パナマhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8A%E3%83%9E
『パナマ共和国(パナマきょうわこく、スペイン語: República de Panamá)、通称パナマは、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタリカ、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海、南は太平洋に面する。首都はパナマ市。 』
『概要
パナマの存在する場所は南北アメリカと太平洋、大西洋の結節点に当たる。
この地理的重要性からスペイン人の到達以来、貿易の他に人の移動や国際政治において大きな役割を果たす場所となっており、その役割の重要性のため中米地峡を貫くパナマ運河が通っている。 』
『歴史
詳細は「パナマの歴史」を参照
先コロンブス期
ヨーロッパ人の来航以前の現在のパナマの地には、主にチブチャ族をはじめとする人々が居住していた。
紀元前2900年から同1300年に刻線文が特徴のモナグリーヨ (Monagrillo) 土器を用いた人々が、主としてパナマ中央部、アスエロ半島北方のパリタ湾岸に貝塚、内陸では岩陰や洞窟で生活を営んでいたことが知られている。紀元前1000年頃にモナグリーヨ土器を伴う集落がなくなり、紀元前6世紀になると、ムラ・サリグアなどをはじめとする掘立柱建物を住居とした集落が点々と営まれるようになる。ムラ・サリグアの最盛期には、推計で人口は600人から700人近くに達し、集落の面積は58haまで発達した。しかし、紀元前後になっても祭祀センターとまで言える遺跡は確認できていない。[要出典]
紀元3世紀から4世紀ごろの遺跡からは、木の実や穀物をすりつぶすマノ(すり石)とメタテ(すり皿)が発見されていることから、農耕が本格的に開始されていたと推測される。 A.D.500頃には、パリタ湾岸では金製品で知られるコクレ(Cocle)文化が興る。その起源についてはコロンビアからの影響か、独自の発展か決着をみていない。またコスタリカ東部に隣接する西部では、美術的にも評価の高い彩文土器や土偶で知られるチリキ(Chiriqui)文化が興る。
スペイン人が到来する直前にあたる16世紀初頭には、現在のパナマに相当する地域には20万人から200万人の人間が居住していたとされている[3]。
スペイン植民地時代
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 「南の海」(太平洋)を探索するバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア。
1501年、ヨーロッパ人としてはじめてスペインの探検家ロドリーゴ・デ・バスティーダス(スペイン語版、英語版)がパナマを「発見」し、カリブ海側ダリエン湾のポルト・ベーロに上陸した。翌1502年には、クリストファー・コロンブスがモスキートス湾沿岸を探検している。これ以降、自らがインドに到達したと誤解したコロンブスによってパナマに居住していた人々はインディオ(インド人)と呼ばれるようになった。
1508年、カスティーリャ王フェルナンド5世が、パナマをスペインの探検家ディエゴ・デ・ニクエサ(スペイン語版、英語版)に与えた。その後、1513年にバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが太平洋側に到達した(ヨーロッパ人による太平洋の「発見」)。翌1514年には総督としてペドロ・アリアス・ダビラ(スペイン語版、英語版)が派遣され、1519年にはパナマ市が建設された。パナマにも他のアメリカ大陸の植民地と同様にアフリカから黒人奴隷が連行され、インディオは疫病と奴隷労働によって大打撃を受けたが、パナマ市はイスパノアメリカ植民地の交通の要衝、スペイン人の居住都市として1671年1月28日にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによる焼き討ちに遭うまで繁栄を極めた。
1530年代にバルボアの下で植民地経営の経験を積んだフランシスコ・ピサロは、パナマを拠点にインカを征服した。また、ペルー及び近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマを経由した。例えば、アルト・ペルー(現在のボリビア)のポトシ銀山の銀は海路で太平洋側のパナマ市まで輸送され、陸路でカリブ海側のポルトベロまで輸送、そこから再び海路でスペインまで輸送された。スペインが16世紀初頭にパナマ周辺地域の支配権を確立した後、パナマはペルー副王領の一部となり、1718年に新設されたヌエバ・グラナダ副王領に編入された。
16世紀から17世紀にかけて、フランシス・ドレークやヘンリー・モーガンをはじめとするイギリスの海賊がしばしば輸送拠点を襲撃し、搬送物を略奪した。
スペインからの最初の独立
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
解放者シモン・ボリーバル。 フェルディナン・ド・レセップス。
1808年にフランス帝国のナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えると、それに反発する民衆暴動が契機となり、スペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、独立のための戦いが始まった。ベネズエラのカラカス出身の解放者シモン・ボリーバルは不屈の闘争の末に、1819年8月にボヤカの戦いに勝利してヌエバ・グラナダを解放すると、1821年にはカラボボの戦い (1821年)(英語版)に勝利し、ベネズエラの解放を不動のものにした。同年11月28日、パナマはスペインから独立し、自発的にボリーバルの主催するグラン・コロンビアの一部となった。1826年にはボリーバルの呼びかけで米州の相互防衛と将来的な統一を訴えるパナマ議会(スペイン語版、英語版)がパナマ市で開催されたが、この会議は失敗に終わり、ボリーバルの求心力も低下した。
1830年にボリーバルが失脚してベネズエラのホセ・アンオニオ・パエスがベネズエラ共和国のグラン・コロンビアからの独立を宣言すると、それまで「南部地区」と呼ばれていたキトとグアヤキルとクエンカもエクアドル共和国として独立を宣言したために、グラン・コロンビアは解体した。1831年に大コロンビア解体後に、ヌエバ・グラナダ共和国は建国され、パナマはその時にヌエバ・グラナダ共和国の一部として独立した。こうしてボリーバルの目指したラテンアメリカ統合の夢と共にグラン・コロンビアは崩壊した。
1846年にアメリカ合衆国は、パナマにおけるヌエバ・グラナダ共和国(ほぼ現在のコロンビア共和国に相当)の主権を承認することでパナマ地峡の通行権を獲得した。アメリカ合衆国が米墨戦争でメキシコから北半分の領土を手に入れ、1848年にカリフォルニアでゴールド・ラッシュが始まった1840年代以降、アメリカ合衆国東部の人々はオレゴン、カリフォルニア等のアメリカ合衆国西海岸への移住にパナマ地峡を利用し、交通の要衝としてのパナマの重要性は高まった。1848年にはアメリカの会社がパナマ・コロン地峡横断鉄道の敷設権を獲得した。1850年に着工したパナマ・コロン鉄道敷設工事は、1855年に完了した。
1855年にパナマはヌエバ・グラナダから自治権を獲得した。1863年、グラナダ連合でリオ・ネグロ憲法が制定され、八州が独自の外交権を持つ分権的な連邦国家コロンビア合衆国が成立すると、パナマも連邦の一州として実質的な独立を達成したが、1866年に再びコロンビアによる直接支配が復活した。パナマではコロンビアに対する反乱が頻発するがいずれも失敗に終わった。
スエズ運河建設に携わったフランス人実業家のレセップスがコロンビアから運河建設権を買い取り、1881年から1889年までパナマ運河建設を進めたが、様々な問題発生により建設は中止された。この過程で運河建設のために各国から労働者が導入された。
1885年の自由党の反乱を鎮圧した保守党のラファエル・ヌニェス(スペイン語版、英語版)によって1886年にリオ・ネグロ憲法の放棄と新憲法が制定され、中央集権色の強いコロンビア共和国が成立した。こうして一時的に不安定なコロンビアにも保守党による支配権が確立したが、1894年にヌニェスが死去すると、1899年に自由党のカウディーリョだったラファエル・ウリベ・ウリベ(スペイン語版、英語版)将軍が蜂起し、千日戦争が勃発した。この内戦は1902年まで続き、およそ10万人の死者を出した。
コロンビアからの第二の独立
詳細は「バナナ戦争」を参照
アメリカ海軍のアルフレッド・マハンの海軍戦略の影響や、1898年の米西戦争を契機に、アメリカ合衆国に太平洋と大西洋をつなぐ運河が中米に必要であるとの考えが浸透していた。1901年にマハンの教えを受けたセオドア・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領に就任すると、アメリカは中米地峡に太平洋と大西洋をつなぐ運河の建設に臨んだ。アメリカ合衆国では、中米における運河建設計画としてニカラグア案とパナマ案が提示され、1902年、レセップスが設立した新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取るパナマ案が議会で採決された(スプーナー法)。
アメリカ合衆国はパナマ運河を建設することを千日戦争で疲弊したコロンビア共和国上院に拒否されたため、パナマの持ち得る経済効果、ならびにラテンアメリカ地域における軍事的重要性から分離・独立を画策した。その結果、1903年11月3日にパナマ地域はコロンビアから独立を果たした。初代大統領にはマヌエル・アマドールが就任したが、新たに制定された憲法ではパナマ運河地帯の幅16kmの主権を永遠にアメリカに認めるとの規定があり、以降パナマはアメリカによって事実上支配されることになった。運河地帯の主権を獲得したアメリカによって運河建設は進められ、1914年にパナマ運河が開通した。
このようにパナマは独立当初から主権が極めて制限されていたが、パナマのナショナリズムの高まりに応じて1930年代頃からアメリカ合衆国も譲歩せざるを得なくなった。1927年から1933年まで続いたニカラグアでのサンディーノ戦争により、フランクリン・ルーズベルト大統領が善隣政策を導入したことは、その政治的な表現の一つである。親米派のエリートから主導権を奪って就任したアルモディオ・アリアス大統領は1936年にハル・アルファロ条約を締結し、パナマ運河の将来的返還など、パナマの保護国としての地位からの脱出を図った。
1940年に就任したアルモディオの弟のアルヌルフォ・アリアス大統領はよりポプリスモ的であり、大統領権の強い1941年憲法を制定し、アメリカ合衆国との対立のために枢軸国との友好政策や、人種差別政策など親ファシズム的な政策を採ったが、この政策は合衆国の不興を買い、1941年にクーデターで失脚した。
後を継いだデ・ラ・グアルディア大統領は合衆国との友好関係を強化し、第二次世界大戦中には敵性外国人となった日本人、ドイツ人、イタリア人が追放され、土地は没収された。第二次世界大戦中にアントニオ・レモンの手によってそれまでの警察隊が国家警備隊に再編されて事実上の軍隊となり、以降のパナマの政治に大きな影響力を奮うようになった。
1952年に大統領に就任したレモンは対外的には親米政策を採る一方、国内では国家警備隊の暴力を背景にした力の政治を推進したが1955年に暗殺された。 農民と写るオマール・トリホス将軍(右)。運河返還交渉によってアメリカにパナマ運河の返還の承認を実現させた。
1960年には中間層の民衆の間でナショナリズムが高揚し、パナマ運河地帯返還要求を軸にした反米運動が盛んになった。1964年には運河地帯でのパナマ国旗の掲揚がアメリカ人に拒否されたことをきっかけに暴動を起こしたパナマ人学生が、アメリカ軍によって射殺された国旗事件が発生し、この事件によってパナマとアメリカは一時国交を断絶した。
パナマ侵攻時のアメリカ軍。
1968年に発生したクーデターによりアルヌルフォ・アリアス大統領が失脚し、国家警備隊の司令官だったオマール・トリホス将軍が大統領に就任した。ペルーのベラスコ将軍に影響を受けていた[4]トリホス将軍は反対派を徹底的に弾圧したが、その一方で国内の寡頭支配層や合衆国に対して一歩も妥協しないそのカリスマ性によってたちまち国民の心を掴んだ。国粋主義的な政策で合衆国との交渉に臨んだトリホス将軍は1977年にアメリカのジミー・カーター大統領と新運河条約を結び、1979年に運河地帯の主権を回復した。
1981年のトリホス将軍の死後、国家警備隊は拡張され、1983年にパナマ国防軍に再編された。その後、トリホス将軍の下で諜報任務に就いていたマヌエル・ノリエガが事実上の軍と政治のトップとなったが、1989年にノリエガはアメリカとキューバのカストロ政権やリビアのカダフィ政権など世界各国の反米政権の二重スパイかつ、コロンビアの麻薬組織メデジン・カルテルと深い関係があることを理由に、アメリカによるパナマ侵攻によって失脚した。
ノリエガの失脚後、政治への深い介入が問題になっていたパナマ国防軍は解体され、1990年に国家保安隊に再編された。
アメリカ合衆国からの第三の独立
1999年12月31日に旧運河地帯に残るアメリカ管理地区が返還され、建国以来パナマに大きく関わってきたアメリカ軍は完全撤退した。これをアメリカからの第三の独立と呼ぶ者もいる[5]。
2004年5月には民主革命党から故オマール・トリホスの息子マルティン・トリホスが大統領に就任した。2009年5月3日の大統領選挙では、民主変革党の党首リカルド・マルティネリが貧困対策や治安の改善、インフラ整備のための民間投資誘致などを掲げて支持を集め、得票43.68%で当選した。』
『国民
詳細は「パナマの人口統計」および「en:Demographics of Panama」を参照 「パナマにおけるコーヒー生産」も参照 先住民クナ人の女性。 パナマ市のサン・フェリペ・ネリ教会
住民はヨーロッパ人とインディオ(インディヘナ)との混血であるメスティーソが60%、アフリカ系パナマ人が14%、ヨーロッパ系パナマ人が10%、先住民(アジア系モンゴロイド)が10%、その他が1%である。
パナマにはインカ文明、アステカ文明、マヤ文明のような高度に発達した先コロンブス期の文明は存在しなかったが、それでもインディオが国民の内約10%を占めるのはメキシコの国民に占めるインディオ比と同水準であり、ラテンアメリカ域内では先住民系の人口の占める比率が大きい国となっている。
黒人(アフリカ系パナマ人)は植民地時代にアフリカからパナマに連行された人々の子孫であるアフロ・コロニアルと、19世紀から20世紀にかけてジャマイカ、トリニダード、マルティニーク、グアドループなどから鉄道や運河の建設のために移住した人々の子孫であるアフロ・アンティーリャスに分けて統計されている。
白人(ヨーロッパ系パナマ人)は植民地時代に移住したスペイン人の子孫の他、19世紀に鉄道や運河の建設、監督のためにイタリア人、イギリス人、アメリカ人などが移民した。 パナマの人口の10%を占めるインディオ(インディヘナ)にはクナ人、ネーベ人、エンベラー・オウナン人(英語版)(エンベラー人、オウナン人)、ブグレー人、テリベ人、ブリブリ人、ボゴタ人などの諸集団が存在し、1953年にクナ・ヤラー自治区が、1983年にエンベラー・オウナン自治区、1996年にマドゥンガンディ自治区、1997年にノーベ・ブグレー自治区が創設された。
その他にマイノリティとしてユダヤ人、中国人(華僑)、インド人(印僑)、トルコ人などが挙げられる。
言語
スペイン語が公用語であり、大多数の国民が母語としている。その他にもアフロ・アンティーリャスなどにはジャマイカ英語をはじめとする英語を母語とする人々が存在する他、クナ語など先住民の言語を母語とする人々も存在する。英語はまた、都市部の高学歴層や観光地で使用される。
宗教 詳細は「パナマの宗教」および「en:Religion in Panama」を参照
宗教はローマ・カトリックが85%、プロテスタントが13%、その他(仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、バハイ教など)が2%である。 婚姻 [icon] この節の加筆が望まれています。 教育 パナマ大学のキャンパス。 詳細は「パナマの教育」および「en:Education in Panama」を参照
6歳から11歳までの6年間の初等教育が無償の義務教育期間となり、その後の6年間の前期中等教育と後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。国公立の教育機関は初等教育から高等教育までほぼ無償である。2000年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は91.9%である[11]。
代表的な高等教育機関としては、パナマ大学(1935年)、パナマ工科大学(1981年)などが挙げられる。歴史的にパナマのエリートは子弟をアメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国の学校で学ばせたため、パナマ国内の高等教育機関は中間層の子弟のための機関となり、それゆえにエリート層と対立するパナマの学生は1964年1月の国旗事件など、高揚するパナマ・ナショナリズムの担い手となった。大学進学率は中米諸国の中では最も高い。
保健 詳細は「パナマの保健(英語版)」を参照 [icon] この節の加筆が望まれています。 医療 詳細は「パナマの医療(英語版)」を参照 』
※ その他は、省略。