危機に瀕して強化された日本のインテリジェンス組織

危機に瀕して強化された日本のインテリジェンス組織
インテリジェンス・マインド
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/26438

『冷戦の終結によって、それまで西側諸国が仮想敵としていたソ連をはじめとする東欧圏は軒並み総崩れとなり、欧米におけるインテリジェンスの役割は一時的に低下した。

 しかし、1990年代には日本国内で阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、海外では湾岸戦争や北朝鮮によるミサイル発射実験などの事案が引き続き生じたため、むしろ危機管理とそれを支えるインテリジェンスの強化が模索された時期であった。

この時期に内閣情報調査室長を務めた大森義夫氏は「内調の仕事に開国的な変化をもたらした新事態は湾岸戦争である」と述懐している。

紆余曲折を経て至った防衛庁情報本部の創設

 冷戦後、日本は独自の安全保障政策を策定していくことが迫られており、そのためには防衛庁(当時)・自衛隊の情報機能を強化することが必須であった。

 元警察庁長官の後藤田正晴氏は朝日新聞のインタビューにおいて、戦後日本のインテリジェンスが育たなかった原因として、「米国依存だから。国の安全は全部米国任せだから、いまのように属国になってしまったんだ」と話している。

 そこで防衛庁・自衛隊の情報組織を統合し、情報本部を創設するという構想を披露したのは「ミスター防衛庁」と呼ばれた防衛事務次官、西広整輝氏であった。西広氏から相談を受けた後藤田氏が当時の様子を回顧している。

 「西広整輝君が防衛事務次官だったときに来てね。『あれ(陸上幕僚監部調査部第二課別室=調別)を充実したいから、防衛庁でやらせてください』と言ってきたんだ。僕はずいぶん考えたんだけど、『よかろう』と。ただし条件があるぞ、情報は全部内閣に上げろ。それと制服だけで防衛庁で運営するのはまかりならん。内閣の職員を入れろ」

 しかし実際に防衛庁・自衛隊内で統合の検討が始まると、防衛庁の内局、陸海空自衛隊はこぞって反対という有り様であった。

 この検討の最前線にいた黒江哲郎氏(後の防衛事務次官)は、「統合情報組織の設立に反対する各幕の主張の背景は、『これまで営々と苦労して投資し、育て上げてきた組織を勝手に取り上げられるのには反対だ』という強い感情論がありました」と説明している。
 このような状況で、各組織を説得して回ったのが、警察庁から防衛庁に出向していた当時の調査第一課長、三谷秀史氏(後の内閣情報官)である。西広氏の意向を受けて三谷氏はインテリジェンス統合の重要性を方々に説いて回ったが、一課長の力だけでは各組織を説得しきるのは極めて困難な状況であった。

 しかし、元大蔵官僚の秋山昌廣防衛局長(後の防衛事務次官)が、統合賛成に回ったことで事態は大きく動きだすことになる。こうして情報本部は西広氏の構想から10年近くもの歳月をかけて形作られ、97年1月20日に統合幕僚監部下の組織として、1700人の人員で情報本部が立ち上がった。

 情報本部の設置によって、各自衛隊に分散していた情報部門は統合され、国家レベルの情報機関が創設されたのである。

 情報本部の中核は、調別を引き継いだ電波部であり、現在も各国の軍事通信を傍受し、貴重な情報を収集している。』

『事実確認の術さえない
日本だったが……

 93年5月29日には北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ノドン」を日本海に向けて発射した。

当時の日本のインテリジェンスは発射の兆候どころか、その事実を確認する術すら持たない状況であり、ただ米国からもたらされた情報を妄信する以外のことができなかったのだ。

石原信雄官房副長官は世論喚起する意味合いで、あえてミサイル情報をマスコミに明かしているが、マスコミの方も確認する術を持っていなかったようで記事にならず、世論の反応は冷静であった。この時、日本のインテリジェンスは北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に全く対応できない、という事実のみが明らかになった。

 その後、98年8月31日には北朝鮮による「テポドン」の発射実験が行われた。同ミサイルは事前通告なしに日本の上空を飛び越えたため、当時の日本に衝撃を与えた。

この時、米国の早期警戒衛星がミサイル発射の兆候を捉え、防衛庁に通知してきたが、同庁はこれを事前に捉えられず、また発射後も北朝鮮が主張する人工衛星なのか、ミサイルなのか判断が揺らいでいた。さらに米国政府が「北朝鮮は小型の人工衛星を軌道に乗せようとしたが、失敗したという結論を得た」と北朝鮮の主張に追随したことが、日本政府にさらなる衝撃を与えた。

これを機に、自前の偵察衛星を持つ必要性が政官で広く共有されるようになった。

 衛星の導入は官の範疇を大きく超えるため、政治家が主導することになる。中でも中山太郎元外務大臣と野中広務官房長官が積極的に導入についての検討を進め、官の側では古川貞二郎官房副長官を中心に、内閣情報官の杉田和博氏らが主導した。

 当時、衛星開発にあたって最大の障害は米国の意向であった。

米国からすれば、日本は米国から偵察衛星の画像情報を供与されており、衛星を導入するにしても米国製のものを購入すればよかったため、日本が独自の偵察衛星を持とうとするのはナショナリズムの高揚ではないかと疑われていたのである。

 ただ米国も一致して反対というわけではなく、偵察衛星の運用を一手に担う国防総省は反対、日本の立場を理解する国務省は中立、日本のインテリジェンス能力の向上を期待する中央情報庁(CIA)は賛成であった。

 最終的に国務省が国防総省を説得する形で、米国側も日本の国産衛星の開発に理解を示すようになったため、2001年4月には内閣官房に内閣衛星情報センターが設置された。

そして03年3月28日、最初の情報収集衛星が種子島宇宙センターからH2Aロケットによって打ち上げられ、日本も偵察衛星保有国の一角を占めるようになった。

2003年3月28日、種子島宇宙センターから偵察衛星を搭載したH2Aロケットが打ち上げられ、日本のインテリジェンスに新たな歴史が刻まれた (REUTERS/AFLO)

 こうして1990年代後半から2000年代にかけて、各省庁単位で運用されてきた情報組織が統合、改編されることで、情報本部や内閣衛星情報センターといった、国家レベルのインテリジェンス組織が創設されたのである。』

https://wedge.ismedia.jp/ud/wedge/release/20220420