ベネズエラ

ベネズエラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%82%A8%E3%83%A9

 ※ 今日は、こんなところで…。

『ベネズエラ・ボリバル共和国[3](ベネズエラ・ボリバルきょうわこく、スペイン語: República Bolivariana de Venezuela)、通称ベネズエラは、南アメリカ大陸北部に位置する連邦共和制国家。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面する。首都はカラカスである。

コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界の一員であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、オランダ王国のABC諸島(キュラソー島など)、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が存在する。ガイアナとは、現在ガイアナ領のグアヤナ・エセキバを巡って、19世紀から領土問題を抱えている。南アメリカ大陸でも指折りの自然の宝庫として知られている。原油埋蔵量は3008億バレルと推測され世界最大と言われているが、近年は2006年から始まった米国の制裁により、原油生産は低落している[4]。加えて石油輸出収入に依存して、他産業育成など構造改革や石油産業自体への投資を長年怠ってきた「資源の呪い」により、2010年代以降は経済危機と政治の混乱が続いている[5]。 』

『国名

詳細は「ベネズエラの語源」および「es:Etimología de Venezuela」を参照
アメリゴ・ヴェスプッチ。

正式名称は、República Bolivariana de Venezuela。通称 Venezuela [beneˈswela](ベネスエラ)。

公式の英語表記は Bolivarian Republic of Venezuela。通称 Venezuela [ˌvɛnəˈzweɪlə] (ヴェネズエイラ)。

日本語の表記は、ベネズエラ・ボリバル共和国[3]。スペイン語を音写すると、レプブリカ・ボリバリアーナ・デ・ベネスエラとなる。通称、ベネズエラ。英語発音のヴェネズエラ、スペイン語発音のベネスエラという表記もある。漢字表記では委内瑞拉, 花尼日羅, 部根重良, 分額兌拉と記される。

ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れた探検者、アロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」(”Venezuola”)と命名した事によるとされている。

もう一つは、ヴェスプッチとオヘダの水夫だったマルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ(スペイン語版、英語版)が著作の”Summa de Geografía”で、彼等が出会った当地に居住していたインディヘナが当地を”Veneciuela”と呼んでいると言及しており、そこから派生して”Venezuela”になったとする説であり[6]、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉に由来することになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として人々に信じられている説は前者である。

国名中の「ボリバル」とは、ラテンアメリカの解放者・シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも表記する)のことである[3]。 』

『歴史
詳細は「ベネズエラの歴史」を参照
先コロンブス期

ヨーロッパ人がこの地を訪れる前、この地にはアラワク人とカリブ人と狩猟と農耕を行うインディヘナが居住していた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばなかったが、コロンビアのムイスカ人の影響を受けていた。この地から多くの人間がカリブ海諸島に航海していった。
スペイン植民地時代
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペインによるベネズエラの征服(スペイン語版)」、および「マラカパナの戦い(スペイン語版)」も参照
スペイン人に立ち向かったインディオの首長、グアイカイプーロの像。ウゴ・チャベス政権によって大々的に再評価がなされた。

ヨーロッパ人が今のベネズエラと接触するのは1498年のクリストファー・コロンブスによる第3回航海が初めてである。翌1499年にはスペイン人のアロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検している。その後スペイン人によって1526年にクマナが建設され、先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中の1567年にディエゴ・デ・ロサーダ(スペイン語版、英語版)によってサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスが建設された。植民地化当初はヌエバ・エスパーニャ副王領の一部として、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴのアウディエンシアに所属していたが、1739年にはヌエバ・グラナダ副王領の一部となり、1777年にはベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)に昇格した。植民地時代のベネズエラ経済はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クリオーリョ支配層は更なる自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺境だったために独立に有利な状況が整い、やがて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。
独立戦争
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
最初の独立指導者フランシスコ・デ・ミランダ。
「解放者」「迷宮の将軍」シモン・ボリバル、スペインから南アメリカの五共和国を独立に導いた軍人、政治家、思想家、革命家。

1789年のフランス革命によりヨーロッパの政局が混乱し、19世紀にナポレオン戦争がスペインに波及するとインディアス植民地は大きく影響受けた。インディアス植民地各地のクリオーリョ達は独立を企図し、ベネズエラでも1806年にはフランシスコ・デ・ミランダによる反乱が起きた。この反乱は鎮圧されたが、1808年ホセ1世がスペイン王に即位すると、それに対する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発、インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立の気運は抑えがたいものになって行った。1810年にはカラカス市参事会がベネズエラ総督を追放。翌年1811年にはシモン・ボリバルとミランダらがベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 – 1812年)を樹立した。しかし、王党派の介入とカラカス地震によってベネズエラは混乱し、共和国は崩壊した。この時の大地震によってカラカス市の2/3が崩壊した[7]。

ボリバルは不屈の意志で独立闘争を展開し、1816年には亡命先のジャマイカから『ジャマイカ書簡』を著した。何度かのベネズエラ潜入失敗の後、ヌエバ・グラナダ人の独立指導者フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルらの協力を得てヌエバ・グラナダのサンタフェ・デ・ボゴタを解放すると、1819年にはベネズエラとヌエバ・グラナダからなる大コロンビア(Gran Colombia)を結成した。その後解放軍は1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)でスペイン軍を破り、ここでベネズエラの最終的な独立が確定した。ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に向かい、1824年にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍の率いる解放軍がアヤクーチョの戦い(英語版)に勝利して全インディアス植民地の最終的独立を勝ち取り、ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となった。しかし、留守を預かっていたコロンビアの大統領サンタンデルとの関係が悪化し、コロンビアに帰国し、帰国した後もコロンビアの政局は安定せず、1830年には「エクアドル」(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)とともにカウディーリョ、ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の指導するベネズエラはコロンビアから脱退し、完全に独立した。翌1831年にコロンビアの独裁者、ラファエル・ウルダネータが失脚するとコロンビアは崩壊し、以降この地域を統一しようとする動きはなくなった。

内戦と軍事独裁の時代

アントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)将軍。

独立後、旧ボリバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、3月革命(スペイン語版)が勃発し、連邦戦争(スペイン語版)(内戦:1859年 – 1863年)に発展した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のアントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)が政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚した。

グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心だったフアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続いた。ゴメス治下の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネズエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになった。

1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。

1945年10月18日には青年将校と民主行動党(英語版)による軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1945年)(英語版))が起こり、軍政は崩壊し、民主行動党と青年将校が協力するエル・トリエニオ・アデコ体制(英語版)が確立した。19日には民主行動党の創設者であるロムロ・ベタンクール(英語版)が大統領に就任した。

1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者のロムロ・ガジェーゴス(英語版)政権が誕生するが、ガジェーゴス政権もそれまで民主行動党に協力していた青年将校によって軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1948年)(英語版))で打倒された。その後、1952年から青年将校の一人だったマルコス・ペレス・ヒメネス(英語版)将軍による独裁下ではベネズエラは原油高によって西半球で経済的には最も繁栄する国にまでなるも、ヒメネスは1958年にバブル経済の崩壊に伴う債務危機で失脚することになった[8]。

ベネデモクラシア

「民主化の父」ロムロ・ベタンクール(英語版)。2度大統領になり、民主体制を確立したが、1945年のエル・トリエニオ・アデコ体制はその後の軍事クーデター、1958年に確立されたプント・フィホ体制も後の政治的不安定化の要因となった。

ヒメネス失脚後、民主行動党とキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)、民主共和国ユニオン(英語版)の間でプント・フィホ協定(英語版)と呼ばれる密約が成立し、左翼勢力の排除と政府ポストの各党への割り当てが確約され、この協定は新たな民主体制の基礎となった[9]。

1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党のロムロ・ベタンクールが再び大統領に就任した。ベタンクールは、1930年代にコスタリカ共産党の指導者だった経歴を持つが[10]反共主義者に転向しており、米州機構から非民主的な国家を排除するベタンクール・ドクトリンを打ち出してドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ政権や、キューバのフィデル・カストロ政権と敵対した。これに反発した左翼ゲリラ(キューバ革命に影響を受けており、キューバに直接支援されていた)が山岳部で蜂起した。一方で農地改革やサウジアラビアとともに石油輸出国機構(OPEC)の結成なども行った。ベタンクールは、左翼ゲリラと戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初めて民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。

1969年にはゲリラへの恩赦を公約にキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)のラファエル・カルデラ(英語版)政権が発足した。反乱は治まり、キューバを初めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立した。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほど大いに潤う[11]。ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めてラテンアメリカ経済機構の設立にも尽力した。

カラカソ (Caracazo)

ところが、1980年代を通して豊富な原油や天然資源により莫大な貿易利益がありながら貧富の格差、累積債務が増大しプント・フィホ体制の腐敗が明らかになっていった。1989年2月27日には低所得者層によりカラカス暴動(英語版)(カラカソ)が発生した[12]。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続いた。1992年には空挺部隊のウゴ・チャベス中佐が政治改革を求めてクーデター未遂事件を起こした。翌1993年には不正蓄財によりペレスが辞任し、キリスト教社会党(コペイ党)からカルデラが再び大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。

チャベス政権

1999年に「第五共和国運動」から1992年のクーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任した[12]。1958年代に成立したプント・フィホ体制から排除された貧困層から支持を受け、反米・ボリバル主義とポプリスモを掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称された。

チャベスは、国名変更、石油資源国有化、キューバとの交流など反米路線を掲げた。これにより、2002年にはアメリカの中央情報局(CIA)の援助・支援の下に軍部親米派のクーデターでいったん失脚したが、全国的な国民のデモの激化[12]、ラテンアメリカ諸国の抗議によって再び政権に復帰し、わずか3日間でクーデターは失敗に終わった。米国は諦めず、ブッシュ政権は2006年にベネズエラに対して武器輸出の禁止措置をとった[13]。さらに、麻薬取引を理由に個人制裁も発動し、2005年以降少なくとも22人のベネズエラ人と27企業を制裁対象とした。

こうした経緯もあり、チャベス大統領は反米的なキューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、中華人民共和国、ロシア、イランと関係を強化し、友好的な関係を維持している。また、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体や南米諸国連合、米州ボリバル同盟、南米銀行の設立を主導して中南米の結束を図った。

一方で、隣国である親米国のコロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結してベネズエラ軍の軍備増強を発表し、両国間の緊張が高まっている(アンデス危機)。2010年7月22日にはコロンビアとの国交を断絶し、国境に「全面的非常態勢」を敷くよう軍への命令が出され[14]、3週間後の8月11日には国交回復で合意した[15] が、依然として不安定な状況が続いている[16]。

ベネズエラにおいては、富裕層の所有メディアにより反チャベス的な内容のものが報道されることが多かった[17]。チャベス政権成立以降、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。これは失敗に終わった2002年のクーデターを支持した放送局のオーナーたちに対する報復だとの見方もある[18]。なお、チャベス派からのメディア発信も行われており、『こんにちは大統領』のようなテレビ番組も放送されていた[17]。チャベスはワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げていた。しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。

マドゥロ政権時代

詳細は「ベネズエラ危機」を参照

チャベス体制を引き継いだ大統領ニコラス・マドゥロ

チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレーションは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党と激しく対立した。

2015年12月6日、総選挙において野党・民主統一会議を中心とした右派連合[19] が勝利を収め、過半数の議席を獲得した。ただし大統領の任期は2019年まで続き、仮に弾劾などが行われたとしても第一副大統領が昇格するためベネズエラ統一社会党が引き続き政権与党となる[19]。

反マドゥロ政権の野党が三分の二(167議席中112議席)を占めたことで以降国民議会を使った立法行為が不可能となったマドゥロ政権は、自身の影響下にある最高裁判所(スペイン語版)を使って国民議会の立法権を制限する様々な手段を打つようになった。例えば国民議会が可決させた法律を大統領が「違憲判断のため」として最高裁に送り、最高裁に違憲判断を出させて立法を無効化する方法である。2016年1月から4月に国民議会が可決させた5つの法案は全て最高裁に送られ、そのうち4つが「違憲」として無効化されている[20]。また最高裁はアマソナス州選出の3人の野党議員に「不正選挙があった」として公務就任権を認めず、2016年7月にこの3人が国民議会で宣誓すると最高裁は「最高裁の決定を尊重しない限り国民議会は法的有効性をもたない」と宣言。以降マドゥロ政権はこの「3人問題」を理由に国民議会を無視して最高裁に立法権を代行させるようになった。予算案も国民議会ではなく最高裁に提出して承認させている[20]。

2016年4月、大統領の任期が後半に入った事を踏まえ、野党は憲法に規定されている任期途中での大統領罷免を求める国民投票の実施を宣言、10月に国民投票の第一条件となる1%の有権者の署名が与野党共同運営の選挙管理委員会に提出された。この署名に死亡者や有権者登録されていない人物の署名が含まれていた事が与党側から問題視され[19]、選挙委員会と野党は再発防止を約束して手続きを再開したが、10月20日に7州の裁判所は「身分証明書の窃盗事件と関連がある」として手続き停止を命令した[19]。一連の騒動で与党と野党に続き、司法と議会の対立も鮮明となった。

2017年3月29日、最高裁判所は「不正選挙に基いた議会」「侮辱罪にあたる状態が続く議会の手続きは無効である」との司法判断を下し、立法権も最高裁判所に付与する異例の事態となった[21]。この決定を与党側は歓迎したが[21]、野党や南米諸国をはじめとする米州機構のみならず[22]、最高検察庁のルイサ・オルテガ・ディアス(英語版)検事総長など政府要人からも懸念や批判が相次いだ[23]。マドゥロは国家安全保障委員会の決定として最高裁に再考を促し、最高裁の判断は撤回された[22]。

2017年4月以降、反政府デモとそれに対する鎮圧が頻発しており、非政府組織「ベネズエラ社会紛争観測所」の集計で死者は80人を超えている[24]。デモは継続的に続けられており、7月8日で100日間連続となった[25]。政府支持派の暴動も発生し、群集が国会に突入して反政府派の議員らを議会に閉じ込める事件も起きている[26]。政府側と野党側デモの衝突は激化の一途を辿り、4月27日に民主統一会議議長で正義第一党の党首エンリケ・カプリレス・ラドンスキーは早期選挙の実施を要求した[27]。

制憲議会成立

マドゥロは野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した[28]。しかし制憲プロセスが憲法違反である疑いがある上、制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こした。このような選挙に立候補することは恣意的な選挙制度を有効と認めることになるため、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした[20]。

2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ[29]、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥っている[29]。軍や警察は政府側を支持して行動しており、民間人と警官・兵士の側の双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した[30]。宣言において国民議会の廃止を行う意向も示しており[31]、制憲議会のロドリゲス議長も右派連合は「裁きを受けるだろう」として旧議会の廃止を示唆、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行しつつある[32]。

2017年8月2日、レオポルド・ロペス、アントニオ・レデスマ(スペイン語版)ら野党連合の主要政治家が軍に連行された[33][34]。8月3日、反政府派に転じているオルテガ・ディアス検事総長は検察庁に不正選挙に関する捜査命令を出したが[35]、これに対して軍が検察庁を包囲下に置いた[36]。8月5日、ベネズエラ最高裁判所(英語版)はオルテガを検事総長から解任する決定を下し[36]、制憲議会もオルテガが深刻な職権乱用により起訴された事を発表した[37]。8月18日、制憲議会は国民議会から立法権などの権限を剥奪したと宣言した[38]。

反発の激化

ニコラス・マドゥロとフアン・グアイド
ベネズエラ
中立宣言した国
発言がない国
グアイドを承認した国
国民議会支持を表明した国
マドゥロを承認した国
詳細は「2019年の大統領騒乱(英語版)」を参照

2018年5月21日の大統領選挙(スペイン語版)は、選挙前に有力野党政治家の選挙権がはく奪されたうえで行われたため、マドゥロ再選の「出来レース」状態となり、主要野党はそれに反発して選挙をボイコットした。マドゥロ政権は国際選挙監視団の査察を拒否して国民の投票を監視し、マドゥロに投票しなかった者は食糧配給を止めるなど、なりふり構わぬ選挙戦を展開した[39]。西側諸国やブラジルなどはこの選挙を批判し、欧米や日本などは2019年1月10日の大統領就任式の出席を拒否した[40]、選挙の正当性を否定される形となった。その後もインフレーションなど経済的な混乱は加速した。

2019年1月10日にマドゥロは2期目の大統領就任式を行ったが、首都カラカス市内でもデモが活発に行われるようになり死者も発生[41]。1月23日には国民議会議長フアン・グアイドが昨年の大統領選挙は憲法違反で無効と主張し、1月10日をもってベネズエラは大統領が不在となったので、憲法233条に従って国民議会議長である自分が暫定大統領になったことを宣言した[39]。

体制転覆を目指す米国のドナルド・トランプ大統領は、「マドゥロの政権は正統ではない。ベネズエラにおいて唯一正統なのは国会である」として、グアイドの暫定大統領就任を直ちに承認した。これに対抗して1月24日にマドゥロ政権は「アメリカ合衆国と国交断絶する」と発表したが、アメリカ合衆国連邦政府は「グアイド政権を通じて、ベネズエラとの外交関係を維持する」としている[42]。

その後、アメリカに続く形で西側諸国が続々とグアイド暫定大統領就任を支持表明した。日本国政府はしばらくの間グアイドの承認を保留してきたが、2019年2月19日に「ベネズエラ政府に対して大統領選挙の早期実施を求めてきたにもかかわらず、いまだに行われていない」として「グアイド暫定大統領を明確に支持する」との意向を表明した[43]。

反発がありながらも、実際のところベネズエラでは引き続きマドゥロが軍部の支持を確保して実効支配している。またロシア、中国、北朝鮮、イラン、キューバ、トルコ、シリア、パレスチナ、ボリビアなど反米主義的な国家群からは、2期目就任の承認を受けている[44][45]。二つの政権が対立する形となった[44][46]。

2019年2月2日には、マドゥロの退陣を求める大規模デモ活動がベネズエラ全土で執り行われ、この中で、グアイドが「デモ参加者に発砲するのをやめてほしい。それだけでなく、ベネズエラの再建にかかわってほしい」として、ベネズエラ軍に対する呼びかけを行った[47]。一方のマドゥロ側でも政権支持を目的とした集会が行われ「立法府が再び合法化されることに同意する」と訴えた上で、2020年に行われることになっている国会議員の選挙を前倒しすることを提案した[47]。

2019年2月20日、マドゥロ政権は、オランダ王国に属するアルバ、キュラソーとの海路を遮断したと発表。翌21日には「ベネズエラに人道危機は存在しない」「領土侵害を防ぐ」と称してブラジルとの国境を封鎖すると表明した[48]。コロンビアとの国境封鎖の指示も行われていたが、2月23日にはグアイド側はこれを無視して国境沿いで人道支援の受け入れ式典を開催。この時点で50か国から暫定大統領として承認を受けたグアイドに対し、コロンビア、チリ、パラグアイの各大統領も受け入れ式典へ参加して支援を表明した[49]。

4月30日にグアイドが離反兵士らに自宅軟禁から救出されたレオポルド・ロペスとともにビデオメッセージを出し、軍に決起を呼び掛けた。これにより反マドゥロ派の軍人たちが催涙ガスなどで鎮圧にあたるマドゥロ政権側と衝突した[50]。その後ベネズエラ各地で衝突が発生した[51]。マドゥロ政権側はこれを「クーデター」と非難し[50]、「クーデターは失敗に終わった」と主張している[51]。一方、アメリカ政府は「アメリカはグアイド氏を暫定大統領だと考えており、明らかにクーデターではない。グアイド氏側による勇敢な行動だ」としてグアイドの行動を支持表明した[52](2019年ベネズエラ蜂起未遂(英語版))。

2020年5月2日、アメリカの民間軍事会社「シルバーコープUSA」および反体制派の志願兵によるマドゥロ政権転覆計画が実行されたが、事前に察知したベネズエラ当局によって早期に鎮圧された[53][54]。マドゥロ政権はシルバーコープUSAがグアイドと支援協力関係にあったとして批判したが、グアイドはこれを否定している[55](ギデオン作戦 (2020年)(英語版))。

2020年6月、最高裁判所が全国選挙評議会メンバーを決定し、野党人事に介入した。12月、主要野党はボイコットを表明中で国会の選挙(英語版)が実施され、マドゥロ派が圧勝し、新たな国会議長としてホルヘ・ロドリゲス(英語版)が選出された[56]。欧州連合、アメリカはこの選挙結果を認めていないが、欧州連合はグアイドが議長・議員職を失ったことを理由に「暫定大統領」の承認を取り下げた。一方でアメリカのトランプ政権は、引き続きグアイドを暫定大統領と認めることを表明[57]。2021年1月に米国大統領に就任したジョー・バイデンも、グアイドを暫定大統領として引き続き認めるとしている[58][59]。

ここまで、米国など西側諸国が中心となってベネズエラに強力な経済制裁を科して体制転覆を目指しているが、実現はしていない。狙い通り、経済基盤である原油生産・輸出は激減したが、ベネズエラ政府は違法な採掘から麻薬密売までのさまざまな違法ビジネスに手を出したり、政権側の富豪に経済の一部を開放したりして、国内支持基盤を固めた。さらに、米国の金融システムに依存していないイランや中国、ロシアといった国々とも連携することで、制裁を出し抜いた[60][13]。市民の生活難は続いているが、マドゥロの支持率は一定を保ち、逆に反政府の諸外国が推すグアイドと野党の支持率は汚職問題などで低下してきている[61][62]。

2022年、欧米によるロシアへの経済制裁と世界的インフレーションにより原油価格が高騰すると、米国はベネズエラ産原油の禁輸措置緩和の可能性を示した[63]。
ベネズエラ難民問題
ベネズエラ難民と抱き合う暫定大統領フアン・グアイドとアメリカのマイク・ペンス副大統領(2019年2月25日コロンビア・ボゴタ)

長らく反米左翼政権が続いたベネズエラでは、2015年に政治的迫害などを理由に、アメリカ合衆国へ亡命申請したベネズエラ人は5,605人である。2016年には14,700人を超え、2017年にはさらに更新することが確実視されている[64]。

さらに経済危機で、ベネズエラ難民の数は急増していった。国際連合によれば、2018年11月までに国外へ逃れたベネズエラ難民は300万人を超え、この数はベネズエラ国民の1割に相当する[65]。

2018年9月4日、エクアドルの首都キトで中南米諸国がベネズエラ難民対策の国際会合を開いた。有効な対策はまとめられなかったものの、「キト宣言」を発表し、ベネズエラ難民を「十分に受け入れる」と明記した[66]。

最も受け入れている国は、隣国のコロンビアであり、2019年2月現在110万人を超えるベネズエラ難民を受け入れている[67]。しかし北部の町ククタでは施設に収容しきれないベネズエラ人が路上にあふれており、ベネズエラ人による犯罪が社会問題になっている[66]。

ほかにもペルーに50万6000人、チリに28万8000人、エクアドルに22万1000人、アルゼンチンに13万人、ブラジルに9万6000人のベネズエラ難民が流出している(いずれも2019年2月時)[67]。ブラジルでは、ベネズエラ難民のテントを襲撃する運動が発生しており、治安悪化の原因になっている[66][68]。2019年6月7日に国連難民高等弁務官事務所が発表した難民と国外移住者数は約400万人としており、過去7カ月間で100万人増加する驚異的なペースとなった[69]。

ベネズエラ政府は、難民の存在自体を認めておらず、頭を抱える南米諸国になんら協力しない状態が続いている[66]。』

『地理
詳細は「ベネズエラの地理」および「en:Geography of Venezuela」を参照
ベネズエラの地形図
世界で最も高い滝、サルト・アンヘル。
ラ・グラン・サバナのパノラマ。

北にカリブ海に面し、コロンビア、ブラジル、ガイアナに接する。中央部のジャングルをコロンビアからオリノコ川が流れている。北西部には南米最大の湖、マラカイボ湖が存在する。コロンビアから続くオリノコ川流域の平原部をリャノと呼び、国土の主要部はコロンビアのオリエンタル山脈を通してアンデス山脈が延びてきており、国内最高峰はメリダ山脈に位置する海抜4978mのボリバル山である。なお、南米大陸に位置してはいるが、国土は全て赤道以北、すなわち北半球に位置している。

国土はマラカイボ湖を囲むマラカイボ低地、西部から北部に広がるベネズエラ高原、オリノコ川流域平原のリャノ(スペイン語で平野を意味する)、そしてギアナ高地の四つの主要地域に分けられ、ベネズエラ高原はさらに中央高地、北東高地、セゴビア高原、メリダ山脈の四つの地域に分かれる。国土北部の海岸沿いをラ・コスタ山脈が東西に連なり、東部にはアラヤ半島、パリア半島が存在し、アラヤ半島沖にマルガリータ島が存在する。国土の80%がオリノコ川の流域であり、平らな大草原が広がっている。この草原地帯のリャノが国土の35%(380,000平方kmで、ほぼ日本の国土と同じ)、グアヤナ高地が国土の45%を占めるものの、人口の圧倒的な部分は北方の海岸線沿いのマラカイボ低地とベネズエラ高原に集中し、ベネズエラの多くの都市や村落は標高800m-1300mの人間が住むのに適した気候の谷間に存在する。

熱帯のため、雨季と乾季の区分がはっきりし、12月から4月が夏(ベラーノ)と呼ばれ、5月から11月が冬(インビエルノ)となり、6月から7月にかけて「サン・フアンの夏」と呼ばれる中だるみの季節が存在し、夏は乾季に、冬は雨季に相当する。カリブ海側は乾燥しており、カラカスの外港ラ・グアイラでは年間降水量が280mmしかない。リャノはサバナ (地理)が広がっており、サバナ気候であるゆえに乾季は完全に乾燥し、雨季は洪水となるため牧畜ぐらいの生産活動しかできず、こうした気候が屈強なリャネーロや、ホローポなどの文化を生み出した。

現在のベネズエラ政府は、ベネズエラの国土を海域、島嶼部、西北沿岸部、中北沿岸部、東北沿岸部、アンデス地方、リャノ地方、オリノコ川デルタ地方、アマゾン地方、グアヤナ地方という10の地理区分に分けて扱っている。

ヌエバ・エスパルタ州、マルガリータ島のビーチ 』

『国民
詳細は「ベネズエラ人」を参照
民族
ベネズエラの民族構成[122]
Demografia de Venezuela.jpg
メスティーソ 49.9%
クリオーリョ 42.2%
ムラート 3.5%
インディヘナ 2.7%
黒人 1%
アジア系 0.9%
高地オリノコに住むインディヘナの部族、ヤノマミ人の子どもたち。

ベネズエラ人は多くの人種と民族が合流して生まれており、現在も移民が流入し続けている。先住民はインディヘナのカリブ人、アラワク人などが住んでいたが、現在先住民の社会を維持しているのはアマゾンの密林の中に住む少数である。白人は植民地時代のスペイン人が主で、当時は植民地社会の上層部にあった。独立後は他のヨーロッパ諸国からの移民も増え、近年では中南米諸国、特に隣国コロンビアからの、難民に近いような移民が多い。最近は政治的な理由により富裕層や中間層が国外へ流出している。また、不況や社会不安、就職難により、大学などで高度な教育を受けた移民2世以降が移民1世の母国に多く流出している。

アフリカ系ベネズエラ人は植民地時代に奴隷としてつれてこられた人々の子孫である。アジア系は他より少ないが、独立後に移民した華僑(中国系)がおり、小商店主として成功した者が多い。しかし、南米の国の中で日本からの移民はかなり少ない方であり、日系ベネズエラ人の人口は現在では800人程とウルグアイの日系人の倍程度である。

世代を重ねて混血が進んだため、人種集団をはっきり区分することはできない。人種別統計は長くとられておらず、そうした調査も実施されていない。しかし、北米、日本、欧州では各国の研究者が独自に調査した構成比が出回っている。それによれば、メスティーソ67%、ヨーロッパ系21%、アフリカ系10%、インド系2%とされる。ベネズエラ人の主流の意識は自らをメスティーソとし、ベネズエラをメスティーソの国とするものである。

そして現実社会では他のラテンアメリカ諸国と同じように上流階級が白人で占められている。当然のことだが白人が他人種より上にあるという関係が個人間でなりたつわけではなく、下層の白人も中流の黒人もいる。インディヘナはスリア州やオリノコ川南部に多く居住している。
移民

主な移民の出身地としては、イタリア、スペイン、ドイツ、ポルトガル、シリア、レバノン、インド、パキスタン、中国、日本、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、エクアドルなど。1940年代から1950年代にかけてヨーロッパからの移民ブームがあり、1950年から1958年までの間に、ポルトガル人を中心に実に45万人の移民が流入した。特に有名なドイツ系の入植地としてコロニア・トバール(英語版)が挙げられる。
人口

独立直後の1830年にはおよそ80万人ほどだったベネズエラの人口は、20世紀に入ってからも余り増加せずに1920年には推定で200万人ほどだった。しかし、第二次世界大戦後に急速に人口が増加し、1967年には推定900万人、1983年の調査では1639万人となっており、2007年には2600万人を越えた。人口の都市化率は85%であり、73%は北部のカリブ海沿岸100km以内に住んでいる。ただし、国土の約半分を占めるオリノコ川以南には人口の5%しか居住していない。

なお、2010年代のハイパーインフレによる経済的混乱から、2018年の時点で300万人以上が南米各国へ流出したと推測されており、混乱が収まらない限り今後も増加する見込み[123]。
言語
詳細は「ベネズエラの言語」および「en:Languages of Venezuela」を参照

言語はスペイン語(ベネズエラ・スペイン語)が公用語であり、かつ日常生活で最も使われている。31のインディヘナの言葉があり、政府は先住民の言語を通用させる努力を規定しているが、話す人は限られている。その他にも移民によってドイツ語、ポルトガル語、ガリシア語、イタリア語などが話されている。
宗教
詳細は「ベネズエラの宗教」を参照
Monumento a la Chinita.jpg

宗教はローマ・カトリックが76%、プロテスタントが2%、その他が2%である。その他の宗教としてはイスラム教、ユダヤ教など。
教育
詳細は「ベネズエラの教育」および「en:Education in Venezuela」を参照
カラカスの大学都市。

2001年のセンサスによると、ベネズエラの15歳以上の国民の識字率は93.0%であり[124]、ラテンアメリカ域内では中程度の部類に入る。6歳から15歳までの国民を対象に義務教育が行われており、初等教育と前期中等教育は無償である。主な高等教育機関としてはベネズエラ中央大学(1721年)、ロス・アンデス大学(1785年)、カラボボ大学、スリア大学(1891年)、シモン・ボリバル大学(1967年)などが挙げられる。

チャベス政権が推進していた社会政策の一つに「第二次ロビンソン計画」がある。初等教育(6年)の未終了者を対象とし、受講期間は二年。第一回終了式が、2006年8月、首都カラカスで行われ、32万5000人が修了証書を受け取る。修了者は、「リバス計画」(中等教育)や「見つめ直そう計画」などに進むことが出来る。これらの計画の受講中は、奨学金が給付される。

さらに、ベネズエラの教育で特色あるものとしてエル・システマというメソッドで行われる音楽教育が挙げられる。ホセ・アントニオ・アブレウが1975年に始めたもので、主に貧困層の児童を対象に無償で施されるクラシック音楽の教育は、ストリートチルドレンの救済や非行少年の更生に大きな成果を上げてきた。35年以上にわたり歴代の政権も支援をしており、35万人がこの教育を受けている。現在ではボリーバル音楽基金によってシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ、児童オーケストラなど200以上もの楽団が運営されており世界的にも高い評価を得ている。また、このシステムで学び指揮者となったグスターボ・ドゥダメルのように国際的に活躍する音楽家も輩出している。 』

(※ その他は、省略)

ベネズエラと外交関係再開 コロンビア

ベネズエラと外交関係再開 コロンビア
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB296KY0Z20C22A8000000/

『【カラカス=AFP時事】8月7日に左派政権が発足した南米コロンビアの駐ベネズエラ大使が28日、同国に着任し、3年間にわたって断絶していた両国の外交関係が正式に再開した。ペトロ・コロンビア大統領と、同じく左派のマドゥロ・ベネズエラ大統領が11日に国交回復の方針を発表していた。

コロンビアの親米右派ドゥケ前大統領は、2018年に行われた大統領選でのマドゥロ氏の再選を認めず、両国は対立。双方の大使館が閉鎖されるなど、19年に断交状態となっていた。』

〔アフリカ、関連情報〕

※ 人口分布だ…。

※ これも、人口分布…。

※ イスラム教徒の分布の様子は、見といた方がいい…。

※ アフリカで発祥した「人類」は、こんな風に「世界に散らばった」、と考えられている…。

池上彰と歩く「アフリカビジネス」

池上彰と歩く「アフリカビジネス」「新参者」ニッポンにチャンス!
https://special.nikkeibp.co.jp/as/201207/africa/vol2/

『21世紀最も有望なビジネス市場として世界中から注目されるアフリカ。
ただし、その成長に絶対に欠かせないことがあります。

それは「舗装された道路+十分な設備を持った港湾=物流インフラの整備」

なぜ、物流インフラの整備が、アフリカの成長にとって不可欠なのでしょうか?

理由は2つあります。

[1]アフリカ大陸は巨大で、かつ鉄道が発達していません。このため人の移動手段は、物流の要として、自動車が主役となります。自動車が主役となるためには、道路が適切に舗装されて、大陸の隅々にまで通る必要があります。道路の充実が、社会の発展と経済成長のカギを握っているのです。

[2]アフリカには、港を持たない内陸国が16カ国もあります。こうした国は、自国の港がないため、単独でアフリカ大陸外の欧米やアジアと貿易することができません。資源を輸出するにも、物資を輸入するにも、近くの沿岸国の港を借りるほかないのです。

このため、内陸国は沿岸国と仲良くすることが重要です。沿岸国は自国の港を整備して、国際貿易の拠点とすることが重要です。

幹線道路を整備し、拡充した沿岸国の港と内陸国をつなぐ。アフリカの経済発展には、一国を超え、複数の国を巻き込んだ、経済の「回廊」づくりが、必要なのです。

今回私が取材したインド洋に面したケニアやモザンビークは、まさに東アフリカの貿易と経済の拠点になり得ます。インド洋に面したケニアやモザンビークの港湾を発展させ、ウガンダやマラウィなどの内陸国と幹線道路でつなげば、大きなビジネスチャンスが生まれるのです。

物流インフラが充実すれば、アフリカが、中東、ヨーロッパ、インド、東南アジア、中国、そして日本とを結んだ「環インド洋経済圏」のハブとなる。中世に栄えた「インド洋の時代」が21世紀に蘇ろうとしています。

アフリカの発展には物流インフラの改善が欠かせません。そしてその改善に今、日本の国際協力がどう役立っているのか、JICAアフリカ部の倉科芳朗さんに解説いただきました。

アフリカ54カ国のうち16カ国が内陸国です。アフリカの4分の1の人が、港を持てないという「ハンディキャップ」を抱えているわけです。つまり、単独で欧米やアジアと貿易ができません。

現在も、これからも隣の沿岸国の港を借りているわけですが、港湾設備も道路も整備されていないため、貨物を運ぶのにものすごく時間と手間がかかるため、物流コストがかさみます。

このため、アフリカは、経済が未発達で、人々の収入が少ないのに、物価が高く、人件費も高い、という状態にあります。

道路が未整備だと、アフリカ大陸内での貿易や、自国内での経済発展もむずかしくなります。経済だけではありません。一般の人が、学校に行ったり、病院に行くのも一苦労ですから、社会生活も充実できませんし、教育水準も上がりませんし、医療の普及も妨げられてしまうのです。

そんなアフリカの物流インフラを改善としようと、日本の知恵と技術とお金で、アフリカの沿岸国の港湾と内陸国とを幹線道路で結び、巨大な経済の「回廊」をつくるプロジェクトが、いくつも進行中です。

モザンビークでは、インド洋に面したナカラ港を開発し、マラウイなど隣国までを結んだ「ナカラ回廊」の構築がスタートしました。

ケニアでは、モンバサ港を開発し、ウガンダ、ルワンダなどの隣国までを結んだ回廊づくりがスタートしています。

こうした複数の国を結んだ経済「回廊」が機能し、地域の経済が活性化するためには、道路や港などハードの整備もさることながら、「通関業務」というソフトの簡素化が必要となります。

モザンビークは、ポルトガルの植民地から1975年に独立し、社会主義路線をとりましたが、77年から92年まで内戦が続きました。結果、経済は停滞し、アフリカでも最貧国のひとつとなってしまいました。

そのモザンビークは、大きく羽ばたこうとしています。

政情が安定した上に、本来の地理的な条件が、経済面から注目されようとしているのです。インド洋に面したアフリカ東海岸南部に位置し、いくつもの良港を抱えているモザンビークは、グローバル時代にきわめて有利な場所にあるのです。

中世から近世にかけては、中東やインド、そして中国から船が往来し、さらにはポルトガル船もやってくるなど、モザンビークの港は、インド洋貿易の要として繁栄しました。

再三記しているように、16世紀には日本からの天正少年使節団がモザンビーク島で半年を過ごしているなど、日本ともかかわりがありました。

アフリカが資源国として、世界最後の巨大消費市場として、輸出入双方の面で注目される今、天然の良港を有するモザンビークは、自国はもちろんマラウイや南アフリカなど近隣諸国をも巻き込んだ国際経済の拠点となり得るのです。

すでにその萌芽が芽生えています。

モザンビークの稼ぎ頭は、首都マプトにあるモザール社のアルミニウムの精錬事業です。モザール社はモザンビークと南アフリカ、日本の三菱商事の共同出資で98年にスタート。モザール社のアルミ工場周辺は経済特区に指定され、オーストラリアから輸入したボーキサイトを南アの電力を活用してモザンビークで精錬、ヨーロッパなどに輸出する、洗練された加工貿易のかたちを一気に確立しました。

モザール社の成功を背景に、マプトと南アの首都ヨハネスブルグが道路で結ばれて「マプト回廊」ができあがり、アフリカ南部有数の経済圏となろうとしています。

このマプトの成功を受け、モザンビークでは、港を整備した上で、隣国までを結ぶ道路網を構築し、周辺地域で農業開発や工業開発を行い、国際的な経済ネットワークをつくりあげる「回廊」事業を次々と始めています。

今回私が取材したのは、「回廊」の代表事例となりそうな、北部の港ナカラと北部最大の都市ナンプラ、さらにその奥のマラウィまでを結ぶナカラ回廊プロジェクトです。

南部の首都マプトの急速な発展に比べ、モザンビーク北部は開発が遅れていました。けれどもナカラは水深14mもある天然の良港であり、巨大船舶を停泊させるのにうってつけです。中世から近世にかけては、インド洋貿易の拠点ともなったナカラ。このナカラを中心に今、日本の国際協力でさまざまな改革が進んでいます。現地を取材しました。

ケニアの首都ナイロビから東南に下って460キロ。インド洋に面した港町モンバサ。人口66万人。ナイロビに次ぐケニア第2の都市です。

モンバサは今、アフリカ東海岸の「シンガポール」となることをめざし、いくつものインフラ開発事業に着手しています。

開発事業は主に3つ。1つめが、コンテナバースの拡張工事。2つめが、周辺の道路延伸と拡張工事。そして、3つめが、経済特区の選定と建設です。

なぜ、コンテナバースを拡張しているのか。なぜ道路を広げようとしているのか。なぜ経済特区を設けようとしているのか。

それは、モンバサが、ケニア自身はもちろん、近隣の内陸国であるウガンダ、ルワンダ、ブルンジなどにとって唯一最大の輸出入の拠点になり得るからです。

こちらの地図をごらんください。

ケニアには、このモンバサを輸出入の拠点にして、首都ナイロビを抜け、地熱発電で発展するオルカリア(こちらに関しては、電力開発のコーナーで、改めて詳しくレポートします)を通り、国境を越えてウガンダに至る「北部回廊」をつくろう、という広大な構想があります。

アフリカにとって、物流インフラの整備は経済発展の必要条件。港湾整備と回廊づくり、国境を越える際の通関業務の簡素化がすすめば、経済の血の巡りは一気によくなり、経済発展に拍車がかかります。

モンバサは、歴史的にも地理的にも東アフリカの経済発展の拠点となり得る条件を有しています。

複雑な入り江の奥に位置するために、どんなサイクロンが来ても荒れることのない静かな港。インド洋に面し、中東、ヨーロッパ、インド、東南アジア、さらには遠く中国や日本とも貿易をするのにうってつけのロケーション。

地理的に恵まれた天然の良港をめぐって、中世の昔からモンバサの港を巡ってさまざまな国の人々が争奪戦を繰り広げました。

中東のイスラム商人が船で訪れ、インド洋の貿易の要として栄えてきました。大航海時代になるとポルトガルなどヨーロッパの船がこの港を活用するようになり、オマーンとポルトガルがこの港を奪い合うようになりました。

19世紀末、ケニアがイギリス植民地領になると、イギリスは、モンバサからナイロビ、隣国のウガンダ首都カンパラを結んだケニア鉄道を敷設し、まさに今構想中の「北部回廊」の礎を築きました。

そして21世紀。モンバサは再び歴史の表舞台に立つチャンスを得ました。

港のすぐ脇には美しい珊瑚礁があり、リゾート地としての可能性も秘めている。すでに国際空港もあり、海外からの人のアクセスにも適しています。

モンバサの潜在力を見越して、ケニアでは、経済特区に選定し、さまざまな産業の誘致を行おうと計画しています。

ただし、モンバサの現状は問題が山積です。

すでに大きな港がありますが、出入りする貨物の総量は港の物流処理能力をはるかに超えています。港にはコンテナが山積み。付近も道路にまであふれ帰っています。

そのうえ、首都ナイロビに向かう道路も、舗装はされているものの片道1車線。モンバサ市内は常に大渋滞で、市内を抜けるのにも一苦労。通関業務も近代化されていないために時間がかかります。

せっかく港についたコンテナが船から荷揚げされるまでに、なんと1ヵ月以上もかかることがあり、目的地に着くのに1ヵ月半かかるのも珍しくないそうです。

物流インフラの脆弱さが経済成長のボトルネックとなる。解消するには、荷揚げしたコンテナをさばくコンテナヤードを大幅に拡張し、港の周囲の道路網を拡張し、延伸して、渋滞を解消するしかありません。

そこで日本の出番です。現地で日本の国際協力がどう機能しているのか。JICAケニア事務所の野田光地さんに案内いただきます。

有史以来近世に至るまで、インド洋は世界経済の中心地でした。中東、インド、東南アジア、中国、ヨーロッパ、そしてアフリカ東海岸。インド洋をぐるっと囲んで、人々が、物資が、文化が、行ったり来たりしました。

中でもアフリカ東海岸には天然の良港がいくつもあり、さまざまな国の商人でにぎわいました。今回取材した、ケニアのモンバサも、モザンビークのナカラとモザンビーク島も、まさにそんな歴史ある港です。

近代になって鉄道が登場し、現代になって自動車が登場するまで、世界の物流を担っていたのは、圧倒的に「船」でした。ゆえに物流において最も重要な装置は「港」でした。アフリカ東海岸の港町は、今よりはるかに栄えた国際都市だったのです。

ヨーロッパによる植民地化、独立後の混乱や内戦といった不幸を乗り越え、いま、アフリカは再び歴史の表舞台に立とうとしています。同時に、中国、東南アジア、インド、中東、そしてアフリカ東海岸に囲まれた、環インド洋経済圏が、世界で最も成長の余地のある地域として立ち上がってきます。

今回取材した国際港が、幹線道路の開発とセットになって、自国はもちろん隣の内陸国までをも巻き込んだ巨大な物流回廊として完成するとき、それはアフリカの新時代を象徴する経済圏がいくつも誕生するときでもあります。

そんなアフリカの物流革命に、日本の知恵が、技術が、資金が、企業が、重要な役割を果たしている。アフリカと日本の関係は、これからますます深くなっていく。現地を歩き回って、そんな実感を持ちました。

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日経ビジネスオンライン 』

アフリカ諸国、実利求める等距離外交 ロシアも軍事協力

アフリカ諸国、実利求める等距離外交 ロシアも軍事協力
アフリカ 逆風下のフロンティア㊤
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR17BXY0X10C22A8000000/

『人口増加と技術革新を追い風とするアフリカに、世界の注目が集まっている。米欧や中国、ロシアといった大国が関係強化を競い、現地発の新興企業に投資マネーが流入する。世界の外交や投資におけるアフリカの存在感は高まる一方、食糧不足や貧困などの課題もなお根深い。

アフリカの人口は14億人から2050年に25億人に膨らみ、世界の4分の1を占めると国連は推計する。鉱物資源が豊富なうえ原子力技術などの市場としても有望だ。28日に閉幕した第8回アフリカ開発会議(TICAD8)では、岸田文雄首相が日本とアフリカは「ともに成長するパートナー」だと強調。関係強化を訴えた。

だが、実際は大規模な干ばつやウクライナ侵攻で食糧危機が深刻化したこともあり、実利を求めるアフリカの軸は欧米日の「西側」からロシア・中国へと一段と傾きかねない状況にある。

「マリの主権を尊重するパートナーシップを称賛する」。10日、西アフリカのマリで昨年クーデターを主導した暫定大統領ゴイタ大佐は、ロシアのプーチン大統領と食糧や燃料支援について電話協議し、協力を歓迎した。

旧宗主国フランスが駐留仏軍の完全撤収を発表したのは15日。マリの「乗り換え」先とされるのがロシアの民間軍事会社ワグネルだ。

ロシア軍の「別動隊」と呼ばれるワグネルの雇い兵はスーダンや中央アフリカで強権的な指導者を支えてきた。見返りに資源権益を握ったとの見方は絶えない。アルジェリアやアンゴラではロシアが最大の武器供給国だ。多くの国は小麦や肥料もロシアに輸入の大半を頼る。

アフリカ諸国は歴史的には欧州の旧宗主国と関係が深かったが、近年は中国がインフラへの投融資など豊富な資金力をテコに存在感を強めてきた。ロシアも軍事協力や食糧供給で食い込む。中ロは経済面だけでなく、国際舞台で欧米と対抗するうえでもこの地域を戦略的に重要とみなしている。

アフリカへの輸出額では中国が首位を独走する。近年はトルコ企業の進出も建設業を中心に活発だ。20世紀まで広大な植民地を支配した英国やフランスの影響力は、相対的に薄れている。

中国やロシアの台頭は、権威主義的で腐敗した政権との関係強化をいとわないことも一因になっている。人権問題や民主主義で注文を付ける欧米は多くのアフリカ指導者の目には煙たく映る。

一方で不透明とされる援助を続ける中ロは、腐敗体質の政権には歓迎すべき存在になっている。アフリカ諸国の独立後も現地の利権を握り続けた旧宗主国への反発も根強い。

ロシアの影響力はウクライナ侵攻後の外交舞台で一層あらわになった。ロシアに対しウクライナからの即時撤退を求めた3月の国連決議で、アフリカの半分にあたる計26カ国が反対・棄権・不参加に回った。アフリカの国連加盟国は54カ国と全体の3割に迫る。その一大勢力が同様に棄権した中国と歩調を合わせ、ロシアに制裁を科す米欧日との温度差を明確にした。

「アフリカは(米欧・中ロの)対立から距離を置く」。ウガンダのムセベニ大統領が3月に日本経済新聞に語った言葉は、アフリカの指導者の多くを代弁する。アフリカ連合(AU)議長のセネガルのサル大統領は6月にロシアを訪れ、穀物輸出再開を求めた。輸入代金の支払いを阻むとして対ロ制裁には冷ややかだ。

8月上旬、南アフリカを訪れたブリンケン米国務長官はアフリカを「対等なパートナー」と呼んだ。このままではアフリカ諸国が米欧から離れていくとの危機感がにじんだ。直前にロシアのラブロフ外相はアフリカ4カ国を巡り、食糧危機は「米欧の制裁のせいだ」と訴えていた。

日本とアフリカの関係も心もとない。日本はアフリカへの政府開発援助(ODA)で長い実績があり、支出総額ベースで20億ドル(約2800億円)前後と先進国で米独英仏に続く5位を保つ。だがビジネス面ではつながりを深められないままだ。

日本からアフリカへの輸出額は21年に約100億ドルと中国の10分の1、トルコの半分だ。直接投資残高は国連貿易開発会議(UNCTAD)がまとめた上位10位に日本は出てこない。英仏や米国、中国はおろかシンガポールにも及ばないのが実態だ。』

中ロ・北朝鮮の強硬姿勢は「虚勢」 軍事演習は国内向け

中ロ・北朝鮮の強硬姿勢は「虚勢」 軍事演習は国内向け
編集委員・高坂哲郎
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM240U70U2A820C2000000/

『中国やロシア、北朝鮮が相次ぎ大規模な軍事演習を日本周辺で実施し、日本や米国、台湾などを威嚇している。ただ、いずれの軍事行動も強硬姿勢の裏に「虚勢」がにじむ。開始から半年が経過したウクライナ侵攻でロシア軍の弱さが露呈し、これまで同軍を参考に軍備を近代化してきた中国軍などが苦境に陥っていることが背景にある。
15日、中国軍の東部戦区が「微信」の公式アカウントに投稿した軍用機の画像=共同

中国軍は8月上旬、ペロシ米下院議長の台湾訪問に反発して台湾周辺で大規模な軍事演習を実施。台湾上空を通過するミサイル発射もした。中国軍は今後こうした動きを常態化する恐れもある。ロシア軍は9月1日から極東地域で4年に一度の大規模軍事演習「ボストーク2022」を実施し、これには中国軍なども参加する。米韓両軍は22日から9月1日までの日程で定例の合同軍事演習を韓国全域で継続中だ。北朝鮮は既にこれに反発しており、演習期間中にミサイル発射など何らかの動きに出る可能性がある。

ただ、中ロ朝が見せる軍事的強硬姿勢は、見せかけの可能性がある。すべての起点は、この半年間でロシア軍が示した「弱さ」だ。

「ロシア軍があれほど無様とは正直驚いた」――。冷戦時代からソ連軍、その後身のロシア軍を注視してきた元自衛隊制服組幹部が語る。米欧製の精密誘導兵器で次々撃破された地上軍部隊やロシア海軍の旗艦モスクワ、戦闘機部隊の無残な姿が報じられている。
ウクライナ軍に撃破されたロシア軍の戦車(キーウ近郊)=AP

これに内心激しく動揺しているとみられるのが中国軍だ。中国軍は共産党政権の発足前から旧ソ連の軍事支援で創設された経緯があり、近年もロシア製戦闘機やエンジンなどを多数輸入。外洋艦隊としての経験の浅い中国海軍は、ロシア極東艦隊を「師」と仰ぎ、過去には本州や九州の周辺海域を周回する合同訓練などをしてきた。

ウクライナでのロシア軍の苦戦ぶりを見る限り、現時点で中国軍が台湾制圧を強行しようとしても、上陸前に揚陸艦などは次々と沈められ、多数の兵士が犠牲になる展開が強く意識されるようになった。弾道ミサイルなどを多数発射して台湾の政府や軍の中枢をたたけたとしても、その後に地上部隊を送って台湾を長期間制圧できるだけの能力は現在の中国軍にはなさそうだ。「米軍の攻撃を恐れ、中国空母も軍港の奥深くから出てこられない」(元自衛隊情報系幹部)との声もある。

無理に軍事行動に出たとしても、その後に各国から厳しい制裁を受け、経済が混乱するという展開もロシアは示した。このため、中国軍が今できるのは、ミサイルを台湾上空越しに撃ったり、多数の戦闘機を台湾周辺空域で機動させて威圧したりすることくらいしかない。いずれも、中国軍が「劣勢ではない」ことを国内向けに必死で訴え、中国国民の支持を失わないようにするのが最も重要な目的なのだ。

ロシア軍が近く開始する大規模演習も同様に「国内向け」と言ってよい。ロシア地上軍は極東地域から多数の兵士をウクライナに送り、おびただしい犠牲者を出した。そうした苦境にあるからこそ、「ロシアには味方となる外国軍がおり、孤立しているわけではない」と自国民に強調したいプーチン大統領にとっては、中国軍の演習参加は欠かせない。ただ、旗艦をあっさり沈められたロシア海軍との合同演習について、中国海軍は冷めた目でみているはずだ。

米韓合同演習に北朝鮮が反発して何らかの動きに出る公算は大きい。ただ、それは相次ぐ自然災害や新型コロナウイルスの感染拡大、経済弱体化に苦しむ北朝鮮にどの程度の余力があるのかを、米韓両国の情報機関に分析させる材料にはなろうが、北朝鮮にとっては貴重なミサイルなどの在庫を減らすデメリットしかない。

こうしてみると、足元の中ロ朝の軍事的強硬姿勢には過剰反応する必要はないことが分かる。ただ、おそらく中国軍はウクライナ紛争の戦訓を慎重に研究し、今後30年程度を視野に「次世代型複合戦」の手法を磨こうとするだろう。そうした中長期的展開に関しては、日本や米国、台湾などは油断すべきではない。

[日経ヴェリタス2022年8月28日号掲載]

日経ヴェリタス https://www.nikkei.com/theme/?dw=20062208 』

米中間選挙、上院が最高裁の勢力左右 保守傾斜の行方は

米中間選挙、上院が最高裁の勢力左右 保守傾斜の行方は
米中間選挙 ポイントを読む⑧
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN1509X0V10C22A8000000/

『米議会上院は連邦最高裁判事を承認する。過半数の議席を握る政党は思想の近い判事を充てやすい。社会保障や銃保有、移民制度といった日常生活に影響を及ぼすため、有権者が上院選に関心を持つ要因となる。

いまは最高裁判事9人のうち、野党・共和党の考えに近い保守派が6人いる。6月に人工妊娠中絶を合衆国憲法が認める権利と位置づけた判決を覆した。発電所の温暖化ガス排出について、連邦政府の規制を制限した。ともに与党・民主党を支持するリベラル派の理念に反し、激しい反発を招いた。

定数100議席の上院は民主党と共和党が50議席ずつを握る。仮に最高裁判事をめぐる採決で賛否が50対50になれば、民主党は上院議長を兼ねるハリス副大統領が1票を投じて承認に持ち込める。11月の中間選挙で民主党は1議席でも減らすと、最高裁判事に欠員が生じても後任の承認は難しくなる。

民主党には苦い思い出がある。2014年の中間選挙で民主党は上院の多数派を失った。16年にアントニン・スカリア判事が死去した。当時のオバマ大統領は後任にリベラル派のメリック・ガーランド氏(現・司法長官)を指名したが、共和党が承認手続きを進めずに阻止した。

17年に大統領に就いたトランプ氏は保守派のニール・ゴーサッチ氏を後任に指名し、多数派の共和党がスムーズに承認した。18年の中間選挙では共和党が下院で敗北したが、上院は議席を伸ばして多数派を維持した。20年にリベラル派ルース・ギンズバーグ氏が死去すると、保守派エイミー・バレット氏を指名して保守支配を固めた。

バイデン大統領はリベラル派スティーブン・ブライヤー氏の後任にケタンジ・ブラウン・ジャクソン氏を指名して承認した。判事は若返ったが、保守派6人、リベラル派3人の構図は変わっていない。

(ワシントン=中村亮)』

米軍アフガン撤収1年

米軍アフガン撤収1年 中国・ロシアの増長招く
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN274A40X20C22A8000000/

『【ワシントン=坂口幸裕】アフガニスタンの駐留米軍が撤収してから30日で1年になる。想定外の現地の混迷は米国の威信を低下させた。海外紛争への関与に慎重とみたロシアによるウクライナ侵攻を招いたとの見方は根強い。バイデン大統領の1年前の決断が政権運営になお影を落とす。

バイデン氏は26日、アフガンの米軍撤退直前に米兵13人が死亡した自爆テロから1年を受けて声明を発表した。8月に発表した国際テロ組織アルカイダの最高指導者ザワヒリ容疑者の殺害などを挙げ「米国に危害を加えようとするテロリストがどこにいようと追い詰める」と対テロ作戦を継続する姿勢を強調した。

バイデン氏にとって2021年8月は暗転の始まりだった。米国史上最長のアフガン戦争の終結は世論が望んだはずだったが、米マーケット大が21年9月に実施した世論調査によると、74%が米軍撤収を支持したものの、バイデン氏の撤収への対処を66%が「好ましくない」と答えた。

若い米兵の犠牲を防ぐのが撤収理由のひとつだったが、現地の混乱を狙ったテロで13人の米兵が殺害された。欧州の同盟国からも慎重論があった8月31日の撤収期限にこだわった結果だっただけに、国内外でバイデン氏の指導力に疑問符がついた。

国連によると、アフガンで21年8月から10カ月の間にテロによる死者は700人。負傷者は1400人以上にのぼる。

世界で米国の存在感が薄まる「力の空白」は中国やロシアなど米国と敵対する国に増長する隙を与えた。米国際評価戦略センターのリチャード・フィッシャー主任研究員は「ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を決めたのは米国のアフガン撤退が引き金になった可能性が非常に高い」とみる。

2月24日のウクライナ侵攻に先立ち、バイデン氏は同国への米軍派遣を否定した。軍事力の行使をためらう米国の抑止力低下は隠しようがなく、冷戦後の国際秩序が揺らぐ現状を映す。

アジアにも波及する。ウクライナ危機に伴う安全保障環境の変化は、米国がテロとの戦いから中国との競争に重心を移すさなかに起きた。米国の対中国の抑止力強化が妨げられれば台湾海峡や東・南シナ海の安定を損なう事態になる。

中国軍は8月上旬、ペロシ米下院議長の訪台に反発して台湾周辺で大規模な軍事演習を実施。台湾上空を通過するミサイルも発射した。中国軍はこうした動きを常態化させようともくろむ。米国は日本やオーストラリアなど同盟国とともに、中国を抑止する戦略を具体化する作業を急ぐ必要がある。

米国内でも低下したバイデン氏の求心力は回復していない。米リアル・クリア・ポリティクスによると政権発足直後の21年1月下旬に56%あった世論調査の平均支持率は、アフガンを巡る混乱で批判が高まった同年8月中旬以降、一貫して不支持が支持を上回っている。

足元では与党・民主党内の対立で滞っていた歳出・歳入法の成立などに加え、歴史的な物価高に一服感が出ていることを受けて支持が持ち直してはいる。7月中旬に36%台まで落ち込んだ支持率は28日時点で42%に戻したが、アフガン撤収前の水準には遠い。

バイデン氏に対する審判となる11月8日投票の中間選挙まで残り2カ月余り。1年前に下したアフガン撤収判断がいまも政権の重荷になっている。

【関連記事】

・米、対テロ作戦の継続強調 撤退直前の兵士犠牲1年
・パキスタンでテロ続発 親タリバン組織との和平揺らぐ

ニューズレター
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鈴木一人
東京大学 公共政策大学院 教授
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分析・考察

私もあちこちでフィッシャーさんのいうように米のアフガン撤退がプーチン大統領にウクライナ侵攻のきっかけを与えたと論じてきたが、裏返せば、これまでアメリカが介入するということがいかに他の国を抑止してきたか、ということでもある。それはつまり、アメリカによる平和という時代が終わり、国際関係が第二次大戦以前の姿、すなわち主権国家が互いに自らの利益のために対立するという姿を見せ始めているともいえる。ただし、こうした介入が出来るのはロシアが自ら大国だと自認しているからであり、どこでも起こる話ではない。
2022年8月30日 10:42

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柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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ひとこと解説

バイデンの国際戦略は間違いなく間違っていた。アフガン撤兵はもとより、ウクライナ戦争に参戦しないと早々手のひらをみせたのも。ただ、アメリカの国力が予想と違って、依然強い。この点についてプーチンは後悔しているはず。そして、かつてないほどアメリカの同盟国は予想以上に団結している。これから新たな国際秩序を構築しないといけない
2022年8月30日 7:23』

IMF、パキスタンに追加支援 11億ドル引き出し可能に

IMF、パキスタンに追加支援 11億ドル引き出し可能に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN300BE0Q2A830C2000000/

『【ワシントン=高見浩輔】国際通貨基金(IMF)は29日に開いた理事会で、パキスタンへの追加支援を決定した。「特別引き出し権」と呼ばれる、緊急時に米ドルやユーロなどを引き出せる権利を8億9400万SDR(約11億米ドル相当)拠出する。同じ枠組みでの支援額は約39億米ドル相当となった。

経常赤字が続いているパキスタンはロシアのウクライナ侵攻を受けた燃料高などが国内経済を下押しし、外貨準備の減少と通貨下落が止まらなくなった。4月に成立したシャリフ新政権が燃料価格を下げるための補助金を撤廃したことで、物価高による家計の生活難が一段と深刻になったとの指摘がある。6月以降はモンスーンによる豪雨が各地で相次ぎ、被害が拡大している。

IMFによると、こうした途上国への支援残高は7月末時点で1083億SDRと、新型コロナウイルス禍前の19年末から約1.5倍になっている。
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村上芽
日本総合研究所創発戦略センター シニアスペシャリスト
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ひとこと解説

熱波や干ばつなど気候変動による物理的被害が世界各地で報じられていますが、パキスタンでは、6月以降、3か月も豪雨が続き、1000人以上が亡くなっているとのことです。化石燃料依存に伴う燃料高や物価高で経済や生活が傷んでいるところに自然災害が発生するといった複合的な事態は、考えたくはありませんが今後も世界各地で起こるでしょう。先進国には、支援するための余力を持ち続けることも必要でしょうが、気候変動対策を加速させることが「そもそも」最重要です。
2022年8月30日 8:22

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伊藤さゆり
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
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ひとこと解説

今夏、欧州が「500年ぶり」という深刻な旱魃と水不足に悩まされているが、パキスタンのモンスーンによる大雨被害は、国土の3分の1が浸水、死者は1100人を超え、被災者は3300万人に上るなど想像を絶する前例のない規模に上っているという(BBCの報道による)。
多くの人が住む家を失っているため避難のためのテントが必要としており、水や食料などの支援物資も不足しているという。
金融支援と共に人道的な支援も急務となっている。
2022年8月30日 12:28 (2022年8月30日 12:41更新)

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慎泰俊
五常・アンド・カンパニー株式会社 代表取締役
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ひとこと解説

アジアであればスリランカ、パキスタン、ミャンマー、南米であればアルゼンチン、エクアドル、エルサルバドル、ヨーロッパならウクライナとベラルーシ、アフリカならチュニジア、ガーナ、エジプト、ケニヤ、エチオピア、ナイジェリアらが国家デフォルト懸念先とされています。

パキスタンの主要債権者は中国・日本・世界銀行で、IMFとの交渉はかなりスムーズに行われた印象です。一方で、ザンビアやスリランカなどはかなり時間がかかっています。インフレの影響で自国通貨が安くなるなか、多くの途上国がデフォルトの危機にあります。IMFがスピーディに支援をしないと、一般の人が極めて苦しい思いをすることになると思います。
2022年8月30日 10:23 』

バイデン政権、台湾への武器売却を議会に要請へ

バイデン政権、台湾への武器売却を議会に要請へ 米報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB301JK0Q2A830C2000000/

『【ワシントン=共同】米政治サイト、ポリティコは29日、米国による台湾への11億ドル(約1500億円)規模の武器売却を承認するようバイデン政権が議会に要請する計画だと報じた。対艦ミサイル60基や空対空ミサイル100基が含まれるとしている。中国から軍事的圧力を受ける台湾を支える姿勢を打ち出し、中国をけん制する狙いがある。

米国は台湾関係法で、台湾が自衛のために必要とする武器の供与や防衛支援を約束している。台湾支援は超党派で支持されており、議会は承認する見通し。中国の反発は必至だ。

【関連記事】

・米国、台湾支援へ超党派新法 「政治の季節」強硬に傾く
・台湾海峡に嵐の予兆 米中の対立、危険な水域へ突入 』

外貨建て保険で損失 自称アドバイザーにご用心

外貨建て保険で損失 自称アドバイザーにご用心
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB1007K0Q2A710C2000000/

※ 「外貨建て資産」の場合、ここが「盲点」になるんだよね…。

※ あたり前の話しだが、「外貨建て」なわけだから、買う時も売る時も、両方に「為替手数料」がかかる…。

※ そこをしっかり「計算」しておかないと、ヘタな「利益」は、「手数料」で消し飛ぶんだよね…。

※ さらには、「解約時にも」手数料がかかる場合もあるようだ…。

※ FPを名乗っていても、実態は「単なる、保険の代理店」ということが往々にしてあるんで、気をつけよう…。

『高リスクの金融商品や不動産取引を巡るトラブルを避けるために「アドバイザー」をどう活用すればいいのか、NPO法人みんなのお金のアドバイザー協会副理事長の岩城みずほさんが指南します。

資産形成に向かない商品は仕組み債の他にもあります。会社経営のAさん(52)は、アドバイザーと称する保険の販売員に勧誘され、貯蓄目的で外貨建て保険を複数契約しています。年間保険料は2万1000米ドルにも及び、このところの円安で毎月の支払保険料が増えました。

【これまでの連載】仕組み債のリスク回避、アドバイザーにも責務

米ドル建ての保険は保険料を円で支払い、保険会社の決めた為替レートで米ドルに換算されて運用されます。満期時や解約時は、その時の為替レートによって受取金額が変動します。支払時と受取時、ともに為替手数料がかかります。円安が続けば支払う保険料は割高になり、受取時に円高であれば受取保険金は少なくなります。超低金利の円に比べ、高金利通貨は魅力的に見えるでしょうが、外貨建て保険で積み上げて行った積立金等は、一般的にはいつかは日本円に戻します。その時、加入時よりも円安なら良いですが、円高ならば、払い込んだ円換算の金額を下回り、損失が生じることもあります。

その商品は貯蓄に向くの?

低金利が続く中、生命保険会社が契約者から預かった保険料を運用する際の目安となる標準利率は、2017年4月に1%から0.25%に下がりました。生命保険会社は、契約者から預かった保険料を運用し、将来の保険金の支払いに備えますが、金利が低くなると運用で得られる利益が少なくなるため、契約者に約束している運用利回り(予定利率)が下がり、保険料が高くなります。そのため保険会社は、終身保険や養老保険などの貯蓄性保険の保険料を引き上げたり、販売をやめたりしました。

生命保険会社のアクチュアリーに聞くと、性別や年齢で異なりますが、当時の上げ幅は平均5%程度で、純保険料ベースでの終身死亡保険の保険料は30歳から40歳の間で19%から15%程度の幅で上昇したそうです。このような背景から生命保険会社は、日本より金利が高い状態にある米ドル建て保険の販売に力を入れました。その時セールスを受けて、Aさんは「米ドル建て養老保険」など複数を契約しました。「養老保険」は死亡保障と老後資金の準備を目的とした保険で、死亡したときは「死亡保険金」が、満期まで生存すれば「満期保険金」が支払われます。「貯蓄」と「死亡保障」が組み合わさった商品ですので、両方に費用がかかり保険料は割高になります。

お金を増やすことが目的なら、わざわざ高い費用を払って保険でお金をためる必要はありません。高い費用がかかる貯蓄性保険よりも、確定拠出年金や少額投資非課税制度(NISA)を使って、低コストの投資信託で長期積み立て分散投資をしていく方が合理的です。

Aさんも商品選択の間違いに気が付き、解約返戻金相当額を原資に新しい保険に加入する「払済保険」にすることを考えました。払済保険にすると、以降の保険料の支払いはなくなります。しかし、解約していないにも関わらず「解約控除が発生する」と言われました。結果、解約返戻金額相当額は払い込んだ保険料を大きく下回ります。通常、新契約費用は保険料の払込期間全体にわたって少しずつ回収されますが、保険料が払い込まれなくなった契約から費用回収するための仕組みが解約控除です。解約でも払済保険でも、解約返戻金の計算で解約控除がかかる場合があります。利殖のつもりが減らしてしまったAさん。そもそもなぜこんなことになったのでしょうか。

無料相談の落とし穴

「ライフプランをしっかり立てて必要な資金を作っていきましょう」と言われ、Aさんは、子供にかかる教育費や老後どんな生活をしたいかなどを相談して資金計画を立てた結果、5つの保険商品を勧められて契約しました。相談料は無料でした。

このアドバイザーの目的は保険契約なので、相談は無料でも困りません。本来は、顧客の利益優先で人生のお金の相談に乗り、最善の方法を提示する職業をアドバイザーといい、価値のある相談は無料ではありません。この自称アドバイザーは、ライフプランの相談を「商品を販売するためのツール」として使ったに過ぎません。もっと言えば自分の本職ではない分野を、自分のビジネスに利用しているということです。なぜアドバイザーと名乗るのでしょう。

どんな職業でも、プロであれば、そこに優劣はないはずです。プロの販売員として顧客利益を優先し、利益相反や販売によって受け取るコミッションを正しく伝えて透明性を保ち、自ら最善だと思える商品を提供すればよいのです。しかし、そんな使命感や職業意識を持ったプロが少ないから、多くの人がアドバイザーと名乗るのではないでしょうか。

ファイナンシャルプランナー(以下「FP」)も、同じ意識を持って「フィデューシャリー・デューティー宣言」を行い、「お客様のために」自らの業務を遂行することを公約する必要があるでしょう。残念ですが、FPの中には、顧客に対し不適切な金融商品の販売や仲介をして金融機関からコミッションをもらい、収入の柱にしている人がいます。そのような人は、手数料収入を得ることで顧客へのアドバイスの内容や金融商品等の選択に影響を及ぼす可能性があることを率直に認めるべきですし、少なくとも事前に販売にかかわっていることを顧客に対して明らかにすべきでしょう。

岩城みずほ(いわき・みずほ) NPO法人みんなのお金のアドバイザー協会副理事長、ファイナンシャルプランナー(CFP)。放送局を経てフリーアナウンサーとして14年活動、会社員を経て2009年独立。金融商品の販売によるコミッションを得ず、顧客の利益を最大限に中立の立場でコンサル等を行っている。著書に『「保険でお金を増やす」はリスクがいっぱい』(日本経済新聞出版)など。

このような話をすると、金融商品等の販売に関わるFPの言い分の一つに、ライフプランに沿ったマネープラン設計など、FP本来の仕事である個別相談ビジネスだけでは食べて行けないので、金融商品を売ってコミッションを得ることは「仕方がない」ということがあります。「FPでは食えない」ということは業界でもよく言われています。その原因の一つに、個別相談が日本ではまだ十分に浸透していないということもあるでしょう。加えて、多くの金融機関等では「無料のセミナーやその後の無料個別相談」が行われていることもあり、コンサルティングフィーを支払うという発想を持たない人が多いという現実があります。

しかし、こうしたセミナーや相談の後ろには、主催者が売りたい商品があるのが常です。これらのイベントは顧客本位のサービスではなく、金融機関の形を変えたセールス行為であると認識する必要があるでしょう。

日経ヴェリタス「プロが解説」より。次回は「変額保険」についてです。
日経ヴェリタス https://www.nikkei.com/theme/?dw=20062208 』

ロシア軍、半数の8万人死傷 兵力増員に透ける焦り

ロシア軍、半数の8万人死傷 兵力増員に透ける焦り
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM271S10X20C22A8000000/

『ロシアが軍の兵員数を増強する方針を打ち出した。ウクライナ侵攻に投入したロシア兵の半分強が死傷したとみられ、ロシアの苦境は鮮明だ。米欧の軍事支援を追い風にウクライナ軍は、主に南部地域で反攻作戦を本格化する公算が大きい。

ロシアのプーチン大統領は25日、ロシア軍の兵員数を13万7000人増やし、約115万人にする大統領令に署名した。ウクライナ侵攻に約15万人を投入したが、米英両軍などの見積もりでは半分強の約8万人が死傷したとみられる。近年は兵員数を圧縮し、装備の近代化に国防費を振り向けてきたロシア軍だけに明確な方針変更となる。

2月24日に始まったウクライナ侵攻は「量のロシア軍」対「質のウクライナ軍」の戦いだ。

4月ごろまでは量で圧倒するロシア軍を米欧製の小型精密誘導火器を駆使するウクライナ軍が食い止めた。ロシア軍は首都キーウ(キエフ)陥落を断念、いったん占領した北部地域を放棄した。

5月から7月にかけてはロシア軍が東部や南部で占領地域をじわじわ拡大した。火砲や砲弾の量で勝るロシア軍に対し、ウクライナは苦戦した。

8月以降は「質のウクライナ軍」が盛り返す展開となった。米国が提供した高機動ロケット砲システム「ハイマース」がロシアの火砲よりも射程が長い利点を生かし、無人機の観測能力も駆使することで、ロシア軍の前線司令部や補給物資集積地を効果的にたたいた。
ロシアが2014年に制圧し支配を既成事実化しているクリミア半島でも、ロシア軍が被害を受ける事態が続出した。ウクライナ軍は認めていないものの、同軍の特殊部隊などの作戦の結果である可能性が濃厚だ。

南部での軍事作戦の拠点であるクリミアが安全でなくなり、ロシア軍は浮足立っている。ロシア軍が国際社会の反発を承知で南部ザポロジエ原子力発電所を事実上「盾」にしながら攻撃しているのも、苦境の表れとみてよいだろう。

冷戦時代、北大西洋条約機構(NATO)軍は、ソ連軍を基幹とするワルシャワ条約機構(WPO)軍が西欧に侵攻してきた場合、最前線のWPO軍部隊を食い止めると同時に、後続の第2波、第3波の部隊を長距離攻撃でたたき、最前線の敵部隊を孤立させて粉砕する戦術を準備していた。クリミア駐留ロシア軍部隊への攻撃は、NATO軍の戦術を忠実になぞっているようにもみえる。

「ウクライナと支援する米欧、そしてロシアの双方とも、秋から冬にかけてが正念場となろう」(元自衛隊情報系幹部)。ロシアの大統領令が発効するのは年明けで、ロシア国内では軍に入ることを忌避する空気も広がりつつある。プーチン政権は刑務所の受刑者を兵士にするというスターリン時代のソ連をまねた策までとり始めている。

戦地にいるロシア軍の士気低下は、過去にシリア内戦に派兵された実戦経験豊富な部隊にも及んでいるもようだ。ロシア軍の火砲や装甲兵員輸送車などは当初投入の約半分が破壊されたとみられ「大規模攻勢に出られる状態ではない」(同)。

米欧国防当局はウクライナへの軍事支援を継続する構えだ。ロシアから武器を輸入してきた中国軍に自信を喪失させる効果も狙える。ハイマースや対戦車砲ジャベリンなどは「戦場で効果が実証された兵器」として国際武器市場で引く手あまたとなる。ウクライナ支援は特に米軍産複合体にとって利点が多い。

今後ハイマースなどの兵器を増強できれば、ウクライナ軍は南部を中心に反攻を加速し、11月ごろまでにロシア軍の南部支配地域を徐々に奪回できる展開が見えてくる。

ただ米欧の国防当局が無制限に支援を継続できる保証はない。米欧諸国で「ウクライナ支援疲れ」が広がれば流れは変わりうる。戦闘は越年する見通しだが、天然ガス輸出というロシアの「武器」が最も効果を発揮する中・東欧の暗く極寒の冬に向けて、米欧が結束を維持できるかが今後の展開を左右しそうだ。

(編集委員 高坂哲郎)

【関連記事】ロシア、兵員13万人増の大統領令 侵攻の戦力補充か

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上野泰也
みずほ証券 チーフマーケットエコノミスト
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ひとこと解説

ロシア、ウクライナとも自軍の死傷者数の発表を行わないようになっているが、さまざまな情報から考えて、士気や兵器の質の面で劣るロシアの方が、人的・物的な損害は大きいようである。部隊の実働人員や稼働する兵器数が定員を大きく下回っており、攻勢に出るのが難しいケースもあるという。となると兵員の補充という話になるが、プーチン大統領は総動員令を出すのをためらっている。ウクライナに対する侵略戦争がうまくいっていないことが露呈するのみならず、徴兵に踏み切ると国民の不満が増し、国内で戦争反対のうねりが生じかねないからである。一方、ウクライナは総動員令を発しており、11月下旬までの期限延長法案を議会に出している。
2022年8月30日 7:38

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鈴木一人
東京大学 公共政策大学院 教授
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分析・考察

もう一つ重要なポイントは、「量のロシア軍」は在庫で戦っているという点。経済制裁を受けることで、必要な兵器を入手することが困難になり、物量で圧倒することが困難になっている。他方、「質のウクライナ軍」は継続的に西側諸国から武器の供給を受け、戦争を継続する能力を維持している。こうした「ストック対フロー」の戦いが長期化するとフローの方が有利になる。
2022年8月30日 10:35』

中国が学ぶ対ロシア制裁の限界(The Economist)

中国が学ぶ対ロシア制裁の限界(The Economist)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB280QK0Y2A820C2000000/

 ※ 今般のウクライナ事態で、最も押さえておくべきことは、「(人口動態含めた)地理と歴史の力」がもたらす「力学」「構造」に、「人間の力で立ち向かうこと」は、極めて難しい…、ということだと思う…。

 ※ 別に、「決定論者」「運命論者」では無いが、やはり、「人間の力」の「限界」というものをまざまざと示してくれている…、と思う…。

 ※ まあ、そういう重要性を考えても、ますます、「地理と歴史の力」の解明に精力注ごうと、考えているところだ…。

 ※ 文献も、いっぱい買ったしな…。

 ※ と言っても、kindle本を含めて、5冊くらいのものだが…。

『ロシアは6カ月前にウクライナへの侵攻を開始した。戦場では、1000キロメートルに及ぶ前線で死と破壊がもたらされ、消耗戦が続いている。戦場の外では、もう一つの戦いが展開されている。欧米諸国が1.8兆ドル(約250兆円)規模のロシア経済にダメージを与えようとこれまでにない制裁を相次ぎ駆使し、1940年代以降で最も激しく広範囲に及ぶ経済的な対立を繰り広げている。
欧米諸国はロシアのオリガルヒが所有する豪華ヨットを差し押さえるなどしているが、制裁全体としては期待したほどの成果を得られていない=ロイター

この経済制裁の効果は、ウクライナ戦争の結果を占うカギとなる。同時に、自由民主主義諸国が2020年代後半以降、世界に向けて持てる力をどれくらい誇示できるか、ひいては中国に対してどのくらい力を行使できるのかも浮き彫りにしている。危惧すべきことに、制裁による反撃は今のところ狙い通りの成果を上げていない。

欧米諸国とその同盟諸国は2月以降、数千に及ぶロシア企業と個人を対象に前例のない制裁を次々と科した。ロシアが保有する外貨準備5800億ドルの約半分を凍結し、ロシア主要行のほとんどを国際決済システムから締め出した。米国はロシア産原油の輸入を停止し、欧州も23年2月に禁輸措置を全面的に発効させる。エンジンから半導体に至るまで、ロシア企業への資材輸出も禁じた。

オリガルヒ(新興財閥)や政府高官は、渡航禁止や資産凍結を科されている。米国の専門部隊「クレプトキャプチャー(窃盗犯の逮捕)」は、世界的に有名な宝飾品「ファベルジェの卵」を載せたとされる豪華ヨットを差し押さえた。

こうした制裁は欧米の世論を満足させるばかりか、戦略的な狙いがある。短期的には、少なくとも当初は、ロシアに流動性と収支上の危機をもたらして戦費を枯渇させ、ロシア政府に方針転換を迫るのが目標だ。

長期的にはロシアの生産能力と技術水準を衰退させ、プーチン大統領が他の国に侵攻しようとしても、軍備や物資の不足から難しくするというものだ。最終的な狙いは、戦争を仕掛けようとする他国を思いとどまらせることだ。
ロシア経済をまひさせようとした制裁

こうした野心的な狙いの裏には、西側諸国の新しい戦略がある。米国が他の追随を許さない優位性を誇った1990年代の一強体制はとうの昔に終わった。イラク戦争やアフガニスタン戦争を経て、欧米諸国は軍事力の行使に消極的になった。

21世紀の経済の心臓部ともいえる経済的・技術的ネットワークを支配することで持てる力を行使できる制裁は、欧米にとって一つの答えのように思えた。制裁によってこの20年間、人権侵害を罰し、イランやベネズエラを国際的に孤立させ、中国通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)のような企業を窮地に追いやるために発動してきた。

しかし、今日の対ロ制裁は世界11位の規模を誇り、エネルギーや穀物など国際商品の輸出大国であるロシア経済をまひさせることを目的とするもので、制裁のあり方を新たな次元へと押し上げている。

その結果はどうだろう。欧米市場から締め出されたロシア経済は3~5年後には壊滅状態になる。2025年までに民間航空機の5分の1は部品不足で離陸できなくなるだろう。通信ネットワークの更新は遅れ、消費者に欧米のブランドが手に入らなくなる。

ロシア政府や経済界の実力者が自動車工場からマクドナルドの店舗まで、欧米の資産を没収する中で縁故資本主義がはびこっている。独裁主義という目の前の現実や、自国がいずれ中国のガソリンスタンドと化してしまう将来の見通しへの幻滅が広がり、優秀な市民は国外に流出している。
100カ国以上が対ロ禁輸を実施せず

問題は、そうした経済への決定的な打撃が現実になっていないことだ。国際通貨基金(IMF)は、ロシアの国内総生産(GDP)が22年に6%縮小すると見込む。3月時点で大方が予想した15%の縮小にもならなければ、ベネズエラの経済ほども縮小しなかった。22年のロシアの経常黒字はエネルギーの輸出に支えられて2650億ドルに達し、中国に次ぐ世界2位の規模となる見通しだ。

一時的に逼迫した金融システムは落ち着きを取り戻し、一部の輸入品については中国など新しい供給元を確保した。一方、欧州ではエネルギー危機が景気後退(リセッション)の引き金を引きかねない状況だ。ロシアが天然ガスの供給を絞る中、欧州のガス価格は一時さらに20%上昇した。

制裁という武器には欠点があることも判明した。1つはタイムラグがあることだ。欧米が独占する技術の禁輸措置は効果が出るまでには数年かかる。しかも独裁国家は資源を総動員できるため、禁輸の打撃が出始めてもそれをうまく吸収できる。

2つ目は、制裁によって科す側が被る反動だ。欧米に比べればロシアの経済規模は小さいが、プーチン氏が支配するガスへの依存から脱却したいとの願いは通じない。制裁の最大の欠点は、全面的・部分的な禁輸を実施していない国が100カ国以上に上り、世界のGDPの4割を占めていることだ。

ロシア産原油の代表的油種「ウラル」は今もアジアに流れ込んでいる。アラブ首長国連邦(UAE)のドバイではロシアマネーがあふれ、エミレーツ航空などはモスクワに1日7便運航している。グローバル化した経済は、有事や好機にすぐに適応できる。欧米の政策実行に後ろ向きな国が大半を占める今は、なおさら対応が早い。

このため欧米は、制裁という軍事力に頼らなくてすむ割安な手段をロシア以上に大きな独裁国家である中国に対し行使しても、報復を招かずして効果を上げられるという幻想は捨て去るべきだ。中国の台湾侵攻を事前に食い止めたり、事後に罰したりするために、欧米は中国の3兆ドル規模の外貨準備を凍結し、中国の銀行を国際決済システムから排除することは可能だろう。

だが、ロシアと同様、中国経済は崩壊することはないだろう。それどころか中国政府は報復として、電気製品や電池、医薬品の輸出を禁じ、米小売り大手ウォルマート店頭の棚を空にして欧米を大混乱に陥れることもできそうだ。最大の貿易相手国は米国ではなく中国という国の方が既に多いことを踏まえれば、全世界で対中制裁を実施することは対ロ制裁以上に難しい。
ハードパワーなど多面的な行動が不可欠

ウクライナ紛争から学ぶ教訓があるとすれば、それはむしろ、好戦的な独裁国家と対立するには多面的に行動しなければならないということだ。ハードパワーは欠かせない。民主主義諸国は、敵対国が優位にある資源といった死活分野での依存を引き下げねばならない。

制裁が重要な役割を果たすとはいえ、欧米はむやみに制裁を増やすべきでもない。欧米による制裁が広がり、自国もいつかその対象になるのではないかと恐れるほど、他国への制裁には参加したがらなくなるからだ。

ロシアのウクライナ侵攻開始から半年が経過した今、民主主義国家が現実に適応しつつあることは明るい材料だ。重火器が次々とウクライナに供与され、北大西洋条約機構(NATO)はロシアと国境を接する欧州地域の防御体制を強化している。欧州は天然ガスの新しい調達先を確保し、クリーンエネルギーへの移行を加速させている。

米国は中国テック各社への依存を減らすとともに、台湾に防衛力強化を促している。一方で問題なのは、習近平(シー・ジンピン)国家主席が率いる中国をはじめ、あらゆる独裁国家はロシアに対する欧米の制裁の行方を注視し、制裁による欠点を学び取るのに余念がないことだ。

ウクライナ紛争は軍事的、技術的、経済的要素が絡み合った21世紀型の対立という新時代を象徴するものだ。その時代は、欧米が優位にあるわけではない。ドルや半導体に頼るだけでは、誰も力による現状変更に立ち向かうことはできない。

(c) 2022 The Economist Newspaper Limited. August 27, 2022 All rights reserved.
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伊藤さゆり
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
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別の視点

ドル、ユーロ、円、ポンドなど制裁に参加した通貨が国際取引に占める割合は、国の数やGDPに占める割合より遥かに高い。金融制裁の効果が期待された理由だ。
しかし、エネルギー収入が得られるロシアは、国際金融市場へのアクセスが制限され、資本流入が絞られても麻痺しなかった。
逆に、国際通貨や国際金融市場での圧倒的地位を武器化したことで、西側通貨や金融市場の地位低下は進みそうだ。
中国が、巨額の外貨準備の分散をしようにも受け皿がないからドルの支配は揺るがないとの見方はあるが、外貨準備自体を減らす対応は可能だ。
グローバル化は、供給網だけでなく金融面でもピークは過去のものになったのではないか。
2022年8月30日 12:14

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日本人の承認欲求 (新潮新書) 新書

日本人の承認欲求 (新潮新書) 新書
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%89%BF%E8%AA%8D%E6%AC%B2%E6%B1%82-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%A4%AA%E7%94%B0-%E8%82%87/dp/4106109476

 ※ テレワークを阻んでいるのは、結局は「ヒトの社会的欲求」という話しかい…。

 ※ ことは「欲求」「欲望」なんで、課題解決するのは難しい…。

 ※ 「解脱じゃあ。解脱するんじゃあ。」…。

『苦手な上司も、厄介な部下も、根っこは同じ!?

ムダな出社を命じられる、在宅勤務なのに疲れる、新人が職場に馴染まない。
コロナの感染拡大が落ち着くと、多くの企業は瞬く間に出社へと切り替えた。
日本でリモート改革が進まない原因は、閉ざされた組織に巣くう特異な「承認欲求」にある。
誰もが持つ認められたい気持ちをコントロールし、満たされるにはどうすればいいのか――
組織研究の第一人者が、日本的「見せびらかし」文化の挫折と希望を解き明かす。』

『(目次)

序章 テレワークの普及を拒む、最大の「壁」

「日本的な働き方」のナゾを解く、二つのキーワード/テレワーク生活で気づいたこと

そしてメンタルにも支障が/薄れる管理職の存在感/社内の勢力図が変わった

日本の弱みを強みに変えられるか

第一章 「テレワークうつ」の正体は承認不足

一 なぜ出社しないと不安になるのか?

奪われた「見えない報酬」/誤解・軽視される承認欲求/自分を綺麗に映す鏡がほしい
リモートでは得られない承認もある/同期生に会えない不安/後々まで残る「承認不足」のダメージ

すぐに廃れた「リモート飲み会」/なぜ、自信が失われたのか/リモートだと緊張しないワケ

「気楽さ」と「物足りなさ」は表裏一体/葛藤の背後にある「承認欲求の呪縛」/部下が見えない上司の憂鬱

仕切りがないオフィスへのこだわり/大部屋で働きたがる上司は、よい上司か?/管理職特有の承認欲求とは

二 テレワークで気づいた会社の存在感

日本人にとって「会社で認められる」意味は/能力・個性が認められる唯一の場所
日本の企業人は社外に友人がいない/会社は「見せびらかし」の場

第二章 「見せびらかし」文化の罪

一 やる気の原動力は「見せびらかし」?

役職ポストの威光/「見せびらかす」ための競争/理性で制御できない、肥大化した承認欲求

二 「働き方改革」と生産性向上の足を引っ張る承認欲求

上司の目がないと〝やる気〟が出ない/認められるための残業?/根強い役職ポストへの執着

ムダがムダを呼ぶ本末転倒の連鎖

三 承認の相互依存がゆがめる人事

「近くにいる者ほど評価される」という法則/承認の返報性原理

第三章 「見せびらかし」から「チラ見せ」へ

一 奪われた「ハレの舞台」

テレワークで「見せびらかし」が困難に/「偉さ」の基盤が崩壊

フラット化する社会に「偉さ」は無縁/回り始めた負のスパイラル

二 「チラ見せ」に長けたZ世代も……

自尊感情を表に出さない日本の若者/叩かれないための「チラ見せ
Z世代は「チラ見せ」の達人/管理職も外では「チラ見せ」が必要

「チラ見せ」で品格が問われる社会/チラ見せに呼応した、社内の「ほめる」取り組み
嫉妬を避けるため表彰も控えめに/内向きになった若者/リアルな関係に飢えるZ世代

第四章 テレワークで反転攻勢に……そのカギは

一 日本人の価値観も「ハイブリッド型」に?

コロナ禍を改革の好機に/「ハイブリッド型」の働き方が主流に/コスモポリタンとローカル

テレワークの制度化が転機に/共同体の呪縛から脱却

二 消える承認の「床」と「天井」、そして「壁」

承認の「床」が抜ける?/捨てる神あれば拾う神あり/「天井」にも穴が開く

三 副業が「個」を解き放つ

「副業解禁」のインパクト/副業で社会的な尊敬を得るチャンスが/起業の原動力は
強い承認欲求/テレワークが切り開くシームレスなキャリアチェンジ/コワーキング
スペースが承認の場に/崩れる会社の「壁」/時間の「壁」も消える/テレワークで得をする人

四 日本人が捨てるもの、生かすもの

「濃い関係」の強み/「見せびらかし」文化の復権/「偉い」から「すごい」「さすが」……へ

会社のなかにも新たな変化が

あとがき 』

テレワークで行き場失う承認欲求

テレワークで行き場失う承認欲求 偉さ誇る時代の終わり テレワークと承認欲求(上) 同志社大学政策学部教授 太田 肇
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOCD237TV023052022000000

『2022/7/4

 新型コロナウイルス禍を受けて、半ば強制的にテレワークが導入されてからおよそ2年が経過した。コロナ禍が落ち着きを見せるとともに大都市圏では通勤ラッシュが復活し、オフィスにもにぎわいが戻ってきた。会社が対面での働き方に戻し、出社を求められるようになった会社員も多いだろう。

テレワークの普及で管理職が「偉さ」を誇る時代は終わりつつある(写真はイメージ)

 各種の調査から分かってきたのは、テレワークでどうしてもできない仕事はさほど多くないという事実だ。営業や窓口業務のほか、製造や建設現場の仕事ですらリモートでこなせるようになっている。むしろテレワークの定着を妨げる「見えない壁」が社会的・心理的な要因の中にあることが分かってきた。

 拙著『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』(新潮新書)は、社員の承認欲求、とりわけ職場という共同体の中で自分の存在感を示そうとする日本人特有の表れ方がテレワークの普及を妨げていることを明らかにした。さらにテレワークだけでなく、組織のスリム化やムダの削減といった改革にも少なからぬ影響を与えている。

 その一端は次の調査結果からもうかがえる。パーソル総合研究所(東京・港)が2020年3月にテレワークを行っている人を対象に行った調査では、回答者の4分の1以上が「私は孤立しているように思う」「私には仲間がいない」と答えた。テレワークの頻度が高いほど孤立感も強くなる傾向がみられた。

 なかでも管理職がテレワークの影響を強く受けていることは、「必要がないのに出社を命じられる」「リモート飲み会の開催を執拗に迫られる」といった部下が口にする不満の声からもうかがえる。

 管理職の承認欲求はこれまであまり注目されてこなかったが、他の欲求に勝るとも劣らない力で人の態度や行動に影響を及ぼすことが明らかになってきた。わが国特有の組織・社会構造によって欲求が前述した独特の表れ方をすることもわかってきた。

 「序列」意識させる大部屋オフィス

 本人がどれだけ意識しているかはともかく、日本企業の管理職にとって会社は自分の「偉さ」を見せびらかす場であり、それによって承認欲求を満たしているといってよい。地位の序列は「偉さ」の序列であり、大部屋で仕切りのないオフィスは序列を見せびらかすのに適した構造になっている。部下は上司の一挙手一投足に注目し、ひと言ひと言に耳を傾けてくれる。自分が仕切る会議やイベントは管理職にとってはハレの舞台だ。

 程度の差はあれ、非管理職や若手社員も意識は同じだ。社内での地位は低くても下請け企業や取引先に会社のブランドをひけらかすことがある。若手社員も新人が入ってきた途端にがぜん張り切り、先輩風を吹かす。先輩が新入社員を公私両面で指導するメンター制度も、メンティー(指導される側)はともかくメンター(指導する側)のモチベーションは明らかにアップする。

 背景にタテ社会と共同体型組織

 自分の「偉さ」を見せびらかすことによって承認欲求を満たす日本人サラリーマンの志向と行動特性は、日本の組織・社会特有の構造から生じている。

 一つは、わが国がいわゆる「タテ社会」(中根千枝著『タテ社会の人間関係』)だということである。社内の上司と部下の関係だけでなく、元請けと下請け、顧客と店舗、さらには取引先との間でも上下関係ができ、そこから「偉さ」の序列が生まれる。敬語や言葉遣いにそれが象徴的に表れる。要は「対等」という概念がないのだ。接待や宴会は「偉さ」を見せびらかす場でもある。

 もう一つは会社がイエやムラのような共同体としての性格を備えていることである。日本企業はいまだに終身雇用の枠組みを残しており、転職や中途採用などメンバーの入れ替わりが少ない。メンバーが固定化すると、自然に「偉さ」の序列ができる。

 このようなタテ社会と共同体型組織は、かつての工業社会、とりわけ少品種大量生産型システムとは相性がよかった。決まったものを正確に作るには、軍隊のような上意下達の規律正しい組織が効率的だった。単純な事務作業が中心のオフィスも同じだ。』

『ところが、ネットの世界は基本的にフラットである。テレワークはタテよりヨコの関係で進められる。これまで管理職が担ってきた情報の集約、伝達、仕事の配分といった仕事の多くは不要になり、組織の階層は少なくて済む。当然、管理職の数も減る。その結果、「偉さ」の源であるシンボルが消滅していく。

 テレワークだと物理的にも、社会的・心理的にも共同体の境界があいまいになる。上司からすると自分の存在を認めてくれる部下は目の前にいないし、部下は社外の人たちとネットワークを築いていく。情報・ソフト系の企業などでは、もはや会社の内と外との境界さえわかりにくくなっている。そのようななかで自分の「偉さ」を示そうとすると部下たちは離れていくか、下手をするとパワハラ扱いされるのがオチだ。

 健全な承認欲求を原動力に

 とはいえ、「見せびらかしたい」という意識は米国の心理学者アブラハム・マズローのいう「尊敬の欲求」(承認欲求の一部)からくるもので、それ自体を否定すべきではない。そもそも「欲求」である以上、食欲や性欲などと同様に捨て去ることは難しい。問題は人格的な上下関係に基づく「偉さ」を誇るところにあり、人格的に対等な関係の中で個々人が能力や業績、個性などを認められる場をつくればいいわけだ。

 ある機械メーカーでは、製造した機械に製作者の名前を入れて出荷するようにしたところ、若手の離職者がほぼゼロになった。毎月研究会を開いてメンバーが順番に自分の実績や得意なことを発表している職場では、メンバーの帰属意識や一体感が目にみえて高まったという。

 新たに表彰制度を取り入れた会社では「社員が失敗を恐れず挑戦するようになった」「社員のモチベーションが上がって業績がV字回復した」といった声が聞かれる。

 スポーツや芸能などの世界を見れば分かるように、「自分をアピールしたい」という欲求は活躍と成長の原動力にもなる。コロナ下のテレワークで従来の価値観や行動様式が通用しなくなった今こそ健全な形で承認欲求を満たせる場を広げていきたい。
太田肇(おおた・はじめ)
同志社大学政策学部・同大学院総合政策科学研究科教授。神戸大学大学院経営学研究科修了。経済学博士。専門は組織論、とくに「個人を生かす組織」について研究。日本労務学会常任理事。組織学会賞、経営科学文献賞、中小企業研究奨励賞本賞などを受賞。『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書)、『「ネコ型」人間の時代』(平凡社新書)、『公務員革命』(ちくま新書)、『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)、『個人尊重の組織論』(中公新書)、『「超」働き方改革』(ちくま新書)、『同調圧力の正体』(PHP新書)など著書多数。近著に『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』(新潮新書)。』

天正壬午の乱

天正壬午の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1

天正壬午の乱(1/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱
https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/166/

 ※ 『天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。』…。

 ※ ということだったが、「本能寺の変」勃発で、肝心の信長が死んじまったものだから、まず、その部下たち(名だたる信長の軍団長クラス)が「どうするのか、どう動くのか」という話しとなった。

 ※ それだけでなく、ここ信濃、上野(こうずけ)、越後は有力大名(徳川、北条、上杉、背後の常陸(ひたち)には佐竹)がひしめいていたんで、大名間の争いも勃発した。
 ※ さらには、稀代の戦略・軍略家である真田昌幸の所領もあったんで、その動向も無視できない…。

 ※ そういう諸勢力、諸武将間で(支配を嫌った農民の”一揆”も起きた)「信長亡きあと」の所領争いの争乱…、という話しのようだ…。

『天正10年(1582年)6月、「本能寺の変」で信長が討たれた後の混乱に乗じて起こったのが「天正壬午の乱」です。信長が治めていた旧武田領を徳川家、上杉家、北条家が3つ巴になって争うなか、旧武田領で信長に臣従していた真田家をはじめとした国人衆も自領を守るため参戦します。広範囲にわたって数度の戦いが発生しており、各武将の思惑が入り乱れているためわかりにくい戦いですが、今回はなるべく時系列に沿って解説します。
天正壬午の乱とは?

天正壬午(※ てんしょうじんご)の乱は、天正10年(1582年)6月から10月にかけて、旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)を徳川家・上杉家・北条家が争った合戦の総称です。それぞれ現在の山梨県・長野県・群馬県にあたります。3国を中心に各地で戦が起こっており、登場する武将も有名な人物が多いことが特徴です。

3家のうち徳川家は徳川家康、上杉家は上杉景勝、北条家は北条氏政と息子の氏直が中心となって戦っています。そして、乱の最中に自領を守りつつ勢力を拡大するため、上杉家→北条家→徳川家と次々と主君を変えていったのが、真田幸村(真田信繁)の父である真田昌幸です。

天正壬午の乱は同時期に各国で合戦が起きているため、少しわかりにくくなっています。まずは各家の動きについて大まかに押さえておきましょう。

織田信長の死後の混乱に乗じて、旧武田領の国衆が一揆をおこして織田家家臣を追い出す
上野国を北条家が奪取
信濃国を巡って上杉家と北条家が争うも、信濃北部4郡を上杉家が確保する形で講和
信濃国・甲斐国を巡って北条家と徳川家が争い、徳川家が2国を得る形で講和

結局徳川家が旧武田領で勢力を大きく伸ばすことになったことがわかると思います。では、なぜそうなったのでしょうか?詳しく見ていきます。

武田家滅亡後の旧武田領

天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。主な区分けは以下の通りです。

【信濃国】
川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を森長可

小県郡、佐久郡を滝川一益

木曾郡(本領安堵)と安曇郡・筑摩郡を木曾義昌

信濃諏訪郡を河尻秀隆

伊那郡を毛利長秀

【上野国】
滝川一益

【甲斐国】
河尻秀隆(穴山梅雪の河内領以外)

【駿河国】
徳川家康

滝川一益や河尻秀隆は2回名前が出てきますが、国をまたいで隣接した領地を得ています。
ちなみにこのとき真田家は旧領の一部を与えられた上で滝川一益の配下に入っています。

本来であれば、甲州征伐で信長に協力して出兵した北条氏政にも所領を与えられるはずなのですが、結局何ももらえず不満を募らせる結果となりました。

「本能寺の変」発生、旧武田領から織田家家臣が追い出される

甲州征伐の終了から3ヶ月後の天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれると、数日のうちにその情報は周囲に伝わり、旧武田領を治めていた織田家家臣たちは大混乱に陥りました。統治し始めたばかりの領地は完全に掌握できているわけがなく、国衆たちの反乱がおきる可能性があったからです。さらに、旧武田領の周囲には上杉家の治める越後国(新潟県)と北条家の治める相模国(神奈川県)があり、混乱に乗じて攻めてくるかもしれません。旧武田領は内にも外にも問題が多い「内憂外患」の状態にあったわけです。

そして織田家家臣たちの懸念通り、本能寺の変の知らせを受けて各国衆たちが動き始めます。6月12日には上野国で滝川一益の部下だった沼須城主の藤田信吉が離反し、一益の甥である滝川益重のいる沼田城を攻めます。一益の援軍もあり沼田城は持ちこたえ、信吉は上杉家に亡命しました。

ちなみに、このころ旧武田領を治めていた他の織田家家臣たちはどうしていたかというと、旧武田家家臣たちによる一揆をきっかけに撤退しています。当時越後に侵攻中だった森長可は本能寺の変を知るやいなや越後から撤退します。その後、配下から裏切り者が多く出たこと、一揆が発生したことなどから旧武田領から美濃に逃げ帰りました。

毛利長秀も一揆に追い立てられ尾張に戻ります。一方、河尻秀隆は甲斐国人衆の一揆を契機に旧武田領から逃げ延びようとするも、6月18日に一揆衆により殺害されています。

【上野国】滝川一益vs北条家

滝川一益に話を戻します。滝川一益は6月11日、本能寺の変を知った北条氏政から、引き続き織田家に忠誠を誓い続けることを伝えました。当時、北条家は織田家と同盟関係にあったので当然と言えば当然の行いですが、氏政はその舌の根の乾かぬうちに、氏直と共にすぐに一益に向けて出兵。6月16日から19日にかけて「神流川の戦い」が起こります。

上野国と武蔵国の国境近くで発生したこの戦い、滝川軍は1万8000だったのに対し、北条軍は5万と、数の上では北条軍が圧倒的に有利でした。このため、滝川軍は6月18日の初戦では北条軍に勝利しましたが、兵力差や地元の国衆の協力があまり得られなかったことなどにより、翌19日には北条軍に壊滅させられてしまいます。

一益は必死に逃げ延び、倉賀野城を経て厩橋城に退却。箕輪城に移り地元の国衆との別れの宴を開いたのち、碓氷峠を抜けて小諸城に到着します。なお、沼田城はこのとき、一益の部下の真田昌幸に還されています。その後、木曽谷を通過して清洲城に入ったのち、7月に伊勢の長島城に戻りました。

なお、清洲城では6月27日に織田家の後継者を選ぶための「清洲会議」が行われています。「織田四天王」とも称され、一時は豊臣秀吉をしのぐ権勢を誇っていた一益も本来は会議に参加するはずでしたが、対北条戦で間に合いませんでした。この後、一益の力は急速に衰えていくことになります。

上杉景勝、北信濃に出陣

一方、上杉景勝は6月中旬には本能寺の変発生を知り、北信濃の川中島攻略に乗り出します。本能寺の変直前には、柴田勝家率いる織田軍に攻められたことで危機的状況に陥っていました(魚津城の戦い)。これは上杉謙信の後継者争いの「御館の乱」の際に味方をしてくれた新出田重家と恩賞でもめたことが原因で、重家が織田信長と通じて離反したことから起きた戦いです。戦いにより魚津城は落城し、勝家は森長可、滝川一益とともに春日山城に進軍していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて撤退しています。』

『撤退を知った景勝はすぐさま北信濃に出陣します。森長可が去った海津城を占拠し入城したほか、上杉家で匿っていた信濃守護職一門だった小笠原洞雪斎を擁立し、木曾義昌のいる深志城を攻めて義昌を追い出しました。このとき、真田昌幸は景勝に臣従し、深志城に行く途中にある城の城主たちを調略するなど活躍しています。

【信濃国】上杉景勝vs北条家

上杉景勝が信濃を攻めるなか、北条家も信濃をわがものにしようと南から侵攻してきます。氏政の弟の北条氏邦は上野国の沼田城を奪い、昌幸のいた岩櫃城と沼田城を分断しようと間に城を作り、昌幸を苦しめます。結局上杉に臣従してわずか半月後の7月9日には、昌幸は上杉家から北条家に寝返ることになりました。

北条家は上野国をほぼ制圧した後、碓氷峠を越えて信濃国衆を味方につけ、佐久郡を平定します。佐久郡の小諸城には当時徳川方の依田信蕃がいましたが、北条家に攻められて小諸城から逃げ出しています。その後、上杉家に追いやられた木曾義昌も北条軍に加わりました。

南下する上杉軍と北西に進む北条軍。両者は7月14日、川中島の千曲川で対峙することになります。

決戦か、と思いきやここにきて存在感を出してきたのが徳川家康です。南からだんだんと信濃国に侵攻し、北条家が獲得した領地に迫ります。領地が近い家康との対峙を選択した北条氏直は、挟撃を恐れて上杉軍と講和することを決意しました。

一方の上杉景勝は、新出田重家の謀反の直後での信濃攻めです。本能寺の変をきっかけに一度は落ち着いた重家との合戦はいつ再燃するかもわかりません。早々に重家と決着をつけて自領を落ち着かせたいところです。

こうした両者の思惑が一致したことで7月29日には和睦の合意がなされました。和睦の結果、上杉家は信濃北部4郡を所領するとともに、川中島以南には出兵しないことになりました。後ろから攻めたてられることのなくなった北条家は甲斐国を得ようと家康との戦いに挑みます。

【信濃・甲斐国】徳川家康vs北条家

さて、これまで徳川家康の話が出てきませんでしたが、家康は本能寺の変の後、どのように天正壬午の乱にからんでいったのでしょうか。

本能寺の変が発生したとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの少人数の家臣たちと堺(大阪)を見物中でした。本能寺の変の同日に知らせを受けとった家康は、光秀から命を狙われる可能性があるため急いで自領の三河国(静岡県)に戻ろうと出発します。伊賀を通過して海を渡り、6月4日に三河国に到着しました(神君伊賀越え)。そして、光秀の討伐準備に合わせ、空白状態となった甲斐と信濃の攻略の準備も開始します。6月10日には甲斐国の河尻秀隆に美濃へ戻るよう使者を派遣しました。

家康は6月14日に光秀討伐軍を率いて出発しますが、翌日光秀の死を聞き、真偽を確認した後に21日に浜松城に引き返しました。その後、家康は本格的に甲斐国と信濃国攻略に注力します。

まず家康がしたことは、甲斐と信濃の国人衆たちを取り込むこと。地元で力を持つ彼らを味方につけるとともに、甲州征伐の際に匿っていた依田信蕃など旧武田家家臣たちも自軍に取り込みます。一方で酒井忠次や奥平信昌に南信濃の平定を任せつつ、7月9日には甲府城に入りました。

その後、諏訪郡を取り込もうと高島城の諏訪頼忠を説得しますが失敗します。さらに、深志城では小笠原貞慶が酒井忠次・奥平信昌との対立を理由に北条家に寝返ってしまい、信濃攻略はなかなか進みません。

そうこうしているうちに北条軍が甲斐方面に南下し始めてきたため、家康は対北条対策として甲斐国の新府城に入城しました。一方の北条氏直率いる北条軍は若神子城に入ります。両者は80日間対峙しました。

さらに、北条軍は駿河国や武蔵国方面から別動隊を動かして家康を背後から襲おうと計画します。8月12日には北条氏忠と徳川方の鳥居元忠、平岩新吉が甲斐国の黒駒で戦います。北条1万対徳川2000と北条軍が有利のようでしたが、蓋を開けてみれば徳川軍が勝利。この戦いをきっかけに、北条軍を見限る武将が出始めました。家康は北条方だった木曾義昌を味方につけることに成功。そして、9月には真田昌幸の引き込みに成功します。

戦のキーマン、真田昌幸

実は徳川軍は信濃国攻めの際に兵糧不足に悩まされており、真田昌幸を味方につけることで兵糧を得ようとしていました。家康から直接書状を渡したり、昌幸ゆかりの人物に取りもってもらったりと、相当力を入れて勧誘した様子がうかがえます。家康は昌幸に対し、現在の支配地域に加え、上野国の箕輪と甲斐国内の2000貫文の土地、信濃国の諏訪郡を与えることを明記した宛行状を発行しています。

昌幸としては、もともと北条家から沼田城を得る予定だったところ、北条家が「沼田城は北条のもの」と公言したことで、北条家に不信感を抱いていました。沼田城は西上野の地にあり、3つの川に囲まれた台地を利用した崖城で、越後と北関東、北信濃を結ぶ軍事上の重要拠点で、昌幸としてはぜひ押さえたい所です。

こうして昌幸は徳川家に寝返り、信濃国にいた依田信蕃に兵糧を提供。さらに沼田城を北条家から取り戻します。北条家は沼田城を取り返そうと攻めますが、真田軍の激しい抵抗でかないませんでした。

さらに、10月には依田信蕃が信濃国の小諸城を攻めて大道寺政繁を駆逐したほか、佐久郡の内山城を奪取。加えて昌幸と碓氷峠を占領します。こうした動きの結果、北条軍は補給路を絶たれてしまいます。深志城も徳川方が奪還しており、北条家は信濃で窮地に立たされます。

戦局を打開しようとするも、常陸国(茨城県)の佐竹義重が関東で行動を活発化させており、北条方の館林城を攻撃してきました。危機感を募らせた氏直は講和を決意します。

こうした背景もあり、10月29日に織田信長の次男の織田信雄が仲介人を務める形で北条・徳川は講和します。これにより、甲斐国と信濃国は徳川家が支配することが決定しました。上野国は北条家の切り取り次第とし、沼田城は真田昌幸から北条方に返すことになりました。さらに、和睦の条件として氏直と家康の次女の督姫が結婚しています。

この和睦は真田家と徳川家の争いのきっかけになりました。そもそも徳川方に下る際、沼田城は真田家のものになるはずでした。このため、昌幸は沼田城の引き渡しを拒否。徳川家から離反して上杉家に従属しました。これにより天正13年(1585年)第1次上田城の戦いが起こり、以後も両家の対立は続いていくことになるのでした。

執筆者 栗本 奈央子(ライター) 

元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。』

天正壬午の乱。② | かをるんのブログ
https://ameblo.jp/tamayorihime/entry-11023769920.html

天正壬午の乱の全容 神流川の戦いから北条・徳川の勢力争い
https://senjp.com/tensyou-jin/

1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
https://sengokumap.net/history/1582-4/

家康の決断

家康の決断
https://wedge.ismedia.jp/ud/books/isbn/978-4-86310-258-3

『家康の決断
城島 明彦:著

絶体絶命! ピンチの連続! 三河の弱小大名から天下人にまで上り詰めた家康の決断とは?大河ドラマ「どうする家康」の予習にもなる、異色の歴史教養本
定価:1,650円(税込み)
四六判並製 256ページ
発売日:2022年11月18日
ISBN:978-4-86310-258-3』

『◎絶体絶命! ピンチの連続! 波乱万丈!
 三河の弱小大名から天下人にまでのぼり詰めた徳川家康。
 大河ドラマ「どうする家康」主人公の「決断」とは?

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天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。
だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。
家康の人生に訪れた24の大きな「決断」を読者が追体験しつつ、
天下人にのぼりつめることができた秘訣から、
現代に通じる教訓に迫る。
大河ドラマ「どうする家康」の予習にもなる、異色の歴史教養本。

【築山殿事件】苦渋の選択で築山殿と長男信康を自害に追い込む

【三方ヶ原】武田軍に大敗北を喫して学んだ勝つための戦術

【本能寺の変】険しくとも相手の虚をつくルートをとった伊賀越え

【天正壬午の乱】空白地の甲斐信濃に即出兵し周りを牽制する
 
【豊臣臣従】「鳴くまで待とうホトトギス」臣従という選択肢

【大老筆頭】五大老のトップとして政治的影響力を高める 

【関ケ原合戦】豊臣系大名をうまくてなづけた一大ギャンブル

【幕藩体制】将軍として260人の大名と主従関係を築く 

【大御所政治】将軍職をすぐに秀忠に譲り豊臣家を牽制

【豊臣家滅亡】平家滅亡を教訓に豊臣家を断絶させる    他

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<本書の目次>

序 章 天下取りに隠された数々の「決断」
第1章 弱小大名が生き残るための「賢断」
第2章 京から決死の脱出を図る「即断」
第3章 ナンバー2の道を選んだ「果断」
第4章 天下分け目の戦いを制した「勇断」
第5章 徳川250年体制を盤石にした「英断」

※内容は予告なく変更となる可能性がございます
著者プロフィール
城島 明彦 (じょうじま あきひこ)

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。 東宝を経てソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから 『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や 『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』 『広報がダメだから社長が謝罪会見をする! 』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に、 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)がある。』

 ※ 【天正壬午の乱】以外は、大体知ってるエピソードだ…。

 ※ 家康で、オレが一番「疑問」に思っていることは、長男信康を「自害」に追い込むほどの「圧迫」を受けたのに、信長に反逆せずに忠義を尽くした点だ…。

 ※ 普通だったら、この時代の損得勘定を弾き出せば、信長を裏切って武田に付くだろうと思うよ…。

 ※ それを「しなかった」「させなかった」要因は、何だったのか…。

 ※ あるいは、「信長」という武将が「配下に見せてくれる」「未来絵図」だったのか…、とも思う…。

 ※ 後に、「天下布武」で示されることになる「新しい国のかたち」、そこに家康も賭けたのか…、とも思う…。

 ※ 武田では、所詮は「旧態依然」の「国のかたち」だからな…。

 ※ 光秀は、「そこを見損なった」とも思うんだよね…。

 ※ フタを開けてみれば、「支持」がそれほど無かったからな…。