鎌倉殿:「13人も覚えられない!」人への早分かり

鎌倉殿:「13人も覚えられない!」人への早分かり、注目はこの5人の争い(5)
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 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 北条氏の支配が確立するまでには、こういう「ドロドロした」「権謀術策」があったんだな…。

 ※ 大体の流れ(政治史)としては、

 守護・地頭の設置 → 鎌倉幕府の成立 → 承久の乱(後鳥羽上皇vs.鎌倉幕府、北条政子の有名な檄)→ 鎌倉幕府側の勝利 → 御成敗式目の制定 → 元寇 → 勝利するも、領地を分配できず、鎌倉幕府の弱体化 → 混乱 → 室町幕府の成立 → しかし、有力守護大名の連合体で、幕府の支配力は弱かった → 応仁の乱 → 戦国時代に突入…、という感じか…。

 ※ 経済史としては、「荘園公領性」で、相も変わらず「国衙」由来の「公領」と、「荘園」の二本立てが続くんだよね…。
 その中から、戦国大名が「一円知行」の支配を行い、「太閤検地」で「一地一作人」が推し進められて、やっと「重層構造」が解消したらしい…。

 ※ 文化史としては、室町幕府の支配力が弱かったために、「文化」が隆盛となった…。「年貢」として取り立てる力が弱く、ある程度「庶民」の取り分が残ったんだろう…。
 ※ 能、茶の湯、生け花なんかの、いわゆる「日本文化」は、殆んど「室町時代」由来だ…。

 ※ 「文化活動」には、「庶民のゆとり」が不可欠だといういい例だな…。

『「2代目は無能」のウソ

なぜ頼家の時代に有力御家人の合議制に移行したのか。以前は「2代目の頼家は能力不足で遊びほうけているから」と言われていた。よく取り上げられるエピソードとして、御家人同士の土地争いに立ち会った頼家のいい加減な裁定ぶりがある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、頼家の発言としてこんな記述がある。

「土地の広狭は、その身の不運によるべし。使節の時間を費やして現地を実検することは無駄である」

『吾妻鏡』の1200年=正治2年=5月28日条より(国立公文書館所蔵)

頼家はこう言って、地図に適当に線を引き、裁定したとされる。ほかにも、蹴鞠(けまり)にうつつを抜かしたり、御家人が出陣して鎌倉を留守にしたのを機に、その彼女を我が物にしようとしたりするなど、『吾妻鏡』に描かれた頼家はとにかく評判が悪い。

しかし、近年はこうした「頼家=無能」説に疑問が投げ掛けられている。『吾妻鏡』はもともと北条得宗家(本家)が編さんした書とされ、当時、頼家から政権奪取を望んでいた北条家の立場を正当化するため、頼家が必要以上に無能者として描かれている可能性がある。

鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は、著書『史伝 北条義時』(小学館)の中で、別の史書『六代勝事記』を引用しながら、頼家が「実際は武勇に優れ、鎌倉殿にふさわしい人物であったといえる」と指摘している。

動機は北条時政の権力掌握

1199年に「13人の合議制」が発足したが、全員がそろって話し合った形跡すらないと言われる。

東大史料編纂所の本郷和人教授は著書『鎌倉13人衆の真実』(宝島社)の中で、合議制について、北条時政が野心をたぎらせ「(2代)将軍の権力を制限し、幕府の実権を握るための方策だった」と記している。

発足当初こそ、「腰の低い謙虚な時政に二心ありとは誰も思わなかったのではないだろうか」と本郷氏。確かに、その後の展開を見ると、時政は孫に当たる2代将軍・頼家やライバルの有力な御家人を次々と追い落としていく。

13人の詳細なプロフィールは「『鎌倉殿の13人』って、いったい誰?」を参照していただくとして、この中から「主要人物」をあえて5人に絞って概観してみたい。

「北条」対「反北条」

北条時政は娘の政子に婿を取り、初代将軍・頼朝の舅(しゅうと)として鼻高々のまんざらでもない生活を送って来た。

ところが、頼朝の死で権力喪失の危機に目覚めたのだろうか。

一方、ライバルの実力者、比企能員(よしかず)も2代将軍・頼家の舅という立場を利用して、虎視眈々(たんたん)と権力の座を狙っていた。この2人は激突(比企の変、1203年)し、時政に軍配が上がる。これが第1ラウンドだ。

比企一族の墓がある妙本寺(鎌倉市大町)=筆者撮影

第2ラウンドは親子対決である。初代執権となった時政は権力を握った途端、専制に走る。

若い後妻「牧の方」を寵愛(ちょうあい)する時政は、その気まぐれに振り回され、やがて息子の北条義時に「武士の鑑(かがみ)」との誉れ高かった畠山重忠を討つよう命じた。

「謀反を図ろうとしたから」というのだが、明らかな冤罪(えんざい)であり、義憤を抑えきれぬ義時は父・時政と継母を鎌倉から追放する。

北条義時邸があったとされる現在の宝戒寺(鎌倉市小町、鶴岡八幡宮そば)=筆者撮影

そして義時に残されたライバルはただ一人。軍事を司る侍所の初代別当(長官)だった実力者、和田義盛だ。

両者の対立は将軍御所を中心に大規模な市街戦(1213年)に発展したが、相手の軍勢を打ち破った義時は、もはや「敵なし」の地位にまで上り詰めた。

和田塚の石碑(江ノ島電鉄「和田塚」駅から徒歩1分)=筆者撮影

もう一人の実力者は、頼朝の側近で義経追討に暗躍した梶原景時だが、第3回の「太刀洗」でも取り上げたように、重用され過ぎとの御家人衆の嫉妬を買い、1199年に早々に失脚。

頼朝・頼家派の重鎮の退場は「13人衆」のパワーバランスを崩し、北条優位に傾くきっかけとなった。

ここまでが5人を巡る権力争いのあらましだ。

初代将軍・頼朝から2代将軍への順当な代替わりは起こらず、隙あらば有力御家人たちが覇を競ってしまう。平家という「共通の敵」を失ったことが関係しているのかもしれない。

約400年後に発足する江戸幕府は将軍を頂点とする統治システムが確立していたのと違い、初期の鎌倉幕府はまだまだ不安定だった。

朝廷と闘った武将

鎌倉幕府内の政争を勝ち抜いた北条義時が、その先に立ち向かう相手は何と朝廷である。
かねて幕府を朝廷の管理下に置き、支配しようと考えていた後鳥羽上皇が、ある出来事をきっかけに「義時追討の院宣」を出した。武家が朝廷の権威に立ち向かうのは、恐れ多いことだったが、「売られた喧嘩(けんか)」を看過したままでよいものかどうか―。

対応を協議する幕府側の歴史的な軍評会議で、「13人」の中でも文官(実務官僚)である大江広元と三善康信の長老2人、そして尼将軍・北条政子の言葉が座の空気を決する。

果たして、この決戦の行方は?

バナー写真:13人の合議制の成立を記した『吾妻鏡』の一節(1199年=建久10年=4月12日条、右ページ)。

「様々な訴訟は羽林(頼家)が直接、判決を下すことを停止する」として、13人の名を挙げて「話し合って処置すること」とある(国立公文書館所蔵)

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持田 譲二(ニッポンドットコム)MOCHIDA Jōji経歴・執筆一覧を見る

ニッポンドットコム編集部チーフエディター。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量。』