コロンビア

コロンビア
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※ 今日は、こんなところで…。

※ ボゴタの位置。

『コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、スペイン語: República de Colombia)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。

コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した[4]。

コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。1980年代から1990年代、コロンビアは麻薬戦争による暴力が横行[注釈 1]し、世界で最も危険な国の1つとなった[注釈 2]。しかし、21世紀以降、コロンビアは劇的な治安の回復に成功し、アメリカ大陸における主要国と位置づけられている[注釈 3]。

コロンビアの人口は、ブラジル、メキシコに続いて、ラテンアメリカで第3位である。世界的なコーヒー豆の産地として知られるほか、エメラルドの産出量は世界一であり、温暖な気候と豊富な日射量を活かしたバラ、カーネーションなどの栽培と切り花の輸出にも力を入れている。ランは国花である。

コロンビアはNATO唯一のラテン系パートナーであり、38のOECD加盟国の1つである[5]。2020年、フォーブス誌が退職後の移住先として推薦する国々のリストに、コロンビアもランク入りした[6]。 』

『政治

詳細は「コロンビアの政治(英語版)」を参照

大統領官邸

大統領を元首とする共和制国家であり、上下両院制の複数政党制議会を備える。現行憲法は1991年憲法である。

行政権は大統領によって行使される。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は4年。連続一度まで再選可。

立法権は上院と下院に属し、上院は定数102議席、下院は定数166議席である。いずれも任期は4年、比例代表制により選出される。

司法権は最高裁判所に属し、行政、立法から独立している。

コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ以降の内戦においてもロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持されてはきた。イスパノ・アメリカ独立時以来の自由党、保守党両党の枠組みの中で両党派による歴史的な妥協が続き、多くの国でこの自由・保守(ないし中央集権派と連邦派)という枠組みがなし崩し的に崩れていった中で、コロンビアでは両党以外の政治勢力を排除してきたことがその原因である[11]。寡頭支配層が営々と権力独占による金権政治を行ってきた結果、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因ともなっている。

なお、「寡頭政治」という言葉はホルヘ・エリエセル・ガイタンが選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。自由党の大統領候補ガブリエル・トゥルバイはレバノン移民の子であり、決して支配層出身とは言えない。独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。例えば、保守党の支配階級的色彩の強かったマルコ・フィデル・スアレス大統領(任1918年‐1921年)は洗濯屋の従業員であった母親の私生児であり、下層階級出身である。また、自由党のベリサリオ・ベタンクール大統領(任1982年‐1986年)はバスク系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供の頃は裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だった頃は公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。他にも保守党のカルロス・レストレポ大統領(任1910年‐1914年)や、自由党のエドゥアルド・サントス大統領(任1938年‐1942年)は中産階級出身で上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「誰でも大統領になれる」という言い方が流行ったこともあるという[12]。

かつて左派の主要な政治勢力であった愛国同盟(UP)は1,500人以上の活動家が政府によって暗殺されたために壊滅し[11]、清廉な議員・判事でも麻薬組織による買収工作が行われ、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラや右翼民兵による誘拐・暗殺が絶えない。麻薬組織は政権を握る気がないため表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きい[11]など、腐敗と暴力が横行している。

しかし、コロンビアの歴史を遡って検証すると、これらの指摘は誇張されすぎていると言わざるを得ない。政権与党が推薦した候補者が選挙で敗北した場合でも概ね平穏に政権交代が行なわれており、1882年、1930年、1946年の選挙では政治的暴力は発生していない[13]。

また、コロンビアでは1853年に憲法で男子の普通選挙権が認められており、世界の憲政史上でも最も古い国の一つである。1856年の普通選挙による初の大統領選では、有権者の投票参加率は40%程度と推計されており、広大な国土(日本の3倍強)と少ない人口(1851年当時で男子人口108万8000人)と投票所までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚異的な数字である[13]。

奴隷制は独立後の1821年に奴隷から産まれた新生児を一定年齢に達した後に解放するという措置が取られた。これは米国大統領エイブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言より40年も早く、1826年のパナマ会議に米国が出席しなかった理由はコロンビアの奴隷解放が自国に波及することを恐れたためという。1851年に全土の奴隷2万人が全員解放され、1852年1月には奴隷制そのものが全廃された[14]。

コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、「コロンビアの場合、政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」と高く評価している[15]。ブッシュネルは「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、南北戦争と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」と指摘し、他のラテンアメリカ諸国と比較しても決して多くはなかったと指摘している[16]。

例えば、ベネズエラでは大コロンビアからの分離後25年間で11回反乱が起き、アルゼンチンでは1868年までの10年間に117回もの反乱が起きている。また、メキシコや他の中米諸国、アルゼンチン、ペルー、ボリビアで長期の内戦があり、最も内戦が少なかったチリでさえ1829年、1851年、1859年、1891年に内戦が起き、国境の資源を巡り1879年に太平洋戦争が起こり、チリは「戦争の国土」と呼ばれた[16]。これらの諸国と比較してもコロンビアは内戦の規模も犠牲者も少なく、また20世紀前半は戦争のない平和な時代であり、メキシコ革命や第一次世界大戦と第二次世界大戦の影響もなく、コロンビアは文明国家の中では最も平和な国家であったとされる[17]。

政党としては1849年に結成された自由党と保守党・2006年に自由党から別れた全国統一社会党や、リベラル派の「急進的変革」・社会主義勢力が加わっている「オルタナティブ民主投票」が有力である。保守党は独立時のボリバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。

なお、死刑制度は1991年の新憲法で全面廃止されている。

1991年7月5日、新憲法公布される。新憲法下で初の総選挙が行われ、政教分離や連邦主義を主張する都市工業者に基盤を持つ自由党が勝利した。しかし、左翼ゲリラの攻撃は激化し、石油施設などへの攻撃が相次いでいる。
2006年8月7日、二期目となるアルバロ・ウリベ大統領が就任演説で反政府武装集団との和平への決意を示した。コロンビアでは40年以上内戦が続いている。
2010年6月20日、大統領選の決選投票が行われ、与党・全国統一社会党のフアン・マヌエル・サントス前国防相が当選した。全国登録庁(中央選管)の発表によると、サントス候補が69%、野党・緑の党のモクス候補は27.5%であった。投票率は44%[18]。
2014年6月15日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉継続を争点とし、与党・国民統一党のフアン・マヌエル・サントス大統領が僅差で再選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、サントス候補が50.95%、スルアガ候補が45%であった。
2018年6月15日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉合意を争点とし、合意見直し派の中央民主党のイバン・ドゥケ上院議員が元左翼ゲリラで合意遵守派の前ボゴタ市長のグスタボ・ペトロを破り当選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、ドゥケ候補が53.98%、ペトロ候補が41.81%であった。右派が圧倒的に強いコロンビアにおいて左派候補が決選投票に残ったのは史上初の事であった。』

(※ 以下、省略)