エルサルバドル

エルサルバドル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%AB

 ※ 今日は、こんなところで…。

『エルサルバドル共和国(エルサルバドルきょうわこく、スペイン語: República de El Salvador)、通称エルサルバドルは、中央アメリカ中部に位置するラテンアメリカの共和制国家である。北西にグアテマラ、北と東にホンジュラスと国境を接しており、南と西は太平洋に面している[5]。中央アメリカ5か国のうち唯一、カリブ海に面していない[5]。首都はサンサルバドル[1]。

カリブ海の島国を除く米州大陸部全体で最小の国家であるが、歴史的に国土の開発が進んでいたこともあり、人口密度では米州最高である。 』

『国名

正式名称はスペイン語で、República de El Salvador (発音 [reˈpuβlika ðe el salβaˈðor] レプブリカ・デ・エル・サルバドル)。通称、El Salvador。エルナン・コルテスの部下として1524年にやってきたペドロ・デ・アルバラードによって「救世主」を意味するエル・サルバドールと名付けられた[5]。

公式の英語表記は、Republic of El Salvador。通称、El Salvador。

日本語の表記は「エルサルバドル共和国」で、通称は「エルサルバドル」。「エル・サルバドル」「エル・サルバドール」とも表記される。漢字表記は、救世主国(もしくは薩爾瓦多)。 』

『歴史

詳細は「エルサルバドルの歴史」を参照

先コロンブス期
詳細は「マヤ文明」を参照

紀元前のこの地にはモンゴロイド系の先住民、すなわちインディヘナ(インディオ)が暮らしていた。先古典期中期には、オルメカ文明の影響を受け、チャルチュアパ(スペイン語版、英語版)などに祭祀センターが築かれた。1世紀にイロパンゴ火山の噴火にともない、先住民はグアテマラのペテン低地など低地マヤ地域に避難したと考えられている。先古典期後期のウスルタン式土器や石碑を刻む伝統も伝播した。6世紀末、ロマ・カルデラ火山の噴火に伴い埋まった集落ホヤ・デ・セレンは保存状態が良好であったため、世界遺産に登録されている。

10世紀頃には小王国がいくつか成立し、そのうちピピル人はクスカトラン(スペイン語版、英語版)を首都にして16世紀までに統一王国「クスカトラン王国(スペイン語版、英語版)」(ピピル語: Tajtzinkayu Kuskatan, 1200年ごろ – 1528年)を建設しつつあった[5]。

スペイン植民地時代
征服者の一人ペドロ・デ・アルバラード
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1524年にスペイン人エルナン・コルテスの部下ペドロ・デ・アルバラードがクスカトラン王国を征服しようとした[5](アカフトラの戦い(スペイン語版、英語版))。インディヘナは一度スペイン人を打ち負かし、グアテマラに撤退させるが、1525年に再びやって来たアルバラードの攻撃により、ベルムーダ市はサンサルバドル(聖救世主)市と改称された。その後、1528年にはエルサルバドルのほぼ全域が征服された。

スペインの支配に入った後の1560年以降はグアテマラ総督領の一部として管理下に置かれ、農業や牧畜業、藍の生産などが営まれたが[5]、中央アメリカの中ではグアテマラと並び開発された地域だった。

独立と中央アメリカ連邦の崩壊

「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」および「中米連邦」も参照
中米連邦の擁護者だったフランシスコ・モラサン。

19世紀前半にはインディアス植民地各地のクリオージョたちの間で独立の気運が高まった[5]。1789年のフランス革命以来のヨーロッパの政治的混乱のなか、ナポレオン戦争によりフランスに支配されたスペイン本国では、1808年からナポレオン支配に対するスペイン独立戦争が勃発した。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがボルボン朝のフェルナンド7世を退位させ、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月15日にグアテマラ総督領が独立すると、エルサルバドルもスペイン支配から解放された[5]。

1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に他の中央アメリカ諸国とともに併合されるが、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総督領の五州は中央アメリカ連合州として独立し、1824年には中央アメリカ連邦に加盟した[5]。エル・サルバドル出身のホセ・アルセが初代大統領となるが、独立後の自由主義者のフランシスコ・モラサンをはじめとするエル・サルバドル派と、保守主義者のラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ派の内戦のなかで1838年に中央アメリカ連邦は崩壊し、1841年には中米連邦の瓦解に伴い「エルサルバドル」として暫定的に独立を果たした[6]。このときにアメリカ合衆国への併合を求めたが断られている。

その後すぐに連邦再建を求めての内乱やグアテマラとの戦争が発生したが、1857年には中米連合軍の一員としてアメリカ人の傭兵ウィリアム・ウォーカー率いるニカラグア軍と戦った。その後は軍事独裁政権が相次いで成立し、その間に対外戦争や独裁打倒運動が行われた。また、この時期にコーヒーをはじめとする換金作物のプランテーションが多数設立された。1872年から1898年の間エル・サルバドルは連邦再結成派の旗手となり、1896年にはエルサルバドルを中心にしてホンジュラス、ニカラグアとともに中央アメリカ大共和国が設立するが、1898年には崩壊した。

独裁と不安定

ファラブンド・マルティ(右から二人目)。

20世紀に入り、1907年からメレンデス一族の独裁が始まると、一時的に国内は安定を取り戻したが、世界恐慌で主要産業のコーヒーが打撃を受け世情は再び不安定となった[7]。

経済危機の混乱のなか、1931年にマクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネスがクーデターでメレンデス一族から政権を掌握し、専制体制を敷いた[7]。その間に激しい言論弾圧が行われ、「ラ・マタンサ(スペイン語版、英語版)(La Matanza、「虐殺」の意)」により、反独裁運動を始めようとしていたファラブンド・マルティをはじめとする共産党員や、西部のピピル族などおよそ3万人が虐殺された[7]。

1934年、日本が主導して建国した満州国を1934年に承認。1935年、堀義貴初代駐エルサルバドル日本公使が着任し、正式に日本との間で外交関係が成立した[8]。

第二次世界大戦では親米派として連合国の一員に加わるが、1944年にはクーデターが起き、マルティネス独裁体制は崩壊した[7]。しかし、その後も政情は不安定でクーデターによる政権交代が相次いだ。

そうしたなかで1951年には『サン・サルバドル憲章』が中米5か国によって採択された[7]。エル・サルバドルは1960年に発足した中米共同市場により最も恩恵を受けた国となり、域内での有力国となった。こうして1966年にようやく大統領選挙によってエルナンデス政権が発足するなどの安定を見せたが、1969年には、サン・サルバドル憲章以後も国境紛争や農業移民・経済摩擦など多くの問題を抱えて不和だったホンジュラスとの間で、サッカーの試合をきっかけとしたサッカー戦争が勃発した[7]。

サッカー戦争以降

オスカル・ロメロ。聖職者としてエルサルバドル人のために尽力したが、1980年、凶弾に倒れた。2018年に列聖されている。

エルサルバドルでの虐殺を描いた壁画

ホンジュラスとの戦争後、30万人にものぼるエルサルバドル移民がホンジュラスから送還されたことなどにより、経済、政治ともに一気に不安定化した。1973年の選挙結果の捏造以降、軍部や警察をはじめとする極右勢力のテロが吹き荒れ、「汚い戦争」が公然と行われるなかで、それまで中米一の工業国だったエルサルバドルは没落していくことになる。 1977年には人民解放戦線を名乗る左翼ゲリラに政府観光局長、外相が相次いで誘拐されるなど、治安の悪化は顕著なものとなった[9]。

1979年にニカラグアでサンディニスタ革命が起きるのと時期を同じくしてロメロ政権が軍事クーデターで倒され、革命評議会による暫定政府が発足した[7]。しかし、極右勢力のテロは続き、1980年にはサンサルバドル大司教オスカル・ロメロをはじめとする聖職者までもが次々と殺害されていく状況に耐えられなくなった左翼ゲリラ組織ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)が抵抗運動を起こし、1992年までの長きにわたって続くこととなり、7万5,000人を超える犠牲者を出したエルサルバドル内戦が勃発した[7][10]。

事態の収拾のために暫定政府はアメリカ合衆国の支援を要請し、「エル・サルバドル死守」を外交の命題に掲げたロナルド・レーガン合衆国大統領は中米紛争に強圧策を持って臨み、軍や極右民兵に大幅なてこ入れを重ねた。1982年には政府と革命勢力の連立政権が成立したが、これも極右勢力の妨害によってすぐに破綻した。こうして、ニカラグアの革命政権からの援助を受けてゲリラ活動を展開するFMLNと政府軍との内戦は泥沼化の様相を呈した。1984年にはナポレオン・ドゥアルテ(スペイン語版、英語版)大統領(民族主義共和同盟、略称ARENA。右派)が政権を担い、FMLNとの首脳会談を実現した。しかし、この間政府軍・ゲリラ双方による、弾圧・虐殺・暴行が横行した。特に政府軍のそれは半ば公然と行われたが、アメリカ政府はそれを恣意的に無視して政府軍を支援し続けた。

1989年にはクリスティアーニが大統領に選出されたが内戦は収まらなかった。1992年にようやく国際連合の仲介で和平が実現し1,000人からなるPKO(国際連合エルサルバドル監視団、略称ONUSAL)の派遣が決定・実施され、7万5,000人にも及ぶ死者を出したエルサルバドル内戦は終結した。FMLNは合法政党として再出発し、1994年には総選挙が実施され、ARENAの候補であるカルデロン大統領が選出される一方、FMLNが第2党になった。

2001年にドル化政策(Dolarización)が実施され、それまでの通貨「コロン」に代わり、「米ドル」を自国の通貨として流通させるようにした[4]。ドルとコロンの間は1ドル=8.75コロンの固定レートにより取引されていた。現在、旧通貨コロンはほとんど流通していない。また、2003年には親米政策からイラクへ派兵し、2008年末まで駐留し続け、ラテンアメリカでイラク派兵を行った唯一の国となった。

2009年3月15日、大統領選挙でARENAのロドリゴ・アビラ(スペイン語版、英語版)を破ってFMLNのマウリシオ・フネスが勝利し、20年間続けてきた新自由主義路線の与党ARENAからの初の政権奪取を実現し、左傾化が進むラテンアメリカ諸国に新たな左派政権が誕生した[10]。18日にエルサルバドル中央選挙管理委員会が大統領選挙の最終結果を発表したところによると、左派のファラブンド・マルティ民族解放戦線党(FMLN)のマウリシオ・フネス候補は51.32パーセント(135万4,000票)、右派の民族主義共和同盟(ARENA)のロドリゴ・アビラ候補は48.68パーセント(128万4,588票)であった[11]。 』

『地理
エル・サルバドルの地図
エル・サルバドルの地形図
詳細は「エルサルバドルの地理(英語版)」を参照

エルサルバドルは中央アメリカに位置し、国土面積は2万1,040平方キロメートルと 四国(1万8803.87平方キロメートル)よりやや大きい程度であり、これは米州大陸部全体でもっとも小さい。また、中央アメリカで唯一太平洋のみに面し、カリブ海と面さない国家である。

グアテマラと203キロメートル、ホンジュラスと342キロメートルにわたって国境を接している。

エルサルバドルの国土の約10パーセントが森林地帯となっているが、そのうち80パーセントが植林により再生したものであり、自然林はほとんど残っていない。

エルサルバドルには20以上の火山があり、代表的な火山としては特にイサルコ火山(1,910メートル)が挙げられる。その他にはサンタ・アナ火山(2,286メートル)などがある。国内最高峰はエル・ピタル山(2,730メートル)である。

気候

エルサルバドルははっきりとした雨季と乾季に分かれる熱帯気候であり、気候は主に高度によって変化するが、多少は季節の変化によっても変化する。太平洋側の低地は一様に暑く、中央高原と山地は快適な気候になっている。雨季は5月から10月までであり、年間の降雨量のほとんどはこの時期に集中し、首都のサンサルバドルでは年間平均雨量が1,700ミリ、南部の丘陵地帯では年2,000ミリにも達する。乾季は11月から4月までである。

保護地域と中央高原はこれよりも少ないが、それでも量は多い。この時期の雨はおもに太平洋からの低気圧により発生し、午後の雷雨となって降雨することが多い。ときどきハリケーンが太平洋から飛来するが、ハリケーン・ミッチのような例外を除いてほとんどエル・サルバドルには影響しない。

自然災害

環太平洋火山帯の上にあるアメリカ大陸の太平洋側の常として地震の多い土地であり、2001年の2月に2度にわたり大地震が起こり、それぞれ800人、250人が死亡している(エルサルバドル地震)。』

『国民
詳細は「エルサルバドルの人口統計(英語版)」を参照
エルサルバドル系のモデルクリスティー・ターリントン
1961年から2003年までのエルサルバドルの人口動態グラフ
「エルサルバドル人(英語版)」も参照

エルサルバドルは2013年現在634万人の人口を擁し[20]、住民の90パーセントを メスティーソが占める。白人が9パーセントであり、白人のほとんどはスペイン系であるが、少ないながらもフランス系やドイツ系、スイス系、イタリア系の家系もある。先住民のインディヘナは1パーセント程度で、ほとんどはピピル族とレンカ族が占める。先住民は土着の文化、伝統を保っていたが、特に1932年のラ・マタンサ(虐殺)などにより最大4万人がエルサルバドル軍によって殺害されたと見積もられる。

エルサルバドルは大西洋(に接続するカリブ海)に面していなかったため中央アメリカで唯一黒人が見られない国であり、加えてマキシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス将軍は1930年に人種法を制定して黒人の入国を禁止した。この法律は1980年代に改定され、失効した。しかしながら、首都サン・サルバドルと港町ラ・ウニオン(英語版)には黒人の血を引くエルサルバドル人がまとまった数存在する。

パレスチナのキリスト教徒が少ないながら移民としてやってきており、数は少ないながらも強力な経済力を持っている。アントニオ・サカ大統領もその一人である。

アメリカ中央情報局による『CIA The World Factbook』(2015年版)によると、エルサルバドルの平均寿命は男性で71.14歳、女性で77.86歳である。

人口

首都サンサルバドル都市圏には210万人が居住しており、エルサルバドルの人口の約42パーセントが農村人口だと推測されている。エルサルバドルでは都市化は1960年以来驚異的な速度で進み、数百万人を都市に駆り立てて都市問題を国内のいたるところで生みだした。

2004年の時点で、約320万人のサルバドル人が国外に住んでおり、その中のいくらかはアメリカ合衆国への不法移民である。ただし多くのサルバドル系アメリカ人は合法移民であり、1986年の新移民法を通して合衆国市民か住民となっている。アメリカは伝統的に成功の機会を求めるサルバドル人の目的地となっている。

サルバドル人は近隣のグアテマラ、ホンジュラス、ニカラグアにも住む。国籍離脱者は1980年代の内戦の間、政治的、経済的および社会的な状況の中から生まれたものが大部分である。

言語

公用語はスペイン語であり、先住民を除いてほぼ全ての国民によって話されているが、英語教育もなされている。

宗教

詳細は「エルサルバドルの宗教(英語版)」を参照

宗教は伝統的にローマ・カトリックが主である。57パーセントがローマカトリックであるが、近年急速にプロテスタントが流行しており、様々な宗派のプロテスタント教徒を合わせると人口の33パーセントを超える。多くはエバンヘリコと呼ばれる 福音派プロテスタントであり、年々エバンヘリコが増加している。

教育

詳細は「エルサルバドルの教育(英語版)」を参照

2001年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は80パーセントである[21]。

おもな高等教育機関としてはエルサルバドル大学(1841年創立。国内唯一の国立大学)などが挙げられる。』

 ※ その他は、省略。