ザンビア

ザンビア
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『ザンビア共和国(ザンビアきょうわこく)、通称ザンビアは、アフリカ大陸南部に位置する共和制国家。首都はルサカ。かつてはイギリス領北ローデシアであった地域で、独立後もイギリス連邦加盟国であり、公用語は英語である。内陸国であり、コンゴ民主共和国、タンザニア、マラウイ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、ボツワナの8カ国と隣接している[4]。国の人口は1,735万人(2018年:世界銀行)。世界平和度指数ランキング(2018年)では163か国中48位となり、アフリカで最も平和な国の一つとして評価されている。

ザンビアと南隣のジンバブエとの国境に流れるザンベジ川には世界三大瀑布の一つと称されるヴィクトリアの滝があり、アフリカを代表する動物、ゾウ、カバ、キリン、シマウマ、ヌーも多く住み、大自然が残されている。一方で、北部のカッパーベルトには銅鉱山が多数存在し、独立以前から銅の生産を主産業とする大鉱産国である[5]。 』

『歴史

詳細は「ザンビアの歴史(英語版)」を参照

独立前

1798年にこの土地に進出していたポルトガルは、1830年代から大西洋岸のアンゴラ植民地とインド洋岸のモザンビークを結ぶべく、内陸のザンビアへの探検を本格化させ、シルヴァ・ポルトのような探検家がこの地を訪れた。他方、19世紀半ばにはイギリスもこの地への関心を深め、1855年にこの地を訪れた探検家にしてキリスト教宣教師であったデイヴィッド・リヴィングストンは「モーシ・オワ・トゥーニャ」の滝をヨーロッパ人として初めて「発見」し、当時のイギリスのヴィクトリア女王の名に因んで「ヴィクトリアの滝」と名付けた。

1880年代に入ってヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進むと、アフリカを横断しようとするポルトガルの利害は、カイロからケープタウンまでアフリカを縦断しようとしていたイギリスのそれと真向から衝突した。ボーア人(アフリカーナー)の機先を制してアフリカ内陸部の土地を占有しようとしたセシル・ローズの意向によりイギリスはローデシアからザンベジ川上流とニヤサ湖の間の地域の統治権を確立した後、1889年10月29日に南アフリカ会社を設立した[6]。ローズは、更にアフリカ内陸部への領有意識を拡大し、1890年3月にベチュアナランド警察隊の将校ロシュナーはザンベジ川を渡ってロヅィ族の王レワニカとの間で「ロシュナー協定」を締結した。このロシュナー協定によって1891年までにイギリス南アフリカ会社はレワニカ王の統治権が及んでいたバロツェランド一帯に行政権を及ぼした[7]。また、イギリスは1890年1月11日にポルトガルに対して最後通牒を出し、現在のザンビアとジンバブエとマラウイに相当する地域に展開していたポルトガル軍を撤収させて、現在とジンバブエとザンビアに相当する地域の植民地化を決定的なものとした[8]。この事件はポルトガル本国での共和主義者によるアフリカ内陸部を結ぶ「バラ色地図」計画に失敗した王政への批判を招き、1910年10月5日革命の遠因ともなった[9]。
1912年のアフリカ

1898年6月25日に初のヨーロッパ人移民があった後、1900年にバロツェランド・北西ローデシア立法審議会が開かれ、この地はイギリスの保護領となった。在地のレワニカ王はその後も一定の権力を保ち、レワニカ王は1906年にバロツェランドの奴隷制を廃止した[10]。その後20世紀初頭には、ツェツェ蠅が多く、農業に適していなかったこの北ローデシアの地へのヨーロッパ人の入植は進まず、鉄道も建設されなかった[11]。

1924年にイギリスはこの地を北ローデシア保護領として直轄植民地化した。1925年にカタンガの国境付近で銅の大鉱脈(カッパーベルト)が発見されると、それまで開発の進んでいなかった北ローデシアには1929年にローデシア・アングロ・アメリカン社(AAC)とローデシア・セレクション・トラスト社(RST)が銅開発に乗り出し、1930年にはアフリカ人銅山労働者の人数は23,000人に達した[12]。北ローデシアの銅経済は1929年の世界恐慌勃発と1931年11月の銅価格の暴落を乗り切り、その経済的な好調は南ローデシアに居住していた白人入植者の目をこの地に向けることになった[13]。

北ローデシアは、1953年に南ローデシア(現在のジンバブエ)に入植したイギリス系白人主導で、南ローデシア、ニヤサランド(現在のマラウイ)と共にローデシア・ニヤサランド連邦に改編され、連邦初代首相にはハギンス(英語版)が就任した[14]。1956年に第二代連邦首相に就任したロイ・ウェレンスキーの統治を経てローデシア・ニヤサランド連邦では葉タバコ生産やカリバ水力発電ダムの電力による工業化が急速に進んだが、連邦の経済政策が白人入植者の集中していた南ローデシアを優先する方針を取ったために黒人民族主義者の反発を招いて1963年に崩壊し、翌1964年7月にニヤサランドはバンダ首相の下でマラウイとして独立を達成、北ローデシアも在地のロヅィ族の王ムワナウイナ3世によるバロツェランドの分離独立運動を制した北ローデシア植民地政府首相ケネス・カウンダと統一民族独立党(UNIP)により、1964年10月24日にザンビアとしてイギリスから独立した[15]。そのため、1964年10月10日に開幕した東京オリンピックの大会期間中は北ローデシア代表として参加したが、閉幕日当日の10月24日が国家独立日となったために国名が変更されてザンビア代表となり、閉会式にはザンビア国旗を掲げて入場行進を行ったという逸話が残る[16]。

独立後

独立後直後に国際連合に加盟したザンビアは、国連の経済制裁決議に従ってアパルトヘイトを敷いていた南アフリカ共和国との経済関係を断ち、さらに1965年にローデシアがイアン・スミス首相の下で一方的独立宣言を行うと、対ローデシア経済封鎖にも加わった[17]。両国に大きく経済的に依存していたザンビア経済は大打撃を受け、さらに内陸国であったザンビアはそれまで行っていたローデシア鉄道を用いた銅輸出への道を絶たれた。1969年8月にカウンダ政権は外資系銅企業の国有化政策を進め、1970年7月にはタンザニア、中華人民共和国の援助でローデシアを経由しない銅輸出のためのタンザン鉄道の建設が調印された[18]。また、1970年2月にカウンダは国内の部族主義を克服するため[19]、統一民族独立党(UNIP)による一党制を樹立した。

1973年にカウンダはローデシアとの国境を完全に封鎖し、さらに銅企業の国有化政策を推進した。外交面でカウンダはポルトガルからの独立を目指すモザンビーク解放戦線(FRELIMO)やアンゴラ国民解放戦線(FNLA)を支援しており、1974年4月25日にポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊すると、9月にFRELIMOとポルトガル新政府を仲介してルサカ合意(英語版)を実現させた。西の隣国アンゴラの独立に際しては、1975年11月のアンゴラ解放人民運動(MPLA)主導での独立達成当初は中立を表明したが、翌1976年4月にMPLA政権を承認した[20]。一方で、イギリス連邦の枠の中には残った。1979年には首都ルサカでイギリス連邦の首脳会議(コモンウェルス首脳会議)が開催されている[21]。

ザンビアは独立以来一貫して銅に依存した経済構造を有しており、独立直後の国家収入の1/3、輸出品の90%が銅に関連したものであった[22]。政府主導での農業部門の拡大による経済の多角化が唱えられながらも小農の形成は進まなかった。このような経済構造が災いして、1970年代後半の銅価格低迷はザンビアの経済に大打撃を与え、1980年代のザンビアは経済的に低迷し続けた[23]。1982年、AAC とRST が合併して Zambia Consolidated Copper Mines Limited(ZCCM)となった。国民は銅価格の低下に起因するザンビア経済の凋落に不満を示した。1986年12月には暴動が発生、1989年にはカウンダの与党統一民族独立党(UNIP)一党制に対して公然と複数政党制を要求する声が挙がり、1990年6月の暴動を経て同1990年7月20日には複数政党制民主主義運動(MMD)が結成された。1991年に複数政党制を導入した選挙で与党UNIPはフレデリック・チルバ率いる複数政党制民主主義運動(MMD)に敗れ、カウンダ政権は終焉した[24]。

新たに就任したチルバ大統領は経済の自由化を進め、ZCCMを1997年から2000年にかけて8つの事業へ段階的に民営化するなどの改革を行ったが経済は好転せず、汚職が恒常化しクーデターが試みられるなど政治は不安定化した。

2002年にMMDからレヴィー・ムワナワサが大統領に就任した。ムワナワサ大統領は2006年の大統領選挙でザンビアへの経済進出著しい中国と中国人の排斥を唱えた野党・愛国戦線のマイケル・サタ候補を制した[25]。

その後ムワナワサ大統領は任期中の2008年に死去し、その後の大統領選でMMDのルピヤ・バンダ大統領代行が当選した[26]。2011年の大統領選には当時の現職のバンダ大統領代行を破ったマイケル・サタ候補が当選し、政権交代が起きたものの、サタ大統領もまた任期中の2014年10月28日に英国ロンドンで死去した。副大統領で白人のガイ・スコットが暫定大統領に就任した[27]のち、与党・愛国戦線のエドガー・ルングが、選挙を経て2015年1月25日に第6代大統領に就任した。

ルング大統領

2020年、ザンビア政府は同年10月14日に支払期限を迎える外貨建て国債の利払いについて、債権者との間で翌年へ延期するよう協議を行っていたがまとまらず、2020年11月13日に事実上、債務不履行状態に陥った[28]。

こうした経済悪化と中国依存への不満から、2021年の大統領選挙でルングは敗れ、野党である国家開発統一党の党首ハカインデ・ヒチレマの当選が2021年8月16日に同国選挙管理委員会から発表された[29]。 』

『地理

詳細は「ザンビアの地理(英語版)」を参照

ザンビアの地理

ザンビアは南部アフリカの内陸国であり、国土の大部分が高原でいくつかの河川が谷を刻んでいる。南部にザンベジ盆地を擁する。国名の由来ともなっているザンベジ川はザンビア北部に端を発し、いったんアンゴラを通ったのち再びザンビアへと入って、西部州を北から南へと抜ける。国土南端で向きを東へと変えると、以後はザンビア南端を東流しながらナミビア、ボツワナ、ジンバブエとの国境を形成し、モザンビークへと抜ける。ヴィクトリアの滝(落差108m)はジンバブエとの国境に位置し、リヴィングストンはこの滝に近い観光拠点である。国土中部を流れるカフエ川や東部を流れるルアングワ川などザンビア国内の水系の大部分はザンベジ川へと流れ込むが、北部の河川の一部はコンゴ川へと流れ込むものもある[32]。最北部のタンガニーカ湖はタンザニアとの国境で、南東端にカランボ川が流入し、カランボ滝はアフリカ第2位の落差(235m)を誇る。

気候

詳細は「ザンビアの気候(英語版)」を参照

ザンビアのケッペン気候図。黄緑及び緑色が温帯夏雨気候、オレンジ色がステップ気候、水色がサバナ気候である。

高地にあるため国土の大部分が温帯夏雨気候(Cw)で、しのぎやすい。年降水量は500-1,500mm。首都ルサカ(標高約1,200m)では1月の平均気温は21℃、7月の平均気温は16℃である。乾季は5月-8月であり、12月-4月は雨季である。国土南端部は降水量が少なくステップ気候となっており、また西部や東部の一部はサバナ気候となっている。 』

(※ 他は、省略。)