東ティモール

東ティモール
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『東ティモール民主共和国(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称東ティモールは、アジア(東南アジア)地域に位置する共和制国家。首都はディリ。

島国であり、小スンダ列島にあるティモール島の東半分とアタウロ島、ジャコ島、飛地オエクシで構成されている。南方には、ティモール海を挟んでオーストラリアがあり、それ以外はインドネシア領東ヌサ・トゥンガラ州(西ティモールを含む)である。

1999年8月30日に国連の主導で独立についての住民投票を実施。インドネシアの占領から2002年5月20日に独立した[1](国際法上はポルトガルから独立)。21世紀最初の独立国である。ポルトガル語諸国共同体加盟国。 』

『歴史

詳細は「東ティモールの歴史(英語版、ポルトガル語版)」を参照
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成立

ポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住していき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろオーストロネシア語族が流入してきたと伝えられている。さらに紀元前3000年ごろと同2000年ごろの 2度にわたって、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もある[7]。

ポルトガル植民地

ポルトガル領ティモールの国章
詳細は「ポルトガル領ティモール」を参照

ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年に西ティモールとソロール島をオランダに割譲したことで、ティモール島は東西に分割された(リスボン条約(ドイツ語版))。この境界については1893年にポルトガルとオランダ間で細部の改正が行われ、1904年にポルトガル=オランダ条約(1908年批准)で国境を直線的分断し、1913年[8](または1914年[9])に確定した。

1911年から翌年にかけて、収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3,424人、負傷者1万2,567人を出した。さらに、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東ティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある[10]。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初は1941年にオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、ティモール島の戦い(英語版)のあとオランダ領東インド地域と合わせて1942年に日本軍が占領したが、1945年の日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定したあともポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、アントニオ・サラザール首相などの「エスタド・ノヴォ体制」により抑圧された。

1974年にポルトガルで左派を中心としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも政治活動が自由化される。まずポルトガルとの関係維持を掲げるティモール民主同盟(UDT)[注釈 1]が発足し、続いて左派・反植民地主義のティモール社会民主協会(ASDT、9月に東ティモール独立革命戦線FRETILIN(フレティリン)と改称)が即時完全独立を要求[注釈 2]、遅れてインドネシアとの統合を主張するティモール民主人民協会(APODETI、アポデティ)[注釈 3]が立ちあげられ、主要3政党として旗揚げした[11][12][13]。

東ティモールでは、1974年9月にUDTが独立支持へ方針転換し1975年初頭からフレティリンと共同戦線を張っていたが、相互不信や同盟指導部の人事問題で決裂していた。1975年8月11日、UDTはポルトガル総督府を相手にクーデターを行う。これに対してフレティリンは軍事部門「東ティモール民族解放軍FALINTIL(ファリンティル)」を組織し、撤退したポルトガル軍の武器を回収して武装化、UDT側と内戦を開始した[14][15]。状況を制御できなくなったポルトガル側はディリを放棄し8月下旬にアタウロ島へ退避、10月初めにはポルトガル本国から派遣された軍艦で本国へと帰還した。

これらの動きは、東ティモールの領有権を主張し反共主義を国是とするインドネシアのスハルト政権にとっては容認できず、アポデティやUDT内の反共派など、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。

インドネシアによる占領

詳細は「インドネシア占領下の東ティモール(英語版)」を参照

インドネシアからの独立デモ

1975年11月28日、右派勢力と連携したインドネシア軍特殊部隊が西ティモールから侵攻を開始する中、フレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和国の独立宣言を行う。翌29日、インドネシア軍が東ティモール全土を制圧し、30日にはアポデティ指導層などからなる親インドネシア派が併合を承認する「バリボ宣言」を出した(国連はこれを認めず)。12月7日、インドネシアは東ティモールに対する全面侵攻「スロジャ作戦」を開始。12月12日、国連安全保障理事会総会が、インドネシアの即時撤退を求める決議可決。1976年7月17日、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議がただちに採択されたが、日・欧・米・豪など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。

インドネシアが併合した時点の状況は、主食のコメやトウモロコシの大半はインドネシア国内からの移入に頼っていた。インドネシア自体も米不足で輸入に頼っていた状況であり、1978年以降、西部のマリアナ一帯で灌漑事業が進められるなど食料自給体制の向上が進められた。また、文盲率が93%と高率であったため、インドネシア側から教師が派遣され[16]、結果的に文化面の同一化も進んだ。

1977年、インドネシア軍が包囲殲滅作戦を展開。スハルト政権は東ティモールの抵抗に対して激しい弾圧を加えたため、特に占領直後から1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺したサンタクルス事件は、住民の大量殺戮事件として世界的に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インドネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会(CRRN)の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。1996年12月、ノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教および独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに贈られた。

1998年にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施することで旧宗主国のポルトガルと同意した。

国連の暫定統治

詳細は「東ティモールの国連の暫定統治(英語版)」を参照

1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印(ニューヨーク合意)。6月、国際連合東ティモール・ミッション(UNAMET)が派遣される。8月30日、独立に関する住民投票が行われた(投票率98.6%)。9月4日に発表された投票結果では、自治拒否78.5%で、特別自治権提案が拒否されたことで独立が事実上決定。9月7日、インドネシア治安当局は東ティモールに非常事態宣言を発令し、国軍5,500人を増兵しインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行う。9月12日、インドネシアが国連平和維持軍の受け入れを容認し、オーストラリア軍を主力とする多国籍軍(東ティモール国際軍、INTERFET)が派遣された(東ティモール紛争)。その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。10月には、国際連合東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設立、2002年の独立まで率いた。

独立後の平和構築活動

その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領にはシャナナ・グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に独立式典を行った。独立後、国連は国際連合東ティモール支援団(UNMISET)を設立、独立後の国造りの支援を行った。この中で、日本の自衛隊も国連平和維持活動(PKO)として派遣され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立された。

独立後の混乱

詳細は「2008年の東ティモール暗殺未遂事件(英語版)」を参照

2006年4月、西部出身の軍人約600人が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、ストライキを起こしたが、政府はストライキ参加者全員を解雇した[注釈 4]。国軍内部の問題として、将兵の多くが旧ファリンティル構成員からなっており、政治的信頼性によって新しい国軍での階級に差がつけられたこと、および西部出身者は独立運動において相対的に消極的であり、一部はインドネシア国軍から移籍してきていたことなどが背景にあった[注釈 5][17][18]。

これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した。ところが、鎮圧に赴いた警察や国軍の一部がスト参加者に同調して反旗を翻し、警察署を襲撃して死者が出たため、怯えた警察官が職務放棄。また若者を中心に暴徒化してディリは混乱した。治安維持が不可能となった政府は5月24日にオーストラリア・マレーシア・ニュージーランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、その後4か国による治安維持が行われた。

事件全体の背景として、東部住民と西部住民の軋轢や若者の失業率の高さが挙げられている。また、アルカティリ首相の独善的姿勢や国連の活動終了が早すぎた可能性も指摘されている。

オーストラリア軍は反乱軍を指揮する少佐と接触し、少佐の武装解除命令によって6月半ばに蜂起は終結したが、暴徒の方は反政府デモとなり、グスマン大統領の忠告によって、アルカティリ首相は辞任に追い込まれた。ディリは半ば戦場と化し、住民のほとんどは難民となって郊外へ脱出した。治安維持軍によって年内に暴動は鎮圧されたが、オーストラリア政府の支援による警察の再建など、治安の回復には時間がかかると思われる。

暴動を受け、同年8月には国際連合東ティモール統合ミッション(UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT)が設立。平和構築ミッションから、再び平和維持活動へと逆戻りした。

2007年1月13日、フランスとともに東南アジア友好協力条約(TAC))に締結した。この条約は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟と東アジアサミット参加への条件とされており、締結国間の主権尊重と内政不干渉、紛争の平和的解決を謳うものである。東ティモールは2007年内のASEAN加盟を目指していたが、国内事情の混乱もあって実現しなかった。その後、2011年にASEAN加盟を申請し、2017年時点でも交渉中である[19]。

2007年8月8日、与党フレティリンが下野し、グスマン連立政権発足の前後より、フレティリンの熱狂的な支持者が暴徒化し、首都ディリなどで民家などへの放火や投石が多発している。また8月10日には、東部のバウカウ県で国連平和維持活動に携わる国連警察の車列が発砲を受け、車両1台が燃やされた。ビケケ県では子ども1人が暴動に巻き込まれ死亡、数日の間に100名以上の逮捕者が出た。バウカウ・ビケケ両県は、フレティリン支持者が多い。8月12日には、国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(おもに豪軍)、東ティモール国軍により暴動は沈静化した。

2008年2月11日、ラモス=オルタ大統領やグスマン首相が2006年の国軍反乱以降に反政府勢力となったアルフレド・レイナド(英語版)少佐指揮の武装集団に襲撃された。この際にレイナドは死亡し、ラモス=オルタは重傷を負ったがオーストラリアの病院での治療により一命を取り留めた。ラモス=オルタ大統領は4月17日に職務に復帰し、襲撃事件に伴う非常事態令も5月8日に解除された。国連によるUNMITは2009年も延長されたが、同年3月には国家警察への権限移譲が開始され、混乱は徐々に収束しつつある[20]。

この一連の独立に至る記録が、2013年にユネスコ記憶遺産に登録された[21]。』

(※ 以下、省略。)