北朝鮮コロナ患者数に疑い別の感染症も、韓国情報機関

北朝鮮コロナ患者数に疑い
別の感染症も、韓国情報機関
https://nordot.app/899881446931775488?c=39546741839462401

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 今度は、腸チフス説か…。

 ※ 難儀な話しだ…。

 ※ まずは、「何の疾患か」を確定しなければ、「治療方針」も定まらないだろうに…。

『【ソウル共同】韓国の情報機関、国家情報院は19日、北朝鮮が発表している新型コロナ感染が疑われる発熱患者数の中に、腸チフスなど別の感染症病患者が相当数含まれているとの見方を明らかにした。

 国情院が非公開の国会情報委員会に報告した内容を、出席議員が明らかにした。北朝鮮でコロナ感染拡大が始まったとされる4月末より前から、腸チフスなどの感染症がまん延していたためという。

 北朝鮮が発熱者数を発表することについては「管理している姿勢を市民に示し、落ち着かせるため」とし、対外支援を訴えるためではないと指摘。コロナ感染のピークは5月末から6月初めとの推定も明らかにした。』

北朝鮮、ICBMに燃料注入か

北朝鮮、ICBMに燃料注入か
核実験準備も、米韓当局警戒
https://nordot.app/899870737204854784?c=39546741839462401

『【ソウル共同】韓国の聯合ニュースは19日、北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(ICBM)に燃料を注入する状況を米韓当局が把握したと伝えた。発射準備を終えたとみられるとしている。米韓両軍が警戒を強めている。

 韓国の情報機関、国家情報院も19日、コロナ拡散にもかかわらずミサイル発射の兆候があり、核実験の準備も全て終え実施のタイミングを見計らっている段階だとの見方を示した。国会情報委員会に非公開で報告し、出席議員が明らかにした。

 韓国大統領府高官は18日、バイデン米大統領の日韓訪問を前に、北朝鮮によるICBMを含む飛翔体の発射が差し迫っているとの見方を示している。』

北朝鮮の発熱者減少せず 1日26万人、累計200万人迫る

北朝鮮の発熱者減少せず 1日26万人、累計200万人迫る
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM190FV0Z10C22A5000000/

 ※ 支援は、「中国頼み」のようだ…。

『【ソウル=甲原潤之介】北朝鮮の朝鮮中央通信は19日、新型コロナウイルスの感染が疑われる新たな発熱者を17日夜以降の1日間で約26万2270人確認したと報じた。1日あたり20万人を超すのは5日連続で、感染者が減少する兆候はみられない。

発熱者数は4月末からの累計で約197万8230人となり、200万人に迫る。うち74万人超が現在も治療中という。死者数は1人増え、合計63人になったと公表した。

北朝鮮全域で隔離病棟が増設され、消毒薬や体温計、薬の増産が進んでいると報じた。厳格な防疫態勢を敷きながら工場での生産や営農活動を維持する取り組みも紹介した。

1日あたりの新たな発熱者数はピーク時の約39万人から減り、北朝鮮の中枢メンバーで構成する政治局常務委員会は17日の会議で状況が「好転」したと評価していた。19日発表の新規発熱者数は前日比でみると再び増加に転じた。

韓国の聯合ニュースによると、韓国の情報当局は北朝鮮の死者数が公開された数値より5~6倍多いとみている。

韓国メディアなどによると北朝鮮は中国から医薬品の輸送を始めている。韓国大統領府高官は18日、韓国に加えて米国も北朝鮮にワクチン供給などの支援を打診したが、北朝鮮から回答がないと明らかにした。

韓国外務省は18日夜、趙賢東(チョ・ヒョンドン)外務第1次官が米国のシャーマン国務副長官と電話協議したと発表した。国際社会とともに北朝鮮への人道支援策を緊密に協議する方針を確認した。

【関連記事】

・北朝鮮コロナ拡大、薬供給で軍投入 発熱者1日27万人
・コロナ治療「愛の不死薬」で 北朝鮮、忠誠心を鼓舞
・北朝鮮、発熱1日23万人 金正恩氏「初期対応が未熟」 』

米主導連携をけん制 中国高官、電話会談で

米主導連携をけん制 中国高官、電話会談で
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022051900012&g=pol

『【ワシントン、北京時事】サリバン米大統領補佐官(国家安全保障担当)は18日、中国の楊潔※(※竹カンムリに褫のツクリ)共産党政治局員と電話で会談し、ロシアのウクライナ侵攻などについて協議した。

楊氏は東京で24日に開かれる日米豪印4カ国(クアッド)首脳会議を念頭に「徒党を組み、敵対するいかなるたくらみも思い通りにいかない」とけん制した。米中両政府が発表した。

中国空母活動、常態化を警戒 台湾有事想定訓練か―日米試す動きも・防衛省

 中国外務省の発表によると、楊氏は「台湾問題は中米関係において最も核心的な問題だ」とも指摘。

「台湾カードに固執し、誤った道を一層歩むなら、情勢を危険な境地にまで導く」と米側に警告し、バイデン政権の姿勢に反発した。

 一方、サリバン氏は18日の記者会見で、北朝鮮が核実験や長距離ミサイル発射を近く行う恐れがあり、電話会談では「北朝鮮問題も取り上げた」と明らかにした。

北朝鮮が軍事挑発を自制するよう、サリバン氏は「後ろ盾」である中国に影響力を行使することを求めたもようだ。

 サリバン、楊両氏の会談は3月にローマで行われて以来。』

中国爆撃機が沖縄-宮古間通過 空母「遼寧」と連携か

中国爆撃機が沖縄-宮古間通過 空母「遼寧」と連携か―防衛省
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022051801095&g=soc

『防衛省統合幕僚監部は18日、中国空軍のH6爆撃機2機が沖縄本島と宮古島の間を通過したと発表した。爆撃機は東シナ海方向から南下し、沖縄南方の太平洋上を周回飛行して戻った。周辺の海域では、今月初めから空母「遼寧」など中国海軍の艦艇が活動を続けており、同省は関連を含め、詳しく分析している。

昨年度の緊急発進1000回超え 過去2番目、中国機増で―防衛省

 同省によると、中国機の沖縄―宮古間通過は2月以来。航空自衛隊の戦闘機が対応し、領空侵犯はなかった。爆撃機は対艦ミサイルのようなものを搭載していたという。
 遼寧は沖縄南方の太平洋上を移動しながら、艦載機の発着艦を200回以上実施。爆撃機は周辺を飛行しており、連携して探知や戦闘の訓練を行った可能性がある。 』

一帯一路「完全に支持」 東ティモール次期大統領に聞く

一帯一路「完全に支持」 東ティモール次期大統領に聞く
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM188FD0Y2A510C2000000/

『【ディリ=地曳航也】東南アジアの東ティモールで5代目の大統領に就くラモス・ホルタ氏は日本経済新聞のインタビューに応じた。

インフラ整備に向け中国の広域経済圏構想「一帯一路」への期待感を表明。2023年までに東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟を実現したい意向を示した。

東ティモールは20日に隣国インドネシアから独立して20年を迎える。ホルタ氏はジャーナリストなどを経て独立運動に尽力し、1996年に同国出身のベロ司教とともにノーベル平和賞を受賞した。今年3~4月の大統領選で当選し、20日に2度目の大統領職に返り咲く。

ホルタ氏は自らも大統領として携わった独立後20年の国づくりについて「平和と安定」を成果として強調した。「政治的過激派は存在せず、民族や宗教間の紛争もない」と述べた。大統領選や議会選を通じた政権選択が定着し「活気に満ちた民主主義が機能している」と訴えた。

東ティモールはオーストラリア北方、西太平洋の要所に位置する=共同

一方で民主主義の代償にも直面する。政党が議会での多数派争いを繰り返した結果、国政が停滞。歳入の9割を占める石油・天然ガスの収入に依存する経済構造から抜け出せていない。ホルタ氏は「経済面で良い結果を残せたとは言えない」と率直に認めた。

国際通貨基金(IMF)によると独立後、10%を上回ることもあった実質国内総生産(GDP)の成長率は2010年代半ばから鈍化し、20年は新型コロナウイルス禍で前年比8.6%のマイナスに陥った。国民の4割は貧困層とされ、ホルタ氏は新産業の育成に本腰を入れる考えを強調した。

「200億ドル(2兆6000億円)規模の石油基金があり、国家財政は向こう10年は余裕がある」と指摘。今後5年で農業と教育に集中的に投資する意向を表明した。食料の輸入依存を転換し、100%の自給率をめざすほか、デジタルや人工知能(AI)など最先端技術に精通した人材を育てる。

平均年齢が約20歳という若い人口構成をテコに外国から投資を呼び込む方針だ。ホルタ氏は「我々は地域や世界の対立には関わらない。あらゆる国からの協力、支援、貿易を歓迎する」と話した。

ASEAN加盟に関し「23年末にも実現したい」と語り、近隣の巨大市場への統合に期待感を示した。ASEANの新規加盟には参加全10カ国の承認が必要だ。東ティモールは11年に加盟申請したが、組織内の格差拡大や会議の運営能力などへの懸念から、一部の国で慎重論があがっている。

成長の基盤となるインフラの整備に向け、中国の一帯一路に賛意を表明した。「習近平(シー・ジンピン)国家主席の傑出したビジョンで、完全に支持する」と述べた。「米国も懐疑的になるのでなく、協力して北米、中南米を一帯一路でつなげるべきだ」と訴えた。
中国企業は東ティモールで発電所や港湾、高速道路など基幹インフラの建設を担う。

ホルタ氏は「中国への利払いはゼロだ」と語った。整備費用の大半を自国でまかなっていると主張し、中国が一帯一路を手がける一部の国が陥っている「債務のわな」への懸念を打ち消した。

中国と東南アジアの一部の国が対立する南シナ海の問題をめぐり、平和的解決を促した。
「南シナ海の軍事化は非常に危険で、中国は善意ある超大国になるべきだ」と指摘した。
ロシアのウクライナ侵攻に関し「国の利益を正当化するために武力に訴えるべきではない」と批判した。

同国ではホルタ氏のほか独立の英雄で初代大統領のグスマン氏や、初代首相のアルカティリ氏ら「建国世代」が、なお国政に強い影響力を持つ。

ホルタ氏は「若手は育てるのでなく育つものだ」と指摘。次世代の自発的な成長を促し、選挙を通じた世代交代を訴えた。

▼東ティモール 2002年にインドネシアの統治を脱却した21世紀最初の独立国で、人口約130万人、面積約1万5千平方キロメートルと、ともにおおむね岩手県と同じ規模。16世紀以来のポルトガル支配の終結を受け1975年に独立を宣言したが、翌76年にインドネシアが武力併合した。99年の住民投票で独立を決め、日本も国連平和維持活動(PKO)として陸上自衛隊を派遣し国づくりを支えた。キリスト教徒が99%で、地元のテトゥン語とポルトガル語を公用語とする。首相が行政権を担う一方、大統領は首相を任命し、立法府への拒否権を持つ。』

レバノン

レバノン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3

『レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة اللبنانيّة‎)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家[3][4][5][6]。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。』

『概要

レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた[7]。レバノンの面積はわずか10,452 ㎢ で、アジア大陸で最も小さな主権国家として認められている[3][4]。

レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前にさかのぼる[8]。

レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3,000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。

紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。

レバノン山脈では、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブのイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人は自分たちの宗教とアイデンティティを維持した。

しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派がレバノン山にも定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。

十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。

レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。

第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた。

フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。

1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。

ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。

レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年~1990年)によって崩壊した。

この戦争は部分的にシリア(1975年~2005年)とイスラエル(1985年~2000年)による軍事占領につながった。

レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている[5]。

内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた[9]。

また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した[10]。

終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため[11]、中東の金融センターとして栄えた時期もある[12]。

紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。

しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。

通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている[12]。

レバノンは1945年に国連の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。 』

『歴史

詳細は「レバノンの歴史」を参照

古代オリエント世界

ティルスの凱旋門。

現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。

この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ[† 1]・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成した。

その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれた[† 2]。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。(ただし、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、安宅産業綻後、月刊プレイボーイのインタビューの中で自らをフェキア人の末裔だと、誇りをこめて述べているのは、その一例と言える。※ カルロス・ゴーンも、そうだったな…。)

バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となり、古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。

レバノンのアラブ化

レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。

19世紀頃からマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。

OETA北
詳細は「占領下敵国領政庁(英語版)」を参照

現代レバノン史は1918年のフランスの占領とともに始まった(OETA北)。

第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議でアメリカ・イギリスの関係者とマロン派大司教のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入れることが話し合われた。

シリア王国の独立

1920年3月8日、シリア・アラブ王国(英語版)がハーシム家のファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争(英語版)でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日に4ヶ月あまりで瓦解した。

フランス委任統治領時代

詳細は「フランス委任統治領大レバノン」を参照
「フランス委任統治領シリア」も参照

キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り離されて大レバノンとすることになった。

この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。

こうした経緯から、現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン国(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された[† 3]。1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。

1923年9月29日に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノン、フランス委任統治領シリア)。

1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。

1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国(仏: République libanaise)が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた。[13]

独立

委任統治は第二次世界大戦中の1941年6月8日に、本土がドイツ軍の占領下にあり、亡命政府となった自由フランスの統治下にあったシリア、レバノンの独立宣言とともに終了した。

1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。

連合国として自由フランスを支援していたイギリスは、宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に軍人を両国の公使として派遣し両国を支援した。

その後、1943年11月22日に正式に独立した。

大戦後のレバノンは自由経済を採用し、金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「中東のパリ」と呼ばれるようになった。

1970年代までの中東戦争により、レバノン南部を中心にPLOをはじめとしたアラブ・ゲリラの基地が多数建設された。

1972年9月16日、イスラエル軍はミュンヘンオリンピック事件の報復の一環としてレバノン南部に地上侵攻。レバノン軍は反撃を行ったが、イスラエル軍の攻撃対象はアラブ・ゲリラ基地であり、攻撃を短期間で終了させると直ちにイスラエル領内へ引き揚げている[14]。

内戦と戦争

「レバノン内戦」も参照

レバノン内戦によって破壊された首都ベイルート(1978年)

しかし、中東戦争、ヨルダン内戦に伴うパレスチナ解放機構(PLO)の流入によって、国内の微妙な宗派間のバランスが崩れ、1975年にムスリムとマロン派の間で発生した衝突が引き金となってレバノン内戦が勃発した。

隣国シリアが平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル国防軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、元より寄り合い所帯である中央政府の力が弱かったこともあり、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する状態となった。

これに周辺各国やアメリカ合衆国、欧州、ソビエト連邦など大国の思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続いたため、国土は著しく荒廃し、経済的にも大きな打撃を受け、「中東のパリ」の栄華は失われた。

また、シリアやイランのイスラム革命防衛隊の支援を受けたヒズボラなどのイスラム過激派が勢力を伸ばした。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻(レバノン戦争(英語版)。ガリラヤの平和作戦とも)、西ベイルートを占領(英語版)した。

イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。

この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが(レバノン駐留多国籍軍(英語版))、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い(駐レバノンアメリカ大使館爆破事件(英語版))、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。

結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。

1990年にシリア軍が再侵攻(英語版)、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。

シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判を受けた。

シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「パクス・シリアーナ(シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。

1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦(英語版))。

この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍のフィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。

イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。

1992年10月末、ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーへの組閣を要請した。

その後反シリア派のハリーリーがレバノンの首相としてレバノン経済を立て直した。

経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。

この計画は「ホワイトゾン2000」[† 4]と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。

他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズボラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。

一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。

国の借金もハリーリーが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。

2003年9月2日、国連安保理の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する安保理決議1559号[† 5]が採択された。

ハリーリーが2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「杉の革命」と呼ばれる抗議運動が始まった。

その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であるとも目された)シリア軍のレバノン駐留に対し国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。

結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙ではシリアの威嚇も意に介さず、ハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。

しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラ等から6人の親シリア派閣僚を受け入れざるを得なかった。

「杉の革命」も参照
イスラエル軍による空爆(2006年)

2006年7月にヒズボラがイスラエル軍の兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(2006年のレバノン侵攻)。

続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港などの公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。

7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。

しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。

7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。

7月30日にはカナが空爆され、54人が死亡した。

直後にイスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。

8月13日にイスラエル・レバノン両政府が国連安保理の停戦決議受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍は撤収した。

2000年代-2010年代のレバノン

この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、ファランヘ党創設者の一族で、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・アミーン・ジュマイエル(英語版)産業相が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。

さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。

こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。

対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。

2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。

レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済的回復を進めている。

2019年、en:2019 Lebanese protestsが起きた。

2020年代のレバノン

2020年3月7日、レバノン政府は2日後の3月9日に償還期限を迎える外貨建て国債(12億ドル相当)の支払い延期を発表。内戦時にさえ起らなかったデフォルト状態となった。

原因は、GDPの170%近くに膨らんだ債務による財政危機、それを背景とした外貨準備高の急減など[17]。

これを受けてレバノン・ポンドは暴落。対ドル公式レートでは1ドルに対して1507レバノン・ポンドに設定されているものの、6-7月頃には闇レートで1ドルが8000レバノン・ポンド超に急落し、食料品などの多くを輸入に頼るレバノン経済には大きな負担となった。

同年6月30日には、レバノン軍が兵士に提供する食事から肉が抜かれることが発表された[18]。

2020年8月4日にレバノンの首都ベイルートの湾岸地帯で大規模な爆発が2回発生、207人が死亡し、6500人以上が負傷した。

衝撃は280キロ離れた地中海のキプロス島にも伝わった。杜撰に貯蔵されていた硝酸アンモニウムが原因だった。被害総額は数十億ドル規模に上るとみられている。

同月6日には爆発を契機とする大規模な反政府のデモが発生。参加者らと治安部隊が衝突した[19]。 デモ隊は外務省、環境省、経済省を占拠し、銀行協会のビルに放火した。ディアブ首相はデモ発生から数時間後、選挙の前倒しを表明した[20]。

2020年8月6日に仏大統領が大規模爆発で壊滅的な被害を受けたレバノンの首都ベイルートを視察した。支援を約束するとともに、レバノンの政治や社会の改革を要請した。マクロンが大きな被害を受けた薬局を視察した際には、外に集まった市民が怒りを爆発させ、自国の政治家らを「テロリスト」と非難。「改革」や「国民は政権の終わりを望んでいる」といった声が響いた。

2020年8月10日にディアブ首相が内閣の総辞職を発表した[21]。

詳細は「2020年ベイルート爆発」を参照 』

『政治

詳細は「レバノンの政治」を参照

統治機構

議会

大統領を元首とする共和制国家であり、国会は大統領の選出、政府(内閣)の承認、法案、予算の承認を行う。任期は4年。現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。

国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。

この大統領・首相(行政の長)・国会議長のトロイカ体制は、内戦を終わらせた1990年のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。

しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる[22]。
総選挙は大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。

選挙の段階は選挙区改変(ゲリマンダリング)、候補者リスト作成の2段階を経る。

前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。

後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。

1996年の国会議員選挙

1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、ベッカー地区23、南部地区23、北地区28、山岳レバノン地区35に配分されることになった。

1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では野党が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合とその支持勢力が23議席すべてを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した[23]。

1998年の地方選挙

1998年5月と6月に地方選挙[† 6]が行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズボラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、トリポリではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズボラが親シリア派に敗れた。 投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、民主主義が浸透しているものと評価された[24]。

2000年の国会議員選挙

2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。

1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。

ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。

また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。

2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。

19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派がおさえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した[25]。

政治潮流と政党

「レバノンの政党」も参照

ハリーリー元首相暗殺事件まで

2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。

(1)ル・ブリストル会合派(対シリア慎重派) 〔 〕内は代表・党首。
    進歩社会主義党(PSP, 民主会合ブロック)〔ワリード・ジュンブラート〕
    民主刷新運動
    ターイブ改革運動
    レバノン軍団(LF)〔サミール・ジャアジャア〕
    民主フォーラム
    国民ブロック党

など計9政党・ブロック

(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派(親シリア派)
    アマル運動(抵抗開発ブロック)〔ナビーフ・ビッリー国会議長〕
    ヒズボラ(抵抗への忠誠ブロック)〔ハサン・ナスルッラー〕
    マトン・ブロック
    トリポリ・ブロック
    バアス党
    レバノン民主党
    ターシュナーク党
    シリア民族社会党
    ナセル人民機構
    レバノン・カターイブ党

など計15政党・ブロック

(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流(中立派)
    ムスタクバル潮流(ベイルート決定ブロック)〔ラフィーク・アル=ハリーリー(当時)〕
    自由国民潮流〔ミシェル・アウン(当時仏に亡命中)〕

ハリーリー元首相暗殺事件後

2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。

内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。 さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。

こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。

(1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)

上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流

(2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)

シリア軍撤退後

2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。

シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。 一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。

つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。

結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。

(3)「四者同盟」を中心とする「与党」
    ムスタクバル潮流((1)3月14日)
    進歩社会主義党((1)3月14日)
    レバノン・カターイブ党((1)3月14日)
    レバノン軍団((1)3月14日)
    アマル運動((2)3月8日)
    ヒズボラ((2)3月8日)

など

(4)「変化改革ブロック」を中心とする「野党」
    自由国民潮流((1)3月14日)
    人民ブロック((2)3月8日)
    マトン・ブロック((2)3月8日)
    バアス党((2)3月8日)
    ナセル人民機構((2)3月8日)
    シリア民族社会党((2)3月8日)

など
2006年2月〜

シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度に渡り麻痺に陥った。

1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。

このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。 その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。

(1)「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
    ムスタクバル潮流
    進歩社会主義党
    民主刷新運動
    レバノン・カターイブ党
    レバノン軍団(LF)
    民主フォーラム
    国民ブロック党

など計12政党・ブロック

(2)「3月8日勢力」(親シリア派)
    アマル運動
    ヒズボラ
    自由国民潮流((4)変化改革ブロック)
    マトン・ブロック((4)変化改革ブロック)
    トリポリ・ブロック((4)変化改革ブロック)
    バアス党
    レバノン民主党
    ターシュナーク党
    シリア民族社会党
    ナセル人民機構

など計12政党・ブロック

※以上の分析は青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』 (岩波書店〈アジア経済研究所叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5) によった[要ページ番号]。
2009年8月〜

2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。 [26]

「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
    ムスタクバル潮流
    ハンチャク党
    民主左派運動
    ラームガヴァーン党
    レバノン軍団(LF)
    心のザフレブロック
    国民合意ブロック

など

「3月8日勢力」(親シリア派)
    アマル運動
    ヒズボラ
    自由国民潮流
    バアス党
    レバノン民主党
    マラダ潮流
    団結党
    ターシュナーク党
    シリア民族社会党

など

無所属
    進歩社会主義党
    レバノン・カターイ

    ブ党
    団結ブロック 』

(※ 中間を省略。)

『地理

地形図

詳細は「レバノンの地理」を参照

西に地中海、南はイスラエルと接し、その他はシリアに囲まれている。その形状は南北217キロメートル、東西の幅32〜56キロメートルという帯状を成している。面積は約10,400㎢で、日本でいえば岐阜県の面積とほぼ同じである。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。

西部にはレバノン山脈が、東部のシリア国境周辺にはアンチレバノン山脈が走り、その間にベッカー高原が存在する。国内最大の河川はリタニ川である。

ケッペンの気候区分によれば、ほぼ全土が地中海性気候である。

地方行政区分

レバノンの地図。
詳細は「レバノンの県」および「レバノンの都市の一覧」を参照

レバノンは9つの県 (ムハーファザ、muhafaza) に分かれる。

アッカール県(ハルバ)
バールベック=ヘルメル県(バールベック)
ベイルート県(ベイルート)
ベッカー県(ザーレ)
ケセルワン=ジュベイル県(ジュニーエ)
山岳レバノン県(バアブダー(英語版))
ナバティーエ県(ナバティーエ(英語版))
北レバノン県(トリポリ)
南レバノン県(サイダ)

その他の主要都市

ジュベイル(ビブロス)
バールベック
ザハレ
サイダ(シドン)
ティール(ティルス)
カナ 』

『経済

レバノンの首都ベイルート。

詳細は「レバノンの経済(フランス語版、英語版)」を参照

主な産業はオレンジやブドウの農業、また観光業や中継貿易である。

19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。

レバノンはまず農業国として成立したが、世界大戦後は第三次産業が活況を呈した。

戦後のレバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。

このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。

しかし、1975年から続いた内戦によって、国内の産業・経済は壊滅し、人材や駐在企業の多くが他国に退避したため、その地位は失われた。

現在レバノン政府は、内戦やイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光施設の充実を図るなど経済復興を進めている。

またレバノン人は投資家、商人として南アメリカや独立間もないアフリカ諸国に移住し、現地で財を成しており、これら在外レバノン人からの送金も国家財政を大きく支えている。 』

『国民

詳細は「レバノンの人口統計(英語版)」を参照

民族

複雑な宗派対立を繰り返してきた歴史から、レバノンは1932年以来総人口の統計を除いた国勢調査を行っておらず[28]、現在に至るまでその時のデータを元にして政治権力の分配が行われている[29]。

国勢調査の大綱では、1924年8月の時点で大レバノン域内に居住していた住民に加え、国外へ移民した人々もレバノン国民とされた。

実際の調査がどのように行われたかは不明だが[29]、政治学者のラニア・マクタビは、既にレバノンを去ったキリスト教徒移住者を加えることで、ムスリムとの人口比率を操作したとものと推測している[30]。

レバノン人離散

遥か昔から多くのレバノン人が紛争などの理由でアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ(英語版))、各地で影響をあたえている。特にブラジルには、レバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。

シリアからの難民

国民ではないが、隣国シリアでの内戦から逃れてきた総勢100万人とも言われる難民の一部が、レバノンに大量に流入している。これらの難民の流入によって、レバノンの人口は10%も増加した[31]。また、同国でのシリア人難民少女の24%は、18歳までに強制的に結婚させられているという深刻な問題を抱えている[32]。

言語

詳細は「レバノンの言語(フランス語版)」を参照

公用語はアラビア語で、話し言葉(アーンミーヤ)はレバノン方言である。人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。

フランス統治時代に広まったフランス語(レバノン・フランス語(英語版))は教育やメディア、ビジネス等で日常的に使用され、準公用語的な地位を占めており、フランス語圏に分類される。

他にアルメニア語、ギリシャ語、クルド語、アラム語なども話されている。

また、英語を流暢に話す国民も多い[33]。

宗教

聖エリアス大聖堂と聖グレゴリー大聖堂(英語版)
詳細は「レバノンの宗教(英語版)」を参照

国民の54%がイスラム教、40.4%がキリスト教、5.6%がドゥルーズ派ほか他宗教。キリスト教の内訳はマロン派(マロン典礼カトリック教会)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ローマ・カトリック(ラテン典礼)なども存在する。正教会信徒はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。

「Category:レバノンの正教徒」も参照

宗教構成(レバノン)

イスラム教シーア派・スンニ派

54%
キリスト教諸派

40.4%
ドゥルーズ派・その他

5.6%

アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア使徒教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持と主張し、事実ファランヘ党などとは距離をおいていた)。

また、イスラム教にはスンナ派、シーア派のほかドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する。後者2派がイスラム教の枠に入るかどうかは教義的には議論が分かれ、異端と見なす向きも多いが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。

アラウィー派は独立時にはレバノンの政治構成要素ではなかったため、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内・同胞という意識を有していない。

同派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。
シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきたが、それでも国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。

シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、ようやく2議席があてがわれた。

他、少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。

「レバノンの信教の自由(英語版)」も参照

教育

詳細は「レバノンの教育(英語版)」を参照

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である[34]。

主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(英語版)(1951年)などが挙げられる。

ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。アメリカン・スクール、ブリティッシュ・スクール、フランス系ミッションスクール、イタリアン・スクール、ジャーマン・スクール、トルコ系スクール等々で、これらの学校では自国の子弟だけでなく、門戸を広く開放している[35]。

保健

詳細は「レバノンの保健(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

社会

詳細は「レバノンにおける社会(英語版)」を参照

レバノンにおける社会文化では、家族生活は非常に重要なものとして捉えられており、特に父系の親族グループの存在は、レバノン人のアイデンティティを構築するものとして注視されている。家族は、レバノン社会において集産主義の価値などに関連している面を持つ[36] 。

[icon]

この節の加筆が望まれています。

治安

レバノンの治安は不安定さが著しい状態となっている。

レバノンでは犯罪件数等に関する統計を公表していないが、連日各種犯罪の発生について報じられている一面がある。

また、レバノン国内の経済・財政危機が深刻化し、燃料不足や停電、食料品および医療品等の生活必需品の不足・高騰が生じているなどの背景もあり、国内全域において窃盗、薬物犯罪(英語版)等の各種犯罪が増加傾向にある。

一方、過去の内戦の影響により国内には銃器が出回っている為、強盗や傷害事件では銃器を使用したケースが多く見られる他、死傷者を伴う銃撃事件等も発生している。

その他にも、薬物関連の犯罪が深刻化しており、バイクによるひったくり事件も確認されている[37]。

[icon]

この節の加筆が望まれています。

人権

詳細は「レバノンにおける人権(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

女性の権利

詳細は「レバノンの女性(英語版)」を参照

レバノンの女性は1953年2月8日付で女性参政権を獲得しているが、ヒューマン・ライツ・ウォッチからは「レバノン当局が『女性を暴力から保護し女性に対する差別をなくす』法的義務を果たせていない」と報告されている[38]。

なお、レバノン政府は国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」第16条を未だ導入していない[39]。

[icon]
この節の加筆が望まれています。

マスコミ
詳細は「レバノンのメディア(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「レバノンにおける郵便と電気通信(英語版)」も参照
新聞
詳細は「レバノンの新聞の一覧(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

文化

レバノン杉の木。
詳細は「レバノンの文化(英語版、フランス語版)」を参照
食文化
詳細は「レバノン料理」を参照

地中海世界の食文化のひとつであるレバノン料理は、野菜やハーブ、オリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスやファラーフェル、ケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。

レバノンワイン(英語版)も古代オリエントがワイン発祥の地と謳われるだけあり、多数のワイナリーを抱え、世界的にも評価が高い。

文学
詳細は「レバノン文学(フランス語版)」および「アラビア語文学」を参照

20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をカイロと争っていた。

文学においては、ブシャッリに生まれたハリール・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された[40]。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリー、アミン・マアルーフ、ハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。

音楽
詳細は「レバノンの音楽(英語版)」を参照

レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。

中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、作曲家にしてウードの演奏家であるレバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロス、マジダ・エル・ルウミ、サバー、ワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズ、ナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。

他のアーティストが西洋の音楽との融合を図る中、ナジワ・カラームやアッシ・エル・ヘラーニのようなレバノンのアーティストは、’jabali’(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。

1981年に発表されたレバノンのアラブ演歌歌手であるアーザール・ハビブの楽曲である「 حبيتك (お前が好きだった)」が2000年にHatten ar dinという動画で使われ世界中で再生された。しかし、アラブ演歌としてではなく、スウェーデン語の空耳に聞こえるという動画作成者の勝手な解釈や関連の無い画像の面白さで流行した。

近年では、欧米のプログレッシヴ・ロックの影響を受けたギタリスト Amadeus Awad の作品が国外でも発売されている。

演劇

レバノンに存在する劇場の大部分は首都ベイルートに拠点を構えている[41]。
「レバノンの劇場(英語版)」も参照
映画
詳細は「レバノンの映画(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
美術

美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンのもっとも傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊本を書き、ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。

「レバノンのアーティストの一覧(英語版)」および「レバノンの美術館の一覧(英語版)」も参照
建築
ベイトエッディーン宮殿(英語版)
詳細は「レバノンの建築(英語版)」を参照

レバノンは石造りの城が多く遺されている場所として知られている。一例としてレイモンド・ド・サン・ジル城塞(英語版)やムッサ城(英語版)が存在する。
「レバノンの建築家の一覧(英語版)」も参照
世界遺産
詳細は「レバノンの世界遺産」を参照

レバノン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件存在する。

アンジャル - (1984年)

バールベック - (1984年)

ビブロス - (1984年)

ティルス - (1984年)

カディーシャ渓谷と神の杉の森 - (1998年)

祝祭日
詳細は「レバノンの祝日(英語版)」を参照
祝祭日 日付 日本語表記
5月1日 メーデー
5月6日 殉教者の日
8月1日 軍隊記念日
11月22日 レバノン独立記念日(1943年11月22日)

1977年1月1日の閣議で、それまでは一年に25日もあった国民の祝祭日を一挙に14日まで減らして、国民の勤労意欲を掻き立てることを決定した[42]。
スポーツ
詳細は「レバノンのスポーツ(英語版)」を参照

レバノン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1934年にプロサッカーリーグの「レバノン・プレミアリーグ」が創設された。サッカーレバノン代表はFIFAワールドカップには未出場であるが、AFCアジアカップには2度の出場歴をもつ。著名なレバノン人のサッカー選手としてはジョアン・オマリが挙げられる。当時ドイツ2部のFSVフランクフルトやJリーグ・FC東京などで主に活躍した、レバノンを代表するセンターバックである。
「レバノンのサッカー(英語版)」も参照
著名な出身者
詳細は「レバノン人の一覧」を参照 』

レバノン議会で親イラン系が過半数割れ 組閣難航も

レバノン議会で親イラン系が過半数割れ 組閣難航も
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR186DU0Y2A510C2000000/

『【イスタンブール=木寺もも子】15日に行われたレバノン議会選(定数128、任期4年)で、イスラム教シーア派武装組織ヒズボラをはじめとする親イラン系は過半数議席を維持できなかった。長引く経済危機への国民の不満を反映し、改革志向の独立系が躍進した。既存の少数政党が並び立つ構図は変わらず、組閣が難航する可能性もある。

内務省が17日に発表した最終結果に基づく地元メディアなどの分析によると、親イラン系は前回の2018年選挙で獲得した71議席から62議席前後に後退した。アウン大統領が設立したキリスト教マロン派の自由愛国運動が22議席から17議席に減らした。ヒズボラは13議席(現有14)、友党のシーア派政党アマルも15議席(同17)にそれぞれ減った。

一方、反ヒズボラのレバノン軍団党は19議席(現有15)を獲得し、キリスト教政党として自由愛国運動を上回った。既存政党に属さず、改革を掲げる独立系候補は13議席を得て、前回の1議席から躍進した。

親イラン系の議席減と改革派の伸長は国民の不満を映したものだ。レバノンは放漫財政や汚職などで20年3月に債務不履行(デフォルト)に陥った。通貨の対ドル価値は闇相場で19年の20分の1にまで落ち込み、国民は高インフレや燃料不足などに苦しむ。

もっとも、改革派も宗派や政策に隔たりがあり一枚岩ではない。合計でも議会の1割ほどを占めたにすぎず、財政健全化などの改革をただちに進めるのは難しい。ヒズボラは国内で圧倒的な武力と資金を握っており、影響力は依然として大きい。

選挙結果を受けて、闇相場の対ドル通貨価値は前週末から約1割下落した。親イラン系が過半数割れとなったことで組閣が難航し、政治の停滞につながる可能性が懸念された。』

[FT]高まるイタリアの存在感 対ロシア、ドイツと対照

[FT]高まるイタリアの存在感 対ロシア、ドイツと対照
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB164LR0W2A510C2000000/

 ※ トットと「一抜け」した、英国が、「高みの見物」しているように感じるのは、オレだけか…。

『国を率いている人物によって、これほど大きく変わるものなのか。ドイツとイタリアの指導者は、ロシアへの依存と決別するため、それぞれ対照的な対応を示した。

ドラギ氏はイタリア国民に「平和」と「エアコン」のどちらかを選ぶ必要があると告げた=ロイター

ドイツのショルツ首相とイタリアのドラギ首相は、ロシアのウクライナ侵攻によって拍車がかかった欧州連合(EU)の劇的な外交政策転換の最前線に立たされている。

ユーロ圏で経済規模が1位のドイツ、3位のイタリアはロシアからのエネルギー輸入に大きく依存している。ショルツ、ドラギ両氏の前任者はロシアのプーチン大統領との融和を模索し、経済的な絆を育んだ。

こうした関係の断絶は両国に、大半のEU諸国と比べて大きなダメージをもたらす。だが、ショルツ、ドラギ両氏はロシアとの決別という同じ道のりを歩んでいるものの、一方は迷い、もう一方は決然としている。そして、この違いはEU内の勢力バランスにも影響を及ぼそうとしている。

大局観のドラギ氏、状況対応のショルツ氏

ショルツ氏の慎重なアプローチは行動をためらっているように見えた。ドイツとロシアを結ぶガスパイプライン計画「ノルドストリーム2」の凍結からロシア産の石炭と石油に対するEUの禁輸措置に至るまで、同氏はまず抵抗してから譲歩した。

ドイツ軍を複数年かけて近代化する総額1000億ユーロ(約13兆円)に上る計画を打ち出したが、より切迫した問題であるウクライナへの重兵器の供与をためらったことが大きく影を落とした。

独誌シュピーゲルのインタビューで重兵器の供与は核使用のリスクを一層高めると強調したかと思ったら、数日後には対空戦車を送ることを決めた。

一方イタリアでは、ドラギ氏がイタリア国民に「平和」と「エアコン」のどちらかを選ぶ必要があると告げ、同国主要紙コリエレ・デラ・セラのインタビューで、プーチン氏とは外交を通じた問題解決は難しいのではないかとの思いを打ち明けた。

EUの対ロシア制裁についてはより厳しい措置を取るべきだとし、ロシア政府に流れ込む天然ガス収入を減らすために価格上限を設定することを提案した。欧州議会での演説では、「現実的な連邦主義」なるものを達成すべくEUを抜本的に改革する青写真を提唱した。

欧州外交問題評議会(ECFR)パリ支局のシニアフェロー、スージー・デニソン氏は「ドラギ氏がこの危機においてEUが果たすべき役割を大局的に分析、実行に移そうとしているのに対して、ショルツ氏は現状をうまく乗り切ろうとしている」と話す。

デニソン氏の同僚でベルリン在勤のヤナ・プグリエリン氏は「ドラギ氏はウクライナが民主主義と自由のために戦っている、ということを訴えている。一方のショルツ氏はウクライナ侵攻がEUに及ぼすリスクを強調している」と補足する。

平和主義を覆さなければいけないドイツ

どちらの首脳もイデオロギーが異なる政党で構成される連立政権を率いているが、ドラギ氏は国外での名声と国内での人気に助けられている。デニソン氏は、ドラギ氏の方が「1段上のレベルにいる」と指摘する。

欧州中央銀行(ECB)前総裁で、首相再選を目指す願望がない74歳のドラギ氏は「(制約から)解放された男」だ。

イタリアの元首相で現在は中道左派の民主党を率いるレッタ党首によると、さらなるロシア制裁という困難な道筋をイタリアの有権者に受け入れてもらうため、ドラギ氏は10年前に勝ち取った「ユーロ圏の救世主」としての自身の威光を利用しているという。

一方、昨年12月に長期政権を率いたメルケル首相の後を継いだショルツ氏は、より大きな外交政策の転換にも対処しなければならないとデニソン氏は指摘する。

「イタリアのほうがどちらかといえばロシアびいきだったが、ショルツ氏はメルケル時代から続いてきたロシアとの親交だけでなく、ドイツが第2次世界大戦後進めてきた平和主義の伝統も覆さなければいけないという試練に直面している」

確かに、ドラギ氏の果断な態度をもってしても、イタリア国内の親ロ感情や北大西洋条約機構(NATO)に反発する感情を完全には抑え込めていない。

レッタ氏は、マッタレッラ大統領と民主党を別にすると、残るイタリアの政治家は親EUで米国を重視する大西洋主義のドラギ氏の世界観に対して「微妙に異なる見解を示しているか反対している」と話す。

さらに「今のところプーチン氏が悪者だという話になっているが、このイタリア国民のプーチン氏への見方が変わろうものなら、ドラギ氏と異なる意見の人たちが騒動を起こすかもしれない」との見方を示した。その場合、ウクライナを助けるためにどれほど犠牲を払う覚悟があるか、まだ決めかねている国民の心を動かす可能性がある。

それでも、ロシアに弱みを握られている状況から強気な立場に転じることができたドラギ氏の積極性と、それをなかなか実現できないショルツ氏の消極性が、EU内での力関係を変えている、とデニソン氏は言う。

さらに、イタリアなど南欧諸国は約10年前、放漫財政とそれがEUに及ぼす危険について北欧諸国から非難されたが、ウクライナ侵攻をめぐる対応では大方の予想をよい意味で裏切ったと、デニソン氏は語った。

その例として、ウクライナからの避難民を南欧諸国や周縁国が積極的に受け入れたり、あるいはロシアがブルガリアへのガス供給を停止した後にギリシャが支援の手を差し伸べたりするなど、他のEU加盟国への連帯を示したことを引き合いに出す。

エネルギー調達先、多様化しやすい南欧

今回の危機では、地政学が南欧諸国に有利に働いているとレッタ氏は指摘する。地中海に近いことは、シリアとリビアからの難民危機の際には問題となったが、今はアルジェリアや中東などエネルギーの調達先を多様化しやすいことを意味する。

ショルツ氏が多くの障害を乗り越えようとするなか、ドイツ国民の声がまとまっていないことが今後EUを運営する上で障害となる可能性がある。

例えばデニソン氏は、EUが気候変動対策の目標を達成しながら新たなエネルギー供給体制を構築するための議論で、ドイツの存在感が急速に乏しくなっている点を指摘する。

「これをかなり懸念している。犠牲を払わなければならないなか、欧州の有権者は力強いリーダーシップと明確な道筋を必要としているからだ」

By Anne-Sylvaine Chassany

(2022年5月9日付 英フィナンシャル・タイムズ紙 https://www.ft.com/)

(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.
多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

伊藤さゆりのアバター
伊藤さゆり
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
コメントメニュー

ひとこと解説

コラムはウクライナ危機対応に関するものだが、コロナ禍対応も、ドラギ首相率いるイタリアは良い意味で期待を裏切った。

イタリアは欧州で最初に感染が爆発し、観光業への依存が高いため、行動制限の打撃が大きいが、財政事情が厳しく十分な政策対応ができず、長く傷跡が残ると見られた。債務危機再燃も危ぶまれた。

しかし、結果として厳しい規制とEUが用意した枠組みなどを活用した大胆な政策支援でコロナ禍を乗り切り、GDPは10〜12月期にコロナ前の水準を回復した。

イタリアは、EUが創設した復興基金から融資も含め最大の金額を受け取る。ドラギ氏の信用力とドラギ氏が選んだ経済閣僚らの手腕がなければ実現しなかっただろう。

2022年5月18日 9:32

鈴木一人のアバター
鈴木一人
東京大学 公共政策大学院 教授
コメントメニュー

分析・考察

もう一つ大きなポイントは、ドラギがイタリアの政党政治の混乱の中から生まれたテクノクラートの政権であるのに対し、ショルツは16年にわたる連立政権を率いたメルケルの後を襲い、政治的な駆け引きの中で生まれた政党政治の申し子であるというところ。

そのため、世論に対する執着や政党を率い、地方選挙などへの影響を意識しなければならない、という環境に置かれている。ゆえにドラギの方が思い切った対応ができる。

2022年5月18日 10:39 』

「不安と分断の時代」 欧州世論揺らすウクライナ危機

「不安と分断の時代」 欧州世論揺らすウクライナ危機
有事の欧州政治(1)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR040200U2A500C2000000/

『「信用できない」。フランス南東部に住む看護師のフランソワーズは、4月の仏大統領選で現職エマニュエル・マクロンへの投票を見送った。

5年前の2017年、「古い仏社会からの脱却」を誓って大統領選に出馬した当時39歳のマクロンに投票した。収入や職業による格差の固定化が深刻なフランス社会の分断を是正してくれると思ったからだ。

だが、解雇ルール緩和などのマクロン改革は弱者の切り捨てに見えた。資産に課す「富裕税」廃止や燃料増税に反対する黄色いベスト運動が起こると、マクロンは慌てて所得減税などの生活支援策を打ち出した。これも「小手先のガス抜き政策」と見限った。

第2次世界大戦以来、欧州初の大規模な戦争であるウクライナ危機さなかの仏大統領選では、マクロンが快勝するとの見方が圧倒的だった。戦争などの有事には有権者は政治的安定を求める面があるためだ。結果は違った。極右政党、国民連合のマリーヌ・ルペンが1972年の同党発足以来、最多の41.5%の票を得る大接戦となった。

今回の大統領選でマクロンが失った有権者はおよそ200万人。その多くは移民排斥などのルペンの極右政策に賛同したわけではない。有権者はこの5年でフランスの失業率が2ポイントあまり改善した事実より、南部自治体で失業率が約12%と首都パリの2倍にのぼる現状に目を向けた。ウクライナ危機で加速したインフレは社会の分断を広げ地方の低所得層が離れた。

「不安と分断が至るところにある時代だ」――。5月7日、2期目の就任式でマクロンは語った。「フランスを変えてみせる」と宣言した5年前の勢いはない。「改革を押しつけるだけではうまくいかない。分断を修復しなければ」と慎重に言葉を選んだ。
2期目の就任式に出たマクロン大統領㊨=AP

政治不信の連鎖は欧州全域に広がる。

「厳しい夜だった」。5日の統一地方選で惨敗した英首相のボリス・ジョンソンはうなだれた。ロックダウン中のパーティー疑惑への批判に高インフレが追い打ちとなり、与党・保守党は改選議席の4分の1に当たる約500議席を失った。数十年にわたって保持してきたウェストミンスターやバーネットなどロンドン主要部の過半数議席も失った。

異変は少しずつ広がっている。同日の北アイルランド議会選では、アイルランド共和軍(IRA)の政治団体を前身とするシン・フェイン党が初の第1党になった。英国からの離脱とアイルランドとの統一を訴える同党の勝利によって、北アイルランド情勢は再び不安定になる可能性が高まった。イタリアでも反移民と保護主義を唱える極右政党「イタリアの同胞」の支持率は22%と政権与党の民主党と並ぶ。

主要国の政治が揺れれば欧州の結束も揺らぐ。

「我々の立場は変わらない」。ハンガリー首相のビクトル・オルバンは、EU予算の供給停止をちらつかせて「法の支配を順守せよ」と迫るEU本部に反発する。オルバンはロシア産石油の禁輸案にも「ハンガリー経済にとって核爆弾だ」と公然と反対し、親ロシアの姿勢を堅持する。

ハンガリーだけではない。ブルガリア、チェコ、スロバキア・・・。ウクライナ侵攻直後に国防費のGDP比2%以上への引き上げを決めたドイツでさえ、天然ガスの禁輸には慎重な姿勢を崩していない。

就任式の2日後の9日、マクロンは仏東部ストラスブールにいた。「欧州連合(EU)以外にも欧州の組織があってよいはずだ」。ウクライナを念頭に、EUより加盟が容易な「欧州政治共同体」の設置を訴えた。欧州の再結束を呼びかけるマクロンの政治家としての意欲は健在だが、6月には2期目の最初の関門となる国民議会選が迫る。

「私を支持する議員が増えれば、国民の生活を守れる」。マクロン政権を死に体に追い込もうと甘いささやきを口にするルペンを抑え込めるか。マクロンの内憂外患は、欧州全体に忍び寄る政治危機の縮図でもある。(敬称略)

1993年のマーストリヒト条約で発足したEUが最大の試練に直面している。ウクライナ侵攻と高インフレが各国の社会の分断を増幅しているためだ。苦悩する欧州政治を追う。

【ルポ迫真「有事の欧州政治」記事一覧】

・「本社工場が止まる」 ガス禁輸に独政権のジレンマ

多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

吉田徹のアバター
吉田徹
同志社大学政策学部 教授
コメントメニュー

ひとこと解説

フランス社会の「分断」は確かに深刻な状況で、各種意識調査をみても「上手くいっているフランス」と「困窮するフランス」の実体が浮かび上がる。

選挙を制したマクロン大統領が積極的な支持を集めているかといえば、そういうわけでもない。

ただ「政治は悪さ加減の選択」(丸山眞男)である限りは、国民はルペンよりも政権運営能力で評価されるマクロンを選択したのであるし、EUについてもウクライナ侵攻によって、かつてのユーロ危機・難民移民流入危機の後遺症は克服されようとしている。

「強いEUがなければ強いフランスもない」というマクロン政治の正念場でもあろう。

2022年5月18日 14:24 』

資源独占「ロシアと中国」、世界のリスクに 米財務長官

資源独占「ロシアと中国」、世界のリスクに 米財務長官
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN17DFD0X10C22A5000000/

『【ワシントン=高見浩輔】イエレン米財務長官は17日、ブリュッセルで講演し、ロシアが独占的に供給する資源からの脱却が必要だと訴えた。ロシアによるウクライナ侵攻後の資源高について「世界経済が化石燃料の生産国による敵対的な行動の人質になるのは、これが最後にしよう」と述べ、再生可能エネルギーへの移行を急ぐべきだと強調した。

イエレン氏は「風と太陽を支配する国はない」として風力発電や太陽光発電の普及が資源独占の弊害を弱めると指摘した。米財務省によると、同日面会したフォンデアライエン欧州委員長ともロシアに対する戦争責任の追及や資源依存を減らす取り組みについて意見を交わした。

講演では同様のリスクを世界に及ぼしかねないとして中国に言及。「レアアース(希土類)の供給についても、中国に大きく依存する状態を長い間容認してきた」と指摘した。そのうえで中国が「不公正な貿易慣行」を是正し、途上国の債務問題などでも協力するよう促そうと呼びかけた。

ロシアの侵攻以降、米上院などでは議員がイエレン氏に対して、中国が台湾を攻撃した際の対応を問う場面も目立っている。イエレン氏は欧州を含めた各国が、中国をさまざまな分野で進む国際協調の枠組みに巻き込むことが重要だと強調した。』

バラクラバ

バラクラバ
https://en.wikipedia.org/wiki/Balaklava#Underground_submarine_base

『(※ 原文は、英文。翻訳は、Google翻訳)

バラクラバ

この記事はクリミアの街についてです。その他の使用法については、 バラクラバを参照してください。

Balaklava(ウクライナ語:Балаклáва、ロシア語:Балаклáва、クリミアタタール語:Balıqlava、ギリシャ語:Σύμβολον)は、クリミア半島とセヴァストポリ市の一部にある集落です。セヴァストポリ市に移管される前はクリミア州の一部であったバラクラフスキーライオンの行政の中心地です。人口:18,649人(2014年国勢調査)。[1]

バラクラバ
БалаклаваBalıqlava
_
セヴァストポリ の一部
バラクラの旗
国旗
バラクラの紋章
紋章

Balaklavaはセヴァストポリにあります
バラクラバ
セヴァストポリ内のバラクラバの場所。
座標:44°30′0″ N 33°36′0″ E

紛争中のロシア、ウクライナ

領域
セバストポリ
標高
10 m(30フィート)
人口
• 合計
18,649
タイムゾーン
UTC + 4(MSK)
郵便番号

299xxx
エリアコード
+ 380-692
旧名
チェンバロ(1475年まで)、ヤンボリ、シンボロン
Webサイト
http://sovetbalaclava.ru/
コンテンツ

歴史
バラクラ港、1830年
バラクラ港、1855年、 ロジャーフェントンが撮影

Balaklavaは、その歴史の中で何度か所有権を変更しました。現在の場所にある集落は、重要な商業都市であった古代ギリシャ人によってシンボルン( Σύμβολον)の名前で設立されました。

ハーバービュー、バラクラバ、ウクライナ、 画像コレクション部門、ナショナルギャラリーオブアートライブラリー、ワシントンDC

中世の間、それはビザンチン帝国によって支配され、 1365年にそれを征服したジェノバによって支配されました。

ビザンチンは町をヤンボリと呼び、ジェノバはそれをチェンバロと名付けました。

ジェノバ人は地中海と黒海の両方に大規模な貿易帝国を築き、東ヨーロッパで奴隷を購入し、ベネチア人が激しく争った儲かる市場であるクリミアを経由してエジプトに輸送しました。

バラクラインレットの入り口の上の崖の上にあるジェノバの要塞の遺跡は人気のある観光名所であり、最近では中世の祭りの舞台になっています。要塞は、ミツキェヴィチの1826年のクリミアソネットのサイクルにおける最後から2番目の詩の主題です。

1475年、チェンバロ市はトルコ人に征服され、その後バリクユバ(魚の巣)と改名され、バラクラバになりました。[2]

1768年から1774年の露土戦争中、 1771年にロシア軍がクリミアに侵攻しました。

13年後、クリミアはロシア帝国に完全に併合されました。

その後、クリミアタタール人とトルコ人の人口は、群島からのギリシャ正教の人々によって強制的に置き換えられました。[要出典]

1787年にエカチェリーナ2世が街を訪れました。[3]

クリミア戦争中のバラクラヴァの戦いで有名になった町は、軽騎兵の突撃のおかげで有名になりました。

これは、誤解によるイギリスの騎兵隊が、ロシア人によって3つの側面に強く保持された谷を送り、約250人の兵士がいたためです。

死亡または負傷し、400頭以上の馬が失われ、搭載された旅団のサイズが3分の2に効果的に縮小され、世界で最も優れた軽騎兵の一部が軍事目的で破壊されました。[4]

イギリスの詩人アルフレッド、テニーソン卿は彼の軽騎兵の突撃で詩の戦いを不滅にした。

目出し帽は、頭と首全体を目と口の穴で覆うタイトなニットの衣服であり、兵士が最初に着用したこの集落にちなんで名付けられました。

また、19世紀後半に英語圏の国々で設立された多くの町は、「バラクラバ」と名付けられました(バラクラバ(曖昧さ回避)を参照)。

1954年、バラクラバはクリミア全体とともに、ロシアからウクライナに渡りました。

1957年にソビエト政府によってセヴァストポリの市境に正式に組み込まれ、市の地位を失いました。

それは1991年にウクライナの独立国家の一部になりました。今日、町には、大祖国戦争、クリミア戦争、ロシア内戦などの過去の戦争での軍事的勇気の記憶に捧げられた50以上の記念碑があります。[要出典]

ロシア連邦による国際的に認められていない 2014年のクリミア併合以来、バラクラバは他のクリミアとともにロシアによって管理されています。2019年、ロシア当局はセヴァストポリ内の都市のバラクラバステータスを付与しました。[5] [6]

バラクラーヴァ湾

地下潜水艦基地

記念碑の1つは、1993年まで運用されていた、以前は分類されていた地下の潜水艦基地です。

基地は事実上破壊不可能であり、直接的な原子衝撃に耐えるように設計されていると言われています。

その期間中、バラクラバはソビエト連邦で最も秘密の住宅地の1つでした。

バラクラのほぼ全人口が一度に基地で働いていました。家族でさえ、正当な理由と適切な身分証明書なしにバラクラバの町を訪れることはできませんでした。

ソビエト連邦の崩壊後も基地は稼働し続けた1991年から1993年に廃止措置プロセスが開始されるまで。

このプロセスでは、弾頭と低収量の魚雷が除去されました。

1996年に、最後のロシアの潜水艦が基地を去りました。その後、基地は海軍博物館複合施設バラクラバとして一般公開されました。

クリミア戦争中のバラクラバでの陸軍キャンプ

現代のバラクラバ-ジェノバの要塞からの眺め

潜水艦ソビエト海軍基地への入り口

トンネル

も参照してください

ケープアヤ–風光明媚な洞窟で知られるバラクラバ近くの岬
1854年の大嵐
ヒックスウィザーズ-ランカシャー

ノート

ロシア連邦国家統計庁(2014)。” Таблица1.3。ЧисленностьнаселенияКрымскогофедеральногоокруга 、городскихокругов、муниципальн クリミア連邦管区、その都市オクルグ、地方自治体、都市および農村集落の人口]。Федеральноестатистическоенаблюдение«ПереписьнаселениявКрымскомфедеральномокруге»。(「クリミア連邦管区の人口調査」連邦統計調査)(ロシア語)。連邦国家統計庁。2016年1月4日取得。
Sergei R. Grinevetsky、etal。「黒海百科事典」、Springer、2014年:80–81。

Balaklavaを取り巻くいくつかの農村コミュニティは、1944年に国外追放されるまで、クリミアタタール人が住んでいました。 [要出典]

ブライトン、テリー、地獄のライダー:光の旅団の突撃についての真実。ロンドン:ペンギン、2005年。ニューヨーク:ヘンリーホルト、2005年。

“АргументыНедели.Крым” Балаклаваофициальносталагородом[バラクラバは正式に都市になりました](ロシア語)。2019-08-04にオリジナルからアーカイブされました。2019年8月4日取得。

Закон города Севастополя от 23 июля 2019 года № 518-ЗС «О внесении изменений в Закон города Севастополя от 3 июня 2014 года № 19-ЗС „Об административно-территориальном устройстве города Севастополя“»[2019年7月23日のセヴァストポリ市法#518-ZS「セヴァストポリの行政区域分割に関する法律の改正について」](ロシア語)。pravo.gov.ru。2019-08-04にオリジナルからアーカイブされました。2019年8月4日取得。

外部リンク
ウィキボヤージュにはバラクラの旅行ガイドがあります。
ウィキメディアコモンズには、バラクラバに関連するメディアがあります。

(英語) Balaklava and the Sevastopol Inquiry、1855、Commander W.Gordon、RN
(英語) Balaklava Photoalbum
(ロシア語) バラクラのジェノバ要塞
(英語)ロシアの地下潜水艦基地Englishrussia.com(写真)
(英語)ロシアの地下潜水艦基地Iconicarchive.ch(iconicarchiveギャラリー)
(ロシア語) バラクラのパノラマ
(英語) 地下潜水艦基地の写真[永久デッドリンク]

最終編集日:2022年4月30日00:46
ウィキペディア

特に記載がない限り、コンテンツはCCBY-SA3.0で利用できます。

プライバシーポリシー
利用規約
デスクトップ 』

セヴァストポリ

セヴァストポリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9D%E3%83%AA

『セヴァストポリ(ウクライナ語:Севастополь, [seʋɐˈstɔpɔlʲ] (セワストーポリ)、ロシア語:Севастополь, [sʲɪvɐˈstopəlʲ] (シヴァストーパリ)、ラテン文字転写の例:Sevastopol、クリミア・タタール語:Акъяр (アキヤール), Aqyar)は、黒海に面したクリミア半島南西部に位置する都市である。

首都のキエフとともに、ウクライナの特別市であったが、2014年3月17日にクリミア自治共和国とともに主権宣言した上で、翌3月18日にロシア連邦と条約を締結し、ロシア連邦の構成主体となったとしている[1]。

一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナおよび国際連合(総会決議68/262)との間で論争が続いている状態である。

広義・行政区画上のセヴァストポリ(特別市 / 連邦市)は864平方キロメートル、41万6263人(2016年)。4つの行政区で構成され、インケルマン(英語版)やカチャ(英語版)などの集落を含む。 狭義・都市としてのセヴァストポリは57.45平方キロメートル、37万750人(2016年[2])。 』

『歴史

古代この地にはボスポロス王国の都市ケルソネソス(ケルソン)があり、6世紀に東ローマ帝国の統治下になった後も東ローマ帝国のクリミア半島における統治の拠点、ハザールやキエフ大公国などとの交易拠点としてテマ(軍管区)が置かれ、12世紀のコムネノス王朝時代まで東ローマの領土であった。

12世紀後半に東ローマが衰退すると、その後はモンゴル人のジョチ・ウルス、その後裔のクリミア・ハン国などの支配下にあったが、1783年、ロシア帝国がクリミア半島を併合した際、一緒に組み込まれた。

その後、重要な海軍基地、商業港として発展してきた。

1856年のセヴァストポリ

1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスがオーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストポリに変更。

ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を築いて要塞化したが、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒーモフ提督やヴラジーミル・コルニーロフ提督も戦死し(セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年))、1855年9月に放棄を決定。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えに返還された。

第二次世界大戦時、要塞化された同地に対してドイツ軍は80cm列車砲「ドーラ」、カール自走臼砲などを用いて攻略、占領したが、その後赤軍の反撃によりセヴァストポリはソ連へ取り戻された。(セヴァストポリ包囲戦 (1941年-1942年))

ソビエト連邦の時代には、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内のクリミア州の一部としてではなく、キエフ(1954年以前はモスクワ)の直轄下に置かれ、外国人の立ち入りを固く規制する閉鎖都市だった。

ソ連時代に、クリミア戦争と第二次世界大戦での攻防戦の奮闘を讃え英雄都市の称号を与えられた。

ソビエト連邦崩壊後のセヴァストポリ軍港にはロシア連邦の海軍基地とウクライナ海軍の司令部も置かれている。

ソビエト連邦時代はソ連の黒海艦隊の基地であったが、ソ連邦解体後の1997年にロシア・ウクライナ間で締結された協定により、2017年まで租借、また2010年に再締結された協定によりさらに2042年まで駐留が認められることになった。

ウクライナが受け取る租借料は年間9800万ドルであり、そのセヴァストポリ軍港租借料はウクライナがロシアへ払うガス料金未納分を考慮して決められている。

ロシア編入後のセヴァストポリ(2014年4月)

ロシアとウクライナの政治対立から、セヴァストポリのロシア領土編入を求める運動がしばしば同地に住むロシア人住民によって起きており、両国の対立の火種となってきた。

2010年以降のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権では対立は沈静化していた。

しかし2014年2月にヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親欧米派の暫定政権が樹立されたことにロシアは反発。

2014年3月11日、ロシア軍の占領下で実施された同月16日の住民投票においてクリミアのロシアへの編入が賛成多数を得た場合、ウクライナよりいったん独立する決議をクリミア自治共和国とともに採択した(クリミア・セヴァストポリ独立宣言)[3]。

16日の投票では賛成票が全体の9割を超え(2014年クリミア住民投票)、クリミア自治共和国とともに主権宣言した上で(クリミア共和国)、3月18日にロシア連邦に編入される条約をロシア連邦と締結した(ロシアによるクリミアの併合)。

この編入により、セヴァストポリはロシア連邦の連邦市という位置付けになったが、ウクライナを始めとする大多数の国は認めていないため、国際的にはウクライナの特別市のままである。

2014年4月1日には市政のトップが市長から知事へと改められた[4]。 』

『行政区分

「セヴァストポリ特別市の行政区画」および「セヴァストポリ連邦市の行政区画」も参照
セヴァストポリの行政区分

  1. Gagarin Raion (pink)
  2. Lenin Raion (red)
  3. Nakhimov Raion (blue)
  4. Balaklava Raion (light green)
  5. Inkerman (green) ガガーリン地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)・・・ケルソネソス
    レーニン地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)
    ナヒモフ地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)
    バラクラヴァ地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版) – バラクラヴァ・・・旧ソ連バラクラヴァ原子力潜水艦地下秘密基地(Balaklava Underground submarine base)の所在地
    インケルマン(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)

産業

帝政ロシア時代以来セヴァストポリは軍港都市・商港都市として発展してきた。またリゾート地・観光地としても有名である。
人口

母語話者(セヴァストポリ市) 2001

ロシア語

90.6%

ウクライナ語

6.8%

2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。

総人口:379,500人[5]
都市人口:358,100人(94%);農村人口:21,400人(6%)[6]
性別人口:男性は173,500人(46%);女性は206,000人(54%)[7]

民族構成[8]

ロシア人

270,000人 (71.6%)
ウクライナ人

84,400人 (22.4%)
ベラルーシ人

5,800人 (1.6%)
タタール人

2.500人 (0.7%)
クリミア・タタール人

1,800人 (0.5%)
アルメニア人

1,300人 (0.3%)
ユダヤ人

1,000人 (0.3%)
モルドヴァ人

800人 (0.2%)
アゼルバイジャン人

600人 (0.2%)
姉妹都市

ロシアの旗 サンクトペテルブルク、ロシア 2000年
ジョージア (国)の旗 ポティ、ジョージア 2008年
ロシアの旗 ペトロパブロフスク・カムチャツキー、ロシア 2009年

標準時

Map of Russia – Moscow time zone.svg この地域は、モスクワ時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。ロシア編入前は標準時がUTC+2で、夏時間がUTC+3であった。2014年3月に通年UTC+4に変更されたが、同年10月に通年UTC+3に変更された。』

[FT]ウクライナ領スネーク島巡る攻防

[FT]ウクライナ領スネーク島巡る攻防、黒海支配にらむ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB185JL0Y2A510C2000000/

 ※ やっと、詳報が出たか…。

 ※ 「蛇島」とか、気にはしていた…。兵頭ブログでも、記事が載ってたな…。マップが出てくれて、ありがたい…。

『黒海北部のウクライナ領スネーク島は、ロシアがウクライナ侵攻を初めてからすぐ、国際社会の注目を集めた。この島の少数の守備隊が、降伏しなければロシア海軍の砲撃で確実に命を落とすと脅された時だ。守備隊の1人、ロマン・フリボフ氏が「ロシアの軍艦よ、くたばれ」と言い放ったという逸話が知られる。
ウクライナ領スネーク島の衛星写真(12日)=マクサー・テクノロジーズ/ロイター

それから3カ月がたったいまでも、面積が0.2平方キロメートルほどで岩礁よりは少し大きいという程度のスネーク島は、黒海の支配を巡るウクライナとロシアの激しい戦いの主な舞台で、この紛争を取り巻くプロパガンダ合戦の中心だ。

(ウクライナ側からスネーク島を奪った)ロシア軍は、ウクライナのドローン(無人機)による攻撃や空爆からこの島を守ることが十分にできないでいる。ウクライナ側も海軍力に限りがあり、スネーク島を奪還できないでいる。

この島を巡る攻防はいろいろな意味で、今回の戦争の縮図だ。ここに軍事基地を置けば、周囲の数百マイルに及ぶ地域を支配できるので、戦略上、重要だ。スネーク島を巡る攻防はウクライナ、ロシアの双方にとって、兵士の士気を高めるシンボルとしても大事だといえる。

■ウクライナの守備隊は投降

フリボフ氏は決然と降伏を拒んだが、ウクライナの守備隊は武器を捨てた。その後、ロシアとの捕虜交換を経て解放された。

米欧側の当局者の一人はスネーク島が「戦略上、有用だ」と語った。「そして、おそらくはそれ以上に、象徴的で重要な意味を持つ」と指摘する。

ギリシャ神話によると、海神ポセイドンは(スパルタ王妃)ヘレンらをかくまう場所としてスネーク島をつくった。いまでは樹木も淡水もないが、ヘリポートと2つの深い岸壁を持つX字型をしたスネーク島は、ウクライナの重要な海上交通路の中央にある。北大西洋条約機構(NATO)に加盟するルーマニアからも35キロメートルしか離れていない(ルーマニアはかつて、スネーク島の領有権を主張したが、国際司法裁判所が2009年に却下した)。

ウクライナからみれば、ロシアがスネーク島をミサイル・海軍基地として使用できないようにすれば、同国による「黒海封鎖」の克服につながる。ウクライナは穀物などの輸出国として世界最大規模だが、ロシアによる封鎖で海上輸送が滞っている。

■港湾都市オデッサを攻撃する拠点

ロシアはスネーク島を足がかりに、ウクライナ南部の港湾都市オデッサを攻撃し、モルドバや、同国における親ロシア派の支配地域である沿ドニエストル地方まで戦闘を広げる可能性もある。NATOの兵器や舞台をルーマニアから配備する動きを妨げることもできる。

ウクライナ国防情報局のキリーロ・ブダノフ局長は13日、「この島を支配すれば、あらゆる方向からウクライナ南部に向かう商業船舶の航行を阻止できる」と話した。

これまでのところ、ウクライナはスネーク島を安全基地にしようというロシアの試みをくじき、同国の防空システムや補給艦に対し、空爆やトルコ製軍用ドローン「バイラクタルTB2」による攻撃を加えている。このドローンで、ウクライナ軍は戦果をあげている。

■ウクライナ、ロシアがいずれも戦果を誇示

ウクライナ軍が8日に投稿した空撮映像には、スネーク島の上空を飛ぶロシアのヘリコプターがドローンの攻撃で撃墜される様子が映っている。その2日前にも、ドローンによる攻撃でロシアの巡視船が撃沈され、短距離ミサイルシステムが崩壊したと主張する動画が公開された。

テクノ音楽が流れるこの動画のタイトルには「スネーク島に招かれざる者はこのような目にあう」と書かれている。

ロシア側にも言い分はある。同国の国防省によると、その戦闘でロシアはウクライナの航空機4機、無人機約30機、少なくとも3機のヘリコプターを撃墜した。さらにウクライナの「妨害工作員」20人以上と同国海軍の副司令官、イホル・ベザイ大佐を殺害したという。ウクライナ側はベザイ氏の死亡を確認したが、どの戦闘で殺害されたかは明らかにしていない。
スネーク島は黒海の北部にあり、ルーマニア、モルドバにも近い(出所)Institute for the Study of War and AEI’s Critical Threats Project/FT

ロシア国防省のコナシェンコフ報道官は「この冒険はウクライナにとって大失敗だった」との見解を示した。

米シンクタンク海軍分析センター(CNA)でロシア研究のトップを務めるマイケル・コフマン氏は十分に納得しているわけでない。

■組織化されていないロシア軍の動き

コフマン氏は軍事専門のオンラインメディア「ウォー・オン・ザ・ロックス」のポッドキャスト番組で「ロシア軍の作戦をみる限り、同国の部隊がスネーク島で何をしようとしているのか、まだわからない」と話した。「ロシア軍の動きは十分に組織化されておらず、その意味では際立っている。航空機による支援なしで(地上)部隊を送り込む。その作戦で敗れると、部隊を増派する。そしてヘリコプターで特殊部隊を投入し、(トルコ製のドローンに)殺害された」と説明する。

ロシア軍は、激戦地のウクライナ東部ドンバス地方でも、軍事作戦を組織的に展開できないでいる。

スネーク島は軍事上、その大きさと隠蔽性の低さから、防衛がほぼ不可能だと複数のアナリストが指摘する。軍事分析を手がけるロチャン・コンサルティングは15日付のリポートで、ロシアは防空システムをどうにか整えるか、同様の機能を持つ戦艦を近海に配備しない限り「スネーク島を拠点にし続けるのは不可能だ」と言い切る。「いずれの方法も、現時点では実行できると思えない」とも付け加えた。

ウクライナの当面の目標は、スネーク島を軍事力で奪還することではない。それではウクライナ軍がロシア軍と同じく、弱点をさらすからだ。それよりも、ロシアがスネーク島に要塞を築き、周辺地域の支配や海軍の作戦を可能にする長距離対空ミサイルを配備する事態を阻む構えだ。

ウクライナの国防相経験者で、安全保障について同国政府に助言するアンドリー・ザゴロドニュク氏は、ロシアがスネーク島を実効支配している現状について「ウクライナに到来するものをすべて破壊すれば、それほど重大な問題ではなくなる」と指摘した。

ザゴロドニュク氏によると、スネーク島の近くにある石油掘削装置(リグ)2基(現状ではロシアが制圧)も、ロシアが海上輸送を制限するための軍事プラットフォームとして使われているという。

「ウクライナは領海への敵の侵入を阻止する必要がある」とザゴロドニュク氏は強調した。「戦争が長引けば、ウクライナ経済は極めて厳しい状況に追い込まれる」

By Roman Olearchyk & John Paul Rathbone

(2022年5月17日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.』

米財務長官「失効の可能性高い」 ロシア国債巡る特例

米財務長官「失効の可能性高い」 ロシア国債巡る特例
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB183FJ0Y2A510C2000000/

『イエレン米財務長官は18日、制裁対象のロシアから国債の元利払いの受け取りを認める特例について、「(予定通り25日で)失効になる可能性が高い」と述べた。ロシア国債で債務の支払いが実施されない「債務不履行(デフォルト)」の懸念が強まる。

ドイツで記者会見するイエレン氏(18日)

ドイツで18日開幕の主要7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議に出席するイエレン氏が現地で記者会見した。ロシア国債を巡る特例について「最終決定ではない」とした上で、失効になる可能性が高いとの考えを明らかにした。「(デフォルトになっても)もはやロシア経済に大きな影響はない」とも述べた。

米政府は金融機関や投資家によるロシア当局や政府系ファンドとの取引を禁止している。ただ米財務省の外国資産管理局(OFAC)は債券や株式の利払いや配当、償還金の受け取りについて25日までは取引を認める通達を出していた。この特例を使ってロシアは元利払いを実施し、デフォルトを回避してきた。

ロシア国債は27日にドル建てとユーロ建てで発行した国債の利払い期限を迎える。猶予期間を経ても米国の投資家が受け取れなければ、デフォルトとみなされる公算が大きい。

格付け機関はすでに格付けを取り下げており、国際的な機関でデフォルトを認定するのは国際スワップ・デリバティブズ協会(ISDA)になりそうだ。ロシア国債の損失を保証するクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の支払いが発生するが、規模は小さい。すでに国債の保有者も損失を認識しており、市場への影響は限られるとの見方が多い。

ロシアは自国通貨建て国債で1998年にデフォルトに陥った。対外債務でデフォルトになればボリシェビキ革命後の1918年以来となる。ロシアはすでに海外市場で資金調達ができなくなっているため、短期的な資金繰りに影響を及ぼすわけではないが、デフォルトに陥れば長期に市場復帰を難しくしそうだ。

米国が特例措置を設けていたのは「ロシアからの外貨流出につながる利払いまで止める必要はない」(米上院の野党議員)という判断だった。ただ、ロシアのデフォルト回避を認める特例に異論もあった。イエレン氏は17日、上院で議員の質問に対して「特例を更新しない際の潜在的な波及効果がどれほどのものか積極的に検討を加えている」と発言していた。

またイエレン氏は欧州に対し、ロシア産原油に関税を課すよう提案することを検討しているとも話した。「欧州が最善と考えることを決断するのが重要」との見解を示した上で、「我々には多くの選択肢がある」と強調した。

(ボン=南毅郎、三島大地)』

ロシア1~3月GDP、3.5%増 制裁響き減速

ロシア1~3月GDP、3.5%増 制裁響き減速
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR18EEQ0Y2A510C2000000/

『【イスタンブール=木寺もも子】ロシア連邦統計局は18日、2022年1~3月期の国内総生産(GDP)が前年同期比で3.5%増(速報値)になったと発表した。21年10~12月期の5%増から減速した。同国が2月24日にウクライナへの侵攻を始め、日米欧などから受けた制裁の影響が出始めたとみられる。

原油などの採掘業が8.5%増、製造業5.1%増、小売売上高3.5%増だった。

同国の22年通期のGDPを巡っては、世界銀行が4月に前年比で11.2%縮小するとの見通しを発表している。新型コロナウイルスの感染拡大が響き2.7%縮小した20年よりも大きな打撃を受ける見込み。ロシア中銀は2月時点で、22年通期の成長率が2~3%になると予測していた。

ウクライナへの侵攻を受け、日米欧などはロシアの大手銀行を決済システムから締め出す金融制裁や、ロシアからのエネルギー輸入の禁止・段階的縮小などを打ち出している。部品調達の難しさや国際的な評価、道義的な観点から、外資企業による自主的な撤退も相次ぐ。米マクドナルドは16日、ロシア事業を売却すると発表した。』

ロシア、占領地域で支配加速 新兵器使用も

ロシア、占領地域で支配加速 新兵器使用も
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR18EM90Y2A510C2000000/

 ※ レーザー兵器も、登場か…。

 ※ やはり、「電力」が潤沢に供給できる、「特殊な戦場」とみえる…。

『【テヘラン=福冨隼太郎】ウクライナ侵攻を続けるロシアが、占領地域の支配を強めている。同国のフスヌリン副首相は18日、南部ザポロジエ州の支配地域を訪れ「ロシアとの統合を支援する」と述べた。一方、別の副首相、ボリソフ氏はウクライナで新型レーザー兵器を使用していることを明らかにした。

ロシア国営メディアのスプートニクなどによると、フスヌリン氏はロシア占領下にあるザポロジエ州メリトポリを訪れ、支配下に収めた地域の再建に資金を投じ、ロシアをつなぐ道路を修復する方針を示した。「今月から給与と年金を(ロシアの通貨)ルーブルで支払う」とも述べた。ウクライナの反発は必至だ。

ロシアによる支配固めの動きは他地域でも進む。南部ヘルソン州の親ロシア派幹部はすでに、ロシアのプーチン大統領に同州の併合を求める方針を表明した。5月末までにルーブルを取り扱う銀行が業務をはじめ、ウクライナ通貨を段階的に廃止する計画だ。

メリトポリも侵攻開始初期からロシア軍の占領下にあり、ウクライナはヘルソン州以外の占領地域でも併合の動きが進むと警戒してきた。激戦地だったマリウポリが製鉄所のウクライナ兵の投降で実質的に「完全制圧」されたことで、ロシアによる支配確立の動きが加速する可能性がある。

ウクライナ軍も反攻を強める。ウクライナ国防省は18日、北東部ハリコフ方面で新たに集落を解放したと発表した。ウクライナ第2の都市ハリコフの周辺ではウクライナ軍がロシア軍を国境付近まで押し戻している。

一方、ロシアのボリソフ副首相は18日、ロシア軍がウクライナで新型のレーザー兵器を投入したと明かした。ロイター通信が伝えた。ボリソフ氏は「最初のプロトタイプがウクライナで使われている」と述べた。

「ザディラ」と呼ばれる新兵器は、5キロメートル離れたドローンを5秒以内に焼き尽くす能力を持つことが実験で確認されたという。詳細は不明だが、ロイター通信は「17年にロシアメディアが国営原子力企業ロスアトムが開発に協力したと報じている」と伝えた。

【関連記事】

・マリウポリ市長「退避の製鉄所戦闘員、役割を全う」
・マリウポリ「完全制圧」か 959人投降、捕虜交換焦点 』

米大統領「北欧2国への攻撃に対抗」 NATO加盟まで

米大統領「北欧2国への攻撃に対抗」 NATO加盟まで
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN18EFT0Y2A510C2000000/

※ 確か、英国も同じような「協定」を、結んでいたな…。

※ 英米二か国で、「つなぎの安全保障」を提供し、その間に「正式加盟」を促進する「側面支援」工作を実行する…、ということなんだろう…。

※ トルコの説得・懐柔工作とかな…。

『【ワシントン=中村亮】バイデン米大統領は18日の声明で、フィンランドとスウェーデンの北大西洋条約機構(NATO)加盟を強く支持する立場を正式表明した。NATO加盟までの期間について「米国は両国と連携し、攻撃または攻撃の脅しを抑止して対抗する」と明言し、ロシアの脅威に対処する考えを示した。

フィンランドとスウェーデンは18日、NATOへの加盟を申請した。北大西洋条約第5条は集団的自衛権の行使を定めるが、正式に加盟するまでは適用されない。バイデン氏は両国の防衛に関与する姿勢を示し、NATO拡大に否定的なロシアの抑止を狙った。

サリバン米大統領補佐官(国家安全保障担当)は18日の記者会見で「米国は欧州の同盟国とともにフィンランドやスウェーデンに対する攻撃を容認しないという極めて明確なメッセージを送る」と強調。オースティン国防長官が両国と具体策を練ると説明した。英政府は11日、両国が攻撃を受けた場合に軍事支援する方針を決めている。

バイデン氏は声明で、バルト海での軍事演習や米軍の態勢を維持する考えも示した。「NATOや第5条に対する私の決意は鉄壁だ」と言及し、欧州防衛への関与を改めてアピールした。

バイデン氏は19日、ホワイトハウスでフィンランドのニーニスト大統領やスウェーデンのアンデション首相と会談する。NATO加盟への支持を直接伝え、具体的な防衛協力に関しても話し合うとみられる。

一方、ブリンケン米国務長官はニューヨークでトルコのチャブシオール外相と会談した。チャブシオール氏は会談冒頭で北欧2国をめぐり「テロ組織を支援しているという正当な安全保障における懸念がある」と話した。両国のNATO加盟に重ねて難色を示す発言だ。』

ウクライナ最新戦況マップ5.18 ロシア、製鉄所を解体へ

ウクライナ最新戦況マップ5.18 ロシア、製鉄所を解体へ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCA190LK0Z10C22A5000000/

『ウクライナ南東部の港湾都市マリウポリのアゾフスターリ製鉄所では、ウクライナ兵の退避が進み、ロシア国防省によると18日までに959人が投降した。支配勢力は製鉄所を解体し、マリウポリをリゾート都市へと転換する方針を示している。

ロシア軍は18日もアゾフスターリ製鉄所への空爆や砲撃を続けた。親ロシア派が実効支配する「ドネツク人民共和国」は、ウクライナ側の司令官がまだ内部に残っていると主張する。

ウクライナ東部のイジューム近郊ではウクライナ軍が反撃を続けた。ロシア軍は無人機やロケット弾、砲兵隊を使用したが、大きな進展はなかった。米シンクタンクの戦争研究所は「ロシア側は(ウクライナ東部)ドンバスへの攻撃を再開するために、高速道路へのアクセスを確保しようとしている可能性が高い」と指摘する。』