やがて悲しきロシア人 空洞化で変質するプーチン神話

やがて悲しきロシア人 空洞化で変質するプーチン神話
上級論説委員 坂井光
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK092R60Z00C22A6000000/

『ロシア軍によるウクライナ侵攻開始以降、ロシア人が参加するSNS(交流サイト)でこんなメッセージが増えている。「海外にいる友人のみなさん。私の代わりに購入してくれないでしょうか」

日本に住むロシア人は知り合いの学者に研究者向け英プラットフォームの利用料支払いを依頼された。「研究に必要なツール」だが、制裁でロシアでは支払いができなくなった。代わりに日本からログインして支払い、代金はロシアの銀行口座に振り込んでもらったという。

ロシア科学アカデミーに所属する研究者によると、ロシアで開く学会に西側諸国から参加する人がほぼ消えた。共同研究を打ち切る国や、学術誌などへの論文掲載が拒否されるケースも増えている。

ロシアでは、ビデオ会議ソフト「Zoom(ズーム)」の有料版なども購入できなくなった。目立たない制裁の影響だが、科学アカデミーは科学技術振興や教育分野での空洞化につながりかねないと危機感を強め始めた。

影響がより分かりやすいのはビジネス面だ。米エール大学がロシアに進出している外国企業のうち1200社以上を調べたところ、6月12日現在、撤退したのが325社、事業停止は475社、事業縮小は162社となった。

ロシア経済にとって特に深刻なのは製造業だ。仏ルノーはモスクワ市の工場でルノー車を生産。ロシア市場で約2割を占める最大手メーカーの株式約68%を取得し、経営を立て直した。そのいずれからも撤退を決めた。

事業は現地企業が引き継ぐが、主要部品が輸入できなくなるうえ、多大な開発投資もなくなる。品質・性能の低下は免れない。そのうえモスクワ市はルノーブランドの代わりに1946年に発売した「モスクビッチ」ブランドの乗用車復活を発表した。

侵攻以降、ソ連への懐古主義が広がっているが、皮肉なことに「後進性」や「非効率」も増殖しつつあるようだ。

ロシアでは頭脳流出が深刻だ(4月7日、南部のソチ国際空港で搭乗手続きをする乗客)=タス共同

「制裁が5年以上続けばロシアの先端技術は世界から取り残される」。ウクライナのIT企業経営者アレクサンドル・オリシャンスキー氏はこう指摘する。ロシア企業は半導体チップ製造の大半を台湾積体電路製造(TSMC)などに委託していたが、これが止まったからだ。

そして、空洞化の最たるものは頭脳流出だ。侵攻開始から10日間で20万人以上が国外に退避したといわれている。多いのはIT技術者、コンサルタント、起業家など高学歴の若者層だ。

もともとロシア人の移住願望は強い。米シンクタンクのアトランティック・カウンシルが2019年に公表した調査によると、プーチン氏が大統領に就任した2000年以降、推定160万~200万人が国外に移住。400人を調査したところ、出国時の学位は81%が学士以上で、うち36%は修士、博士だった。

長期独裁化するプーチン政権に見切りをつける人は絶えずいたが、侵攻がそれに拍車をかけたのは間違いない。

通貨ルーブルが侵攻前の水準まで戻すなど、制裁の効果を疑問視する声もある。しかし、多方面に及ぶ空洞化が次第に経済をむしばむとの見方が支配的だ。

ロシアのクドリン元財務相は4月、今年の国内総生産(GDP)が10%以上の減少率になるとの見通しを示した。2ケタのマイナス成長はソ連崩壊を受けて混乱した1994年以来で、プーチン政権では初めてとなる。

プーチン氏に刃向かう人は弾圧される(3月13日、モスクワ)=タス共同

ロシアを安定させ、繁栄した大国に導く強い指導者――。そんな「プーチン神話」は崩壊しつつある。

とはいえ、能力や資産に恵まれた人は国外へ逃げ、政権に抗議の声を上げる人は逮捕されたり、弾圧されたりした。いま残っているのは、現状を受け入れざるを得ないとあきらめた人、あるいはプーチン氏を妄信する人が大半だ。

他方、プーチン氏は側近を強い結束を誇る旧ソ連の国家保安委員会(KGB)出身者らで固め、宮廷クーデターも起きにくい体制を築いた。

神話にはまだ続きがありそうだ。ただ、光が見えない悲劇として。

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上野泰也
みずほ証券 チーフマーケットエコノミスト
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貴重な体験談

モスクワを中心にロシアには旧ソ連時代を含めて何度か足を運んだが、そのたびに受けた印象は、街行く人々のつれなさと、武骨な建物が多い街の冷たさである。

寒い時期が多いからそうなるのか、それとも国民性なのかはわからない。親密になればこれほど情に厚い国民はそう多くないという人もいる。

だが、このコラムを読んでみると、プーチン時代が長くなる中で、ロシアという国家は良くない方向に向かっているという思いを強くする。プーチン体制は強固であり突然崩壊するようなことはないだろうという見方は、ウクライナ侵攻の直後から筆者もコメントしてきた点である。だが、「光が見えない悲劇」としての国内政治・経済安定は、あまりに悲しい。

2022年6月14日 11:32 』