スコットランド君主一覧

スコットランド君主一覧
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『スコットランド君主一覧では、スコットランド王国の国家元首を列挙する。

伝承によれば、ケネス1世(ケネス・マカルピン)が最初のスコットランド王であり、843年に建国したとされている。

アルバ王国ないし スコットランド王国とピクト王国の区別は、後世の中世の神話や命名法の変化による混乱によって生じたものに過ぎない。

すなわち、ラテン語ではなく現地語によって記録がなされるようになった9世紀末ころに、ドナルド2世の治下で「Rex Pictorum」 (ピクト王)という称号が「ri Alban」 (アルバ王)に変更されたのであるが、この時代には、ゲール語における「アルバ」はブリテン(古い意味での)を意味するのではなくピクト王国を意味するようになっていたのである[1]。

したがって、ピクト王国はそのままゲール語でアルバ王国と呼ばれるものであり、後に英語でスコットランド王国と呼ばれるものなのである。

これらの用語は両言語において今日まで保持されている。

遅くとも11世紀後期から、スコットランドの王はラテン語で自身を「rex Scottorum」、すなわち「スコット人の王(King of Scots)」と称していた。

「スコット人の王(King of Scots)」の称号が廃止されたのは、1707年、イングランド王国とスコットランド王国が統合してグレートブリテン王国となった時である。

かくしてアンはスコットランドの最後の君主(さらにはイングランドの最後の君主)となり、最初のグレート・ブリテンの君主となった。

両王国は1603年以来、同君連合となっており、1651年にスクーンで戴冠したチャールズ2世が、実際にスコットランドにおいて戴冠した最後の君主であった。 』

(※ ちょっと長いので、途中から)

『ステュアート朝

1371年 – 1567年

ロバート・ステュアートはロバート1世が後に儲けた娘マージョリーの息子である。

1316年に生まれたロバート・ステュアートは叔父のデイヴィッド2世よりも年上で結果的には老齢に達すると精力的に統治するのが困難となり、この問題はまた息子のロバート3世が落馬で負傷したことで生ずることになった。

これらの2つのことは若い王が後継したことで生じる摂政統治が連続することになった。

最終的にはステュアート朝の時代は王室が不活発の時期が見られ、この間に貴族は王から力を奪い、これは君主による個々の支配期間により続いた。

この間で王ないし女王は自身が幼少であることと以前の長い統治の結果でよって生ずる問題に接しようと試みた。

貴族の力が扱いにくくなったことによりスコットランドの治世は次第に困難になった。

ジェームズ1世は王国の混乱を納めようとしたものの暗殺され、ジェームズ3世は息子のジェームズ4世が率いる貴族との内戦で殺され、そのジェームズ4世は厳格に統治し且つ貴族を抑圧してフロドゥンの戦いで戦死し、ジェームズ4世の妃でジェームズ5世 の摂政に任命されたマーガレット・テューダーは貴族に追われ、ジェームズ5世の妃であるメアリー・オブ・ギーズは自身の幼い娘であるメアリー1世の摂政である間、貴族の派閥が分裂して制圧され、更には豊富なフランスの賄賂が撒かれたことでスコットランドの支配を継承した。

最終的にジェームズ5世の娘であるメアリー1世は貴族に尊大な態度で接し且つカルヴァン派に好意的でメアリー1世が奉じるカトリックを認めない住民と妥協しなかったことで自身が統治することが出来ないことを悟った。

メアリー1世は退位してイングランド女王エリザベス1世のもとに亡命した。メアリー1世の退位で幼少の息子のジェームズ6世がスコットランド王になった。 』

『1567年 – 1651年

レノックス伯系ステュアート家はステュアート家の分家であるが、初代スコットランド王ロバート2世の男系子孫ではなく、その祖先である第4代王室執事長アレグザンダー・ステュアートの男系子孫である。

過去にはフランスとの古い同盟の手段を介して一族はフランス語から来るStuartを姓に用いた。

最終的にはレノックス伯マシュー・ステュアートの息子であるダーンリー卿ヘンリーがメアリー1世と結婚したことで、レノックス伯系ステュアート家の最初の王となる彼らの息子はステュアート家として統治した。

1603年にジェームズ6世はエリザベス1世の死後、イングランド及びアイルランドの王ジェームズ1世となったが、イングランドとスコットランドの2つの王冠は分離しており、君主による統治は主にイングランドに基盤を置いた。

ジェームズ1世の息子のチャールズ1世は内戦に直面し、これが8年間続いた結果、チャールズ1世の処刑で終わった。

イングランド議会は自国の君主制の終焉を布告したが、スコットランド議会は幾度か熟考した結果、イングランドとの連携の輪を絶ち、チャールズ1世の息子であるチャールズ2世を自国の王であると宣言した。

チャールズ2世はオリヴァー・クロムウェルによってスコットランドを追われる1651年まで統治した。 』

『復古ステュアート朝 (1660年 – 1707年)

王政復古の結果、ステュアート家は再びスコットランドの王位についた。

しかしながらスコットランドの統治は尊重されなかった、スコットランド議会はチャールズ2世の統治中に解散させられ、その弟であるジェームズ2世はスコットランドに総督を派遣した。

ジェームズ2自身は1685年 にスコットランド王ジェームズ7世となった。

そのカトリック主義は非寛容であったために3年後にイングランドを追われた。

イングランド王位にはジェームズ7世の娘のメアリーとその夫でオランダ総督であるウェレムが就いた。夫妻はスコットランド議会による審議の後にスコットランドの君主であることを受け入れ、メアリー2世及びウィリアム2世として共に統治した。

イングランドに対抗する形でのダリエン計画を通してのスコットランド植民帝国を築こうとした試みは失敗し、スコットランドは国として破産した。

このことはジェームズ7世の娘であるアンの女王即位と符合する。

アンには多くの子供がいたが誰一人生き残らなかった、アンが死ぬと後継者は異母弟の ジェームズであった。

後継者として、イングランドはプロテスタントのゾフィー(ジェームズ6世の孫)を支持し、スコットランドはスコットランド人を祖先とするステュアート家のジェームズの方を好み、イングランドとスコットランドの王冠の合同は崩壊する恐れがあった。

合同を維持するためにイングランドはスコットランド・イングランド両王国が共通の君主と唯一の議会が統治するグレートブリテン王国として合併する計画を練った。

両国民議会はこの案に同意し(スコットランドは不本意だったが、第一に財政が動機付けた)、スコットランド王国はイングランドと合併して消滅した。それ以降は、君主はスコットランド国家全体を統治したが、それは連合王国としてである。 』