業を強化することを目的とした500億ドル(約7兆2000億円)規模の計画の一環として発表された。

業界団体からは中国への依存度を減らすため、政府からのさらなる支援を求める声が上がっていた。

中国は半導体の製造拠点となっているが、新型コロナウイルス対策の厳格なロックダウンの影響で製造が停滞。半導体は世界的な供給不足に陥っている。

アメリカと中国は貿易や技術をめぐって長らく対立している。

アメリカが中国にテクノロジー分野での優位性を奪われることが懸念される中、ジョー・バイデン米大統領は8月、ハイテク製造と科学研究に2800億ドル(約38兆円)を投じる法案に署名、同法が成立した。

これには国内でコンピューターチップ製造工場を建設する企業に対する減税措置も含まれる。

アメリカは現在、世界の半導体供給の約10%を占めており、40%近かった1990年から減少している。

ワシントンにある中国大使館は同法について、「冷戦型思考」をほうふつさせるものだとして反発していた。

アメリカの半導体メーカーの中には、米政府の規制の影響をすでに受けているところもある。エヌヴィディア(Nvidia)と AMDは今月初め、米当局から人工知能チップの中国向け販売を停止するよう命じられた。

米証券会社ウェドブッシュ・セキュリティーズのダン・アイヴス氏は、エヌヴィディアにとっては「大打撃」だと述べた。

「これは中国に対する威嚇射撃であり、地政学的な(緊張の)炎をあおることになる」と、アイヴス氏はBBCに述べた。

(英語記事 US bars tech firms from building China factories)

(c) BBC News 』

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)?

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)? : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29621499.html

 ※ 非常に疑問なのは、そういう「自堕落な人生」を送ることができている「原資」は、どっから出ているのか…、ということだ。

 ※ 不思議な話しだ…。親、あるいは親類縁者が、「泣く泣く援助」でもしているものなのか…。

 ※ しかし、そういう人生を送っていようがいまいが、「時は、残酷に過ぎていく」ぞ…。

 ※ ご老人になって行くのは、避けられない…。

 ※ 要支援、要介護状態になっていくのは、避けられない…。

 ※ どこぞの女王様も、亡くなったという話しだしな…。

 ※ 『老後は、死んでしまえばよい。』と言うが、どっこい、人間、死んでいくのも大変な話しだぞ…。

 ※ 死んでく前に、老いて、衰えていく…。

 ※ 順番から言ったら、「親の方が、先に死ぬ。」…。

 ※ その葬儀とか、どうするね?親の援助が無くなったら、どうするね?

 ※ 衣食住の確保は、どうするね?

 ※ その時、君は、いくつになっている?

 ※ これもまた、「大事業」だ…。

 ※ 若いうちは、「今の状態が、ずっと続くもの。」と思いがちだ…。

 ※ しかし、「そうは、問屋が卸さない。」

 ※ そんなことが、あるハズも無い…。

 ※ まあ、人の一生で、「大事業」で無いなんてものは、有りゃせんさ…。

『 去年あたりから中国で流行り始めた、無気力な若者を示す言葉「タンピン」ですが、さらに積極的に何もしない「バイラン」という言葉が、流行り始めています。タンピン(寝そべり)は、消極的な諦めの態度なのですが、バイラン(投げやり)は、それより積極的に諦める態度を指します。

バイランの具体的な行動は、

・仕事は辞める。
・ゲームは、負けても構わない。勝ちにこだわらない。
・ダイエットなんかするくらいなら太っていてよい。
・老後は、死んでしまえばよい。

つまり、現状を肯定し、極力何もしない事を行動として選ぶという事です。バイランの1日は、彼らに言わせると、こうです。

・朝11時まで寝て、起きてイテクアウトを注文する。
・パソコンを点けて、ライブ配信を見ながら時間を潰し。
・夜12時に布団に潜って人生について考える。
・スマホを弄りながら、いろいろなソーシャルメディアで社会の不公平さを訴える。
・明け方近くに寝る。

このルーチンが、バイランの典型的な過ごし方です。

つまり、仕事や学校にも行かず、友達も作らず、結婚もせず、子供もいらず、積極的に自ら世間との繋がりを切り離しています。「努力しても報われない。努力しないことこそ、快適に暮らせる」というのが、その動機になっています。何もしなくなれば、周りから要求されたり、批判されたりする事がなくなります。ストレスフリーで生きる事が、最上の人生という価値観です。

彼らからすると、家の所有など、一人前に要求される水準が、不動産の高騰などで、一生かけても手の届かない価格になり、努力しても努力しなくても、追いつけないのが明白に見えている為、霞の向こう側のゴールを目指すより、そもそも霞の向こうは存在しないと考えたほうが利口であるという理屈のようです。

上海がロックダウンされた時に、力付くで個人宅に踏み込み、中の人を強制連行するような検疫員(白衛兵)が、抵抗した住民に対して、「抵抗すると、評価ポイントが下がって、お前たちの家族全員が社会から不利益を受けるぞ」と言った脅しに対して、「そんなものは関係ない。こんな社会に生きるつもりはない。我々は最後の世代だ。子供も作るつもりはない。」と反論した動画が、一時期話題になりました。白衛兵は、ドアを壊して家宅侵入した上で、ペットを殺したり、私物を勝手に処分したり、消毒液で室内を台無しにしたりします。それを、強要されて反抗できない社会に、何の期待もしていないので、行政からどう思われようと構わない。私が最後の世代だという抗議なのですね。

中国では、社会が特殊なので、「共産党に従順な、物言わぬ労働力」としての価値しか期待されていない事に対する、ある意味消極的な反抗と言えるのかも知れません。しかし、これが、中国特有の現象かと言えば、そうでもないのですね。世界的に、「働かない・働けない」若者は、社会問題になっています。

・イタリア-バンボッチョーネ

大きな赤ん坊の意味で、両親と同居し、援助を受ける成人男性。18~34歳の男女の6割が親と同居。

・ギリシャ-700ユーロ世代

2010年の経済危機で、20~30代の若者の半分が失業。就職しても、月給が700ユーロの低賃金が固定化された。

・日本-パラサイト・シングル、ひきこもり

親と同居し、親に依存している未婚者。半年以上、家に籠もって、家族以外と交流の無い人。全国で100万人以上いる。

・韓国-N放世代

2010年代に、恋愛・結婚・出産の3つを諦めた若者。諦めるものが増えるほど、Nの数が増える。現代では、7放世代まで増えている。

・フィリピン-タンバイ

失業中の若者が、路上で暇を潰している状態。「就職する為のスタンバイ状態」という意味。

・シンガポール-BBFA

「Bui Bui Forever Alone」の頭文字を取った略語。「永遠に孤独に寝そべる低所得な若者」を指すスラング。

つまり、世界中で、「働けるけど働かない若者」、「国の経済が厳しくて、働く意欲を削がれる若者」は増えています。ここで、思い出して欲しいのは、このブログの記事で、「楽園実験という恐ろしい試み」として投稿した記事です。これは、マウスを使った社会観察実験で、衣食住が保証され、外敵や天候に影響されない楽園を作ったら、社会はどうなるかを試してみたものです。

簡単に要約すると、群れの大多数が繁殖意欲すら失った「無気力マウス」が増殖した事で、高齢化が進み、最終的には妊娠能力のあるメスが減って、群れは絶滅しました。その過程では、メスのオス化や、ネグレクトも観察され、新生児の生存率低下が、外的要因の脅威が無いにも関わらず発生して、最終的に群れの数が減少に転じたのですね。

少なくても、「油断していると明日死ぬかも知れない社会」が排除されると、無気力という病が、その社会を蝕むのは、人間も動物である以上、避けられないのかも知れません。』

コンスタンティノープルの陥落

コンスタンティノープルの陥落
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%99%A5%E8%90%BD

『コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく、ギリシャ語: Η Άλωση της Κωνσταντινούπολης)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。 』

『メフメト2世の野望

約1000年にわたって難攻不落を誇った「テオドシウス(2世)の城壁」

この戦争の以前には、オスマン帝国と東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると「帝国」という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルと、ペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。ローマ帝国が東西に分裂して以来、コンスタンティノープルは幾度となく攻撃を受けてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回(1204年の包囲戦)だけであった。10世紀のブルガリア帝国君主シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように、東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。

開戦の経緯

開戦の経緯については必ずしも明確であるとは言えない。

歴史家ドゥカス(英語版)の伝えるところでは、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1449年-1453年)がメフメトを牽制する意図で、コンスタンティノープルに亡命していたオスマン家のオルハン王子[注釈 1]を対立スルタンに擁立すると警告したことに、メフメトが立腹し戦争状態に突入したという。事の次第に驚いたコンスタンティノス11世は和平交渉を試みたが不成功に終わった。
1452年から1453年は世界的な異常気象が起こった「夏のない年」の一つに当たっている。海底火山クワエが複数回爆発したことによる大量の火山灰が巻き散らかされた影響(火山の冬)で冷夏が数年間続いており、そのために大飢饉になったと考えられている。

包囲戦の状況

コンスタンティノープルの包囲戦

東ローマ帝国が、オスマン艦隊の侵入を阻止するため金角湾口に張り渡した防鎖。イスタンブール軍事博物館(英語版)にて展示。
コンスタンティノープルの包囲戦後半で「オスマン艦隊の山越え」が行われた後の両軍の配置。

メフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、攻城戦の足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味のルメリ・ヒサルと呼ばれた。コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、ローマ教皇ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展はほとんど見られなかった。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。
一方、オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人の技術者ウルバンが売り込んだ新兵器ウルバン砲を採用して戦局を優位に進めた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、射撃の反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、ウルバン砲にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。

メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活大祭の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。というのは、射撃間隔がとても長かったため、東ローマ帝国側はその損害のほとんどを回復することができたためである。一方、メフメト2世の艦隊は、金角湾の入り口に東ローマ帝国側が渡した太い鎖によって、その中に入ることができなかった。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻と東ローマ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったものの、オスマン艦隊は彼らを拿捕することに失敗した。

オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、東ローマ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。

この間に、コンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は降伏・開城を呼びかけ、安全な退去とモレアス専制公領の支配権を約束した。コンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。

西欧からの来援は、結局なかった。最も近い国の一つハンガリー王国は消極的な干渉を試みたようであるが、オスマン側の包囲を解かせるには至らなかった。

防衛側も、最期を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵たちは涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、皆お互いに別れを告げあった。その後、ハギア・ソフィア大聖堂で聖体礼儀が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかったと、偽スフランゼスの『年代記』は伝えている。

東ローマ帝国の滅亡

コンスタンティノス11世パレオロゴスが最後の演説を行ったとされる「コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿」

5月29日未明、ついにオスマン帝国側の総攻撃が開始された。攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていない不正規兵部隊(バシ・バズーク)たちだったため、多くが防衛軍に倒された。第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、何とか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。イェニチェリ軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたのだが、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが負傷[注釈 2]したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。

不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は城内に侵入し、防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した。しかしコンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのを見たコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か朕の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている[注釈 3]。コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンは逃亡を図ったが、失敗し死亡した。

残る東ローマ帝国の領土であるモレアス専制公領はコンスタンティノープル陥落後も数年ほど存続したが、混乱の中で失地を回復することはできず、1460年に制圧された。

こうして、西ローマ帝国に遅れること1000年あまり、古代から存続してきた東ローマ帝国は完全に滅亡した。しかし、ロシア、イタリアなどに亡命した皇族もいる。彼らは、東ローマ帝国の復活を求め続けた。なお、 アルメニアのおそらく 15世紀の詩人アルラケール・バギシュは『ポリスへの哀歌』で、アブラハム・アンキョルは『コーンスタンティヌポリス占領の哀歌』においてコンスタンティノープル陥落を嘆いている[1]。

陥落後のコンスタンティノープル

当初、包囲に抵抗した都市に対する伝統的な処罰として、メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じ、街の状況が落ち着いてからコンスタンティノープルに入った。総主教座のあったハギア・ソフィア聖堂はイスラム教のモスクに改修された。

メフメトはこの都市1つの征服によって「征服王」と呼ばれるようになる。コンスタンティノープルは「コスタンティニエ(قسطنطنية, Kostantiniyye)」の名で、オスマン帝国の新しい首都となった[注釈 4]。正教会に対しては多くの聖堂をモスクに改造して抑圧策をとる一方で、人望の篤い修道士であったゲンナディオス・スコラリオスをコンスタンティノープル総主教に任命し、正教徒の懐柔にあたった。

現代

東ローマ帝国のキリスト教会や修道院をモスクに転用するなどして残しつつ、オスマン帝国の首都として整備されたイスタンブール歴史地域はユネスコにより世界文化遺産に登録されている[2]。

オスマン帝国の実質的な継承国であるトルコ共和国政府は2020年5月29日、コンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。会場のアヤソフィア[注釈 5]でイスラム教の聖典『コーラン』を朗読したことに対して、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した[2]。トルコのエルドアン大統領は2020年7月10日、「世界遺産 イスタンブール歴史地区を代表する旧大聖堂アヤソフィアを再びイスラム教のモスク(礼拝所)とする大統領令に署名した」[3]。

滅亡の影響

大航海時代へ(15世紀中期 – 17世紀中期)

シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われ、その後制限が加えられたことから、ヨーロッパではコンスタンティノープルを経由しないルート開拓として大航海時代が始まった[4][5]。

ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリアの一地方都市へと転落して行く。彼の国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリア半島の新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。

宗教改革

キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それをイスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたという事は、結果として教皇の権威失墜を意味し、後の宗教改革への胎動の一つとなる。

諸国の変遷

東ローマ帝国への援軍に消極的だったバルカン半島諸国は、後にオスマン帝国に滅ぼされるか、ハプスブルク家の傘下になるかの何れかの道を辿り、本格的な独立を回復するのは20世紀になってからである。

東ローマ帝国地方政権の末路については「モレアス専制公領」「トレビゾンド帝国」を参照。

ロシア帝国、ドイツ帝国などの国家が第二のローマであるビザンツ帝国の後継者を自称し第三のローマを標榜した。

ルネサンス

コンスタンティノープル陥落前後には、多くのギリシャ人の学者・知識人が東ローマで保存・研究されてきた古代ギリシャ・ローマ時代の文献を携えて西欧へと亡命し、これがイタリア・ルネサンスに多大な影響を与えた[6]。

以上を踏まえ、この事件は単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点だった事になる[6][4]。

脚注
[脚注の使い方]

注釈

^ 1412年 - 1453年5月29日または6月7日。兄弟姉妹にスレイマン・チェレビ(1423年 - 1437年。1433年に姉ファーティマと共にカイロに避難)、ファーティマ・シェフザーデ(1422年 - 1455年7月にカイロで死去。フンド・シェフザーデとも。マムルーク朝のスルタン2人(アシュラフ・バルスバーイ(1437年5月に結婚。1438年に死別)とザーヒル・ジャクマク。ジャクマク(1439年に結婚。1449年3月26日に疫病で死去した4人の息子あり(長男アフメドは7歳で死去)。1450年12月25日に離婚)。サヒブ・アル=フジュジャブ・バルスバイ・ブジャシと3度目の結婚)の妻)とカディヤ。Harbour of Eleutheriusに住んでいた、メフメト2世の祖父メフメト1世の長兄スレイマン・チェレビ(英語版)(1377年 - 1411年2月17日。バヤズィト1世の次男。弟ムーサ―との戦いに敗れて殺された。

学者によっては彼を「スレイマン1世」と数え、オスマン帝国第10代スルタンを「スレイマン2世」としている。

なお、第20代スルタン(第10代スルタンの昆孫)も「スレイマン」であるが、この観点から見れば、「スレイマン3世」となる。2人の妻がおり、1人目はフュレーン・ハトゥン(1403年に結婚。ザビア・パレオロギナ(イザベラ)とその夫イラリオ・ドリアの娘)である。

母ザビアが東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの非嫡出子とはいえ娘である為、マヌエル2世パレオロゴスの孫娘の1人であり、パレオロゴス朝の血統に連なる。

2人目はデスピナ・ハトゥン(1404年に結婚。マヌエル2世パレオロゴスの弟テオドロス1世パレオロゴスが名前が知られていない愛人との間に儲けた庶子)である)の孫でメフメト2世の20歳年長の又従兄(はとこ)にあたる。

スレイマン・チェレビの長男シェフザーデ・オルハン・チェレビ(1395年 – 1429年。33歳~34歳没)とシェフザーデ・オルハン・チェレビの無名の妻(後に疎遠となり、1460年にカイロで死去)の息子で4人の息子(アリー・シャー、ジャハーン・シャー、ワリー・カーン、ブガ・カーン)の父親でもあった。

オルハン王子の祖父スレイマン・チェレビには長男オルハン・チェレビ以外にも子2人がおり、次男シェフザーデ・メフメドシャー(ムハンマドとも。生年不明 – 1421年12月30日没。オルハン王子の父シェフザーデ・オルハン・チェレビは叔父ムーサ―もしくは同じく叔父のメフメト1世によって盲目となり、目が見えなくなった)と長女パシャメレク・ハトゥン(マリカとも。生没年不明。サンジャル・ベイという男性と結婚。子女の有無も不明)である。

因みにスレイマン・チェレビの3人の子女はコンスタンティノープルで人質にとられた経歴を持つ。
^ この時の傷が元で陥落後に死亡。ヒオス島に埋葬される。コンスタンティノープル脱出の時期と状況については資料によって異なる。
^ しかし実際に目撃者がいても、この状況下で生きていられた可能性は低く、この逸話が事実であるか定かではない。

^ 「イスタンブール」という呼び名も当時から存在したが、オスマン語による正式名称は「コンスタンティニエ」であった。なお、公式に「イスタンブール」に改称されるのは1930年である。

^ キリスト教会からオスマン帝国によりモスクへ改修され、トルコ共和国が1935年に無宗教の博物館とした。

出典

^ 呉茂一・高津春繁(訳者代表)『世界名詩集大成 ①古代・中世編』平凡社、1960年、37-38頁が解説, 396-407頁が作品の訳、ともに梅田良忠による。
^ a b 世界文化遺産「アヤソフィア」宗教対立 揺れる融合の象徴/トルコ、モスクに戻す動き ギリシャ反発『朝日新聞』朝刊2020年6月14日(国際面)同日閲覧
^ 『中日新聞』2020年7月12日 国際面(11版4面)
^ a b “Byzantine-Ottoman Wars: Fall of Constantinople and spurring "age of discovery"”. 2020年12月26日閲覧。
^ “The Fall of Constantinople: A Turning Point in Modern History?”. 2020年12月26日閲覧。
^ a b “Fall of Constantinople”. Encyclopædia Britannica. 2020年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月2日閲覧。

関連書籍
「東ローマ帝国#参考文献」も参照

井上浩一『生き残った帝国 ビザンティン』講談社学術文庫、2008年(初刊:講談社現代新書、1990年)
塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫、改版2009年(初刊:新潮社、1983年)- 小説のため脚色がある。
鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年
野中恵子『寛容なる都 コンスタンティノープルとイスタンブール』春秋社、2008年
林佳世子『オスマン帝国 500年の平和』講談社〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫、2016年
スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』護雅夫訳、みすず書房、新装版1998年
ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国の最期』井上浩一訳、白水社、2013年

関連項目

イスタンブール
コンスタンティノープル
パレオロゴス王朝
フィレンツェ公会議
アヤソフィア

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、コンスタンティノープルの陥落に関連するメディアがあります。

コンスタンティノープルの陥落 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分) - flash作品 』

トルコ観光  コンスタンチノープル攻防戦 アヤソフィアの変遷

トルコ観光  コンスタンチノープル攻防戦 アヤソフィアの変遷 – 孤帆の遠影碧空に尽き
https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/b1948aa13de0253a925be93e661fce9b

『1日から8日までトルコを観光しています。
9月6日はイスタンブールに戻り、ボスポラス海峡のクルーズと、市内観光の前半。

イスタンブールはかつてコンスタンチノープルと呼ばれる東ローマ帝国の首都で、20回以上に及ぶ外敵の攻撃に対し、1204年の第四次十字軍による攻撃以外は鉄壁の城壁でこれを撃退してきましたが、1453年にオスマントルコのメフメト2世の攻撃によって遂に陥落し、東ローマ帝国は消滅しました。

この攻防戦で、守備側はガラタ塔付近の金角湾入り口を鉄鎖で海峡封鎖し、オスマン艦隊の金角湾侵入を阻止しましたが、これに対し、オスマントルコ軍は艦船を車輪付き台車に乗せて陸に引上げ、山越えして湾に収入させる奇策をとったとされます。

歴史上最も有名な攻防戦のひとつです。

【マルシアクラッチ: コンスタンチノープルの陥落 13 (calforniwa.blogspot.com) 】

↓ 画像左手前がガラタ橋  守備側はこの付近を鉄鎖で海上封鎖したのでしょう。
一方、メフメト2世は、画像右奥のガラタ塔の奥を「オスマン艦隊の山越え」させました。

*****アヤソフィア****
トルコ共和国のイスタンブールにあるモスク。2020年7月までは博物館であった。

元々は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルで建てられたキリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。

その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりイスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった。

トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館とし、それが2020年7月まで続いた。【ウィキペディア】
****************

上記のように宗教的変遷を経験してきた壮麗なアヤソフィアですが、2020年にエルドアン大統領が再びモスクとして利用することを決定。

入り口付近のキリスト教関連装飾は、礼拝時には白いカーテンで覆われるとか。

また中央祭壇上部の装飾もカーテンで覆われています。』

日本の製造業は凋落したのか?

日本の製造業は凋落したのか?部品や資本財から考える  Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/27850

『1990年代の初頭、世界の大都市の一番の目抜き通りに立てば、そこには日本製品の多様な広告があった。ところが、あれから30年、日本製品の広告は見えなくなってしまった。
(Thinkhubstudio/gettyimages)

 これは日本経済の凋落を表すのだという人が多いだろうが、家電製品などの耐久消費財で存在感を失っただけで、部品や資本財ではそうでないという人々もいる。そうであるかどうかをデータによって確かめていきたい。

日本の衰退か、そうではないのか

 以下の図は、日本の輸出入を商品特殊分類のうちの原料(燃料以外の原料)、鉱物性燃料、工業用化学品、金属製品、繊維原料、非電気機械(一般機械)、電気機械(コンピューター、携帯端末、半導体を含む)、輸送用機器、繊維製品、家庭用機器、家庭用電気機器(白物家電とテレビなど)、乗用車の輸出・輸入額を示したものである。

 上記のうち、非電気機械、電気機械、輸送用機器が資本財でこの3品目の合計が36.8兆円、その他の資本財を足して資本財合計では41.0兆円となる(以下の数字はすべて2021年の値)。日本の輸出総額は83.1兆円だから、日本の輸出額の半分ほどが資本財ということになる。

 上記の資本財およびそれ以外の品目の合計で輸出総額の78%、輸入総額の76%となるので、これらの品目の動きを見ることで日本の貿易が理解できるはずである。

 図1-1はこれらすべて品目の動きを示したものである。上位にある非電気機械16.4兆円、電気機械13.7兆円、工業用化学品9.8兆円、乗用車9.4兆円、輸送用機器6.8兆円、金属製品5.9兆円を主要輸出品6品目といって良いだろう。
写真を拡大

 一方、輸入を見ると、総額84.8兆円のうち、鉱物燃料17.0兆円が圧倒的で、以下、原料6.3兆円、工業用化学品9.4兆円、非電気機械7.7兆円、電気機械11.7兆円、金属製品3.9兆円となる。これらを主要輸出品6品目とする。』

『ここで着目すべきは、同じ品目のなかで輸出と輸入をしていることである。一部は繰り返しの数字になるが、非電気機械は16.4兆円の輸出とともに7.7兆円の輸入、電気機械は13.7兆円の輸出で11.7兆円の輸入、工業用化学品は9.8兆円の輸出で9.4兆円の輸入、金属製品は5.9兆円の輸出で3.9兆円の輸入をしている。

 ただし、乗用車は9.4兆円の輸出で1.3兆円の輸入、輸送用機器は6.8兆円の輸出で1.9兆円の輸入と、輸出に対する輸入の比率が低下する。もちろん、同じ品目といっても同じではなく、電気機械では資本財と部品を輸出して最終製品を輸入することが多いだろう。これを見ると、資本財においては大幅な輸出超過となっていることがわかる。

リーマン・ショックから回復できていない輸出

 図1-1と図1-2は輸出額と輸入額の相対的関係を見やすくするために縦軸の目盛りを同じにしている。しかし、そうすると、相対的関係を見るためには良いが、鉱物性燃料の金額が大きすぎてそれ以外のグラフがつぶれて見えにくくなる。そこで、鉱物性燃料を除いたグラフが、図2-1と図2-2である。

写真を拡大

 図2-1で顕著なのは、2009年のリーマン・ショックの落込みが大きく、その後の回復が遅いことである。リーマン・ショック以前のピークを上回ったのは工業用化学品だけである。

 リーマン・ショックによる需要減少とその後の円高で海外への生産移転が進んだということだろう。輸出総額でも2007年の83.9兆円を上回ってはいない。

 一方、輸入を見ると、主要6品目はいずれもリーマン・ショック前のピークを上回っている。総額でも2007年の73.1兆円を上回っている。特に、工業用化学品1.79倍、電気機械1.39倍と伸びている。なお、電気機械の2021年の増加は、アイフォンをはじめとする携帯端末の輸入増によるものである。』

『図3-1と図3-2は、主要輸出および輸入品6品目を除いたものである。輸出を見ると鉱物性燃料1兆円、原料1.4兆円、繊維原料0.7兆円であるが、繊維製品0.1兆円、家庭用電気機器0.15兆円、家庭用機器800億円とわずかなものとなっている。

写真を拡大

 輸入を見ると、繊維製品3.3兆円、輸送用機械1.9兆円、乗用車1.3兆円、家庭用電気機器1.1兆円、繊維原料0.5兆円、家庭用機器0.2兆円となっている。

日本経済はどこへ向かうべきか

 家庭用電気機器で見れば日本の凋落は甚だしい。しかし、部品や資本財の輸出ではまだ世界に伍している。家庭用電気機器の市場がそれほど大きくないことを考えれば、部品や資本財の生産に転換したのは正しかったのかもしれない。

 だが、世界の消費者にアピールする製品では、乗用車はまだ存在感を持っているものの、パソコンや携帯端末では凋落したままである。また、そもそも輸出の総額が増えていない。

 これは日本の国内総生産(GDP)も給料も増えないことと同じと解釈できよう。日本全体の停滞が、輸出でも生じているということである。』

トルコ・エルドアン大統領は親露と言うより反欧米とバルカン諸国

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:トルコ・エルドアン大統領は親露と言うより反欧米とバルカン諸国
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5369885.html

『(Aleksandar Vucic)
139583_srbistan_1662564327777欧米諸国はウクライナに質の低い兵器を供給している。NATO加盟国のトルコのエルドアン(Erdoğan)大統領が、セルビア共和国 Republic of Serbiaのアレクサンダル・ヴチッチ(Aleksandar Vucic)大統領との会談でこのような考えを示し、エルドアン大統領は2022年9月7日、親露、親中でEU加盟も模索するセルビアのアレクサンダル・ブチッチ大統領との会談後の記者会見で、「欧米諸国はウクライナに武器を送っていると言っている。彼らは持っている金属くずが何であれ、ウクライナに送っている」と述べた。

また、エルドアン氏は、欧米諸国のウクライナ政策は誤りであり、挑発を目的とした政策”provocation-based policy”だと指摘した。また、欧米諸国はロシアに挑発的な戦争を仕掛けている限り、成果を上げることはできない、ウクライナでの紛争がすぐに終わるとは思えないとの考えを示した。
Western-Balkans-mapthumbs_01、、、、

報じていいるのがロシアメディア・スプートニクであるので誇張はあるとしても、実際、エルドアン氏は以前から、ウクライナ戦争を語る中で幾度か反欧米的な発言をしてきている。参照記事 英文記事 

43f15c43セルビアの現在の民族主義政権は、これまで民族対立から軍事的対立をしたコソボ、ボスニア・ヘルツェゴビナなど他の周辺諸国との緊張関係を更に高めていると言われ、特に民族対立からセルビアから分裂したコソボとセルビアは、いつウクライナのような状態になっても不思議はないと言われ、すでにプーチン氏はバルカン半島Balkan Peninsula、バルカン諸国The Barkans で欧米との新たな戦線を開こうとし、NATO加盟国のコソボは、これに軍事的対抗を辞さない構えだと言われている。

参照記事、、、、、バルカン諸国とロシアに関係する国々を色枠すると、欧州、NATO諸国が抱える問題の大きさが見えてくる。 』

〔イタリア、関連情報〕

 ※ 地形図は、こんな感じ…。

イタリアの地方行政区画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E7%94%BB

 ※ 人口分布の様子…。

 ※ これは、ちょっと珍しい…。

 ※ 外国人比率を示す図だ…。

『本項ではイタリアの地方行政区画(イタリアのちほうぎょうせいくかく)の詳細をしめす。

イタリア共和国の行政区画は、基本的には 州 ― 県・大都市 ― コムーネという階層構造をとっている[1]。

2014年には「大都市、県、コムーネの連合および合併に関する規定」(Disposizioni sulle città metropolitane, sulle province, sulle unioni e fusioni di comuni) が制定され、2015年には県級の広域自治体として10の大都市(Città metropolitana)が発足するなど、行政区画の改編が進められつつある。
憲法上の規定

イタリア共和国憲法では第2部第5章に地方制度に関する規定があり、第114条は、

(1) 共和国は、コムーネ、県、大都市、州及び国によって構成される。
(2) コムーネ、県、大都市及び州は、憲法が定める原則に基づく固有の憲章、権限及び権能を有する自治団体である。
(3) ローマは、共和国の首都である。国の法律が、その制度について定める。

と規定している[2]。
地方自治体の階層

州(レジョーネ、Regione)はイタリアの第一級行政区画で、イタリア全土に20個ある。「地方」と訳されることもあるが、公選の首長 (presidente)・評議会 (giunta)・議会 (consiglio regionale) を持つ広域自治体である。

州には特別自治州[注釈 1] (regione autonoma a statuto speciale) と通常州[注釈 2] (regione a statuto ordinario) がある。

特別自治州は5つある。イタリア共和国憲法116条において特別な地位を持つと規定された州である。シチリア、サルデーニャ、トレンティーノ=アルト・アディジェ、ヴァッレ・ダオスタが1948年に、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州は1963年に成立した。特別自治州は一定の分野における独占的な立法権が認められる、それぞれの地域で徴税される国税のうち付加価値税を除いた税収配分を受けるなど(通常州よりも)大きな地方自治権を有する。通常州の制度は特別自治州よりも遅く、1972年に制定された。

最も面積の大きい州はシチリア州、人口の多い州はロンバルディア州。面積と人口ともにヴァッレ・ダオスタ州が最も少ない。 以下はイタリア各州とその州都の一覧である。
プッリャ州
バジリカータ州
カラブリア州
シチリア州
モリーゼ州
カンパニア州
アブルッツォ州
ラツィオ州
ウンブリア州
マルケ州
トスカーナ州
サルデーニャ州
エミリア=ロマーニャ州
リグーリア州
ピエモンテ州
フリウリ
ヴェネツィア・ジュリア州
ヴァッレ・ダオスタ州
トレンティーノ
アルト・アディジェ州
ヴェネト州
ロンバルディア州
アドリア海
イオニア海
地中海
ティレニア海
リグリア海

イタリア北西部
01. ピエモンテ州の旗 ピエモンテ州 – トリノ
02. ヴァッレ・ダオスタ州の旗 ヴァッレ・ダオスタ州(特別自治州) – アオスタ
03. リグーリア州の旗 リグーリア州 – ジェノヴァ
04. ロンバルディア州の旗 ロンバルディア州 – ミラノ
イタリア北東部
05. トレンティーノ=アルト・アディジェ州の旗 トレンティーノ=アルト・アディジェ州(特別自治州)- トレント
06. ヴェネト州の旗 ヴェネト州 – ヴェネツィア
07. フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の旗 フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州(特別自治州)- トリエステ
08. エミリア=ロマーニャ州の旗 エミリア=ロマーニャ州 – ボローニャ
イタリア中部
09. トスカーナ州の旗 トスカーナ州 – フィレンツェ
10. ウンブリア州の旗 ウンブリア州 – ペルージャ
11. マルケ州の旗 マルケ州 – アンコーナ
12. ラツィオ州の旗 ラツィオ州 – ローマ
イタリア南部
13. アブルッツォ州の旗 アブルッツォ州 – ラクイラ
14. モリーゼ州の旗 モリーゼ州 – カンポバッソ
15. カンパニア州の旗 カンパニア州 – ナポリ
16. プッリャ州の旗 プッリャ州 – バーリ
17. バジリカータ州の旗 バジリカータ州 – ポテンツァ
18. カラブリア州の旗 カラブリア州 – カタンザーロ
イタリア離島部
19. シチリアの旗 シチリア州(特別自治州) – パレルモ
20. サルデーニャの旗 サルデーニャ州(特別自治州) – カリャリ

県級行政区画
「イタリアの県の一覧」も参照

県および県相当の区画(第二級行政区画)は、107と数えられている。内訳は以下の通り。

県 (Provincia) :80
大都市 (Città metropolitana) :14
トレンティーノ=アルト・アディジェ州の自治県 (Province autonome) :2
シチリア州のコムーネ自治組合 (Libero consorzio comunale) :6
フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の旧県:4
ヴァッレ・ダオスタ州:1

県(プロヴィンチャ、Provincia)には公選制の議会と首長 (presidente)、首長によって任命される評議会(giunta)があり、このほかに政府(内務省)に任命された官選知事 (prefetto) もいる。県には中核となる都市 (Capoluogo di Provincia) があり、「県都」と訳される。県の名前は、県都の名がそのまま用いられている場合がほとんどである。
大都市
イタリアの大都市 (Città metropolitana)

大都市(Città metropolitana)は、2019年現在14ある。なお、自治体名 Città metropolitana di xxx の訳語としては 「○○大都市」[注釈 3]、 Città metropolitana di Roma Capitale の訳語としては 「首都ローマ大都市」[5]とする例がある。

イタリア共和国憲法に地方自治体の一種として規定されており[6]、地方自治統一法典では県と同等の権限を有すると規定されていたが[7]、長らく置かれていなかった。

2014年、「大都市、県、コムーネの連合および合併に関する規定」によって、県級の広域自治体として「大都市」の規定が行われた。2015年までに通常州管下でローマ県、ミラノ県、ナポリ県、トリノ県、バーリ県、フィレンツェ県、ボローニャ県、ジェノヴァ県、ヴェネツィア県、レッジョ・カラブリア県の10県が「大都市」に移行。シチリア州ではメッシーナ県、カターニア県、パレルモ県が2015年に「大都市」となり、サルデーニャ州では2016年にカリャリ県が「大都市」に改変された(この際、付近の広域自治体の再編も行われた)。

大都市の首長は大都市長(Sindaco metropolitano)と呼ばれる[注釈 4]。大都市長は、その中心都市の市長が兼任する(たとえば、ミラノ大都市長はミラノ市長が兼ねている)[3]。また、大都市議会は間接選挙制であり、大都市に含まれるコムーネの長およびコムーネ議員の互選によって議員が選ばれる[8]。
特別自治州の制度

特別自治州では、管下の行政区画についてそれぞれ異なる制度を有する。

ヴァッレ・ダオスタ州では、1948年に特別自治州の成立とともアオスタ県が廃止された。統計等では便宜上、州が県を兼ねるものとされている。

シチリア州には3つの大都市が置かれているほか、従来の県 (Provincia regionale) に代わるものとして6つのコムーネ自治組合[9](Libero consorzio comunale)が置かれている。

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州では2017年に自治体としての県が廃止された(選挙区の単位などの地理的呼称としては残された)。これに代わり、コムーネの連合体として18の Unione Territoriale Intercomunale が置かれている。
県級行政区画の沿革

県の数(ヴァッレ・ダオスタ州を県として含む)は1974年以来長らく95個であったが、1990年の地方自治法改正以後の地方分権化の中で増加し、2014年末には110となった。1990年代から2000年代までの新設県は以下の通り。

1992年 - ビエッラ県、クロトーネ県、レッコ県、ローディ県、プラート県、リミニ県、ヴェルバーノ・クジオ・オッソラ県、ヴィボ・ヴァレンツィア県
2005年 - オルビア=テンピオ県、オリアストラ県、カルボーニア=イグレージアス県、メディオ・カンピダーノ県
2009年 - モンツァ・エ・ブリアンツァ県、バルレッタ=アンドリア=トラーニ県、フェルモ県

サルデーニャ自治州では、県級行政区画の統廃合のプロセスが進められている。2016年2月に新たな行政区画の設置が行われたが、地方自治上は過渡期である(2016年9月現在)。新制度では、サルデーニャ州は下記の1大都市5県となる。

カリャリ県(大都市)
ヌーオロ県
オリスターノ県
サッサリ県
南サルデーニャ県(英語版、イタリア語版)

基礎自治体(コムーネ)
詳細は「コムーネ」を参照
基礎自治体以下の区画
ムニチーピオ
「ムニチーピオ(イタリア語版)」も参照
分離集落(フラツィオーネ)
詳細は「分離集落」を参照
脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ 特別州と訳されることもある
^ 普通州と訳されることもある
^ 「ミラノ大都市」[3]、「レッジョ・カラーブリア大都市」[4]。
^ Sindaco metropolitano di xxx の訳語としては「○○大都市長」とする例がある[3]。

出典

^ 芦田淳 2017, p. 30.
^ 芦田淳 2017, p. 41.
^ a b c 芦田淳 2006, p. 68.
^ 芦田淳 2017, p. 35.
^ 芦田淳 2017, p. 36.
^ 工藤裕子・森下昌浩・小黒一正「イタリアにおける国と地方の役割分担」p.86
^ 工藤・森下・小黒、p.86
^ 芦田淳 2006, pp. 68–68.
^ 芦田淳 2017, p. 29.

参考文献

(財)自治体国際化協会(編)『イタリアの地方自治』(PDF版)、2004年
中央大学法学部教授 工藤裕子 「イタリアにおける国と地方の関係」(PDF版)(財)自治体国際化協会 比較地方自治研究会)、2007年
工藤裕子・森下昌浩・小黒一正「イタリアにおける国と地方の役割分担」
芦田淳「日伊比較による地方自治の論点 ― 道州制導入論議を契機として (PDF) 」 『自治総研』第463号、2017年、 66-78頁、2019年2月9日閲覧。
芦田淳「イタリアにおける「大都市」設置等の地方団体の見直し―2014 年法律第56 号を中心に― (PDF) 」 『外国の立法』第274号、国立国会図書館調査及び立法考査局、2017年、2019年9月21日閲覧。』

ジョルジャ・メローニ

ジョルジャ・メローニ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B

 ※ 現在は、こんな感じのようだ…。

『ジョルジャ・メローニ(イタリア語: Giorgia Meloni、1977年1月15日 – )は イタリアの政治家。イタリアの同胞(FdI)代表。

無任所大臣(第3次ベルルスコーニ内閣)、下院副議長、下院議員(4期)、国民同盟(AN)及び自由の人民(PdL)党青年団書記長、イタリアの同胞(FdI)副代表などを歴任した。 』

『経歴

初期の経歴

1977年1月15日、イタリア共和国の首都ローマに生まれる。両親がそれぞれイタリア島嶼部出身(父はサルデーニャ島、母はシチリア島)という家庭に育っている。学生時代からネオ・ファシズムを掲げる極右政党のイタリア社会運動(MSI)を支持し、15歳の時にはMSIの党青年団「青年戦線」(Fronte della Gioventù)に入会して左翼民主主義者によるジュリアーノ・アマート政権への反政府運動で頭角を現した。1994年、MSIが国民同盟(AN)に再編されると党学生団「学生行動」(Azione Studentesca)に加わり、1996年から学生団の指導者となった。

アメリゴ・ヴェスプッチ寄宿学校を卒業後[2]、バーテンダーやウェイトレスとして働きながら政治活動に取り組んだ。1998年、ANのローマ県党支部で評議員に選出された。2000年、ANの党青年団「青年行動」(Azione Giovani)の全国指導者に就任、2004年から党青年団の書記長となった。

2006年4月4日、MSI時代に党青年団指導者から議員に推された経験を持つジャンフランコ・フィーニ書記長に引き立てられ、同年の総選挙にラツィオ州第1比例区から党公認で下院選に出馬、29歳の若さで初当選した。2007年、国民同盟とフォルツァ・イタリアが合流して結成された自由の人民(PdL)が設立されると、Pdlの党青年団「若きイタリア」の書記長に就任した[3]。

2008年、総選挙ではラツィオ州第2比例区で再選、第3次ベルルスコーニ政権が成立すると青年政策に関する無任所大臣に抜擢されて初入閣した。31歳での大臣就任はリソルジメント以来の最年少記録となっている[3]。2010年11月、青年層に向けた3億ユーロ相当の経済支援案を提示した。

イタリアの同胞

2012年、ベルルスコーニの汚職問題を契機にPdLから旧AN系議員が大量離脱する中、自身もPdLを離党した。離党後はマリオ・モンティ政権を支持したフィーニ派のイタリアのための未来と自由(FLI)には合流せず、4名の議員と政治グループとして「イタリアの同胞」(Fratelli d’Italia)を結党した。メローニはイニャツィオ・ラ・ルッサ(イタリア語版)元国防相のグループ「国民中道右翼」(Centrodestra Nazionale)と合流してイタリアの同胞・国民中道右翼(FdI–CN)を結党し、新党の副代表に就任した。

2013年、共和国議会総選挙では故郷のラツィオ州から北部のロンバルディア州第3比例区に選挙区を移し、下院議員として3期目を迎えた。FdI全体もチェントロ・デストラ(中道右派連合)(イタリア語版)に参加して約60万票を獲得して下院議員9名が当選した。2014年、ルッサの任期終了によって党代表を引き継ぎ、党名をイタリアの同胞・国民同盟(FdI-AN)に改称した。旧AN系・MSI系政党の再結集を図る意向を示し、党青年団「国家青年(英語版)(Gioventù Nazionale)」を設置するなど組織固めを進め、同年の欧州議会選挙では議席獲得は果たせなかったもののイタリア全土で約100万票を集めている。

2016年、右派連合からローマ市長候補に擁立されて予備選では約20%の支持を得て第3位候補となったが、妊娠中に出馬した事などが賛否を分けて右翼票を集めきれず、同じ女性政治家で五つ星運動に所属するヴィルジニア・ラッジに敗れた。2017年、マッテオ・レンツィ政権の総退陣に繋がった憲法改正投票に党と共に反対票を投じている。

2018年、共和国議会総選挙では党名をイタリアの同胞(FdI)に戻す事を発表した。本選挙では小選挙区制が復活した事からラツィオ州の第7小選挙区(ラティーナ県)に中道右派連合の公認を受けて出馬、約40%の票を得て当選した。下院議員33名・上院議員17名が選出されたFdIは議会の第5党となり、一度は空中分解状態に陥っていた旧国民同盟勢力を着実な組織運営で纏めなおし、イタリア社会運動時代の党勢にまで回復させている。選挙後に成立した五つ星運動と同盟による連立政権には加わらなかったものの、ポピュリズムと距離を取るベルルスコーニのフォルツァ・イタリアとも一線を画して閣外協力の姿勢を取った。

2019年、同年の欧州議会選ではFdIの得票が制限条項を上回って議席を獲得、地方選でもアブルッツォ州の州知事選で勝利を収めるなど躍進が続いた。同年、五つ星運動が民主党の左派連立が成立するとチェントロ・デストラ(中道右派連合)(イタリア語版)の所属政党と共に野党として活動した。

2020年、マッテオ・サルヴィーニ、シルヴィオ・ベルルスコーニらとアルフォンソ・ボナフェデ(英語版)法務相の再任に反対票を投じている。

2021年、欧州や南米の反左翼政党によるマドリード憲章(英語版)にFdI代表として署名した。

略歴

1977年:ローマで出生
1992年:イタリア社会運動に入党
1996年:アメリゴ・ヴェスプッチ寄宿学校卒業
2000年:国民同盟の結成に参加
2004年:国民同盟の青年団全国書記長に就任
2006年:下院議員に当選、下院副議長に選出
2007年:自由の人民の結成に党青年団書記長として参加
2008年:第3次ベルルスコーニ政権の無任所大臣として史上最年少で入閣
2012年:イタリアの同胞をイグナジオ・ラ・ルッサ元国防相と結党
2013年:下院議員に再選
2014年:イタリアの同胞第2代書記長に就任
2016年:ローマ市長選挙に立候補
2018年:下院議員に3選

出典

^ “Page on Meloni at Chamber of Deputies website (Italian).”. 2015年12月13日閲覧。
^ “Biografia del ministro Giorgia Meloni”, Governo italiano
^ a b “Giorgia Meloni”. Il Sole 24 Ore. (2013年2月8日) 』

イタリア初の女性首相候補メロー二氏 ファシストへの「決別」強調も欧米からは警戒感 総選挙まで1カ月

イタリア初の女性首相候補メロー二氏 ファシストへの「決別」強調も欧米からは警戒感 総選挙まで1カ月
https://www.tokyo-np.co.jp/article/196776

『2022年8月18日 19時38分

【パリ=谷悠己】ドラギ首相の辞任に伴うイタリア総選挙(9月25日)まで間もなく1カ月。世論調査では女性党首ジョルジャ・メローニ氏(45)率いる「イタリアの同胞」(FDI)など3党が軸の右派連合が支持率で他党派をリードし、初の女性首相が誕生するか注目されている。だが、同党は第2次世界大戦中にナチス・ドイツと協力したファシスト党の流れをくむことから、欧米各国では警戒感が強まっている。

ジョルジャ・メローニ氏(AP)

【関連記事】イタリアのドラギ首相が辞任 新たな政権は右派と連立か?対ロシアへの影響も

 伊調査機関デモポリスが12日に発表した政党別支持率によると、首位FDI(24.3%)とサルビーニ元内相率いる「同盟」(15.2%)、ベルルスコーニ元首相率いる「フォルツァ・イタリア」(6.8%)の右派3党が約46%を占める。左派勢は政党別2位の民主党(22.8%)とドラギ氏辞任のきっかけを作ったコンテ前首相率いる新興ポピュリズム政党「五つ星運動」(10.6%)が対立し、大きな対抗勢力をつくれていない。

◆物価高に苦しむ国民の不安吸収

 7月下旬の辞表提出後も暫定的に首相を継続するドラギ氏は上下両院ともに8割以上を占める大連立に支えられ、国際社会からの信頼も厚かったが、ロシアのウクライナ侵攻を背景にした物価高に苦しむ国民の政治不信は深刻化。主要政党で唯一の野党だったFDIがその不満を吸収する形で支持率を伸ばした。

 右派連合が最多得票の党からの首相選出で合意していることから次期首相の有力候補に目されるメローニ氏は、ローマの庶民街の母子家庭出身。第2次大戦後に誕生したネオファシスト政党「イタリア社会運動」の青年組織に15歳で加入し、29歳で同党の後継政党「国民同盟」から下院選に出馬し最年少女性議員になった。下院副議長やベルルスコーニ内閣の若者担当相を歴任し、解散した国民同盟出身者らが結成したFDIの党首を2014年から務める。

 かつて共感を語っていたファシストについては、今月中旬に英語、フランス語、スペイン語の3カ国語で交流サイトに投稿した動画で決別する姿勢を強調。右派連合の共通公約には移民抑制や自国優先主義などが並ぶ一方で欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)との連携も掲げられ、欧米社会から向けられている懸念の払拭に努めている。

 伊紙レプブリカはメローニ氏の経歴を特集した連載記事で「彼女が首相になってもファシスト主義者が閣僚になることはないかもしれないが、(仏極右政党の)マリーヌ・ルペン氏が仏大統領に就任することに近いだろう」と指摘している。

 <イタリア総選挙> 上下両院ともに任期は5年で来年に改選予定だったが、ドラギ首相辞任に伴いマッタレッラ大統領が両院を解散し前倒し総選挙を行うことを決めた。両院ともに小選挙区比例代表並立制で、定数は下院が630から400、上院が315から200に削減される。選挙後、各党代表との協議を経て大統領が首相を任命する。 』

欧州 インフレが試す民主主義

欧州 インフレが試す民主主義
欧州総局長 赤川省吾
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR082Y60Y2A900C2000000/

『インフレ抑制のため、欧州中央銀行(ECB)は8日の理事会で大幅利上げを決めた。物価高は通貨ユーロの信認を傷つけ、政治不信を膨らませる。近く行われるイタリア議会選は極右政党が第1党の勢い。ロシアのウクライナ侵攻という第2次大戦後最大の危機に直面するなか、記録的な物価上昇が欧州統合と民主主義を揺さぶりつつある。

足元のインフレ率が8%を超えるイタリア。9月25日の議会選を目前に控え、野党の極右政党・イタリアの同胞(FDI)が支持率25%でトップを走る。新型コロナウイルス対策の行動制限への不満が膨らんでいたところに物価高が重なり、政権批判票の受け皿となった。

子育て支援や年金増額、減税――。FDIを軸とする右派連合は、財政の大盤振る舞いで物価高を相殺すると公約する。実現すれば財政規律を守らせたい欧州連合(EU)とのあつれきは避けられない。南欧危機の再燃を懸念する金融市場では、イタリア国債の利回りが上昇(価格が下落)している。

インフレでダメージを被るのは年金で暮らす人や、不動産などの資産を持たぬ人だ。2022年4月の仏大統領選でも物価対策を訴えた極右ルペン氏が現職マクロン氏にあと一歩まで迫った。

欧州には苦い経験がある。超インフレに見舞われた1920年代のドイツで中産階級が没落。広がった社会不安を背景に勢力を伸ばしたナチスが欧州、そして世界を戦火に巻き込んだ。

100年前の再来はあるのか。「物価高を口実に極右勢力が反政府デモを動員しやすくなった」。ドイツのフェーザー内相は独メディアで警鐘を鳴らした。ショルツ独首相はインフレを社会の分断につながる「爆弾」と表現した。

気になるのは欧州の足並みの乱れだ。物価高の元凶であるエネルギー不安の解消に奔走するあまり、自国第一主義がちらつく。

ドイツは財政力にものをいわせて代替エネルギーを確保するが、資金力で劣る東欧諸国は取り残された。そのなかで親ロシアのハンガリーはロシア産ガスの輸入を増やす。

「(欧州の民主主義はロシアという)外からの脅威だけでなく、内なる脅威にもさらされている」。ウルフ元独大統領は日本経済新聞に語った。乗り切るには欧州各国が内向き志向を捨て、結束するしかない。

例えばスペインとフランスを結ぶパイプラインの建設などガスや電力を域内で融通できる体制づくりが急務となる。財政に余裕のある北部欧州が南欧や東欧を支えることも必要になるかもしれない。

過激主義が力を増せば欧州は民主主義陣営の「弱い輪」となりかねない。危機をばねに統合を深められるのか。戦争が欧州に選択を迫る。(欧州総局長 赤川省吾)』

シールズの訓練への嫌悪感

シールズの訓練への嫌悪感
https://st2019.site/?p=20246

『Sean Spoonts 記者による2022-9-7記事「New York Times Slams SEAL Training; “A Culture of Brutality, Cheating and Drugs”」。

 『NYT』紙の8-30のすっぱぬき記事。シールズの訓練への嫌悪感。

 水兵のカイル・ムーリンが「ヘル・ウィーク」とよばれるキツい水中訓練のあと、自室で目を醒まさなかった。その私有車を調べたらPED=パフォーマンス拡張剤 と注射器が発見された。要するにシールズ訓練生は覚醒剤モドキの薬物に頼って教程を乗り切ろうとしている実態があるようだ。

 事件後、教官の大尉が40名ほどの学生の血液を総チェックしたところ、海軍としては公式に使用を禁じているはずのステロイド剤やら、あやしいクスリを打っている者たちばかりであった、という。

 米海軍の公式見解。チート行為する奴は海軍には要らない。なぜならそのような隊員は、他のすべての物事について、同じように不実な了見をもって楽にごまかそうとするにきまっているので、軍として信用することができず、とても重要な特殊任務などは任せられない。』

朝鮮戦争中の空爆日記

朝鮮戦争中の空爆日記
https://st2019.site/?p=20246

 ※ こういうものが、「エアー・パワー」なるものの実態だ…。

 ※ 当時は、「目視」+「自由落下爆弾」の組み合わせだったからな…。

 ※ 「精密誘導」どころの、話しじゃ無かったわけだ…。

 ※ その進化・発展系が、「精密誘導爆弾」「精密誘導ミサイル」「高機動ミサイル発射砲(ハイマースなんかの類(たぐい)」なんかに、なるんだろう…。

 ※ 精密砲撃という点では、偵察ドローン+りゅう弾砲などの野砲のコンビネーションも、登場している…。

『A. Timothy Warnock 記者による2000-10-1記事「Air War Korea, 1950-53」。

  たとい制空権を握れたとしてもなお、敵国の鉄道を麻痺させることは至難であることを、朝鮮戦争中の空爆日記が、端的に教えてくれる。その網羅的な記述のごく一部を、以下に抜粋したい。

 1950-6-28、ソウルと38度線のあいだの鉄道を初爆撃。B-26により。
 芦屋から出撃した。1機はAAのため、着陸後、全員死亡。
 嘉手納のB-29は鉄橋を空爆。

 6-29、マックは、漢江の鉄橋を集中空爆しろと命令。
 ナパーム弾も初使用。
 ソウル駅も敵が占領していたので、爆撃。

 6-30、B-29による鉄橋爆撃。漢江北岸。

 8-10、元山の鉄道を爆撃。B-29で。

 8-19、ソウルの西の鉄橋に1000ポンド爆弾を54トン投下。B-29×9機で。
 ぜんぜん落橋しないので、ゴム紐でできてるんじゃないかと言われた。
 そこで艦上爆撃機×37機で追加空襲。翌日偵察したら、橋桁×2が落ちていた。

 1950年8月23日、「ラゾン」空対地ミサイルで平壌の西の鉄橋を狙ったが、誘導装置がWWII中のもので調子が悪すぎ、外れた。

 9月9日、北鮮軍は大邱から8マイルまで迫った(最東到達点)。この攻勢衝力を弱めるためと、仁川上陸の下ならしととして、ソウル北側の鉄道をB-29で集中爆撃。
 同時に、双発の中型爆撃機は、貨車操車場とポイント切替点を分担爆撃。

 9月22日夜、B-29が群山近くの鉄道線に沿って照明弾を落とし、その明かりを頼りにB-26が貨物列車を夜間空爆。

 1951-2月8日、B-29とB-26による総力を挙げた鉄道空爆。区間は、会寧(清津の北方の満洲国境の町)~元山。

 8月18日、「絞首」作戦の一環として北鮮全域の鉄道網を空爆。

 1951-9-23、全天の9割が雲に覆われていたにもかかわらず、B-29×8機により、順天鉄橋の中央橋桁を落とすことに成功。これはShoranという、地上の2局からの電波ビーコンを頼りにする航法を使った。今のGPSの代用のようなもの。

10月16日から17日にかけての夜、当月最大の空爆。鉄橋、操車場ほか。

 11月16日、空軍の戦闘爆撃機が平壌の北に位置する「新安州~粛川」区間と「清川江~順川」区間について合計100箇所以上の線路を寸断。

 11月18日、3機のF-84戦闘爆撃機が、新安州近くの鉄道線路を空爆する予定だったが、複数機のミグ15に邀撃されて、爆弾を投棄して逃げ戻った。

 12月21日、空軍は530ソーティを飛ばして、新安州と粛川を結ぶ鉄道を30箇所で寸断した。

 12月24日、新安州の鉄橋と、泰川の飛行場をB-29が空爆。

 1951-12-27、この月の最大規模の空爆。機関車、貨車などを狙った。

 1952-1-12から13にかけての夜、沖縄のB-29が、396発の500ポンド爆弾を、新安州の東の清川江にかかる鉄橋に落とし、この橋を使えなくした。

 1952-2-9、中型爆撃機×10機によるレーダー爆撃。100トンの500ポンド爆弾を、清洲鉄橋に投弾して、使えなくした。

 2月26日、煕川近くの鉄道橋にB-29が爆弾100トンを投下。橋桁×2を落とす。

 3月25日、空軍は959ソーティをしかけ、新安州と清洲を結ぶ鉄道線路を142箇所で寸断した。

 3月31日から4月1日にかけての夜、平安北道の郭山の鉄路などを爆撃した。

 5月26日から27日にかけての夜、また平安北道の鉄橋を爆撃。

 6月10日から11日にかけての夜、郭山の鉄橋を8機のB-29で爆撃。AAとミグにより2機が撃墜された。

 6月19日から20日にかけての夜、北鮮空爆。27機の中型爆撃機が、煕川の鉄橋を爆撃。

 6月24日から25日にかけての夜、まず26機のB-29で、北鮮にある、東西方向と南北方向の鉄路の結節点である「サムドンニ」駅を爆撃。すこし遅れてB-26も飛ばし、敵が修理しているところを攻撃させた。

 11月1日、戦闘攻撃機が、北鮮のヨンミドンの鉄橋を爆撃。

 11月4日、偵察写真により、ヨンミドンの3つの鉄橋は、機能していることが判明。さらに、バイパス鉄橋も2つ、完成していることが分かった。

 11月6日、ふたたびヨンミドンの鉄橋を、100機の戦闘攻撃機で爆撃した。そのさい、敵は5番目のバイパス橋を建設しはじめていることが分かった。

 1952-12月12日から13日にかけ、B-29×6機が、平壌郊外の鉄橋×4を落とした。それらは前に破壊していたのだが、復旧していたのである。

 1953年1月4日から5日にかけての夜。20機のB-29で、煕川の鉄道橋などを爆撃。

 1月9日から10日にかけて、17機のB-29が「ヨンミドン」の鉄橋などを爆撃。

 1月10日、ダメ押しの昼間空襲を、戦闘攻撃機が実施。鉄橋、鉄道線路、AAを狙った。

 1月10日から11日にかけての夜、B-29が宣川と安州の操車場を空爆したが、飛行機雲を頼りに照空灯を当てられ、それを目当てにミグによって1機が撃墜されてしまった。

 1月11日、爆撃評価の結果、ヨンミドンの鉄道は機能を停止していることが分かった。

 1月14日、昨夜のB-29空襲につづいて、戦闘攻撃機による空襲。新安州のAA、鉄道、橋を狙った。

 3月5日、シベリア国境に近い清津の工業地帯を16機のF-84で空襲したほか、合計700ソーティ。レールは寸断した。

 4月6日から7日にかけての夜、新安州の清江川にかかる、機能していた鉄橋を、3つ、B-29で爆撃。翌朝、戦闘攻撃機が、その損傷箇所にトラックが接近しようとするのを斥けた。

 4月15日、共産軍は、亀城からクヌリ、シンビョンニに至る75マイルの鉄道を新設した。70日かからずに竣工させた。これによってそれまで米空軍が遮断していた鉄道輸送路がバイパスされることになった。

 5月16日。チャサンのダムを空襲破壊。これにより3つの鉄橋が流された。

 7月10日。戦闘爆撃機によって新安州とヨンミドンの鉄橋を爆撃。

 1953-7月10日から11日にかけての夜、B-29がヨンミドンの鉄橋を爆撃。』

ロシアは極東ヴォストーク演習の裏でこっそりと、中共軍の戦闘機をリースしたいという交渉を持ちかけているのではないか…。

ロシアは極東ヴォストーク演習の裏でこっそりと、中共軍の戦闘機をリースしたいという交渉を持ちかけているのではないか…。
https://st2019.site/?p=20246

『Boyko Nikolov 記者による2022-9-8記事「Chinese fighters over Ukraine? Many downed and burned Sukhois」。

 ロシアは極東ヴォストーク演習の裏でこっそりと、中共軍の戦闘機をリースしたいという交渉を持ちかけているのではないか、と、ジャーナリストの Peter Suciu が書いている。

 ウクライナ軍の「Buk-M1」の大隊長の証言。SAMを発射する前に照準レーダーを当てただけで、露軍の戦闘機パイロットがあわてて急機動を試み、コントロールを失って、パイロットはベイルアウトし、機体はクラッシュしたことあり。この1機を含めてじぶんの大隊のみでもすでに露軍戦闘機を11機、落としている、と。』

F-35のエンジンスターターには「サマリウム・コバルト磁石」が使われている…。

F-35のエンジンスターターには「サマリウム・コバルト磁石」が使われている…。
https://st2019.site/?p=20246

『中共にレアアースを依存してきたツケが回ってきて、納品がストップしているという。ハネウェルのスターターは発電機も兼ねている。

 コバルトとサマリウムの合金そのものは米本土で加工されているのだが、そのもとの素材が支那からの輸入。』

現実世界で高まる庶民の怒りを無視して机上の空論を実現しようとする西側支配層

現実世界で高まる庶民の怒りを無視して机上の空論を実現しようとする西側支配層 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202209090000/

『世界的にインフレが進んでいる。特にエネルギー資源の相場高騰が深刻で、人びとの不満が高まっている。プラハのベンツェスラウス広場では9月3日に早期の選挙を求める集会が開かれ、警察の推計によると、約7万人が集まった。9月25日までに内閣が退陣しないなら、抵抗権の行使を宣言するとしている。

 そのプラハでは8月31日から9月2日にかけて「​フォーラム2000​」の会議が開かれた。主要パートナーのひとつ、アメリカのNED(ナショナル民主主義基金)はCIAが工作資金を流すシステムの一部で、ここから資金はNDI、IRI、CIPE、国際労働連帯アメリカン・センターなどを介して工作のターゲットへ流れていく。

 その会合で​ドイツのアンナレーナ・ベアボック外相は「ドイツの有権者がどのように考えようとも、私はウクライナの人々を支援する」と発言​した。民意など「糞食らえ」だということだが、プラハでの抗議活動を無視できないだろう。

 プラハでそうした集会が開かれた最大の理由はエネルギー価格の高騰にある。この高騰はアメリカ政府が仕掛けているロシアに対する経済戦争によって引き起こされていることを理解しているようで、ウクライナでの戦争で中立を宣言し、ウクライナからの難民流入を止めることを要求していた。相場の高騰はアメリカ政府が進めている対ロシア戦争に悪い影響を与え始めたと言える。

 ​アメリカ政府の命令で西側諸国がロシアからの石油や天然ガスの輸入を削減する前、こうした国々はそれらを大量に輸入していた​ようで、その間は値上がりして当然だが、その時期が過ぎれば下がらなければおかしい。

 また、WHO(世界保健機関)が「パンデミック」を宣言した2020年3月11日から世界はロックダウンや「自粛」などで人の行動が制限され、経済活動は麻痺した。大企業は儲かったようだが、社会的に弱い立場の人びとは大きなダメージを受け、中小企業や個人経営の店は経営が悪化して倒産が増え、必然的に失業者やホームレス、そして自殺者が増えた。そうした状態が続いている。エネルギーの使用量も減ったはず。

 相場は先物取引で引き上げられていると言われている。アメリカやイギリスの金融資本は1970年代から規制緩和で投機市場を肥大化させる準備を進め、「カジノ経済」を生み出した。

 かつて世界は「オイル・ショック」で揺れた。1973年にOPEC(石油輸出国機構)が石油価格を大幅に引き上げたのだが、サウジアラビア国王の腹心で石油鉱物資源相を務めたシェイク・ヤマニによると、この値上げを決めたのはアメリカ。

 ​その年の5月にスウェーデンで開かれた「秘密会議」でアメリカとイギリスの代表が原油価格を400%値上げするように要求した​のだ。この会議は1973年5月11日から13日にかけてスウェーデンで開かれたビルダーバーグ・グループの会合だったことが後に判明する。競争原理で相場が決まるわけではない。

 ロシアのガスプロムはこれまで天然ガスを長期契約に基づき、安定した価格で供給していたが、​天然ガス市場でも投機が大きな影響力を持つようになった​。そうした流れは2010年頃から本格化したという。現在、エネルギー相場も投機市場が主導している。ここにきて石油や天然ガスの相場が下がっているが、そうすることも難しくはない。

 しかし、投機市場も現物の需給関係を無視することはできない。​欧米は事前に石油のストックを増やしていた​ようだが、ロシア産の石油や天然ガスの供給が止まり続けたなら現物が枯渇し、投機市場の操作も難しくなるだろう。ロシア産天然ガスのEUへの輸送を妨害しているのはアメリカやその従属国だ。

 ガスプロムは「ノードストリーム1」による輸送を8月31日から完全に停止させたが、修理のために取り外してカナダへ送ったコンプレッサーの装置がアメリカ政府の「制裁」で戻ってこないからだとされている。9月5日、クレムリンの広報官を務めるドミトリ・ペスコフはアメリカが「制裁」をやめるまで輸送を止めている技術的な問題は続くと述べたが、​ウラジミル・プーチン大統領は9月7日、タービンが戻ってくれは明日にでも輸送を再開できると語った​。

 問題を引き起こしているのは欧米だと主張したわけだ。その欧米ではベアボック独外相やリズ・トラス英首相らが民意を無視して強行突破しようとしているが、成功するようには思えない。』

エリザベス女王、変革期の英国で存在感 最長在位70年

エリザベス女王、変革期の英国で存在感 最長在位70年
英フィナンシャル・タイムズ前編集長 ライオネル・バーバー氏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB091Q00Z00C22A9000000/

 ※ 虹が二本、かかったそうだぞ…。(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220909/k10013810241000.html『女王の死去が発表される直前の8日午後、ロンドンにあるバッキンガム宮殿の上空には2つの虹がかかりました。』)

『英国の女王エリザベス2世が8日、滞在先の英北部スコットランドのバルモラル城で死去した。96歳だった。分断と経済混乱の時代で、英国の国家としての連続性を象徴した唯一無二の存在だった。

在位は70年余りで高祖母のビクトリア女王を超え、英国の君主として最長だった。長男のチャールズ皇太子が新国王に即位した。

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ほかの国王の時代を生きたことがない多数の英国民にとって、女王は安心をもたらす存在だった。第2次世界大戦期と現代との最後のつながりの一つでもあった。チャーチル元首相と同じく、消えることのない足跡を英国史に残した。

体力が衰え、背中の曲がった女王は今週、最後の公務としてリズ・トラス氏を招き、新首相に任命した。首相任命はロンドンのバッキンガム宮殿で実施されるのが伝統だったが、医師団の進言でバルモラル城に変更された。不吉な予兆ではあった。

1952年2月に25歳で即位した女王にとって、トラス氏は自身に仕えた15人目の首相となった。チャーチル、マクミラン、サッチャー、ブレア、キャメロン、ジョンソンの各氏など、首相が入れ替わる一方、唯一変わらないのがエリザベス2世だった。

スコットランド独立に反対する姿勢をのぞかせはしたが、これを例外として、政治を巡る考えは胸の内にしまっていた。英王室ジャーナリストのクライブ・アービング氏の言葉を借りれば、ほとんど不可知な存在であり続けた。それが権威の源泉だった。

BBCとともに、王室は英国のソフトパワーの2本柱を形成する。エリザベス2世は70年間にわたり、英国の顔であり、英連邦を率いた。英連邦に自発的に加盟する56カ国の多くは、かつて大英帝国が支配した。

英王室の威光は薄れたが、いまも思わぬ場所で威厳をみせている。女王の生涯を描いた米動画配信大手ネットフリックスのドラマシリーズ「ザ・クラウン」の大ヒットだけが理由ではない。

中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は2015年、国賓として英国を訪問した際、王室馬車に女王と同乗したがった。馬車はダイヤモンドとサファイアで飾り、ニュートンにひらめきを与えたリンゴの木の一部を車体に用いるなど、英国の歴史を凝縮していた。

エリザベス2世は、趣味である馬の飼育と競馬を通じ、アラブ諸国の君主らと特別な関係を築いた。その一人がアラブ首長国連邦(UAE)を構成するドバイ首長国の独裁的な指導者、ムハンマド首長だ。首長は女王のお気に入りである英国のニューマーケット競馬場を頻繁に訪れていた。

女王は時に、荘厳な儀礼の世界から踏み出し、英国の政治に欠かせない役割を担った。最たる例が11年のダブリン訪問だ。英君主として100年ぶりにアイルランドを訪れたのだ。

英領北アイルランドで数十年にわたった流血の紛争に終止符を打つ「ベルファスト合意」を補強するため、当時のキャメロン英首相が女王に訪問を求めた。

1979年にはカトリック系の過激派、アイルランド共和軍(IRA)が女王のいとこのマウントバッテン卿を暗殺する事件があった。それでも女王は、アイルランドにおける過去の英国の行為を公式に謝罪する芯の強さを見せた。それだけではない。その後、IRAの指導者を務めたマーティン・マクギネス氏と握手をしてみせた。

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・世界が愛した「英国の母」 ミラノ・NYからも弔意

女王は歴代の首相と内閣の「知恵袋」だった。その政治感覚にほとんど狂いはなかったが、例外は1997年、チャールズ皇太子(当時)のダイアナ元妃が亡くなった際の対応だった。国民に広がる悲しみに、王室はなかなか反応しなかった。しびれをきらしたブレア首相(当時)が「国民のプリンセス」に哀悼の意を表し、王室はようやく後に続いた。

英王室の将来への疑念が生じる事態は避けられない。実際には最近、皇太子だったチャールズ新国王へ公務の移譲が進められていた。新国王は、国民の税金でぜいたくな暮らしをするメンバーを減らす王室の「縮小」を約束してきた。

まず対象になったのが、女王のお気に入りの息子と言われていたアンドルー王子だ。女王自ら、21年に軍籍を剥奪し、王室からの支援を取りやめた。王子は、児童買春の罪で起訴された米富豪、故ジェフリー・エプスタイン元被告との関係を巡るスキャンダルに巻き込まれていた。

さらに、女王の孫のヘンリー王子とメーガン妃が称号を返上し、米カリフォルニア州に移住した。2人は王室内の人種差別について告発していた。ヘンリー王子はこの一件で、新国王に次いで王位継承順位が第2位だった兄のウィリアム王子との亀裂を深めた。

王室内の軋轢(あつれき)が女王のストレスになっていた事実は疑いようがない。政界の緊張も女王の負担になった。英国の欧州連合(EU)からの離脱の是非を問う16年の国民投票の後、激しい政治上の対立が起きた。それからの6年間で4人の首相が官邸の主になった。

トラス氏を新首相に任命したバルモラル城での最後の公務は、国内の分断を越え、幅広い敬意を女王にもたらした無私の義務感を物語っていた。女王の逝去は、巨大な空白を残した。
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滝田洋一
日本経済新聞社 特任編集委員
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ひとこと解説

コロナに襲われロックダウン(都市封鎖)となった2020年春。自宅待機を余儀なくされ、不満を募らせた英国の人々に寄り添い、女王は「私たちは再会できるでしょう(We’ll meet again.)」と励まされました。第2次世界大戦を想起して国難に立ち向かうよう、静かに訴えたのです。FTは女王の存在を「危機の時代の団結を体現した(acting as a unifying figure at times of crisis)」と振り返ります。英国民は名状し難い喪失感に襲われていることでしょう。でも新国王の下で立派に国難に立ち向かうところを見せてください。直面する難局は我々も同じなのですから。(再掲)
2022年9月9日 7:02 (2022年9月9日 15:27更新)

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菅野幹雄
日本経済新聞社 上級論説委員/編集委員
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分析・考察

トラス新首相を任命してわずか2日後の逝去とは、本当に驚きです。まだ元気そうな表情の写真が報じられましたが、文字通り最後の最後まで英国民のために公務に力を振り絞っていたのですね。英国は喪失感とともに、亡き女王への深い尊敬の念を改めて感じているのではないでしょうか。

70年という信じられない長期にわたり、英国と世界の戦後を見届けた女王陛下にも浮き沈みがありました。ダイアナ妃の件で批判が高まり、王室内での様々な波乱も人々の記憶に刻まれています。それでも深い慈愛で英国民に寄り添い続け、高い人気を回復した。その貢献はかけがえのない女王の遺産です。安らかに天に召されるよう、お祈りしたいです。(再掲)
2022年9月9日 5:18 (2022年9月9日 15:31更新)

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高橋徹
日本経済新聞社 編集委員・論説委員
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分析・考察

2016年に逝去したタイのプミポン前国王(70年4カ月)の在位期間を3カ月前に抜いたばかりです。トラス新首相任命時の元気そうな様子から、フランスのルイ14世(72年3カ月余り)をも抜いて史上最長を更新するものと思い込んでいました。

本来、ある種の特権的な一族・人物を奉る君主制度と、すべての人間を平等とする民主主義制度は相いれないはずです。そこに議院内閣制を導入し、民意次第で権力の所在が移ろう政党政治家とは別に、永続性の高い王室が国民の象徴として振る舞う体制は、国家のダイナミズムと安定を両立させる「発明」でした。エリザベス女王はまさにその体現者でした。
心からご冥福をお祈りします。(再掲)
2022年9月9日 6:40 (2022年9月9日 15:28更新)』