貂蝉(ちょうせん)

貂蝉(ちょうせん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%82%E8%9D%89

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ いやー、「貂蝉」は、架空の人物か…。

 ※ そもそも、「読み」が違っていたよ…。「しょうぜん」と読んでいた…。

 ※ これだからな…。

 ※ 小説や、ゲームで記述されていることは、ゆめゆめ「史実」だと思っては、いかん…。

『貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性。実在の人物ではないが楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。』

『概略

『三国志演義』第八回から登場。幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられた[1]。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の勇将呂布と仲違いさせる計画を立てた。

王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。次に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまう。

怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めた。

その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をする。呂布が密会していることに董卓はいったん怒ったが、腹心の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。

だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしない。

それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害した。強固な結びつきを持つ両者の間に貂蝉を置き、貂蝉を巡る感情を利用し両者の関係に弱点を作りそこを突く、これが「連環計」である。

董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となったが子ができなかった。(第十六回)下邳の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めている。下邳陥落後の貂蝉については記述がない。 』

『モデルとなった人物

詳細は「三国志演義の成立史」を参照

中国においては、史書『三国志』の「董卓は呂布に宮中の門を守備させていたが、呂布は董卓の侍女と密通し、発覚をおそれて不安に思っていた。後に王允を訪問した際、ちょっとした事で腹を立てた董卓に殺されかけたことを話したが、董卓暗殺を考えていた王允はこの計画を呂布に打ち明け、呂布はそれを実行した」[2]を引き、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において架空の名前をつけたとする説がある。 』

『モデルとなった人物

詳細は「三国志演義の成立史」を参照

中国においては、史書『三国志』の「董卓は呂布に宮中の門を守備させていたが、呂布は董卓の侍女と密通し、発覚をおそれて不安に思っていた。後に王允を訪問した際、ちょっとした事で腹を立てた董卓に殺されかけたことを話したが、董卓暗殺を考えていた王允はこの計画を呂布に打ち明け、呂布はそれを実行した」[2]を引き、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において架空の名前をつけたとする説がある。 』

『伝承

民間伝承では貂蝉はひどく不美人で、王允が華佗にそのことを打ち明けたところ、華佗は首を西施のものと取替え、それでも度胸がなく行動に移せないのを嘆いたところ、今度は肝を荊軻のものと取り替えたという話がある。一説には天下を憂いて物思いに耽る姿のあまりの美しさに、月が恥じて雲に隠れてしまったと言われる。

元代の雑劇『錦雲堂美女連環計』では姓を任、名を紅昌、小字を貂蝉と設定している。その後の展開としては、貂蝉を巡り曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る、または関羽が心の動揺を鎮めるため貂蝉を斬ってしまう、など作品によって異同が見られる。

日本国内で広く知られる吉川英治の小説『三国志』およびそれを元にした横山光輝の漫画『三国志』では連環の計を遂げた貂蝉が自害して果てるという翻案がなされている。園田光慶と久保田千太郎による漫画版では董卓の死後、その残党を一掃しようとした呂布の目の前で殺されている。『天地を喰らう』では呂布の妹として登場している。その他の『三国志演義』を題材にした創作作品では、悪女・忠女・戦う女傑など多様な創作を交えて描かれている。

貂蝉を主題とした関連作品

テレビドラマ

三国志 呂布と貂蝉(2002年 演:チェン・ホン)』

三国志演義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E6%BC%94%E7%BE%A9

『『三国志演義』(さんごくしえんぎ、繁体字: 三國演義; 簡体字: 三国演义)は、中国の明代に書かれた、後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。

著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。 』

『概要

後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり、すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を善玉、曹操と魏を悪役とするイメージが定着していたという記録がある[1]。この講談は「説三分」とよばれた。元代には『全相三国志平話』(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、『三国志演義』の原型の一つと目されている。

『三国志演義』は元末・明初に成立したと考えられる。上述のような蜀漢を正統・善玉とする潮流を維持しながらも、それまでの説話や講談にあった極端な荒唐無稽さや歴史年代を無視した展開・要素を排し、黄巾の乱から呉の滅亡までの後漢末の重要事件と陳寿の『三国志』の扱う範囲を収めている。「漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備」と「王朝を支配し専横を振るう曹操」という対立軸を中心とした高い物語性、史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と継起、白話(口語)とは言いながらも洗練された文章で人気を博した。

『百川書志』文中の評にはいわく、「正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、低俗とならず虚構とならず、それでいて読みやすく入りやすく、史家の伝統的古文によるものではないが、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、百年間を叙述して、おおむね全ての出来事を包括している。」とある。

本書は中国の小説では珍しく、知識人の読み物としても認められた存在であり、しばしば蔵書目録に『水滸伝』とならんで掲載されていることが指摘されている。吉川幸次郎は、『三国志演義』は明・清の中国において、もっとも広く読まれた書物だろうと推測している。 』