東証大引け 反落し762円安、米引き締め警戒で2万8000円割れ

東証大引け 反落し762円安、米引き締め警戒で2万8000円割れ
https://www.nikkei.com/article/DGXZASS0ISS16_Z20C22A8000000/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ こういう状況になった時、「各銘柄」において、ここが「底(or 準底)」なのか、今週の火、水、木、金あたりがどういうことになるのか…。

 ※ そこら辺の「見極め」が、「眼力」だ…。

 ※ むろん、「危なくて、とても手が出せない…。」というのも、立派な「一つのポジション」だ…。

『29日の東京株式市場で日経平均株価は大幅に反落し、前週末比762円42銭(2.66%)安の2万7878円96銭と節目の2万8000円を割り、10日以来およそ3週間ぶりの安値で終えた。米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長が金融引き締めへの強い決意を示し、前週末の米株式相場が大幅安となった流れを引き継いだ。幅広い銘柄に売りが出て、下げ幅は一時850円を超えた。

前週末26日の米ダウ工業株30種平均は前日比1000ドルを超える大幅な下落で終えた。米カンザスシティー連銀主催の経済シンポジウム(ジャクソンホール会議)で26日に講演したFRBのパウエル議長は、高インフレの抑制について「やり遂げるまでやり続けなければならない」と述べた。金利の上昇局面で割高感が意識されるグロース(成長)株を中心に売られた。日経平均の下げ幅と下落率は6月13日以来、約2カ月半ぶりの大きさだった。

売り一巡後はバリュー(割安)株の一部に買いが入った。いすゞや三菱自が上げたほか、フジクラやNTNが上昇した。市場では「米金融引き締めの長期化が見込まれるとあって、消去法的にバリュー株に物色が向かった」(国内証券)との声が聞かれた。

東証株価指数(TOPIX)も大幅に反落した。終値は前週末比35.49ポイント(1.79%)安の1944.10と3週ぶりの安値だった。

東証プライムの売買代金は概算で2兆5949億円。売買高は10億7366万株だった。東証プライムの値下がり銘柄数は1635と全体の9割に迫った。値上がりは174、変わらずは28銘柄だった。

エムスリーやリクルートの下げが目立った。オムロンやテルモは下落した。東エレクやアドテストは安い。一方、マツダやSUBARU、ホンダが上昇した。三井化学の上げも目立った。

〔日経QUICKニュース(NQN)〕

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https://www.nikkei.com/r123/?ak=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXZASS0ISS16_Z20C22A8000000&n_cid=DSPRM1AR08 』

金融教育を国家戦略として推進へ「国全体として体制を検討」

金融教育を国家戦略として推進へ「国全体として体制を検討」
https://www.nippon.com/ja/news/fnn20220829409447/

 ※ 『現在は、大学生や社会人に対する金融教育については、民間の金融機関に任された形となっているが、これを「国全体として体制を検討する」と明記した上で、国家戦略として推進したい考え。』…。

 ※ 「金融教育」って、何をどう「教育する」つもりなんだろう…。

 ※ 「貯蓄から、投資へ。」の一環として、「投資」を促進するための「啓蒙・啓発」活動を、するつもりなんだろうか…。

 ※ 「投資」とか、「リスクを取る」とか、要は「リスク資産」に投資するということだ…。

 ※ 「リスク資産(株なんか)」は、資産価値が上がったり下がったりする…。

 ※ そういう「リスク資産」を保有して「勝つ」ということは、「安い時に買って、高い時に売る」ということに尽きる…。

 ※ しかし、その「安い時」「下がった時」において、それが本当の「底(もしくは、準底)」であるのかどうかの「見極め」こそが、「眼力」となるわけだ…。

 ※ その「眼力の育成」は、「常日頃からの情報収集」と「不断の鍛錬」の「賜物」であって、一時(いっとき)の「教育」なんかで、どうこうできるものじゃ、無い…。

『金融庁は、金融教育を国家戦略として推進するために、近くとりまとめる2022事務年度の金融行政方針に「国全体として体制を検討する」と明記する。

関係者によると、中学や高校の授業に盛り込まれた金融教育について、金融庁は、近くとりまとめられる2022事務年度金融行政方針で、大学生や社会人にも広げた新たな制度について議論するよう提言するという。

現在は、大学生や社会人に対する金融教育については、民間の金融機関に任された形となっているが、これを「国全体として体制を検討する」と明記した上で、国家戦略として推進したい考え。

また、金融商品の販売では、顧客が自発的に求めないような高いリスクの商品について、開発の段階から規制する体制を強化することなども盛り込まれているという。

この方針は、岸田政権が掲げる「新しい資本主義」に沿って出される初めてのもので、投資の推進の一方で、投資環境を健全なものに保つことも狙いとされている。

(FNNプライムオンライン8月29日掲載。元記事はこちら)

https://www.fnn.jp/

[© Fuji News Network, Inc. All rights reserved.] 』

旧統一教会が牛耳る「日本の選挙の民主」と「中国の民主」

旧統一教会が牛耳る「日本の選挙の民主」と「中国の民主」_中国「わが国は民主的だ」世界ランキングで1位
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220828-00312339

 ※ 中○が、「民主国」とか、何のブラックジョークだよ…。

 ※ まあ、共産主義では、「国民主権」の代わりに「人民主権」、「三権分立」の代わりに「民主集中制」とか、言ってるからな…。

 ※ そもそも、「民主」の概念が違っているんだろう…。

 ※ かの国では、「英語教育」も禁止(「間違った」知識を習得してしまう危険性があるので)らしいからな…。

 ※ そういう「人民」対象にアンケート取って、何の意味があるんだ…。

 ※ 『選挙は「民意の表現」ではなく「民意の消滅とリセット」へと導くのが「日本の選挙と民主」だ。』…。

 ※ ちょっと、何を言っているのか、よく分からない…。

 ※ 民意の「消滅」とは、何を指しているのか…。

 ※ 民意は、その時その時で、変化する…。よって、衆議院は、「解散」という制度があって、平均「2.3年くらい」で「総選挙」がある…。参議院は、「良識の府」として、解散が無く、6年の任期(3年毎に、半数が改選)を与えられて、「政治の安定」「アンカーの役割」が与えられている…。

 ※ 選挙結果によって、「前の選挙」での「支持」はチャラになり、新たな「民意」で上書きされる…。

 ※ まさに、「民意のリセット」が制度に組み込まれている…。

 ※ そうやって、常に「民意の支持」があるのか否かを問い、制度として取り込んでいるんだ…。

 ※ そこが、まさに「民主主義の根幹」だ…。

 ※ 文句があるなら、とっとと「導入して」やってみればいいだけの話しだ…。

 ※ それともう一つ言っておきたいのは、「アンケート」と「選挙結果」は、全然別物…、ということだ。

 ※ 「アンケート」は、単なる「ご意見伺い」に過ぎない。

 ※ 「選挙」は、「政権選択」の国民の意思決定だ(主権者国民の、主権行使の一つ)…。

 ※ 「選挙」を「アンケート」で代替することは、「できない」…。

 ※ 「アンケート」結果、「世論」なんてものは、「選挙」で政権取った「政策担当者」が、「政策実行」の「ご参考」にすれば足りる程度のものだ…。

『53ヵ国を対象としたNATO傘下の世論調査「あなたは自国が民主的だと思うか?」で、中国が世界一となった。その背景には米中関係があるが、統一教会に牛耳られている「日本の選挙と民主」とを比較考察したい。

(本稿では、旧統一教会は「統一教会」と略記する。)
◆「わが国は民主的だ」 世界ランキングで中国が1位

 日本では統一教会と自民党議員などとの長きにわたる深い癒着が次々と暴かれ、まるで日本の政治が統一教会によって動かされていたような不気味さが漂っている。

 そのような中、8月23日にEUメディアのウェブサイトmodern diplomacyに調査研究歴史家のエリック・ズエッセ氏が<53カ国のNATO所属(機関)の世論調査で、中国人が最も「自国を民主的だ」と思っていることが判明>という見出しの論考を公開した。

 それによればNATO傘下の「民主主義同盟」が53ヵ国を対象に世論調査を行ったところ、中国人の83%が「自国は民主的だ」と考えていることがわかり、これは調査対象となった53ヵ国の中で最も高い割合だったというのである。第2位はベトナムで77%、3位と4位は同点のフィリピンと台湾で、75%だった。

 53ヵ国すべての平均は 56%だが、アメリカは平均よりも低い49%で、順位はコロンビアと同点で並び、第40位&41位だったという。

 対ロシアのアメリカ軍事同盟であるNATOが、敵対国家として排斥しなければならない標的リストの中に入れることを検討している中国が、NATO傘下の民主主義同盟が調査した53ヵ国の中で、「自国は民主的だ」と考えている「民主化度」において第1位で、中国を非民主的国家として排斥しようとしているアメリカが、民主化度認識において第40(もしくは41)位というのは、いったいどういうことかと、エリック・ズエッセ氏は皮肉っている。

 したがって、「その国に住んでいない人々が保持しているその国についての見解は、与えられた外国の報道機関の表現ミスによるものかもしれない」と考察し、その報道は「特定の敵国」に対する「期待的見解」であるかもしれないと警告を発している。

 それを筆者なりの言葉で表現すると、以下のようになろうか。すなわち、

 ――現在、アメリカや日本には「民主主義国家vs.専制主義国家」という価値観外交の概念があり、特に「中国の国家運営が不透明で、非民主的である」という批難を基本とした対中包囲網がアメリカを中心とした西側諸国によって形成されている。では、その批判対象となっている「中国はどれくらい非民主的か」ということを考察すると、データとして表れたのは、中国人が世界で最も「自国は民主的だ」と思っているという結果で、民主の旗頭として世界をリードしていこうとしているアメリカの国民は「自国は民主的だ」と思っている人が半数以下しかいない。したがって、他の国が特定の国を「非民主的だ」と非難したとしても、その国の国民が自国を非民主的だと考えていない場合には正当性を欠く。自国民が自国をどう考えているかに関しては、客観的なデータで把握しなければならない。

 こんな感じになろうかと思う。

◆日米は、どれくらい「自国は民主的だ」と思っているのか?

 実は、この世論調査の結果自身は今年5月30日に<民主主義認識指数2022>として公開されている。

 この報道によれば、民主主義認識指数(DPI)は、民主主義に関する世界最大の年次研究で、50ヵ国以上を対象とし、世界人口の75%以上の民意を代表しているとのこと。そこで、5月30日に公開されたデータを基本として、<民主主義認識指数 2022>に付記してある過去3年のデータから、米中日3ヵ国のデータを拾って以下のような図を作成してみた。

「民主主義認識指数2022」のデータを基に筆者作成

 アメリカ国民(青色)は総じて自国が民主的だとは思っておらず、日本(黄色)も類似の情況にはあるが、2022年になってやや上向きであるのは、2021年の情況を反映しているので、2020年あるいは2021年に何が起きたかを考えると、自民党総裁選挙なのに国民に向かって必死で主張を展開したからかもしれない。

 驚くべきは、やはり、中国人民(赤)がこんなに高い割合で「わが国は民主的だ」と思っているという事実だ。しかも年々増加している。

◆中国人民は、なぜ「わが国は民主的だ」と思っているのか

 それではなぜ、中国人民は「わが国は民主的だ」と思っているのかを考察してみよう。

 残念ながら2018年以前のデータを得ることができなかったが、少なくとも2019年のデータを見る限り、まだ57%ではあるものの、日米を抜いて抜群に大きい。これは2018年の世相を表したもので、何と言ってもアメリカの対中制裁が始まった年であったことが最も大きな要因であろう。

 対中制裁は2017年末から始まったが、誰の目にもアメリカ経済が中国経済に抜かれないようにするための制裁であることは歴然としている。特に習近平が2015年に発布したハイテク国家戦略「中国製造2025」の「危険性」を感知した当時のトランプ大統領が、宇宙領域やハイテク産業領域で中国がアメリカを追い抜こうとしていることに気づき、それを徹底して抑え込もうとしたものであることは明らかだろう。

 そのとき同時にアメリカで進行したのが黒人に対する人種差別問題だった。

 最も大きかったのは、2021年1月6日、大統領選挙による不正を訴えたトランプ支持者が、アメリカの議事堂に乱入した事件で、それまでまだ中国の若者の間にいくらか残っていたアメリカへの憧れ、「アメリカは民主的な国家だ」と信じていた気持ちを、一気に挫(くじ)かせてしまった。どれだけ多くの中国人民がアメリカの「民主」に幻滅し、「アメリカの民主など、少しも良くない」と痛感したかしれない。

 2022年のデータは、2021年の世相を反映しているので、アメリカ民主への幻滅と、バイデン政権になってから陰湿になってきた対中包囲網に対する反感も手伝い、2022年のデータは、「83%」と、大きく跳ね上がったものと解釈できる。

 中国では中国共産党による一党支配体制という明確な大原則があり、その上での国家運営に対して、中国人民は「他国と比べれば比べるほど、自国は民主的だ」と思うようになっているのである。

 特に8月26日のコラム<和服コスプレ女子拘留 習近平政権は反日を煽っているのか? 日経新聞が中国ネットを炎上させた大連京都街>にも書いたように、ネットの力によって当局を動かすことができるという現象は、10億を超えるネットユーザーの心を一定程度満足させている。中国では赤ちゃんや超高齢者以外のほとんどすべてがスマホなどを通してネットにアクセスしているので、ネットの民意は全人民の民意に近いと解釈できる側面も持っている。

 普通選挙がない分だけ中国政府はネット民意に敏感で、一党支配を維持するために「民意の反乱」が起きないように、非政治的なものであれば民意に即応する傾向を持つ。そうでないと一党支配体制が覆る危険性を孕んでいるからだ。

 事実、2018年の民主主義同盟の調査では、以下のような考察が述べられている。

 ――調査データによると、厄介なのは、「国民の自国政府に対する幻滅」が、非民主主義国家においてよりも、民主主義国家における方が大きいという発見だ。驚くべきことに、民主主義国家の国民の64%が、政府が国民の公共の利益のために行動することは「めったにない」あるいは「まったくない」と回答している。アメリカやイギリスなどは長いこと自由世界のリーダーとみなされてきたが、国民の3分の2以上が、自国の政府は自国の利益のためにさえ行動していないと考えている(概略引用以上)。

 では、誰のために行動しているのか。

 自分自身のためにしか行動していないという典型的な例が、今般の統一教会と自民党議員を中心とした、長い期間続いてきた深い癒着だ。

◆選挙を「民意の消滅とリセット」に持っていったのは誰か?

 信じがたいほどの闇が、いま日本の政治を覆っている。

 それは戦後政治の大半を覆してしまうような、恐ろしい闇の世界だ。

 岸信介元総理が、統一教会の開祖・文鮮明氏と1968年辺りに会って「反共・勝共」で意気投合して以来、自民党と統一教会の関係は脈々と続いてきた。

 特に岸元総理とも懇意にしていた統一教会初代会長・久保木修己氏の遺稿集『美しい国日本の使命』が2004年に出版され、2006年に安倍晋三元総理が『美しい国へ』を出版したことのアナロジーや、自民党が提案している憲法改正案が統一教会の教義に酷似していることなどを考えると、日本の政治の骨格が統一教会によって形成されているのではないかという不気味さを覚える。

 何よりも衝撃的なのは、選挙において統一教会が強力な集票の役割を果たしていたことで、国会議員などの立候補者は、何としても当選したいために統一教会のサポートにすがり、統一教会は国会議員の後ろ盾を得て布教を強化していくという「悪循環(相互補助?)」が出来上がっていることだ。

 日本は「普通選挙」をしている国として、「民主主義国家」の範疇に入っているわけだが、選挙そのものが統一教会という集票マシーンで成り立っているとすれば、国民がどんなに政治に不満を抱いたとしても、「選挙をすればリセットされる」という「民意の消滅」が選挙によって具現化される。

 選挙は「民意の表現」ではなく「民意の消滅とリセット」へと導くのが「日本の選挙と民主」だ。

 これが「民主主義同盟」の世論調査の結果に表れている「自国は民主的だ」と思っている国民の割合の数値の低さの原因を示しているのではないだろうか。

 少なからぬ国会議員が、国家のためでも国民のためでもなく、自分の利益のために立候補し、自分が当選するためなら手段を選ばない日本と化してしまった。

 おまけに「反共勝共」から出発したはずの統一教会は、実は日本は朝鮮半島を侵略した原罪があるので、日本人から金を巻き上げ韓国に還元させるのは当然という、何やら「反日色」に基づいた霊感商法がまかり通っているようだ。その「反日的要素を持つ」統一教会に、嫌韓の自民党議員が支えられているという、この捻じれた関係のおぞましさよ!

 自民党議員がどんなに「今後は関係を持ちません」と誓ったところで、「選挙」を「民意の消滅とリセット」に追い込んでいった「日本政治の責任」を徹底して追求し、それを許してしまったた日本の精神的土壌と社会構造を根本的に見直さない限り、日本人の悲劇は続くだろう。
遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。』

ザポリッジア原発は、欧州では最大。世界では第10番目の出力を誇る。

ザポリッジア原発は、欧州では最大。世界では第10番目の出力を誇る。
https://st2019.site/?p=20185

 ※ 日本の原発は、ミサイル一発の着弾で、「大災害」になる…、という話しのようだ…。

 ※ ただし、それは「戦争犯罪」になる…、という話しのようだ…。

 ※ まあ、「原子力大災害」「国土の汚染」が広まってから、「戦争犯罪」を追及したところで、「あとの祭り」という話しでもあるが…。

 ※ いずれにせよ、この国(日本国)は、「安全保障」に対する意識が、全く存在していない…、ということのようだ…。

『2022-8-28にアクセスした英文ウィキの項目「Zaporizhzhia Nuclear Power Plant」より。
    ザポリッジア原発は、欧州では最大。世界では第10番目の出力を誇る。
 冷却水は、ドニエプル水系の「カホウカ」貯水池から取っている。

 軽水を使う加圧水型原発が6基。電気出力はトータルで5700メガワット。
 最初の炉は1985運開。6番目の炉は1995運開。

 露兵がここを占領したのは、2022-3-4。
 3-12には国営「ロスアトム」のロシア人技師たちが乗り込んできて運営の支配開始。部下技師はウクライナ人がひきつづいて従事させられている。

 2017の延命工事によって、3号炉は2027年までは機能すると期待されている。また5号炉は2021工事により、2031年まで延命されている。

 2014のプーチンによるドンバス切り取り作戦開始で、「戦線」から200kmに位置するこの原発が砲撃される心配が生じた。

 2014-12-3に「短絡」事故があり、6基全部がシャットダウンした。ウクライナは、火発用の石炭の不足もあいまって、12月後半まで全国がブラックアウトしている。

 2022-2-24の侵略に応じて「エネルゴアトム」社は、5号炉と6号炉をシャットダウンした。
 すなわち1号炉~4号炉だけを運転するようにした。

 2022-7-5に『WSJ』は報じた。露軍はこの原発敷地内に「BM-30 スメルチ」多連装ロケット砲を配備したと。

 その後、そこから近隣市街を自由に砲撃。

 2022-7-19にウクライナ軍は、特攻自爆無人機×3機を使い、この敷地内の露軍兵器ならびに天幕を攻撃した。露兵3人死亡。原子炉が無被害であることは、ロスアトムが認めた。

 8-6にIAEAいわく。前日に砲撃の影響で稼動中の1基が外部グリッドから切り離され、自動的にシャットダウンしたと。

 8-8、ゼレンスキーは、露軍がこの原発の放射線計測装置を砲撃して破壊し、従業員を負傷させたとし、連中は放射能テロ事態に持ち込もうとしていると非難。

 8-9、エネルゴアトムいわく。ロシアはこの発電所の電力をぜんぶロシアのグリッド専用につなぎ替えるつもりだと。

 ジュネーヴ会議プロトコルIのアーティクル56は、原発に対する攻撃を禁じている。

 8-11、露軍が構内の核燃料棒の貯蔵プールを狙って砲撃した可能性あり。調査はできていない。

 タービン建屋内部にロシアの軍用トラックが多数、集結している動画は、8月後半にリークされた。

 英国防衛委員会のトビアス・エルウッドは8-19に警告した。ザポリッジアを砲撃して意図的に放射性物質を漏洩させた場合、それはNATOの「アーティクル5」事態である。すなわちその放射能被害は周囲のNATO加盟国に及ぶのだから、NATOの加盟国が軍事的に攻撃されたと認定でき、よって、全NATOはその攻撃者と開戦する。

 翌20日、米連邦議員のアダム・キンジンガーはそれに同意。ロシアが放射能を漏洩させたら、米国もロシアと開戦だと。※米国の宣戦布告権は議会にあって大統領にはない。

 8-25、稼動していた2基=ザポリッジアの全電力出力がウクライナの電力グリッドから切り離された。これは開所いらいの初事態。
 エネルゴアトムの説明によると、近くの石炭火力発電所の火災が干渉したのだと。

 8-26、1基についてはふたたびウクライナの電力グリッドにつながった。

 ※一般ニュースで補うと、27日、露軍は17発の砲弾を撃ち込み、4発は核燃料棒貯蔵プールがある建屋の屋根に命中したという。プーチンは、季節風が内向きから外向きに転じたところで、「フクイチ」と同じ事故を起こさせるつもりだったのだろう。どうせ敗退するのなら、奪い返される土地はぜんぶ汚染してやれ、というやけくそ焦土作戦だ。

だがそれは失敗した。なぜか? 燃料建屋の構造が、沸騰水型と加圧水型とでは違うからだ。加圧水型原発では、貯蔵プールは半地下にあり、敵の砲撃に対してあるていど抗堪できる。ペラペラの薄壁のビルの最上階に、何の防弾装甲も無しにプールが据えられている「沸騰水型/改善沸騰水型」の燃料建屋とは、防弾力が段違いなのだ。これを破壊するには本格的な地対地ミサイルか、航空機からの誘導爆弾投下が必要だが、それをやると、残骸調査でロシアの仕業と確実にバレてしまう。だから、無誘導の砲弾で破壊するしかない。

それがうまくいってないのだ。現地の砲兵将校も、あとで戦犯にされるのが怖いから、なるだけ外そうとしているのだろう。

原発の型式選択については、三菱重工(民間軍事企業)が賢明であり、電源開発(=日本政府の戦前統制官僚ども)は不明であった。そしていまだに反省を回避している。「改善沸騰水型」とやらは、プールの防弾性に関しては、1ミリも改善されていない。露軍や支那軍や韓国軍のひょろひょろ砲弾でも、「フクイチ」事故がすぐに再現されるように、設計が決まっているのである。』

米中、ハイチで外交戦 大統領暗殺から1カ月(2021年8月6日 23:01)

米中、ハイチで外交戦 大統領暗殺から1カ月(2021年8月6日 23:01)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN04EJZ0U1A800C2000000/

 ※ 一年前の記事だが、アメリカとしては、「放っておく」つもりのような感じだな…。

 ※ アフガン撤退前、の記事のようだ…。

『【ワシントン=永沢毅、メキシコシティ=宮本英威】現職大統領の暗殺で政治の混迷が深まるハイチで、米国と中国が外交戦を繰り広げている。ハイチは台湾と外交関係を持つ15カ国の1つで、中国は新型コロナウイルスのワクチン支援をちらつかせながら台湾との断交を迫る。米国は警戒を強めながらもハイチへの関与強化には二の足を踏んでいる。

ハイチでモイーズ大統領が暗殺されてから7日で1カ月となる。元司法・公安相や元最高裁判事に事件への関与の疑惑が浮上しているが、事件の背景は依然として明らかになっていない。

ハイチの内政が混乱する中、米中は激しい外交戦を繰り広げている。台湾を支援する議員連盟に所属するトム・ティファニー氏ら2人の米連邦下院議員はブリンケン国務長官に書簡を送り、「中国は台湾と断交させ、自らと外交関係を結ぶよう圧力をかける機会を常にうかがっている」と中国の影響力拡大に警戒感を示した。

中国は台湾を国際社会で孤立させる戦略の一環で、台湾と外交関係を持つ国々への経済支援をテコに断交を働きかけてきた。中米・カリブ諸国ではパナマ、エルサルバドル、ドミニカ共和国が2017~18年にかけて相次ぎ台湾と断交している。

中国は新型コロナのワクチン供給を条件にハイチへの圧力を強めている。「ワクチン外交」を推進する中国はドミニカなどに中国製ワクチンを支援しているが、ハイチには提供していない。中米で台湾と外交関係のあるグアテマラやホンジュラスなども同じだ。

米国はこれらの国々にワクチンを供給し、後ろ盾となっている。「私たちは政治的な見返りを求めていない」。米国は中国をこう批判する。

台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は外交関係のつなぎ留めに腐心している。19年にハイチを訪れ、関係維持を呼びかけた。新型コロナ対策ではマスクも寄贈している。

米国は米連邦捜査局(FBI)や国土安全保障省の職員をハイチに送り、暗殺事件の捜査を支援している。政治空白を最小限にとどめるため大統領選の早期実施を探るが、ハイチ政府から求められている米軍の派遣には応じるそぶりはみせていない。

クリントン政権で中南米担当の大統領特別補佐官やハイチ特使を務めたランド研究所のジェームズ・ドビンズ上席研究員は米国のさらなる関与には慎重な姿勢を示す。「過去の米国のハイチ支援はいずれも失敗に終わっている。ハイチは米国にとって重荷でしかない」とみる。

米国は1990年代以降で米軍をハイチに2回派遣し、民主化の定着を支援しようとしてきた。短期的には成功をおさめたが、程なくほころびがあらわになって追加対応を迫られてきた経緯がある。

中国との戦略的競争に集中したいバイデン政権は8月末の完了をめざしてアフガニスタンからの米軍撤収を急いでいる。米国の「裏庭」で起きた暗殺事件は余力に乏しい米外交の苦境を映し出す。』

経済危機のハイチ、新学期を1カ月延期

経済危機のハイチ、新学期を1カ月延期
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2913J0Z20C22A8000000/

 ※ 『物価高騰と燃料不足の経済危機に見舞われ、警察は力を失い暴力団が自由に犯罪を続けている。』…。

 ※ 「国家」の態を、なしていない状態か…。

『【ポルトープランス=AFP時事】ハイチ政府は9月5日から始まる予定だった新学期を1カ月延期した。物価高騰と燃料不足の経済危機に見舞われ、警察は力を失い暴力団が自由に犯罪を続けている。大統領も昨年、暗殺された。

教育省の声明は8月26日付で出され「2022~23年の学期は10月3日に開始する」とだけ宣言し、理由は説明していない。教員組合関係者は「新学期を延期して政府はそれで何をするのか。国民の窮乏や治安を改善し給油できるようにするつもりはあるのか」と抗議している。』

数字で測れぬ判断必要に キリン、ミャンマー撤退の教訓

数字で測れぬ判断必要に キリン、ミャンマー撤退の教訓
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD235K50T20C22A8000000/

『キリンホールディングスがミャンマーのビール市場から撤退する。昨年2月の軍事クーデター発生後、合弁相手の国軍系企業に入る資金が民主派弾圧に使われると批判されてきた。新興国リスクにのみ込まれた同社の経験から、読み取れる教訓は何だろうか。

キリンは6月末、合弁会社ミャンマー・ブルワリー(MBL)の保有株式51%をMBLへ売却することで合意した。9月中にも手続きを終える見通しだ。

MBLの自社株買いという撤退手法には批判もくすぶる。結果的に国軍系の全額出資となり、収益がこれまで以上に国軍へ流れかねないからだ。キリンも当初は第三者への売却を目指し、アジア系の投資ファンドなどから手が挙がった。

だが「売り先によってはかえって無責任な撤退になる。相手の素性調査にも時間がかかる」と西村慶介副社長。選択肢が限られるなかで早期決着を優先した。

政変直後に関係解消を表明し、1年半で撤退を完了する。出口戦略は素早かったが、そこに至る対応には2つの分岐点があった。

ひとつは入り口だ。MBLの買収は2015年8月。民政移管していたとはいえ、それまで半世紀も軍事政権が続き、米欧の制裁下にあった。国軍系と組むリスクは意識したはずだ。

MBLの看板商品「ミャンマー・ビール」はシェア8割を誇る。また同社株を譲り受けた相手はキリンが以前出資していたシンガポール飲料大手だった。ミャンマーが「最後のフロンティア」と騒がれ、世界の企業が参入を競うなかで、高収益の魅力や「知っている」という安心感がデューデリジェンス(投資先調査)に隙を生まなかったか。

もうひとつは投資後の初期段階だ。政変はまさかの事態だが、リスクの芽は17年には顕在化していた。

国軍がイスラム系少数民族ロヒンギャを迫害し、70万人が難民となった。国連や人権団体は傘下企業が資金源だと何度も告発し、外資に提携解消を迫った。新たな事実が浮上するたびにキリンは調査に追われた。

迫害も政変も問題の構図は同じだが、前者では事業見直しの議論は出なかったという。仏教徒が大多数を占める国民の間では国際社会の批判への反発の声が大きかったことも影響した。いざ政変が起きたときの決断を速めた面があるとはいえ、迫害問題への対応が後手に回った感は否めない。

西村副社長は「人権問題への感度が鈍かったのは認めざるを得ない」と打ち明けたうえで自問自答する。

「いま考えれば、歴史的背景にまで遡ってリスクを精査する必要があったかもしれない。でもどこまでできたか、投資判断が変わったかは、正直わからない」

海外での企業買収に詳しい西理広弁護士は、一連の対応は検証が必要だと前置きしたうえで「日本の成長機会が海外市場に偏る以上、少しでもリスクがあったら投資しない、ではビジネスにならない」と話す。

ミャンマーのような新興国は潜在力が高い半面、毀誉褒貶(ほうへん)がつきものだ。カントリーリスクはどこまで許容が可能か。単純な投資採算とは異なる、数字では測れない見極めが、経営に試される。』

パキスタン豪雨で1000人死亡 非常事態宣言、支援を要請

パキスタン豪雨で1000人死亡 非常事態宣言、支援を要請
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB281UH0Y2A820C2000000/

『【イスラマバード=共同】パキスタン災害当局は27日、モンスーンによる豪雨が各地で相次ぎ、6月14日からの約2カ月半で洪水などにより1033人が死亡、1527人が負傷したと発表した。地元メディアによると、政府は非常事態宣言を出し、軍を各地に派遣。国際社会に支援を要請している。

災害当局によると、死者のうち348人が子どもで、全国の住宅約95万戸が損壊した。犠牲者は南部シンド州が347人と最も多く、南西部バルチスタン州が238人、北西部カイバル・パクトゥンクワ州が226人と続く。

インフラ被害も大きく、全国で計約3400キロにわたり道路が損傷、149の橋が損壊した。各地で被災者が孤立し、軍が救助に当たっている。

シャリフ首相は27日、ツイッターに「災害に直面している人々を支援するため、私たちは団結する必要がある」と投稿した。

すべての記事が読み放題
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リビア首都で32人死亡 東西勢力衝突、民間人巻き添えに

リビア首都で32人死亡 東西勢力衝突、民間人巻き添えに
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB290BJ0Z20C22A8000000/

『【カイロ=共同】国が東西で分裂状態になっているリビアの首都トリポリで27日、東西勢力がそれぞれ支援する民兵組織が衝突した。保健当局は28日、巻き込まれた民間人を含む32人が死亡、159人が負傷したと発表した。地元メディアなどが伝えた。

国連リビア支援団(UNSMIL)は、民間人が居住する地区で「無差別」の攻撃が起きたとし、双方に自制を求めた。保健当局は、トリポリの医療施設に攻撃があり、救急隊の活動に支障が出たとしている。

リビアでは2020年に東西内戦の停戦が成立した後、統一政権樹立を目指す動きが停滞。トリポリでは今夏、銃撃がたびたび起きるなど、政情不安の拡大が懸念されている。

停戦後、西部出身のドベイバ氏が暫定政権の首相に就任。21年12月に予定された大統領選を実施できず、東部勢力はバシャガ元内相を首相とする新内閣を承認して東西に2人の「首相」が併存する事態が続いている。』

古代ローマの属州の一覧

古代ローマの属州の一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%B1%9E%E5%B7%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

『アナトリア

アシア属州
ガラティア
カッパドキア
キリキア属州
パンフィリア
リュキア

アフリカ

アエギュプトゥス
アッシュリア属州
アフリカ属州
ヌミディア
マウレタニア・カエサリエンシス
マウレタニア・ティンギタナ

イベリア

ヒスパニア・ウルテリオル
ヒスパニア・キテリオル
ヒスパニア・タラコネンシス
ヒスパニア・バエティカ
ルシタニア

ギリシャ

アカエア属州
エピルス
キュプルス属州
マケドニア属州

コーカサス

アルメニア属州
ビテュニア
ビテュニアとポントス(英語版)

地中海

クレタとキレナイカ(英語版)
サルデーニャとコルシカ(英語版)
シキリア属州

西・中央ヨーロッパ

アルペス・コッティアエ
アルペス・ポエニナエ
アルペス・マリティマエ
ガリア・アクィタニア
ガリア・キサルピナ
ガリア・ナルボネンシス
ガリア・ベルギカ
ゲルマニア
ブリタンニア
ラエティア

東ヨーロッパ

イリュリクム
ダキア属州
ダルマティア属州
トラキア属州
ノリクム
パンノニア
モエシア

レヴァント・アラビア

アラビア属州
シリア属州
メソポタミア属州
ユダヤ属州

関連項目

共和政ローマ
ローマ帝国
ローマの属州
ヴェローナ・リスト
ノティティア・ディグニタートゥム
シュネクデモス

属州(※ 古代ローマの)

属州(※ 古代ローマの)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%9E%E5%B7%9E

『属州(ぞくしゅう、ラテン語: provincia)は、古代ローマの本国以外の領土を指す。』

『概要

古代ローマは、当初は都市国家連合体であった。イタリア半島のほとんどの地域が、都市国家ローマと同盟を結んだ同盟市の領域であった。属州とは、それ以外の古代ローマの領土をさす。原語プロウィンキア(provincia)はもともとインペリウム保持者の担当地域を指し、第一次ポエニ戦争後に獲得した一人のインペリウム保持者が統治を担当する直轄地を指すようになった。

ローマの最初の属州は第一次ポエニ戦争後にシチリア島に設置した「属州シキリア」で、以降の帝国主義的拡張の中で新たに組み込まれた領土に次々と属州が設置されていった。
属州の統治はコンスルやプラエトル経験者がプロコンスルやプロプラエトルといった肩書きで担当し、その下には総督つきのクァエストルほか数名の官僚がローマから派遣された。しかしこの程度の少人数では行政は困難であるため、属州総督は通常私的な下僚(多くは奴隷・解放奴隷)を抱えていた。もっとも総督に限った話ではなく、官僚制が発達する帝政期以前の古代ローマの多くの官職に言えることである。

属州民には、収入(資産評価額という説もある)の10%に当たる属州税(10分の1税)が課せられた。これはローマ市民・同盟市民が兵役義務を持つのに対し、属州民にはその義務がなく、その代替と考えられた。他、50分の1税として売上税(今日の日本の消費税と異なり、売買ごとに掛けられ、控除はない)などいくつかの税があったが、これはローマ市民と共通のものであった。

属州民にとって最も大きな負担は、国有地の賃貸料として支払う、収穫物の3分の1税である。新たに古代ローマの支配領域となった地域においては、多くの農地が国有地として収公されたため、属州民の多くは国有地を借りるしかなかったのである。

それら各税は、属州内の自由市や自治市では各都市が、直轄地では徴税請負人(プブリカニ、publicani[1])[2]が徴収を担当した。徴税請負人はしばしば総督と結託、もしくは総督の名を騙り単独で、属州民を搾取した。税額は法によって決められていたので上乗せ徴収はできないが、納税が遅延した場合にそれを徴税請負人が立て替えて貸し付けたものとして、利子を加算して徴収することで収益をあげた。この他、シキリアなどでは穀物の強制買い付けの制度も属州民の負担となっていた。

属州総督の地位は、住民からの搾取により多大な利益を期待できるものであった。このため、共和政中期から末期のローマでは、多額の借金をしてコンスルに就任し、その後の属州統治の任で負債の返済だけでなく一財産を築くような者も少なくなかった。こうした属州総督の苛斂誅求に対して、属州は総督の不正を元老院に訴えることができた。ただし、弾劾は任期中には免除されるため、搾取は経年して続くことになった。当時キケロを有名にしたウェッレスの弾劾も、こうした不正追及の裁判であった。そのキケロは、自らが属州総督に赴任した際の私財の蓄積の “少なさ” によって、自らを廉潔の士として自画自賛していたという。

その収奪はすさまじく、新たに属州になった地域は数年のうちに疲弊し、属州民の人口は数十年のうちに10分の1に減少してしまう例すら見られた[3]。属州民の人口が減少したと言っても、死に絶えた訳ではなく、奴隷の境遇に落とされたのである(すなわち属州民として、課税対象者として戸籍に登録された者の数が激減したということである)。古代ローマには、借金の返済ができなくなった場合に自らを奴隷として売却する事で返済する、債務奴隷の制度があった。

多くの国有地は、代わってローマの貴族などの富裕層が借りることとなった。彼らは奴隷を酷使することによって、3分の1税を収めてもなお多大な収益を得て、ラティフンディウムの成立を見る。酷使される奴隷には、当然ながら奴隷の境遇に身を落とした元属州民も多くいたであろう。

このような搾取に属州が従った背景としては、新たにローマの支配下となった地域は、元より専制君主の支配下にあり重税を課せられていた場合があったからである。従ってそうでない地域、例えばギリシャの諸ポリスは、ローマの支配下においても特別な地位にあった。ビュザンティオンのように、後にローマの首都となった場合すらあった。

属州からの富はローマに繁栄を与えた。共和政末期のローマでは、属州総督の際に獲得する富と軍事的成功が中央での政治的資源となった。またシキリアやアフリカ、のちにはエジプトからの穀物は、ローマの巨大な人口を維持するためには必要不可欠なものであった。しかし、流入する安価な穀物はイタリアの自作農民に打撃を与え、彼らの没落と政情の不安定化の原因の一つとなった。イタリア本土では代わって、オリーブやブドウといった高付加価値の農産物の生産が中心となった。

帝政期には、古代ローマは拡大期から安定期へと移行し、すなわち属州に対する収奪も一段落した。拡大期には可能であったラティフンディウムを支えてきた安価で大量な奴隷の供給も、安定期になれば細っていき、従来のように奴隷を酷使し収益をあげる経営は成り立たなくなっていった。属州は繁栄し、イタリアの商品の輸出先として、ローマの経済を支えることになる。しかし、オリーブやブドウなど高付加価値農産物の属州での生産が本格化し、イタリアは市場を失い、経済的には没落していった。

212年にはアントニヌス勅令により、全ての属州民がローマ市民権所有者となり、10分の1税の負担はなくなった。しかし、これにより税収減となったローマは、代わって臨時税の濫発で補ったため、税負担は変わることがなく、むしろ増加した。またディオクレティアヌスの時代には、既存の属州はおよそ100程度[4]に再分割され、属州総督の権力削減と皇帝権の強化が行われた。

脚注
[脚注の使い方]

^ 複数形はプブリカヌス(pubulicanus)
^ 『新約聖書』で主より徴税人と呼ばれているのは彼ら徴税請負人のことであり、ユダヤ人には同胞の裏切り者とみなされ蛇蝎のごとく嫌われた。イエス・キリストは徴税人と食事を共にしただけで弟子たちから批判を受けている。『新約聖書』マタイの福音書9:9~13
^ 会田雄次『合理主義―ヨーロッパと日本』(1966年)
^ ディオクレティアヌス帝からコンスタンティヌス1世時代に成立したとされる文献ヴェローナ・リストに101の属州名が掲載されている

関連項目

古代ローマの属州の一覧
保守政党
ラティフンディウム
ヴェローナ・リスト
ノティティア・ディグニタートゥム
シュネクデモス
属州会議 (ローマ帝国) 』

世界史の窓 パンノニア

世界史の窓 パンノニア

『現在のハンガリー。ローマの属州となった後、5世紀にはフン人が移住し建国。6世紀にはアジア系アヴァール人が建国したが、8世紀にフランク王国カール大帝に制圧される。9世紀にマジャール人が移住し、さらに西進したが、955年、東フランク王オットー1世に敗れたためにこの地に後退し国家を建設。それが現在のハンガリー国家につながっている。
 現在のハンガリー共和国の一帯、ドナウ川の中流にひろがる盆地を古くからパンノニア平原という。紀元前33年ごろ、ローマに征服され、属州イリュリクムの一部であり、紀元後9年ごろ、分割されて一つの属州パンノニアとなった。

民族大移動

 4世紀後半にはゲルマン民族の大移動が始まり、その動きの中で、380年には東ゴート人とヴァンダル人のパンノニア移住がローマ帝国に認められた。ローマ帝国が東西に分裂すると、パンノニアは東ローマ帝国領となったが、5世紀にはアジア系のフン人がダキア(現在のルーマニア)を拠点にヨーロッパ各地に侵入を繰り返した。425年に西ローマ帝国はパンノニアをフン人に割譲したので、フン人はイタリアから撤退した。
フン帝国 445年、フン人はアッティラによって統一され、フン帝国として強大となり、黒海からライン河畔までを支配下に収め、447年には東ローマ皇帝テオドシウス2世から、ドナウ南岸、トラキア(バルカン半島東部)の割譲を受けた。さらにヨーロッパへの侵攻を続けたが、451年のカタラウヌムの戦いで敗れ、アッティラも453年に急死したため、その帝国は急速に瓦解した。
 フン帝国が弱体化したころ、パンノニアには一時ゲルマン人の東ゴートがフン人の支配から独立して定住し、489年まで続いた。しかし彼らはその後、イタリアに移動した。
アヴァール人の侵攻 東ゴート人の次にランゴバルド人が入ったが、彼らもまた西方に移動し、その後に入ったのがアヴァール人がである。彼らはゲルマン系ではなく、アジア系の遊牧民と考えられている。彼らはパンノニアに568年ごろに国家を形成し、パンノニアとその周辺のスラヴ人を服属させた。さらにアヴァール人はビザンツ帝国とフランク王国を脅かし、勢力圏を拡げていったが、626年のコンスタティノープル遠征失敗以後は、急速に力を弱めてった。それに乗じて、ボヘミア、モラヴィアなどのスラヴ人は622~623年にアヴァール人を撃退して自立し、スラヴ人最初の国家を成立させたが、658年にアヴァール人に滅ぼされてしまった。
 パンノニアのアヴァール国家はさらに存続していたが、8世紀になるとフランク王国の圧迫を受けるようになった。796年、フランク王国のカール大帝はフランク軍を東方に遠征させてアヴァール人を破り、アヴァール人はエンス川まで後退して勢力を大幅に弱め、9世紀にはマジャール人に吸収されてしまう。

マジャール人の定住

 9世紀には東方からマジャール人がこの地に移動してきた。マジャール人は、ウラル山脈西部で遊牧生活を送っていたウラル語系民族でアジア系ではない。彼らは10世紀になるとさらに西に移動し、東フランク王国の東辺を脅かした。東フランクのザクセン朝、ハインリヒ1世は、それに備えて城塞都市を建設してマジャール人と戦った。

マジャール国家の形成

 955年に東フランク王国のオットー1世とのレヒフェルトの戦いに敗れて西進をあきらめ、この地に退いて定住し、1000年にハンガリー王国を建国した。

 パンノニアは平原であるために周辺からの外敵の侵攻を受けやすく、その後もモンゴル人の侵入、オスマン帝国の支配、オーストリア=ハプスブルク家の支配、オーストリア=ハンガリー帝国に併合、などの異民族支配が続き、ようやく第一次世界大戦後の1918年にハンガリーは独立した。

なお、国名をハンガリーとするのは日本が英語表記に従っているからであり、かれら自身は「マジャール」を国名としている。 → 20世紀以降の現在のハンガリー共和国 』

パンノニア平原

パンノニア平原
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B9%B3%E5%8E%9F

『パンノニア平原(パンノニアへいげん)は、カルパチア山脈・アルプス山脈・ディナル・アルプス山脈の尾根に囲まれた、中央ヨーロッパに存在する平原である。現在のハンガリーとスロヴァキアの全領域とオーストリア、 ボスニア・ヘルツェゴビナ、チェコ、クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、ウクライナの一部を含む。ドナウ川中流域のほとんどを含む。

北部と東部が山岳地帯であり、中央部がハンガリー大平原、西部が丘陵地帯のドゥナーントゥール地方(古代ローマのパンノニア皇帝属州)である。ドイツ語ではPannonische Tiefebeneまたは、Pannonisches Becken、スロヴァキア語ではPanónska panvaまたはPanónska nížina、ルーマニア語ではCâmpia Panonică、英語ではPannonian Plain と言う。

地形的には盆地であり、カルパチア盆地ともいうが、パンノニアという地域名は現在のハンガリーのドナウ川西岸、すなわちドゥナーントゥール地方の古称であり、実際のカルパチア盆地の西南部、全体の4分の1程度の地域しか指していないため、パンノニア平原をカルパチア盆地全体の呼称とするのは不適切だとの考え方もある。カルパチア盆地は、ハンガリー語では Kárpát-medence [ˈkɑ̈ːrpɑ̈ːtˌmɛdent͡sɛ](カールパート・メデンツェ)、ドイツ語ではKarpaten­becken [kaʀˈpaːtnˌbɛkn](カルパーテンベッケン)、スロヴァキア語ではKarpatská kotlina [ˈkarpatskaːˌkotlina](カルパトスカー・コトリナ)、ルーマニア語ではBazinul Carpați [bazinul.karˈpat͡sʲ](バジヌル・カルパツィ)、英語ではCarpathian Basin [kɑːˈpeɪ̯θiən.ˈbeɪ̯sən](カーペイシャン・ベイスン)と呼ばれる。

1920年のトリアノン条約によるハンガリー王国解体までは、ほぼハンガリー王国の領域と重なっていたためハンガリーではハンガリーから領土の割譲を受けた継承国を刺激しないために専ら「歴史的ハンガリー」(történelmi Magyarország [ˈtörte̝ːnɛlmiˌmɒɟɒrorsɑ̈ːɡ])、すなわち旧「ハンガリー王国」(Magyar Királyság [ˈmɒɟɒrˌkirɑ̈ːjʃɑ̈ːɡ])、「ハンガリー聖冠諸邦」(A Magyar Szent Korona Országai [ɒˈmɒɟɒrˌsɛnːt.koronɒˈorsɑ̈ːɡɒi])、「大ハンガリー」(Nagy-Magyarország [ˈnɒɟˌmɒɟɒrorsɑ̈ːɡ]) の版図を指す場合の婉曲用法として使われることが多い。

1920年のハンガリー王国の領土の分割(トリアノン講和条約)

約1000万年前から約60万年前まではパンノニア海と呼ばれる浅海を形成しており、地盤は厚い海底堆積物の層である。

小ファトラ山地 (ファトラ・タトラ山地)のヴラートナ渓谷 (Vrátna dolina)

小ファトラ山地 (ファトラ・タトラ山地)のヴラートナ渓谷 (Vrátna dolina)
ホルトバージのプスタ(ティサーントゥール地方)

ホルトバージのプスタ(ティサーントゥール地方)

関連項目

パンノニア
パンノニア海
カルパチア山脈
ハンガリー王国 』

カルパティア山脈

カルパティア山脈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%B1%B1%E8%84%88

『カルパティア山脈(カルパティアさんみゃく、またはカルパチア山脈(カルパチアさんみゃく))は、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈である。
カルパティア山脈の衛星写真
カルパティア山脈の位置(カルパティア山脈内)
ゲルラホフスカ山
ゲルラホフスカ山
モルドベアヌ山
モルドベアヌ山
カルパティア山脈

概要

主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。 スロバキアのブラチスラヴァ付近から北東に延び、東、南東へ向きを変えてルーマニア中部のトランシルヴァニアに達し、さらに西、北へと向きを変える。

最高峰はスロバキアの最高峰でもあるゲルラホフスカ山(英語版)(2,655m)[1]。 アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する新山系だが、アルプス山脈ほど険しくはない。

岩塩、天然ガス、石油、鉄鉱石、貴金属などを産出する。第一次世界大戦のころオーストリア軍とドイツ軍が冬季にナポレオン張りに山越えを敢行し、ロシアに戦わずして80万の損害を出したことがある。

名称

カルパティアの名の由来については諸説あり、よくわかっていない。古代スラヴ語で「山脈」を意味する語(Chorwat、Chrbat など)に由来するという説は、スラブ人がこの地域に移動する以前の文献にこの語が見える(2世紀のプトレマイオスの『ゲオグラフィア』)ために成立しない。 各国語による呼称は、チェコ語・スロバキア語・ポーランド語で Karpaty、ウクライナ語: Карпати[2]、ルーマニア語: Munţii Carpaţi、英語: Carpathian Mountains または Carpathians など。

日本語では、ときにカルパート山脈ともいう。
カルパティア山脈
(スロヴァキア)

カルパティア山脈
(ポーランド)

カルパティア山脈
(ポーランド)

カルパティア山脈
(ルーマニア)

カルパティア山脈
(ウクライナ)

各部

詳細は「カルパティア山脈の各部(英語版)」を参照
西カルパティア山脈

東カルパティア山脈
南カルパティア山脈
(トランシルヴァニア山脈)

以下の部分には、固有の名称がある。

タトラ山脈

    ビソケタトリ (Vysoké Tatry) とも。
    北西部。チェコ、スロバキア、ポーランドの国境地帯を東西に走る。最高峰はスロヴァキアのゲルラホフスカ山 (Gerlachovský štít, 2663 m)。

ベスキディ山脈(英語版) (Beskydy)

    北東部。スロバキア、ポーランド、ウクライナの国境地帯を北西‐南東に走る。最高峰はポーランド・スロヴァキア国境のバビヤ・グラ (Babia Góra, 1724 m)。

アプセニ山脈(ルーマニア語版、英語版) (Apuseni)

    北部。カルパチア盆地やハンガリー大平原、トランシルヴァニア高原、クリシャナ(英語版)(Crișana)に接する。

トランシルヴァニア山脈

    トランシルヴァニア・アルプス、南カルパティア山脈とも。

    南部。ルーマニア中部を東西に走る。最高峰はモルドヴェアヌ山 (Vârful Moldoveanu, 2544 m)。トランシルヴァニア高原の南縁をなす。

トランシルヴァニア高原

    トランシルヴァニア盆地とも。
    ルーマニア中部でカルパティア山脈南部が凵字型に屈曲した部分に囲まれた、三角形の高原。

なお、西カルパティア山脈、東カルパティア山脈という用語もあるが、山脈が長く屈曲しているため、

ルーマニア部分に着目し、トランシルヴァニア山脈より西が西カルパティア山脈、東が東カルパティア山脈(図)
東西、北西‐南東に延びている部分に着目し、タトラ山脈とベスキディ山脈が西カルパティア山脈、ルーマニア部分が東カルパティア山脈

と、指す範囲は一定しない。』

スロバキアの歴史

スロバキアの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%90%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2007年5月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2008年9月)
正確性に疑問が呈されています。(2008年9月)
言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2009年2月)』

『スロバキアの歴史では、現在のスロバキアの領土での歴史について説明する。』

『先史時代

旧石器時代

スロバキアで発見された現存する最古の考古学上の遺物は、放射性炭素年代測定により、ノヴェー・メスト・ナド・ヴァーホム(英語版)近くで発見された、旧石器時代初期の紀元前27万年頃のものであるとされている。このクラクトン文化様式の道具の発見は、スロバキアに太古に人が居住していた証左である。

旧石器時代中期(紀元前20万年 – 紀元前8万年)以降の他の石器はボイニツェ(英語版)近くのプレポシュツカ洞窟(Prepoštská jaskyňa)および他の近くの場所由来のものである。この時代のもっとも重要な発見は、スロバキア北部の村の一つガーノフツェ(英語版)近くで発見されたネアンデルタール人の頭蓋骨である。 考古学者たちは、この地域で先史時代の人類の骨を発見し、同様に多数のグラヴェット文化の遺物と遺構を、主にニトラ川(英語版)、フロン川(英語版)、イペリ川(英語版)、ヴァーフ川の谷やジリナ市付近、またミヤヴァ(英語版)山脈とともにVihorlat、InovecおよびTribeč山脈の裾野においても発見した。もっともよく知られた発見にはマンモスの骨で作られた女性の彫像(紀元前22,800年、いわゆる「モラビアのヴィーナス(en)」も含まれている。この小さな像は1940年代にピエシュチャニ近くのモラヴァニ・ナド・ヴァーホム(英語版)において発見された。キプロスの第三紀の好高熱性の腹足綱の貝殻で作られた多数の首飾りはモラヴァニ=ジャーコヴスカー、ポトコニツェ、Hubina およびラドシナ(英語版)からのものである。これらの調査結果は、地中海と中央ヨーロッパとの間で行われていた商業交易の最古の証拠である。

新石器時代

いくつかの考古学的発掘における道具と焼き物、および比較的標高の高い北部地域を含むスロバキア各地に散在する埋葬地の発見は、新石器時代の人類の居住の証拠である。ジェリエゾフツェ(英語版)、ゲメル(英語版)およびBukové山地で発見された焼き物は、顕著な造形と精密な線形による装飾によって特徴づけられる。

それはまた、最初の彩色の試みであった。この意図的な装飾品は、発展された新石器時代の職人の美的センスを示している。 要な考古学上の発見はかつて居住していた洞窟にもあった。たとえば、人類は長さほぼ6000メートル、深さ700メートルの有名なドミカ洞窟にも居住していた。この洞窟はヨーロッパにおける最大の新石器時代の遺跡の一つである。Bukové山地からやってきた焼き物を製作した部族は、800年以上にわたり継続的にドミカ洞窟に居住していた。

中央ヨーロッパの新石器時代の遷移は農業の発展と牧草地の開拓と局地的段階の最初の金属の精錬、”Retz”様式の焼き物と素焼きの笛で特徴づけられる。「素焼きの笛時代」の間、人々はNitriansky Hrádokに、いくつかの要塞化された景観を建設している。 新石器時代が始まったとき、今日のスロバキアの地理的な位置は貝殻、琥珀、宝石および武器のような財のための緻密な交易網を担っていた。その結果、そこはヨーロッパの交易システムにおいて重要な拠点となった。

青銅器時代と鉄器時代

スロバキアの領土での青銅器時代は紀元前2000年から800年にかけて発展、拡大の段階を経て進行した。 大きな文化的、経済的および政治的発展は銅の生産の顕著な発展は、特に中部スロバキア(例:シュパニア・ドリナ)と北西スロバキアにおける銅の生産量の著しい増加によるものと考えられている。銅は地域の人口の繁栄の安定的な源泉となったチャカニとヴェラティセ文化が消えたのち、ルサチア文化の人々は強固で複雑な要塞化した建造物を拡張した、大きな行政の中心地と恒久的建造物とともにである。ルサチア人のヒルフォートの発掘調査はこの時代の農業と交易の相当な発展を記録している。

墳墓の豊かさや多様性は著しく増加していた。この時代の居住者たちは武器、武具、貴金属、食器と彫像を生産していた。トラキア からの部族の到来はカレンダーベルク文化の人々を滅亡させた。かれらは平原にあった村落(セレト(英語版))や、山頂に位置する要塞(スモレンセ、モルピ)にも住んでいた。 ハルシュタット文明の君主の権力は、スロバキアにおいては、スキタイ・トラキア人とケルト系部族との間の衝突の後の鉄器時代の末期の間に失われた。スキタイ・トラキア人はスロバキアの河川をたどり南から北へと進出した。
ブラチスラヴァで鋳造されたケルトのコインとそれを模した現代の5スロバキア・コルナ硬貨。

ケルト人の勝利はこの地域の最後の鉄器時代のはじまりを指し示していた。スロバキアに住む二大ケルト系部族はコティニ人とボイイ人である。 コティニはおそらく独自あるいはプコフ文化の顕著な部分を成していた。ケルト人は、ブラチスラヴァとリプドフ(ハヴラノク神殿)に大きな塀で囲まれたオッピドゥムを造営した。 BIATECと呼ばれるケルトの王の名前のある銀貨はスロバキアにおいては史上最初の文字の使用の代表例である。 ケルト人の支配はゲルマン人の侵略や、ノイジードル湖近くのボイイ人に対してのダキア人の勝利およびローマ帝国の拡大によって消滅した。

古代ローマ時代

詳細は「マルコマンニ族」および「マルコマンニ戦争」を参照

スロバキアにおいてローマ時代は6年にはじまり、マルコマンニ族とクァディ族に対する戦争を導いたローマ帝国の軍団のこの地域の到来によって始まった。クアディ人によって屈服させられた蛮族の王国のひとつヴァニウス王国は、西部から中央スロバキアに20年から50年に存在していた。ローマとその軍はドナウ川東岸の細い地域と南西スロバキアのたいへん小さい地域(セレマンティア, ゲルラタ, デヴィン城)を占領しただけであった。

174年のみ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はヴァー、二トラとフロンの川の谷へと深く侵入した。フロンの川岸において、この哲人皇帝は自身の哲学的著作『自省録』を執筆している。179年にローマ軍はトレンチーン城の岩の上にトレンチーンの昔の名(Laugaritio)を彫り、ヨーロッパのこの地域におけるローマ帝国の最北端として印をつけた[1]。

4世紀から8世紀の「大侵略」

ランゴバルド国(青色の部分、紀元後526年)

2世紀および3世紀にフン族は中央アジアのステップから離れ始めた。彼らは377年にはドナウ川を渡り、パンノニアを占領した。そこは彼らが75年の間、西ヨーロッパに向かっての略奪と襲撃の出撃のための拠点にした土地である。 451年にアッティラの指揮のもと、かれらはライン川を渡り、費えのためにガリアへと侵攻した。それからカタロニアの近郊を破壊しながらピレネー山脈をも越えている。しかし453年のアッティラの死で、フン族は姿を消した。

フン族の後、5世紀から6世紀に、ゲルマン人の部族がパンノニア平原に居住を開始した。東ゴート人、ランゴバルド人、ゲピド人、ヘルール人である。 6世紀の3分の1から半分もの間に彼らの諸王国とその競争が出来事となった。 6世紀、初期のランゴバルド人の国は現在のスロバキアの領域を中心にしていた[2]。その後、ランゴバルド人はこの地域から離れ、はじめはパンノニア、それからイタリアへと移動し、そこに11世紀まで続く国を建設した。

568年には遊牧民のアヴァール人がドナウ川中流の諸王国への彼ら自身の侵略を指揮した。アヴァール人はパンノニア平原の低地を占領し、そこを支配する帝国を樹立した。彼らは何度かの攻撃をビザンツ帝国に対して行っており、ビザンツ皇帝は、かれらの攻撃を避けるために定期的に貢物を贈っている[3]。 623年、パンノニア西部に暮らすスラヴ人の人びとはアヴァールの帝国から離脱した[4]。 626年、アヴァール人とサーサーン朝ペルシャは共同してコンスタンティノポリスを包囲したが、その攻略には失敗した。この失敗の後、アヴァールの威信と勢力は減少し、パンノニア平原の外側のかつての版図の統制能力を失った。しかし彼らの王国は11世紀まで継続した[3]。

スラヴ人

初期の歴史
詳細は「スラヴ人」を参照

主流派の歴史家の多く[要出典] がスラブ人の中央および西部ヨーロッパの居住は6世紀にはじまったと示唆している[5]。 一定の要素が以下のことを証明している。6世紀の始まりまでにスラブ人の住民がヴィスワ川、ドニエストル川とドナウ川に、今日のスロバキアとパンノニアとカランタニアを含む広大な地域を席巻し始めたという事実である[要出典]。

近年の考古学的および逐語的な資料の解読に基づいて、歴史家と言語学者の少数は、以下のことを有する代替的な理論を発展させてきた。すなわち、スラブ人の諸部族は紀元前数千年ごろの現れて、ケルト・ゲルマンの諸部族の運動の中心で、じっとしていた土着の民族から進化したのではないかというものである[要出典]。 最もよく知られた支持者は、『スラブ諸語百科事典』の編纂者である、ロシア・スラブおよびハンガリーの言語学者オレグ・ニコラエヴィチ・トゥルバチョフである。彼はこの理論について詳細な著作をあらわしている[要出典]。 また、古代ギリシャ・ローマの史料は、この地域の一層古いスラブ人の存在のありうべき証拠を提供している。たとえば、紀元前400年のものとされる、ハリカルナッソスのヘロドトスによる作品のひとつのなかの、Vénèdesの出現は、スラブ人の最初の記録であると、かれらは議論している [要出典]。 スラブ人の存在についての言及は大プリニウス(79年)とタキトゥス(55年 – 116年)の著作においてもあるという[要出典]。 160年のクラウディオス・プトレマイオスの著作にある、ラテン語でのSouveniの綴りは、スラブ人をスラブ人と特定した最初のものである[要出典]。 8世紀以前のドナウ川中流のスラブ人は、現在のスロバキアと北部、西部ハンガリー、モラヴィア、パンノニア、オーストリアとスロヴェニアに住んでいたが、Sloveni (*Slověne)という綴りの名を使用していた[要出典]。

近年の調査は、スラブ人とケルト人諸部族が北部スロバキアのリプトフスカ・マラ地域の近くのリプトフ地方に共存していた証拠を発見してきた[要出典]。 発掘調査を行う学者たちは6つのケルト・スラブのコロニーとその中央に、ケルトとスラブの儀式のための聖所を有する城の遺構を発見してきた[要出典]。 チェコの考古学者J. Poulíkの最新の調査結果によれば、スラブ人諸部族はゲルマン人のクアディ人とも共存していた[要出典]。 この二つの競合する理論は必ずしもどちらかを排除するものではない[要出典]。
サモ王の帝国

詳細は「en:Samo」を参照

623年のアヴァール汗国に対してのスラブ人の反乱が成功したのち、ドナウ川中流に住むスラブ人の一部がサモ王によって糾合された。631年、サモはフランク王国のダゴベルト1世の軍をヴォガスティスブルクの戦いで破った。最初のスラブ人の政権として知られる「サモの帝国」は、建国者が665年に没すると消滅し、アヴァール汗国にふたたび併呑された。

スラヴ人政権の登場
詳細は「en:Principality of Nitra」を参照
プリビナ政権下のニトラ公国(青の部分、緑の部分はモラヴィア公国)
800年ごろのヨーロッパ

670年代に「グリフィンとテンドリル(”griffin&tendril”)」文化を持った人々がパンノニア平原に現れ(オノグル(英語版)として区別される)、短い間の後にアヴァールはその版図をウィーン盆地の向こうまで拡大することができた[6]。 しかし、同時代の考古学上の発見は(例:ブラトニツァ(英語版)の身分の高い人物の精巧な墓)はまた、後に大モラヴィア中核となる領域におけるスラブ人の支配階級の形成を指摘している[7]。 南部スロバキアより向こうのアヴァールの優位は、フランク王国のカール大帝がドナウ川北部(のちのニトラ公国[8] の中心)に住むスラブ人の助けによって、アヴァールを破る803年まで続いた。フランク王国はこのときついにスラブ人を取り込むことになった。 文書記録に基づいた、ニトラ公国に関する情報は、870年ごろの『バイエルン・カタランニア地誌(Conversio Bagoariorum et Carantanorum )』の2つの記載事項に記録されているのみである[9][10]。 それにもかかわらず、9世紀はじめの10年間は、パンノニア平原の北西部のスラブ人はニトラを拠点とする部族長(後世の歴史家は「ニトラ公」と形式上呼ぶ)の支配下に置かれていた[11]。9世紀には、この都市周辺の居住地の広範囲のネットワークは発展していた[12]。 9世紀はじめ、この政権は現在のスロバキアの領土の北西部に位置していた[3]。 828年ごろ、大司教のザルツブルクのアダルラムがニトラヴァ(Nitrava)にニトラ公国の君主プリビナ(800-861年)のための教会を奉献した[8]。 833年に、モラヴィア公モイミール1世がプリビナを放逐した。 プリビナはラトボード(Ratbod)伯の下に行った。伯はカロリング朝フランク王国のオストマルクを統治しており、そこではプリビナは、東フランク王国の宗主権の下の下パンノニア公国とバラトン湖に流れ込むザラ川の近く地に位置するブラトノグラードの首都の統治者になった[13][14]。 プリビナが放逐されていた時期に、少なくとも3つのニトラの城(ポデディム城、チンゴフ城とオストラ・スカラ城)が破壊されたと発掘調査で明らかになっている[7]。

大モラヴィアの時代

詳細は「en:Great Moravia」を参照
スヴァトプルクの治世期 (871年-894年) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。
9世紀の中央ヨーロッパ。東フランク王国は青、第一次ブルガリア帝国は橙色、ラスティスラフ王(870年)治世の大モラビア王国は緑色で示している。緑色の線で囲った部分はスヴォトプルク1世王(894年)治世の大モラビア王国の版図(大モラヴィアの境界の中には議論のあるものも存在する)。

糾合されたスラブ人諸部族がドナウ川北に居住した830年ごろに大モラヴィアは興隆し、この地域での優位を拡大した。 [9] 846年にモラヴィア公モイミール1世が東フランクの王の優位から離脱する努力をしたとき、ルードヴィヒ2世王は彼を斥けて、王座につくようモイミール1世の甥のラスティスラフ (846年–870年)を支援した。 [15] 新しい王権は独自路線を追求した。855年のフランク王国の攻撃を止めたのち、新王は、領内でのフランク王国の僧侶の伝道を弱体化させる方法を探した。ラティスラフはビザンツ帝国のミカエル3世にスラブ語にキリスト教を翻訳する教師の派遣を要請した。ラティスラフの要請を受けて、863年にビザンツの公式の伝道師、聖キリルとメトディオス 兄弟がモラヴィアに来訪した。二人は最初のスラブ語のアルファベット、グラゴル文字を発展させて、福音書を教会スラブ語に翻訳した。 ラティスラフはまた国家の防衛と統治に腐心した。国中にある数々の要塞化された城は彼の治世に造営されたものであり、その中には(e.g., Dowina – w:Devín Castle) [16][17][18][19][20] フランク王国の年代記によってラティスラフとの関係が言及されるものもある。 [21][22] 彼の治世に、ニトラ公国は彼の甥のスヴァトプリックに封地として与えられた。 [17] 870年、この反逆的な公は自身とフランク王国と追放したおじと同盟を結んだ。先代と同様に、スヴァトプルク1世 (871年–894年)は「王(rex)」の称号を自称した。 彼の治世には、大モラヴィア帝国は、その版図の拡大が最大に達していた。このときには、現在のモラヴィアとスロバキアのみならず現在の北部および中央ハンガリー、下オーストリア、ボヘミア、シレジア、ルサチア、南部ポーランド、北部セルビアをもこの帝国に属していた。しかし彼の版図の正確な境界はいまだに現代の歴史家によって議論されている[7][23] スヴァトプルクはまた半遊牧のハンガリー諸部族とブルガリア帝国の攻撃に耐えた。 [8] しかしながら、彼は東フランク王国にたいする戦いのときにおいてはハンガリー人を傭兵に雇った。 [24] 880年に教皇ヨハネス8世が、大司教の聖メトディウスをその長とする独立した教区を大モラヴィアに設置した。彼はまたドイツ人聖職者のヴィティニングをニトラの司教に任命した。 894年のスヴァトプルク王の死後、その息子モイミール2世 (894年-906年?)とスヴァトプルク2世は、大モラヴィア王位とニトラ公位をそれぞれ継承した。 [17] ところが、かれらは帝国全体の支配をめぐり争いを開始した。帝国は、東フランク王国との絶え間ない攻防戦とよるものと同様に国内の紛争によっても弱体化し、大モラヴィアは周辺の領域のほとんどを失うことになった。 そのころ、ハンガリー諸部族は、遊牧民のペチェネグ人からの打撃に苦しんできたので、カルパチア山脈の東の版図を離れ、パンノニア平原を侵略し、896年ごろにはその領域を徐々に占領していった。 [25] ハンガリー諸部族の軍隊の進展は、当該地域の統治者がハンガリー諸部族の闘争に介入するために、彼らを傭兵に雇った地域の国々の間での戦争の継続によって、推進された。 [26] モイミール2世とスヴァトプルク2世の両方ともおそらく、904年から907年の間のハンガリー諸部族との間の戦闘で死亡したと考えられる。なぜならば彼らの名は906年の文書史料には言及されていないからである。ブレザラウスプルク(Brezalauspurc いまのブラチスラヴァ)近郊での三つの戦闘(ブラチスラヴァの戦い) (907年7月4–5日、8月9日)において、[27] ハンガリー人はバイエルン人軍を引き入れた。歴史家は伝統的にこの年を大モラヴィア帝国の崩壊と位置付ける。 大モラヴィアは後世にいまなお残る遺産を中央および東ヨーロッパに残した。 グラゴル文字とその後継文字であるキリル文字は他のスラブ人諸国に伝播し、その文化的発展において新たな道を引いた。 大モラヴィアの統治機構はハンガリー王国の統治機構の発展に影響を与えたかもしれない。[要出典]

ハンガリーとポーランドの統治

詳細は「ハンガリー王国」および「ポーランド王国」を参照
10世紀のハンガリー人の居住
詳細は「en:Seven chieftains of the Magyars」および「ハンガリー大公国」を参照

895年から902年の間[28]、ハンガリー人(マジャル人)は、徐々にパンノニア平原における権威を及ぼしていった。 しかし、現在の史料の中には大モラヴィアが跡形もなく姿を消し、その住民が、後に現れたブルガール人、クロアチア人とハンガリー人の勝利の後に、彼らのためにモラヴィア人がいなくなったことに言及しているが、考古学調査と地名学では西カルパティア山脈の川の谷のスラブ人の集団との連続性を示唆している[26][29]。 地名学は以下のことを証明しているであろう。ほかにスラブ人とハンガリー人との混血した人々とスラブ語の山々の谷に住む人々が居住していた頃、半遊牧のハンガリー人が今日のスロバキアのある西パンノニア平原を席巻したことをである[30]。 10世紀の間、大モラヴィアに対しての文献の作成さえなされたし、考古学上の発見はまた大モラヴィアの身分の高い一族の生き残りについても言及しているらしい[要出典]。他方、ハンガリー王国の初期の歴史の年代記は、ハンガリー人の指導者あるいは移民の後裔たる著名な高貴な王族を記録し、彼らは大モラヴィアとは一切結びつかない。 たとえば、ホント・パーズマーニュ(Hont-Pázmány)部族について、現代の学者は彼らが大モラヴィアの起源の可能性があるとしているが[31]、彼らは「ケーザイ・シモン」によって、神聖ローマ帝国のスワビア公国から王国に10世紀後期に到来したと記録されている[32][33][34]。

現在のスロバキアの領土は、10世紀初期に徐々に発展しつつある国家(後のハンガリー王国)に統合されるようになった。 『ハンガリー人の所業(w:Gesta Hungarorum )』はハンガリー諸部族の指導者のフバが、ニトラ(Nyitra / Nitra) とジトヴァ(Zsitva / Žitava)周辺の支配を継受したと記しているが、その一方で『フン族とハンガリー人の所業(w:Gesta Hunnorum et Hungarorum)』 は、もう一つの指導者レヘルはガルゴック(Galgóc)、フロベック(Hlohovec)の周辺に居住するようになり、ハンガリー人のモラヴィア人にたいする勝利ののち、彼はニトラ(Nyitra / Nitra)にとどまるようになった[35]。現代の史家はまた北西パンノニアがハンガリー諸部族のひとつによって占拠されたと主張している[35]。 899年から970年の間、ハンガリー人はしばしば現在のイタリアと東フランク王国、西フランク王国とヒスパニアおよびビザンツ帝国の土地への領域に対しての襲撃を実施した[36]。 このような活動は西へは955年のレヒ川でのレヒフェルトの戦いまで継続された。神聖ローマ皇帝オットー1世はハンガリー軍を壊滅せしめた。ビザンツ帝国への襲撃は970年に終焉した[36]。

917年から、ハンガリー人は複数の領域に対する襲撃を同時に行っており、それが部族連合内の画一された指揮系統の崩壊を証明しているかもしれない[37]。 史料は連合内の少なくとも3つ最大5つの部族集団の存在を証明している。そして、それらのただ一つが、パンノニア平原西部を統治していたアールパード(後のハンガリー王国の最初の王朝の王)に直接指導されていた[38]。

「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?(11世紀)
詳細は「en:Principality of Nitra」および「ro:Tercia pars regni」を参照

のちのハンガリー王国の発展はガラム川(英語版)(スロヴァキア語名フロン川(英語版))の西、現在のスロバキアの領土にまで版図を拡大したゲーザ公の治世(972年以前-997年)の間に始まった[39]。 彼は972年に洗礼を受けたものの、彼は確信してキリスト教徒になったわけではなかった。997年に後を継ぐ彼の息子イシュトヴァーン1世とは対照的にである[40]。 史家の中には、イシュトヴァーン1世は、バイエルン公女ギーゼラとの結婚の後に父から扶持としてニトラ公国を賜ったと主張している[41]。 ゲーザ大公が薨去したとき、アールパード朝の王族の一人で異教徒のコッパーニュが継承権を主張したが、イシュトヴァーンは妃ギーゼラのドイツ人の家来の支援によってこれを打倒した[42]。 スロバキア民謡のひとつは「イシュトヴァーン王(Štefan kral)はビナの辺りではスロバキアの戦士の援けによって異教の敵を倒すことができたのだ」と歌っている[43]。 この勝利の後、イシュトヴァーンは、ローマ教皇シルウェステス2世 から王冠を受け、1000年か1001年に彼は初代ハンガリー国王イシュトヴァーン1世として戴冠したのである。

ハンガリー王国はかつての大モラヴィア王国の国家組織の要素を統合した[7][44]。 他方、歴史家たちはこのことに対してコンセンサスをとるに至っていない。王国内の「統治の基礎単位 (vármegye)」の構成はブルガリア帝国やドイツ、モラヴィアなど外国のものを踏襲したのか、ハンガリー内部の刷新なのかはいまだに議論されているのはその一例である[45]。

イシュトヴァーン1世(在位1000/1001年-1038年)がハンガリー王国に設置した城県のうち、は少なくとも8つの城県(“vármegye”)が現在のスロバキアの領土に含まれている。すなわち、アバウーイ(Abaúj / Abov)、ボルショド (Boršod)、エステルゴム、ホント(Hont)、コマールノ(コマーロム)、ニトラ、バルシュ(Bars / Tekov)およびゼンプレーン(Zemplén / Zemplín)はおそらく彼によって設置された[46]。 現在のスロバキアの領土の北部、北東部のほとんど人が住んでいなかった領域は王の私有林となった[47]。
イシュトヴァーン1世はまた、複数の教区を王国内に設置した。11世紀には、現在のスロバキアの領土は、エステルゴム大司教区 (1000年ごろ設置)とその下のエゲル教区(1006年–1009年に設置)に分割されていた[48]。

1003年のポーランドの一部としてのスロバキア

1003年ごろか1015年ごろ、ポーランド王国のボレスワフ1世は、現在のスロバキアの領土である、モラヴァ川以東の土地を獲得した。しかしイシュトヴァーン1世は1018年にこれら領地を奪還した[49]。

イシュトヴァーン1世が崩ずると、王国は王冠をめぐる国内の紛争に巻き込まれた。そして神聖ローマ皇帝のハインリヒ3世もまた、闘争に介入した[50]。 1042年にハインリヒ3世は今日のスロバキアの一部であるフロン川(ハンガリー語名ガラム川)以東を獲得し、それらをイシュトヴァーン1世のいとこのベーラ1世に与えた。しかし皇帝の軍が撤退したのち、アバ・シャームエル王の軍がこれらを奪還した[49]。

1048年に国王アンドラーシュ1世は「王国の三分の一 (Tercia pars regni)」 を彼の兄弟のベーラ公に譲渡した[51]。 公国の領域はニトラ(Nyitra / Nitra)とビハル (現在はルーマニア領。ルーマニア語ではビホル)を中心としていた[52]。 以後60年もの間、「王国の三分の一公国」はアールパード王家の王族(ゲーザ公(のちのハンガリー王ゲーザ1世)、ラースロー公(のちのハンガリー王ラースロー1世)、ランペルト公およびアールモシュ公)によって王国とは別個に統治されてきた[35] 公は王の優位を容認した。しかし彼らの中(ベーラ、ゲーザ、アールモシュ)には神聖ローマ帝国やボヘミア王国のような隣国の統治者と同盟と王冠を得るために、王に対して反乱を起こす者もいた[53]。 「王国の三分の一公国」の歴史は1107年に終わりを告げた。このとき「文人王」カールマーンが、弟であるアールモシュ公の聖地巡礼の留守に乗じて、その領地を占領したのである[54]。 アールモシュ公は王国に帰還した時に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の軍事的支援によって旧領の回復を図ったが、失敗し「現状(status quo)」が課せられ、三分の一公国の王領への併合による消滅が確定した。

城県と都市の発展(12 – 13世紀)

実弟の公国の占領後、カールマーンは3番目の司教区、ニトラ司教区を現在のスロバキアを設置(再設置)した[55]。 王国の領地の統治は11世紀から13世紀に徐々に発展してきた。新しい城県は、既存の城県の分割あるいはポジョニュ(Pozsony / Prešporok)城県、トレンチェーン(Trencsén / Trenčín)城県、ゲメル(Gömör-Kishont / Gemer)城県およびノーグラード(Nógrád / Novohrad)城県の北へとその版図を拡大した王国の中央の城県によって創設された。その間に王の私有林はゾーヨム(Zólyom / Zvolen)城県とシャーロシュ(Sáros / Šariš Castle)城県を取り巻く「森林城県」に組織された [56] [57] (ポジョニュ城県の県都ポジョニュ市は1526年以降ハンガリー王国の首都であった)。ハンガリー王国の北部の植民はこの時期に継続された。このころスラブ人、ハンガリー人、ドイツ人、ワロン人らがほとんど人のいない土地に居住したのである[58]。 現代の文書はモラヴィアとボヘミアから現在のスロバキアへの移住を記している。一方、北部や東部ではポーランド人やルーシ人が移住した[59]。 王の特権は、発展しつつある地方の貴族の家門の中にスラブ人を起源としているものがいたことを証明している[60]。 ドイツ人移民は13世紀前半までに複数の都市(例:クラピナ、オーバルシュ(Óbars / Starý Tekov)およびバンスカー・シュチャヴニツァ)に移住した[61]。 セペシュ(Szepes / Spiš)地域の移民はもともとハンガリー人、スラブ人(ポーランド人など)に発祥し、1240年からワロン人が到来し、ドイツ人がそれらと一緒になった[62]。 現在のスロバキアの領土は金、銀、銅、鉄および塩という鉱物が豊富であり、鉱業が次第に発展していった[63]。 鉱業と商業の発展はいくつかの集落の地位を強化し、それらは王から特権を賜ることになった。最初の都市特権は現在のスロバキアのトルナヴァ(ナジソンバト、1238年)、オーバルシュ(Óbars / Starý Tekov(1240年))とシェルメツバーニャ(Selmecbánya / Banská Štiavnica(1241年か1242年))に授与された[64][65](ハンガリーで最も古い大学の1つである、現在ブダペストにあるエトヴェシュ・ロラーンド大学は1635年にナジソンバト市に設立された)。特権都市の住民は主にドイツ人の植民都市を起源としていたが、ハンガリー人とスラブ人市民もまた居住していた[66]。 現在のスロバキアのいくつかの都市(例:ブラチスラヴァ、ペジノク) のユダヤ人の存在は、少なくとも13世紀から記録されている。 ユダヤ人の特別な地位は1251年のベーラ4世の憲章に確認されている。しかし地方の教会会議の決定は彼らの活動を制限した(例:任官および土地所有の禁止)[67]。 ニトラのイスラム教徒はまた同様の制限に直面しなければならなかった。彼らは13世紀の終わりには姿を消した(おそらくキリスト教に改宗した)[68]。
モンゴル帝国の侵略は、セペシュ城のような強固な城塞の建造をもたらした。

1241年に、モンゴル帝国は王国の北西部を侵略し(オロモウツの戦い(チェコ語版、ロシア語版))、いくつかの要塞は攻撃に抵抗した(例:トレンチーン、ニトラ、フィラコヴォ(英語版))[69]。 1242年のモンゴル軍の撤退の後、複数の城(例:コマーロム、ベコフ(英語版)およびズヴォレン)が、ベーラ4世の勅令で建築あるいは強化された[70]。 彼はまた、複数の都市(例:クラピナ(1244年)、ニトラ(1248年)、バンスカー・ビストリツァ(1255年)およびゲルニツァ(英語版)(1270年))に対しての都市特権の授与政策を継続した[71]。 彼の治世の間、新しいドイツ人 移民がスピシュ(セペシュヴァール / Spiš(ドイツ語: Zips))に移住し、1271年にイシュトヴァーン5世によって都市特権を授与された[72]。 13世紀最後の十年間は、王室と貴族の複数の集団内部の不和によって特徴づけられる[73]。 王権の弱体化といくつかの有力貴族の勃興は、統治機構の変化をもたらした。王の統治の基礎単位であった城県(”royal counties”)は次第に地方貴族の自治的な統治単位(”noble counties”)に変化していった。しかし、地方貴族は、寡頭制の登場を止めることはできなかった[74]。

少数支配の時代 – 1290年-1321年
Máté Csákとアバ・アマデーが統治する地域

王国へのモンゴルの侵略ののち、領主たちの間で競争が始まった。彼らのそれぞれが、王の許可を受けてあるいは受けずに城塞の建築に努めた[75]。 競争は、貴族間の分化の過程を開始させた。城を造営できるほどの貴族は隣の領主に影響をおよぼずことができるからである[76]。 王族間の紛争はまた貴族(彼らは時に、王から城県の全域を授かった)の権力を強化させ、王国に1290年代に有力な貴族たちによって統治される8つの広大な領邦を形成させる結果となった[77]。 現在のスロバキアでは、城のほとんどは二つのハンガリー人有力貴族(アバ・アマデー(英語版))とチャーク・マーテー(英語版))とその後継者が所有していた(ハンガリー人は姓を先に表記するので、それぞれアバとチャークが姓である)[78]。 1301年のアールパード王朝の滅亡ののち、彼らの両方が王権のもとの一つに従うふりをした。しかし実際は、彼らはその領地を独自に統治していた[77]。 アバ・アマデーは、ゲンツを本拠に、現在のスロバキア東部を統治していた[79]。 彼は、1311年カッシャ城(Kassa / Košice)の南門にてハンガリー・アンジュー朝のカーロイ・ローベルト(のちのカーロイ1世)の刺客によって殺された[80]。 チャーク・マーテーは、トレンチェーンを本拠にした、現在のスロバキア西部の事実上の統治者であった[81]。 彼はカッシャにたいして殺害されたアバ・アマデーの息子と同盟した。しかしカーロイ1世は、反対派に対しての王位の具備を統御し、軍事的支援を都市と国王軍に与え、彼を1312年のBattle of Rozgony / Rozhanovce にて打倒した[35]。 ところが北西部の城県は1321年に彼が死ぬ時まで残った。このときに、国王軍は抵抗なき彼のかつての居城を占領した[35]。 ポジョニュ(Pozsony / Požoň)城県は、1301年から1328年のカーロイ1世の再占領まで、事実上、オーストリア公によって統治されていた[82]。

中世末期(14-15世紀)

20年の長い機関の反対派と領主貴族(オルガルヒ)にたいする闘争ののち、カーロイ1世は王国の中央の権力を強化した[83]。 彼は商業的合意(ヴィシェグラード合意)をボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルク と、ポーランド王カジミェシュ3世と1335年に妥結した。これはカッシャ(Kassa / Košice)からクラクフおよび ジョルナ(ジリナ)からブルノへの商業ルートにおける交易を発展させるものであった[84]。 王はセペシュ(Szepes / Spiš)の24の”ザクセン人” の都市の特権の確認し、エペルイェシュ(Eperjes / Prešov)の特別な権利を強化し、ソモルノク(Szomolnok / Smolník)に特権を授与した[85]。 現在のスロバキアの都市は既にドイツ人市民によって支配されていた。ところが、「w:Privilegium pro Slavis(スラブ人への特権、1381年)」は富裕な都市の「建国」を特に認証している。 国王ラヨシュ1世 はスラブ人にジョルナ(Zsolna / Žilina)の自治評議会議席の半分を与えた。 都市の多く(例:バンスカー・ビストリツァ、ブラチスラヴァ、コシツェ、クレムニツァおよびトルナヴァ)は「自由都市(liberæ regiæ civitates) 」として認められ、それら諸都市は1441年の身分制議会に議員を派遣する権利を与えられた[86][87]。

14世紀の最初の半世紀は、かつての「森林城県」の地域の人口は増加し、その領域は、現在のスロバキア北部にあるアールヴァ(Árva / Orava)リプトー(Liptó / Liptov)、トゥローツ(Turóc / Turiec)、ジョーヨム(Zólyom / Zvolen)のような新しい城県を形成した[88]。 セペシュ(Szepes / Spiš)地域では、住民のいくつかの構成者が特権を賜った。24のザクセン人の都市は自律的な城県を形成し、セペシュ城県(Szepes / Spiš)の独立と10のランスを有する貴族たち(”nobles with ten lances”)は特に自律的な行政単位「席(セーク)」(szék)を組織した[89]。 1412年に神聖ローマ皇帝ジギスムントは13のザクセン人都市をポーランド王ヴワディスワフ2世に与えた。そのため事実上、これら都市は1769年までポーランドに属していた[90]。

1320年代から、現在のスロバキアのほとんどの土地は王が所有していたが、聖職者と貴族(ドルゲト家(Drugeth)、セントジェルジ家(Szentgyörgyi)および セーチェーニ家(Szécsényi)など)もまた領土内に財産を保有していた[91]。 1385年の12月、ジギスムント帝、のちの「ハンガリー王ジグモンド」はその時ハンガリーのマーリア女王の王配であったが、現在のスロバキアの領土であるヴァーグ川(スロヴァキア語名ヴァーハ)以西をいとこのヨープストとモラヴィア公プロコプに差し出した。前者は彼の領土を1389年まで保有し、後者は1405年まで領地のいくらかの統治を維持することができた[92]。

ジグモンド王(在位1387年–1437年)は、その治世において広大な領地を彼の後継者 (ツィッレイ家の一族、 ロズゴニ家と ペレーニ 家など) に与えた。彼の宰相の一人であったポーランドの シュティボリチ・シュティボル(ポーランド語:Ścibor ze Ściborzyc)は、ヴァーフ川周辺に10の城を持っていることから、自分自身を「ヴァーフ全域の王」と称していた[93]。 アルベルト1世 の崩御(1439年)ののち、王位をめぐって後継者間で内戦が勃発した[94]。 エルジェーベト王太后は、現在のスロバキアの複数の都市(クレムニツァ、レーチェおよび バールトファ)を占拠したヤン・イスクラ率いるチェコ人傭兵を雇い、1462年にヤンがマーチャーシュ1世王に降伏するまで、そのほとんどを維持した[95]。

ハプスブルク帝国とオスマン帝国の統治

詳細は「en:Kingdom of Hungary (1538–1867)」および「en:Uyvar Eyalet」を参照
「ハプスブルク君主国」、「オーストリア帝国」、「オーストリア・ハンガリー帝国」、および「オスマン帝国」を参照

モハーチの戦い以降

1550年ごろの王領ハンガリーと東ハンガリー王国。灰色の部分が王領ハンガリーであり、現在のスロバキアの大半(ブラチスラヴァも含む)も含まれている。
1572年ごろの中央ヨーロッパ。紫の地域がハプスブルク帝国、青の地域が王領ハンガリー、ピンクの地域がクロアチア。水色の地域がオスマン帝国、薄緑地域がオスマン帝国宗主下の公国。
1683年ごろの中央ヨーロッパ。紫の地域がハプスブルク帝国、青の地域が王領ハンガリー、ピンクの地域がクロアチア。水色の地域がオスマン帝国、薄緑地域がオスマン帝国宗主下の公国。

1526年のモハーチの戦いののち、スレイマン1世率いるオスマン帝国はかつてのハンガリー王国の中央部を征服し、複数のオスマン帝国の属州をそこに設置した(ブディン・エヤレト(英語版)、エーリ・エヤレト(英語版)、ウイヴァル・エヤレト(英語版)参照)。 トランシルヴァニアはオスマン帝国宗主下のトランシルヴァニア公国(東ハンガリー王国)になり、ここに1601年から1711年の期間のハンガリー貴族に率いられた反ハプスブルクの叛乱の拠点が誕生した。 かつてのハンガリー帝国の残り、そこには現在のスロバキアの領土(ただし南中央部は除く)の大半、現在のハンガリー北部、北部クロアチアおよび現在のブルゲンラントはオスマン帝国の征服に抵抗し、すぐにハプスブルク帝国の属州となった。ハンガリー王国と知られるように(ハンガリー王冠領)して残された。しかし現代の歴史家は、これを「王領ハンガリー」と呼び、専らトランシルヴァニア公国を正当なハンガリーの継承国家と見なしている。

オーストリア大公のフェルディナーンド1世がハンガリー王に選ばれた。1541年のオスマン帝国のブダの征服以後は、ポジョニュ(ドイツ語名プレスブルク、スロヴァキア語名プレシュポロク、現在はスロヴァキア共和国のブラチスラヴァ)が1536年から1784年もしくは1848年の期間、ハプスブルク朝ハンガリー王国の首都、戴冠式開催都市となった。 1526年から1830年までハプスブルクの19人の君主はハンガリー国王として戴冠式を聖マールトン大聖堂(聖マルティナ大聖堂)で執り行った。

オスマン帝国の侵略につれて、ハンガリー王によって統治されていたかつての領地が、ほぼ2世紀の間に、主要なトルコ戦争の舞台となった。この地域は、オスマン帝国の拡大に対する、ハプスブルク帝国の防衛(さらにヨーロッパの他の地域の防衛)のための役割を大いに担わされた。領地は住民の血と財でまかなわれたでなく、金や銀といった天然資源の実質すべての喪失によってもなかなわれた。それは風土病との代償の高くつく困難な戦いにも費やされるようになった。加えて、いくつかの地域での二重徴税が常態化し、地方の都市の減少した人々の生活水準をさらに悪化させた。

オスマン帝国の統治の間、現在のスロバキアの領土の一部はブディン・エヤレト(英語版)、エーリ・エヤレト(英語版)、ウイヴァル・エヤレト(英語版)として知られる属州に含まれた。 現在のスロバキアにあるウイヴァル(ノヴェー・ザームキ)に、ウイヴァル・エヤレトの統治の中心があった。 17世紀の二番目の半世紀に、オスマン帝国の勢力はハプスブルク朝ハンガリーの東部に広がり、テケリ・イムレが率いるオスマン帝国の宗主下のトランシルヴァニア公国が創設された。

1686年のブダ(のちのブダペスト)からのオスマン帝国の撤退以後、同市がハプスブルク朝ハンガリー王国の首都となった。ハンガリー王国、ハプスブルク帝国およびオスマン帝国もとでの数世紀のわたる生活にもかかわらず、スロバキアの人々は独自の言語と文化を維持しつつ継承した。

スロバキア民族主義運動

モラヴィアの画家、アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩』の1枚(1912)。本作が製作された時期にはスラヴ民族は複数の中小国家を得ることなり、汎スラヴ主義は時代遅れとなっていた。

18世紀の間、スロバキアの民族運動が出現したが、それは部分的にスロバキアの人々の間の国民意識の感覚の育成の目的とともに、広範な汎スラブ主義により引き起こされたものであった[96][97][98]。 主にスロバキアの宗教指導によって進められつつ、この運動は19世紀の間に発展していった。同時に、この運動はカトリック路線と別れ、いくつかのグループはありふれた戦略から言語学にいたるすべてのことについて異なる見方を有していた。 特に、1867年以後ハンガリー人の統制が厳格に残され、運動はハンガリー化政策によって制約された。

1780年代のアントン・ベルノラーク(英語版)による、スロバキア言語の最初の辞書は、西部スロバキアの方言を基にしている。 それは主にカトリックの知識人によってサポートされた。ナジソンバトの中心とともに。 ルター派の知識人はチェコ語のスロバキア語された形態の使用を継続した。とくにヤーン・コラールとパヴェル・ヨセフ・シャファリク(英語版)は全スラブ民族の連合を強調する汎スラブ主義のコンセプトの支持者であった。彼らは単一国家を構成しているチェコ人とスロバキア人のことを考え、どちらの言語にも近い言語を作り出そうとした。

1840年代、リュドヴィート・シュトゥールが中央スロバキア由来の方言を基にした言語を発展させたため、プロテスタントは分裂した。 彼の後継者はスロバキアのアイデンティティと言語の独自性を分離した。シュトゥールのまとめた言語は、複数の変更ののち、1847年にカトリックとルター派に承認された。それが公式なスロバキア語としていまに残る。
1850年のハプスブルク朝ハンガリーの北部の地図。現在のスロバキアの領土を中心を管轄した軍区が示されている。

1848年のハンガリー革命において、スロバキア民族主義の指導者らは、オーストリア帝国内部のハンガリー王国からの分離を推進するために、オーストリア側についた。 スロバキア国民会議は、ハンガリー革命政府(オーストリアにとっては反政府組織)に対するオーストリアの軍事遠征に対して支援の用意さえしたのである。 1848年の9月には、占領された領域において、短命な行政府を組織した。 ところが、スロバキア軍はのちにウィーン宮廷によって解散させられたのである。 他方で、現在のスロバキアの領土の、数多のスロバキア人らによる、義勇軍の何分かはハンガリー軍と戦った。 ハンガリー革命の打倒後は、ハンガリーの政治的エリートはオーストリア当局に虐げられ、革命の参加者の多くは処刑、投獄あるいは強制移住された。 1850年ハンガリー王国の5つの軍区と属州への分割によって、それらの二つは現在のスロバキアの領土に行政上の中心を有していた。すなわちポジョニュ管区とカッシャ管区である。

オーストリア当局は両州を1860年に廃止した。スロバキアの政治的エリートは民族の目標へ推進するために、ウィーン宮廷の新絶対主義の時代と伝統的なハンガリーのエリートの弱みを利用した。 トゥルツ=ザンクト=マルティン(マルチン / トゥーローツセントマールトン)はスロバキアの民族主義運動の第一の中心となった。それは、マチツァ・スロベンスカー(英語版)全国文化協会(1863年)、スロバキア国立美術館およびスロバキア国民党(1871年)の設立によってである。

オーストリア・ハンガリー二重帝国成立以降

運動の高まりは、1867年に突然終わりを迎えた。この年、中央ヨーロッパのハプスブルク家領は、オーストリアとハンガリーの妥協の結果として、オーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国へと憲法を改正したのである(アウスグライヒ)。 現在のスロバキアの領土は、汎スラブ主義、分離主義および「1848年のハンガリー革命に対する態度」などがもとで、スロバキア人エリートに不信感を持つハンガリー人の政治エリートによって二重帝国のハンガリー王国に組み入れられた。 Maticaは汎スラブ主義的分離主義で取り締まられたし、1875年には当局によって解散させられた。また他のスロバキアの団体(学派もふくむ)も同じ運命をともにした。

民族的および政治的な営みの兆しは19世紀の終わりに現れた。スロバキアは戦いにおいて、ともにしてきた対象と同盟を結ぶことが必要であることを知ったのである。この認識のひとつの結果、すなわち1895年にブダペストで開催された「ハンガリー王国被抑圧人民会議」、政府を警告した。スロバキア民族の戦いにおいて、スロバキア民族はチェコ人から多くの支援を受けてきた。1896年、チェコ・スロバキア相互同盟が、「チェコスロバキアの協力関係」の強化とスロバキアのハンガリー王国からの離脱の支援のために、プラハで結成された。 20世紀の初頭、政治的および社会的な営みの民主化の伸長は君主制を圧倒する脅威となった。普通選挙のための呼びかけは主要なスローガンとなった。ハンガリー王国において、住民の5%のみが投票できた。スロバキア人は、代表民主制に向かう時代の潮流において、民族の抑圧の緩和と新たな政治活動へ突破口を見出した。

20世紀の初頭のスロバキアの政治的拠点は異なったに党派に散らばった。スロバキア国民党の指導者はマルチンを拠点にし、スロバキアの恩恵のなる国際情勢の変化を期待した。また彼らは大きなstoreをロシア帝国によっておかれていた。アンドレイ・フリンカ神父に率いられた、スロバキアの政治家の、カトリックの党派はスロバキアの公衆の中の少数の活動家に、戦争前に、焦点を絞り、スロバキア人民党と名づけた政治団体を結成した。 雑誌『声 (Hlas)』周辺の 自由主義的なインテリは同様の政治的な路線を追随したが、「チェコスロバキア協力関係」に対する重要性に一層、接続した。独立のスロバキア社会民主党は1905年に出現した。

フランツ・フェルディナント大公によって計画されたオーストリア・ハンガリー連邦の地図。スロバキアは連邦を構成する一つの州として示されている。

スロバキア人はいくつかの結果を達成した。それらの中で最大のひとつは1906年の選挙によって起きた。このとき、民族弾圧は継続されていたにもかかわらず、7人のスロバキア人が議会の議席を獲得した。この成功は政府を警戒させ、スロバキア人が抑圧的政策だと認識する事柄が増加した。 ハンガリー化政策は、アポニ・アルベルト伯爵にちなんだ「アポニ法」として知られる「新教育法」によって頂点を迎えていた。 この新しい法律はハンガリー語教育を、内容のひとつとして明文化しており、義務教育の骨格において、私立の4年制の初等学校のカリキュラムにおいても含まれなければならなかった。これは私立学校が国家の補助を受けるための条件でもあった。 15人のスロバキア人がロージャヘジュ近郊のチェルノヴァ(チェルノヴァー)(Černová / Csernova (チェルノヴァの悲劇参照))の新しい教会の献堂式の場での暴動で殺害されたときに、民族間の緊張は高まった。地域住民は人気のあった聖職者で民族主義的政治家アンドレイ・フリンカに新しい教会を献堂式を執り行ってほしかった。 しかしパルヴィー司教はカノン法に拠り、スロバキア系カノン法学者であるアントン・クリムスキーとの接続と指名を拒否した。彼は、かつて奉仕のためのロージャヘジュの小教区司祭であった。全員がスロバキア系である地方憲兵は、憲兵に護衛された司祭の車両を攻撃した400人の暴徒の群衆の中で、15人の抗議者を射殺した。 これらすべては、スロバキアのハンガリー支配からの離反と抵抗に付け加えられ、事件はオーストリア・ハンガリー二重帝国に反対するプロパガンダ・キャンペーンのトピックとなった。

第一次世界大戦以前、スロバキアの自治の理想は、スロバキアのジャーナリストで政治家のミラン・ホッジャの支援を伴った、フランツ・フェルディナント大公の王国の連邦化計画となった。 この最後の、スロバキアとオーストリア・ハンガリー帝国を結びつける現実的な試みは、フェレンツ・フェルディナーンド(フランツ・フェルデォナント)大公の暗殺(サラエボ事件)によって水泡に帰した。

チェコスロバキア

チェコスロバキアの形成
詳細は「en:Origins of Czechoslovakia」および「en:First Republic of Czechoslovakia」を参照

1928年のチェコスロバキア

第一次世界大戦

第一次世界大戦勃発後、スロバキア人は二重帝国から離脱し、チェコ人とともに独立共和国を創設することを具現化させることとなった。その決定は国外のスロバキア人から起こった。アメリカ合衆国のスロバキア人、特に大きなグループは、大規模な組織を結成した。これらとロシア帝国や他の中立国の組織はチェコスロバキア共和国の構想を持ち帰った。スロバキア人はこれらの運動を支援した。

当時、最も重要なスロバキアの代表者でスロバキア系フランス人の組織のミラン・シュテファーニクはフランスの将軍として軍務についており、パリを拠点にチェコスロバキア国民評議会の代表者を指導していた。本国での全ての政治的集団の代表者を含む政治的代表は、当初はやや躊躇したものの、 マサリク、ベネシュとシュテファーニクの活動を支援した。

戦争の間、ハンガリー当局はスロバキア人への弾圧を倍増させた、スロバキア地域の住民の間の民族主義運動は阻まれた。厳しい検閲にもかかわらず、チェコスロバキア国家建設に対する海外の運動の報道はスロバキアにもたらされた。

第一次世界大戦の間、オーストリア・ハンガリー二重帝国の中のチェコとスロバキアと他の民族主義集団は海外のチェコ人、スロバキア人から独立国家のための運動に多くの支援を得た。戦争の最後の不穏な年、散発的な抗議活動がスロバキアで起きた。1918年5月1日にリプトフスキー・ミクラーシュにて、政治家によって秘密集会が開催された。

オーストリア・ハンガリー二重帝国崩壊

大戦の末期に、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊した。プラハの国民評議会10月28日にチェコスロバキア独立共和国を布告し、2日後にMartinのスロバキア国民評議会はプラハでの布告に加盟した。新しい共和国はチェコ国(ボヘミア、モラビアとシレジアの一部を含む)とスロバキアとカルパト・ウクライナを含んでいた。新国家は議会制民主主義を採用し首都はプラハであった。

1919年の5月から6月のハンガリー赤軍の反撃の結果、チェコ軍はいまのスロバキアの中央から東部から退却し、そこにはプレショフを首都にスロバキア・ソビエト共和国という短命な傀儡国家が設立された。 しかし、ハンガリー軍は攻撃を停止し、のちに三国協商の外交的介入で部隊は撤退させられた。 [99][100][101] 1920年に調印されたトリアノン条約によって、パリ講和会議はチェコスロバキアの南の国境を戦略的経済的な理由によってスロバキアとハンガリーの言語境界よりもっと南に設定した。これにより、すべてあるいはほとんどのハンガリー系住民地域はチェコスロバキアに含まれた。1910年の国勢調査によれば、ハンガリーの官僚によって調査されてきた、 [102] 現在のスロバキア領土の人口は2,914,143人で1,688,413人(57.9%)がスロバキア語話者であり、881,320人(30.2%)がハンガリー語話者であり、198,405人(6.8%) がドイツ語話者であり、103,387人(3.5%)がルテニア、ウクライナ語話者で42,618人(1.6%)がその他の話者であった。 加えて、カルパト・ウクライナ、当時チェコスロバキアに含まれた、地域は1910年のハンガリー政府による国勢調査では人口は605,942人であり330,010 (54.5%)がルテニア、ウクライナ語話者であり、185,433人(30.6%)がハンガリー語話者であり、64,257人(10.6%)がドイツ語話者であり 11,668人(1.9%)がルーマニア語話者であり、6,346人(1%)がスロバキア語(チェコ語も含む)話者であり8,228 (1.4%)がその他の話者である。1930年のチェコスロバキアの国勢調査ではスロバキアの人口は3,254,189人であり、 2,224,982人 (68.4%)がスロバキア人であり、585,434人(17.6%)がハンガリー人であり、154,821人(4.5%)がドイツ人であり、120,926人(3.7%)人がチェコ人であり、95,359人(2.8%)がルテニア、ウクライナ人であり、72,666人(3%)がその他であった。

チェコスロバキア建国後

スロバキア、チェコスロバキア国家においてチェコの後塵を拝していた、は隣りのチェコとは多くの重要な方面で異なっていた。スロバキアはチェコよりも農業地域である一方で工業化は進んでいなかったし、チェコ人が宗教を信奉する可能性がそれほどなかったのに、スロバキア人の多くがローマ・カトリック教会信徒であった。 スロバキア人は総じてチェコより自治による教育や経験がなかった。これら不均衡は、プラハの中央集権的な政府の統制によってなされ、新国家建設とともに、スロバキア人の間に不満を作り出すことになる。[要出典]

チェコスロバキアは、中東欧の中で1918年から1938年まで議会制民主主義を維持したが、この政体は軍事的な問題に直面し続けたし、それら問題のほとんどは国内のドイツ人と関係している。新しいスロバキアの知識人の多数はスロバキアの自治を求めた。自治への運動は1920年からそれが最高潮に達する1939年まで徐々に築かれていった。[要出典]

両大戦間期、チェコスロバキア政府は、スロバキアの工業化を試みた。これらの試みは、部分的には1930年代の世界恐慌のため、成功を収めなかった。チェコ人による経済的・政治的支配に対するスロバキア人の怒りは、第一共和国への不満の、そして独立への支持を増加させた。スロバキア人の多くは、チェコとスロバキアの平等と、大幅な自治を求めるアンドレイ・フリンカやヨゼフ・ティソに加わった。

スロバキアの自治に向けて(1938年-1939年)

ウィーン裁定によるスロバキアの領土の喪失。

1938年9月、フランス、イタリア、イギリスとナチス・ドイツはミュンヘン会議で「ミュンヘン協定」を決定し、それによってチェコスロバキアはズデーデン地域として知られるドイツ人居住地域をドイツに割譲した。11月第1次ウィーン裁定によってイタリアとドイツはチェコスロバキア(のちのスロバキア)に南部スロバキアの主にハンガリー人が居住している地域をハンガリーに割譲するように強制した。10月にドイツがチェコとスロバキアの指導者へなされた「領土的要求はズデーデンだけ」という公式な宣言にもかかわらず実行された。

1939年3月14日、スロバキアは独立を宣言し、外交と徐々に内政もナチス・ドイツの影響下に入ることになる中欧の名目上の独立国になった。ヨゼフ・ティソは首相にのちに大統領になった。

3月15日、ナチス・ドイツはミュンヘン協定以降に残っていたボヘミア、モラビアとシレジアに侵攻した。ドイツ人はこの地域にベーメン・メーレン保護領として知られる保護領を設立した。同日に、カルパト・ウクライナは「カルパト・ウクライナ」として独立を宣言した。しかしハンガリーがすぐに侵攻しカルパト・ウクライナ共和国を併合した。3月23日には、ハンガリーはいまのスロバキア東部の領土とされる地域を占領した。これはスロバキア・ハンガリー戦争を引き起こした。
第二次世界大戦
詳細は「独立スロバキア」、「en:Slovak invasion of Poland (1939)」、および「スロバキア民衆蜂起」を参照

1941年のティソ政権下の独立スロバキア

保護国の独立スロバキアは第二次世界大戦のはじめの年を相対的平和な状態でくぐり抜けた。枢軸国のひとつとして、スロバキアは1939年にドイツとともにポーランドに侵攻した(スロバキアのポーランド侵攻)。この貢献はドイツの戦争の努力においては象徴的だったが、参加した兵力(ソビエトの遠征にはおよそ4万5000人)はスロバキアの人口(1940年で260万人)比にたいして特段のものではなかった。

独立後すぐに、ヨゼフ・ティソの権威主義的な政府の下で、国内の9万人のユダヤ人を目的とした一連の政策が開始された。w:Hlinka’s Guardはユダヤ人を攻撃し、「ユダヤ人法(”w:Jewish Code”)」が1941年に可決された。同法はニュルンベルク法に似ており、ユダヤ人に黄色の腕章の着用を義務付けるものでありユダヤ人は結婚や多くの職業から追放された。 スロバキア議会は1942年5月にユダヤ人の国外追放の法案を受け入れ、全会一致で同法案を可決した。 この法案に反対票を投じたのがスロバキアでは少数派のハンガリー人のエステルハージ・ヤーノシュだというの記録は興味深いものかもしれない。 [103] 1942年3月から10月の間、スロバキアはおよそ5万7000人のユダヤ人のドイツ占領下のポーランドに強制送還し、そこではユダヤ人のほぼ全員が殺された。 残る2万4000人の強制送還は、教皇使節がスロバキア大統領にドイツ当局はスロバキアから強制送還されたユダヤ人を殺していることを伝えると、取りやめになった。 しかし、1944年のスロバキア国民蜂起のあとのドイツ軍のスロバキア占領後、1万2600人以上のユダヤ人がドイツ軍によって強制送還された。 このときのユダヤ人のおよそ半分は強制収容所で殺された。[104] 1万人ほどのスロバキアのユダヤ人の生存者は地域住民に匿われ、6000人から7000人のユダヤ人はスロバキア当局の公的な保護を受けた。

1944年8月29日、6万人のスロバキア軍と1万8000人のパルチザンがナチスに対して蜂起した。彼らは様々な地下組織とチェコスロバキア亡命政府によって組織されていた。この暴動は後に「スロバキア国民蜂起」として知られるようになる。 スロバキアは激しいドイツの反撃と占領によって荒廃したが、ゲリラ戦は組織的なレジスタンスが終わった後も継続した。最終的にはドイツ軍がこれらを鎮圧したが、この蜂起はスロバキア人にとって歴史的に重要な事件となった。スロバキアが連合軍に貢献した国の一つとして戦争を終戦を迎えたことを許されたからである。

1944年ののち、ソビエトの攻撃は激化した。それゆえルーマニア軍に支援された赤軍はドイツ軍をスロバキア領内から駆逐した。1945年4月4日ソ連軍はスロバキアの首都ブラチスラヴァに入城した。

第二次世界大戦後のチェコスロバキア

詳細は「en:History of Czechoslovakia」を参照

1945年、第二次世界大戦の終結によってチェコスロバキアは再建された。しかし、ルテニア地方はソ連に割譲され、領土的には縮小した。またベネシュ政令によって、戦前300万人が居住していたドイツ系住民が追放され、ハンガリー系住民も住民交換で国外に去り、ユダヤ人やロマはナチスのホロコーストによって激減し、多民族性は失われた。

1946年の総選挙で、スロバキアにおいて民主党が、チェコではチェコスロバキア共産党が勝利を収めた。1948年の2月の政変で、共産党の支配が確立し、ソ連の衛星国となった。
「チェコスロバキア事件(プラハの春)」
詳細は「プラハの春」を参照

強固な共産主義者の統制はこの国の第二次世界大戦後の40年を形作り、アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロバキア共産党中央委員書記長就任後の1968年のプラハの春と呼ばれる短い自由化の時期を阻んだ。 ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」という現実のために努力し、政治、社会、経済分野の改革を提案した。ドゥプチェクはあまりに遠くに行ってしまったというワルシャワ条約機構加盟国の間での危惧がソ連、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツ、ポーランド軍による1968年の8月21日のチェコスロバキア侵攻と占領を導いた。 1969年4月にグスターフ・フサークがドゥプチェクに代わって共産党の指導者になった。

1969年-1990年のチェコスロバキア

1970年代と1980年代は「 正常化(”normalization”)」の時期として知られ、このころには1968年のソ連の侵攻への謝罪がチェコスロバキアにとってソ連の体制にできうる最善の反対行動とされ、そのソ連の保守的な体制を予防した。 政治的、社会的経済的には停滞した。

改革運動の中心はプラハにあったため、スロバキアは「正常化」をチェコほど強く経験しなかった。事実、スロバキア共和国は1970年代と1980年代にチェコ共和国より相対的に高い経済成長を比較的に遂げた。(1994年からいまに到るまでの中で)。

1970年代はまた反体制運動がみられた時期であり、特にチェコ共和国おいてはである。1977年1月1日に250人以上の人権活動家が「憲章77」に署名し、そこにはチェコスロバキア政府が人権を守る義務を果たすことに失敗していると批判がされていた。

「ビロード革命」

詳細は「ビロード革命」を参照
Pamätná tabuľa na bratislavskom Námestí SNP

1989年11月17日、ビロード革命として知られる一連の抗議運動が始まり、チェコスロバキアでの共産党支配の終焉を導いた。

同年12月には暫定政府が結成され、1948年以来の初めてのチェコスロバキアにおける自由選挙が1990年6月に行われた。1992年に新連邦憲法がスロバキアの自治問題で袋小路に陥った。

1992年の後半、同意がチェコスロバキア解体に対して平和裏に現れた。1993年1月チェコ共和国とスロバキア共和国のいずれもが同時に、そして平和的にその存在を明示した。両国家は直ちにアメリカ合衆国とヨーロッパ周辺諸国からの承認を得た。

「ビロード革命」の後の数日、「憲章77」と他のグループは市民フォーラムを結成するために連合し、官僚的な改革と市民の自由を擁護する参加のグループになった。その指導者で、戯曲家で反体制派のヴァーツラフ・ハヴェルが、1989年の12月のチェコスロバキア大統領選挙に当選した。スロバキアの「市民フォーラム」「暴力に反対する公衆」は同じ理念を表明した。

1990年の6月の選挙では、「市民フォーラム」と「暴力に反対する公衆」は地すべり的勝利をおさめた。ところが「市民フォーラム」と「暴力に反対する公衆」は、彼らが共産党支配に最も反対的な集団だったのにもかかわらず、彼らは政党として、比較的低い影響力を確立していた。 1992年の選挙において、新しい政党の連続体が両方の「市民フォーラム」と「暴力に反対する公衆」を代表するようになった。

「ビロード離婚」(1992年)以降のスロバキア

詳細は「ハイフン戦争」および「ビロード離婚」を参照
ブラチスラヴァの中心的ビジネス街の一つムリンスケー・ニヴィ通り(ルジノウ街区)

1992年6月に選挙が行われ、ヴァーツラフ・クラウスのチェコ経済改革プラットフォーム市民民主党がチェコで勝利した、自治の公平性のアピールを基礎にする、ヴラジミール・メチアルの民主スロバキア運動(HZDS)がスロバキアの有力政党として台頭してきた。 メチアルとクラウスは交渉し、チェコスロバキアの解体に合意した。メチアルの政党はスロバキア独立から5年間、不信任投票が出され、ヨーゼフ・モラヴチクの改革政府が運営していた1994年の9か月間を除いては第一党であった。

初代スロバキア大統領はミハル・コバチであり、スロバキアを「東欧のスイス」にすると約束した。最初の首相はウラジーミル・メチアルであり彼は1992年のチェコスロバキア時代からスロバキア地区の首相職を務めていた。

ルドルフ・シュスターは1999年の大統領選挙に当選した。ミクラーシュ・ズリンダ率いる連合によって1998年の議会選挙ののちの与野党交代の前に、申し立てによるとメチアル準権威主義的政府は民主的規範と法による支配に違反していた。

第一次ズリンダ制憲は多くのスロバキアをOECDに加盟できるような政治的経済的改革を行い、EUとの加盟交渉に接近しNATOには加盟に立候補した。 しかし与党の人気は急速に低下した。複数の新政党が現れた。これら新政党は世論調査では高い支持率を持っていた。メチアルはHZDSの指導者の地位にとどまり、HZDSは第1次ズリンダ政権期には野党として20%、ときにはそれ以上もの支持率を維持した。

2002年9月の選挙で、支持者のうねりでズリンダ首相のスロバキア民主キリスト教連合(SDKÚ)が彼に政権第2期をゆだねた。 彼は3つの異なる中道右派政党 ハンガリー連合党 (SMK), the キリスト教民主運動 (KDH) と新市民同盟 (ANO)と連立した。 連立政権は議会で過半数を占めた。 政府は強力に、NATOとEU統合を支援し、第1次政権で始まった民主的で自由市場的傾向を継続することを表明した。 新しい、連立政権は最優先課題に、海外投資の誘致、高度な医療システムのような社会福祉改革とNATOとEUへの参加を認めてもらうことがあった。 ウラジーミル・メチアルの民主スロバキア運動は1998年の選挙では27%の支持を受け(ほぼ900,000人が投票)、2002年の選挙では19.5%(ほぼ560,000人が投票) 野党にはHZDS,社会党 (Róbert Fico党首)と共産党が含まれ共産党の支持者は6%であった。 当初、スロバキアは近代的な市場経済の発展はチェコよりも難しいと言われていた。 スロバキアは2004年3月2日にNATOに加盟し2004年5月1日にEUに加盟した。スロバキアは2005年10月10日に国連安保理の非常任理事国に2度目に選ばれた(任期2006年–2007年)。

2006年の6月1日に選挙があり、左翼の社会党が29.14% (約67,000人が投票)の得票率で勝利し、Slotaのスロバキア国民党とメチアルのスロバキア民主運動と連立した。 野党にはかつての与党SDKÚ、SMKとKDHが含まれる。

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関連項目

w:Communist Party of Czechoslovakia
w:History of Bratislava
w:History of Czechoslovakia
ハンガリーの歴史
オーストリアの歴史
チェコの歴史
ポーランドの歴史
欧州連合の歴史
w:History of the Slovak language
チェコスロバキアの大統領
チェコスロバキアの首相
スロバキアの大統領
スロバキアの首相
w:List of rulers of Slovakia
w:Politics of Slovakia
w:Slovaks in Czechoslovakia (1918-1938)
w:Slovaks in Czechoslovakia (1960-1990) 』

チェコとポーランド、スロバキアの領空防衛へ

チェコとポーランド、スロバキアの領空防衛へ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB290VP0Z20C22A8000000/

『【ブラチスラバ=AFP時事】チェコとポーランドが、隣国スロバキアの領空を防衛することが決まった。スロバキアが旧ソ連で設計されたミグ29戦闘機の運用を停止することを受けた措置。スロバキアの国防省報道官は27日の声明で「ミグ29戦闘機が地上待機となる9月1日から実施される」と説明した。

スロバキア軍に後継の米国製F16戦闘機が届く2024年まで続く。スロバキアはミグ29の維持費高騰やロシア人技師が徐々に出国していることを受け、運用を停止すると明らかにしていた。

ミグ29をめぐっては、ヘゲル首相が4月、ウクライナに派遣できると発言。同国に供与されたという報道が流れたが、ナジ国防相は今月否定し、ミグ29をどうするかは検討中だと説明していた。』

インドネシア首都移転、中国が関与強化に意欲

インドネシア首都移転、中国が関与強化に意欲
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM153WL0V10C22A8000000/

『【ジャカルタ=地曳航也】インドネシアのジョコ政権が進めるジャカルタからの首都移転に中国が関与を強めようとしている。インドネシア側は資金力と技術力に期待する一方、中国が新首都周辺の基幹インフラに大きな影響力を及ぼす可能性もある。日本政府などからは安全保障上の懸念も出始めた。

インドネシアでは議会が1月に首都移転の法案を可決し、ジャカルタから約2000キロ離れたカリマンタン(ボルネオ)島東部の森林地帯に新首都「ヌサンタラ」を建設しようと計画している。

ジョコ大統領は16日の年次教書演説で新首都の建設について「失速させてはならない。新たな経済の推進力になる」と強調した。自身の任期が終わる2024年中に大統領宮殿など一部の政府機関をジャカルタから移したい方針で、先頭に立って取り組みを進めている。

焦点は466兆ルピア(約4兆3000億円)と見積もった費用の予算不足だ。国費でまかなうのは2割のみで、残りは外国を中心に民間企業の投資を想定している。

ジョコ氏は7月下旬、日中韓3カ国を相次いで訪れ首脳会談で新首都建設への支援を要請した。中国政府系の英字紙チャイナ・デイリーによると、中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席との会談で、習氏は「進んで積極的な役割を果たす」と伝えた。

インドネシア投資省によると、アラブ首長国連邦(UAE)、中国、韓国、台湾が支援を表明したが、とりわけ資金と技術をあわせ持つ中国に期待が集まる。

中国はすでに新首都周辺のインフラ整備で実績をあげる。新首都予定地から北に約700キロメートル離れた「北カリマンタン・グリーン工業団地」では、中国国有の中国電力建設集団の支援を受け国内で最大規模の水力発電所の建設が進む。同発電所からは新首都にも電力が供給される予定だ。

習氏は7月下旬のジョコ氏との会談で同団地への支援強化も約束した。習氏が首都移転と団地整備への協力に言及したのは初めてとみられ、中国企業の協力が今後、一気に進む可能性がある。

ジョコ氏の側近のルフット海事・投資担当調整相は8日放送の番組で「(中国通信機器最大手の)華為技術(ファーウェイ)には関心を持っている」と述べ、同社による新首都での設備投資に期待感を示した。

米国と中国が覇権を争うインド太平洋地域の中心にあるインドネシアの新首都で、中国が基幹インフラに影響力を及ぼしかねない事態に、日本政府内に懸念が広がる。特に通信分野への中国の進出に警戒は強い。日本政府関係者は「大規模なインフラ整備で中国企業の総合的な競争力にかなわない」と語る。

インドネシア内でも通信設備については「IT分野で先行する中国企業が情報インフラを押さえれば盗聴のリスクが生じる」(政府系機関のインドネシア科学院のアワニ上級研究員)との指摘が出ている。

日本政府は国際協力機構(JICA)から情報収集のため調査員を現地に派遣し、民間投資の環境整備を進める。米国やオーストラリアなど有志国の政府関係者との意見交換も始まった。

日本企業では首都移転計画が頓挫する事態を警戒し、24年2月の同国大統領選まで静観する例も多い。』

ソロモン、米巡視船の寄港拒否 中国との関係影響か

ソロモン、米巡視船の寄港拒否 中国との関係影響か
米軍準機関紙が伝える
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2717M0X20C22A8000000/

『【ワシントン=共同】南太平洋の島国ソロモン諸島が米沿岸警備隊の巡視船の寄港を拒否していたことが26日、分かった。米軍準機関紙「星条旗」などが伝えた。拒否の理由や明確な日付は不明。ソロモンは中国と関係を強化しており、4月には安全保障協定を締結した。こうした事情が影響した可能性もある。

同紙によると、米巡視船オリバーヘンリーが給油のため、ソロモンのガダルカナル島に寄港する予定だったが、ソロモン政府が米政府の許可要請に応じなかったため、行き先をパプアニューギニアに変更して給油した。

米沿岸警備隊の広報担当者は「国務省がソロモン政府と連絡を取っており、今後は許可されることを期待している」と語った。

ソロモンと中国の安保協定締結を受け、日米豪などは中国の軍事拠点化につながりかねないと警戒している。

【関連記事】

・米高官、ソロモン首相と会談 中ロを暗に批判
・太平洋島しょ国で米豪巻き返し 広がる中国への反発 』

中国、最新駆逐艦5隻を建造へ 海軍増強で台湾に圧力

中国、最新駆逐艦5隻を建造へ 海軍増強で台湾に圧力
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM256PP0V20C22A8000000/

『【大連=渡辺伸、北京=羽田野主】中国が海軍の増強を加速している。東北部の遼寧省大連市で5隻の最新型ミサイル駆逐艦を建造していることがわかった。習近平(シー・ジンピン)指導部は武力による台湾統一も視野に軍備を拡張している。台湾や沖縄県・尖閣諸島の周辺海域で軍事的な圧力が強まるのは必至だ。

【関連記事】米軍のミサイル巡洋艦、台湾海峡を通過 航行の自由維持

中国版ツイッター「微博(ウェイボ)」で8月下旬、大連で建造中という5隻の写真がユーザーから投稿された。

中国共産党系メディアの環球時報(英語版)などは「中国海軍が052D型の駆逐艦5隻を大連で建造中だ」と伝えた。香港英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは「5隻は052D型、もしくはこれを改良した052DL型の駆逐艦のようだ」と報じた。

日本経済新聞が入手した8月下旬に撮影された写真によると、中国の造船最大手、中国船舶集団(CSSC)の大連の造船所に5隻の船体が置かれ、作業員が建造作業中だった。このうち2隻は船体がほぼ完成し、甲板で作業が行われていた。

欧州の海軍専門メディア、ネイバルニュースによると、上海市にあるCSSC系列の江南造船も少なくとも1隻の駆逐艦を建造中という。同メディアは「(合計で6隻が)まもなく中国海軍に加わる」との見通しを伝えた。中国海軍は一連の建造計画を発表していない。

ネイバルによると、中国は現在、052D型と052DL型合わせて25隻の駆逐艦を就役させている。他の型を含め2019年に10隻、21年に8隻の駆逐艦を投入した。

中国の052D型は、米国のイージス艦を模して建造した「052C型」を刷新した最新鋭の駆逐艦だ。防空能力が高く、空母の護衛に当たることができる。米国は11の空母打撃群を保有しており、それぞれの空母を複数のイージス艦や潜水艦が護衛している。
中国の国産空母「山東」(7月上旬、遼寧省大連市)=撮影者から入手

習指導部が台湾統一に向けて軍事侵攻に踏みきった場合、現在保有する3隻の空母を投入するシナリオが有力視されている。052D型などの駆逐艦が空母の護衛にあたる可能性がある。

052D型の垂直発射装置(VLS)は巡航ミサイルの搭載も可能だ。空母を守る防御力だけではなく、台湾本島への精密な攻撃能力も備えている。防衛省防衛研究所の門間理良地域研究部長は「台湾軍は中国大陸や軍用機から発射される各種ミサイル攻撃に加えて、多方向の海上からの攻撃に備えなくてはならない。台湾の負担はさらに増すことになる」と指摘する。

中国が空母そのものを増やす可能性もある。米シンクタンクの戦略予算評価センターは7月のリポートで「中国は31年までに空母を5隻、巡洋艦と駆逐艦を60隻以上保有できる十分な資金を確保できるだろう」と推計した。

中国は6月に新たな空母「福建」を進水させ、ウクライナから購入して改修した「遼寧」と初の国産空母「山東」と合わせて3隻体制とした。関係者によると、山東は3月下旬から7月にかけて大連の造船所で補修・点検を実施し、再び配備された。

米インド太平洋軍の推計によると、25年には極東における米中の軍事バランスが完全に逆転し、その差が開く見通しだ。今回確認された急ピッチの駆逐艦の建造は、こうした推計の正しさを裏付ける。

【関連記事】米中の緊張高止まり 「中立」台頭、危うい3極化 』