天正壬午の乱

天正壬午の乱
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天正壬午の乱(1/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱
https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/166/

 ※ 『天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。』…。

 ※ ということだったが、「本能寺の変」勃発で、肝心の信長が死んじまったものだから、まず、その部下たち(名だたる信長の軍団長クラス)が「どうするのか、どう動くのか」という話しとなった。

 ※ それだけでなく、ここ信濃、上野(こうずけ)、越後は有力大名(徳川、北条、上杉、背後の常陸(ひたち)には佐竹)がひしめいていたんで、大名間の争いも勃発した。
 ※ さらには、稀代の戦略・軍略家である真田昌幸の所領もあったんで、その動向も無視できない…。

 ※ そういう諸勢力、諸武将間で(支配を嫌った農民の”一揆”も起きた)「信長亡きあと」の所領争いの争乱…、という話しのようだ…。

『天正10年(1582年)6月、「本能寺の変」で信長が討たれた後の混乱に乗じて起こったのが「天正壬午の乱」です。信長が治めていた旧武田領を徳川家、上杉家、北条家が3つ巴になって争うなか、旧武田領で信長に臣従していた真田家をはじめとした国人衆も自領を守るため参戦します。広範囲にわたって数度の戦いが発生しており、各武将の思惑が入り乱れているためわかりにくい戦いですが、今回はなるべく時系列に沿って解説します。
天正壬午の乱とは?

天正壬午(※ てんしょうじんご)の乱は、天正10年(1582年)6月から10月にかけて、旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)を徳川家・上杉家・北条家が争った合戦の総称です。それぞれ現在の山梨県・長野県・群馬県にあたります。3国を中心に各地で戦が起こっており、登場する武将も有名な人物が多いことが特徴です。

3家のうち徳川家は徳川家康、上杉家は上杉景勝、北条家は北条氏政と息子の氏直が中心となって戦っています。そして、乱の最中に自領を守りつつ勢力を拡大するため、上杉家→北条家→徳川家と次々と主君を変えていったのが、真田幸村(真田信繁)の父である真田昌幸です。

天正壬午の乱は同時期に各国で合戦が起きているため、少しわかりにくくなっています。まずは各家の動きについて大まかに押さえておきましょう。

織田信長の死後の混乱に乗じて、旧武田領の国衆が一揆をおこして織田家家臣を追い出す
上野国を北条家が奪取
信濃国を巡って上杉家と北条家が争うも、信濃北部4郡を上杉家が確保する形で講和
信濃国・甲斐国を巡って北条家と徳川家が争い、徳川家が2国を得る形で講和

結局徳川家が旧武田領で勢力を大きく伸ばすことになったことがわかると思います。では、なぜそうなったのでしょうか?詳しく見ていきます。

武田家滅亡後の旧武田領

天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。主な区分けは以下の通りです。

【信濃国】
川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を森長可

小県郡、佐久郡を滝川一益

木曾郡(本領安堵)と安曇郡・筑摩郡を木曾義昌

信濃諏訪郡を河尻秀隆

伊那郡を毛利長秀

【上野国】
滝川一益

【甲斐国】
河尻秀隆(穴山梅雪の河内領以外)

【駿河国】
徳川家康

滝川一益や河尻秀隆は2回名前が出てきますが、国をまたいで隣接した領地を得ています。
ちなみにこのとき真田家は旧領の一部を与えられた上で滝川一益の配下に入っています。

本来であれば、甲州征伐で信長に協力して出兵した北条氏政にも所領を与えられるはずなのですが、結局何ももらえず不満を募らせる結果となりました。

「本能寺の変」発生、旧武田領から織田家家臣が追い出される

甲州征伐の終了から3ヶ月後の天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれると、数日のうちにその情報は周囲に伝わり、旧武田領を治めていた織田家家臣たちは大混乱に陥りました。統治し始めたばかりの領地は完全に掌握できているわけがなく、国衆たちの反乱がおきる可能性があったからです。さらに、旧武田領の周囲には上杉家の治める越後国(新潟県)と北条家の治める相模国(神奈川県)があり、混乱に乗じて攻めてくるかもしれません。旧武田領は内にも外にも問題が多い「内憂外患」の状態にあったわけです。

そして織田家家臣たちの懸念通り、本能寺の変の知らせを受けて各国衆たちが動き始めます。6月12日には上野国で滝川一益の部下だった沼須城主の藤田信吉が離反し、一益の甥である滝川益重のいる沼田城を攻めます。一益の援軍もあり沼田城は持ちこたえ、信吉は上杉家に亡命しました。

ちなみに、このころ旧武田領を治めていた他の織田家家臣たちはどうしていたかというと、旧武田家家臣たちによる一揆をきっかけに撤退しています。当時越後に侵攻中だった森長可は本能寺の変を知るやいなや越後から撤退します。その後、配下から裏切り者が多く出たこと、一揆が発生したことなどから旧武田領から美濃に逃げ帰りました。

毛利長秀も一揆に追い立てられ尾張に戻ります。一方、河尻秀隆は甲斐国人衆の一揆を契機に旧武田領から逃げ延びようとするも、6月18日に一揆衆により殺害されています。

【上野国】滝川一益vs北条家

滝川一益に話を戻します。滝川一益は6月11日、本能寺の変を知った北条氏政から、引き続き織田家に忠誠を誓い続けることを伝えました。当時、北条家は織田家と同盟関係にあったので当然と言えば当然の行いですが、氏政はその舌の根の乾かぬうちに、氏直と共にすぐに一益に向けて出兵。6月16日から19日にかけて「神流川の戦い」が起こります。

上野国と武蔵国の国境近くで発生したこの戦い、滝川軍は1万8000だったのに対し、北条軍は5万と、数の上では北条軍が圧倒的に有利でした。このため、滝川軍は6月18日の初戦では北条軍に勝利しましたが、兵力差や地元の国衆の協力があまり得られなかったことなどにより、翌19日には北条軍に壊滅させられてしまいます。

一益は必死に逃げ延び、倉賀野城を経て厩橋城に退却。箕輪城に移り地元の国衆との別れの宴を開いたのち、碓氷峠を抜けて小諸城に到着します。なお、沼田城はこのとき、一益の部下の真田昌幸に還されています。その後、木曽谷を通過して清洲城に入ったのち、7月に伊勢の長島城に戻りました。

なお、清洲城では6月27日に織田家の後継者を選ぶための「清洲会議」が行われています。「織田四天王」とも称され、一時は豊臣秀吉をしのぐ権勢を誇っていた一益も本来は会議に参加するはずでしたが、対北条戦で間に合いませんでした。この後、一益の力は急速に衰えていくことになります。

上杉景勝、北信濃に出陣

一方、上杉景勝は6月中旬には本能寺の変発生を知り、北信濃の川中島攻略に乗り出します。本能寺の変直前には、柴田勝家率いる織田軍に攻められたことで危機的状況に陥っていました(魚津城の戦い)。これは上杉謙信の後継者争いの「御館の乱」の際に味方をしてくれた新出田重家と恩賞でもめたことが原因で、重家が織田信長と通じて離反したことから起きた戦いです。戦いにより魚津城は落城し、勝家は森長可、滝川一益とともに春日山城に進軍していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて撤退しています。』

『撤退を知った景勝はすぐさま北信濃に出陣します。森長可が去った海津城を占拠し入城したほか、上杉家で匿っていた信濃守護職一門だった小笠原洞雪斎を擁立し、木曾義昌のいる深志城を攻めて義昌を追い出しました。このとき、真田昌幸は景勝に臣従し、深志城に行く途中にある城の城主たちを調略するなど活躍しています。

【信濃国】上杉景勝vs北条家

上杉景勝が信濃を攻めるなか、北条家も信濃をわがものにしようと南から侵攻してきます。氏政の弟の北条氏邦は上野国の沼田城を奪い、昌幸のいた岩櫃城と沼田城を分断しようと間に城を作り、昌幸を苦しめます。結局上杉に臣従してわずか半月後の7月9日には、昌幸は上杉家から北条家に寝返ることになりました。

北条家は上野国をほぼ制圧した後、碓氷峠を越えて信濃国衆を味方につけ、佐久郡を平定します。佐久郡の小諸城には当時徳川方の依田信蕃がいましたが、北条家に攻められて小諸城から逃げ出しています。その後、上杉家に追いやられた木曾義昌も北条軍に加わりました。

南下する上杉軍と北西に進む北条軍。両者は7月14日、川中島の千曲川で対峙することになります。

決戦か、と思いきやここにきて存在感を出してきたのが徳川家康です。南からだんだんと信濃国に侵攻し、北条家が獲得した領地に迫ります。領地が近い家康との対峙を選択した北条氏直は、挟撃を恐れて上杉軍と講和することを決意しました。

一方の上杉景勝は、新出田重家の謀反の直後での信濃攻めです。本能寺の変をきっかけに一度は落ち着いた重家との合戦はいつ再燃するかもわかりません。早々に重家と決着をつけて自領を落ち着かせたいところです。

こうした両者の思惑が一致したことで7月29日には和睦の合意がなされました。和睦の結果、上杉家は信濃北部4郡を所領するとともに、川中島以南には出兵しないことになりました。後ろから攻めたてられることのなくなった北条家は甲斐国を得ようと家康との戦いに挑みます。

【信濃・甲斐国】徳川家康vs北条家

さて、これまで徳川家康の話が出てきませんでしたが、家康は本能寺の変の後、どのように天正壬午の乱にからんでいったのでしょうか。

本能寺の変が発生したとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの少人数の家臣たちと堺(大阪)を見物中でした。本能寺の変の同日に知らせを受けとった家康は、光秀から命を狙われる可能性があるため急いで自領の三河国(静岡県)に戻ろうと出発します。伊賀を通過して海を渡り、6月4日に三河国に到着しました(神君伊賀越え)。そして、光秀の討伐準備に合わせ、空白状態となった甲斐と信濃の攻略の準備も開始します。6月10日には甲斐国の河尻秀隆に美濃へ戻るよう使者を派遣しました。

家康は6月14日に光秀討伐軍を率いて出発しますが、翌日光秀の死を聞き、真偽を確認した後に21日に浜松城に引き返しました。その後、家康は本格的に甲斐国と信濃国攻略に注力します。

まず家康がしたことは、甲斐と信濃の国人衆たちを取り込むこと。地元で力を持つ彼らを味方につけるとともに、甲州征伐の際に匿っていた依田信蕃など旧武田家家臣たちも自軍に取り込みます。一方で酒井忠次や奥平信昌に南信濃の平定を任せつつ、7月9日には甲府城に入りました。

その後、諏訪郡を取り込もうと高島城の諏訪頼忠を説得しますが失敗します。さらに、深志城では小笠原貞慶が酒井忠次・奥平信昌との対立を理由に北条家に寝返ってしまい、信濃攻略はなかなか進みません。

そうこうしているうちに北条軍が甲斐方面に南下し始めてきたため、家康は対北条対策として甲斐国の新府城に入城しました。一方の北条氏直率いる北条軍は若神子城に入ります。両者は80日間対峙しました。

さらに、北条軍は駿河国や武蔵国方面から別動隊を動かして家康を背後から襲おうと計画します。8月12日には北条氏忠と徳川方の鳥居元忠、平岩新吉が甲斐国の黒駒で戦います。北条1万対徳川2000と北条軍が有利のようでしたが、蓋を開けてみれば徳川軍が勝利。この戦いをきっかけに、北条軍を見限る武将が出始めました。家康は北条方だった木曾義昌を味方につけることに成功。そして、9月には真田昌幸の引き込みに成功します。

戦のキーマン、真田昌幸

実は徳川軍は信濃国攻めの際に兵糧不足に悩まされており、真田昌幸を味方につけることで兵糧を得ようとしていました。家康から直接書状を渡したり、昌幸ゆかりの人物に取りもってもらったりと、相当力を入れて勧誘した様子がうかがえます。家康は昌幸に対し、現在の支配地域に加え、上野国の箕輪と甲斐国内の2000貫文の土地、信濃国の諏訪郡を与えることを明記した宛行状を発行しています。

昌幸としては、もともと北条家から沼田城を得る予定だったところ、北条家が「沼田城は北条のもの」と公言したことで、北条家に不信感を抱いていました。沼田城は西上野の地にあり、3つの川に囲まれた台地を利用した崖城で、越後と北関東、北信濃を結ぶ軍事上の重要拠点で、昌幸としてはぜひ押さえたい所です。

こうして昌幸は徳川家に寝返り、信濃国にいた依田信蕃に兵糧を提供。さらに沼田城を北条家から取り戻します。北条家は沼田城を取り返そうと攻めますが、真田軍の激しい抵抗でかないませんでした。

さらに、10月には依田信蕃が信濃国の小諸城を攻めて大道寺政繁を駆逐したほか、佐久郡の内山城を奪取。加えて昌幸と碓氷峠を占領します。こうした動きの結果、北条軍は補給路を絶たれてしまいます。深志城も徳川方が奪還しており、北条家は信濃で窮地に立たされます。

戦局を打開しようとするも、常陸国(茨城県)の佐竹義重が関東で行動を活発化させており、北条方の館林城を攻撃してきました。危機感を募らせた氏直は講和を決意します。

こうした背景もあり、10月29日に織田信長の次男の織田信雄が仲介人を務める形で北条・徳川は講和します。これにより、甲斐国と信濃国は徳川家が支配することが決定しました。上野国は北条家の切り取り次第とし、沼田城は真田昌幸から北条方に返すことになりました。さらに、和睦の条件として氏直と家康の次女の督姫が結婚しています。

この和睦は真田家と徳川家の争いのきっかけになりました。そもそも徳川方に下る際、沼田城は真田家のものになるはずでした。このため、昌幸は沼田城の引き渡しを拒否。徳川家から離反して上杉家に従属しました。これにより天正13年(1585年)第1次上田城の戦いが起こり、以後も両家の対立は続いていくことになるのでした。

執筆者 栗本 奈央子(ライター) 

元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。』

天正壬午の乱。② | かをるんのブログ
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天正壬午の乱の全容 神流川の戦いから北条・徳川の勢力争い
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1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
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