マレーシア「選挙なき政権交代」の出口巡る権力ゲーム

マレーシア「選挙なき政権交代」の出口巡る権力ゲーム
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD192OE0Z10C22A6000000/

『東南アジアはこれから、国政選挙が相次ぐ「政治の季節」に突入する。5月9日のフィリピン大統領選を皮切りに、遅くとも2023年までにはタイとマレーシア、カンボジアが下院選を行う。クーデター体制下のミャンマーも国軍が来年8月の再選挙を主張し、24年2月にはインドネシア大統領選が続く。

民主化の後退が散見されるこの地域だが、民意の風向きを知るには、「前哨戦」に位置づけられる地方選の結果が参考になる。

5月22日にタイのバンコクで行われた都知事選と都議会選は、プラユット首相を支える親国軍の与党系候補が惨敗した。クーデターから8年たってなお政治権力に居座る軍への反発が噴出した事情は、前回の当コラムで紹介した(「バンコク都知事にタクシン派、タイ次期総選挙に不穏な影」参照)。一方、6月5日のカンボジア地方行政区の評議会議員選は、フン・セン首相率いる与党が圧勝したもようだ。こちらは民意というよりも、最大野党を解党して臨んだ4年前の下院選で全議席を独占した与党が、選挙妨害など野党弾圧の手を緩めない現状を見せつけたといえる。

18年5月の前回の総選挙で、史上初の政権交代を経験したマレーシアはどうか。昨年11月のマラッカ州議会選、今年3月のジョホール州議会選は、いずれもイスマイルサブリ首相が属する国政の最大与党、統一マレー国民組織(UMNO)が一人勝ちした。

首相は議会の解散権を持つ。下院の任期は来年9月までだが、新型コロナウイルス禍が一段落しつつあるいま、地方選の勢いを駆って総選挙を前倒しで実施するのは、政権維持に向けた「勝利の方程式」といえるだろう。ところがイスマイルサブリ氏は「いまは適切なタイミングではない」と及び腰だ。

足元のインフレ対策を優先する、との理由はもっともらしいが、ロシアのウクライナ侵攻に伴う物価高騰は今後さらに進む公算が大きい。選挙の時期が遅れるほど、国民の不満は与党に向かう。なのになぜ「伝家の宝刀」を抜くのをためらうのか。

背景には与党内の複雑な駆け引きがあるが、そもそも4年前の政権交代劇で、UMNOは下野した側だ。にもかかわらず、選挙を経ずに与党へ返り咲き、首相まで輩出した経緯を振り返っておこう。
18年の前回総選挙ではマハティール氏(中央)が野党を糾合し、UMNOを下野させたが…=ロイター

万年与党だったUMNOが敗れたのは、当時のナジブ首相による政府系ファンド「1MDB」の資金不正流用など、汚職体質への批判が高まったためだ。UMNOを離党してマレーシア統一プリブミ党(PPBM)を立ち上げ、ナジブ降ろしの旗を振ったマハティール元首相が野党を糾合し、首相に復帰した。

ところが新たな与党連合内で不協和音が生じ、20年2月にマハティール氏は辞任する。共にUMNOを去り、PPBM党首を担ったムヒディン元副首相は、自分が追い落とした古巣を抱き込んで連立を組み替え、首相の座を手中にした。造反劇である。
マハティール氏に造反したムヒディン氏は、古巣のUMNOを抱き込み、首相の座に就いた=ロイター

そのムヒディン政権もコロナ対策の不備や議会軽視の政権運営が批判を招く。味方につけたはずのUMNOから造反の火の手があがり、21年8月に辞任に追い込まれた。アブドラ国王の裁定により、UMNO所属ながら造反に同調せず閣内にとどまっていたイスマイルサブリ副首相が昇格し、連立の枠組みと閣僚の大半の顔ぶれを温存した現政権が誕生した。UMNOの復権という「選挙なき政権交代」はこうして成就した。

イスマイルサブリ政権は議会の過半数をわずかに上回る支持を得ているにすぎず、基盤は脆弱だ。コロナ対策と経済復興に集中するため、与野党は政争をいったん脇に置き、22年7月末まで議会を解散しない協定を結んだ。その期限まであと1カ月余り。選挙に向けた水面下の駆け引きが激しくなっている。

地方選で惨敗続きの野党陣営、与党ながらUMNOから選挙協力を拒まれたPPBMは、態勢立て直しへ総選挙は遅い方がいい。問題はUMNOだ。「与党と野党、与党内のUMNOとPPBMらの間にそれぞれ対立があるが、最も亀裂が深いのはUMNOの内部」と日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所の中村正志主任研究員はみる。それはナジブ元首相やザヒド総裁(元副首相)が率いる主流派と、現閣僚ら非主流派のつばぜり合いである。
汚職罪などで訴追されているUMNOの主流派、ナジブ元首相(左)とザヒド元副首相は、総選挙で勝って司法追及をかわしたい考えだ=ロイター

UMNOと組んでムヒディン政権が発足する際、「民意への裏切り」といった批判をかわずため、閣僚にはナジブ氏、ザヒド氏らから比較的遠い非主流派を迎え入れた。その1人が地味な存在だったイスマイルサブリ氏だ。首相に上り詰めたものの、党内序列はナンバー3の副総裁補にとどまる。総選挙後の続投を視野に、党内の権力基盤を固める準備期間は長い方がいい。これが議会の早期解散に消極的な理由だ。

一方、早期解散を主張する主流派は、地方選の勢いを持ち込むと叫ぶが、理由はそれだけでない。1MDBを巡る汚職事件で禁錮12年と2億1000万リンギ(約64億円)の罰金を命じられたナジブ氏は、最高裁での審理が8月に始まる。ザヒド氏も閣僚時代の汚職や権力乱用、資金洗浄など多数の罪状で起訴され、公判が進んでいる。

新興国では珍しくないが、マレーシアも立法、行政、司法の三権分立が心もとない。「UMNOが次の総選挙に圧勝すれば、ナジブ氏が刑務所に入ることはなく、ザヒド氏が法廷に立つこともないだろう」(マレーシア大ペルリス校の元教授、マーレイ・ハンター氏)といった指摘はしかし、時間との戦いでもある。裏返せば、非主流派が来年9月までの下院任期の全うを望む理由の一端もそこにある。

主流派はけん制球を投じた。5月半ばの党臨時総会で、これまで通常なら3年、最大でも4年半だった党役員の任期について、総選挙後6カ月まで延長可能という条項を新たに付け加えた。本来は今年末で任期切れのはずだったザヒド体制は継続し、次期下院選の候補者選定などの権限を守った。選挙までに党総裁職を奪取したかったイスマイルサブリ氏の思惑をくじき、早期解散へ圧力をかける狙いは明らかだ。

選挙なき政権交代という異常事態を解消するため、7月末に与野党合意が失効すれば、速やかに解散・総選挙で民意を問うのが民主主義のあるべき姿だ。しかし地方選の結果をみる限りでは、それによってナジブ氏やザヒド氏によるかつての「利権政治」へと逆戻りを許す公算が大きい。マレーシア政治が抱えるジレンマである。

くしくも政治の季節の先陣を切ったフィリピン大統領選は、かつて独裁体制を敷き、1986年の民衆蜂起で権力の座を追われたマルコス一族を、36年ぶりに復権させた。選挙を通じた歴史的な政権交代で民主化が大きく前進したように思えたマレーシアも、党利党略による権力ゲームの末に再び現出したUMNO支配を、選挙で追認することになるのか。「それもまた民意の選択」と割り切るには、取って代わるはずだった野党連合のふがいなさを含めて、あまりに残念な現状である。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』

マレーシア:政治・経済
https://www3.pref.nara.jp/eastasia/1142.htm