イタリア統一運動

イタリア統一運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B5%B1%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95

『イタリア統一運動(イタリアとういつうんどう、イタリア語:Risorgimento リソルジメント[1])は、19世紀(1815年 – 1871年)に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。

中世以降、イタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリア、スペイン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていた(イタリア戦争)。19世紀の初頭にイタリアは、他の多くの欧州諸国と同じく、ナポレオンの勢力圏に入り、諸改革が行われた[2]。ナポレオン没落後はオーストリア帝国の影響の下で旧体制が復活したが[2]、カルボナリやマッツィーニの青年イタリアを中心とした勢力により、イタリアの統一と封建制度の打倒が目指された。

1848年革命に伴う「ローマ共和国」がフランスの介入で失敗した後は、サルデーニャ王国を中心としてオーストリア・ハプスブルク君主国に対するイタリア統一戦争 (Guerre d’Indipendenza Italiane) が行われ、オーストリア支配下のロンバルディア(旧ミラノ公国)がサルデーニャ王国に併合された。

また、トスカーナ、エミリア=ロマーニャ、ウンブリアなど中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国へ併合されることが決められた[2]。この時の各勢力の旗には、現在のイタリア国旗である、緑白赤の三色旗を基本としたものが用いられた。

その後ジュゼッペ・ガリバルディは、私設軍隊である千人隊を率いてシチリア島に上陸し、最終的には南イタリアの両シチリア王国を征服した。彼はこの功績により国民的英雄とされた[3]。

1861年にはイタリア王国が建国され、統一は一応の完成を見る。1866年には普墺戦争に乗じてヴェネツィア、1870年には普仏戦争に乗じてローマなどの教皇領の残りを併合して半島の統一は終了するが、イタリア人(イタリア系の文化を持つ者)が住む土地全てを統一の対象としたこの運動において、未回収地の併合はその後も政治課題として残った(イレデンタ回収主義[4])。

最終的に未回収のイタリアがイタリア王国に統合されるのは、第一次世界大戦におけるイタリアの戦勝の後であった。 』

 ※ 中略。

『背景

1796年のイタリア
サルデーニャ王国
ジェノヴァ共和国
トレント司教領
ヴェネツィア共和国
パルマ公国
モデナ公国
ルッカ共和国
トスカーナ大公国
教皇国家
ナポリ=シチリア王国

1810年のイタリア
フランス帝国領および衛星国
フランス帝国直轄地
イタリア王国
ルッカ・エ・ピオンビーノ公国
ナポリ王国
フランス帝国勢力外
サルデーニャ王国
シチリア王国
中世以降のイタリア
「イタリア戦争」も参照

5世紀の西ローマ帝国の滅亡以来、イタリアとよばれた地域、つまりイタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分と、サルデーニャやシチリアなどの島々は、ゲルマン人や東ローマ帝国、イスラム勢力などの外来勢力に分割され、統治されてきた。

11世紀から13世紀にかけて、イタリアでは次第に都市国家(英語版)が発達するようになった[9]。この体制はルネサンス時代に絶頂に至るが、16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始めた[10]。教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家の神聖ローマ帝国・スペインとヴァロワ家/ブルボン家のフランス)の代理戦争の場と化した。

18世紀に入るとフランス、ドイツ、イギリスで啓蒙思想が高まり[11]、ピエモンテ公国をはじめとするイタリア諸国でも啓蒙主義改革が行われ、特にトスカーナ大公国ではヨーロッパで最も先進的な改革が実施されている[12]。

18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国、ジェノヴァ共和国、トレント司教領(英語版)、パルマ公国、モデナ公国、ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国(英語版)、サンマリノ共和国、教皇国家そしてナポリ=シチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク君主国の支配下にあった。

ナポレオン体制

「フランス革命戦争」および「ナポレオン戦争」も参照

1789年のフランス革命の勃発はイタリアの知識層にも影響を与え革命運動を活発化させ、革命家たちは「ジャコビーノ」(ジャコバン主義者)や「パトリオット」(愛国者)と呼ばれた[2][13]。二度に渡ってイタリアに侵攻したナポレオンはオーストリア軍およびイタリア諸国軍を破って半島部を征服し、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合した。また、北東部から中部にはイタリア王国を建国させ養子のウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に任命し、南部のナポリ王国には親族(兄のジョゼフ・ボナパルト、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラ)を国王となし、フランス帝国の衛星国とした。

ナポレオン覇権下のイタリアでは旧体制(アンシャン・レジーム)を撤廃すべく、行政・税制諸改革が行われ、ナポレオン法典が導入された[14][15]。この経験から、イタリア知識層の中に統一意識が芽生えるようになる[2]。その一方で、ブルジョワ層が目指す社会改革は、農民をはじめとする大衆の利益には必ずしもつながらず、強い抵抗を引き起こしている[2][16]。

1813年から1814年のナポレオン体制の崩壊とともに、それまでナショナリズム感情を利用して王位を維持していたフランスの衛星国家では反政府蜂起が引き起こされた[17]。1814年にナポリ王のジョアシャン・ミュラ(ジョアッキーノ1世)はナポレオンを見限ってオーストリアと同盟し、イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネと敵対した[18]。ナポレオンが退位するとウジェーヌは領土をオーストリアに引き渡し、イタリア王国は崩壊した[19]。

翌1815年に百日天下でナポレオンが復位するとミュラはナポレオンの側についてオーストリアに宣戦布告し、イタリアの自由主義者たちに外国勢力を駆逐してイタリア統一を成し遂げようと呼びかけたが、応じる者は少なく敗北して処刑されている[20][21]。

ウィーン体制

ウィーン会議

ジャン=バティスト・イザベイ画。1815年

ナポレオンの敗北後にオーストリアで開催されたウィーン会議(1814-1815年)では欧州大陸の再編が話し合われた。イタリアについてはナポレオン以前の諸国が再建され[nb 1]、列強国(特にオーストリア)の直接または間接的支配下に置かれた[22]。

ウィーン体制下のイタリアではオーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテとサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、マッサ・カッラーラ公国(英語版)(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国そして南イタリアにはブルボン家の両シチリア王国が成立した[23]。1859年までこの枠組みに大きな変更はなかった。(冒頭地図参照)

これらの復古政府はナポレオン体制下での行政や法制度を概ね引き継いでいたが、サルデーニャ王国やモデナ公国では反動的な政策が取られた[24]。

この当時、イタリア統一に向けての闘争は主に北イタリアを支配していたために最も強大な障害となっていた、ハプスブルク家のオーストリア帝国に対するものである。

オーストリア帝国は、帝国の他の領域に対するのと同様に、イタリア半島において発達しつつあったナショナリズムを弾圧した[25]。

ウィーン会議を主宰したオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒは「イタリアという言葉は地理上の表現以上のものではない」と言明している [26]。』

 ※ その他は、省略。