コーカサスの歴史 [17] ポントス草原の人々

コーカサスの歴史 [17] ポントス草原の人々
https://kyjworld.web.fc2.com/ukkazaki.htm

 ※ 到底、「一筋縄では、いかない。」歴史のようだ…。

 ※ テキストを読むのは、ツラいんで、画像だけを眺めておくほうが良さそうだ…。

 ※ と思ったが、読み始めたら、面白くて最後まで読んでしまった…。

 ※ また、長々と時間を食ったよ…。

『(8) コサックと北コーカサス

(9-3) ウクライナ・コサック

 ポーランド・リトアニア共和国周辺の南部草原のチェルカシ人(後にカザキと呼ばれた)への最初の言及は15世紀。

 カザキは始め、南キエフと東ポドリアに住み、後にドニエプルまたはザポロジュと呼ばれ始め、セヴリュキ・カザキ、シーチ(下流)、
登録(都市)、オホチコモンニエ、ナドヴォルニエとスロボダ・カザキと区別された。

 1663年以降、チェルカシ人の一部は共和国忠誠を拒否し、ロシア皇帝に奉仕し、ビザンティン伝統で小ロシア・カザキと呼ばれ始めた。これは後にロシア帝国でドニエプル左岸に住むカザキの公式名称として使用された。

 しかし、広義には、革命前はすべてのドニエプル・カザキが小ロシア・カザキと呼ばれた。

*チェルカシ人は現在の北コーカサスのアディゲ人(の祖先)を指すことが多いが、一方で、ドニエプル川中流に都市チェルカスがあり、その周辺に住んだウクライナ・コサックを指すこともある。

*セヴリュキ:セヴェリャーネの子孫。15-17世紀資料で言及。セヴェルシナ(セヴェリア、ドニエプル左岸支流地域)に住んだ。

 ロシアの資料での最初の公式言及は16世紀、特にノガイ公子ユスフのイワン雷帝への手紙に遡り、1550年の手紙では、ロシアと交易する人々を襲う、泥棒について言及。
 コサックの起源で唯一信頼できる主張は、コサックが種々の民族グループの接触地帯で生じたことである。

*ウクライナという言葉の最古の言及は1187年に遡る。以降、この言葉はルスの種々の公国の要塞国境地帯に採用された。

 1569年、以前のルスの南西の土地がポーランド王に従属すると、東ポドリアからザポロジアの地域は非公式にウクライナの名を得た。

(9-3-1) ザポロジュ・コサック

起源

 黒海の北の草原にはクマン、ペチェネグとハザールのような遊牧民族が住んでいた。

 後のコサック資料はハザール起源を主張するが、コサックの民族発生でのこれら部族の役割は議論になっている。

 抑圧や犯罪追求から逃れるためにキエフ・ルスの耕地からこれら荒野に逃げた人々もまたいた。

 彼らの生活様式はおおよそ現在コサックと呼ばれる人々と同じであった。

 彼らは主に狩猟と漁業と馬と食料を求めてのアジア部族襲撃で生きた。

 16世紀にウクライナ人貴族ドミトロ・ヴィシュネヴェツキがこれら異なるグループを強固な軍事組織に統一した。

 ザポロジュ・コサックは種々の社会・民族起源を持つが、主にポーランド人貴族支配下の生活より、荒野での危険な自由を好む農奴からなっていた。しかし、都市住民、下級貴族とクリミア・タタールさえコサック軍団の一部となった。

 彼らはまた東方正教を信仰として受け入れ、その儀式と祈祷を採用した。

 遊牧民仮説では、コサックの祖先はスキタイ、サルマタイ、ハザール、ポロヴィッツ(クマン)、シルカシア(アディゲ)、タタールとその他である。18世紀のコサック年代記はハザール起源を提案する。

しかし公式歴史学では遊牧民仮説は拒絶される。

ポーランド・リトアニア共和国内で

 16世紀に、共和国の南方拡大で、ザポロジュ・コサックは共和国によってほとんど従臣と見なされた。

 登録コサック(1572-)は1699年まで共和国軍の一部であった。

 16世紀末頃、共和国とオスマン帝国の関係は、ますますのコサックの攻撃で緊迫した。
 16世紀後半から、コサックはオスマン領を襲撃し始めたが、共和国は独立的コサックを支配できなかった。

 しかし彼らは名目的には共和国の従臣で襲撃に責任があった。逆にオスマン支配下に住むタタールが共和国の、主に人がまばらに住むウクライナ南東地域で襲撃に乗り出した。
 コサックはオスマン帝国心臓部の豊かな商人港都市を襲撃し、そこはドニエプル川河口から船で、丁度2日離れていた。

 1615と1625年までにコサックはコンスタンティノプルの郊外の地域を破壊し、スルタンのムラド4世を宮殿に逃げさせた。

 オスマン帝国と共和国は互いにコサックとタタールを抑制することを要求したが、両者に実行力はほとんどなかった。

 コサックはポーランド人に強制され、船を焼き、襲撃を止めることに同意。しかし、船はすぐに再建され、コサックの生活様式は襲撃と略奪を賛美した。

この頃、ハプスブルク家はときどきコサック襲撃者を国境でのオスマンの圧迫を軽減するために利用した。

 コサックとタタールの互いの襲撃と報復の繰り返しで共和国南東国境は低強度紛争地域となり、共和国とオスマンの戦争が拡大、モルダヴィア・マグナト戦争からツェツォラの戦い(1620年)と1633-1634年の戦争に至った。

 共和国の農奴制から逃げるウクライナ農民でコサックは増加。

シュラフタのザポロジュ・コサックを農奴に戻す試みでコサックの共和国への忠誠が弱まった。

共和国をポーランド人・リトアニア人・ウクライナ人の共和国にする計画はコサックに不人気で、ほとんど進まなかった。更に東方正教会への強い忠誠のコサックは、カトリック支配の共和国へ敵対した。

 共和国の正教会抑圧で、コサックは強い反カトリックとなり、これは反ポーランド人と同義であった。

 コサックの忠誠の衰退と、シュラフタの横暴で、17世紀にコサックは数度、共和国に反乱。

 コサックのコサック登録拡大要求の王の拒否で最大で最も成功した反乱 、フメルニツキ反乱が促進され、これは1648年に始まった。

この反乱でヘトマン国が形成された。

 この反乱やロシアやスウェーデンとの戦争などの大洪水と呼ばれる危機的な出来事が続き、共和国は非常に弱体化し、100年後の分解への過程が始まる。

 ザポロジュ軍団は自己の軍事・領域的支配地域を持った。士官は軍評議会で選出された。部隊の指導者は公式的ではないがヘトマンと呼ばれた。

 ザポロジュ軍団はヘトマン国と密接に結びついていたが、それ自身の統治と秩序を持っていた。

 軍事行動のために軍団のコサックはキシュに組織化された。キシュはシーチの統治の中央組織であった。

 キシュはシーチ・ラーダ(黒ラーダ)で選ばれた。黒ラーダは全コサックの評議会であった。

 平時には、コサックは仕事に従事し、家族と住んだ。

ロシアとの提携

 1654年のペレヤスラフ条約後、ウクライナはロシア保護下の従属国となったが、かなりの間、相当の自治を享受した。(皇帝陛下のザポロジュ軍団と呼ばれ始める。)

 1657年のボフダン・フメルニツキの死後、後継者のイヴァン・ヴィホフスキーはロシアの干渉の増加で、ポーランドに向き始めた。

 1658年のハディアチュ協定では、ザポロジュ・コサックの参加で3民族共和国の試みへの復帰が試みられた。

 しかし、これはカトリックとの連合を拒否するコサック兵士によって拒否された。

 怒った、コサックは共和国のヴィホフスキーの仲間を処刑し、ヴィホフスキーはなんとか死を免れた。

 ザポロジュはヘトマン国からほとんど分離した政府を維持した。かれらはコシュ(キシュ)・オタマンとして知られる指導者を選出。

 この時期、ヘトマン国とザポロジュのコサックの間の摩擦が増大。

 コサックは特権と自治を失うのを恐れ、皇帝に対する幾度かの反乱に関係した。

 1709年、コスト・ホルディイエンコ率いるザポロジュ軍団はロシアに対し、ヘトマンのイヴァン・マゼパに加わった。

 マゼパは以前はピョートル大帝の密接な友人であったが、後にピョートル大帝に対し、スウェーデンのカール12世と提携。

 ポルタヴァの戦いの勝利後、ピョートルは報復にシーチ破壊を命じた。

 1709年のマゼパのベッサラビアでの死で、ピリク・オルリクが後継者に選ばれた。
 彼はヘトマンの権威を制限し、ザポロジュの特権を維持、社会的平等化とウクライナとロシアの分離政策を取り始めた。

 彼はスウェーデンのカール12世の支援でロシアに対し、クリミア・タタールとオスマンと提携したが、戦いに敗れ、亡命。

 ザポロジュはオスマンの保護でドニエプル下流にオレシュキ・シーチを新しく築いた。
 しかし一部のザポロジュ・コサックはモスクワの保護に復帰したが、指導者コスト・ホルディイエンコは反ロシアで、彼の1733年の死まで、歩み寄りは不可能であった。

ロシア帝国内で

 時とともにコサックとロシアの摩擦は緩和され、特権はコサックの自治との交換であった。

 反マゼパ派はヘトマンにイヴァン・スコロパドツキを選出。彼はロシアとの衝突を避け、ヘトマン国内にロシア連隊駐留を認めた。

 1734年、ロシアはオスマン・トルコとの戦いを準備し、ザポロジュ・コサックとルブニ協定を結んだ。

 キエフ駐留のロシア軍指揮下に入ることと交換に、ザポロジュ・コサックはすべての以前の土地、特権を再確保。

 新しいシーチ(ノヴァ・シーチ)が築かれた。

 ロシアのザポロジアの内部問題干渉を心配しながら、コサックはポーランドとロシアの農奴制から逃げたウクライナ農民とその土地に住み始めた。

1762年までに33700コサックと150000農民がザポロジアに住んだ。

 18世紀末期までに多くのコサック幹部階級がロシア貴族に組み込まれたが、多くのコサック兵士は農民の地位に落ちた。

 彼らは自由を維持することができ、ロシアとポーランドの逃亡農奴に避難場所を与えた。

これにはロシア人コサックのプガチョフ支持者も含む。その結果、1775年まで、ヘトマン国とポーランド支配ウクライナからのザポロジアへの逃亡農奴の数は10万に登った。

 1774年のキュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国がロシアに併合され、南方国境防衛の必要性は存在しなくなった。

 ノヴォロシアへの植民が始まり、植民地の一つ、新セルビアはザポロジュ・シーチの丁度隣であった。

 コサックとの土地所有をめぐる摩擦は増大し、しばしば暴力に至った。

ザポロジュ軍団の終焉(1775)

 1775年5月、エカチェリーナ2世の宮廷評議会でシーチ解散決定が採用された。将軍ピョートル・テケリがシーチの占領、解散を命令じられた。命令はグリゴリ・ポテムキンに与えられた。

 陰謀により5千が包囲から逃げ、ダニューブ・デルタに行き、そこで新しいダニューブ・シーチをオスマン保護下で築いた。

 残った1万1千コサックには何もできなかった。

その後

 ダニューブ・シーチは翌年、オスマンの支援を受けることとなる。

 1784年、ポテムキンは忠誠ザポロジュ軍団を形成し、南ブグとドニエステルの間に住ませた。

 彼らの露土戦争(1787-1789)での奉仕に対し報酬として、クバンの土地が与えられ1792年に移住。

 1828年、ニコライ1世に許されて、ダニューブ・シーチのコサックはベルディアンスクとマリウポルの間の北アゾフ沿岸に移住し、アゾフ・コサック軍団を形成。

最終的に1862年、クバンに移住し、クバン・コサックと融合。

(9-3-2) コサック・ヘトマン国 1648-1764

 中央ウクライナ地域に1648-1764年(一部資料では1782年まで)に存在。
 1648-1657年の反乱の時にザポロジュ軍団ヘトマンのボフダン・フメルニツキが形成。

 1569年、ポーランドとリトアニアのルブリン連合で南のリトアニア支配ルテニアのヴォイヴォド領はポーランド・リトアニア共和国に与えられた。一方で拡大するロシアは南方のキエフ・ロシア土地を確保しようとしていた。

 またカトリック拡大主義の圧迫が1596年のブレスト連合で頂点に達し、これはローマ法皇のもと、現在のウクライナ、ポーランドとベラルーシの東方正教会の自治を維持しようとするものであったがこれは問題があった。

 コサックは共和国とオスマンの和平協定で海賊行為を阻止されて非常に憤っていた。

 コサックは既に1637-1638年の反乱に失敗していた。

ボフダンはコサックの歩兵はポーランドの騎兵に対抗できないと考え、大胆にもクリミア・タタールの騎兵を利用することを考えた。フメルニツキーはなんとかコサックとタタールの長い相互敵意を打ち破ることができた。

 1648年1月、フメルニツキは400-500のコサックでザポロジア・シーチを占領し、クリスマスには勝利してキエフに入った。
(*登録軍団の忠実ザポロジュ軍団の将校ボフダン・フメルニツキーが下流ザポロジュ軍団とザポロジアの登録コサック駐留軍の支援で共和国へ反乱を起こした。)

 クリミア・ハンのイスラム3世ギレイの支援でポーランドの反撃も阻止できた。

 1649年、ズボリフ協定が結ばれたが、コサックの予想より若干あてがはずれていた。

 1653年のクリミア・タタールの裏切りで、フメルニツキはポーランドに対し、もはやオスマンを頼れず、ロシアの支援を求めた。

 1654年、ペレヤスラフ条約でロシア保護下で自治を獲得。これで1654-1667年のロシア・ポーランド戦争が引き起こされた。

 1657-1687年の時期はヘトマン国の歴史で荒廃として知られ、国中での絶え間ない内戦で刻印される。

 1657年、ボフダン・フメルニツキーが死亡し、16才の息子のユリが後継者に選ばれたが、彼は父のような指導性を欠いていた。

 代わりにイヴァン・ヴィホフスキーがスタルシナ(幹部)評議会によってえらばれ、これが部隊と軍団に不満を生じさせた。

 選出が再度行われ、ヴィホフスキーが再選され、モスクワも承認。

 親ロシアのザポロジュのコシュ(キシュ)・オトマン(アタマン)のヤキフ・バラバシュの反乱を鎮圧し、ヴィホフスキーはモスクワと断絶したと考え、ポーランドとの交渉を決心、1658年、ハディアチュ協定でウクライナはポーランド・リトアニア共和国での第3番目の自治要素となるはずであったが実行されず、ヴィホフスキーは不評で、ヘトマン職を捨て、ポーランドに逃亡、ユリ・フメツキーが再任された。

 1659年の第2ペレヤスラフ協議でヘトマン国の独立が更に制限された。(ユリとの合意)

 1667年、ヘトマン国の代表が参加せずに決められたアンドルソヴォ条約でポーランドとロシアの国境が確立し、ヘトマン国はドニエプルに沿って、2分割され、ザポロジュ・シーチはロシアとポーランドの共同統治(1667-1686)となった。

 左岸ウクライナはロシアの下である程度の自治を享受し、右岸ウクライナは共和国に留まり、一時、1672-1699年にオスマン帝国が占領。

短期間ペドロ・ドロシェンコは両岸のヘトマンとなった。

左岸のヘトマンのデミアン・ムノホフリシュニの裏切りと、ポーランドの攻勢でドロシェンコはオスマンと提携し、オスマンは彼にウクライナを与えた。

 1683年のウィーンでの戦いの敗北後、ポーランドは1690年までにキエフを除いて右岸を取り戻し、共和国のヴォイヴォダ(領主)たちの支配下に置き、一方、全ヘトマン国の統治は1699-1704年の間に廃止された。

 荒廃の時期はイヴァン・マゼパのヘトマン選出(1687-1708)で終わり、彼はヘトマン国を統一させた。

 ロシアとスウェーデンの大北方戦争でマゼパはピュートル1世と提携し、コサックの重い損失とロシアの干渉を引き起こした。

 皇帝がポーランドに対するウクライナ防衛を拒否し、マゼパとザポロジュ・コサックの一部は1708年、スウェーデンと提携。

 ポルタヴァの戦い(1709年)でロシアが勝利し、マゼパの独立の目標は終焉。
 全地域はキエフ・グベルニヤに併合され、コサックの自治は著しく制限された。
 ロシアはマゼパの提携者と疑われるものすべてを追放し、これは1708-1709年のレベディンの処刑で頂点に達した。

 1764年、エカチェリーナ2世が公式にヘトマン制廃止、1764-1781年にヘトマン国は小ロシア・グベルニヤに編入され、1781年、ヘトマン国の最後の残った統治制度は廃止された。

*ヘトマン国

 ヘトマン国は始めポドニエプル(ドニエプル沿い)、プリドニエステル(ドニエステル沿い)、セヴェルシナ(北の土地)とザポロジアを覆っていた。

 下流ザポロジア軍団のコシュ・アタマンのバラバシュとプシュカルの反乱(親ポーランドのザポロジア軍団のヘトマンのイヴァン・ヴィホフスキーへの左岸ウクライナの反乱、1657-1658)後、ヘトマンへの不満が高まり、ザポロジュ・シーチはヘトマンに公式的にしか従わないようになった。

 ロシアと共和国の1686年の永久和平後、ポーランド支配下の右岸ウクライナは解体。
 以降、ヘトマン国は左岸、キエフとその周辺だけを言及。

 しかし、1760年代までに、ヘトマン制度の勢力はエディサン・オルダ(ハン・ウクライナ:ドニエステルとドニエプル下流間)にも存在、これはピョートル・イヴァネンコ(クリミア・ハン国の支援でマゼパと戦った)がオスマン帝国から受け取り、クリミア・ハンの保護下にあった。

 1654年、ヘトマン国はロシア保護下に入った。ヘトマン地域は多くの政治的特権を持っていたが、1663年以降、小ロシア令によって統治した。

 ヘトマンのマゼパの大北方戦争でのスウェーデンのカール12世の支援後、ヘトマンの影響力は大幅に減少。

 小ロシア・コレーギア(府)のステパン・ヴェリヤミノフとの際限ない抗争と、彼がセイム(評議会)承認の得られなかったヘトマンのパヴェル・プロボトクを罰したことで、1726年、コレーギアは閉鎖され、ヘトマンが復活、1727年、ダニエル・アポストル(1727-1734)が新しいヘトマンに選ばれた。

 ピョートル2世とアンア・ヨアノヴナの時代にヘトマンの権利は非常に拡大、トルコに住むコサックの復帰が許され、イヴァン・ビレツキがベーラヤ・ツェルコフ(ビラ・ツェルクヴァ)に軍と来てロシアに忠誠を誓った。

 しかし、1764年、ヘトマン制度は廃止された。

 
 ()内は現国名(赤線:現国境)                 1600年頃のクリミア・ハン国とオスマン領(赤)

<参考> 忠誠ザポロジュ軍団(1783-1792))

 1775年に解散したザポロジュ・コサック軍団から形成。

 1775年、ザポロジュ・シーチは破壊され、ザポロジュ・コサック軍団は廃止され、シーチの支配する土地は新ロシア・グベルニアに併合。

 多くのコサックはまずクリミア・ハン国、ついでトルコへ行き、ダニューブ・デルタに住んだ。

 オスマン・スルタンは5千の軍団を供給することを条件に彼らがザドナウ・シーチ(1775-1828)を築くのを許可。

 1785年、コサックのかなりの部分がオーストリアのバナト地域に移住(バナト・コサック)。

 しかし、多くのザポロジュ・コサック(約1万2千)が依然、ロシア帝国市民であった。
 同時に、以前のコサックのスタルシナ(隊長)は貴族の地位を与えられ、下位の者も軍隊に加わることを許された。
 しかし、一部のスタルシナはエカチェリーナ2世から許されなかった。

 新ロシアはトルコの脅威にあり、総督の公子グリゴリ・ポテムキンはコサックに好意的であった。

 1768-1774年の露土戦争には多くの以前のザポロジュ・コサックがロシア側で戦った。

 1783年、公子のポテムキンはロシアに留まったコサックから忠誠ザポロジュ・コサックのコシュを創設し、これらが志願者とともにスヴォロフのもと、クリミア反乱を平定。
 
1787年、ポテムキンはエカチェリーナ2世にザポロジュ軍復興を請うた。彼はすでに南ロシアに軍隊とクバン・国境線を築いていた。彼はコサックを集め忠誠コサック軍団が形成された。

 忠誠ザポロジュ・コサック軍団は1787-1792年の露土戦争に参加。

 1790年の戦功により軍団は黒海コサック軍団と改名し、ブフとドニエステルの間の土地を(中心都市スロボジア)与えられた。

 これは1792年、クバンに移動。

<参考> ザポロジア・シーチ

 シーチの6期区分

  シーチの出現(1552ー1583)
  小ポーランドのキエフ・ヴォイヴォダ領(1583-1657)
  共和国の一部としての独立の戦い(1657-1686) 共和国、クリミア・ハン国、オスマン・トルコに対して
  コサック一体性(ヘトマン国)のための戦い(1686-1709) クリミア・ハン国、オスマン・トルコ、ロシア帝国に対して
 (*クリミア・ハン国に逃げ、オレシュコフ・シーチ形成、ハン国からの差別で1734年帰郷、ノヴァ・シーチ形成(1711-1734))
  自治取り消しによるロシア政府との膠着状態とシーチ崩壊(1734-1775)
  ダニューブ・シーチ形成から帰郷(1775-1828)

ザポロジア・シーチ
 1 ホルティツィア・シーチ(1552-1558) オスマン・クリミア軍によって崩壊
 2 トマコフ・シーチ(1563-1593) 1591-1593年のコシンスキー反乱で、ポーランドにそそのかされたタタールによって崩壊
 3 バザヴルク・シーチ(1593-1630?または1638) オストリャニン(1637-1638)の共和国への反乱で破れ崩壊
 4 ニキティンスク・シーチ(1628?または1638-1652) タタールの攻撃で放棄
 5 チェルトムリク・シーチ(1652-1709) スウェーデン側について、ピュートル1世の攻撃で崩壊
 6 カメンカ・シーチ(1709-1711、1728-1734) 1711年、ピュートル1世が破壊、1728年、再び戻るが1734年、ノヴァ・シーチへ
 7 オレシュコフ・シーチ(1711-1728又は1734) クリミア・ハン領、クリミア・ハンの要求で去る
 8 ノヴァ・シーチ(1734-1775) アンナ・イヴァノヴナ女帝の恩赦でロシア市民権を得て移り、国から給与を受ける

 シーチ所在地

ヘトマン国(1649-1654);背景は現ウクライナ

 ヘトマン国とロシア支配下のザポロジュ・コサック地域(1751年)

<参考> ザポロジア、左岸ウクライナ、右岸ウクライナ、荒野、小ロシアの変遷

*ザポロジア

 正式名は下ザポロジア軍団の自由な土地、そのほか荒野、ノヴォロシヤなど。

 ザポロジアは”急流の向こう”の意味、ザはザカフカージェ、ザバイカルのザと同じで”向こう:beyond”の意味。

 1667年、アンドルソヴォ休戦でモスコヴィとポーランド王国の共同統治、1686年の相互和平条約でロシア宗主権下。

 下流ザポリジアは古シーチ(スタラ・シーチ)を中心としていた。

(*17世紀後半にザポロジアは下流ザポロジュ軍団の領土と呼ばれた。内紛でヘトマンはザポロジア・シーチの支配を失った。)

 1709年、ピュートル1世が古シーチを破壊させ、ザポロジュ・コサックはオレンシュク(ドニエプル河口)に逃げた。

 (オレンシュクは1711-1728年、クリミア・ハン国保護下でザポロジュ軍団の首都。)

 1734年、ロシアはコサックに新シーチ(古シーチの少し下流)を基地にザポロジュ軍団の自由な土地再建を許可。

 1775年、シーチは破壊され、地域は新ロシア(1764年形成)に編入。

*左(東)岸ウクライナ 1663- 露語

 この言葉は1663年、イヴァン・ブリウホヴェツキのパヴロ・テテリヤへの対抗ヘトマン選出で出現。

 ブリウホヴェツキはロシア影響下の左岸ウクライナの最初の知られるヘトマン。

 17世紀中期までこの地域はポーランド・リトアニア共和国に属し、1654年のペレヤスラフ条約以降、南部(タウリダ)とともにロシア支配下となり、コサック・ヘトマン国としてある程度の自治を共有したが、ザポロジュ・シーチの破壊で18世紀中に徐々に彼らは去っていった。

 1654-1667年のロシア・ポーランド戦争でコサック陣営が分裂、両岸でヘトマンが選出された。

 1663年、イヴァン・ブリウホヴェツキが左岸ウクライナの、1665年、パヴロ・テテリヤが右岸ウクライナのヘトマンとなる。

 1667年のアンドルソヴォ休戦でドニエプルに沿ってのウクライナの分裂状況は法的に確定、左岸ウクライナは自治を維持して公式的にロシア帝国領となる。

 1708年、ヘトマンのイヴァン・マゼパの裏切りで左岸ウクライナの自治は制限され、キエフ・グベルニヤの一部となる。

 1722-1734年と1764年以降、左岸ウクライナは小ロシア・コレーギヤが統治。

 1781年以降、チェルニゴフ、ノヴドロド・セヴェルスクとキエフ・ナメストニチェストヴォに分割。

 1796年、左岸ウクライナ地域は小ロシア・グベルニヤとなる。

*右(西)岸ウクライナ 1663-1793 

 荒廃(1659-1686、内紛)で左岸から分離。左岸連隊はユリ・フメルニツキを認めるのを拒否。

 西は歴史的地域のヴォルヒニアとポドリアに、南西はモルダヴィア、南はイェディサンとザポロジア、東は左岸ウクライナ、北はポレシアと境する。

 1667年、アンドルソヴォ休戦で左岸ウクライナはキエフとともにロシア編入、右岸は18世紀末のポーランド分割まで、共和国に留まった。

 1669年、ヘトマンのペトロ・ドロシェンコは右岸ウクライナをオスマンの一部とするのを許す。

 1672年のブチャチュ和平で3分割、ポドリアはトルコ、ブラツラフシナと南キエフは右岸ヘトマンでトルコ従臣のドロシェンコ、残りの右岸ウクライナはポーランド。

 1683年、トルコ支配右岸ウクライナ廃止。

 1699年、カロリッツ条約でトルコのポドリアは共和国に戻る。

 1752年、ノヴォセルビア(ザポロジアの北西)、1764年、ノヴォロシア・グベルニヤ(ザポロジアの北)成立。

 1768年、農民の農奴制への不満、コサックや農民の反貴族、反ポーランドの雰囲気のなかでハイダマカ(ウクライナ・コサックの準軍事組織)による反乱コリイヴシナが起き、ウマンの大虐殺(ポーランド人、ユダヤ人、ローマ・カトリックと東方正教会
聖職者に対し)が生じる。

 1793年、ポーランドの第2回分割で右岸ウクライナはロシアが併合し、小ロシアの一部となる。

*荒野

 16-18世紀にポーランド・リトアニアの文書で使用された。
 黒海とアゾフ海の北、現在の東と南ウクライナと西ロシアのポントス草原。
 ウクライナ歴史家によると、15世紀にザポロジュ・コサックがドニエステルとヴォルガ中流の間に植民したときに
この言葉が出現。

 この地域は長い間、スキタイ、アラン、フン、ブルガル、ペチェネグ、キプチャクなどの種々の遊牧民が疎らに住んだ。

 モンゴルのキエフ・ルス侵攻(1237-1242)後、こ地域は青水の戦い(1362)まで、黄金オルダが支配。

 青水の戦いでアルギスダスが勝利し、リトアニア大公国のものとなったが、1399年のヴォルスクラ川の戦いでヴィタウタスが黄金オルダのテムル・クトゥルグに敗れた。

 1441年、荒野の西部エディサンがクリミア・ハン国支配下に入った。これは16世紀からオスマン・トルコに支配された。

 荒野は部分的にザポロジュ・コサックが住んだ。

 これは、ポーランド人のキエフのカトリック司教が彼らがノガイ・オルダを撃退させることを期待した。

 クリミアとノガイの長い間の奴隷狩りのための襲撃(1468-1769)と、クリミア・タタール、ノガイ・オルダ対リトアニアとモスクワの大公国の戦いのために、この地域はザポロジュ・コサックが起きる前は非常に荒廃し、人口は希薄化した。

 17世紀までに、荒野の東部は逃亡農民と農奴が住み、彼らはコサック集団の核となった。

 フメルニツキーの反乱(1648-1657)の間に、北部はドニエプル流域からのコサックが住み、スロボダ・ウクライナとして知られるようになった。

 露土戦争のあと、1780年代にロシア帝国に編入。

 右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、ザポロジア、スロボダ・ウクライナ、荒野

 小ロシアの変遷と新ロシア(ノヴォロシア)

*小ロシアの変遷
 14世紀はビザンティンの教会統治地域名
 16世紀はポーランドとリトアニアのロシア人の土地(キエフ主教座管区)
 17世紀にヘトマン国に小ロシア意識形成
 1654年のペレヤスラフ条約以降、ロシアは大ロシアと小ロシアと称し、小ロシアは自治を有した
 1662年、小ロシア省(統治単位)が形成され、1667年の分割で左岸ウクライナが小ロシア
 1764年、小ロシア・グベルニア形成
 19世紀はロシアの全南西地域

 新セルビア(ノヴォ・セルビア、1752-1764)、主に今のキロヴォフラード州
 ノヴォロシア・グベルニヤ(1764-1783、1796-1802) 灰色点線は1750年のザポロジア、年はロシアの獲得。

 ポーランド分割

 ウクライナSSR(1922-1954)の領域拡大 1939年のモロトフ・リッベントロップ協定(黄)と第二次大戦の結果
 ピンク破線:ウクライナ人民共和国(1917-1921)
 緑破線:西ウクライナ人民共和国(1918-1919)

 ウクライナの歴史的地名

 白ロシア(ル-シ、ベーラヤ・ルーシ)、黒ロシア(チョールナヤ・ルーシ)、赤ロシア(チェルヴォーナ・ルーシ)
*色で呼ぶのは、一説にはモンゴルの影響

ザポロジュ・コサックの流れ(1)

(9-3-3) ダニューブ(ザドナウ)・シーチ 

 18世紀末までにザポロジアの戦闘能力は著しく減少、特にキュチュク・カイナルジ条約とロシアのクリミア併合後、軍団が国境を警備する必要性が取り除かれたため。
 同時にザポロジアの他の敵、ポーランド・リトアニア共和国もまた弱体化し、分割の瀬戸際にあった。

 これは軍事的にザポロジュ・シーチがますます余計になったことを意味するが、同時に、彼らの存在はロシア帝国当局と摩擦を引き起こした。ロシアはコサックが住む新しく獲得した土地に植民を望んだ。

 コサックの数多くのセルビア植民地攻撃とコサックのイェメリアン・プガチェフへの支援提供で、ロシア女帝エカチェリーナ2世は将軍ピョートル・テケリに面倒なシーチ破壊の命令を出した。

テケリの作戦は1775年に無血で実行され、コサックは抵抗しなかった。この際、陰謀で、約5千のコサックがオスマン領の南ブフ川方面に逃げた。

 これらのコサックにロシア農奴制から逃げた多くのウクライナ農民が加わり、当時、オスマン帝国領のダニューブ川左岸(ブジャク)にオスマン帝国に許され、住んだ。

 1778年までに1万2千の男子を数え、トルコのスルタンはコサック軍団として使用しようと、彼らをドニエステル下流のクチュンガリの土地(現代トランスニストリア)を割り当て、彼らはそこでオスマン帝国に忠誠を誓った。

 しかし、露土戦争(1787-1792)の勃発でコサックは分裂。一部はロシアに戻り、1775年にロシアに留まることを選んだ

コサックから形成された、新しい忠誠ザポロジュ軍団(後に黒海コサック軍団)に参加。
 露土戦争(1806-1812)後、ベッサラビアはロシア領となり、ダニューブ・コサックは割り当てられた土地を喪失。

 トルコの敗北後、一部のコサックはトルコ軍とダニューブ川を渡って撤退、そこでスルタンはダニューブ・デルタのカテルレッツ居住地にシーチを築くことを許可。そこはネクラソフ・コサックとリポヴァン人のすでに存在する居住地の丁度、隣であった。

 2つのグループの間で、土地と漁業権を巡って摩擦が増加。1794年、ネクラソフはカテルレッツを攻撃し、破壊。

 以降トルコ当局はダニューブ・ザポロジュを更にダニューブをさかのぼったブライロフ島に再移動させた。

 新しい場所は漁獲が少なく、500のコサックグループがロシアに戻った。

 1800年のオスマン・パズヴァントグルの新しいスルタンのセリム3世へのバルカン半島での反乱で、パズヴァントグルはネクラソフに対し、ダニューブ下流のすべての土地を約束。これに対しダニューブ・ザポロジュは復讐のためスルタンに味方。

 内戦で両者は大きな損失を出したが、結局、反乱は鎮圧され、ザポロジアはブライロフ・ナズィルで報いられ、1803年にはカテルレッツ帰還が許された。

 ネクラソフはイズミル指揮官ペフレヴァノグルの支援でシーチを再度攻撃、略奪した。
 残ったザポロジュはブライロフ(現代ルーマニアのブライラ)に逃げた。

 新しい露土戦争(1806-1812)はダニューブ・コサックに更なる分裂を引き起こした。

 ロシアがダニューブを制圧し、コシュ・オタマンのトロフィム・ガイバドゥラとイヴァン・グバはロシアに忠誠を誓った。

 彼らはブドジャク地域への定住を許され、アレクサンドル1世の命令で、1807年、下流ダニューブ・ブドジャク軍団を形成。

 軍団の拠点のキリヤとガラツに農奴が逃亡することで、ウクライナとモルドヴァの土地所有者が苦情を言い、5ケ月しか軍団は続かなかった。当時軍団は1387男子を数えた。そのうち約500がクバンに移動。

 多くのネクラソフは許されて、ロシアに移動。

 1812年のブカレスト条約でブドジャクはロシア領となった。

 旧敵は依然強固で、ザポロジュ・ダニューブは再度、敵を攻撃、1813年、カテルレッツを奪い戻した。

 ザポロジはネクラソフの首都上ドゥナヴェツ(現在ルーマニア)を1814年、占領。そこにかれらは最後のシーチを築いた。

 多くのネクラソフ・コサックは後にアナトリアに移住、残ったものはダニューブ・コサックでリポヴァン人と古儀式派と融合。

 ギリシャ独立戦争ではダニューブ・コサックはトルコを支援。

 この時期、ダニューブ・シーチはその頂点に達し1万から1万5千男子を数えた。

 1828-1829年の露土戦争でダニューブ・コサックは親ロシア派と親トルコ派に分裂。

 1828年、コシュのオシプ・グラドキはダニューブを渡り、ニコラス1世に忠誠を誓った。

 彼らは許され、新しい特別ザポロジュ軍団を形成。

 グラドキに従うことを拒否したダニューブ・コサックには悲惨な運命がまっていた。シーチはイェニチェリによって破壊された。

 ニコライ1世は1828年、ダニューブ・コサック軍団を形成。これには1775年、ロシアに逃げたザポロジュの子孫が含まれ、更に、忠誠なネクラソフとバルカン人の多くの志願者も含まれた。

 1832年、グラドキはアゾフ海北岸に仲間を連れていき、そこでアゾフ・コサック・軍団が形成された。

<参考> トルコのコサック

 ドン・コサックのグループがピョートル大帝の改革に反対し、ブラヴィンの反乱(1707-1708)に参加。

 その敗北後、1737年から、ネクラソフ・コサクックとして知られる彼らの一部が以前住んでいたクバン地域からオスマン帝国に避難。

 1740年、一部のグループは黒海沿岸のコンスタンツァ(現ルーマニア)周辺に住み、他のグループは北西アナトリアのベイシェヒル湖沿岸に住んだ。

1883年、ルーマニアのグループは最初ベイシェヒル湖のマダ島に、ついで中央アナトリアのアクシェヒル湖沿岸に住んだ。

 一方、ザポロジュ軍団の解体とザポロジュ・シーチの破壊で5千のコサックがトルコ支配のダニューブ・デルタの逃亡し、そこに、スルタンは彼らがダニューブ・シーチを形成することを許した。

 ネクラソフとの数度の血なまぐさい衝突の後に、彼らのほとんどはロシアに戻るか、マニアスに再移動し、ギリシャ独立戦争で彼らはトルコ支援を支援、ダニューブ・シーチは1828年に終焉。一部はロシアに戻り、一方、他は中央トルコに移動し、強制労働に
従事。

<参考> ダニューブ・コサック軍団

 1828年に露土戦争(1828-1829)前に、ニコライ1世の命令でベッサラビアと特にブジャクに住んでいるザポロジュ・コサックの子孫から形成されたウクライナ人コサック軍団。

 下ダニューブ・ブジャク軍団という名のウクライナ人コサック軍団がそこで、1807年に形成されたが、すぐに解散されていた。

 軍団はネクラソフ・コサックとルーマニア人、セルブ人とブルガリア人のようなバルカン人の志願者も含んでいた。

 露土戦争後、軍団はベッサラビアとヘルソン・グベルニア国境の警護を任せられ、オデッサ、イズマイル、アッケルマンを前哨基地とした。

 1853-1856年の露土戦争でダニューブ・コサックはトルコ軍のダニューブ渡河を阻止。

 1856年のパリ条約でロシアはブジャクの一部を譲渡し、軍団はオデッサに撤退し、1856年にノヴォロシア・コサック軍団と改名。しかしやがて平和な時代の到来で、1868年、解散。

(*ドナウ・コサック軍団

 1828年にザドナウ・シーチのコサックから形成されドナウ川下流域に1868年まで存在。

 1775年、ザポロジュ・シーチの崩壊でザポロジュ・コサックの一部はドナウ川岸に移住、新しいシーチを形成。

 1803年、ドナウ河口を渡り、ロシア人逃亡者、教会分離派を追い払う。

 種々の地域からの逃亡者を集め、シーチは1万に達する。

 1806年、露土戦争開始でドナウ・コサックはロシア側に参加。戦後、一部は黒海コサック軍団に参加、一部はセルビア人、ギリシャ人、アルバニア人志願者とベッサラビアに留まる。

 1828年の露土戦争ではドナウ・コサックはロシア軍に参加。戦後、軍団はブジャク草原を与えられる。

 ザポロジュ・コサックの流れ(2)

(9-3-4) スロボダ・コサック

 ウクライナのロシアとの北東国境付近、ドン右岸とドネツ両岸の歴史的スロボダ・ウクライナに17-18世紀に位置したコサックで主に5連隊からなる。

 チェルカス(ドニエプル両岸)からのスロボダ・ウクライナへの移動は、ザポロジュ・コサックとポーランド・リトアニア共和国との衝突、ザポロジュ・コサックの内紛と外国軍(タタールとトルコ)との関係による。

 この荒野への移動の第一波はボグダン・フメルニツキーの反乱(1648-1657)のベレステチュコの戦い(1651)での敗北による。

第二はフメルニツキー死後のザポロジュ(ドニエプル)コサックの内戦(荒廃、1659-1687)による。

 1672-1681年の露土戦争でのチギリン遠征(1674-1678)、1680-1700年の露土戦争のクリミア遠征(1687、1689)、
アゾフ遠征(1695-1696)、ペルシャ遠征(1722-1723)など多くの遠征に参加。

 大北方戦争(1700-1721)やそのほかの当時多くの遠征に参加。

 スロボダ・コサックはロシアの南東国境をカルムイク、クリミアとノガイ・タタールから守っただけでなく、泥棒コサック(ドンとザポロジュ)からも守った。

 ピュートル1世のときに権利の一部が奪われた。1718年、ロシア将軍指揮下に入った。

 1765年、エカチェリーナ2世のときにコサック軍は正規軍となる。スロボダ・ウクライナ・グベルニアが形成される。

(9-3-5) ネクラソフ・コサック

 ネクラソフ・コサックはドン・コサックに由来、1707-1708年のブラヴィン反乱で敗れ、1708年、イグナト・ネクラソフに率いられクバンに逃げた。

当時、クリミア・ハン国がクバンを支配。後に他のドンからの逃亡者と逃亡ロシア農奴が参加。

 ネクラソフ・コサックは古儀式派で正教ロシア当局に迫害された。

 最初、ネクラソフ・コサックは大ラバ川右岸、その河口近くに住み、後にネクラソフを含む多くはタマン半島に移住。

 ネクラソフ・コサックはドン地域を含む近くのロシアの土地を襲撃し続け、ロシア軍は反撃した。

 その結果、1737年まで南ロシアから多くの逃亡者がクバンへ逃亡し、多数がネクラソフ・コサックに参加。

 1737年頃、ネクラソフ・コサックは絶えた。ネクラソフ共同体が解体し始めてすぐ後に、オスマン帝国へ移住した。

*トルコのコサック

 1740-1778年にトルコのスルタンの許可で、ネクラソフはオスマン領のダニューブに移動。ダニューブではドブルジャに住んだ。

 1775年のザポロジュ・シーチの敗北で、同じ場所にコサックが出現。両者で衝突が起き、多くのネクラソフは更に南に移動。

 ダニューブ川とティサ川、ドブルジャ

ザポロジア、右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、スロボダ・ウクライナ

<参考> ポドリアとブジャク

 ポドリア・エヤレト 1672-1699

 1672年、オスマン軍がカムヤネツィを占領。ブチャチュ条約でオスマン支配が確認され、新しいエヤレトの中心となる。

 ポーランド国会で条約が否認され、戦争が再開(1672-1676年のポーランド・オスマン戦争)。

 ポーランドの遠征は不成功で、ジュラヴノ条約でポドリアはオスマン領に留まった。

 1683年にまたポーランド・オスマン戦争(1699年まで)が勃発、1699年のカルロヴィッツ条約でポーランドがポドリアを取り戻す。

 1793年のポーランド分割で西部はハプスブルク、東部はロシアへ渡る。

 シリストラ・エヤレト

  1593年、シリストラ・エヤレトはオズィのベイレルベイリクとして形成され、1599年頃拡大、エヤレトとなり、 ドブルジャ、
 ブジャク、エディサンを含む。

  小ノガイから生じたエディサン・オルダは1728年からドニエプル、南ブグとドニエステルの下流の間の草原を占領していた。

1768-1774年の露土戦争で、オルダは1770年、ロシア帝国の保護権を認めてクバンに移住。

  1774年、キュチュク・カイナルジ条約で南ブグとドニエプルの間のエディサン東部はロシア併合。

  クリミア・ハン国はオスマンから独立。

  1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合。

  露土戦争(1806-1812)の結果、1812年、エディサンとブジャク(南ベッサラビア)はロシアに渡される。(ブカレスト条約)

  1853-1856年のクリミア戦争の結果、パリ条約でベッサラビア南部はモルダヴィア公国へ返還。

  1878年、ベッサラビア南部は再びロシアへ。(ベルリン条約)

参考 →露土戦争

ポドリアとシリストラ・エヤレト

キュチュク・カイナルジ条約(1774年)
ピンク:ロシア、緑:トルコ、黄と緑斜線はクリミア・ハン国(独立、事実上ロシア従属)、ピンクと緑斜線はロシアが獲得、

ブカレスト条約 』