ブラジル

ブラジル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB

 ※ 今日は、こんなところで…。

『地理

アマゾン川
サンタカタリーナ州サン・ジョアキンの雪
ブラジルの地形図
詳細は「ブラジルの地理(ポルトガル語版、英語版)」および「ブラジル大断崖」を参照
国土は、流域を含めると705万km²及ぶアマゾン川と、その南に広がるブラジル高原に分けられるが、広大な国土を持つだけにさまざまな地形があり、北部は赤道が通る熱帯雨林気候で、大河アマゾン川が流れる。近年、環境破壊によるアマゾン川流域の砂漠化が問題となっている。

最高峰はベネズエラとの国境近く、北部ギアナ高地にあるピッコ・ダ・ネブリーナ山で、標高3,014メートルである。熱帯には「セハード」と呼ばれる広大な草原が広がり、エマス国立公園も含まれている。また、北東部は、沿岸部では大西洋岸森林が、内陸部では乾燥したセフタン(ポルトガル語版、英語版)が広がり、セフタンはしばしば旱魃に悩まされてきた。

南西部のパラグアイ、アルゼンチンとの国境付近には有名なイグアスの滝のある、ラ・プラタ川水系の大河パラナ川が流れる。ほかにネグロ川、サン・フランシスコ川、シングー川、マデイラ川やタパジョス川がある。また、ボリビアとパラグアイとの国境付近は世界最大級の熱帯性湿地とされるパンタナール自然保全地域となっている。

ブラジル南部3州ではブラジル高原はウルグアイ、アルゼンチンへと続くパンパ(大平原)との移行地帯となり、伝統的に牧畜が盛んでガウーショ(ガウチョ)も存在する。南部はコーノ・スールの一部として扱われることもある。

また、ブラジル南部は沖縄本島や薩南諸島などの対蹠地にあたり、また国土の大半が南半球となるため、季節は日本とはおおよそ正反対になるが、熱帯ではない南部以外ではあまり意識されることはない。

気候

詳細は「ブラジルの気候(ポルトガル語版、英語版)」を参照

ケッペンの気候区分によると、国土の93%は熱帯地域に属す。気候は亜熱帯性気候、半砂漠型サバナ気候、熱帯雨林気候、熱帯モンスーン気候、高地の亜熱帯性気候、温帯夏雨気候、温暖湿潤気候に分類できる。大西洋沿岸は全体的に温暖なため、リオデジャネイロやレシーフェなどのリゾート地が多い。南部3州の標高が高い地域では雪が降ることもある。

年間平均気温

アマゾン地域:22 - 26℃
大西洋沿岸地域:23 - 27℃
内陸部高原地域:18 - 21℃

四季:緯度によって異なるが、以下の通りである。

春:9月22日から12月21日
夏:12月22日から3月21日
秋:3月22日から6月21日
冬:6月22日から9月21日

ブラジルの春、サンパウロに咲く桜

ブラジルの春、サン

パウロに咲く桜
ブラジルの夏、レシフェの街のビーチ

ブラジルの夏、レシフェの街のビーチ
ブラジルの秋

ブラジルの秋
ブラジルの冬

ブラジルの冬 』

『歴史

詳細は「ブラジルの歴史」を参照

先コロンブス期
ブラジルのインディオ

ブラジルの最初の住民は、紀元前11000年[注釈 1]にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年ごろ、現在のブラジルの領域に到達した[注釈 2]。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には、のちにヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる、原始的な農耕を営むトゥピ族(英語版)・グアラニー族・アラワク族系の人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。

ポルトガル植民地時代

「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル

植民地時代初期の地図

1492年にクリストーバル・コロンがヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達したあと、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。

1500年にポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地としてほかの南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチがリオデジャネイロ(1月の川)を命名。

ポルトガル人が最初に接触したのは、古トゥピ語(英語版)やグアラニー語などを含むトゥピ語族を話す先住民であった。トゥピ語族のほかにもブラジル先住民には、ジェー語族(英語版)・アラワク語族(ヌ=アルアーク語族とも)・カリブ語族を話す集団があった。ポルトガル人は古トゥピ語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、ほかの先住民はそれぞれ部族の言葉を持っているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。こうしてリングワ・フランカ(一種の共通語)のリンガ・ジェラール(リンガ・ジェラール・パウリスタとリンガ・ジェラール・アマゾニカ)が形成された。それは信仰も同様として仕向けられた[7]。

初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主要産業となった。このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザ(英語版)がサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。

1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受けた。北東部の一部がネーデルラント連邦共和国(オランダ)に占領され、オランダ領ブラジル(英語版)となった。1661年、ハーグ講和条約が締結され、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルのポルトガル領アンゴラ(英語版)(現・アンゴラ)領有を認めるとともにオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。

一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ(英語版)(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された。インディオの数が足りなくなると西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。

「全人種の黒き指導者」パルマーレスのズンビの胸像

17世紀にはブラジル内陸部の探検が、サンパウロのバンデイランテス(奴隷狩りの探検隊)により始まった。バンデイランテスは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部やパラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねたマルーン(逃亡奴隷)の中には奥地にキロンボ(英語版)(逃亡奴隷集落)を築くものもあった。その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)はパルマーレスのズンビによって指導されたが、1695年のパルマーレスの戦い(ポルトガル語版)でバンデイランテスによって征服され消滅した。

一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデシリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設した。以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショ(スペイン語ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。

その後、18世紀にはミナスジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こった。ブラジルの中心が北東部から南東部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは独自のバロック文化が栄えた。

ミナスの陰謀:このブラジル初の独立運動では、首謀者の内うちもっとも身分の低かったチラデンテスのみが処刑された

バンダ・オリエンタルをめぐるスペインとの衝突のあと、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命やアメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が発生。計画は密告によって失敗した。首謀者のうちもっとも身分の低かったチラデンテスがすべての罪をかぶせられ処刑された。

その後、1791年に始まったハイチ革命の影響もあってクレオール[要曖昧さ回避]白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進展。植民地時代にはブラジルに大学が設立されず、知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。

黄金法(1888年)

ブラジルの独立
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」および「ブラジル独立」も参照
ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ:独立派のブラジル人ブルジョワジーを代表してペドロを擁立した

ナポレオン戦争により、1807年にジャン=アンドシュ・ジュノーに率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降、リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。ポルトガル政府はバンダ・オリエンタル・ド・ウルグアイ(葡: Banda Oriental do Uruguai)のホセ・アルティーガス(英語版)率いる連邦同盟(葡: Liga dos Povos Livres、1815年 – 1820年)との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請し、1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還した。

一方、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペドロがジョゼ・ボニファシオに代表されるブラジル人ブルジョワジー勢力に支持され、1822年2月18日にブラジル独立戦争が勃発した。1822年9月7日に「イピランガの叫び」(葡: Grito do Ipiranga)と呼ばれる独立宣言が行われ、ペドロが初代皇帝ペドロ1世(在位1823年 – 1831年)として即位し、ブラジル帝国はポルトガルから独立した[8]。

帝政時代

詳細は「ブラジル帝国」を参照

ペドロ2世

ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかった。イスパノアメリカ諸国が分裂したのとは異なり、広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していた。
このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制を求める自由主義者の反乱が勃発し、1820年代には北東部のペルナンブッコ州では赤道連盟の反乱(英語版)が、最南部のシスプラチナ州では東方州のリオ・デ・ラ・プラタ連合州復帰を求めた33人の東方人の潜入により、シスプラチナ州をめぐってシスプラティーナ戦争が勃発した。シスプラチナ州はイギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国として独立した。

1831年にペドロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州では牧場主とガウーショがファラーポス戦争(英語版)(葡: Guerra dos Farrapos、Revolução Farroupilha – 「ファロウピーリャの反乱」とも)を起こした。
『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』(ホセ・イグナシオ・ガルメンディア画)

1840年にペドロ2世が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年にプライエイラ革命(葡: Insurreição Praieira – 「プライエイラの反乱」とも)を鎮圧したあと、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争(葡: Guerra do Paraguai、西: Guerra de la Triple Alianza – 「三国同盟戦争」とも)が勃発したが、カシアス公率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。

一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国の南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コントの実証主義の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(葡: Tenentes – 「テネンテス(英語版)」)たちは実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年5月13日に黄金法(英語版)(葡: Lei Áurea)が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペドロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持を失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。

旧共和国時代

共和制革命後4日間だけ用いられたブラジル合衆国の国旗

1889年の共和制革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行した。この時期には カフェ・コン・レイテと呼ばれるサン・パウロ州とミナス・ジェライス州で相互に大統領を選出する慣行が生まれた。バイーア州カヌードス(ポルトガル語版、英語版)でJagunçoによるカヌードス戦争(ポルトガル語版、英語版)(1896年 – 1896年)が勃発。これにともなう通貨下落を政府はロスチャイルドから借り入れて切り抜けた。また、帝政時代からコーヒー・プランテーションでの労働力確保のためにヨーロッパよりイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人をはじめとする移民を受け入れていたが、奴隷制廃止後はさらに移民の流入速度が速まり、1908年にはヨーロッパのみならずアジアからも笠戸丸で日本人移民が導入された。

第一次世界大戦に協商国側で参戦したあと、1920年代にはカフェ・コン・レイテ体制への批判が高まり、ルイス・カルロス・プレステス(ポルトガル語版)をはじめとするテネンテス(青年将校たち)によるテネンテ革命(英語版)が各地で起こった。このテネンチズモ(ポルトガル語版)は直接は国政に大きな影響を与えなかったが、間接的に1930年代の政治状況を用意することになった。

ヴァルガス時代

詳細は「ヴァルガス時代(英語版)」および「エスタード・ノーヴォ(ポルトガル語版)」を参照

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス:15年にわたるヴァルガス時代の間に現在のブラジルが形作られた

1930年にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが1930年革命(ポルトガル語版)を起こし、独裁政治を確立しようとした。1932年にはサン・パウロ州の反ヴァルガス勢力によって護憲革命(英語版)(葡: Revolução Constitucionalista de 1932)が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリア・ファシズムに影響を受けたエスタード・ノーヴォ(ポルトガル語版)体制を確立し、11月10日に新憲法を公布、12月2日に発布した[9]。ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。

1942年8月22日にヴァルガスは第二次世界大戦に連合国の一員としてイタリア戦線に宣戦布告、参戦したが、独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日に軍事クーデターによって失脚した。

ポプリズモ時代
ブラジリア大聖堂

1946年9月18日に新憲法が制定されたあと、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任した。2度目のヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進められたが、軍の抵抗にあってヴァルガスは1954年に自殺した。

1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリア連邦直轄区を建設し、1960年にリオデジャネイロから遷都した。しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレが加速した。

1961年に就任したジョアン・ゴラール(ポルトガル語版)(通称・ジャンゴ)大統領(任期:1961年 – 1964年)はこのような困難な状況を乗り切ることが出来なかった。

軍事独裁政権時代

1964年にアメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍は、クーデター(英語版)によってジョアン・ゴラールを失脚させ、軍事独裁体制を確立すると、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された(コンドル作戦、en)。この軍政の時代に「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現したが、1973年のオイルショック後に経済成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇した。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。この間、各地でカルロス・マリゲーラの民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動など都市ゲリラが武装闘争を展開し、外国大使の誘拐やハイジャックが複数にわたって発生した。

1974年に将軍から大統領に就任したエルネスト・ガイゼウ(ポルトガル語版)は国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に就任したジョアン・フィゲイレード大統領は民政移管を公約した。1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェスが勝利した。

民政移管以降

ボルソナーロ大統領とトランプ米大統領

1985年に民政移管が実現し、文民政権が復活したが、ネーヴェスが急死したために副大統領だったジョゼー・サルネイが大統領に昇格した。サルネイ政権下ではインフレの拡大によりブラジル経済は悪化し、内政では大きな成果を残せなかったが、外交ではアルゼンチンのラウル・アルフォンシン政権との関係がこの時期に大きく改善し、長らく続いた両国の敵対関係に終止符が打たれた。

1990年には国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任したが経済問題に対処できず、数々の汚職やさまざまな奇行のために1992年に罷免された。コーロルの失脚後、副大統領のイタマール・フランコが大統領に昇格した。

1995年にブラジル社会民主党から就任したフェルナンド・エンリッケ・カルドーゾ政権下でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイにより、同年1月にメルコスール(メルコスウと発音、南米南部共同市場)が発足し、市場中心主義、緊縮政策・新自由主義を推し進めたが汚職や腐敗が深刻化し、格差の拡大をもたらした。

2003年には前政権までの貧困・格差の拡大に反発する形で労働者党からルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任し、ブラジル発の本格的な左派政権となり、これまで前政権時代に推し進められていた市場中心主義、新自由主義政策を改め、富の再分配を重視し貧困撲滅政策を実行。外交面では新興国との関係を重視した。資源価格の高騰や新興国経済の好調に伴ってブラジル史上屈指の好景気となり、貧困撲滅と中間層誕生をもたらしたことで国民の支持を集めた。また、ワールドカップと五輪の招致に成功した。

2010年10月、ルーラ大統領の任期満了に伴い大統領選挙が行われ、好調な経済の後押しを受けて与党労働者党のジルマ・ルセフ官房長官が当選。2011年1月に大統領に就任した。しかし、その後新興国経済の失速と資源価格の低迷から景気が低迷し支持率は急落。2013年に反政府デモが起きるも、2014年の大統領選挙では決選投票で中道右派のブラジル社会民主党のアエシオ・ネベスに接戦の末勝利し、再選を果たした。しかし、2016年にはルセフ大統領が弾劾裁判を受け、ブラジル検察はブラジル屈指の人気を誇ったルーラ元大統領を汚職疑惑により強制捜査。労働者党とブラジル民主運動党による連立政権が崩壊するなど政権基盤は急速に失速し、政治的な混乱が続いた。

2016年5月12日、ブラジル議会上院はルセフ大統領に対する弾劾法廷の設置を賛成多数で決定し、大統領の職務を停止させた。ルセフ大統領の職務が停止される間、ブラジル民主運動党のミシェル・テメル副大統領が大統領代行を務めた[10]。テメル大統領代行は労働党閣僚を排除し、最大野党の中道右派社会民主党の閣僚を抜擢し、実質的に13年ぶりの政権交代となった。親米、緊縮財政政策をとり、国営企業の民営化、公務員や社会保障削減などのウォール街をはじめとした国際金融市場が求める政策の実行を表明するなど、カルドーゾ政権時代の新自由主義政策への回帰となった[11]。しかし、与野党問わず汚職も蔓延しており政治的には混乱期に突入している。

そして、テメル大統領自身も収賄罪で起訴されるなど[12]、ルセフ前大統領に続いて弾劾を求める動きが活発化している[13]。このように、有力政治家が相次いで汚職の捜査対処になり、ブラジルの政治は大混乱期を迎え国民の信頼を完全になくしている。

2019年にジャイール・ボルソナーロが大統領に就任[14]、シカゴ学派の経済学者のパウロ・ゲデスをブレインに新自由主義、緊縮財政、軍政の再評価、親米外交など、これまでのルーラ政権以来続いた労働者党政権の逆の政策を行うと主張しており、その過激な発言からは「ブラジルのトランプ」ともいわれる。 』