モスクワ

モスクワ
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『モスクワ(ロシア語: Москва mɐˈskva マスクヴァ)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独で連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市(Город Москва)」となる。

人口約1,268万人の世界都市である。英語で発音した場合には、アメリカではマスカウ、イギリスではモスコウ(Moscow, アメリカ英語発音: [mάskaʊ] イギリス英語発音: [mɒskoʊ])のようになる。漢字による当て字は莫斯科。 』

『地理

北緯55度45分、東経37度37分に位置する。市の中心をモスクワ川が蛇行しながら流れる。市域面積は2,511平方キロメートルに達する。植生的には北の針葉樹林帯と南の混合樹林帯との接点に位置する。土壌はポドゾルが主で、肥沃ではない[1]。』

『人口

市域人口は1250万6468人(2018年)。2016年の近郊を含む都市圏人口は1657万であり、世界第15位[2]。』

『民族

2010年の調査によると定住人口の中ではロシア人91.65パーセント、ウクライナ人1.42パーセント、タタール人1.38パーセントの順となっているが、これらには移民や不法滞在者は含まれておらず、おもに中央アジアから100万人を超える移民が在住しているとされる。』

『気候

ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。

年間降水量は707ミリメートルで、6月から8月にかけての夏季にもっとも降水量が多くなるが、一方で5月から8月にかけては晴天も多くなり、日照時間ももっとも多くなる。

冬季には降水量は少なくなるものの曇天が続き、日照時間は非常に少なくなる。

近年の冬季は気候変動と都市化による影響で以前に比較して平均気温が上昇しており、1981年から2010年の現平年値では、1961年から1990年の旧平年値より1月の平均気温で2.8度、2月が1.0度も上昇した。

なお、1990年の1月の平均気温は-12.0度であったことを踏まえると約5度も上昇している。

しかしながら2000年代以降でも、2006年、2010年、2011年、2012年、2013年には強い寒波の影響を受け零下30度前後まで冷え込んだことがある。

また、ヒートアイランド現象により都市部と郊外では冬の冷え込みが大きく異なり、10度前後の差になることもある。夏季は比較的暑くなり、30度を超えることも珍しくない。

過去最高気温は2010年7月29日の38.2度、過去最低気温は1940年1月の−42.2度である。

モスクワの気象観測は中心部から10キロほど離れた郊外のオスタンキノ公園に隣接する全ロシア博覧センター(通称ВВЦ,VCC)で行われており、緑豊かな場所にある。

モスクワ  (VVC) 1961–1990年平均の気候

2010年7月29日、気温が38.2度に達した。130年前に開始された観測史上最高を記録。これまでの最高は1920年の36.8度である。

2010年8月10日、モスクワ市登録局は、7月のモスクワ市内の死亡者が1万4340人で、前年同月の死亡者9516人の1.5倍にあがったことを明らかにした。記録的な猛暑や森林・泥炭火災のスモッグによる健康被害が影響していると見られている。

ドイツ・オーストラリア・カナダなどがモスクワにある大使館の外交官や家族を一時退去させるなどの影響が出た。非常事態省は、同国では500か所以上で森林・泥炭火災が続き、火災面積は17万4000ヘクタールに拡大しているとしている。』

『経済

新都心「モスクワ・シティ」
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2011年のモスクワ市の予算規模は、世界中の都市の中でニューヨーク市に次いで第2位であった。ニューヨーク市の予算は人口818万人に対し659億9100万ドルで、モスクワ市の予算は人口1151万人に対し508億ドルであった[8]。

2014年のモスクワ都市圏の総生産は7944億ドルで、世界10位の経済規模であった[9]。ヨーロッパではロンドン都市圏、パリ都市圏に次ぐ3位であった。

2016年、アメリカの経済誌『フォーブス』が公表した統計によると、10億ドル以上の個人資産をもつ大富豪は60人で、ニューヨーク、香港に次いで3番目に多い都市となった[10]。 』

『歴史

詳細は「モスクワの歴史」を参照
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聖ワシリイ大聖堂

1147年にキエフ大公国のユーリー・ドルゴルーキー(手長公)が会合を行った場所として言及されるのが最古の記録である。1156年に砦が築かれて以降、徐々に小都市化していった。1237年から1238年にかけてはモンゴル帝国軍によって灰燼と帰した(モスクワ包囲戦)。

1271年、ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーの末子であるダニール・アレクサンドロヴィチが遺領としてモスクワを獲得し、モスクワ公国が成立した。

3代目モスクワ公のイヴァン1世の代にジョチ・ウルスにとりいってルーシ諸公からの徴税権を得たことから力をつけ、モスクワ大公国となった。

1382年にはジョチ・ウルスのトクタミシュ・ハンによって占領されることなどはあったが、1480年、イヴァン3世がタタールのくびきを完全に終わらせることで、モスクワはロシア最大勢力の都となった。

彼はウスペンスキー大聖堂やブラゴヴェシチェンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー大聖堂を建設・再建し、クレムリンを壮麗なものとした。クレムリンの前に赤の広場が建設されたのもこの時代である。

1534年から1538年にはクレムリン北東のキタイ・ゴロドをクレムリンと同じ城壁で囲み、以後この地域は商工業地域として発展した。

モスクワの歴史:赤色(クレムリン)、黄色(キタイ・ゴロド)、白色(白い町)、茶色(土の町)

1561年にはイヴァン4世によって聖ワシリイ大聖堂が建設された。

1590年ごろにはクレムリンとキタイ・ゴロドの外側に城壁が築かれ、さらにその外側には土塁が築かれ、モスクワの町は大幅に拡張された。

新しい城壁の内側はベールイ・ゴロド(白い町)、土塁と城壁の間はゼムリャノイ・ゴロド(土の町)と呼ばれた[11]。

16世紀末には動乱時代となり、1610年には偽ドミトリー2世を擁したポーランド・リトアニア共和国軍がロシア・ポーランド戦争を起こしてモスクワを占領したが、商人のクジマ・ミーニンと公爵ドミトリー・ポジャルスキーを中心として組織された国民軍が1612年にモスクワを奪回し、翌1613年にはミハイル・ロマノフがツァーリに選出されてロマノフ朝が成立した。

フョードル・アレクセーエフの描いた赤の広場(1802年)

ロマノフ朝時代は国土の拡張にともないモスクワも成長を続けたが、ピョートル1世が1712年にロシア北西端のネヴァ川河口にサンクトペテルブルクを建設したことで首都の座を譲った。

しかしそれ以後も副首都の座を保ち続け、歴代のロシア皇帝はモスクワにて戴冠式を行うことを常とした。

古い貴族階級は遷都以後もモスクワに居住する者が多く、西欧の思想を取り入れる窓口となったサンクトペテルブルクに対し、モスクワは古いスラブ主義の思想の中心地となっていった。

1755年にはロシア最初の大学であるモスクワ大学が開校した。

このころ、ベールイ・ゴロドの城壁が撤去され、その跡地にプリヴァール環状道路が建設された。

1812年にはナポレオンのモスクワ侵攻(祖国戦争)を受け、街は灰燼に帰したが、その後すぐに復興された。

19世紀にはゼムリャノイ・ゴロドの土塁も撤去され、その跡地はサドーヴォエ環状道路となった。

1851年にはサンクトペテルブルクとの間に鉄道が開通し、その後も1862年にはニージニー・ノヴゴロド、1864年にはリャザン、1868年にはクルスク、1870年にはヤロスラヴリへの鉄道が相次いで開業し[12]、ロシア中央部の商工業の中心としての地位は揺るぐことなく、農奴解放による労働力の流入や軽工業の発展もあいまって、19世紀末には人口は100万人を突破した。

ソビエトによって1918年に首都機能が移転され、ソビエト連邦とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(現在のロシア連邦)の首都となった。

大祖国戦争時には市の北西40キロの地点にまでドイツ軍が進出したものの、軍民一丸となった抵抗により陥落しなかった。

かつては冷戦による対立関係があったアメリカのワシントンD.C.とともに、モスクワは超大国の首都として二分し、スターリンはニューヨークの高層ビルに対抗意識を持ち、スターリン様式という建物を多く建築した。

ソ連崩壊後のロシア連邦においても引き続き首都であり、現在では人口1000万を超えるロシアの政治経済の中心である。 』