ソ連軍とは何だったか、まとめてみよう。

ソ連軍とは何だったか、まとめてみよう。ソ連軍には三つの任務があった。

カミル・ガリーフ氏の2022-4-6ツイッター投稿。
https://st2019.site/?p=19060

『 ※読み難くてしょうがないTwitterの投稿をひとまとめにしてくれている便利なサイトがあるので、以下、そこから摘訳しよう。

 北部では露軍は「道路沿い」だけを支配していた。だから退却は至極簡単である。その道路を戻るだけなので。

 道路以外の「地域」占領は、なし得ていなかったから、スピーディに退却できたまでである。手間取る理由が何もなかった。いままでは後退命令がないのでとどまっていた。

 ぼやぼやすると、1940のフィンランド侵略戦争=「冬戦争」の再現になってしまう恐れがあった。伸びきった道路を側撃されて分断される。ラワ戦法である。

 いや、冬戦争よりもまずい。5月以降となれば葉が繁り、樹林が上空から透視できなくなる。ゲリラの遊撃部隊には有利になり、道路上の大部隊には不利になるから。

 ソ連軍とは何だったか、まとめてみよう。ソ連軍には三つの任務があった。
 ひとつ。核戦争に勝利する。ふたつ。畑からじゃがいもを拾う。みっつ。衛星国を治安維持し支配する。

 BMP-1はソ連軍の代表的な機械化歩兵戦闘車(装軌式、有砲塔)だが、アフガンでもチェチェンでも、露兵はその密閉車内に座っていることを嫌った。というのは、BMPは正面装甲こそ小火器弾に対して安全と考えられたが、側面装甲が薄くて、重機関銃弾や榴弾の破片が貫通してくるし、RPGを喰らったり地雷を踏むと、車内は全滅するからだ。だから、天板の上に「タンクデサント」式に跨上することを、兵隊たちは好んだ。

 どうしてBMPが地雷を踏むとまずいのかというと、ドアが開かなくなり、車外に脱出できず、狭苦しい空間で、焼死するからである。緊急脱出のことを考えた設計にはなっていないのだ。

 旧東ドイツ軍からBMP-1をひきついだドイツ連邦軍は、この欠点を修正しようとさまざま研究したが、あきらめた。

 ではそんな装甲兵員輸送車をなんでソ連は2万両も量産したか? すべては核戦争のためであった。

 戦術核兵器がバカスカ使われる欧州戦場を移動することを主眼にしていたのだ。その前提条件である核の使用がないときは、BMP-1は、西側のMICVよりも劣ったパフォーマンスしかできなくて当然なのである。

 通常戦争では、前進する味方機甲部隊の前縁を、やや後ろから続行する味方砲兵が、移動弾幕射撃し続ける。

 核戦争では、砲兵の弾幕射撃は必要がない。数発の戦術核が、支援火力なのだ。

 味方ロケット砲兵の核で汚染された荒野を高速で通り抜けることが、BMPには求められた。そのためには無準備の浮航能力(工兵架橋に依存しない渡河能力)も絶対に必要で、そうした機動性能の要求から、それと両立しない装甲の重さは、削るほかになかった。もし、河の手前で密集してぼやぼやしていたら、敵の核の的になってしまう。

 戦場の放射能から車内の乗員を守るためには、車内が狭いのもやむをえないし、ハッチの密閉性を特に重視して、脱出のしやすさなどは犠牲にしてしまうのが、目的合理的だったのだ。

  ※すばらしい解説の途中、すまないのだが、ひとつだけ疑問を言わせてくれ。地面/路面からの二次放射能(ガンマ線)の影響を小さくするためには、「ロードクリアランス」(車体底板と地面との間隔)を大きくするべきなのに、なぜBMPのロードクリアランスは最小限なの? 十センチばかり余計に離したところで、ガンマ線の貫通力は変わらないさという、割り切りなのか。

 戦後ソ連軍は、核を使った電撃戦に数十年間、備え続けた。そしてそれは、起きなかった。あたかも、『タタール人の砂漠』という1940年のディーノ・ブッツァーティの幻想小説中に出てくる、タタール軍の侵攻から砦を守る駐屯軍と似ている(タタール人は結局、いつまでも、やってこない)。

 「じゃがいも拾い」とは、文字通りの意味である。
 春から秋にかけて、ソ連軍は、農業支援に駆り出されるのだった。
 鋤き返し、潅水し、収穫した。シベリアからウズベキスタンにかけての広い地域で。誰も脱走しなかったそうだ。
 ハンガリー駐留のソ連軍も、クバン地方で農作業したそうだ。

 陸軍だけでなく、海軍の水兵や、核ロケット部隊にとっても、農業支援はノルマだった。
 したがって、ロシアの農繁期は、ソ連軍の即応力の、極小期でもあったといえる。

 この農業支援の成績が良かった部隊長は、早く昇進できた。
 1991年8月からの農繁期は、末期ソ連軍の活動力の最極小期だったといえる。部隊長は皆、農業上手ばかりだったし、農業以外の動きをする気などありはしなかった。

 衛星国への治安出動は、1968の「ダニューブ作戦」(チェコスロバキア干渉)後に、モデル化された。
 すなわち、対象国の全国境から攻め入り、現地の政府をすげかえるのだ。

 こんかい、ウクライナに対してやろうとしたのも、「ダニューブ作戦」のまるまるコピーなのである。

 治安占領だから、奇襲的にやってしまわねばならない。だから、国境でまず「演習」すると見せる。

 1968のソ連兵も、まさかチェコ征服に行くとは知らされていなかった。まったく今次戦争と同じ。兵隊だけでなく、将校たちにも、それは知らされていなかった。
 「密封命令書」があらかじめ指揮官に配られ、部隊の金庫にしまわれる。無線によって「それを開封せよ」という命令が一斉に放送される。封筒の中味を見ると「明日の○時までにチェコスロバキアのここへ行け」と書いてあるわけである。青天の霹靂だ。

 チェコ事件当時の写真を見ると、ソ連戦車には「白線」が太々とペイントされている。あれは何だと思った?

 今次ウクライナ戦争のZやVやO印と同じ、識別サインなのだ。チェコ軍も同型の戦車を持たされていたから、そうでもしないと、敵味方の区別がつかなかったのである。

 1968のソ連軍は、もしNATO軍部隊に遭遇してもぜったいに交戦してはならないと命令されていた。間違いなく、今次ウクライナ侵略でも、同じ命令が出ていたはず。

 1968のソ連軍も、さいしょに飛行場を奪取した。輸送機が故障したので緊急着陸したいと管制塔に要請し、着陸した輸送機から兵隊がわらわらと出てきた。奇襲成功。

 2022ウクライナ侵略はちょっと手順が変わって、まず防空レーダーをミサイルで破壊した。
 問題はそのあと。飛行場に空挺部隊がヘリに乗ってやってくるや、即座にウクライナ兵が射撃開始した。奇襲失敗。

 ウクライナ侵略の緒戦に投入されたロシアの空挺部隊は、警察軍に毛の生えたような陣容だった。対するウクライナ軍は正規軍。結果は、露軍全滅であった。

 チェコ事件のときは、ソ連は「第二梯団」をちゃんと用意していた。まず25万人が第一梯団として突入し、後詰めの25万人がそれに続行したのだ。

 これに対して2022-2-24に動かされた露兵はぜんぶで16万から19万人。すべて第一梯団。後詰めが無い。

 プーチンは、ウクライナ国民は反撃しないと思っていた。だが反撃してきた。なぜか。2014以降、ドンバスのロシア占領区の住民がどうなったか、見ているからだ。ああはなりたくないと思って、銃をとったのである。

 マリウポリは、コンクリート建築ばかりになった現代の都市攻略が、いかにむずかしいかの好見本である。砲爆撃でビルを全部崩してしまっても、敵(ウクライナ軍)の抵抗は、そのガレキの山を障壁帯として活用できるので、あまり、弱まらない。

 東部ウクライナ戦区では、ウクライナ軍が陣地化して防禦している市街地に、露軍が何波も強襲をかけて、ことごとく失敗している。これって、第一次世界大戦?

 じつは、東部ウクライナでは、攻撃部隊に、やる気がない。というのは、ドンバスで露軍の支配下にある、ドネツクとルハンスクの住民が、「ロシア兵」に仕立てられて、ウクライナ軍に対して攻撃をさせられているのである。まじめに交戦する気など、あるわけない。

 マリウポリへの弾薬補給は、超低空でヘリコプターによってなされている。露軍はその空路補給を止められないが、負傷者を運び出そうとしたヘリが2機、帰路に落とされた。たまたま運悪くMANPADを持った露兵が真下にいたのだ。

 運べる弾薬は、1機につき、12トンにもなるという。※燃料を最小にしているのだ。
 帰路では、1機に最大60人の負傷兵を乗せてくるという。

 ※2機のヘリによるベルゴロド空襲といい、あきらかに、NATOが、レーダーにかからずに飛べるコースと高度を、ウクライナ軍のヘリパイにブリーフィングしてやっていると考えていいだろう。しかし、レーダーとはまったく関係のないMANPADだけは、防ぎようがなかったのだ。

 露軍のモラールは低い。だが、これはプーチン体制には都合がいいのだ。モラール(士気)の高すぎる歩兵は、中央政府を打倒する革命軍にもなってしまいかねない。が、いまの露軍のありさまならば、その心配はしなくていいだろう。』